イシスの望み 1
イシスは当初、ラーの申し出を丁重に断った。
これまでラーの恩恵がなくとも人々は暮らしてきたし、上メネスの地に文明を興し、自らが育ててきたという自負もあった。ラーの直接の庇護下に入らなくても、良き隣人として付き合えれば良いと思っていた。
だが、申し出を拒絶されたラーは、途端に態度を一変させる。良かれと思って差し出した手を無礼にも撥ねつけられた、イシスは地上の民を自らの支配の下に置こうとしている、そう受け取ったラーは、下メネスを支配していた息子ホルスに命じて軍勢を動かし、上メネスへの侵攻を行わせた。
イシスのおかげで発展しつつあったとは言え、国力の差は大きかった。幾度かの望まぬ争いの末、勝てないと判断したイシスは、ラーに戦を直ちに止めてくれるように頼んだ。
自ら謝罪に来るならば休戦に応じる、というラーの返答を信じて、ラーのもとを訪ねて謝罪したイシスであったが、ホルスは休戦の約束を守らず、イシスが留守の間に上メネスを制圧してしまう。
約束が違うと訴えたイシスだったが、上メネスの民を人質にされているも同然の状況では、ラーの要求を呑まざるを得なかった。イシスは下メネスの人間たちに様々な技術を伝え、これにより、下メネスは一層の発展を遂げることになる。
イシスが伝えた技術の中には、オシリス神殿から地上に放出されていたアペプの力を利用した魔術もあった。これが下メネスにおいて彼女が魔術の祖とされている所以である。
そして、ようやく上メネスに戻ったイシスであったが、彼女を待っていたのは、民たちからの思いがけない怨嗟の声だった。
ホルスは上メネスの民を自分達に恭順させるため、嘘の噂を流していた。それは、イシスが友好を望む下メネスに無理難題を突き付けて挑発し、上メネスの民を下メネスとの戦争に巻き込んだ…というものだったのである。
噂を信じた民衆は、イシスの神殿を打ち壊し、戻ってきたイシスに罵声と石を投げつけた。
魔術に秀でたイシスにとって反撃は容易だったが、イシスは民たちに魔術を向けることなく、話を聞いて欲しいと必死に呼びかけた。しかし、その声は誰にも届かなかった。
ここに至り、かつて心の奥底に沈めた憎しみが一気に膨れ上がり、イシスの心を染めていった。
自分を陥れ全てを奪った神という存在を、そして神に踊らされて恩を仇で返した人間たちを、決して許さぬ。必ずこの報いを受けさせる。手始めはこの大陸を、そしていつか北の大陸に帰り、悉く報いを受けさせてやる。
「…抑えきれぬほどに肥大した憎しみによって、イシスの魂は引き裂かれ、わたくしとアセトが生まれました。そしてアセトは、復讐を望まないわたくしを身体から追い出し、ここに閉じ込めたのです」
話を終えたイシスは、ひとつため息をついて悲しげに俯いた。
神話や伝説で語られる英雄は、確かに正義の側で語られているが、彼らの行動をよくよく見れば、常に正々堂々と戦ったわけではない、奇襲やだまし討ちは当然、むしろ目的の為には手段を選ばずといったものも多い。
イシスの前身であるメーデイアへの仕打ちも、普通に考えればひどい話である。自分達の都合の良い駒に仕立てた挙句、使い捨てにしたのだから。
そしてイシスとなった彼女は、落ち延びた先でもまた神と人に裏切られた。彼女が強い憎しみを抱いたのも、当然だろう。
「その気持ちは、よくわかる。もしもわたしだったら…」
「いけません、フィル様」
イシスに向けたフィルの言葉をリネアが遮った。握ったフィルの手に、ぎゅと力を込める。
かつて帝国の人間に幾度も裏切られたフィルにとって、イシスの語った境遇はとても同情できるものだった。復讐したいという気持ちも理解できる。…しかし、復讐を肯定してしまったら、アセトの思う壺だ。
イシスにその気はないとしても、アセトは狡猾だ。きっと自分の過去すら利用して、フィルの心に付け込もうとしてくるだろう。
実際にアセトは、フィルと自分は同じだと言わんばかりに、神や人に裏切られたことをフィルの前でほのめかしていたではないか。
アセトは、フィルの中に残る人間への不信という古傷を開き、更にラーを始めとするこの大陸の神への不信を植え付けようとしている…もしも、フィルがアセトと自らの境遇を重ねてしまい、いざという瞬間に躊躇いが生じてしまったら、間違いなくアセトはそこを突いてくる。
「リネア…」
じっとフィルを見つめるリネアは、とても不安そうに見えた。
リネアにまたそんな表情をさせてしまうなんて……フィルの心がちくりと痛んだ。
メーデイア、そしてイシスが受けてきた仕打ちは、可哀想だと思うし、同情する気持ちもある。
けれど、彼女を裏切ったのは、遙か昔の神と人間たちだ。そのどちらも、すでにこの世にいない。神たちは世界に溶け込み、人は代を重ねている。
アセトがやろうとしているのは、復讐ですらなく、ただの八つ当たりだ。
次回予定「イシスの望み 2」




