フィル、海へ向かう
「リネア、海に行ったことある?」
「いいえ。話には聞いたことがありますけど、どんなものか想像できないです」
「じゃ、一緒に行く?」
「はい?…フィル様、海へ行かれるのですか?」
「うん。ちょっとね」
「フィル様が行かれるのなら、もちろんお供します」
そんなやりとりから数日後、フィルは大河ホルムスの河口にいた。目の前には、テテュス海と呼ばれる大海原が広がっている。
フィルは、シャツとズボンの上に厚手のローブとマントを重ねた旅装束をまとい、腰には愛用の剣を下げている。身分を示す赤の縁取りのない生成りの服だが、素材や仕立はそれなりに良いものだ。
隣に立つリネアも、フィルと同じ服装をしていた。腰帯には剣の代わりにナイフを差している。
「これが海なんですね…」
リネアは、初めて見た海、青い水面が見渡す限り水平線まで続く風景に、ただただ驚いて、目と口を丸くしている。
海岸は砂浜になっており、穏やかに打ち寄せる波が白く泡立って砂の上を滑っていた。
「私達が隠れていた岩場は、向こう側だったかなぁ」
波打ち際で水面から上半身を出したセイレーン姉妹の次女、ライネが遠くに見える河口の対岸を指さす。
「ライネ、疲れてない?」
「フィルさま、大丈夫だよ。久しぶりの海で嬉しいの」
サエイレムからここまで泳いできたライネの体力を心配するフィルだったが、当の本人は全く問題ない様子である。
フィルとリネアは、サエイレムから帝国本国へと向かう交易商船に乗せてもらってここまで来た。
フィルの向かう先は、帝国軍に襲われたというセイレーンの島だ。しかし、フィルはその島がどこにあるのか知らない。
テレルが案内すると言ってくれたのだが、幼いルクシとモルエを残していくわけにもいかないため、フィルやリネアと歳の近いライネが代わりに島まで案内することになった。
「そんなことが…本国の連中、ひどいことをする…」
船上で、セイレーンの島が帝国の軍船によって襲撃されたことを話すと、商船の船長は苦々しげに言った。
サエイレムの船乗りは、セイレーンが船乗りを惑わすという俗説を信じていない。ベテランの船乗りたちの中には、海上でセイレーンに会ったことがある者も多く、遠くにセイレーンの島を見たという者もいた。極めて稀な話では、未知の岩礁の場所を教えてもらい、難を逃れたという者もいるらしい。
「おそらく、本国の商人たちが、船が難破する原因をセイレーンのせいにしているんでしょう。本当は、安く雇っている船員の質が悪くて、風を読み間違えたり、嵐を避けきれなかったりしただけなんですがね」
セイレーンのせいにしておけば、荷の到着が遅れたり、依頼品を納品できなくても交易商は依頼主に言い訳ができるというわけだ。
「なるほど。それで帝国の軍船がセイレーンを討伐する、なんてことになったのか……」
交易商の言い訳を信じた有力者の誰かが怒って、軍に要請したのかもしれない。そんな下らない理由でセイレーンたちの島が襲われたなんて、とてもじゃないがテレルたちには話せない。フィルの本国嫌いが一層深まった。
「すげぇな。セイレーンの嬢ちゃん!」
船と並走して泳ぐライネが、きれいな飛沫の円弧を引いてジャンプして見せると、甲板から眺める船乗りたちの間から喝采が起こる。その光景に、不愉快さが顔に出ていたフィルの頬も緩んだ。
商船は、大河ホルムスの河口に作られた船着き場でフィルたちを降ろし、全ての帆を一杯に広げてテテュス海へと乗り出していく。白い航跡を引いて沖へと向かうその姿は、見る見るうちに小さくなっていった。
「さて、暗くなる前に、今夜の食事と寝る場所を準備をしないと」
今からセイレーンの島へ向かうと、到着するまでに夜になってしまう。今夜はここで寝て、明日の夜明けとともに島へ出発するつもりだ。
