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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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75話『頑張れ利悟くん』


「石燕。頼みがあるのだが予め、勘違いは決してするなと云っておくぞ」

「何だい九郎君、頼みとは」


 その日、九郎は神楽坂にある石燕の自宅を訪ねるなり、真剣な顔で──そしてやや言い難そうにそう言ってきた。

 言われた彼女は弟子二人に指導中だったのだが、小首を傾げて聞き返す。九郎はやおら頷いて要件を告げる。


「───金を借してくれ。一寸大金になるが」

「……」


 石燕はにっこりと菩薩めいた優しげな笑みを作って、高級そうな桐箱を取り出して二十五両ずつの切り餅を二個、三個と出していく。

 慌てたように九郎が抗弁した。


「待て。勘違いをするなと云ってるだろう。なんだその含みがある顔は」

「いいんだ、九郎君。幾らでも持って行っても」


 石燕は安らぐように静かに云って、子興に目配せをした。

 弟子に小さな壺を持ってこさせるとそれをひっくり返せば小判がじゃらじゃらと床に溢れる。石燕の隣で座って絵の練習をしていたお房の顔が曇り、子興も諦めたような溜め息が漏れた。


「違う。だから、奉行所の囮捜査で少し金持ちの振りをする為に持ち歩くだけであって、終われば一銭も使わずにそのまま返すのだからな。決して己れが遊びだの何だのに使う為に借りるのではないのだぞ」

「そうか、そうか。いいんだよ九郎君。増やした分を寄越せとも減らした分を補填しろとも言わないさ」

「だあああもおおお」


 九郎もげんなりと頭を抱えて一端振り向き、玄関の戸を開けて外に呼びつける。


「こら利悟! お主の仕事のせいで己れが下手な言い訳して金をねだる駄目男みたいではないか! こっち来て説明せぬか!」

 

 すると家の門近くから返ってくる声は拒否の意味を叫んでいた。


「嫌だ! 拙者に年増が住む住居に入れって云うのか!」

「フサ子も居るぞ」

「お邪魔します」


 するりと玄関にあっさり姿を現す、木綿着の袴を着ていて腰に短めの打刀一本だけ差した、小ざっぱりした浪人風な格好の利悟である。

 いつもの同心が着る黒袴では無い。仕事用に敢えて着替えているのだ。

 九郎は呆れたように、


「大体、年増の居る家ってお主今二十になる瑞葉と同居しておるだろ」

「だから窓は意地でも開けっ放しでなるべく目を閉じて生活してるんだ」

「馬鹿か」

「ばっさり云うなあ!?」


 九郎がジト目で見てくるので、稚児趣味ながら周りからの強制で幼馴染の瑞葉と暮らしている利悟は泣きそうな叫びを上げた。

 そんな利悟をゲロ以下の物体へ向ける眼差しでお房が睨んでいる。


「この稚児趣味野郎、九郎を怪我させて恥かかせたどころか、お金を先生にせびらせようとしてるの……?」

「うわあ九歳児がする目付きじゃない! あっ十歳になったんだっけ!?」

「九郎。悪い相手と付き合っちゃ駄目よ。だって駄目だもの」

「己れもそう思うがのう」 


 九郎も所在無さそうにげんなりと云うが、利悟はあくまで主張する。


「拙者悪くないもん! ちゃんとしたお上の仕事なんだって! っていうか九郎の普段の所業が悪いんじゃないのかこれ!」

「それはまあ」

「そうだけど」


 石燕に引っ張られて次々と高そうな現金物品を渡されていく九郎を弟子二人は哀れに見るのであった。


「いいのだよ九郎君。この薄ら高級な掛け軸とかも質に替えてきなさい。子興、明日から少し切り詰めて生活するけど九郎君を信じているから納得してくれるよね……」

「押し付けるな! そんなにいらぬだろこれ!」

「土地の権利所まで持っていくのかね……? いいよ、九郎君を信じてるからね……!」

「どの末期なタカリだ己れは!」


 渾身の援助行為に、さしもの九郎も罪悪感で断り続ける羽目になっている……。





 *****





 町奉行所の同心、菅山利悟が九郎に捜査協力を頼んでいる事件は品川、高輪付近で近頃起きているものであった。

 品川と言うと古くから港で栄えた土地で、江戸から一番近い東海道の宿場町としても賑わっている。江戸近郊は埋め立てにより浅瀬が多く、大型の船は出入りできないのでここの港で小型船に積み荷を乗り換えて運ぶ。

 品川駅、と云うものは当時は海の船駅であったのだ。

 飯盛旅籠や色街も多くあるので江戸市中の者が、


「ちょいと足を伸ばして……」


 訪れることも珍しくない。

 さて……。

 その品川でスリの事件が横行しているので利悟が解決に乗り出した。

 と、云うのも品川は町奉行所が管理する市中の一番外側にある為になかなか目が行き届かず、上司や他の者も動きが鈍かったので彼が一人であたることになったのである。なにせ、スリと云うものは現行犯で逮捕しなければそうそう見つかるものでもないので捜査が面倒なのだ。

