72話『任侠の目にも涙/花火はありません』
──
花ヤ
火ク
もザ
あ皆
る殺
でし
よ祭
──
「……」
そう書かれたノボリを担いで店にやってきたのは、火盗改方所属の[切り裂き]同心、中山影兵衛であった。
相も変わらず髭をそった青ひげ公めいた凶悪殺人者顔をしている男は、九郎にそれを見せてにやりと笑う。
「……じゃ、行くか九郎」
「帰れ」
ちゃぶ台の向こう側で奇祭に勧誘してくるに九郎は短く返した。
影兵衛は蕎麦を運んできたお房から丼を受け取る。海苔の佃煮が上に載せられた蕎麦で、食ってる途中で溶かすと磯の香りと甘辛い味が汁に加わり中々に美味い。
「おうあんがとよ、嬢ちゃん。そうだ、ちょいとこの紙に短刀と指と……あと尻の絵でも描いといてくれるか?」
「十文でいいの」
「しっかりしてるねェ」
笑いながら蕎麦代に十文加えてちゃぶ台に置いた。
「で、九郎。手伝ってくれ。助屋なんだろ? な?」
「手伝うも何もお主の得意分野だろうが、それ」
半眼で悪人面を見ながら云う。
立てば唐竹座れば居合、歩く姿は刃仙人と誰が呼んだか称される、この殺人同心にとっては木っ端のやくざなどが束になっても死体の山を増やすだけだろう。
むしろ彼が単独での見回りを行うことが多いのは、現場での判断を自分のみで行えるのと仲間に標的の断末魔を奪われないようにする為だと言われている。
影兵衛は難しそうな顔をしながら、
「いやそれがな、先月から拙者殺さずの誓い? ってのやってるからよ。嫁が臨月だから験を担いでなあ」
「禁酒禁煙みたいに気軽にする誓いかそれ」
毎月誰かしら殺害していると云うのも凄まじい話であったが。
それが悪党ならば厄介なのだが、これで世のため人のためになっている同心の仕業なのだから世も末である。
影兵衛は箸を九郎に向けながら、
「これでも嫁が出来てから殺す数は減ってんだぜ? 峰打ちの方が難易度高いから、まあ強者の余裕って奴だな」
「難易度とかあるのか」
「おいおい九郎。まさか、峰打ちが単に刀の背でぶっ叩くだけとか思ってねえよな?」
「……」
思っていた。
影兵衛が座りながらいかに器用に、かつ気づかせずに抜き放ったのか刀を軽く見せた。
「いいか、峰打ちってのは刀を逆さに持つんじゃなく、見た目は普通に刃で振るうんだ。で、相手の体に当たる一瞬だけ翻して峰でぶっ叩いて戻す。相手は当然切られたと思うわけで心に衝撃を受けて気を失う……最初から逆さに持ってたら殴られる覚悟ができちまうからな」
「ほう、器用なものだな」
「案外やってみると楽しくてな……まあ、服を血でべっとり汚したらむっちゃんにすげえ怒られるのもちょっぴり理由だけどな」
「己れも一回相談を受けたぞ、それ。洗剤が無いからなあ、石鹸すら。一応塩と天日干しでなんとかする方法は教えたが、服も天然素材だから落とすのが面倒だ」
若い頃に覚えた技術は中々に忘れないもので、血の痕やルミノール反応、衣服に染み付く硝煙反応などを洗って消す方法は知っているのだが何せこの時代では服の質も違い溶剤も無いのが難点である。
「はい。出来たの」
お房が依頼された指定された絵を持って来た。さらさらと一発書きではあるが墨の濃淡で影までついていて、実に写実的である。
影兵衛は笑いながら受け取り、
「んで、皆殺し祭なんだけど名前に反して殺さねェようにすると手が足りねえから九郎に手伝って貰おうと思ってな」
「皆殺し祭はあるのか……ヤクザ?」
「おう」
影兵衛は蕎麦をずるずると啜って飲み込んでから、説明を続けた。
「ここの所大きなやくざ者の集まり二つが対立していてな、日中に短刀振り回して命取った取らねえのって騒ぎは毎日、夜になれば相手のシマに放火までしやがる。チンピラが殺し合おうがどうでもいいが、放火はいただけねえってことで奉行所と火盗改方の共同体制で片っ端からとっ捕まえに入るんだとよ」
「……はあ、仕方ない。知り合いでも巻き込まれれば事だからな。大火事になる前に手伝っておくか」
「そうこなくっちゃあ。へへっ実は我ながらちょいと不安だったからよう」
「ほう? 珍しいな」
相手が無数のやくざとはいえ、影兵衛の敵ではなさそうな気がした九郎は問い返す。
彼は冗談めかして大げさに肩を竦めて、
「だってよ、拙者みてェな人斬りがある日突然殺しを止めたらなんかやたら不幸な出来事が襲い掛かって、最悪な結末になりました……って物語じゃよくある話だろ」
「嫌な未来を予想するのう……相変わらず物語基準に考えおって」
「九郎……拙者が死んだら女房と子供は頼むぜ……」
「頼むな。縁起でもない」
わざとらしく言って、影兵衛は大笑し、蕎麦の残りを啜った。
尤も九郎にはどうあってもこの斬殺芸術家が死ぬなどそうありえない気がしたのであったが。
******
九郎と影兵衛は深川猿子橋を渡り、連れ込み宿や女郎屋が並ぶ岡場所となっている深川へ足を向けた。
性と食欲は直結するのか色街として以外でも、とりあえず精を付かせるような飯屋も多く見え、路上でも鰻やすっぽんを七輪で焼き売る商売が多い。
九郎も色には興味が無いものの、飯屋を探しに深川へは何度も来たことがある。
歩きながら人相を隠すために編み笠を被っている影兵衛から解説を受ける。
「今回のヤマは、奉行所がやくざの集まる場所を探ってガサ入れして、拙者ら火盗改は出回って片っ端からやくざをとっ捕まえて吐かせる役目だ。とにかく関係があろうが無かろうがやくざは捕まえて追放刑なりを受けさせる」
「強引な火盗改に相応しい捜査だのう」
「とりあえずそこらの番所には手先を配置してるからよ、逮捕して連れてきゃ本陣まで連行してくれるってわけよ。逮捕は同心か与力がやらねえといけねえけどな」
