湖上の戦い 1
フィルが絶望から立ち直れたのは、九尾の力を得たからではない。自分の命を狙った大グラウスを殺したからでもない。
…リネアが隣にいてくれたからだ。
彼女が言う通り、リネアの両親を殺したのは確かに魔族側の軍勢だったのだろう。しかし、魔族に戦争を仕掛けたのは帝国だ。
リネアが両親を亡くし、貧しいながら平和だった暮らしを失ったのは、帝国の人間の身勝手で戦争が起こり、サエイレムが戦場になったせいだ……賢いリネアがその構図に気付いていないはずがない。
リネアと出会った時、フィルは重傷を負い、瀕死の状態だった。武術の心得がなくても、武器がなくても、彼女が持っていた生活用のナイフ一本で簡単にトドメを刺せたはずだ。
それなのに、帝国のせいで不幸のどん底に落とされたのに、それでも帝国人であるフィルを助けようとしてくれたリネア……彼女が絶望に染まっていたフィルの心を救ってくれた。
アセトも、イシスと再びひとつに戻ることを受け入れ、復讐とは別の道を見出すことができたら…と、一縷の期待をかけていたのだが…。
「リネア、悲しいね…」
「フィル様はお優しすぎます。私はアセトが憎くて仕方ないというのに」
「リネアだって優しいよ。リネアが怒っているのはわたしのため…もし、アセトに何かされたのがリネア自身だったら、きっと、許したでしょう?」
「どうでしょうか。…でも……」
リネアはしばらく黙り込み、やがて再び口を開く。
「やはり、何か償いをしてもらわないと、私はアセトを許せません。けれど、もし彼女が罰を受け、その上で憎しみを忘れてやり直せるのなら、そうなればいいと思います…今のままでは、彼女の人生は余りにも悲しいです」
…裏切りの魔女メーデイア…後の歴史に刻まれたその名は、決して彼女が望んで得たものではないのだ。
「無駄話はもういいでしょう。フィル様、リネアさん、そしてセト、そろそろアペプの我慢も限界ですわ。よろしいかしら?」
「…仕方ない…リネア、いい?」
「はい、フィル様」
「バステト、オシリス、そなたらも離れておれ」
セトは背に乗せていたテトとオシリスを弩砲戦艦へと乗り移らせる。
「セト、負けるでないぞ」
「メリシャ、これをお願い。パエラ、メリシャを頼むね」
「わかった!」
「任せて!」
フィルはイシスが宿るチェトをメリシャに手渡すと、九尾の姿に変わってリネアを背に乗せ、弩砲戦艦の甲板から跳び上がった。
弩砲戦艦は、帆を広げて戦場を離脱するように離れていく。途中、戦艦とアペプがすれ違うが、フィル達を倒しさえすれば後でどうにでもできると考えているのか、アペプは何も反応しなかった。
ある程度の高度をとったところで、フィルの背から飛び降りつつリネアもティフォンへと姿を変えた。
九尾、ティフォン、セト対、アペプ、3対1の戦いである。だが、アペプが水中に身を沈めている限り、地の利はアペプにある…が。
フィルが目配せすると、ティフォンがくるりとアペプに背を向け、大きく口を開くとブレスを放った。
「…?」
反対方向へと攻撃を放ったティフォンに、さすがのアセトも怪訝そうに眉を寄せた。フィルは、微笑みを浮かべて静かにアペプを見つめている。
「フィル様、一体、何をしたのです…!」
…ドドドドド…低い地響きが空気を震わせる中、アセトはキッとフィルを睨む。
「すぐにわかるわ…じゃ、始めましょうか」
フィルは言うなり、上空から一気に駆け下りてアペプの頭から突き出しているアセトを狙って、前脚を薙ぎ払った。
アペプは素早く身をよじって攻撃を避けると、水中へと身を沈めた。そして、九尾の背後に浮上すると酸を吐きかけてくる。
「…っ!」
上空へと避け、辛うじて酸を浴びずに済んだ九尾。だが…空中と水中、どちらも相手に対して有効な攻撃をしにくい。このままでは、根比べだ。
次回予定「湖上の戦い 2」




