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傾国狐のまつりごと-食われて始まる建国物語-  作者: つね
 第1章 サエイレムの新総督
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セイレーンたちへの謝罪

 ゴルガムの話を最後に場が解散となった後、フィルは執務室へと向かっていた。

 新しくフィルの護衛になるパエラとシャウラは、総督府で働く準備のため一度街へ戻り、ケンタウロスの兄妹はウェルスが同行して国境まで送り届けることになった。ゴルガムはフィルの言葉をセイレーンたちに伝えるため、急いで出て行った。

 エリンも軍団の駐屯地に戻り、今、廊下を歩くフィルに従うのは、リネア一人だ。


「リネア、明日、付き合ってくれる?」

 フィルは一歩足を止めて、後ろに従っていたリネアの横に並ぶと、小声で言った。

「はい。フィル様」

 どこへ、とは訊かない。フィルが出かけるのなら、リネアはどこへでも付き従う。

「ありがとう。それと、明日着るから、前にリネアにもらった服を用意してくれる?…リネアも出かける時は、あの時の服でお願い」

「お忍びですか?」

「うん。まずはセイレーンたちと話がしたいの。セイレーンたちには、ちゃんと名乗るつもりだけど、大げさになりすぎると困るから」

「そうですね。セイレーンたちも遠慮してしまうかもしれません」

 大勢の役人や衛兵たちがフィルを取り巻いていたのでは、正直な話などできないだろう。

「小さな子の具合が悪いって言ってたから、早くなんとかしないと」

 フィルは、執務室に入ると、書棚からサエイレムの地図を取り出し、机に広げた。問題の運河の形状も描かれている。戦争前の地図だが、大きくは変わっていないはずだ。

 サエイレムの運河は、人間街と魔族街をそれぞれ南北に貫く主水路が走り、そこから東西方向に少し細い枝水路が分かれている。

 運河の南端は、街の南側に面した大河ホルムスへとつながり、二つの運河の間がサエイレム港。運河の北端は、領主館、つまり今の総督府に達して終わっていた。


「そういえば…」

 地図に描かれた運河を指で追っていたフィルは、窓辺に駆け寄った。

 執務室から見える総督府の前庭。そこには、透明な水で満たされた石造りの泉があった。この泉とそれに繋がる水路は、単なる庭の装飾ではない。総督府の建物を囲むように配置され、人間街側の運河から物資を運び込むために利用されている。

 サエイレムには、北の山岳地帯から地下水路や水道橋を駆使して水道が引かれている。その水は、市街へと配水される前に、一旦総督府のそばにある巨大な貯水槽に蓄えられる。そして、その貯水槽から溢れた余剰水は、泉と水路を満たし、運河へと流されていた。


 フィルが疑問に思ったのは、人間街にある運河を、汚いと感じた覚えがなかったことだ。その理由はこの泉だった。泉に繋がっている人間側の運河には常に水道の余剰水が流れ、街から排出されるの汚水も淀むことなく川へと押し流されている。しかし、魔族街の運河の先端は行き止まりで、雨でも降らない限り水の流れがほとんどない。それが水が汚れる原因だった。

 戦争まで、サエイレムの歴代の領主は人間で、魔族街のことには関心が薄かった。物資を運ぶのに必要だから人間側の運河だけを総督府、当時の領主館の水路を繋いだ。魔族側の運河が汚れることなど、考えてもいなかったのだろう。