 厄介事を押し付けられたような形だが、利悟の方は乗り気であった。

 品川へ向かう道すがらに二人は会話をしている。


「そのスリってのが目撃証言によるとどうも子供が集団でやってるみたいでさあ」

「うっわ」

「違うよ? なんでそんな目で拙者を見るんだ。ともかく、下手に悪事に染まって子供が道を踏み外す前にとっ捕まえて更生させないと」

「稚児趣味の男の発言というだけで立派さが薄れるから不思議だ」

「性癖はいま関係ないだろ! ……たかがスリでも捕まり続ければ死罪だし、下手に他の悪党に目を付けられたら悲惨な目に合うから」


 利悟は真面目な顔で云う。

 子供好きな彼だが、それ故に江戸の子供に関わる事件には解決の為に全力を尽くす心構えだ。実際に、スリは見つかった際に指を切り落とされたりと残虐な目に合うことも多いので心配しているのである。

 九郎は懐に手を入れながら頷いて、


「ふむ……まあ、良いが。約束は守れよ」

「解決したら再試合かあ……正直九郎は頭おかしい疾さだからあんまり戦いたくないんだけど」

「己れの面子を取り戻さなくてはな」


 九郎は以前に利悟に剣術試合で負けた実績を晴らす為に再試合を条件で手伝っているのであった。

 そして二人は海沿いに東海道を進み、品川に辿り着いた。

 海岸線にきっちりと店が立ち並び、行き交う人へ客引きの声を掛けている。宿場町だけあって雑多に人が行き交っていて船から降りた水夫や商人なども足を止めて茶を飲んだりしていた。

 九郎もひとまず店の外に座席を置いてある茶屋で座り、冷酒と香の物を注文した。料金は勿論自分の財布から出す。石燕から借りた金は使わずに。

 利悟は勤務中だからか茶にして塗笠を外し、日差しに目を細めながら手で扇いだ。


「暑いなあ……あとなんか子供の姿が少なくて呼吸がしづらい」

「何だその気色悪い好気性は」

「こう、つまりさ、例えば女児って足の間とか両脇とか首筋とかあるじゃん? その隙間を通って撫でた風が拙者の方へ流れてきてると思うと空気も美味しく感じられるわけ」

「……のう、いつだ? いつ死ぬのだ?」

「死を求められてる!?」


 純粋に殺意を感じる瞳で見られて利悟は総毛立つ感覚を覚えて九郎から離れた。

 変態の性癖は度し難い。実際に手は出さないのがマシではなるものの、思考犯罪として取り締まられそうな男である。

 しかしそれにしても、確かに子供が出歩くのを見かけない。むしろ、品川に入って店などの者から九郎の方をじろじろと見られる始末である。スリの囮調査とだけあって刀は利悟に預けているので町人風の格好だ。

 冷酒を持ってきた、前掛けをつけている娘に九郎は向き直った。推定年齢は十七ぐらいだろうか。利悟の興味範囲外だ。

 

「はい、お客さん」

「ありがとよ。ところでちょいと聞くが、どうも品川に入ってあちこちから見られてるような気がするのだが……」

 

 すると娘は周囲を見回して、九郎に顔を寄せて云う。


「ここのところね、子供のスリが居るってんで土地の者は皆勘違いされないように子供を外に出さないようにしてるんだよ」

「ほう」

「どうも見たことの無い子供がやってるからここらの子供じゃないんだけど……嫌だねえ」

「まったくだ。己れがそうだと思われてもな。この通り金には困っておらぬのに」


 そう言って九郎は笑いながら娘に一分銀を握らせた。無論、自分の金だ。石燕の金は使わない。

 

「こんなに……あはは、お冷酒もう一本つけてきますね~」


 嬉しそうに娘はそれを前掛けの小銭入れに仕舞いこんで、少し高い声音で言いながら店に戻っていった。

 利悟は感心したように、


「羽振りが良いなあ」

「これでも収入源はあれこれあるのだ。蕎麦屋の報酬や助屋の礼金、版元の日雇い銭に鹿屋の助言料など……良いか、石燕からの小遣いで生きているわけではないのだからな」

「気にしてるんだやっぱり……あ、でも年増先生と料亭や酒屋行ったら支払いは全部彼女持ちじゃない?」

「……」

「あと度々高級な酒とつまみを買って来て九郎のところに差し入れに来てるんじゃなかった?」

「……」

「洗濯とか部屋の掃除とかもたまにしてもらってたり」

「よし、その話題は無しにしよう」


 九郎は手のひらを向けて話を遮った。顔はあさっての方向を睨み現実逃避している。

 ごく自然に石燕から与えられまくっている生活に気付いたのかもしれない。

 そもそも九郎は一人暮らししていたらクルアハが世話に来たり、魔王城ではイモータルが世話をしたりと誰かに生活を助けられ慣れているのだ。

 なので当然の様に石燕──だけでなくお房やお八からもだが──に扶養される現状を受け入れていた。

 

「しかし己れはもう九十五なのだから老齢で家族に扶養してもらうのは当然である筈で……」


 ぶつぶつと自己弁護を口にして、とりあえず冷酒を一気に飲み干した。酒臭い息を吐いて、香の物をぽりりと齧って頭を振る。

 

(深く考えないようにしよう)


 思考を放棄した。周囲の印象操作はやってできない事はないが、面倒なのと工作に金をかけると「ヒモった金をばら撒いて女との縁を切ろうとしている」などと云う噂でよりクソやばしな状況を招きかねない。

 とりあえず今できることは早く事件を終わらせて石燕に金を返すことだ。

 ここで迂闊に金と一緒に土産を渡すと「借りた金でのパチンコで儲けたのでついでに景品も持ってきた」みたいな情景が浮かんで悩ましいところであるが。


(石燕は悪い男に騙されなければいいが……)


