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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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71話『風呂の話、残念な話』

「雨次からいい匂いがするんだけどー」


 助屋九郎の悩み相談。その日の相談者はお房に似たかぶろの髪型に少々癖っ毛をつけたような、丸い目つきの少女──千駄ヶ谷に住むお遊であった。どこか長毛の犬を彷彿とさせる印象を覚える娘だ。

 開口一番にそんなことを言われた九郎はひとまず手のひらを向けて制して、


「──将翁」


 呼ぶと別の席に座っていた狐面に歩き巫女のような服装をした、薬箪笥を背負っている助屋の美人助手こと阿部将翁と云う女が近寄ってきた。

 開いた胸元がもよもよと動き、お遊は素直に感嘆して「ほー」と呻きつつ見てしまう。

 以心伝心。九郎と将翁はお互いに頷き合い、将翁は落とした薬箪笥から小さな湯のみぐらいの壺を取り出した。


「ちょいと、これの匂いを嗅いで貰えますかい。ああ、直接だと鼻が潰れるので、扇ぐように……」

「? ……ぬなっ!? 臭っ!?」

「おやおや。九郎殿、嗅覚は一応正常みたい、ですぜ」


 刺激臭が酷くする薬壺を仕舞い直す将翁。

 とりあえず彼女の発言から嗅覚の異常を疑ったのだがそうではないらしい。九郎は胸を撫で下ろした。


「いやな、前に急に鼻が効かなくなった鮨屋が居たのだが、脳に腫れ物ができて神経を圧迫して匂いを感じなくなっていたので一応確認を」

「そう云う相談じゃないよー!? あと神経ってなんだー?」

「む? この時代では言葉ができておらぬか……」

「体内に張り巡らされた経脈の一種、みたいなものですよ」


 無駄に脳腫瘍の疑いを見せた九郎である。だがそれが否定されたとなると、


「雨次の体調か……」

「昔昔、秦の国では少女に桃だけ食わせて暮らさせ、その体臭や排泄物まで甘露に育てたそうで……」

「なんか怖そうなんだなー」


 想像して首を傾げながらお遊は将翁に怒鳴る。

 狐面の女は口元だけ笑みを見せて、おどけるように静かな声で云った。


「なに、これはただのそれらしく語られた嘘ですよ。桃は謂れがあるからそれとなく信じられやすい話になってますがね、実際はできやしない」

「そうなのかー。悪趣味な話だねー」

「で、つまりどう云うことなのだ?」


 九郎が頬杖を突きながら改めて聞き直すと、お遊は咳払いをして言い直す。


「つまり雨次からこう、匂い立つような男ぶりが上がっていてなー」

「ああ、比喩表現な」

「ちなみにこれは今朝雨次が薪割りをしていた時に使った手ぬぐいなんだけどいい匂いでなー」

「いやあ……」

「こいつぁちょいと」


 懐から当然のように雨次の私物を取り出すお遊に、二人は揃って若干下がった。

 お遊は手ぬぐいを戻しながら抗弁する。


「いやーこれはネズちゃんが卑しい顔つきでうっとりと眺めてたから没収しただけで深い意味は無いぞー。いい匂いだけど」

「汗だろう。あまり理解できぬというかしたくないというか……」


 九郎がしかめっ面で手元の茶を飲む。本人が枯れ気味なこともあり彼はあまり特殊な趣向には詳しく無い。

 

「いや、拙者にはよくわかる」


 そう真面目ぶった声をかけてきたのは近くの席で、そばで作った皮に刻んで辛めに味付けした菜を入れた饅頭と、冷奴を食っていた専門家の利悟だ。


「脛毛が生えていないぐらいの子供は独特の良い匂いがあるからな。特に男女差で言えば……そう、女児の匂いを豆腐とするなら男児の匂いは上の葱。女児の匂いを飲み物とするなら男児は食べ物のように違いがあって」

