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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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77話『鳥山石燕痛心簿[化け猫]』

「九郎君は化け猫と云う妖怪を知っているかね?」

 

 その日、九郎はいつもの座敷に座っていると矢張りいつものように訪れた石燕から、そう話を切り出された。

 時は店も閉まりかけた夜の事である。昼間は影兵衛と睦月の子が生まれて産後の経過も良さそうなので出産祝いを届けに出かけたぐらいで特に事件は起こらなかった。昔は生まれてすぐに子ばかりか母親まで亡くなることが少なくなかった時代なので、祝いはある程度時間を置いて渡すものであった。

 祝いの品と一緒に、ふと思い出した以前影兵衛に斬られた魔女の猟銃の弁償請求書も渡しておいたら凄く嫌な顔をされたが。

 ともあれその夜に石燕は現れるなりそう告げて例のごとく酒と一品を注文し、九郎の返答を待った。この日の一品は葱と田螺のぬたである。辛子味噌で和えたものだが、刺激が酒によく合う。

 先にそれを食っていた九郎はひとまず酒で口の中を洗い流し、応えた。


「化け猫って……あれだろう。鍋島で有名な行灯の油を舐めるやつ」

「そう。日本中に似た話はあるが、多くは人語を介して、油などを好み、人を取って食ったり入れ替わったりすると言われている妖怪だ」

 

 九郎が云う、うろ覚えの知識に対して石燕は簡単に説明を加えて肯定した。

 おおよそ百年前の佐賀藩鍋島氏の家中で起こった怨念めいた自殺、急死の連続による事件は既に妖怪譚として語られている。

 石燕は彼女が来店し、注文前に用意され始めていた酒と茶碗を受け取る。九郎が話を促すように彼女の茶碗に注いで、ついでに尋ねた。


「そういえば長生きをした猫は尻尾が分かれると聞くが……あれも化け猫だったか?」

「そっちは[猫又]の方だね。何処が違うかと云うと有害性が違うのだよ。猫又は山奥に住んでいたり、野良猫を纏めていたりすると言われていてね、別に人を取って食ったりはしない。これは所謂猫の経立ふったちの一種なんだ」

「ほう。確か年老いた獣が成る妖怪だったな」

「そう、経立はこっちがやっつけてやろうと挑むと強い反撃をしてくるが、基本的にあまり人間に関わらない暮らしをしているのだ。恨みつらみで襲ってくる化け猫とは違う。猫又は猫の妖怪、化け猫は怨念が猫の形をして襲ってくる妖怪と云ったところだろうかね」


 石燕はさらさらと懐から取り出した紙に、矢立から筆を出して簡単な絵を描いた。

 猫又は二足で尻尾が分かれひょうきんな顔立ちで踊っている猫、化け猫は太く長い尻尾をした凶悪な顔つきの妖獣である。

 図にすれば、まさに同じ妖怪とは思えない。


「そうそう、ところで意外だけど、あの天爵堂も猫又は信じている男なのだよ。だから子興の草双紙を手伝っているのかもしれない」

「あの偏屈老人がか。確かに意外だ……」

「偏屈だけど世の中に存在するもの全てには考察する価値があると云ってるからね。彼の書庫にある自作辞典を見たことがあるかい? 凄く分厚いよ。まあでも、意外と猫好きなのかもね」

 

 逸れた話を軌道に戻すべく、酒の徳利をもう一本頼む。既に水のように一本は飲み干したようだ。早い。

 