 駄目な男に貢ぎまくる石燕の姿を幻視して九郎は心配した。

 とりあえず二杯目の酒も一気に飲んだ。今日は日差しが強く喉が渇いている。

 九郎の考えが一段落したと見た利悟が云う。 


「さて、段取りをもう一度説明しておこう。金持ちで警戒が薄そうなふりをした九郎が、スリを誘い出す。スられたら拙者が犯人を尾行。九郎もできれば合流。根城を見つけ出して一網打尽……と」

「わかった」

「それじゃあ行こう──悪い子にはお仕置きしないといけないなあげへへ」


 九郎は棒を持って近くに寄ってきた男を呼び込んで利悟を指さした。


「ああ、番所の者か。こいつだ。頼んだぞ」

「出発しようって言ってるのに連行を促さないでくれ!」




 *****




 品川、御殿山は桜の名所として江戸の庶民に親しまれているが、高台から江戸湊が綺麗に見渡せるので、春以外の季節でも多くの見物客が集まる場所であった。

 東海道を上がってきた旅人や船旅をしてきた者などもここで一度江戸を見下ろして景色を楽しむ為に、人の出入りが多い。

 九郎はそこにやってきている。道の真ん中を歩いていた途中に、不意に立ち止まった。


「ふう。暑い。こう暑いと小判で汗を拭くに限るな」


 懐から取り出した財布からおもむろに小判を出して額を拭う。

 そして更に小判を三枚に増やして片手で持ちながら、


「暑い暑い」


 と、呟き団扇のように扇いだ。

 

「おっと、つい胸元から金の延べ棒が落ちてしまった」


 ごん、と音を立てて襟元から落ちたインゴッドが地面に叩きつけられた。

 早足で後ろから塗笠の侍が近づいてきて口元を手で隠しながら焦った声で確認する。


「金持ちっぽい演技ってそれ!?」

「できる範囲では全力を尽くしたな……」

「どこの世界に胸元から金の延べ棒を落とす金持ちが居るんだ!?」

「他にも金の延べ棒を漬物石にしたり文鎮にしたりドアストッパーにしたりする豪華な利用法があるが」

「君に金持ちを期待したのが間違いだった気がする!」

「じゃあどうやって延べ棒使って金持ちらしさを出すのだ。こんなもん渡された己れの身にもなってみろ」

「その場で返せよ!」


 言い争いをする二人に、呆れたような声が掛かった。


「あんれ? 九郎のあんちゃんじゃねーか。何してんだこんなとこで」

「む? お主……」


 九郎が顔をあげると、だるだるで動きやすい様に膝上で破っている着流しを体に巻きつけている、額を軽く出す髪型に簡単に結っている少女が腰に手を当てて覗きこんでいた。

 顔つきと胸のぺたり具合は非常に似ている者が居るが、服装で判断して云う。


「お七か。お主こそ何故ここに」

「観光。ま、あと適当にあちこち移り住んでるんだぜ」


 無宿人少女のお七はにやにやと笑ったままそう応えた。

 ひょんなことから出会った、お八とよく似た彼女だがまだ江戸で生活をしているようだ。しかし、


「……お主、この辺りでスリをしておらぬか?」

「んん? いいや、別に。おいおい何だその疑わしげな目は。妙な濡れ衣着せるとお七ちゃん泣いちゃうぜ?」

「ぬう」

「だぁからしてねえって。するんなら賽銭泥棒でもしたほうが楽でいいっつーか」

「ちょ、ちょいちょい九郎」


 お七がここ最近騒がれているスリではないかと疑ってみた──前科があるためだ──のだが、彼女は飄々とした顔で否定している。

 そんなやりとりの最中に利悟が割り込んできて、ちらちらとお七を見ながら九郎に尋ねた。


「このお八ちゃんに似た子は?」

「ああ。なんというか……他人の空似だがまあ名前的に姉のような」

「姉。姉かあ……年は? 年は何歳なの?」

「知らん」

 

 利悟は腕を組んで難しげに考える。

 お八は十四、いや今年で十五になる利悟からすればぎりぎりの境界線に位置する年齢の少女だ。胸は潔いペタさなのは大変評価に値するが。

 それより姉となると年齢が上の可能性があり対象外となるのだが明確に年齢がわかっていなければ……

 覗き見る。お七は団子の串を咥えながら訝しげに睨んでいる。呉服屋の娘だけあってしっかり着こなしているお八に比べて非常にけしからん服の纏い方をしていてモラルが疑われる。主に注視している利悟の。

 合わせを雑にして帯を簡単に結んでいる着流しはずれればヘソまで見えかけているし、草鞋を履いた足元は膝まで見えている。


「──よし、まあ特別に認めてあげようじゃないかお嬢さん。君は運が良い。さあ、どこからでもかかってきなさい」

「九郎。お前の友達って」

「[電撃符]」

「い゛ーッ!」


 爽やかな顔で上から目線評価を下した利悟に軽く引いたお七が何かを言う前に、九郎は術符フォルダから黄色の札を取り出して利悟の肝臓のあたりに触れさせた。

 小さく電流火花が飛び散り利悟の内蔵全てに釘をねじ込まれたような痛みが走って、眼球の水晶体が沸騰しそうなぐらい熱さを感じ地面に倒れ伏した。電撃のショックで体が小刻みに動いている。

 