言いながら影兵衛は九郎にも何本か、捕縄を渡しておく。
時代劇やここでも九郎がよく行なっているのではあるものの、本来、同心の手先となっている岡っ引きなどには逮捕権は与えられていないのである。彼らの仕事は怪しいと思う相手の居場所を調べて、それを上司である同心に伝えるぐらいで手柄をあげることなどあまり無い。
九郎の場合は巻き込まれる上に上司や指示を出す同心が揃って変わり者なので、渋々働く羽目になるのではあったが。
「つーわけで、怪しい奴ぁがんがん引っ張って行くぞ。やくざ追放の街江戸と呼ばれるまでな」
「とは言うがな、どう基準に職質するのだ?」
「んなもん決まってんだろ。見りゃ判る」
「わからんではないが、例外も居るだろう」
確かにやくざ的雰囲気を持った者は目につくが、強面であったり刺青を彫っていたりは鳶職や、深川ならば木場の角乗りなど一般人でもあらくれた人間は多い。
それらを逮捕して追放刑に処するのはさすがに杜撰な捜査で責任問題に繋がる。
影兵衛は頷き、
「確かに、人は見た目じゃ判断しちゃいけねえな」
「うむ。例えば見た目も所業も完全に悪党なのに身分は同心で侍なお主とか」
「見た目は怠そうなガキなのにやってるこたぁヒモのやくざな九郎とかな」
「……」
「……」
しばし無言で顔を背けた。
「よし、喧嘩はやめとくか。嫁に心配掛けたくねえ」
「人間的成長をしたのう」
物々しい雰囲気になりかけたが、すぐに雲散して九郎はため息をついた。
人の親と為るのだからそうそう無駄な殺生ばかりしていても良い事はないと言うのに。
「で、話の続きだがよ。そこはしっかりやくざとそれ以外を判別する方法があるんだ」
「どういう?」
「まずは──特に抗争が起きてる今だが、絶対ぇ一人じゃ出歩かねえ。子分か兄弟引き連れて歩く。一人じゃ路地裏に引っ張り込まれてご臨終するからな」
「確かに……やくざはつるんでいる方が多い気はする」
「それともう一つ──っと、丁度いい。あそこの連中に試してみるぜ」
と、影兵衛が顎をしゃくって見せるのは、殺気立った顔つきをした三人組だった。
体格のいい三十半ば程の、懐に手を突っ込んだままの中年を後ろから二人の無頼が離れずに付いている。見た目で九割はやくざだと知れた。周りの町人たちも最近の騒ぎを知ってかやや遠巻きにしている。
影兵衛が愛想の良い笑顔のまま──九郎はその顔のまま一瞬で人を斬り殺すのを見たことがある──三人組に正面から近づいていく。手下と思える男の一人が前に出た。
影兵衛はお互いに攻撃を受けない位置で止まって声を掛けた。
「兄さん方。ちょいと良いかい?」
「なんだ、てめえ」
「いやいや、俺っちは別に怪しい者じゃありませんよぉ。ただちょいと尋ねたいんですが~」
そう言って手元からゆっくりと折り曲げられた紙を取り出して広げ、見せた。
それは先程お房に描かせた短刀の絵である。
「こいつぁなんて名前でしたっけ?」
「あぁん? [ヤッパ]がどうしたんだ?」
「九郎! こいつらやくざ確定だ! とっ捕まえろ!」
「判定それかよ!?」
思わず九郎も大声を出してツッコミを入れた。
影兵衛のやくざ判別法はまず見た目で一点、次に短刀の絵を見せて[ドス]と答えたら一点、[ヤッパ]と答えたら二点追加され、二点以上でやくざ確定である。気をつけよう。
凄く雑な気がしたが、
「ちぃ、こいつらイヌか!」
「上等だ! やっちまえ!」
相手も懐から取り出したヤッパを抜いて影兵衛に向ける。
九郎は近寄り彼の隣に並んで、鞘に入れたままのアカシック村雨キャリバーンⅢを担ぐように持った。
「やくざは基本知力が低いからな、これで充分判るんだぜ」
「そう云うものか」
「よっしゃ来いやあ! 昼間っから刃傷沙汰たぁふてえ野郎共だ! 九郎は逃さねえように頼むぜえ!」
そう言うと影兵衛も刀を抜いて、白刃をぎらりと光らせ、歯を見せる獰猛な笑みを向けた。
やくざの一人が腰だめに──既に誰かを刺した経験がある動きだ──短刀を構えて影兵衛に突っ込む。
「死にさらせや呆けええええ!!」
だがそれはあまりに軽率だ。
横薙ぎに払う刀の一撃が男の両腕と胸を一閃した。
刃を返す様子など、見ていた九郎にも確認できずにずんばらりと切ったように見えたが──打たれた、袖まくりをしていた腕に刃の背が食い込んだ痕のみを残して、やくざの一人は白目を剥いて倒れる。
失禁する音が僅かに聞こえた。影兵衛の刀には血もついていない、まさに一瞬以下の時間に行われた妙技と云えよう。
「まるで時代劇の殺陣だな……」
以前に見た番組の中で、上様に逆らった武士共が峰打ちを食らうか隠密に始末されるかを受け、峰打ちを食らって死んだふりをしたほうが得だと思っていたが実際に見ると切られた方はまさに死んだとしか本人も思っていない程に、恐怖の表情で気絶している。
痛みよりも、心が死を受け入れて意識を飛ばしたのだろう。
人体など薄紙の如く切り裂く彼は、体を切らずに相手の精神のみを切り捨てる術を使いこなしているのであった。
片手で刀を地面に向けたまま影兵衛は手招きして挑発する。
「さあさあどうした!? 仲間やられて放っておくのは任侠じゃねえな! まとめて掛かってきやがれ!」
「駄阿呆があああ!! 目にもの見せちゃるわあああ!!」
「兄貴!」
「兄貴! 俺達も行くぜぉらあああああ!!」
「なに!?」
叫びと同時に勢い良く通りの左右、女郎屋の二階から褌一丁のやくざが数人まとめて抜き放ったドスを構え参戦する。
これは筆者の経験談だが、やくざという存在は飛び降りて襲ってくるのだ!
