セイレーンの島へ
翌朝、周りにリネアとライネ以外、誰もいないことを確認し、フィルは九尾の姿になった。
「…フィルさま、だよね?」
一部始終見ていたにも関わらず、ライネは、恐る恐る九尾の姿のフィルを見上げる。
細身の身体ではあるが、朝の光を浴びて金色に輝く姿は、まさに大妖狐の威厳溢れる姿である。
「そうよ。中身は変わってないから、安心して」
フィルは軽く笑う。だが、九尾の姿で笑っても、目を細めて口元が吊り上がるだけなので、見ようによってはかなり怖い。
「フィル様の背に乗せて頂くのは、サエイレムに来た時以来ですね」
地面に伏せたフィルの背に、よいしょと跨り、リネアは金色の毛並みを優しく撫でた。密かに手入れを欠かさない自分の尻尾よりも滑らかで、艶やかで、とても憧れる。
「リネア、ちゃんと掴まっててね」
フィルの声色は楽し気だ。
「それじゃ、行きましょうか。ライネ、セイレーンの島まで案内して」
フィルは、ザっと砂浜を踏みしめて立ち上がると、海へと向かう。
「フィルさま、島はここからずっと沖だよ。どうやって海を渡るの?」
上半身を海面から出して、ライネは不思議そうに砂浜に立つフィルを見つめている。
「こうするの」
フィルは砂を蹴った。ふわりと跳躍し、海の上へ着水するかに見えた瞬間、フィルは4本足で水面スレスレの空中に立っていた。
「……」
ライネは声も出ない。
「このまま海の上を走っていくから、前を泳いで案内して。全力で泳いでいいから」
「……はい。なんか、自分の目が信じられないけど、とりあえず、島に向かうよ!」
ライネは、考えても無駄だと悟ったのか、セイレーンの島の方向に泳ぎ始めた。
続いて、フィルも風を蹴った。ライネの後を、軽やかに追いかけ、空中を走る。
リネアが乗っている背はほとんど揺れない。ただ顔に感じる風だけが、かなりの速度で走っていることを感じさせる。
海は穏やかで、ゆったりとしたうねりがどこまでも続いている。すでに出発した陸は遠く、周りは一面の海だ。
「少し、怖いです。自分がどこにいるのか、どっちに行けばいいのか、もうわかりません」
リネアはフィルに話しかけた。
「そうだね。どっちを見ても風景は全く同じ。それでも島の方向が分かるんだから、セイレーンたちはすごいよね」
ライネは、迷うことなく泳ぎ続けている。
「ライネ、疲れてない?」
フィルは前を泳ぐライネに声をかける。空中を走るフィルと違い、水中を泳ぐライネの方が大変なはずだ。いくら水生の魔族とは言え、水の抵抗がなくなるわけではない。
「平気っ!」
ライネは、水面を短くジャンプしながら答えた。
フィルがライネも背に乗せて走った方が速度が出せるのだが、島の場所を感覚的に認識しているライネは、水中でないと島の方向が分からない。それに、肺呼吸もできるとは言えセイレーンは基本的に水の中で暮らす。あまり長く空中にいて身体や鰓が乾くのは良くないらしい。
それでもセイレーンの泳ぐ速度は船よりも遥かに速い。出発した大河ホルムスの河口から船で1日かかるとされるセイレーンの島だが、この調子なら半日とかからずに到着できるだろう。
幸い、天気は良く、海も凪いでいる。うねりを踏み越えるように走りながら、フィルは行く先の水平線に目を凝らした。
太陽が高く上った頃、水平線にポツンと黒い影が現れた。あの大きさは船ではない。おそらくは島だ。
「フィルさま、見えてきたよ。あれが、私たちの住んでいた島」
ライネが泳ぎながら言う。ここまでほぼ休憩なしに泳ぎ続けたライネは、少し息が上がっている。
島が近づき、フィルの目にも島の輪郭がわかるようになってきたところで、フィルは一旦足を止めた。
「フィル様?」
立ち止まったフィルに、ライネもUターンして戻ってくる。
「ライネ、あなたは少しここで休憩していて」
「どうして?!島はもうすぐそこなのに!」
「だからよ」
島を指さして抗議するライネに、フィルはきっぱりと言う。
「帝国の軍船が撒いた黒い水がまだ島の周りに残ってると思う。そのまま近づいたらライネも鰓をやられるかもしれない。まずわたしが行って、黒い水を何とかしてみる。終わったら迎えに来るから、ここで待ってて」
「…わかった」
じっとフィルに見つめられ、ライネは仕方なさそうに頷く。
「リネア、行くよ」
「はい!」
ライネをその場に残して、フィルは島へと走り出した。
走り出すとすぐに、波間に点々と岩が突き出す岩礁地帯となった。
島が近づくにつれてツンと鼻を突く嫌な匂いが感じられる。セイレーンたちの島が襲撃されてから半年以上がたつのに、海面から突き出した岩はまだ黒く汚れていた。
海面に広がった分は波と潮の流れで洗い流されたようだが、島の海岸には、打ち上げられてこびりついた黒い液体が帯状の固まりになっている。そこには、海鳥や魚の死骸、そして死んだセイレーンと思われる遺体も真っ黒に汚れた無残な姿で何体も横たわっていた。