「お主も一人で生きるに、こう云う変態には気をつけるのだぞ」

「そりゃわかったけど……」


 焦げた匂いのする利悟を足の先でつつきながらお七は頷いた。

 ひとまず無益な怪我から彼が回復するまでに、道の端に引っ張って行きお七にスリ調査のことを説明した。

 彼女は得意気な顔をしながら指を振る。


「甘いぜ。こういうのはスられやすい相手を見極めて狙ってくるもんだ。犯人が子供なら尚更な」

「ほう……」

「ちょっとあたしに財布を貸してみな。手本を見せてやるからよ」

「ふむ。では頼んだぞ」


 そう言って九郎は財布をお七に手渡すと、彼女は軽く九郎に見ているようにと手配せして道を歩き出した。

 ゆっくりと自然体で歩いて離れていく。

 九郎がお七の周りにスリが寄ってこないか広く見渡し確認していると、よろよろと利悟が顔を上げて告げた。


「……財布、持ち逃げされるんじゃないの?」

「……はっ」


 お七を見ると──足早に曲がり角へ向かっていった。

 石燕から借りた金が入っている財布だ。うっかり知り合いだからと渡してしまったが、元々非合法な稼ぎをして生活している娘なのである。

 金を返す時に釈明する光景が浮かぶ。『すまんが女に騙されて金を少し失ってしまって……』想像の石燕が儚く微笑んだ。


「逃すか」


 九郎は凄まじい速度で追いかけまくって、なんとかお七を捕まえるのであった……。




 ***** 




 その後も暫く九郎と利悟は捜査を続け──やがてついに窃盗犯と思しき子供を見つけた。

 子供は二人組だった。

 商人らしい恰幅の良い男に片方の少女がぶつかると転んで倒れる。それをもう片方の兄らしい子供が謝って、泥だらけの着物を着た妹がぶつかった相手の着物を軽く払って頭を下げて離れていく。

 その一瞬で財布を抜き取っているのを九郎たちは目撃した。


「……」

「提案しといてなんだけど囮作戦意味なかったね」

「気分を害してまで石燕に金を借りた怒りは解決後にお主にぶつけよう」

「くそう」


 無常感溢れる声を出す利悟から先行して九郎が進む。


「己れが……ええと天狗の妖術で姿を消して追いかけるからお主は見つかりそうなら距離をおけよ」

「九郎の姿が薄れて消えた。うわ、いいなあいいなあ」

「お主に貸したら死ぬほど碌な使い方をせぬ道具だよなあ」


 隠形符で姿を消して九郎は足早に追いかけた。

 光の波長を操り、意識しなければ殆ど視認することが不可能になる光属性の術符だ。スリ二人の後ろにぴったりとついても気づかれもしない。

 二人は暫く進むと街道を外れて森に入り、抜き取った財布の中身を確認していた。

 九郎も背後から覗き込んだが、確認と云うのも中身を数えて嬉しそうにするでもなく、中に金の入った財布だと云うことだけを調べて暗い顔つきのまま少年は財布の紐を綴じた。

 

(はて……)


 盗みが成功したと云うにはあまりに気鬱な様子だったので九郎は首を傾げる。

 そのまま二人は猟師町の外れにある小さなあばら屋へ向かっていった。雑木林にぽつりと立っている箱のような家で、廃屋のようにも見える。

 おずおずと中に入る兄妹の隙間を抜けて九郎も内部へ侵入した。二人が入ると入り口が開かぬように棒が立てかけられる。


 中は囲炉裏が置かれていて一間のみの、山小屋めいた作りであった。そこに髭面で右手の先が欠損している蓬髪の男と、白髪交じりな中年の女が不機嫌そうに酒を食らっている。彼の視線の先で、また別の少年二人と少女が一人、砂の詰まった壺に指を入れて真探まさぐっていた。

 男、[螻蛄けら]の権左と云う名の知られた悪党であった。

 元は若狭の生まれでスリや時には他の盗賊の押し込みの手伝いを行なっていた凶賊であるが、ある時に手首を切り落とされて自分で働かなくなって、同業の女と転々としていた。螻蛄とは、隙間でも潜り込んで財布を奪う技術からついた渾名である。

 それ以降は農村などから買ったり攫ったりされた子供を集め、己が昔に得意としていたスリの技術を教えて働かせその上がりを奪って生活している。

 手下とした子供らには、お前らは親に売られただの、悪事をしてはもはやまともに生活できずに自分に従わねばならないだのと、暴力とともに教えこんで服従させている。

 子供の、背が低く人を油断させ安く、手指の関節が柔らかな頃から訓練すればすぐに上達するものである。砂壺の中でも自在に指を動かす鍛錬もそのためだ。

 しかしスリなどと云う少額でリスクのある稼ぎを行わせるのが真の目的ではない。

 悪事に慣れて成長すれば、まともに働くこともできない悪党としてしか生きていけない。そして手癖が悪く度胸もついた悪事に躊躇いを持たない部下になるのである。

 権左は盗賊団の首領になるべく、子供の時分から教育させているのである。気長だが、完成すれば繋がりが深い一味になる。


「けえって来たか」


 権左が促すと、九郎と共に家に入った少年はおずおずと彼に財布を差し出す。

 中には小判こそ入っていないが、一分銀や二朱銀がじゃらじゃらと入っていて目の前に散らばす。

 男は睨めつけるように少年を見て、


「中から抜かなかったろうな」


 と、言われると二人は怯えてひたすら頷く。

 軽く舌打ちをして権左は、


「てめえらみたいな身寄りもねえガキが買い物できる店なんざ何処にもねえがな。それにしても少ねえ。誰が飯を食わせてると思ってるんだ。野垂れ死にするしかねえクソガキが」