任侠空中殺法と同時に対面していた二人も影兵衛に──火盗改同心に容赦なく斬りかかる。もはややくざと公儀の戦争の様相である。
九郎は担いでいた刀を抜き放ち、その腹を空に向けた。
「アカシック村雨キャリバーン発動」
輝く。
陽光を反射させた光よりも遥かに巨大な閃光が、剣の刃と背が展開されたAMC-3から膨れ上がり、空中やくざが重力の楔に引かれて地上に落ちるよりも先に一人残らず打撃力を与えて通りに四散させて吹き飛ばした。
続けて、ど、と云う音が二つ聞こえて九郎が視線を正面に戻すと陸やくざの二人を影兵衛が峰打ちで仕留めた所であった。
「なんでぇ九郎。一気にやっちまったらつまんねえだろ」
「いや、己れも実際不意打ちに反応してしまってのう」
「あいつら勢い込めて飛んだはいいけど、地面に落ちたら間違いなく足を挫いてたよな」
「年を取ると中々高いところから飛び降り遊びはせぬからなあ」
子供ぐらい体重が軽く関節が柔らかければ綺麗に降りられるが、中年ではなかなか難しい。
自衛隊の空挺部隊などは宴会芸で酒を飲んでビルの五階から飛び降りて走って戻ってくる芸が鉄板だと云うが。
ともあれ影兵衛に峰打ちを喰らい、また九郎の凄い光の爆発に吹き飛ばされて一人残らず気絶したやくざを見回し、凄い光に足を止めていた団駕籠──色街用の駕籠の俗称である──の男に、
「おい。ちょっと番屋行ってきて人呼んできてくれ。やくざとっ捕まえたつったらわかるからよ」
「へ、へえ」
恐れた様子で頷き、慌てて駆け出す男。
「よっしこんな感じで次々にしょっ引いて行こうぜ。目標は[五十五人逮捕]の旦那だな」
「いつ聞いても半端ない逮捕数だのう。一回の事件でそれだろう?」
「ああ。瀬尾の旦那はマジ凄ぇからな。町中で何気なく声を掛けただけで化けた悪党共を引っ掛けて行く上に、まず間違いが無ぇ。拙者が悪人側なら絶対顔を合わせねぇようにするぜ」
と、彼にしては珍しく少なからず敬意を持っているようで、瀬尾同心を褒め称えた。
以前に町方、火盗改に恨みを持つ複数の凶賊が集った大騒動が起きた際に最も多くの賊を検挙したのが今の火盗改方筆頭同心・瀬尾彦宣であり、彼とその手先が五十五人を逮捕したのは知らぬ同心、与力は居ない。身分故に昇進などは無いが、老中にも名が届く活躍ぶりで特別の手当を貰った程である。
「ま、とにかく何匹かとっ捕まえながら歩いてればそのうち向こうから蛾みてぇに突っかかって来るだろ。知能が低いから」
「やくざに怒られるぞ、お主」
「はあ~……死ぬほど怒らせたらやくざを超えた超やくざ人とかに変身しねぇかなあ」
「したらどうする」
「指さして笑う」
「己れもそうしよう」
散らばったやくざを一纏めに片付けながらそんな益体もない事を言い合う二人であった。
この日は手足が散らばっているわけではないので気分は楽である。まあ影兵衛に峰打ちを食らった一人はショックで心停止していたので九郎が電撃符を使った後に胸を何度か殴って蘇らせたのであったが。
番所の者達に引き渡して九郎と影兵衛はまた深川をうろつき回る。
一町も歩けば次のやくざが見つかるようなやくざ密度であり退屈はしない状況だ。
別の組と抗争中で、更に公儀の者が出回っているからこそやくざも引っ込んでいては居られない意識があるのだ。
ここで息を潜めていては、
「お上のイヌに怯えて、俺達との喧嘩を降りやがった」
と、相手にすぐに悪評が撒き散らされシノギを削られる。
電話やインターネットがない社会だからこそ口コミの噂はすぐに広まり、それを撤回するにはその場で喧嘩を始めるしか無い。
実際の江戸でもやくざ、鳶職などが数十人集まり怪我人が続出し、奉行所が出張る羽目になった事もある。
ともあれやくざと云うものは、どうも引っかかりやすい純朴なところがあるらしい。
影兵衛が近寄り指の絵を見せると、
「[エンコ]がどうした」
「よし、逮捕な」
と、言った具合である。
すぐに専門用語を使って判別されてしまうのはやくざ本能とでも云うものであろうか……。
時には別の強面集団にもあたる事があった。
尻の絵を見せるなり、
「[けっごんす]じゃっど」
「[じごんす]がどげんしたち?」
「ああ、影兵衛。これは関係ない薩摩人の方々だ」
なお、[ケツ]がアウトである。薩摩の民と別れて九郎と影兵衛は次々にやくざを捕まえる。
「酒に女に飯にやくざ。ここには娯楽の全てがあるが、少なくとも溺れりゃ頭ァ悪くなる」
「そう云うものか」
「よし、九郎。今度はこの宿に踏み込むぜ」
「殆ど営業妨害だのう」
「世間の治安の方が大事だろ……あっ今拙者いいこと言った。後でおかしらに証言してくれよ」
「……」
宿改めと云う、宿として登録してある店では役人が調べても構わない法もあった。これにより当時の宿では身元が確かでなかったり、予約に無い怪しい客は取らないところが多い。