「あれ持って来なさいあれ」


 お房が面倒そうな表情でタマに指示を出すと、石燕専用の升酒が運ばれてきた。一升あれば暫く持つであろう。つまりは、お房の云うようにアレな客用の道具だ。

 満足そうに石燕はそれを受け取る。


「ふふふ、以心伝心とは良いことだね。ただなみなみと入っていると少し飲むのに啜らねばならないのが難点かな。こうちゅーっと吸い取れる棒的な物があれば便利なのだが」

「……」


 九郎はふと、石燕が紙パック酒にストローを突っ込んで昼間から呑んでいる姿を想像した。

 酷い絵面である。

 テーブルに顎を付けてこぼさないように升酒を呑もうとしている石燕の肩に手を置いて止めた。


「石燕。升から空いた徳利に移し、それから茶碗に移して飲め」

「しかしそれでは二度手間──」

「いいから」

「……し、仕方ないなあ九郎君は」


 しぶしぶと升酒を注ぎ直す石燕であった。アル中の見た目をすれば即ちアル中なり。時には厳しい九郎である。


「話を戻すと、化け猫がどうしたと?」

「実はね、ここだけの話、子興が化け猫かもしれないのだよ……!」

「……ほう」


 ジト目で九郎は彼女の理屈を促した。だが返ってくるのは酒を呑んだ勢いで適当に云うような内容である。


「そう、行き遅れた恨みを宿した化け猫────だったら面白いなあと思って。人が猫に憑かれるわけだから猫又ではなく化け猫だね」

「うわあとうとう弟子を妖怪認定しようとしてる」

「まあ待ちたまえ九郎君。確かに妖しげな証拠があるのだよ」


 石燕は手元にある、踊っている猫又の隣にデフォルメの効いた──髪型で若干判断ができる、子興の絵を書き足す。

 彼女もまた変な姿勢をしている図であった。


「このように昨日、子興がこっそり猫の前で意思疎通のような舞をしているのを見かけてね。さては猫と通じているな!と」

「いや……知らんが」

「と云うわけで九郎君。作戦は練ってあるので子興の化けの皮を剥がそうではないか! たとえ化けの皮が無くても痛くもない腹を探ってやろう!」

「なんだろうこのやる気の出なさは」

 

 頬杖をついて九郎は溜め息混じりに、弟子のプライベートを漁ろうとする石燕を見るのであった。

 彼女は早速茶碗の酒を飲み干して云う。


「とりあえず作戦は簡単だ。子興には今日は泊まってきて、明日も帰らないので自由にしておくようにと指示を出している」

「ほう」

「……しかしあれだね。九郎君のところに泊まってくると告げたのに子興から返ってきた助言が『寝ながら吐いたりしないように』というのは何というか艶がないというか」

「吐くなよ……と云うか家では寝ゲロするのか」

「しないよ!?」


 明らかに九郎が向けている視線が乙女に向けるものではないので、慌てて否定をする石燕である。

 しかしながら嘔吐姿こそ無いが、口から酒をだくだくと零しまくったり、よだれを垂らして泥酔している姿は見られているのでだらしない評価は今更覆らないだろう。

 

「そして明日はこっそりと、私が居ないときの子興を朝から監視するのだよ」

「悪趣味な……他人の生活を覗き見るのはどうも犯罪めいているぞ」

「問題ないよ九郎君」


 石燕は迷いを浮かべない笑顔で告げる。


「いざとなったら謝罪と賠償金で片がつく問題だからね!」

「敗訴は確定なんだな」

「それでほら、こっそり監視するのに九郎君が以前に使った天狗の隠れ蓑みたいな札があっただろう。あれを使おうではないか」

「隠形符をなあ。ううむ」


 九郎は不満そうな顔で唸り声を上げた。

 別段現状では悪いことも何もしていない子興を、石燕の趣味の為に監視する意味があるのか疑問なのだ。

 むしろ悪いことをしているのはこちらになるだろう。

 

「矢張りちょっとなあ……」

「九郎君。これは彼女の為でもあるんだよ」

「子興の? 何かあるのか」

「……」


 石燕は言い難そうに、少し憂いた顔で視線を落として黙った。

 その沈黙は暫くの間続いた。やがて、ゆっくりと石燕が口を開く。


「ええと……子興の為でもあるんだよ」

「思いつかないことなら最初から口走るな!」

「そ、そうだ! これは師匠が弟子に行う、抜き打ちの試験のようなものなのだ! 普段からちゃんと自活できているか絵の練習はしているか悪い相手と付き合っていないか、確かめるのだよ!」

「今思いついただろ」

「あの子が化け猫だったら私が食い殺されるかもしれないのだよ! 九郎君、私を救うと思って!」

「弟子への信頼度が低すぎる」

「だって事あるごとに碌な男に引っかからない行き遅れだとからかっていたのだもの。ごめんね子興!」


 ぎゃあぎゃあと言い合う二人を見ながら、お房がタマに云う。


「娘の私生活に介入したい母親とそっとしておきたい父親の争いみたいなの」

「お房ちゃんのところでもそんなことが?」

「あたいのところは違うけど。でもこの前お雪さんの家にご飯届けに行ったら慌てて洗濯場から取ってきたお父さんの服を隠してたの。何に使ってたのかしら。監視したら危険な事実が判明しそうだわ」