「まあ、あたしだけど」

「飯炊きぐれえしかできねえババアは引っ込んでろ!」

「失礼だねえ」

 

 権左の隣にいた女が肩をすくめる。元は同業とはいえ、今ではすっかり何もすることもなく、ただ権左の計画に一枚噛んでいるだけで生活しているのだ。

 残っている、分厚いもぐらの手のような左手を伸ばして少女の方を掴み寄せる。


「ちゃんと金持ちを狙ってるのか? ええっ? おまんまが食える分稼げねえと遊郭に売りつけるぞ。お前の代わりなんざ幾らでもいるんだ」

「ひぅ……っ」

「体が出来上がるなら、そっちの方も鍛えてみるか? ババアよりはましだろうよ」


 怯える少女の襟に手を突っ込みながら下卑た笑みで云う男に、九郎は嫌悪感を覚える。

 それにどうも、家の外からとてつもない殺気を感じる。怒りの吐息がわずかに聞こえた。

 窃盗団であることは確定したのだ。これ以上の調査は必要あるまい。

 九郎は先程から仕込んでいた縄を引っ張った。


「があっ!? 縄が……!?」

「なんだいこりゃあ!」

  

 こっそりと先程から権左と女の周りに透明化した取り縄を仕込んでおいたのである。

 それは九郎が引くと同時に二人を締めあげて引き倒した。


「入れ」


 透明化を解除して九郎は縄を持ったまま入り口を閉ざしていた棒を蹴り飛ばすと、大きく音を立てて外に居た利悟が突入してきた。


「子供の味方、町方同心の菅山利悟見ッ参! 身寄りのない子供を使って悪事の手先にしようなんざ言語道断だ虫けら共が! 鈴ヶ森に素っ首並べてやるから大人しく連行されろ!」

「大人しくする理由が一切ねえじゃねえかそれ!」

「黙れ」


 利悟は懐から取り出した十手で、座りながら叫んだ権左の鼻っ柱を叩き潰した。

 鼻血を吹き出して仰向けに倒れる。胸を踏みつけて見下ろしながら冷たい目で云う。


「お前の様な百害あって一利ない悪党は直ちに死ぬべきだが、裁判と云う人間らしい扱いにしてやるだけ感謝しろ。だがいいかよく聞けよ、子供に害をなして死んだ奴は地獄でケツから溶けた鉛を流し込まれて魔羅に釘を打ち込まれる刑罰を受ける。お前がそうなる。覚悟して死ね」

「……うむ、お主がよく石燕から言われてる脅し文句だよなそれ」

「さあ子供達! 済まないが一応付いてきてくれないか! 大丈夫、大岡様にはちゃんと拙者が弁護するから!」


 利悟が爽やかに呼びかけるが、どうも子供らの反応は薄い。

 虚ろな目のまま、戸惑っているようだ。

 殴り倒された権左が卑屈な笑いをこぼしながら、利悟を仰ぎ見て云う。


「へ、へへへ。お侍の旦那は俺を一利もねえとは云うけどよ、そのガキ共を育ててたのは俺なんだぜ?」


 続けて、


「スリ以外何もできるわけでなし、帰る家も無いガキを曲がりなりにも食わせてたんだ。俺から助けたところで行くあてもなくおっ死ぬだろうよ! 糞が! それともテメエが面倒見るのか!?」

「……確かに。三一さんぴんな拙者が面倒を見れるわけではないな。多分まわりにも止められる」

「へっ口だけの子供の味方がよ」


 利悟は嘲る権左を見下ろして朗々と告げる。


「番町歩兵屯所。小川町、北川馬子之丞殿の屋敷。御茶ノ水、斉藤左源太殿の屋敷。富沢町、陶器問屋。坂町、茶屋[鈴屋]。通旅駕町、茶屋。

新乗物町、針問屋。堀江町、飯屋[鱈腹]。小伝馬町、千代田稲荷神社。紺屋町一丁目、反物屋[中崎屋]。西河岸町、船宿[木原屋]。左内町、乾物屋[高垣や]。

青物町、野菜問屋。元大工町、鳶のお頭。新右衛門町、茶問屋[川島屋]。因幡町、薩摩交易商[鹿屋]。同二町、呉服屋[藍屋]。滝山町、飯屋。

加賀町、団子屋。新橋西川町、湯屋。愛宕山下車坂町、茶屋。牛込神楽坂、薬問屋。月桂寺。下谷広小路池之端仲町、船宿。大久寺。山崎町細工物問屋[舟や]……」


「な、なんだ。何を言ってやがる!」


 利悟は狼狽した権左にきっぱりと告げる。


「拙者が調べた江戸の市中で十歳前後の子供を、丁稚か奉公で預かれて更にそれなりに信用のある店や武家、寺社の数々だ。これ以外にも百は言えるぞ」

「な、な」

「お前が勝手に子供の未来を悪くするな!」


 言葉の詰まった権左を利悟は再び蹴り潰した。

 彼は町方としてあちこちに巡邏をし、月ごとに場所を変えて見回り、非番の日でも子供の為になることを考えていた。

 稚児趣味と罵られ塩を巻かれて番所に突き出されても頭を下げつつ、様々な店舗などに聞いて新たな子供店員が居ないかと確認していた彼の情報網ならば身寄りの無い子供を働かせる場所を知っているのは当然であった。