影兵衛は入るなり女将に十手を突きつけ、
「ここで商売を続けてぇなら素直に白状するんだな。何処に居る?」
「ひっ……に、二階の奥の間に……」
「よぉし手前ら動くな。動いたら野郎共に知らせに行ったと見なして同罪だ。なぁにすぐに終わらせるからよ」
「……どう見ても己れら、別の組のカチコミだよなあ」
十手でぎりぎりの節度を保っているのだろうか。
疑問に思いつつも階段を上がり、女郎屋の奥部屋へ向かう。
影兵衛は鼻歌交じりにふすまを開け放ち、
「お待たせしました~ヤクザ皆殺し祭りの始まりでっすぅ」
「───逃げろお!」
影兵衛が名乗った瞬間、食っていたと思しき酒と肴の乗せられた膳を投げつけて三人同時に窓へ向かった。
風船が弾けたような音。
刃を返していない影兵衛の斬撃が斜め十字に膳を四等分して暴威の剣風で吹き飛ばす。
「背中を見せるなんざ任侠の風上にも置けねえぜ!」
接近して逆袈裟に一太刀。背に受けた熱い衝撃に絶息する声を上げて一人が倒れた。
「仲間の仇を討たねえのかよ?」
続けて窓に足を掛けていた男に、顔を掠めて縦に払う。
目の真横を通る銀の刃と、鎖骨がへし折れる衝撃。冷たい感覚が電撃のように走り、足をもつらせて転げて屋根を滑り落ちていった。
「ちっ……もう一人は足が速ぇな」
「己れが行ってくる」
九郎が跳躍して屋根伝いに逃げる男へ跳べば四丈、五丈と軽く空中を飛んで更に屋根を蹴る勢いで加速する。疫病風装の飛行能力を不自然無い程度に使った跳びまわりであるが、それにしても軽業師めいた早さだ。
あっという間にやくざ者の襟首を掴むと、
「うがあああ!」
と、叫んで抜き放ったドスを振り回したが九郎はアカシック村雨キャリバーンⅢの柄を脾腹に殴り突いた。
「ぐむ……」
腹を抑えて倒れ、唾を吐き散らして苦しむが気絶はしていない。
「むう。影兵衛のように鮮やかにはいかぬから……まあ逃げたのが悪かったな」
九郎は倒れたやくざの首に手を回して頸動脈を締めあげ、その意識を奪うのであった。
「おう九郎。ご苦労さん」
「追いかける分にはお主でも何とかなりそうではあるがな」
「おじさんをあまり高いところに走らせるなって」
酷く鬱血した顔で沈黙したやくざを担いで屋根を軽々歩く捕物に、一般の者は通りから見上げてぽかんとして裏路地から見ていたやくざ者は何事かを伝えに、走りだすのであった。
影兵衛が指を向けて、
「おーい九郎。あそこで見てた怪しい奴が逃げたから捕まえて来てくれー」
「仕方ないのう」
返事をしてひょいと男を影兵衛の方へ投げつけ、九郎はひらりと飛び降りて地面に降り立ちそのまま走り出した。
一飛びでするりと地上を浮いて進み、足跡を地面に残す凄まじい踏み足で方向転換をする。逃げていた背中は小さくなっていたが地面、壁を蹴り風を切って移動しすぐさま追い付いた。
万力のような九郎の腕力で肩を掴まれ、言い訳がましく怒鳴る。
「ここは見逃す場面じゃないの!?」
「いや知らん。文句は定石好きなのに外したがる影兵衛に言え」
九郎はそう言って、捕縄を手早く両手と首に回してふん縛るのであった。
******
地方からの人口の流入と広がる市中により江戸の範囲は当時、曖昧なものであった。
これを明確に決めたのが文政元年(1818)年に江戸の地図上に朱印線を引いて、東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川を範囲として府内と府外を決めた。
とはいえこれは九郎の今生きる江戸から数十年先の事であり、その朱線で引かれた外縁はまだ田園ばかり広がる農地であり、市中から一刻も歩けば田舎に入る具合であった。
その、入谷の田園にある大きな農家の屋敷を買い取ってやくざの一派──抗争している大きな集団の片方、[赤猫党]が集合していたのである。ここならば市中見廻りの目も届かない。
一斉検挙の報を受けてこのままでは無駄に兵隊を減らすだけだと、急場しのぎで新たに決めた拠点である。
すでに捕まえられた者を探っても知らされていない筈なのでまだ安全であった。
行灯の明かりの前で三十人程の無頼が集まり、最も良い身なりをした初老の男に向かって一人の無骨な者が云う。
「親父、このままじゃいけねえ、いけねえよ。親父だけでも一旦江戸を売って上方に行くのはどうでえ?」
やくざの言葉は親父──やくざの長を心配しての事に聞こえるがそうではない。
目上の者が見ているとなると消極に隠れてしばらくやり過ごす作戦を取れずに、江戸に留まれば次々に捕まってしまうのであった。
親父さえ居なくなれば自分も相模かどこかに身を隠してほとぼりが冷めるのを待つのだが……。
