サエイレムの春
第一部のエピローグです。
サエイレムがその後どうなったのか…
王都サエイレムに春が来た。
大きく拡大されたサエイレムの中心、サエイレムがひとつの都市国家だった頃からある区域は、旧市街と呼ばれ、その街並みは昔の雑多な面影を残していた。
その旧市街の東側、かつて魔族街と呼ばれた一角に、甘い花の香りに包まれた場所がある。
サエイレム市民の憩いの場として、大切にされてきた林檎園である。
街区1つ分の土地に、たくさんの林檎の木が植えられたこの場所は、サエイレムがまだ専制公領と呼ばれていた時代に、時の専制公、後の初代女王によって作られたという。
初代女王の故郷であるリンドニア地方から運ばれた約20種、数百本にもなる林檎の樹は、春には美しくかぐわしい花を咲かせ、秋になれば黄色や赤色など色とりどりの実をたわわに実らせる。
その林檎は、誰もが好きに取って良い。
この林檎園は、サエイレム市民の間で『女王妃の林檎園』と呼ばれている。
初代女王の傍らには、常に彼女に寄り添い、女王を支え続けた一人の女性がいた。
快活で、時に破天荒な初代女王の側で、いつも優し気に微笑む彼女のことを、人々は『女王妃』と呼んで女王本人とともに慕った。
彼女は狐人族の少女であり、初代女王と同様、何十年を経ても10代半ばの愛らしい姿を失わなかったという。
『女王妃の林檎園』は、女王妃の生家があった場所だといわれている。
昔、人間と魔族が争った大きな戦争でサエイレムが戦火に包まれた時、女王妃の両親はここで命を落としたらしい。
しかし、初代女王と女王妃は、立派な墓碑を建てることをせず、代わりに作られたのがこの林檎園だ。
いい匂いの花が咲いて、お腹が空いたらみんなが食べられるように。
思い出の場所の目印になるように。
そして、初代女王と女王妃がこの場所で、生涯共に在り続けることを誓ったという言い伝えから、恋人たちが将来を誓い合う場所としても人気のスポットとなっていた。
その林檎園の片隅で、林檎の木の根元に座り込んでべそをかいている5歳くらいの女の子がいた。
柔らかな獣耳と豊かな尻尾がある狐人族の娘だ。時々周りを不安げに見回しては涙を拭っている。
「どうして泣いているの?」
いつの間にか、女の子の目の前に人間の少女がしゃがみこんでいた。
金髪に紅い瞳、10代半ばくらいの少女は、スカートのポケットからハンカチを取り出し、女の子の涙を拭う。
「あなたのお名前は?」
「リネア」
その名を聞いた少女は、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑む。
「そっか、良い名前だね」
「うん。女王妃様のお名前を頂いたんだって、お母さんが言ってた」
泣き止んだ女の子は少女の顔を見上げて言う。
「そう…リネアはお母さんと一緒に来たの?」
「うん。お母さんと遊びに来たの。でも、はぐれちゃった」
「それで泣いていたのね。怪我はない?」
「うん、大丈夫…」
「それじゃ、一緒にお母さんを探そうか」
少女は、女の子の手を引いて立ち上がる。
「さ、おいで」
少女は、少し離れた林檎の木の下に女の子を連れて行く。そこには狐人族の少女が佇んでいた。赤みの強い栗色の髪に琥珀色の瞳、年の頃は人間の少女と同じくらい。
「フィル様…その子は?」
狐人の少女は不思議そうに問いかける。
「迷子みたい。お母さんとはぐれたんだって。散策がてら探してあげようかと思って」
「そうですね」
狐人の少女は女の子の前にしゃがんでふわりと笑った。
その笑顔があまりにもきれいで、女の子は挨拶も忘れて少女を見つめた。
「この子、名前はリネアって言うんだって。女王妃様の名前を付けるの、流行ってるみたいよ」
楽し気に言う人間の少女に、狐人の少女は恥ずかしそうに頬を染める。
「ねぇ、リネア。このお姉ちゃんもリネアっていうんだよ」
「そうなの?リネアと一緒なの?」
「はい。私もリネアと言います。リネアちゃん、よろしくお願いしますね」
狐人の少女は女の子の頭を撫でた。女の子も気持ちよさそうに目を細めている。
「お姉ちゃんたちも、遊びに来たの?」
女の子の問いに、ふたりは顔を見合わせ、少しだけ間をおいてリネアが答えた。
「私のお父さんとお母さんに会いに来たんですよ」
…と、二人のリネアの耳が同時にピクリと動いた。
「あ、呼んでますね」