「ひどい…」
その光景を見たリネアが、思わずつぶやき、手で口元を覆った。ライネを沖で待たせて良かったと思う。こんな光景を見せたくはない。リネアを連れて来たことも少し後悔した。
「リネア、大丈夫?こんなの見なくていい。目をつむってていいよ」
「大丈夫です…」
リネアの声は少し強張っていたが、気丈に答える。
「あのドロドロした黒い水が、良くないものなんですか?」
「そう。あれは地の底から湧き出す油なの。ドロドロしていて何かにくっつくと簡単には落ちないし、燃え上がると少しくらい水をかけても消えない。ここよりもっと南の土地で採れるらしいんだけど、帝国では、それを運んできて、火矢の燃料や、敵の陣地に火をかけたりするのに使われてた」
帝国で武器として使われる『黒い水』或いは『燃える水』と呼ばれるもの。それは地下から湧き出る黒くて粘り気のある油、石油だった。フィルは、テレルから話を聞いた時にそうではないかと思ったが、この島の様子を見て間違いないと確信する。
「フィル様はあれをご存知だったんですね」
「本国にいた頃に見たことがあるの。…でも、こんなことに使うなんて…」
フィルは空中に立ち、島の様子を見下ろす。口元の牙がギリッと音を立てた。
「とりあえず、この油をなんとかしないと、ライネを島に近づけることもできない」
「何か方法があるのですか?」
「油だから、九尾の炎で燃やし尽すのが手っ取り早いかな。リネア、そのまましっかり掴っててね」
「はい、わかりました」
リネアは、言われたとおりにフィルの毛皮をぎゅっと掴む。
フィルは、島の風上へと移動して少し高度を上げた。石油を燃やした煙を吸うとリネアが危険だからだ。
島を見下ろすフィルの周囲に、たくさんの青白い狐火が出現した。それらは一つから二つ、二つから四つ、八つへと分裂して倍々に数を増やしていく。やがて、島の上空全体を覆うほどに増えた狐火は、細かな火の雨となって島とその周りの海に降り注いだ。
黒く固まった原油の上に狐火の雨が落ちると、青い炎がパッと広がっていく。海岸を覆っていた黒い油の膜が青い炎の中で溶けるように燃え尽きていく。そこにあったセイレーンたちの遺体も全て、灰も残さず。
狐火は島の波打ち際から海へ下り、島を囲む青白い炎の輪となった。そのままゆっくりと炎の輪はその径を広げていく。海面を舐め、岩礁を飲み込み、油を燃やしていく。そして、しばらく時間をかけて岩礁の縁まで広がりきると、ポッと小さな光を放って消えた。
見たところ石油は全て燃やし尽くすことができたようだ。しかし、一度生物が死滅した海は、すぐには元に戻らない。海藻が育ち、魚が戻ってくるまで、数年の時間は必要だろう。
「フィル様、これで終わったのですか?」
リネアは、そっとフィルの首元に手を添えて聞いた。
「えぇ。たぶん油は取り除けたと思う。…けど、元通りセイレーンたちが住めるようになるには、まだ時間がかかりそう」
九尾の状態では、フィルの表情はよくわからないが、きっと難しい顔をして海を睨んでいる、リネアにはそう見えた。
「ライネを迎えに行きましょう」
フィルは、さっと身を翻すとライネを待たせている場所へと走った。
セイレーンの島は、人の住むような島ではなく、海から突き出した大きな岩のようなものだった。高いところは海面から数十メートルあるが、地形は険しく、嵐になれば大波が洗う島には土も草木もなく、荒々しい岩肌がむき出しになっている。
「やっぱり、セイレーンたちはどこかに行っちゃったのかな…」
人間の姿に戻ったフィルは、島の端に座って寂しそうに海を眺めていた。
「島がきれいになったんだから、そのうちきっとみんな戻ってくるよ」
波打ち際の岩の上で嬉しそうに寝そべりながら、ライネが言う。楽観的なライネに、フィルはふっと表情を緩めた。
とりあえず、今夜はこの島に留まり、明日、サエイレムに帰る。
フィルがここまで来た目的は、島の状態を確認し、海を汚している油を処理すること。そして、島の周りに生き残りのセイレーンがいてくれたら、サエイレムに来てくれるように説得することだった。
セイレーンたちがここにいたら、また帝国軍の襲撃があるかもしれない。それに、セイレーンたちがサエイレムに来てくれるなら、ぜひ頼みたいこともあった。
しかし、生き残りのセイレーンたちに会えなければ仕方ない。明日朝まで待ってダメなら、今回は海と島を綺麗にできただけで良しとしよう。さすがに何日もここで待つことはできない。テレルかライネに、たまに様子に見に来てもらえばいい。
「リネア、今夜はここで寝ることになるけど、我慢してね」
「私は平気です。…ただ、この島には薪がないので、フィル様に温かい食事やお茶をご用意できません」
