アペプの封印 1
見上げる白い柱は、近づいてみると青白く濁った半透明で、うっすらと中が透けて見える。しかも、冷気を発していた。
それは、巨大な氷の柱だった。
「これが、アペプ…」
リネアは小さな声でつぶやきながら目を細めた。
氷の柱の中に黒い影のように見えるのは、体長100メートルはありそうな怪物の姿だった。竜だと言われればその片鱗はある。だが、ティフォンやセトの姿とは大きく違っていた。
その姿は、竜というより巨大な蛇。ねじくれた角を持つ頭は確かに竜のものだが、巨体を支える四肢はなく、その身を空に浮かべる翼もない。
「どことなく東洋の龍の姿に似てるわね」
妲己が言った。
彼女曰く、ティフォンを王と頂く竜族と同じく『リュウ』『ドラゴン』と称される生物は、彼女が生きた遙か東の国にも伝承があった。しかし、その姿は異なるものであったらしい。
翼はなく、体躯は蛇のように細長く、四肢は非常に小さい。翼がないのは雲の如く悠然と空を揺蕩っているから。四肢が小さいのはその足を決して地面に付けることがないから。
「妲己殿、アペプは空を飛べません。かつては我らと同じ姿だったのですが、かつての竜王陛下に挑んだ際に深手を負い、それを癒やすために自ら肉体を造り替えたのです」
「似てると言っただけよ。妾の国の龍は、皇帝の象徴、瑞獣よ。こんな悪蛇と一緒にされては困るわ」
妲己は不快そうにアペプを見上げる。リネアもまた、厳しい表情を浮かべていた。
封印されていてもなお感じる、強い憎悪。アペプは恨みを飲んだままここにいる。そして、その憎悪は長い年月を経た今となっても、決して薄らいではいない。
「…思った以上だ。これはまずい…」
会話に加わることなく柱を見上げていたオシリスが呻くように言った。
「どうしたのだ?」
「セト、貴様は何も気付かぬのか。アペプの力が弱まるどころか増しておる。このままでは遠からず自力で封印を破りかねん…」
「そう…なのか?!」
「アペプは、死者の魂を食らって糧とする。おそらく、あの女が冥府を閉ざしたせいで、天界に行けなくなった魂が冥府の底に溜まり、アペプの餌となっておったのだ」
今になってアセトが地上に姿を現し、国同士の争いを利用して大勢の死者が出るよう動いていたのは、もう一押しでアペプが復活するところまで来たから…?
「セト、何も変わったことはなかったのですか?」
「はい。リネア様、申し訳ございません。このような大事に気付かぬとはなんたる失態…!」
「まぁ、仕方ないでしょう。あのアセトの事だもの。セトに気付かれないよう、細心の注意を払っていたに違いないわ。一気にアペプが力を増せばセトに気付かれるから、長い長い時間をかけて少しづつアペプに力を注いでいく。近くにいればこそ、アペプが放つ強い悪意に紛れて、わずかな変化には気付きにくくなるものよ。…そもそも、オシリスが不覚をとらなければ、アペプに力が注がれることもなかったでしょうに」
「むっ…!」
「妲己様、そのくらいで」
オシリスを睨む妲己を、リネアがやんわりと制した。
「オシリス殿、アペプの復活を止める方法はあるのですか?」
「うぅむ…確実ではないが、あるにはある」
オシリスは、柱に浮かぶアペプのシルエットを睨みながら言った。
「それは?」
「おそらく、アペプは天界に行けずに落ちてきた死者の魂を食らって力を得ている。冥府の底と冥府そのものの関門を解き、冥府に閉じ込められている死者の魂を全て天界へ送ってしまうのだ。そうすれば、少なくともアペプの力がこれ以上増すことはない」
「賭けというのは?」
「一時的とは言え冥府の封印を解くのだ。しかも、再び冥府の封印を張るには、かなり時間がかかる。もしアペプがそれを機会に復活すれば、冥府で押し留めておくこともできん。奴が地上に解き放たれてしまう」
「なるほど」
「リネア、何考えてるかはだいたいわかるけど、本当に賭けよ…それも、かなり分の悪い…」
「はい。冥府の封印が解かれるタイミングを、アセトが狙っているかもしれない、ということですね?」
妲己やリネアと一緒に冥府に落ちたはずのアセトは、リネア達のことも妨害してこない。それどころか、あれから一度も姿を見ていない。
冥府に落ちたリネアが、どんな手段を使っても地上に戻ろうとすることは間違いない。そして地上に戻るためには冥府の封印を解かなくてはならない…そして、その時を狙ってアペプを地上に解き放つべく、息を潜めている…。
「アセトのことだから、その隙は逃さないでしょう」
「例えそうであっても、私は一刻も早く地上に戻り…フィル様を元に戻したいのです」
リネアはきっぱりと言い切った。リネアにとってフィル以上に優先すべきことなど何もない。
次回予定「アペプの封印 2」