「莫迦野郎っ! 仲間が次々にあの墨壺党にやられてるんだぞっ! 手下動かしてタマァ取ってこんか! なあ親父?」
と、こちらの勇ましい事を言っているのは、表では四谷で油問屋をしている旦那である。しっかりとした身分があり、近所の者にもやくざとは思われていない。
四谷を担当とする岡っ引きにも金を掴ませていて、そこから露見することは無い立場であるからこそ──この騒動を利用して仲間を減らし、シノギを増やそうという算段だ。
そのためには勇ましい事を言って怯える仲間を臆病者と罵り、また自分では党に火付けに使う油を横流しして貢献している風に見せる。
この一派は火付けも容赦なく行う故に[赤猫]と名乗っているのである。
赤猫とは、火を付けた猫が暴れ回りそこらに延焼させる様を表す。
他の集ったやくざも、いかに自分には危険を及ぼさずに組内での立場をあげるかを考えているのみであった。
「……よし」
親分が大きく頷き、指令を出す。
「明日の夜。墨壺党のシノギがある両国にでかい火を付けて奉行所、火盗改の目を引き付け日本橋の大店を襲う。近頃は[鹿屋]って交易店が金蔵を唸らせてるようだ。千両や二千両じゃねえ。それをかっぱらい江戸を売る。わしに五百両で後の分前はてめえらで考えろ。上方に付いてきたけりゃ来い。こちとら向こうが本元だ、また派手に暴れてやる」
「おお、京都は久しぶりですねえ。あそこの奉行所は屁垂れ揃いだから、やくざもんに手出しはしてこねえ」
「その前に江戸を焼いちまおう。ムカつくイヌ共もついでに焼け死ねば溜飲が下がるが……」
「兵隊を出すなら本所に撒く分の油も用意するぜ」
などと言い合っている。
土地に馴染んだやくざではなく、暴力を手段にした盗賊団のような連中である。火付けにも殺しにも忌避は感じない。
その日のうちに逃げてしまえば追手もそうそう掛かりはしないという算段もある。
襲う店──[鹿屋]の蔵を開けて、金を盗む相談をする。用心棒でも捕まえてドスで鼻でも削いでやれば震え上がって金蔵の鍵も渡すだろう。どうせ店の用心棒など食い詰め浪人ぐらいのものだ。殺しに慣れたこちらの敵ではない。
油代や江戸に残るリスクなどを語り自身の分前を四谷の油屋が主張している時に、ぱっとした濡れ手ぬぐいで壁を打つような音が聞こえた。
続けて、涼風が室内に入り込む。
月光を背に入り口に二人の男が立っていた。
青白い着流しに太刀を担いだ男と、二本差しをした編笠の侍である。
「お楽しいお相談のお最中で非常ぉぉぉに悪いんだけどよ。どうも手前らが任侠の風上どころか片隅にも置けねえもんでな」
「んっだテッメ、誰だぁらあああ!!」
いずれかの──いずれでも同じ気はしたが、やくざから怒鳴り声が響く。
影兵衛は笠を小さく上げて仰ぎ見ながら、云う。
「通りすがりの侠客だぁ! 手前らに任侠道を叩き込んでやるからよう」
「うむ……お主そんなキャラじゃなかったよな」
微妙に乗り切れてない九郎である。
とっ捕まえた連絡係の男を即興の尋問で吐かせて、やくざ[赤猫党]の幹部が集合している場所を聞き出したのが夕刻。
とりあえず集められるだけの手先や番人を呼び火盗改にも人を走らせたがひとまず九郎と影兵衛が先行し、入谷田園の屋敷を取り囲むようにして提灯が灯されている。
他の同心与力は一斉検挙で出払っていてすぐには集まらず、ここで逃せば危険──実際は面倒だったから──と云うことで踏み込んだ次第である。
ちらり、と親分──赤猫の次郎助右衛門が目配せをしてから口を開いた。
「待ちな。任侠を教えるとか言ったな」
「おうよ。何だ? 今日の拙者は機嫌が良い。質問に応じよう」
「感謝しよう。では率直に──任侠とはなんぞや?」
額に脂汗を垂らしている次郎助右衛門は薄笑いを浮かべながら云う。
彼の合図で後ろの暗がりから、黒幕で隠した火縄銃を持つ狙撃手が二人。九郎と影兵衛に向けて火縄に火を付けた。
自分の地位を狙い発言力のある幹部二人に対していざという時の為に用意してある身辺警護の者である。鳥獣を打ち鍛錬をしてきた元猟師の二人ならば少しばかり離れて狙いやすい入り口に居る者など、風穴を開けるのは容易い。
影兵衛は腰に帯びた刀から手を離して云う。
「任侠ってのは仁義を果たす事だ。手前ら学の無ぇやくざは孔子なんざ読んで無いか。仁は他人を思いやる事。義は人の道理にかなった行動をする事。その点拙者はしっかりしてるぜぇ? 人を好きで好きで殺したい程に思ってるし、悪党を減らす仕事を日々してるからな。仁義の男、影兵衛と呼んでくれ」
「ものは言い様だな……」
と、影兵衛の高説に九郎が呆れた声を上げた時。
がんと大きな音が鳴る。まったく同時に火蓋を切られた火縄銃が発射されたのだ。
