セイレーンたちの事情
総督府の庭に、美しい歌声が響いていた。
泉に住むセイレーンの姉妹が、泉の中央に置かれた泉水の台座に上がり、息のそろった合唱を披露している。
うっとりとそれを眺めるフィルの表情は、まさに至福であった。
事の発端は少し前、午前の仕事を終えたフィルがセイレーンたちの様子を見に来たところから始まる。
セイレーンたちが総督府の泉に移り住んで数日。モルエの体力もすっかり回復し、すでに姉妹とともに泉の中を泳ぎ回れるようになっている。
フィルは、泉の畔に座ってその様子を眺めていた。
「モルエちゃん、元気になってよかったですね」
「うん。ほんと、可愛いよね」
緩み切った笑顔でモルエに手を振るフィルにお茶を出しながら、リネアも水面に目を向ける。
「フィル様、お願いがあります」
そこに近づいてきたテレルが、岸辺に上がり、改まった口調で言った。
「いいよ。何でも言って」
何でも叶えるよ、と言わんばかりのフィルにリネアは苦笑する。だが、テレルは少し困ったような表情を浮かべた。
「フィル様、私達にも何か仕事をさせてください!モルエを助けていただいた上、住む場所まで用意してもらって、私達もフィル様に何かお返しをしたいんです!」
テレルはフィルに詰め寄る。
「えっ?!…あ、うん…」
その勢いに、つい頷いてしまったフィルは困惑した。
セイレーンの四姉妹は、女性のフィルから見ても見目麗しい。キラキラと水滴を跳ね上げ、楽しげに泳ぐ姿を眺めるだけで癒やされる。特にモルエは見ているだけ口元が緩む。
十分にお返ししてもらっているとフィルは思うのだが、そう言ってもテレルは納得してくれそうもない。フィルは、この機会になかなか言い出せなかったお願いをしてみることにした。
「……それなら、ひとつ、頼んでいい?」
「はい、何なりと」
「歌を、歌ってほしいんだけど…」
フィルは恥ずかしそうに希望を口にする。船乗りを惑わすという伝説が生まれるほど美しいとされるセイレーンの歌。フィルはこの泉で彼女たちが歌ってくれたらいいと思っていた。
当然ながら、政庁である総督府には、連日多くの人間が出入りする。サエイレムの人間はもちろん、交易にやってきた外の人間たちも多い。
正門を入った先にある泉は、総督府を訪れた者たちが必ず近くを通る場所だ。
今でも彼女たちの姿に口を半開きにして見惚れている者がいるくらいなのだから、そこで美しい歌声を披露してくれたら、人間の魔族に対する感情も良くなるんじゃないか、フィルはそう考えた。
もちろん、前庭に面したフィルの執務室にも歌は聞こえる。いつも特等席でセイレーンの歌が聞けるなんて最高、そういう極めて個人的な希望もあったのは否定しない。
「歌、ですか…?」
テレルは不思議そうに首をかしげる。彼女たちにとって歌を歌うのは日常の行為であり、むしろ楽しみと言っていい。モルエが病気になるまでは、港の隅の岸辺に座り、姉妹でよく歌っていた。…それが仕事になるのだろうか?
