獣の氾濫
領内での獣の被害について、フィルはその原因を調べ始めます。
屋敷に戻ったフィルは、早速、フラメアに状況を尋ねた。
「申し訳ありません。正直、手を焼いています」
フラメアは、対策が追いついていない事も含め、フィルに状況を話した。
異変は、フラメアが着任する前から広がり始めていたらしい。主に領内の北部で、森や草原に生息する野獣の数が、急速に増えたのだ。
どうやら、隣接する本国領の山間部から移動してきているようなのだが、草食肉食問わず、たくさんの獣たちがリンドニア領に雪崩れ込んでいた。
最初は、領境に広がる森の中だけで済んでいたが、森には元々住んでいた獣たちがおり、そこに余所からたくさんの獣か流入すれば、当然、食料が不足する。やがて獣たちが森から溢れるのは必然だった。
幸い、魔族領にいるような魔獣は混ざっていないが、それでもオオカミやクマ、大型のシカなどは人間にとって脅威となる。
さらに、問題なのはリンドニア領の戦力不足だ。相手は獣。楽にとは言えないが、武器を装備した人間が倒せない相手ではない。
しかし、リンドニアはベナトリアの保護領となっていたため、エルフォリア軍が抜けた後に属州軍が編成されておらず、領内の治安維持や門の警備を行う警備兵くらいしか戦力がなかった。全員を動員しても兵の数は200がやっと。街の警備も疎かには出来ず、この兵力ではとても大量の獣の駆除までは手が回らなかった。
「なるほどね…だいたいの事情はわかった。フラメアが苦労しているのはわかったから、顔を上げてくれないかな」
「はい…」
「害獣の駆除には、警備隊の手空きの人たちを使っているの?」
「警備隊も使っていますが、とても手が足りないので、保護院から12歳以上の子に限り志願を募りました。30人ほどが協力してくれています」
「保護院の子か…」
保護院というのは、戦争で親を失って身寄りのなくなった子たちの養育を行う、一種の孤児院である。普通の孤児院と違うのは、将来的に軍人になることを前提にした、軍の幼年学校的な教育が行われることであった。優秀者は保護院を出て軍学校に進み、将来的にはエルフォリア軍に登用される仕組みである。
将兵たちからすれば、仮に武運拙く戦死しても、残された子供が路頭に迷うことがないという安心感があり、エルフォリア軍としても、教育に時間がかかる軍幹部候補の人材を幼い時期から養成できるという利点があった。実を言えば、エリンとフラメアもここの出身である。
もちろん、軍人教育として戦闘訓練も行われており、子供達とは言え、戦力としては一般の市民よりも上だ。フラメアが保護院から野獣駆除の人材を募ったのは妥当な判断だろう。
なるほど…とフィルはつぶやき、しばし考えると、ポンと手を打つ。
「駆除をしながら森の奥に入って、状況を調べてくるよ」
フィルとエリン、パエラは元々戦えるし、リネアも竜人姿になれば、獣どころか魔獣だって身体能力だけで圧倒できる。この4人であれば森の奥深くまで入りこんだところで、問題はない。
「それは助かりますが…」
「原因まで調べられるかはわからないけど、少なくともリンドニア側の森に異常がなければ、地道に駆除を続ければなるとかなるでしょ。ベナトリア属州軍を応援に派遣するよう、わたしからグラムに命令書送っておくから」
「ありがとうございます」
その日の午後、早速、フィルたちは馬車で森の近くまで送ってもらい、森の中へと分け入った。
さすがにメリシャはフラメアに預けて留守番である。メリシャは涙目になっていたが、こればかりは仕方ない…。
「リネア、空から森の奥に向かおう。乗せてくれる?」
街へと引き返す馬車が見えなくなったところで、フィルは言った。
「はい。では、少し離れていてください」
フィル達が少し離れると、リネアはティフォンの姿に変わる。
「…何度見ても、すごいな」
エリンがつぶやく。赤褐色の鱗に覆われた竜は、魔王国との戦争で目にした巨人族や魔獣たちのどれよりも大きく強靱だ。この神獣と戦わずに済んだことは、本当に幸運だった。
フィル達を背に乗せると、リネアは翼を一振りして森の上へと舞い上がる。あっと言う間に視界が開け、リンドニアの外まで広がる豊かな森と連なる山々が見えてきた。
「なかなかの絶景じゃの」
知っている者ばかりだと見て取った玉藻が、竜の背からするりと出てくる。
「んーっ、やっぱり外はいいわねー」
そう言って、フィルの中から出てくる妲己。すたっと竜の背に立って、大きく背伸びをした。
「妲己、久しぶりだな」
やや嬉しそうに言うエリンに、妲己も微笑む。
「えぇ。エリンも、鍛錬はしっかりやっているかしら?」
「やっていると言いたいところだが、旅の間は、さすがにサエイレムと同じと言うわけにはいかなくてな」