「達観してるなあこの十歳」


 タマが感心した顔で頷いた。


 結局、九郎は押し切られて子興見張り作戦を受けるのであった。

 その夜は石燕は九郎の部屋で、お房と並んで眠る事になった。部屋主の九郎は隣のタマの部屋で寝る。

 これはお房が、


「先生飲み過ぎだから寝ながら吐いたりしないか心配なの。ちゃんと手水場にも寝る前に行くのよ。九郎が呆れるわ」


 と、保護者のようなありがたい意見をくれたので従ったのである。吐きはしなかったがなぜか布団で横になったら涙が出てくる石燕であった。

 九郎も面倒な事になったと思いつつ、既に安らかに眠っているタマの隣で、


「まあ、いいか」


 いつもの諦めた感じで呟いて、眠りにつく。 

  


 ──夢を見た。




 *****

 



 

「じーっ」

「口に出さんでも」


 クロウは色褪せた畳の上に座り、ちゃぶ台に載せた茶を飲みながら顔を窓から外に向けている黒い髪の少女に声を掛けた。

 彼の自宅にあるお気に入りのスペースである。昔に仲間だった東方の忍者、ユーリが町を出て行く時に譲り受けたのが畳であった。東方にある島国との交易は、一番近くに面する大陸の外縁がネフィリム迷宮砂漠と魔王城、海には魔王が放ったメカシャークが泳いでいる為に船が出せず、かなり離れた貿易港しか利用できないので中々東方の品物は入ってこない。家具類などは特にだ。

 故に畳はかなり貴重な物である。クロウはそれを自宅に設置して寝床兼くつろぎ空間にしているのである。

 

「わたしは興味と畏れの感情を抱きながら彼女を隠れて見ていた。その感情のどちらが大きいか今はまだわからなかった」

「口に出して説明せんでも」


 続けて呟いた少女にまたクロウは云う。

 少女の名はイリシア。 

 クロウが用務員として働いている魔法学校の生徒である。魔力は飛び抜けて高いのだが、制御力が低い為に魔力の暴発ばかり起こして落ちこぼれ扱いを受けている。

 見かねたクロウが、魔法協会に所属する付与魔法の一人者である女性に指導を頼んだのであるが。

 イリシアの視線の先、家のすぐ外にある猫の額程の庭に彼女が居た。大きな桶に、駕籠に入れた洗濯物を放り込んでいる。


「…………」


 続けて彼女の持つ濃い青色の術符[精水符]を光らせて発動させた。桶に水が溜まる。

 そして洗剤を入れて更に細かい調整を術符に込めることで桶の中で渦を作らせかき混ぜた。術符は使用者次第である程度融通が利くのが便利なところである。クロウも炎熱符で火のタイマー設定位ならば使えた。


「…………」


 小さく鼻歌が聞こえる。彼女が機嫌がよくて歌っているという調子ではなく、無表情のままである。友人である歌神司祭に教えられた歌を反復しているようだ。

 自動洗いにしている桶から離れて手に箒を持ち、庭に落ちたイチョウの葉を掃いている。正しくイチョウと同じ種類の木かクロウは知らないが、似た葉っぱであったし銀杏は食えたのでクロウは大事にしている。

 庭掃除をしている彼女を見ながら、イリシアは云う。


「なんか普通ですね」

「そりゃな。何を期待していたのだ?」

「いえ、期待というか。もっとこう日に一度は死体を作らないと気がすまないぜファーハハハァーみたいなのを想像していたので。弟子入りの対価は命だーって言われても諦めない覚悟で弟子入りしたんですが」

「あやつに失礼すぎる……」 


 クロウはあんまりな偏見に思わず顔を覆った。彼女は中々他者に受け入れられる種族ではないが、別段害を為すわけでもないというのに。本人はそういう評価を受けても何も気にしないし、反論もしないので誤解はされたまま何十年もこの街で生活している。

 友人も特に親しいのは自分とスフィ、それにアンデッドのイートゥエぐらいだった。


「それで、なんで監視を?」

「だって師匠になる人なら知っておきたいじゃないですか」


 イリシアは窓からクロウへ振り向いて、いつ見てもきょとんとしているように見える丸い目で云う。


「爺ちゃんが紹介してくれて、爺ちゃんの友達なら悪い人じゃないってわかりますよ。でも自分の目でどんな人か確かめて、初めてその人を知れるというものです」

「そうか……そうだな」


 クロウは目を細めながら頷き、銀杏の葉で入れた茶を啜った。

 実際のところ、イリシアの師匠である彼女とて迫害されているわけではなく幾らか人間関係も作れている。だが多くは、『クロウが認めているのだから』という二次的な関係にしか過ぎない。