「そんなこと、気にしなくていいよ」
気を落とすリネアに、フィルは苦笑する。
「そっかー、お魚採ってきても、フィルさまたちは食べられないのか…」
こちらにも気を落とす者が一人。
「気にしなくていいよ」
くすっと笑ってフィルは同じセリフをもう一度繰り返した。
その日の夕焼けは、とても美しいものだった。水平線に太陽が近づき、見る見るうちに小さくなっていく。そして、眩しい光が完全に消えると、茜色の残照が空一面を彩った。
フィルとリネアは並んで座り、少しづつ色を変えていく空の色彩を見上げていた。
茜色からだんだんと紫色、藍色、そして夜の闇へと落ちていく。そして、暗さに目が慣れると銀の砂を撒き散らしたように、一面の星空が待っていた。
絶海の孤島、周りに人の住む島も船もない。明かりと言えば、リネアが灯してくれた小さなランタン一つだけ。聞こえるのは、島に打ち寄せる波の音だけ。
フィルは、ころりと仰向けに寝転ぶと、ずいぶん長らくの間、ただ黙って星空を見上げていた。
フィルとリネア、そしてライネも一緒に、オリーブオイルに浸して少しだけ柔らかくしたパンを齧る。美味しいものではないが、食べておかないと空腹で眠れない。半ば水で流し込むように飲み込んだ。
ライネは、昼間のうちに海で何匹かの魚を採っていたが、さっきまで油で汚染されていた海の魚は臭くて食べられなかったらしい。やはり、セイレーンたちが戻ってきても、すぐにここで暮らすのは難しそうだ。
食事が終わると、もうすることがない。水中で寝る方が良いライネは海の中に戻り、フィルとリネアはなるべく平らな場所に毛布を敷き、もう一枚の毛布にくるまって横になった。背嚢を並べて枕にして、ぴったりとくっつく。
「リネア、寒くない?」
「はい。大丈夫です」
毛布の中で、フィルはリネアの胸元に顔を埋めた。
「リネア、こうしてていい?」
「フィル様…」
まるで子供のような仕草にリネアは少し驚いたが、フィルの頭を抱き寄せ、そっと撫でた。フィルがリネアの前でだけ見せる素の姿が嬉しかった。
「リネアのいい匂い…安心する」
「フィル様、このままお休みになってください」
「ありがとう。リネア…今日は、少し疲れた…」
安らいだ表情で小さく寝息を立て始めたフィルに、リネアは微笑む。
「おやすみなさい。フィル様」
そしてリネアも目を閉じた。
夜明け前、リネアの耳がピクリと震え、うっすらと目が開いた。
波の音に混じって、それとは違う水音が聞こえたような気がした。狐人の聴覚は鋭敏だ。耳を立てて音に意識を集中していると、また水音が聞こえた。聞き間違いではない。
そっと周りを伺う。灯していたランタンはすでに燃え尽き、辺りはまだ真っ暗だった。
毛布の中でフィルが微かに身じろぎする。
「フィル様」
リネアは小声で呼びかける。
「…大丈夫。このまま少し様子を見よう」
目を閉じたままフィルは囁いた。こくりと頷き、リネアも目を閉じる。
フィルにとって、大抵のものは危険ではない。自分とリネアだけ守れば良いなら、魔獣だろうが巨人だろうが、何とでもなる。
もうしばらく、リネアの優しい温もりに包まれていたくて、フィルは身体をすり寄せた。
やがて、空が少しづつ明るくなり、まぶしい朝日が海面を照らし始めた。水音に気付いてからしばらくたつが、特に何も起こってはいない。
リネアのおかげで久しぶりに癒やされた。もう少しこうしていたいが、そろそろ、ここに来た目的を果たすとしよう。フィルは名残惜しそうに毛布から這い出した。
「ライネ、いる?」
海に向かって問いかけると、ライネが波打ち際に顔を出した。
「フィルさま、おはよう」
ライネは快活に言うが、少しぎこちない。その理由はすでにわかっていた。
「おはよう、ライネ。よく眠れた?」
「はい、もうぐっすり」
そう、よかったわ、と応じ、フィルはわざとらしい笑みを浮かべた。
「それじゃ、サエイレムに帰ろうか」
「え、もう帰るの?!」
まだ夜が明けてすぐ、早朝と言って良い時間だ。早々に帰路につこうとするフィルに、ライネは慌てた。
「だって、ここにいたらまた固くなったパンを食べなきゃいけないじゃない。河口の船着き場まで戻って食事にしましょう。またお魚採ってくれると嬉しいな」
「あの、でも…もしかしたら、仲間達の手がかりが何かあるかも」
「何か見つけたの?」
「いえ、その…」
オロオロと慌てるライネに、フィルはその場にしゃがみ込むと、自分の膝に頬杖をついて問いかけた。
「…そろそろ紹介してくれると嬉しいんだけど?」
ぴくんと頬を引きつらせ、ライネは盛大なため息をついた。
「フィルさま、わかってたならそう言ってよ~」
「だって、隠したいのかと思ったから」
ふふん、とフィルは悪戯っぽく笑った。
次回予定「セイレーンの決断」