「まさか、自分のすぐそばに原因があったなんて…」

 フィルは、額を押さえて執務机の椅子に座り込んだ。


 ほどなくして執務室にやってきたテミスは、ハルピュイアのイネスを伴っていた。

「フィル様、運河に住んでいるセイレーンは4人、ゴルガムの言うとおり、姉妹のようです」

 テミスはイネスに目配せし、続きの報告をさせた。

「彼女たちは、戦争が終わってからサエイレムに来ました。確か3ヶ月ほど前だと思います」

 イネスが報告を始める。フィルは黙ってイネスの話に耳を傾けた。

「4姉妹で、名前はテレル、ライネ、ルクシ、モルエ。いずれもまだ若い娘たちで、一番年上のテレルも20歳くらい、一番下のモルエはまだ7~8歳くらいだと思います」

「セイレーンの成長は、人間と変わらないの?」

「はい。若い頃の成長や寿命は人間とさほど変わりませんが、20歳前後からはその姿を長く保ち、寿命が近くなると一気に老け込む感じです」

 船乗りを魅了して難破させると言う伝説のとおり、若々しく美しい姿を長く維持するのが特徴のようだ。

「ゴルガムの言う、具合の悪い子というのは、そのモルエのことなのね?」

「はい。もう2週間近く息苦しさと熱が続き、最近は食べ物も受け付けなくなって、かなり弱っているようです」

 イネスの答えに、フィルは眉を寄せてため息をつく。


「テミス、魔族街の運河の様子は、そんなにひどいの?」

「はい。正直に申し上げて、ドブ川の状態です。住民も抵抗なくゴミや汚水を捨てるので、汚れる一方で…」

 フィルは、下町に出かけた時に感じた街の悪臭を思い出す。あれはきっと運河の汚れた水の匂いも混じっていたのだろう。

「たぶん、具合の悪いのを治してあげるだけなら九尾の力でどうにかできるけど、運河が汚いままじゃ解決にならない」

 フィルは執務机に広げた地図を示し、さっき気が付いた水の流れをテミスに説明した。

「総督府の泉を魔族側の運河にも繋げないかしら?魔族側の運河にも水道の余剰水を流してやれば、運河の水も入れ替わるし、港の濁った水も運河に入って来なくなると思うんだけど」

「できますが、工事には少々時間がかかります」

「いいわ。人間側の水路と同じものを作ってほしい」

「わかりました。グラム様やフラメアと相談して、直ちに進めます」

 そして、テミスは申し訳なさそうに目を伏せる。

「それと、魔族街の者たちにも街の清掃を命じたいと思います。正直、人間街に比べると排水やゴミの処分に無頓着でした。運河が汚れているのは、私達のせいでもあります」

「うん、お願い」

 フィルは、嬉しそうに微笑んで、退室するテミスとイネスを見送った。


 だが、その表情はすぐに曇る。差し当ってモルエの手当てと、運河の工事が完了するまでのセイレーンの住まいをどうにかしなくてはならない。フィルは、じっと窓の外の泉を見つめて考えていた。


 翌日、フィルは、サエイレムに来る時にリネアにもらったワンピースの上にマントを羽織っていた。同じくあの時の服装をしたリネアと手を繋いで総督府の裏門からそっと街に出る。見送るエリンの表情は、心配そうだ。