「そんなことで良いのですか?」
「もちろん。ずっとじゃなくていいから、1日に何回か、歌ってくれると嬉しいんだけど…」
フィルは、遠慮がちにテレルを見つめる。
「わかりました。それでフィル様の役に立つなら、喜んで歌います」
「本当?!ありがとう、テレル」
ぱぁっと表情を明るくするフィルに、テレルもつられて笑みを浮かべる。
「では、最初の歌はフィル様に捧げますね」
くるりと身を翻したテレルは、妹たちのところに戻ると、揃って泉水の台座に腰掛けた。その表情は楽しげだった。
そして、美しい歌声が響き始める。
気がつけば、泉の周りには足を止めてセイレーンたちの歌に聞き入る人々の姿が増えていた。
総督府に手続きに来た商人たち、巡回の衛兵、たまたま総督府の近くを通った通行人も、門前で立ち止まっている。
いつの間にか、パエラとシャウラもフィルの後ろに座って歌を聞いていた。
四姉妹が歌うのは、流れるような旋律で紡がれる海の情景。それは、姉妹の故郷の歌。
どこまでも透明な歌声は、高く、低く、サエイレムの空へと響く。
テレルの高く力強い声を軸に、ライネとルクシが優しく響きを重ね、モルエのまだ幼い声が彩りを添える。
どこまでも続く紺碧の海原。朝日には黄金に、夕日には赤銅に輝き、限りない生命が満ちる。幾重にも重なる緩やかな波は水平線の向こう、遥かオケアノスの果てまで続く―。
やがて一際大きく、美しき蒼の世界を歌い上げ、長く長く、歌声が尾を引いて響く。
余韻が消えると、辺りは静寂に包まれた。数舜の後、万雷の拍手が鳴り響く。
フィルやリネアたちはもちろん、立ち止まって聞いていた人間たちも、惜しみない拍手を贈っている。
思いがけない賛辞に驚いていたテレルたちも、少し恥ずかしそうに観客達に手を振った。人間も魔族も、彼女たちに嫌悪の表情を向ける者はいなかった。
その様子が嬉しくて、フィルはさらに大きく拍手をするのだった。
その夜遅く、フィルは総督府の敷地の隅、水路に面した四阿に向かった。そこにはテレルが一人でフィルを待っていた。
「待たせたかな?」
「いいえ」
テレルは軽く首を振る。その表情は少し沈んでいる。
フィルは、テレルの向かい側のベンチに座った。
「…辛い話かもしれないけど、聞かせてくれる?テレルたちが、どうしてサエイレムにやってくることになったのか」
フィルは、静かに尋ねる。
「わかりました」
小さく頷いて、テレルは語り始めた。
テレルたちセイレーンの一族は、大河ホルムスの河口から船で1日ほどのところにある小さな島と、それを取り巻く岩礁地帯を住処にしていた。
もっと大きな島だったものが何らかの天変地異で沈んだのだろう。大海原の中で、この島の周りだけが、海底が浅く、水面下に岩礁が隠れる海の難所となっていた。
浅い海と複雑な岩礁は魚たちの集まる格好の漁場となり、そこに住むセイレーンたちに十分な食料を提供してくれる。名もない無人島は、セイレーンたちと渡り鳥だけのものだった。
いつからセイレーンたちがそこに住んでいたのか、それはテレルも知らない。ただ、一族の誰もが、最も年長の者でさえ、この島以外で暮らしたことはなかった。
セイレーンたちが歌で操船を誤らせ、岩礁へと船を引きずり込むというのは、とんだ言いがかりである。セイレーンの歌に、聞く者を魅了する美しさがあるのは事実だが、それ以上の効果はない。操舵手を操るなど無理な話だ。
単に海流と風を読み間違えたか、嵐で難破し漂流した結果か、大きな海流がセイレーンの島の近くを流れていたせいもあるだろう。いずれにしても、セイレーン達とは関係ない理由で、人間の船は岩礁に引き寄せられ、座礁し、激突し、あっけなく沈む。
しかし、それすら年に数回あるかどうか。海で失われる全ての船の数に比べれば微々たるもの。
セイレーンたちが海底に散らばった積み荷を拾い、装身具や陸の食べ物を密かに楽しんでいたとしても、それは責められることではないだろう。
発端は半年と少し前、ちょうど帝国と魔王国との戦争が終わる直前のことだった。
水平線に現れた帝国の大型商船は、すでに沈みかけていた。3本あったマストは折れ、帆はズタズタに裂け、船体も傾いている。
長らく漂流した後のようで、船上に生きている船員はすでにいなかった。操る者のいない船は、風と海流に押されて島を囲む岩礁地帯へ近づいていた。
そして、船は大波に乗って岩礁へと激突した。裂けた船腹から海水が流れ込み、急速に傾きを増していく。波にもてあそばれるように、二度三度と岩礁に叩きつけられた船は、ついにバランスを失って横転した。
これまでに難破した船と同様の最期だった。横転した船は、船内に積まれていた物を海中にバラ撒きながら沈んでいく。
しかし、セイレーンたちは、その船の積荷が通常の商船とは違う、異質な物であるとは気付いていなかった。
船に積まれていたのは、厳重に口を塞がれた大量の壺。