 このようなしっかりと、彼女自身と向き合って弟子になってくれるのならばそれはお互いにとって良いことだと思えた。


「おや、師匠が猫と遭遇しましたよ」

「む……最近庭にウンコをしていく奴じゃないか? もしかして」

「やれやれ。これではおやつは猫ケーキですね」

「いや、そんなことはせんと思うが……」


 庭に入り込んだ野良猫をじっと見たまま彼女は動きを止めていた。

 クロウも気になって窓からイリシアと並び状況を見守る。

 彼女は持っていた箒を手放した。からんと石に当たって乾いた音を立てて、猫が警戒し背中の毛を逆立てる。

 無表情のまま猫を見下ろし続けていた彼女が、すっと手を構えた。


「あれは……!」


 クロウが唸る。

 彼女は指を丸めた、所謂猫手を作って見せ、体全体をリズムに乗せて小さく揺らしている。無表情で。

 イリシアが口を半開きにして尋ねた。


「なんですかあれ」

「猫ダンスだ」

「猫ダンス」

「前にやったスフィの誕生会で猫耳を付けられおだてられたスフィが踊っていた、猫と意思疎通可能という噂の踊り。あやつも見ておったな」

「師匠が……凄いしれっとした顔で猫ダンスを……」


 するとそれを見ていた野良猫も二足で立ち上がり似た動きで対応し始めた。突然二足歩行である。騙された気分だ。


「通じあっておる……初めて見た……」

「猫が庭の外に帰っていきますね。おや? 師匠は何故か肩を落としています」

「もしかして猫に触りたかったのかのう」


 諦めて彼女は箒を拾い上げ、掃除を手早く終わらせ今度は洗濯の干し台を用意し始めた。

 イリシアはクロウへ向いて、


「ほうら、ちゃんと見てれば爺ちゃんが知らないことだって知れたわけですよ」

「はっはっは。そうだのう。己れもつい、居るのが自然になっていたから見落としていたようだ」

「これから付き合いは長いのですから。爺ちゃんも師匠も、わたしも。色々知っていきましょう」

「そうだなあ」


 クロウはそう云って、きっとこの娘と彼女は良い関係になれるとどこか安心した顔で微笑んだ。

 一つ、心残りが解消されたような気分になって嬉しかったのである。

 庭先で洗濯物を干している彼女が窓から見ているこちらに気付いて────。





 *****





 明け方。

 寝返りで触れるほど近くに居たタマを起こさぬように、九郎は上体を起こして気怠げな顔で頭を掻いた。


「夢か……」


 とても安らいだような気がしたのだが、内容は思い出せなかった。欠伸をしたら涙が零れ、九郎は布団から出て隣の部屋へ向かった。

 お房は姿勢正しく、市松人形のように静かに寝ていたがその隣の石燕は布団の枕元が濡れていた。すわ寝ゲロかよだれか、と九郎は己の布団の運命を呪うが、よく見ると酔い覚まし用に準備していた水差しを零しただけのようだ。


「いや、それも悪いが。これ、起きろ石燕」


 眼鏡を外している彼女の頬をぺちぺちと叩く。


「うぅん……」

「子興を寝起きから見張るのであろう。ほら、起きないと肌が水を弾くかどうか確かめるぞ」

「やめたまえぇ~……」


 ふらふらと手を伸ばして九郎の肩を掴み、体を起こそうとする。九郎も背中を支えて押し上げてやり、石燕を起床させた。


「ううう……飲み過ぎた……」

「目元が腫れて眼鏡を外したのび太みたいになっておるぞ。顔を洗いに行こう」

「運んでぇ……」

「やれやれ」


 九郎は石燕を担ぎあげて、彼女の眼鏡も拾い部屋を出た。

 階段を下りると既に正確な体内時計で目覚めて朝の支度をしている六科と顔を合わせ、裏にある井戸端へ向かった。

 石燕を簡単な木組みの椅子に座らせ、井戸に釣瓶を落として水を掬い上げた。


「むー……」


 薄暗い暁でもよく見える白い手を桶に入れて、石燕は顔を何度か洗う。半分以上眠っていた様な目元が少しはマシになった。


「うがいもせよ。酒臭いぞ」

「そうだね……」


 口に含んでぐじゅぐじゅと水音を立てて、溝に出した。 

 九郎が持っていた手ぬぐいを渡すと、顔に押し付けて暫く水を吸わせる。石燕先生さんの肌は瑞々しくて水を弾くのである。

 そして数秒そのままでいた後に、


「鳥山石燕──覚醒!」

「はいはいお早う」

「ふふふおはよう九郎君! 今日もいい朝だ! 私は朝に372844枚の大判焼きが焼ける匂いが大好きだが九郎君は朝は何が好きかね!?」

「明け方に騒ぐな。そんなに大判焼きを焼ける小麦粉などミュータント国家ぐらいにしか無いぞ。握り飯を用意してあるから出かける準備をせよ」


 九郎は冷静にそう云って眼鏡を彼女に渡して、自分も桶に汲んだ水で顔を洗った。指先が痛むような冷たい水が眠気を覚ます。

 