どうやら母親が呼ぶ声が聞こえたらしい。しばらくすると、その声はだんだん近づいてきた。
「お母さん!」
現れたのは20歳くらいの狐人の女性だった。娘の姿を見つけて、慌てて駆け寄ってくる。
「リネア、急にいなくなっちゃうから心配したわよ」
「ごめんなさい…お姉ちゃんたちが一緒にいてくれたの」
狐人の女性は、二人の少女に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえいえ、同じ名前なのも何かの縁ですから。ね、リネア?」
「えぇ、良かったですね。リネアちゃん」
「うん、リネアお姉ちゃん」
「そうですか、あなたも女王妃様のお名前にあやかって…」
言いかけた女性はハッとして二人の少女を見つめる。
その姿をどこかで見たことがあるような気がしたが…そうだ、初代女王と女王妃を描いた肖像画にそっくりだ。しかし、ふたりは今から百年も前の人のはず。
「さて、お母さんも見つかったことだし、わたし達はそろそろ行こうか」
「はい、フィル様」
「じゃあね。もうはぐれたらダメだよ」
女の子に手を振りながら、ふたりの少女は手を繋いで歩いていく。
フィルとリネア、サエイレム市民でその名を知らない者などいない。
「…まさか、本当に…!」
ふたりが何十年たっても少女の姿を失わなかったという逸話を思い出した女性は、娘を抱き締めてその場に跪き、深く頭を下げていた。
サエイレム港は、今日も活気に包まれていた。
港の規模は年々拡大しており、初代女王が拡張を始める前のサエイレム港からすれば、優に5倍以上の規模となっている。多くの倉庫街が立ち並び、魔族、人間を問わず多くに人々が行き交っていた。
その中に、初代女王が考案したとされる食堂があった。
ホールのような広い店内の真ん中には、たくさんのテーブルと椅子が並び、壁際にはズラリと露店のように店のカウンターが並んでいる。
客はそれぞれ好きな店で好きな食べ物を買い求め、自分で席まで運んで食べる形式。
今でこそ同じような店がサエイレムの中だけでなく、他の地域にも広がっていると聞くが、ここはその最初の場所だとされていた。
10以上の店が並ぶ中で、開店当初から在り続ける名店とされているのが、ラミア族が出している卵料理の店である。パティナと呼ばれる帝国由来の卵料理を独自にアレンジして出すその店は初代女王と女王妃に愛され、そして現在のメリシャ女王も子供の頃からのお気に入りなのだという。
その店のカウンターの前に二人の少女がやってきた。行列に並んでようやく順番がきたのだが、残念なことに最近の人気メニューのほとんどはすでに売り切れていた。
「今、お出しできるのは、一番シンプルな香味野菜のパティナだけになりますが…」
申し訳なさそうに言う店員に、金髪の少女が笑って答える。
「いいの。今日はそれが食べたかったから。香味野菜のパティナをふたつ、もらえる?」
「はい」
すぐに熱々のパティナがトレイに載せられて差し出される。引き換えに代金を受け取った店員に、少女は尋ねた。
「味は、昔のままだよね?」
「はい、王国宰相を務められたテミス様考案のレシピを忠実に守っています。当店の原点と言えるメニューですから」
誇らしげに言う店員に、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。テミスのパティナ、久しぶりだわ…」
魔族として異例の出世を果たし、サエイレムの繁栄に尽力した一族の誇りであるテミスを呼び捨てにした少女に、店員は少し眉を寄せる。だが、隣の狐人の少女と笑い合う姿に、店員はふと祖母の話を思い出した。
自分と同じく、昔ここで店員をしていた祖母から聞いたことがある。
初代女王は帝国の総督だった頃からここがお気に入りで、侍女だった後の女王妃と一緒に、よくお忍びで食べに来ていたと。そして、皆は彼女らの食事を邪魔しないよう、総督だと気が付いても騒ぎ立てず、気付かない振りをするのがここでの暗黙のルールだったのだと。
パティナを受け取って笑う二人の少女は、祖母から聞いた初代女王と女王妃の様子によく似ているように思えた。
「あの、お客さん…」
声を掛けようとした時には、すでにふたりの姿はホールの人込みの中へと消えていた。
次回予定「なつかしい面影」
長い時を生きるフィルとリネアを置いて、時は進んでいきます……