 九郎も多少は就職先の面倒を見たりもするが、子供特化で知る利悟の知識に唖然とする。

 彼は振り返り、ひとかたまりになって部屋の隅に居た子供合計五人の前で屈んで目線を下げて、快活に云う。


「そして胸を張れ世界の宝達! 君たちはちゃんと必要とされる場所があるんだ! いいか」


 利悟は安心させるように笑いながら一人ひとり、肩を手で軽く叩いた。


「これからちゃんとした大人に生き方を学びなさい。しんどくても正しい道を行けばきっと笑えるから、その時はお兄さんに笑顔を見せてくれよ! 十六ぐらいまでに!」


 すると──。

 子供達は、憑き物が落ちたように、相好を崩して……安堵したような顔を浮かべた。

 他に道もなく、スリだけを教えられて縛り付けられていたが──それが不幸だと思ってはいて、開放されたことを知ったのだろう。

 九郎は微笑みながら嬉しそうにしている利悟に声を掛けた。


「お主は人格としては悪いが、人の役に立つ変態なのだな」

「褒められている気がしない!?」

「これでも見直しておる。大したものだ」

 

 そして二人は、ひとまず権左とその女、それに子供達を連れて番所へ向かうのであった……。




 *****




 子供スリ事件は町奉行の裁きにより、前科もある[螻蛄]の権左は斬首、女は遠島が申し付けられて子供らは利悟が示した奉公先に他の担当の同心や名主に頼んで預からせてもらいに行くことになった。利悟では相手に警戒されるためである。

 それでも事件を解決させたと言うことで利悟は大岡忠相から褒められた。性癖は別として活躍はする同心として認められているのである。

 九郎も石燕に借りた金をきっちり返した。彼女も事件の顛末を酒の席で聞きながら、からかったことを謝罪して笑った。九郎も、噂はもはやどうしようもないことなので、ヒモではないが現状は変えようともせずに認める方針になったようだ。

 構ってくれる友人がいるだけで老人は嬉しくもあるのであった。偏屈を拗らせて孤立しても良いことは無い。

 さて。

 事件が解決して後日……。

 深川、清澄町にある[芝道場]。ここは同心与力や、その手下が主に鍛錬を行うことのできる大きな町道場である。

 そこで九郎と利悟が再戦で試合を行うことになった。

 さすがに仕事中の者は来ないが、やはり名の知れた者同士の勝負ということで非番の者や知り合いが集まっている。

 火盗改方同心の影兵衛も、赤子を抱いて見物に来ていた。それ以外にも九郎側のお房、石燕、子興に晃之介とその弟子も見に来ている。

 芝道場の師範──と言うより管理者にして浪人ながら小野派一刀流の名人である笹田孫六が審判に立っている。

 

(て、手加減はしなくてもいいんだよ……な!?)


 どこか背中に突き刺さるお房の視線を受けながら利悟は九郎を見る。

 勝敗は正直わからない。以前勝った時は直感が冴えて後の先を取れたが頭で理解できる速度ではなかった。

 だが、これまでに鍛えた剣術の腕は裏切らない。だからそれを出しきれば必ずしも勝てない相手は居ない筈だと思う程度には自信があったし、己の実力を卑下していなかった。

 

「双方、前へ」


 審判の言葉を受けて道場の中央へ出る。

 九郎の装備が以前と異なっていた。今度は二尺程の短い木剣を左手に、逆に六尺はある重厚な木剣を右手に持っている。

 彼の体よりも長い、明らかに不釣合いに見える木剣を床に擦らせもせずに軽く握っていた。


(二刀流……にしては変な組み合わせだ)


 極端な長さの二刀。晃之介の道場から借りてきたそれを持って、やや遠目の間合いで二人は立ち会った。


「一本勝負。始め」


 構える。

 利悟は汎用的な正眼の構え。

 一方で九郎は左手の小刀を逆手に持って前に出し、大剣は担ぐように構えた。

 道場に集まった誰もが見たことも無い構えだった──彼女以外は。

 鳥山石燕は腕を組みながら眼鏡を正して呟く。


「むう……あれは[万合手まんごうしゅ]の構え……!」

「知ってるの? 先生」

「そうだね。左手で構えた小刀を、線の動きで攻撃を止める盾と見なして防御に徹し右手の武器で打ち倒す構えだね。普通の盾より軽く機動性は増すが受け止めるのに正確な判断力が必要とされる。名前の通りよろずの攻撃を合わせて止める、反撃重視な技だ」

「へえ……有名な剣豪が考えたんです? 師匠」

「いや、南蛮で流行った決闘の構えにそれっぽい解説をしてみただけだよ。信じたかね?」

「……」


 弟子の二人は閉口した。

 中世ヨーロッパの決闘で使われた、防御用の短剣で左手を意味する[マンゴーシュ]を使った形に九郎の構えは似ていた。

 盾を構えた重歩兵のようでもある。すると右手に持った木剣は打ち下ろす槍の役目か。とにかく、防御を既に構えていることは知れた。

 相対する利悟は、九郎が逆手に構えた剣を見ながら、


(……何処に打ち込んでも止められる気がする。九郎は目もいいんだ)


 警戒する。じりじりと九郎の右側に回りこみながら隙を伺うが、以前の速度で一撃を加えに来た時と違って九郎はどっしりと構えている。

 それに既に担がれた長い木刀が不安だ。


(剣を振るには三動作。構え、振り上げ、下ろす。九郎の右手はもう振り上げてる上段にある。下手に間合いを詰めても撃ちこむのは相手が早い)