「はい、九郎君」


 石燕から手ぬぐいが返されたので顔を拭くと、彼女の匂いがした。

 正確に言えば酒臭い。


「……」


 嫌そうな顔をして手ぬぐいを顔から離す。朝の爽やかな気分とは何だったのか。裏切られた悲しみにくれる。  


「ともかく。準備して行くぞ」

「おや? 何故か一晩経ったら九郎君も乗り気になっているね?」

「悪趣味な感じになったら止めるがな。持っていくものは分かるか?」

「お酒!」

「却下だ」

「えー」


 石燕の当然という提案に九郎は彼女の頭を両手で押さえて揺さぶりながら云う。


「姿は消せるが匂いは消せぬ。酒の匂いでバレたらどうする」

「あうあう……ゆ、揺らさないでくれたまえ九郎君。頭が痛む……」

「もう傷んでいるのだよ……」

「違うよ!?」


 哀れを含んだ九郎の視線を否定する石燕であった。

 その後、軽く火で炙った焼き握り飯で腹ごしらえをして、九郎は術符フォルダを腰に付けて石燕とまだ日が海にある江戸の町を歩いた。

 そういえば、と九郎は背後を歩く石燕を思う。


(出会った頃に比べて舟や駕籠を使うことは少なくなったな。体調がよくなった証拠か)


 それでも酒の飲み過ぎには注意させねばならないと結論付けながら、神楽坂へ向かう。

 静まり返った石燕の屋敷の門の前で、再び石燕を担ぐ。


「飛び越えていくぞ」

「優しく頼むよ」


 ひょいと一飛びで塀の上に乗り、敷地内に着地する。気を使って衝撃をなるべく押さえたが着地の瞬間は「ぐえ」と石燕の声が出た。

 腹を押さえながら九郎から下りると、石燕は家の様子を見やる。


「どうやらまだ子興は起きてきていないようだね」

「ふむ。まだ少し早いからな」

「よし、この隙に家の中に侵入しよう。九郎君、こっちだ」

 

 石燕が縁側に回り、雨戸をゆっくりと丁寧に外して中へ招いた。二人の履物は箱に入れて適当に目立たぬところへ置いておく。

 足音を殺して、子興の寝室へ向かう。九郎が、


(本当に大丈夫か……)


 と、訝しげに思うが石燕はそれを察知したように、懐から取り出した巻物を明けて見せた。

 そこには『どっきり』と大文字で書かれている。

 石燕はしたり顔で頷いてみせた。


(何が良いのだそれ)


 思いながらも声には出さない。

 音を立てぬようにふすまを開けて子興の部屋に入り──。


「? 居ないね」


 石燕が小声でそう云った。九郎が顔を覗かせて中を確認するが布団さえ出されていない。 

 ここで寝ていないとなると、子興もどこかに泊まりに云ったのだろうか。それにしては内部からの戸締まりがしっかりしていたが。

 二人で首を傾げながら子興の部屋から繋がる隣へそっと移動した。

 そこは石燕の寝室である。正確に言えば玄関に入ってすぐの部屋とその奥を繋げた広間になっていて、仕事道具もごちゃごちゃと置かれている。妙な事にこの屋敷では入ってすぐに主の寝室兼仕事場兼居間となっているのだ。

 その部屋に布団が敷かれていた。

 子興が普段使いの安布団より何倍か高価な石燕の柔らかく暖かい布団である。

 それに幸せそうな寝顔を見せて子興が寝ていた。


「……」

「……」


 九郎と石燕は無言でその、留守居している弟子の奔放っぷりを見下ろす。

 

「……これで許せてしまうのは子興だからだね」

「麻呂だったら?」

「麻呂は海に流したのでもう居ないよ」

「……」


 気がつけば帰ってくるのであったが。

 ひとまず部屋の隅に座る二人である。


「隠形符を使うぞ」


 石燕の手首を軽く握って九郎は魔法の術符を発動させる。光の波長を操り光学迷彩を施すこの術符ならば、使ったまま激しく動くか勘が良くなければ見破ることはできないだろう。