初速は軽く音速を突破する鉛の弾丸は口径が十五ミリメートルもある中筒で、この至近距離にて手足に当たれば変形した鉛の打撃力で千切れ飛ぶ威力を持つ。火縄銃は対人にしては破格の威力を持つ火砲なのである。
しかし──相手が悪かった。
「見えてんだよ!」
「火縄も慣れた」
じりじりと殺意の視線を獣の本能で感じ取っていた影兵衛と、何故か肝練に参加させられて弾速を知り、音と匂いから銃口の向きを探っていた九郎には自動回避を使うまでもなくあっさりと身を躱された。タイミングは影兵衛の動きに合わせれば良いのだから簡単だ。
銃弾を避けられない程度ではこの鉄火場に慣れた二人の境遇では生きていけない。
影兵衛が刀を抜き放ち云う。
「そう云う、つまんねえ事をするのは仁義じゃなくて児戯ってんだ、糞呆けが」
「取りこぼしが出ない程度に暴れるかのう」
「だっ! 九郎ずりぃ!」
九郎は大きく跳躍をしながら疫病風装の飛行と自動回避の能力を発動させる。屋敷の大広間の天井近くまで飛び上がった彼は、腰の術符フォルダから[精水符]を引き出して指につまみ、発動させ振った。
彼が飛ばした水鉄砲程度の水流は正確に火縄銃二つの火蓋を濡らして使用不能にさせる。
続けて地面に落ちて、立ち上がっていたやくざ達の足元に伏せるような姿勢になりアカシック村雨キャリバーンⅢを鞘に入れたまま振り回した。
「ぎゃっ……」
と、声をあげるのは脛を砕かれたやくざだ。
逃がさないようにするには足を壊せば良い。九郎は低い体勢のまま下段から足や股間を殴りつけて走り回る。
三十あまりのやくざが密集しているところに入り込んだのだから、蹴りや掴みかかる手が伸びるが鍋底に沈んだ一本の糸こんにゃくを掬うようにするりと手足にかすりもせずに、彼が動くになんら障害を与えずに移動と攻撃を続ける。
続けて駆け寄ってきたのは影兵衛だ。
「はっ! どうした、今宵の拙者は殺したりしねえから安心しろっやあああ!!」
「が……」
峰打ちを側頭に叩きこまれて頭蓋骨が叩き割れる音を立てながらやくざの一人が倒れる。
剣の背で殴ろうが鋼は鋼だ。当たりどころが悪ければ死ぬし手足も容赦なくへし折れてしまう。
影兵衛が剣を振るう度に悲鳴が上がる。気絶する角度で打ち込んで貰った者は運がよい。大勢いるために、峰打ち気絶の一撃からずれて当たり一撃では倒れずにひどい痛みに悶え苦しむ者も多く出た。
「ありゃ。やっぱ拙者手加減下手糞だわ……」
「てめえ! こうなりゃおれが相手をしてやる!」
「出た! 兄貴のドス二刀流から生きて帰った奴ぁ……兄貴ぃいいい!!」
「おいおいおいおい、今日の拙者は超弱体状態なんだからもっと踏ん張れよなあつまんねえ」
登場した途端に影兵衛に二本の腕を峰打ちでへし折られた挙句に鳩尾に爆発的な蹴りを喰らい壁まで吹っ飛ぶ二刀流である。
その仇とばかりに数で押しつつまんと数人が押し合いながら拳を固めて殺到してきた。
まず一人目はぶわりと舞い上がった袴に目を取られたら──次の瞬間に落ちてきたかかと落としを頭に受けて、首が埋まるような衝撃で踏みつぶされて床板に沈んだ。
二人目は峰で肋骨の隙間に入り込み肺に直接打撃力が伝わり、長い吐瀉に似た悲鳴を上げたまま酸欠で苦しみ動かなくなった。
三人目のドスを刀で受け止め、跳ね飛ばすと同時に左手で抜き打ちした脇差し──これもまた峰打ちではあったが、それが腹をスラリと薙いでやくざは震え、膝をついて倒れる。
「鮮やかに処理をしていくのう」
九郎はゴルフの打ちっぱなしに来た気分で脛を強打して回りながら影兵衛の方を向いて呟く。
彼にドスを持ったやくざが振り回して斬りかかるが、視線をあわせもしないのにするすると動いて、やがて振り回したドスの勢いでやくざが勝手に倒れる。
そして容赦なく、足をぶん殴る。
「異世界にも居たなあ、脛を強打する生き物。はて、ヨグがダンジョンに配置する図鑑で見たが……」
思い出に耽る暇すらある。このやくざの百万倍の速度で連撃を続けた狂戦士からさえも自動で避けるのだ。緊張感は無い。
「ちょろちょろ動きやがって! こうなれば俺の火炎鞴で焼き殺してくれる!」
と、挑んできたのは油問屋の男であった。
改造された鞴を持って行灯の火を片手に九郎へ向けている。
九郎はそれを見て音もなく接近し、男の両手を掴んだ。
「ほう。鞴に油袋を付けて、霧状に吹き出すようにしてるのか。それに火をつければ確かにたまらぬ」
「な、な、な……」
「海苔を焼くには過ぎた玩具だ」
「あがああああ!!」
みしみしと音を立てる程に腕を掴んでもそれを離さないので、九郎はついに男の両腕を握力だけでへし折ってしまった。
「こんなもの持って[鹿屋]に行ってみろ。原型が残らなくなるまで殴られるぞ。まあ、どちらにせよ火炙りの刑は免れまい」
床に崩れて腕が曲がらない方向に曲げられた男を適当に蹴り倒し、次々に他のやくざを殴り倒していく。