フィルたちがいる河口の船着き場は、元々、川を下ってきた船が海へ出る際に、天候や風の回復を待つための風待ち港として作られた小さな港だ。
魔王国との戦争の間は、戦場となったサエイレムへの補給港としても使われていたため、規模もやや拡大され、石造りの岸壁や防波堤も整備されていた。港の隅には警備兵の詰所として使われていた小屋も残されている。さして広くもなく、石積みの壁に木の屋根と床が張られただけの粗末な小屋だが、それでも屋内で寝られるのはありがたい。
「じゃ、私、ちょっとお魚採ってくるね」
ザブッと音を立てて、ライネが水中に消えた。
フィルとリネアは、それぞれ背負っていた背嚢を降ろす。フィルの背嚢には毛布と3日分の水、リネアの背嚢には3日分の食料が詰められていた。
フィルとリネアが、薪になりそうな木の枝を集めて戻ってくると、数匹の魚をぶら下げたライネが水から上がって待っていた。
「この魚、おいしいんだよ」
ライネは、銀色に輝く細長い魚を自慢げにフィルに見せる。
「へぇ、どうやって食べるの?」
「そーだねぇ、私は生で食べるのが好きだけど」
「申し訳ありません。ここでは焼くくらいしかできませんが…」
帝国本国では海水魚を生のまま使う料理もあったが、リネアは、魚の食べ方と言えば焼くか煮るかしか知らなかった。最近、油で揚げる料理も覚えたが、ここではできない。
「それで十分だよ。ライネは生のまま食べる?」
「フィルさまたちと同じのを食べてみたい」
「リネア、お願いしていい?」
「はい」
リネアが腰のナイフを鞘から抜いた。フィルと初めて出会った時から持っている愛用のナイフだ。
リネアは、平らな石の上に魚を置き、鰓にナイフを刺し込んで血抜きをすると、腹をひらいて内臓を取り除き、ガリガリとナイフの背で鱗をこすり落とす。下処理が終わった魚は、ライネに海水で洗ってきてもらう。
リネアは、ライネが洗ってきた魚を受け取ると、皮と腹の中に塩を丁寧に擦り込んでいく。そして、拾ってきた枝の中からまっすぐなものを選んでナイフで先端を尖らせ、魚の口から尾の付け根まで刺した。
リネアがポッと指先に火を灯し、地面に並べた薪に近づける。乾燥していた小枝はすぐに燃え上がった。
「リネアちゃん、今の何?」
ライネが不思議そうに尋ねる。
「うん?火を点けただけですよ…?」
リネアも不思議そうだ。焚き火の周りに魚を立てて火にかざしながら、もう一度、ポッと指先に小さな火を灯してみせる。
「それそれ、どうしてそんなことができるの?普通の狐人には、そんなことできないよ?」
「え?」
今度はリネアとフィルの声が重なった。
「だって、私のお母さんも同じようにやってましたし…」
リネアは、少し困ったように口ごもる。フィルも、初めて会った時にリネアが指先に火を灯しているのを見て、種族特有の能力なんだと思っていた。同じ狐の九尾も火を扱うのが得意なので、その後も特に不思議には思っていなかったのだが…。
「ライネ、普通の狐人にはできないって、本当?」
フィルの問いにライネは、口を尖らせる。
「あ、フィルさまも信じてない。港で働いてる狐人のお姉さんに聞いたんだよ…狐人は聴覚と嗅覚が優れてるけど、それ以外には特別な能力はないんだって。セイレーンの歌みたいに自慢できる能力があればいいのに、って言ってた」
ライネは、身振り手振りを交えて説明する。
「魔族は、それぞれの姿形に応じた動物の能力を持つんだよ。…考えてみてよ、獣の狐は火なんて使わないでしょ?」
言われてみれば当たり前の話に、リネアとフィルは顔を見合わせる。不安そうにフィルを見るリネアに、フィルは微笑んだ。
「リネアにとって危ないわけじゃなさそうだし、気にしなくていいと思うよ。便利だしね」
