敗走と人質 2
ついに、メネス王国軍の前にフィルが姿を現した。
「ば、化け物!」
ついに耐えられなくなった兵が、手にした弓を引き、フィルに向かって射かける。ビュンと音を立てて山なりに飛んだ矢は、フィルの周りに浮かぶ狐火に触れ、燃え尽きた。
「撃ったわね…?」
にぃっとフィルの口角がつり上がる。その身体が金色の光に包まれ、九尾の姿に変わった。
小柄な少女の姿が一瞬にして大きな獣へと姿を変える。それは、先遣隊の兵が一瞬で焼き殺されるのを目の当たりにし、すでに怖気づいていた兵たちの心を折るには十分だった。
顔を引きつらせて後ずさりしたかと思うと、手にしていた盾を投げ捨て、後ろにいた兵を押しのけるようにして走り出す。
「う、うわぁぁぁ!」
数人が逃げ始めると、隊列は一気に崩壊した。
それを好機と、フィルはメネス王国軍の陣営に向かって猛然と走り出した。それが更に逃げる兵達をパニックに陥れる。もはや身分など関係ない、ホルエムの側にいた幕僚は、自分も逃げようとして転倒し、兵達に踏み付けられていた。
「…なんなんだ、あの獣は!」
そんな中、兵たちの隊列より前に出ていたホルエムは、自軍の崩壊に巻き込まれずに済んでいた。
だが、金色の獣はすでにホルエムの間近に迫っている。こみ上げる恐怖に耐えながら、ホルエムは腰に下げた剣を抜いた。
気が付けば、自分の周りには誰もいない。兵たちにとっては、自分の命の方が大事なのだ。王太子の地位などそんなものかとホルエムは滑稽になる。自分がここで死んでも、宰相あたりが王家の血を引く者の中から適当な者を見繕い、代わりの王太子に据えるのだろう。
だが、それでもホルエムは剣を正面に構え、迫り来る獣の姿を睨み付けた。
崩壊していくメネス王国軍に、フィルは少し拍子抜けしていた。サリティスたちから聞いた話で、それなりに精強な軍なのだと思っていたのだが、フィルの姿を見た途端に総崩れになった。
先遣隊の兵を目の前で焼き殺すという演出が効いたのかもしれないが、それでも脆すぎる。陣営の中に飛び込んでもう少し暴れてやろうと思っていたのだが、その必要もなさそうだ。
…と、フィルは逃げ出す兵たちに混じらず、こちらに向けて剣を構えている少年に気が付いた。兜は被っていないが、要所要所に金を使った豪華な鎧を身に着けているところを見ると、身分は高そうだ。
おそらくは、王族か高位の貴族。それなのに、九尾の姿を前にして一人で踏み止まるというのは、なかなかのものだ。フィルは少年に興味を覚える。
王国軍を追うのをやめ、フィルは少年の前で立ち止まった。
悠然と9本の尻尾をなびかせた金色の獣の姿に、ホルエムは剣を握りしめた手が震えているのを感じた。正直言えば逃げ出したい。だが自分は王族だ。無様に逃げ出せば王国の威信に泥を塗る。それに自分の無事を祈ってくれたネフェル…いや、巫女長にも申し訳が立たない。首から提げた護符の重みを感じつつ、ホルエムは前を睨み続ける。
間近に迫った巨大な獣は、しばらくの間ホルエムをじっと見つめていたが、不意に金色の光に包まれた。光はすぐに消え、そこに立っていたのは先程の少女。
髪の間からはピンと尖った獣の耳が伸び、人間でないのはわかる。だが、金色の髪や紅い瞳はヒクソスの特徴ではない。それに、ヒクソスの民があのような巨大な獣に姿を変えるなどとは思えないが…
「わたしはフィル。あなたの名は?」
フィルは、両手を広げて敵意がないことを示しながらホルエムに近づく。
「俺はホルエム。メネス王国王太子ホルエムだ!」
獣人の少女の姿とは言え、あの巨大な獣が変じた姿。ホルエムは油断なく剣を構えたまま答える。緊張と警戒のあまり怒鳴るような答え方になってしまったが、フィルは気にした様子もなく微笑んだ。
向かい合う二人の側に、リネアに守られたメリシャとシェシが追いついてくる。
「…ホルエム様?」
「シェシ殿、なのか…?」
互いの顔を見たホルエムとシェシが同時に驚きの声を上げた。
次回予定「敗走と人質 3」
呆気なく崩壊した王国軍の中、踏み止まった王太子の運命は…