二人と侮ったのもあるが入り口がひとつしか無いのが悪かったのだろう、殆どは逃げられずにその場で討ち取られていった。中には脱出した者も居るが囲んでいた他の手先が捕まえるので決して逃げられない。
特に一番奥に居て、部下の手前逃げるわけにもいかなかった赤猫の次郎助右衛門は、あっと云う間に幹部の二人も他の者も床に倒れ伏していくのを見てついに前に出る。
「止まりやがれ! 好き放題にしやがって、これじゃあわしの任侠が廃る!」
「おう、親玉の登場か。さあ、超やくざ人にでも変身してみやがれ」
「超……?」
影兵衛の要求に言い淀むが、彼は近くにあった行灯を蹴倒すと床に流れ落ちた油に火がついてにわかに広間を明るく照らした。
「こうなれば赤猫党の最後の切り札を出すしかねえようだな……たとえイヌに捕まったとしても、手前らを生かしておくわけにゃいかねえ」
「おっ……やったな、九郎」
「喜ぶな」
わくわくした影兵衛と九郎が並び、仁王立ちする次郎助右衛門と対峙する。
彼は明るくなった背後に半身を引き、二人に最終兵器を披露した。
それは、身の丈八尺、前と後ろに二面顔があり、手は四本あって刀を握っている異形の木像であった。
足元は重厚な袴に覆われていて、般若面を取り付けた顔が色もなく九郎と影兵衛を睨んでいる。
阿修羅──或いは、両面宿儺を模したそれが、だらりと持っていた刀を挟み込むように構えて一歩近づいてきた。
「見やがれ! これ切り札、[絡繰任侠]だ!」
「なに……自動人形だと、江戸にか!?」
九郎が虚を突かれた瞬間、薄ら大きい見た目とは反対にぞっとする速度で絡繰任侠は踏み込みと同時に二人にそれぞれ斬撃を放ってきた。
四本の腕が別の生き物の如く九郎と影兵衛に翻り、左右に別れて避ける。
近づき、より明るいところで見れば手足も木製であり関節のみ自在に動く仕掛けがしてある。動力は不明だが、
「江戸の技術力か……」
知り合いの自動人形に比べて酷く原始的だが、未来人の九郎をして混乱する構造であった。
影兵衛がぬらりと接近して刀を振るう。が、
「──ちっ! 硬ぇと峰打ちがしにくいぜ!」
「待て、影兵衛。其奴は人形ならば生き物ではないから、別に峰打ちなどしなくても……」
「何言ってやがる九郎!」
続けざまに四連の斬撃を受け止めてまた間合いを開けながら、影兵衛は云う。
「常識的に考えろよ、人形が動くわけねえだろ。あの中に誰か入って動かしてるに決まってる」
「え……? ああ、うん」
頷く九郎である。
当たり前だが、人形は自動で動かない。
イモータルの存在と、思わず場の雰囲気に飲まれて自動人形がすっと頭に受け入れられたが、普通に考えれば木製の着ぐるみめいた鎧を被っているだけなのは当然であった。
「……なんか、お主から常識を説かれたのが酷く気分悪い……」
げんなりしながら術符フォルダを出して砂朽符を摘んで発動させる。
多少離れた所ならば固形の物質を砂状に変える──九郎ではせいぜい石か陶器か木材程度──魔法が発動して、絡繰任侠の足元の床が崩れてずぼりと下半身を床に埋めた。
胴体部分には関節機構が無いのでバタバタと手を暴れさせる。どうやら四本あるのは、火縄で狙っていた二人組が入っているようだ。
「この屋敷、そこらに火が回っておるが……油撒いて放置されたくなければ刀を捨てよ」
「……」
絡繰任侠はがっくりと肩を落として、四本の刀を床に落としたのであった。
「──ってああ!? こいつに注目してたら親分が居なくなってるぜ!?」
「む、しまった。これが狙いか」
屋敷に火が付いたことで、慌てて取り囲んでいた手先達も中に半分程の人数が突入して倒れた者共に縄を打って次々に運び出している所であった。
赤猫の次郎助右衛門は二人が絡繰任侠に向かっている間に、赤猫の名に相応しい身軽さを発揮して天井近くに飛び上がり、入口付近へ梁の上を進んだ。
そして手先達数人が入った所で飛び降りて後ろを振り返りもせずにまっしぐらに逃げたのである。
まさか手先が入った直後に入り口から、引き絞った矢のような勢いで男が飛び出してくるとは囲んでいた者達も思わぬ。
年齢にそぐわぬ疾さで包囲網を振り切り闇夜の道を駆け抜けていくのであった。
「莫迦共が! わしさえ生き残れば何とかなる! わしさえ……!」
二町(218メートル)程も全力で走りぬけ、追手が見えない事を確認して藪道に入り息をついた。
一旦暗がりの横道にそれつつ逃げてしまえば見つかりようも無い。
と、道の端に座り込んで居たら根城から真逆の方向に声が聞こえた。
下手糞な胴間声の歌である。
「おっどまぁ薩州、薩摩ぁのにっせぇ、木剣打ち込み千とぉ一夜ぁ」
「今じゃあ、こげんしって唐芋ん、くっちょんどぉん」
「飲んじょるの間違いじゃっど!」