「フィル様、くれぐれもお気を付けください。昼までにお戻りにならなければ、捜しに行きますからね」

「大丈夫よ、エリン。ちゃんと護衛は付けるから」

「それはそうですが…」

 エリンが不満そうに言った時、その護衛がやってきた。

「フィルさま、お待たせ~」

 軽い口調で手を振っているのはパエラだ

「パエラ、フィル様を頼むぞ」

「わかってますって。エリンさまも心配し過ぎ。あたしが守らなくても、フィルさまは街で一番強いんだから」

 呆れたように言うパエラに、エリンも苦笑する。

「じゃ、行ってくるね」

 見送るエリンに手を振りながら、フィルは通りに出て行った。


 フィル、リネア、パエラの3人は運河沿いに南へ向かう。

 下町で暮らしていたパエラも、セイレーンたちとは顔見知りだった。が、少し気になることがあった。

「フィルさま、今日は人間の姿で行くの?」

 パエラは、心配げな顔で尋ねる。

「そうだけど?…どこか変?」

 不思議そうにフィルは自分の姿を見回す。

「いや、そうじゃなくて…テレルたちは、どうも人間が嫌いみたいなんだよね。話を聞くなら、獣人に化けた方がいいんじゃないかと思うんだけど」

「そう、なんだ…ありがとうパエラ。でも、それなら余計に騙すようなことはできないよ」

「フィルさまは真面目だなぁ」

 頭の後ろで腕を組み、パエラはぼやくように言う。しかし、その口元は少し笑っていた。


 歩きながら見た運河の様子は、確かにひどいものだった。水は濁って悪臭を放ち、ゴミや魚の死骸も浮いている。水生の魔族と言えど、とても住めるような場所じゃない。

 そして、街の南、港の近くまで差し掛かると、今度は一面に土色に濁った水が運河を覆っていた。港の工事現場から広がってきた濁り水だ。


「フィル様、あそこに…!」

 リネアが指した少し先の岸辺に、女性の上半身に魚の下半身を持ったセイレーンの姿があった。そこには、ゴルガムの姿もある。

 ただ、一番年長のセイレーンがゴルガムに何か食って掛かっているようだった。ほかのセイレーンの姉妹たちも、厳しい表情でゴルガムを見上げている。

 ゴルガムに文句を言っているセイレーンの腕には子供が抱かれていた。その子供は、ぐったりとして目を閉じている。具合が悪いというモルエだろう。


「ありゃ、あんまり雰囲気が良くないみたいだね。まずあたしが行って話して来るよ」

 立ち止まったパエラは、フィルを振り向いて言う。何か喧嘩しているように見える。そこに人間のフィルが現れたら、セイレーンたちは余計に頑なになってしまうかもしれない。

「お願いしていい?」

 フィルは素直に頼む。フィルの視線は、モルエに注がれていた。

「ちょっと待ってて」

 パエラはフィルに言い残すと、ゴルガムとセイレーンたちの間に割って入った。


「ちょっと、なに喧嘩してるの?!テレルも落ち着いてよ!」

 腰に手を当て、渋い顔で双方を見る。

「パエラ、邪魔しないで。貴女も聞いたんでしょう?ゴルガムが私達を助けるように総督に頼んだって言うじゃない?」

「そうね。あたしも聞いてた」

「どうして人間の総督なんかに頼るの?私たちはそんなこと頼んでないし、人間の世話になるつもりもないの!」

「そりゃ、街のことをどうにかしてもらうなら、総督に直接頼むのが一番早いからでしょうが。運河がきれいになれば、ここに住み続けられるんだから。モルエちゃんだって、早く手当が必要じゃないの?」

 パエラの言葉に、テレルは口ごもる。そんなことは分かっている。だが…

「姫様は、きっと何とかしてくれる。セイレーンの島を襲った人間たちとは違う」

 落ち着いた口調で言うゴルガムに、テレルは眉をつり上げる。

「二人とも、どうしてそんなに総督を信用しているの?人間は、私達を島から追い出した上に、ここからもまた追い出そうとしてるんじゃない!」

「だから、運河が汚れてるのは、全部人間のせいってわけじゃないんだってば。誰もテレルたちを追い出そうとなんてしてないから」

「何?パエラも人間の味方なの?」

 テレルは苛立った声でパエラに噛み付いた。パエラは、やれやれと肩をすくめると、ため息交じりに言う。

「だからさ、人間にも魔族にも、良い奴もいれば悪い奴もいるんじゃない。あたしは、フィルさまは信用していい人間だと思うよ」

「フィルさま?」

「総督のこと。フィルさまは、あんたたちに謝りたいって言ってる」

「そんなことあるわけないじゃない。総督って帝国の貴族なんでしょ?そんな人間が魔族に謝るなんて、絶対ないわ」

「へぇ…」

 パエラは意地悪そうに笑う。

「じゃ、本当だったらフィルさまのこと信用してよね」

 パエラはそう言うと、少し離れて待っていたフィルの手を引っ張ってテレルの前に立たせた。

 緊張した面持ちでテレルと向き合ったフィルは、じろりとテレルに睨まれる。しかし、フィルは目を逸らさずに言った。

「はじめまして……サエイレム総督、フィル・ユリス・エルフォリアです」

「え…?」

「こんなに運河が汚れているなんて……気が付かなかったわたしの落ち度です。本当に申し訳なく思っています」

 呆気に取られるテレルの目の前で、フィルは深々と頭を下げた。

次回予定「モルエの治療」

※1話が短いので、明日、臨時に更新します。

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