冥府の大河 3
峡谷の先にあったのは、谷間を堰き止めるようにそびえる巨大な壁だった。
差し渡しは広い大河の川幅一杯、おそらくは2キロ以上、高さは50メートルは優にある。
地上のものとは比較にならないサイズだが、その姿は地上の神殿にある塔門のデザインとよく似ていた。
大河の流れは、真ん中に開いた参道に当たる部分に続いていて、その両脇に一際高い石柱がそびえている。
九尾は塔門の手前で一旦足を止めた。
目には見えないが、塔門には防壁が張られている。だが、塔門をくぐる者を拒むものではない。向こう側から確かめなければ確たることは言えないが、おそらくは、通ったら此方へ戻ることができなくなるもの。それもかなり強力なものだと感じた。
バステト神殿やオシリス神殿のムルに張られていたものとは、強さの桁が違う。九尾の全力でも破れるとは言い切れない…それくらい強固なものだった。
「…ここを過ぎたら、後戻りは出来ないってわけね…」
妲己はそうつぶやいて、背に乗るリネアを見つめた。
なんともしてもリネアと共に地上に戻らなければならない。ここまで案内してくれたセトのことを疑いたくはないが、もし、この先に地上に戻る道がなかったら…妲己の心に迷いが生じる。
「このまま進みましょう」
リネアは、セトのことを信じていた。正直なところ、確信に足る根拠があるわけではないのだが、不思議と彼を疑う気持ちは起きなかった。かつてのセトを知っているであろう、先々代のティフォンの記憶のせいなのかもしれない。
「わかったわ」
リネアの意思に従い、九尾は慎重な足取りで塔門へと足を進める。
ずっと付いてきていたアオサギのような鳥は、ちゃっかりとリネアの後ろの九尾の背に止まっていた。気付いてはいるのだろうが、妲己は何も言わなかった。
通り抜ける瞬間には緊張したが、特に何か起こるわけでもなく、九尾はすんなりと塔門の向こう側に出る。
「海…?」
塔門の向こう側を目にしたリネアは、思わずつぶやいた。
塔門の向こう側は、見渡す限りの水面だった。水面の先は白く霞んで見えず、どこまで続いているのかわからない。
夜の河が、地上の大河と表裏一体であるのなら、ここは大河の終着点である海に当たる場所なのだろうか…?
九尾は、緩やかな水の流れに沿って水面の上を進む。進む先には高く上に伸びる水煙の柱だけがそびえている。水の流れは、その水煙の方に向かっていた。
塔門の姿が遠くなり、代わりに水煙の柱が近づいてくる。そして、水煙の麓に見えてきたのは巨大な穴だった。
直径2キロほどもありそうな、巨大な円形の穴が口を開け、一面を満たした水はその大穴の中へと吸い込まれている。全方向から縦穴に流れ落ちる水は、見たこともない巨大な滝を形作っていた。
遠くからでも聞こえた轟音が響き渡り、穴の中から吹き上がるように水煙の柱がそびえている。
穴の内部は、水煙によって白く塗りつぶされ、底までどれくらいあるのかはわからなかった。
「ここは審判の場…冥府の底は、この最下部にあります」
小竜が告げた。
「…審判?途中のワニどもが罪人を食らうのではないの?」
「それもありますが、途中の審判は、神殿が授ける護符などによってある程度逃れることができるのです」
「なるほど、神殿にお金を積んで護符を手に入れれば、罪を逃れることができるってわけね」
九尾の姿では表情はよくわからないが、妲己の口調はやや不愉快そうに聞こえた。
「しかし、この最後の審判では、そうはいきません。水煙の柱をよくご覧下さい」
小竜の言葉に従って水煙に目を凝らすと、水しぶきに混じってふわふわとした白い鳥の羽根がたくさん舞い上がっているのがわかった。
「あの羽根で、罪の軽重を計るのです。善良な者の魂は羽根より軽く、罪深き者の魂は重い。善良な者は羽根と共に天へと昇り、罪深き者はこの穴に吸い込まれ、冥府の深みに落ちるのです」
ふわふわと羽毛が舞う中を、光の球のような人の魂が上へと昇っていく。だが、同時に上から落ちて来る魂もあって、それらはそのまま水に落ち、足元に口を開く穴の中へと流されていった。
「人の魂は、ここから上へと昇るにつれて何度も審判を受け、その度に生前に犯した罪の重さがどんどん加算されていきます。そして、罪の重さが周りに舞っている真実の羽根よりも重くなると、魂は天上へと昇れず、冥府の底へと落ちるのです」
「セト、あなたはここにいるのですか?」
「ここは入り口に過ぎません。我はこの滝の下の最も深い底にいます。…ですが、こちらに来てはいけません。リネア様はここから上へお進みください」
小竜はそう言って、リネアの肩を離れた。
次回予定「テトの記憶 1」