 それでもある程度離れた場所で監視を続けた。九郎とくっついて座った石燕も我が家にくつろぎながら子興が起きるのを待っている。 

 外が徐々に明らんで来ていた……。



 *****



 約、ニ刻(四時間)後。 

 時間は朝四ツ(午前十時頃)になって、ようやく子興が布団から出てきた。

 

(飽きた……)


 九郎はギリギリ眠らずに保っていた意識を無理やり起こしながらげんなりと胸中で呟いた。変化の無い、寝坊姿を四時間も待たされていればそうも思う。

 大体この屋敷での日常では、夜明けと同時に石燕よりも早く起きだして朝飯の準備を始める子興であったが、師匠が居ないとなるとこんな時間まで寝たままであった。

 九郎に寄りかかって寝息を立てていた石燕を起こしてやる。眼鏡を正しながら彼女は目を覚ました。


「よく寝たー……師匠の布団、つい寝すぎるよ……」


 子興はよろよろと立ち上がり、勝手口へ向かって戸を開ける。瓶に溜めた水で洗顔して「よしっ」と気合を入れた。

 そしておもむろに戸棚を開ける。笊を被せられてそこに置かれていた皿に乗っているのはオハギだ。

 彼女はオハギを手に布団に戻り、寝そべりながら食べ始めた。


「……のう、子興はいつもあんなことを?」

「行儀が悪すぎる……」


 小声で確認しあう。師匠の見ていないところ限定のずぼらな朝飯らしい。

 しまった、子興はあんこを布団に零したらしい。慌てて手でこするが、余計染み込ませてしまった。

 彼女は布に、近くにあった壺から出した酒を染み込ませて布団を拭く。ある程度は取れて安心。酒の匂いは染みたが、師匠は気にしないだろうという笑顔だ。

 石燕が無言でメモしていくのが九郎は若干恐ろしかった。

 その後も半刻あまりはごろごろと過ごし、突然やる気を出して屋敷の雨戸や入り口を開け放った。やっと日中の風が吹き込む。

 丁度出入りの魚屋が道の前を通るところだったのだ。彼女は今朝取れたばかりの近海の鯖を購入して台所へ持っていく。九郎と石燕はいちいちその後をついて回っていた。

 この家の竈は二つある。子興は慣れたように、残していた種火を一旦取り出し、竈の灰を掻き出して燃料を入れて種火を着火させた。そこから隣にも移して、料理の準備をする。


「ふむ。一人でもしっかり料理をするのは生活態度として加点してあげねば。だらしない状態では女子力が下がるからね」

「しかし子興だけが食うには結構な量だな」


 乾物の昆布とかつお節で出汁を取る。醤油やみりんも加えて、どうやら煮物を作るようだ。使い終わった昆布に、切った鯖の身を巻いて煮込む。

 米も同時に炊いている。また、たくあん漬けを取り出して小さく刻み、胡麻をふりかけた。

 彼女はそれらをお重に詰めながら歌うように楽しげに云う。


「晃之介さん喜んで食べるかなー?」


 それを聞いて覗きの二人は離れ、囁き合う。


「晃之介に弁当を作っておるのか。何というか中々やるな」

「ふふふ、我が弟子ながら恐ろしい子だよまったく……!」


 重箱の二段目に煮染めを並べて、一段目に飯を入れた。刻みたくあんを隅に乗せて、梅漬けを潰して梅肉で飯の中心に記号的な形を作った。


「ハートか。攻めるな子興」

「いや、あれは桃だよ九郎君。桃は女から男に渡すものと云う説話が大陸にもあってね」

「その話は後にしろ」


 綺麗に作り上げた重箱を閉じて、風呂敷で包んだ。これを渡せば任務完了である。子興も満足感のある笑みを見せていた。

 そして──。

 彼女はそれを持って、居間に座った。


「?」

「?」


 訝しんで二人が見ているうちに、子興は重箱を開けてなんとも言えない情けない顔であろうことかそれを自分で食べ始めたのである。


「ど、どうしたのだ?」

「わかった。あれは別に晃之介君に渡す約束も無ければ勇気もなく、予行演習として作ったはいいものの自分で食べる段階になって無常な寂しさが押し寄せているのだ!」

「さすが喪女だな。詳しい。しかし……普通に持っていけば晃之介も快く受け取るものを……」


 子興が曇った顔で成人男性用のごつ盛り弁当を一人で頑張って消費している姿は。

 二人して思わずほろりとしてしまう、悲しい光景であった。


 その後も二人は子興の姿を見守っていた。

 食べた後は食い過ぎを気にしたのか、ちょっと離れた場所にある湯屋へ歩いて向かい長風呂をした。その間は九郎と石燕は近くの茶屋で将棋を打っていた。前は負けまくっていたが近頃癖を見抜いて九郎は勝てるようになっている。石燕の首を傾げる様子からするに、手加減をされているわけではなさそうなので満足だ。

