密使リネア 1
夜のメネス王城。ハトラは大層立腹しているようで…
ペルバストの上流でメネス軍別動隊が消失したその夜。…メネス王都メンフィスは、普段と変わらぬ静かな夜を迎えていた。
しかし、メネス王城には回廊を足音荒く歩く者がいた。ハトラである。いつもの冷静な様子をかなぐり捨て、見るからに不愉快…というより怒りの表情を露わにしていた。
彼女の怒りの原因、それは直前まで開かれていた御前会議の内容である。ファラオであるウナスの臨席のもと、王政府の幹部が一堂に会したその会議の議題は、王国南部地域への増税に関するものであった。
ヒクソスからの上納という収入源を絶たれた王国の財政は、それに合わせた支出の見直しを怠ったせいで急激に悪化していた。
しかし、アイヘブ率いるメネス軍がメンフィスを出陣した直後、財政悪化により中止となっていたオシリス神殿の改修事業を、近く再開するという話が突然浮上したのである。
不審に思ったハトラが財政をチェックしたところ、ケレス宰相がファラオの勅令を騙り、ヒクソスが属国から離れた後から、勝手に南部地域への課税を強化していたことが発覚した。しかも、その税収は国庫とは別に管理され、相当額の蓄財が裏で行われていたということがわかった。
王都メンフィスは、王国の領土の中ではかなり北寄りに位置しており、王国の領土は大河イテルに沿って南部国境の都市シエネまで広がっていた。一般に王国の南部地域と言えば、メンフィスから上流に500kmほどの都市テーベからシエネまでを指す。
シエネより南は、ヌビアと呼ばれる南の蛮族の支配地であるが、多数の部族がそれぞれに生活を営み、統一的な国家というものが成立していないため、王国としての交流はなく、一部の商人が行き来するのみである。
王国南部地域は、メンフィスを中心とする王国北部よりも山がちで平地が少なく、農産物の生産には向かなかったが、金、銀、銅などの鉱物資源を産出し、王国の経済と軍事力を支えていた。
それに目を付けたのが、今回の課税強化だった。ケレス宰相は、南部地域で産出するの鉱産資源の5割を上納するよう求め、直接的に国の財政を潤そうとしていたのである。
金銀のような貴金属はそれ自体が希少価値を持ち、貨幣や宝飾品となる他、まだ鉄の精錬技術がないメネスにおいては、銅と錫の合金である青銅が武器や道具の材料として欠かせなかった。
だが、王政府の勝手な都合による課税強化は、当然ながら南部地域の不満を蓄積させる。ただでさえ、ヒクソスからの産品、特に塩の価格の高騰で、南部地域の市民生活は非常に困窮していた。そこに更に鞭打つような課税など、非道にも程がある。
御前会議は、勅令を騙って勝手な増税と蓄財を行っていたケレスを糾弾するためのものだった。いかに宰相とは言え、本来ならば酌量の余地も無く処刑されているべき重罪なのだが、オシリス神殿の改修再開をエサにされたファラオは、あろうことか課税を追認してしまったのである。
ハトラは必死にウナスの翻意を求めたが、自身の進める大規模建築の資金を確保したいウナスが、ハトラの説得を聞き入れることはなかった。
性格的には穏健と言って良いウナスではあったが、自身が心血を注ぐ建築が絡むと全く周りが見えなくなる。王太子であるホルエムは謹慎中で、ケレス宰相と並ぶ高官であるアイヘブ将軍は出陣して不在。
…今やケレスに異を唱えられる者は王城におらず、彼は自分の思い通りに王国を動かしていた。
行政の実務を担う官僚たちの中にはハトラと同意見の者も多いのだが、ファラオや宰相に意見できる立場にはなく、ハトラは事実上の孤立無援であった。
私室に戻ったハトラは、両手に抱えていたパピルスの束を机の上に乱暴に叩き付け、ドカッと椅子に座り込んだ。
このままでは、王国が危うい。それを止める力のない自分が情けなく感じた。せっかくフィルたちがケレスを失脚させるべくお膳立てをしてくれているというのに…。
「ハトラ様、失礼いたします」
と、部屋の入り口から声がした。
次回予定「密使リネア 2」