 利悟は攻略法を考えながら、呼吸を静かに摺り足で間合いを測っている。

 勝負の様子を見ている影兵衛がぽつりと呟く。


「いけねえな」


 隣の晃之介も同意した。


「ああ。九郎の策に嵌まり掛けているな」

「どういうことだぜ、師匠」

「九郎は俺と同じく、まともな剣士ではないということだ」

「常識で挑むと引っ掛けを食らっちまう。あの左手は防御の為じゃねえな。防御すると相手に思わせる為だ」


 影兵衛は口を笑みの形に作りながら云う。


「利悟は試合で勝とうとしてるが九郎は勝負で勝とうとしてる。だから九郎の防御ごと木刀で真っ二つにしてマジ瞬殺しようなんて思いもしねえのさ」

「いやそんな物騒なことを思うのはあんただけだと思うが」

「じゃあ兄ちゃん先生はどうするんだ? こう云う時」

「槍二本で延々間合いの外から攻撃するな」

「二人共えげつないなあ……」


 雨次が顔を歪めて師匠と切り裂き同心の攻略法に感想を言った。

 防御すると思わせる──その心理効果故に、利悟は自ら打ちにいけない。いや、行っても最悪相打ちに持ち込む自信はあったが、大上段から振り下ろされる木剣を食らえば死にかねない。相手の方が木剣が大きい分間合いは長いのだ。

 武士とはいえ太平の世で生まれ育った彼としては試合で死ぬ覚悟はしていない。むしろ生き残ること前提で影兵衛などとも試合をする時は立ちまわっていた。恥のためなら死ぬべきだという考えは利悟は持っていない。持っていたら稚児趣味を恥じて自刃しているだろう。

 ともあれ負けるつもりもない。

 

(長大な木剣を片手持ち……それが弱点だ。一撃を受け止めて絡めとり、剣を弾き飛ばせば勝ち……!) 


 一撃は重いだろうが木剣と木剣。受け止められぬ道理はない。 

 受ける力を覚悟して利悟は絶妙に、小刀の間合いの外で大刀が届く位置に踏み込んだ。

 九郎の手が上段から振り下ろされる。大気が唸る音を聞くより早く利悟は持つ木剣を頭上に構えて受け止めた。


(止め──!?)


 圧。

 木剣が打ち合ったまま──九郎は更に下に向けて剣を振り下ろす力を掛けた。

 利悟は対抗すべく力を込める──


「がっ……!?」


 圧力は収まらない。大木が倒れて来たのを押さえているような信じられない力が、九郎の持つ木剣からかかって利悟は足を踏ん張ったまま動けなくなった。

 影兵衛が己の額を軽く叩く。赤子が反応して、それを指であやしている。


「受け止めちまったか……考えてもみろよ、九郎の奴ぁひぐまみてぇな腕力してるんだぜ? それと力比べしてどうすんだ」

「木剣は普通の刀と違って反りも小さいからな……滑らせて受け流すこともできないだろう。そんな力加減を加えられるような状態でもないがな」

 

 それに、九郎の持つのは粘りのある木材を使用した特注の木剣であり、彼の剛力を使っても折れない。

 利悟の膝ががくがくと震え、頭上で受け止めていた刀は徐々に下がって既に利悟の肩にめり込み初めている。

 小枝のように持った刀に込められた力は如何ほどか。利悟は視界の先に居る少年が鬼に見えた。

 

「う、おおおお!!」


 気合の声を上げて少し押し返し、腰を入れて持ち上げる。

 九郎は少し感心した顔をして、しかしそれでも。


「意地悪は爺の特権でな」


 込められた力を倍増させて利悟を刀で床に押しつぶした。

 利悟の手は圧力に耐え切れずに刀を手放し、足は両膝をついて蹲るように床に座り込んだのである。


「勝負あり」


 九郎側を示す旗が審判から上げられて勝敗が決まった。

 力で圧倒して勝利した試合に一同は、


「おお……」


 と、溜め息が漏れるばかりであった。

 九郎が試合場から出るとお房が出迎えた。


「ほれ見ろ。勝ったぞ、ちゃんとな」

「うん。九郎は勝てるって信じてたもの。おめでとう……それにありがとうね、九郎」

「はっはっは。なに、己れも稚児趣味に負けたままではと思ってな」


 お房が背伸びして、九郎の頭を撫でてくるのでやらせるがままにして笑った。

 相力呪符の剛力という意地悪チートを使って勝利したものの、それぐらいのハンデは貰わねば専業剣士など相手にはしてられない。自分は鍛えて居ないのに相手は鍛えているというだけで前提条件が違うのだから。

 それに利悟の、晃之介や影兵衛と比べての実戦経験の差があったのだろう。何せ利悟もまだ二十三歳と伸び盛りで、物心ついてから実戦武術をやっていた晃之介や危険な戦いを自ら作って暴れる影兵衛がおかしいのである。 