 子興の入った湯屋は真っ昼間ということもありまだ空いていて、湯も熱かったのだろう。ほかほかと湯気を出して出てきた。

 すると九郎たちとは別の茶屋に入り白玉を三杯も食べて幸せそうな顔をしていた。


「太らないのか」

「太らないんだよねえあの子」

「……」

「無言で私の腹の柔らかさを確かめるのはやめたまえ九郎君」


 そしてまた屋敷に戻り、今度は部屋に置かれた描きかけの屏風絵の前に座り、画材を開いて仕上げをしていく。

 彼女が描いているのは猫の絵だ。大きな猫が鎮座して絵からこちら側を睨んでいるような構図であるが、周りから仕上げているせいかまだ猫には瞳が入っていなかった。


「八方睨みの猫だね」

「どういう猫だ?」

「つまりは、どの方向から猫を見ても猫から睨み返されているように描かれるものだ。守り猫の一種でね、鼠や妖怪を追い払うとされている。私が仕事を回したのだよ」

「ふむ……まあ、真剣には描いているな」


 と、九郎がまだ未完成の猫絵を見ても中々の出来で迫力がありそうなものであった。

 嫌々仕事をしている様子は無い。時折首を傾げながらも、こうすれば良いのでは無いかと自分が思うとおりに複数の絵筆を振るい、色のついた猫を描いていく。

 子興は江戸の絵師界隈では石燕の弟子として、麻呂やお房と比べられることが多い。女体を描かせたら江戸でも指折りの麻呂と、年若いながら既に石燕の画風を身につけつつあるお房に比べて今ひとつぱっとしていない。

 絵だけで食っていけるほどではなく、黄表紙の収入もそう多くない。半分以上は石燕の家の居候として養ってもらっている面がある。だから、彼女は向上を目指すのだ。

 そして猫絵は偏屈な老人や、師匠や、弟子仲間や、九郎だって褒めてくれたのだ。故に、張り切る。

 石燕はそんな弟子の真摯な努力を絵にぶつける姿を優しく見守っていた。


 夕方頃になり……。

 勝手口の方で猫の鳴き声が聞こえた。

 すると子興は猫耳のように立てた髷をぴんと動かして音を立てずに移動していく。


「九郎君」

「ん? ああ」


 ぼーっとしていた九郎は呼びかけられて気付き、勝手口に向かった。

 子興は昼飯に使った、鯖の身が残った骨と頭を水につけていた物を手にとって、勝手口から外に出て庭に集まった猫に与えている。

 鼠の害が多かった江戸では猫が多い。飼えぬところもせめて絵だけでもと、猫絵や木彫猫などを買い求めるのだから安定した売れ線のモチーフである。

 ともあれ子興は鯖を持っていかずに庭で食べている猫達の前で、唐突に猫手を作って左右に降りだした。

 合わせて腰も動かして猫の気を引く。小声で楽しそうに「にゃん、にゃん」と言っていて、猫もつられて顔を左右に振っていた。

 まさに猫に取り憑かれたような動きだ。おお、テリブル。彼女は化け猫に精神と脳髄を奪われてしまったのだろうか。

 

「見たまえ九郎君。あれで素面なら辛いだろう?」

「……いや、まあ。まだ可愛いで済む年齢だろう。確か二十だろう。おニャン子クラブのメンバーも確か十七から二十が多かったと思うが」

 