「どうして、私にこんな力があるんでしょう?」
「リネアのお母さんもできたんでしょう?それなら、その力はお母さんがリネアに残してくれた贈り物じゃない。大切にしなきゃ」
「そうですね…それに、フィル様の力ともちょっとだけ似ていて、嬉しいです」
リネアは指先に灯る小さな炎を見つめて、フィルに微笑みを返した。
魚を焚火の周りに立てて焼き始める。魚が焼ける間に、リネアは小鍋で沸かしたお湯に小さく刻んだ干し肉と干しキノコを入れて少し煮立て、そこに一口サイズにちぎったパンを入れてパン粥にした。柔らかくなったら少しの塩とオリーブオイルで味を調える。
焼いてから時間のたったパンはカチカチに固くなり、そのままでは食べにくいため、スープに浸したりパン粥にするのが一般的だ。
木のスプーンでかき混ぜて少し味見をしてみると、干し肉とキノコから良い味が出ていた。だが、材料が少ないだけに、もう少し何かあればと思ってしまう。
「もっとお野菜もあれば良かったのですが」
申し訳なさそうなリネアに、フィルは首を振る。
「そんなことない。十分だよ。固いパンをそのまま齧るくらいしか考えてなかったのに、ライネとリネアのおかげですごく豪華になった。ありがとう」
魚の皮に少し焦げ目がついて、美味しそうな匂いが漂い始め、フィルの空腹感が刺激される。
「そろそろいいかな…」
「はい。もう大丈夫だと思います」
フィルは、嬉しそうにこんがり焼けた魚を手に取った。
魚の身に直接口をつける。カリッと焼けた皮にふっくらとした淡白な白身、皮と身の間から溢れだす魚の脂の熱さと旨味に、フィルは夢中で二口、三口と食べ進める。
「この魚、美味しいね」
「本当、美味しいです。脂がのってて、でも身は柔らかで…」
フィルとリネアの感想に、ライネはえへんと胸を張る。
続いてパン粥。カチカチだったパンはスープの中で程よい固さになっており、口に含むとじゅわりとスープの旨味が広がる。もちろん街で食べる料理とは比べられないが、十分に美味しいと思う。
「リネア、美味しいよ」
「良かったです」
ホッとした表情で微笑んで、リネアもパン粥を口に運んだ。
セイレーンにとって、陸の料理は珍しいらしく、ライネは少し恐る恐るスプーンを口に運んでいたが、一口食べた途端に掻きこむように食べ始めた。どうやら口に合ったらしい。
その様子を見て、フィルとリネアは笑い合う。
「でも、フィルさまは総督様なんだから、もっと贅沢な御馳走ばっかり食べてるんじゃないの?」
「そんなことないよ。いつもリネアと同じもの食べてるし…あ、だけどリネアの料理は美味しいから、確かにライネの言うとおりかも…」
フィルの答えに、リネアは少し困ったように苦笑い。
「えぇっ?!ほんとに?…もしかして、リネアちゃんって、すごい料理人?」
「違います!私が自分用の食事を用意していたら、フィル様が『わたしも一緒に食べたい』って仰って…いつの間にか、そうなりました。でも、本当に特別なものじゃないんですよ。総督府の厨房で分けてもらった食材を普通に料理しているだけで」
「それでも美味しいんだもの…それに、どんなに贅沢な料理でも、大きなテーブルに一人で座らされて食べるのなんて、寂しいじゃない?」
フィルは、穏やかな表情でリネアに視線を向ける。
「リネアに作ってもらって、向かい合って一緒に食べて、わたしはそれで幸せなんだよ」
「はい。…私もフィル様と一緒に食事ができて、とても幸せです…」
リネアは少し頬を赤らめ、ぼそぼそとつぶやいた。
「はいはい、ご馳走様。いろんな意味で」
ライネが呆れたように言い、声を上げて笑い出した。
三人の話し声は、夜が更けるまで静かな船着き場に響いていた。
次回予定「セイレーンの島へ」




