塩の町にて 1
第3章『メネス戦役』の開始です。まずは閑話的なエピソードから。
ペルバストの事件から半年。メリシャによるヒクソスの統治は、徐々に形になりはじめていた。
まず、メネスに取り上げられていた食料をはじめとする物資が国内に回ったことにより、ヒクソスの民の生活は大きく改善した。
物資に余裕が生まれれば、国内の物流や商取引も活気づくものなのだが、属国扱いにより疲弊したヒクソスの経済の立て直しはなかなかに難題だった。
ヒクソスでも、かつては銀や金といった貴金属を金銭として用いる貨幣経済が成り立っていたが、属国の時代にはヒクソス国内で互いに売買するほどの物資の余裕はなく、また貴金属そのものも上納させられてしまっていたため、ヒクソスの経済は細々とした物々交換にまで退行していた。
そのため、メリシャは各地で生産されている物資に多少の余剰が出る頃を見計らい、余剰分を国に納めさせることにした。税の物納のようなものである。
そして、メネスへの物資の輸出は国が一括して行うことを定め、国に納めさせた物資をメネスに輸出して、その対価として金銭となる貴金属を受け取ることにした。
経済が疲弊した状況で税収を十分に上げられない以上、国の発展に必要な資金は国外から稼いでこなければならない。となれば、その相手はメネス王国しかない。
メリシャとて為政者だ。メネスとの融和を目指すとは言え、甘い顔ばかりしてはいられない。メネスに輸出するヒクソス産品の価格は、暴利と言われない程度に吊り上げている。そうしてこれまでに搾取された国の富を取り返し、それがヒクソスの経済を回復させる資金源となるのだ。
割高だとは知りつつ、メネス側はメリシャが提示した価格を受け入れた。ヒクソスが輸出する産品の中に、メネスにとって必要不可欠な『塩』があったからだ。
塩は人の生活に欠かせない。人が食事として口にすることはもちろん、魚や肉は保存するために塩漬けにもする。
また、人間が育てる家畜にも塩を与える必要がある。家畜として飼育される、ヒツジやヤギ、ウシやラクダなどの草食動物は、餌となる植物がほとんど塩を含まないため、生理的にとても塩欲求が強い。
そのため、メネス人はその生活に大量の塩を必要としていたのである。…かと言って、これまでのように武力で脅して取り上げることもできない。そのため、対価さえ支払えば十分な量の供給を約束するとしたメリシャに折れる他なかった。
そしてメリシャは、輸出で稼いだ資金を国内に還元するための公共事業として、国内のインフラ整備を始めた。
アヴァリスとペルバストの間に整備したように、主要な部族の都同士を街道で結ぶとともに、箒の先のように枝分かれしている大河イテルの支流を水運網として利用するため、パピルスを利用した葦船の大量建造を行い、物資や人の行き来の促進を図った。
その結果、ヒクソスの国内にも貴金属による金銭が流通するようになり、徐々にではあるが物資の流通やそれに伴う商取引も増え始めていた。
……そんなある日。
「ねぇ、海に行こうよ」
「どうしたの…急に?」
突然言い出したメリシャに、フィルは眉を寄せた。それぞれ午前の仕事を終え、どっさりと盛られたイチジクの実を食べている最中のことである。季節は夏。今食べているイチジクも旬を迎えている。
ヒクソスの気候はサエイレムに似ていた。季節はおおまかに夏と冬のふたつだ。
夏は晴天が続いて気温が高く、ほぼ5ヶ月近くに渡って雨はほとんど降らない。サエイレムは大河ホルムス、ヒクソスは大河イテルという水源のおかげで水に困ることはないが、水源がない土地では水不足に泣くことになる。
毎年の大河イテルの洪水も夏に起こる。アヴァリスを流れる大河イテルの支流も徐々に水位が上がり始めていた。遥か上流では、この時期に大雨が降るのだろうか。
冬は夏より10℃ほど気温が下がり、曇りや雨の日が多くなる。だが、さほど寒くはないし、雨ばかりというわけでもない。年間を通して極端な寒暑がなく温暖なため、総じて過ごしやすい気候とも言える。
夏には、オリーブ、イチジク、ブドウ、メロン、柑橘類などの果実や、レタスやモロヘイヤといった葉野菜が収穫され、大河イテルの洪水を境として、冬には麦類や豆類、玉ねぎやニンニクなどの栽培に切り替わる。年間で2回作付けが可能なので、食糧生産力は大きい。メネスへの上納がなくなった今、その収穫高は国民を十分に養って余りある。
人は、食べる物にさえ困らなければ、心に余裕ができるもの。
メリシャたちの召喚から始まり、ヒクソスの民は今、かつてないほどの大きな変化の真っただ中に置かれている。それでも人心が安定しているのは、この地の食の豊かさのおかげなのかもしれない。
…話を戻そう。夏の盛りに海へ行こうという話だ。
次回予定「塩の町にて 2」
※誤字の報告ありがとうございますm(_ _)m