 晃之介の云う通り、まともな剣士相手では利悟は江戸でも五指に入る腕前と若くして半端ではない強さなのだ。

 それでも、


「う、うぐうおおお……く、悔しい! 読み違えた……!」


 利悟は蹲ったまま涙交じりの声を出していた。

 これが試合だからまだ良かったのだが。

 実戦だったら九郎に押し切られ命は無かったのである。そう思えば、読みも心構えも完全に負けていたことを自覚して胸が張り裂けそうだった。

 負けるのは初めてではない。影兵衛と試合すると半分は負ける。昔から道場に通っていたのだから高弟子には何度も負けて鍛えてきた。

 だが、明らかに自分より体格が劣り、剣術の腕前も低い九郎に負けたのが堪えるのである。

 仕事で悪党相手に力を見ていたから侮ったわけではないが、剣術では利がある筈だったのに。

 故に悔しさをバネに利悟は、


「拙者のおかーさんになってくれそうな母性的で甘やかしてくれる幼女を探す旅に出るーッ!」


 走り去っていった。


「おい待て利悟! 莫迦かお前莫迦か!」

「戻ってこい稚児趣味!」

「寝言は寝て言え!」


 口々に観客らから逃避していった利悟に声が掛けられたが、男、聞かずにただ己の信じた道を行く。

 九郎はそれを見送りながら、


「……落ちた犬は棒で叩かねばな」


 そう、難しげな顔で呟いた。お房が覗きこんで云う。


「なんか九郎が悪い顔してるの」

「ははぁ九郎君さてはあれだね? あれをやるつもりだねふふふ判るよ私には判るとも」

「えっ!? 師匠、九郎っちが何するってんですか?」

「……ええと、稚児趣味同心を川に落として……棒で突付く?」

「そのままじゃないですか!」


 ともあれ九郎は一人、道場から別の場所へ向かうのであった。




 *****




 世の中に母性溢れる幼女は非実在存在なのか。

 そんな絶望感にくれつつ、痛む体を酷使して市中を駆けまわった同心利悟は、試合の後の夕暮れに自宅へ向かっていた。

 生憎とそのような彼にとって都合の良い娘は見つからなかった。

 それでも走り出したい負けから出た謎の欲求は満たされ、腹を空かせて家に戻る。

 食事の用意はできているだろう。認めたくないことだが、認めたくないことだが、重ねて云うが認めたくない相手と同居している。

 瑞葉。

 利悟にとっては妹のような存在である。それも幻想的に美化されたそれではなく、なるたけ会話したくない距離感の。

 九郎へ石燕が世話していることに関してああも言ったが、利悟に関しては炊事から洗濯掃除近所付き合い家庭菜園内職まで同居中の彼女にやらしている。というか勝手にやる。九郎との違いは利悟の金で生活させているというところだ。生活費を渡しておかねば瑞葉が自腹を切り出すので、その場合は確実に近所の美樹本同心の雷が落ちる。もしかしたら殺されるかもしれない。

 つまりはほぼ嫁のようなことをやらしているのだが利悟は気に入らない。


「だって大人の女だからなあ……」


 確実に駄目な判断基準を呟きながら玄関に手をかける。せめて年があと五歳下なら……などと考えている。

 長屋の部屋は行灯が付けられていて、食事の膳が帰宅を狙いすましたように用意されている。利悟の好物の浅蜊を入れた深川めしに、冷えても旨い大根の千切り味噌汁。若鮎の塩焼きもある。行灯には酒を入れた銚子がかかっていてぬるく燗にされていた。 

 しかし瑞葉の姿が見えない。利悟は見回すと、奥の障子が開いて座ったまま出迎えの言葉をかけてきた。


「と……利悟お兄ちゃん、お帰りっ♪」

「───」


 利悟は固まった。瑞葉は髪型を武家の少女風の、輪っかを作る稚児髷にして、固く晒しを巻いて小さくした胸を着ている小袖に詰めている。

 つまりは少女風の格好をした瑞葉ちゃん二十歳である。

 本人も可愛らしい笑顔を浮かべているのだが、若干無理があることは自覚していて頬がひくひくと動いていた。

 数秒経過して、 

 

「詐欺駄目絶対ー!!」


 利悟は叫んで再びダッシュで玄関から飛び出ていった。

 途端に瑞葉は顔を真赤にして、それでも変わらぬ冷静そうな表情だが頬だけは紅潮させて、


「やっぱり無理があったのでは」

「いや、結構効いてたと思うぞ」

「恥ずかしいです……」


 背後に隠れていて瑞葉を企画物ビデオのコスプレみたいな風にした九郎は感慨深そうに応えた。

 利悟にはヒモだの何だのと言われた借りとして真っ当な性癖に戻すべく、彼に惚れている瑞葉に助言して擬似ロリ系で攻めてみたのだが。

 大きなお世話だとは思うが、他に合法的な相手も居ないのだからそれならばくっついてから変わればよかろうという考えである。


「これからも時々やってみよ。諦めて受け入れたら狙い目だ」

「凄く恥ずかしいんです……」

「頑張れよ」


 顔を押さえてうつむく瑞葉である。全体的に無理をしているのがまた微妙にマニアックな可愛さがあるが。

 意中の相手の為に内助を尽くしてコスプレまでするが、しかしながらどうして男の趣味が悪いのだろうか。九郎はまあ人の好みに口を出すまいと、真面目な顔を赤くしてこれからを悩んでいる瑞葉を置いて家を出るのであった。

 一方で走り去った利悟は……。


「一瞬ドキっとしたあーッ!! 拙者としたことが擬似的なあれに……! くそっ! 稚児趣味失格じゃあないかっ!! うおおおおー!!」


 叫ぶ。利悟は自らの挟持の為に、叫んだ。


「ッッッせーぞくォらァ! 手前利悟ォ! うちの子が夜泣きしたらどうすんだボケがァ!」

「ぎゃあああ!!」


 影兵衛の長屋の近くを通った時に川に蹴り落とされたが。

 稚児趣味同心、苦難の日々は続く。耐えろ稚児趣味同心。走れ稚児趣味同心。正直ギリギリだぞ稚児趣味同心……。




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