「じゃっじ! ガハハハ!」
薩摩の兵児歌を歌いながらぶらぶらと歩いているのは薩摩人の二人組であった。
提灯を片手に、酒に顔を赤らめている。
二人は地面に座り込んだ次郎助右衛門に気づいて提灯を向けて来た。
「ん? こんオジはでえな汗ばかいちょんが、生きちょっとか」
「しゃん。おおい、だいか、ここにジィがうっ倒れちょんぞー!」
などと周囲に声を上げて呼びかけ始めたのである。
慌てて頭に血が登ったのが次郎助右衛門だ。
つい先程まで、この芋侍の店を襲おうと算段していたのにそれが破綻したばかりか今まさに、脳に芋が詰まったようなこいつらに知らされて手先がやってくるかもしれない。
故に、
「黙れこの芋共が! 去ねえ!」
と、声を張り上げてしまった。
しん──と薩摩人二人が声を上げて刀に手をかける。警告はない。自分がやろうかと云う提案もない。
ただ、殺意があった。顔に虚無めいた影が差し、発狂した宇宙もかくやとばかりに怒鳴り声が上がる。
「こン世から往なしちゃらあああああ!!」
「打ったくって豚ん餌じゃああああ!!」
次郎助右衛門は逃げてきた時よりも凄まじい速度で現場に、背後からトンボに構えた薩摩人二人を引き連れて逃げ帰ってきたという。
任侠より、官憲より──気狂った薩摩人の方が恐ろしいのである。
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こうして、一人の死者も出すことはなく赤猫党は一網打尽にされて火盗改方へ連行されることになった。
頭の次郎助右衛門と薩摩人の確執に関しては、九郎の仲介──やりたくなかったが、やらされた──により、斬首刑の執行人を薩摩藩藩士から出すということで同意されたのである。
それはともあれ、一番の金星を取った影兵衛だったが、死人を出さなかった事により評価もされたが「切り裂き同心が日和った」という意見も──出かけたのだったが、峰打ちを食らった悪党の無残な怪我の姿を見て死んだほうがマシなんじゃないかと云う残虐性に恐れ慄いた為、誰も口にはしなかった。
事後処理がこれからあり、九郎は影兵衛と別れようとしたのだが……
「だ、旦那さん! 奥方が子供を……!」
息を切らせて走り、そう告げたのは影兵衛の家の小女であった。
影兵衛は見たこともないような驚愕の顔をしてぶん、と火盗改長官に向けると、彼は苦笑して手を振り、
「行っていいぞ」
「お、おうさ! 九郎! 手前も来い!」
「なんでだ」
「いいから! 急ぐぞ!」
そう言って役宅へ走り始めた。慌てたのか呼ばれた九郎も仕方なくついていくのだが……
「速い速い! どう云う走り方しているのだお主は!?」
九郎が強化された脚力によって地面を駆けるよりも早く、機関銃で地面を打つような土埃を上げて影兵衛は凄まじい速度を出していた。
「ああっこれは必殺の歩法で見たら殺すのがなんたらぁ!」
「そんなもん見せるな!」
「それより嫁と子供だ!!」
数分と待たずに二人はやや広めの、妻帯者を住まわせる役宅の長屋へ辿り着いた。
影兵衛はこの走りだけで草鞋を破壊しつくして裸足になりながら、家の中へ駆け込む。
「睦月!」
「あ……旦那さまぁ……」
すこしやつれて、儚げな笑みを浮かべた顔で影兵衛の妻──睦月は顔を向けた。
その胸元には、産湯で洗った後の赤子が抱かれている。
「男の子ですよーぅ、睦月、やりました」
「ああ、よく頑張ったな、お前、それに……」
影兵衛が手を妻と、そして子に触れようとして伸ばしたが……生まれたての赤子があまりに脆く小さい存在に見えて、自分以外の存在を脆く小さい相手として殺して来た影兵衛は、触るのが躊躇われた。
他の殺してきた誰かと同じように死んだら──死なせたらどうしようかと、子供を目の前にした衝撃で思ってしまったのである。
すると、目を瞑ったままの子供が近くまで伸びた影兵衛の指を握った。
ごつごつと太い、指二本だけでも刀を握って振り回せる指に何の恐れも持たずに触っている。
「お」
影兵衛の声が漏れた。
睦月は笑って赤子をそっと彼の胸に渡した。
「抱いてあげてくださいな」
「おお、おおう……なんだこれ……ああ糞、目からションベンが出やがる」
そして彼は、顔を抑える事もできないままで──連れてきた九郎が呆れ顔で笑っているのを見て、滲んだ声を上げた。
「ええい畜生め。見世物じゃねえぞ」
「まったく自分で連れて来おって……今度、酒でも持ってこいよ。またな」
九郎は振り向いて、軽く手を振り玄関を立った。
後ろから小さく、
「ありがとよ」
と、声が掛けられたが振り向かずに夜道を戻っていった。
その夜、九郎は六科と飲んでいた。やたら酒が旨く感じ、飲み過ぎてお房に叱られた。
泣き声のような、夜鳥の声が外から聞こえた気がした……。