「じゃ、後で妾と稽古する?」
「それはありがたい。ぜひ頼む」
「フィル、いいよね?」
妲己が生身で稽古するとなれば、利用するのはフィルの身体である。
「いいよ。だけど、森の様子を調べてからね」
仕方なくフィルも頷き、リネアが向かっている先、森の奥へと目を向ける。
空の上からでは森の中の様子はよくわからないが、所々に広がる草原には、ヘラのような平たい角を持つ大型の鹿が群れており、中には角をぶつけ合って縄張り争いをしている個体もいる。
「フィル様、まもなく領境です」
リネアの声がして、まもなく森の中に変化が現れる。森の中を流れる1本の川。それがリンドニアと本国との領地境界であった。
川の両側には、石ころや砂で覆われた河原が広がっており、リネアが着地するのに十分な広さがある。水を飲みに来た獣たちがたむろしていたが、空から舞い降りた巨大な竜の姿に慌てて散り散りに逃げ出した。
ブワッと砂埃を巻き上げて着地したリネアは、周りに他の動物の姿がないことを確認し、身を伏せた。フィルたちが背から飛び降りると、狐人の姿に戻る。
「さて…とりあえず、リンドニア領の森におかしな所はないようね」
ぐるりと周りを見回しながらフィルはつぶやく。続いて、サラサラと流れる川に近づいた。薄い青緑色に見える川の流れは冷たく、透き通っている。
水の中に手を入れて掬い上げ、匂いを嗅いで口に含む。ほのかに甘い水の味がした。変な風味や刺激もない。
「獣の匂いはしますが、他に妙な匂いはありませんね…変な音もしません」
嗅覚と聴覚が敏感なリネアも、特に異常は感じないようだ。獣たちが逃げ出してきたという話から、山火事か大きな地滑りなどの災害でも起こったのかと想像していたのだが、空から見た森は特に変わったところはなく、こうして降りてみても、特に異常は感じない。
「やっぱり、異常の原因は本国側にあるんだろうなぁ…」
フィルは川の向こう岸を見やる。フラメアも、本国側から動物たちが入りこんでいると言っていた。
でも、動物たちが大挙してこちらに移動してくるほどの原因なんて、何があるだろう。まさか、またティフォンのような神獣級の怪物が動き出したとでも言うのか。
「それなら、あたしがちょっと見て来ようか?」
ピッとパエラが手を挙げた。森の中はアラクネ族が得意とする場所だ。何かあったしてもパエラならどうにかなるとは思うが…
「大丈夫…?」
「平気平気、何かあったらすぐに逃げてくるから。フィルさまたちは、この辺で休んでてよ」
「パエラよ、麿もついていこう」
動き回ることには無精な玉藻が、珍しく自ら同行を申し出た。
「あら、珍しいじゃない」
妲己が軽口を叩くが、玉藻は気を悪くした様子もなく、森を奥を見つめる。
「……ちと、気になることがある」
その口調が真剣なのに気付いて、妲己も表情を引き締めた。
「だが、今すぐにどうこうということはないじゃろう。そう心配しなくて良い…よし、パエラ、行こうぞ」
「う、うん!じゃ、行ってくる。しばらく待っててね」
「気を付けて!」
フィルは、小さく手を振って、勢いよく跳ねて川向こうの森へと入っていくパエラと、その後ろをすいっと飛んでいく玉藻を見送った。
暇になると、早速、フィルと入れ替わった妲己がエリンと稽古を始めた。大刀に見立てた長い木の棒を打ち合い、カツンカツンという硬質な音が河原に響いている。
(ねぇ、リネア。聞こえる?)
フィル自身は、妲己や玉藻のように自在に自分の身体を抜け出ることはできない。あれは、妲己や玉藻が神獣の中に居候している存在だからできるのだろう。
だが、身体を妲己が使っている今、フィルの意識は実に暇だ。だから、妲己と話すように、リネアに声を届けられるのではないかと思った。相手も同じ神獣なわけであるし。
(フィル様ですか?)
(そうだよ。ちゃんと届いたみたいね)
(動きながら、話をして大丈夫なんですか?)
リネアの目の前では、相変わらず激しい打ち合いが続いている。
ブンと音を立てて振り抜くエリンの攻撃を、妲己は身軽に飛び退いて避け、後ろの岩を蹴って一気にエリンに肉薄、手にした棒をエリンに向かって振り下ろす。エリンは棒を頭上に掲げて妲己の攻撃を受け流し、くるりと半回転させた棒の反対側を妲己に打ち下ろした。
そんな激しい攻防に全くそぐわない、のんびりした口調でフィルは言う。
(今は妲己に預けてるからね。私は暇なの)
(では、お話できますね)
フィルと同じようにリネアも声は出していないが、その表情は嬉しそうに笑っていた。
次回予定「森の変化」
一見、変わったように見えない森の中。本国側へ出かけたパエラたちは何を見る?