甲板から海に投げ出され或いは船の中でぶつかって、砕けた壺からドロリとした黒い液体が流れ出した。ネバネバして、刺激のある匂いを放つそれは、水に浮かんで膜を作り、べったりと岩を覆った。
セイレーンたちは初めて見る物だった。だが、当然食べられるようなものではなく、何かに使えるとも思えない。人間はどうしてこんなものを運んでいたのかわからないが、海や岩を真っ黒に汚す液体にセイレーンたちは顔をしかめた。
しかし、災厄はこれからだった。
海を覆う黒い液体は、日の光が当たると虹色に輝く。だが、それに捕らわれた海鳥たちの羽根には黒い液体がまとわりつき、空を飛ぶことをできなくした。
魚も苦しそうに海に浮かんで死んでいく。海底に沈んだ船から漏れ続ける黒い液体は、一向に流れ去る様子を見せず、豊かだった海を塗りつぶしていった。
セイレーンたちが為す術もなく、汚れた海の姿に呆然としていたところに、次の災厄がやってきた。
きらびやかな金属の装飾を取付け、船腹からたくさんのオールが突き出した帝国の軍船だった。
島の近くにやってきた数隻の軍船は、島の風上に回ると、沈んだ船から流れ出したものと同じ、黒い液体を次々に海へとまいた。黒い液体は水面に広がり、軍船を撃退しようと近づいたセイレーンたちにもその黒い液体がまとわりつく。
そして、悲劇が起こった。軍船は、オールの力で風に逆らってその場から少し離れると、甲板にいた兵士たちが次々に火矢を放ったのだ。
矢の先にボロ布を巻き、海にまいたのと同じ液体に浸した矢は、火を点けるとボッと炎を上げた。それが黒い液体の浮かぶ海へと降り注ぐ。
火矢が落ちると、海面に漂う黒い液体が燃え上がった。その中にいたセイレーンたちにも火が回る。慌てて水中に潜るが、すぐに苦しそうに浮かび上がってしまう。鰓の中にまで黒い液体がまとわりつき、水中で息ができなくなっていた。水面に顔を出せば鼻が曲がるような匂いの煙を吸い込み、苦し気に身をよじり、炎に包まれる。
島からそれを見ていたテレルたち姉妹は、ただ震えるしかなかった。
燃え上がる黒い液体は、夜になっても消えず、風に乗って炎と煙が島の岸辺まで押し寄せた。
炎と煙に追い立てられるように、テレルとライネは、咳き込むルクシとモルエを庇いながら島から逃げ出した。他の一族たちがどうなったのかはわからない。
ひたすら、帝国の軍船とは反対の方向に泳ぎ、たどりついたのが大河ホルムスの河口だった。それからしばらく、河口近くの岩場に隠れて暮らしていた彼女たちだったが、川に船を出していた魔族の漁師に魔族も住める街があると教えられ、サエイレムにやってきたのだった。
テレルの話を聞き終わったフィルは、悲し気にため息をついた。
「テレル、よく話してくれたね。辛いことを思い出させて、ごめんなさい…」
テレルは無言で首を振るが、その目には涙が溜まっていた。
「もう心配しなくていい。この街にいる限り、必ずわたしが守るから」
フィルは小さく震えるテレルの肩をそっと抱く。
「フィル様、ありがとうございます。私達姉妹は、フィル様のおかげで安心して暮らせるようになりました。でも、同族たちのことを思うと…」
「他のセイレーンたちのことは、何か知ってる?」
テレルは首を横に振った。
「妹たちを連れて逃げるのに精一杯で、どうなったのか、わかりません」
「そう……」
「フィル様、もし同族たちが生き残っていたら、サエイレムに受け入れてくださいますか?」
「もちろん。歓迎するよ」
「ありがとうございます」
微笑むフィルに、テレルの表情も緩んだ。
「さ、もう夜も遅いわ。早く妹たちのところに戻って休みなさい」
「はい、フィル様…おやすみなさい」
「えぇ。おやすみなさい」
テレルは、小さな水音を立てて水路の中へ消えた。
「燃える水、か…」
一人残ったフィルは、ぼそりとつぶやいた。
本国にいた頃に見たことがある。遠い南の地域で、岩の裂け目や砂漠から湧き出すというドロドロとした黒い水。それは火をつけると燃え上がり、水をかけても消えない。
海路でわざわざ運んでいたのは、魔王国との戦争で武器として使うためだろう。火攻めは敵方の城や街を攻略する際の常套手段だ。
セイレーンたちはテレルたち以外、全滅してしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。幼いモルエを連れたテレルたちが脱出できたのだ。ほかにも脱出しているセイレーンたちはきっといる。
できれば、彼女らを味方につけたい…
なかなか部屋に戻ってこないフィルを心配したリネアが迎えに来るまで、フィルは考え込んでいた。
そして翌朝、フィルはグラムとテミスを執務室に呼んだ。
テレルたちの事情とフィルの考え、そして、数日の間サエイレムを離れることを相談するために。
次回予定「フィル、海へ向かう」