 日本に居たのは遠い過去なのに変なことは覚えている九郎である。


「じゃあ十七歳の私がやっても?」

「やってみろ。意外といけるかもしれん」

「一厘もそう思って無さそうな顔で言われても!」


 九郎の期待が一切篭っていない言葉に石燕が思わず叫んだ。 

 すると、声が聞こえたのだろう。子興がきょろきょろとあたりを見回す。

 軽く頭を押さえながら、九郎は云う。


「もう隠れるのは良いだろう。決定的現場とやらを押さえたのだから」

「……そうだね」


 何が決定するのかは九郎も知らなかったが、ともあれ子興が寝るまでまだ付き合うのもしんどいと思ったのだ。

 潮時である。隠形符を解除して、石燕がゆっくりと子興へ歩み寄っていった。


「やあ子興」

「し、師匠!? 今日は一日出てるんじゃ……」

「用事が早く終わったものでね。しかし、随分変わった……ふふふっ……変わった踊りをしているね」

「あ、これ? こう、猫の視線をあっちこっちに動かしたら八方睨みの絵が上手く描けるかなーって、最近は懐いてくれてねえ」

「……」

「……」

「そ、そうだよね! 私は信じていたよ!」

「どうしたの師匠?」


 きょとんと首をかしげる子興。彼女は、石燕からやや離れた位置で見ている九郎を確認して目を悪戯っぽく光らせた。


「そうだ。師匠も猫踊りをしてみればいいんじゃないかな!」

「い、いや私はちょっと……素面だし……恥ずかしい気が」

「九郎っちも見たいよね!」

「……まあ、頑張れ」


 投げやりな言葉であったが、子興は同じ程度の背丈である石燕に絡みつくようにして体勢を作らせる。

 

「よしよし、ほら師匠も猫手作って! 可愛い! 師匠可愛い! 師匠乙女!」

「そ、そうかね? ちょっとヤケになってないかね子興」

「はいはい、一緒に、猫にゃーん」

「ね、猫にゃー……」


 子興に並んで猫っぽい手つきで体を揺らす石燕を見て、九郎は懐かしい気持ちになった。

 はるか昔、日本に居た頃。地方の祭りが映ったテレビでおばちゃん婦人会がポップな曲の踊りを一生懸命踊っている映像が脳裏に流れた。特別な思い出のないただの薄れた記憶なのに、それが湖底から浮かぶガスのように思い出された。

 九郎の異様に生暖かい笑みの前で踊る師弟を止められるものは居ないのか。


(そもそも一体何と戦っているのだ石燕は)


 運命的な何かだろうか。九郎はノリノリの弟子の隣で口をあわあわさせつつぎこちない石燕を見て、健闘を祈ったその時である。


「うわー!!」


 叫び声が上がった。

 三人が声の方向を見ると、ボサボサの髪をした薄汚い格好の青年──麻呂と、お房が庭にやってきていたのだ。

 麻呂は顔を若干赤らめた石燕に指さして、叫ぶ。


「うわー!! うわー!! うわー!! うっ……」

「麻呂さんがあまりの衝撃に言葉を忘れた上に気絶したの」

「何が!? 悪かったのか良かったのかさえわからないではないか!」


 地面に糸の切れた操り人形のように倒れた麻呂を放置してお房が寄ってくる。

 彼女はいつものようにムスッとした顔だったが、どこか笑いをこらえているようにも見える。


「丁度そこで会ったから一緒に来たのだけど。先生に子興ちゃん」

「な、何かね」

「しょ、小生らの猫踊りに何か文句でも!?」


 お房は九郎の目の前で立ち止まり、猫手を使って珍しく──くるりとした目を可愛らしい笑顔の形に変えて、まさに猫なで声で言った。


「猫にゃん♪」


 それを見て──子興と石燕は膝をついた。

 二十歳と自称十七歳の猫真似に対するは十歳の純真な子供の猫真似。勝てる筈がなかったのである。


「いや、なんの勝負だよ……」


 何故か敗北者が三人も居る庭で、九郎はひとまず己も可愛いと思ったお房の頭を撫でてやるのであった。




 ******





 後日。

 子興は見事、八方睨みの猫を完成させてそれが顧客にも大層喜ばれる出来であった。

 しかしつい乗せられて年甲斐もなく猫踊りを披露してしまった石燕は珍しく羞恥に悶える羽目になるのであった。

 普段から痛々しい行動をしているのだが、本人にも開き直れるセーフラインがあるようだ。

 鬱陶しいので慰めてくれという弟子の頼みを受けて九郎が猫のように寝込んでいる石燕の屋敷を訪ねた。


「ううう、九郎君。どうも調子が悪い。猫真似をしたから今度は私が化け猫に取り憑かれたのかもしれない……」

「気にするな石燕。己れから見ればお主も若い娘だからそう恥ずかしがるものではない」

「ううううう」


 布団を頭から被る石燕である。

 九郎は布団の上から彼女をぽんぽんと叩いてやり、


「それにもしお主が化け猫になっても……」

「なっても?」


 言い淀み、何かいい言葉が浮かばなかったので告げた。


「……お主のことは忘れぬぞ。うむ」

「なんで速攻で諦めてるのかね!?」


 がばりと布団から跳ね起きて、薄情な九郎の両肩を掴み前後に揺らす涙目の先生であった……。

 


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