「よおし利悟。お前ちょっと来い」


 話の途中で対面に座っていた同じく黒袴の男に利悟は顔面を掴まれる。みしみしと頭蓋骨が軋む音がした。


「ちょっ!? 何をするんですか美樹本さん!? まだ拙者は子供の体臭の良さを!」

「うるせえ馬ぁ鹿。おーいここに勘定置いとくよ。さあ深川で女相撲やってるらしいからちょいと見学に行こうじゃねえか利悟君よ」

「いいいやあああだあああ!! 年増のデカ女がガップリ組み合う姿なんて拷問じゃないですかああああ!! 臭いを嗅いだだけで死んでしまうううう!!」


 マジ泣きしながら初老の同僚に連れて行かれる児童性愛の専門家である。


「もう利悟の奴出禁にしようかのう……」

「出落ちでお金だけ置いてってくれないかしら」


 呆れながらお房が二人の座っていた席の食器を盆で下げる。

 美樹本の方が残した饅頭を一つ、白い指で摘んで将翁は口元に運び小さく噛み取る。


「ま、そう云う、特殊な性癖と云うものは昔からあるものですぜ」

「そう云うものかのう」

「今昔物語の本朝に関する貴族の事例としてはこんな物もあります。『随身を呼びて、「その人のひすましの、皮篭もていかん、奪ひとりて我に見せよ」といひければ、日ごろ添ひて うかがひて、からうじて逃げたるを追ひて、奪ひとりて、主にとらせつ。平仲よろこびて、かくれに持てゆきて見 れば、香なるうすものの、三重がさねなるにつつみたり。かうばしきことたぐひなし』……」

「ええと、済まぬが説明してくれ」


 さすがに古い言い回しではぱっと言われただけでは九郎とお遊は理解できなかった。

 将翁が云うに、


「この話では、平仲と云う女漁りばかりしていた男がいつまでも靡かない女を想い」

「うむ」

「当時、厠代わりに箱に入れていた大きい排泄物を奪い取ったのですが」

「待て」

「中からとても華やかな香りのするそれが現れまして。おまけに本体や汁を舐めたりしたら味も良い」

「待て待て」

「ますます惚れ直したという……むぎゅ」

「よし。その話は終わりにしよう。教育に悪い」


 九郎が慌ててそば饅頭の残りを将翁の口に押し込めて話を止めさせる。

 彼の指を咥えて妖しげに将翁は微笑み、嫌そうに九郎が指を引っ込められると濃い目にいれた茶を飲んだ。

 敢えて将翁は説明を省いたがこの物語では「俺からウンコを取られる事を予想して予め作り物とすり替えておくなんて……なんて奥ゆかしい女性なんだ……」と云った方向に惚れ直すのであるが、香りの良いウンコに惚れたわけではないのが救いか。

 

「排泄物はともあれ、体臭もまた千差万別。九郎殿はくすのきの匂いが薄くしますぜ」

「えー? んん、確かに九郎はちょっと薬っぽいなー」

「ええいこれ、臭いを嗅ぐでない。……加齢臭じゃないよなこれ」


 首筋に顔を近づける将翁と、身を乗り出すお遊をそれぞれ押しのける。

 

「とにかく、雨次がなんか女の子を寄せる匂いとか出して危ない目に合わないか心配なんだなー」

「笑って否定はしにくい悩みだのう」

「最近は前に雨次を小馬鹿にしていた村の娘も悪く言わなくなって……心底反吐が出るんだー」

「低い声で云うな怖い」

「くく、ほら甘い飴でも舐めるといい」

「わー」


 将翁が取り出した飴をしゃぶりだして、暗黒面が見え隠れする光の消えた表情を元の明るい顔に戻すお遊。

 九郎はさてと考える。

 雨次は元々農民や武士の子でもあまり見ない、子供ながら目鼻整った顔立ちをしている。出会った頃こそ卑屈そうな表情に厭世的な雰囲気を出していたがここのところは道場に通うなりあれこれ苦労を重ねるなりして、少し大人びてきている。

 そうすると年頃の娘が放っておかないのもわからなくは無かった。

 それに匂いが関係しているかは不明だが。


「……天爵堂に用事もあったからついでに見ておくか。将翁も来るかえ?」

「さて……九郎殿が行くならあたしも、その匂いとやらを確かめに行くとしましょう。案外、物の怪の仕業かもしれないので」

「そうなのかー。それじゃあ付いてきてー」


 こうしてお遊に連れられて、助屋の九郎とその助手の将翁は千駄ヶ谷へ向かうのであった。

 が。

 緑のむじな亭の一角で押し黙ったまま酒を飲んでいた鳥山石燕が不安そうな顔で、手招きしてお房を呼んだ。


「なあ房よ。ここってもしかして私が存在しない世界軸に迷い込んだわけじゃないよな? ちゃんと私の姿九郎君に見えていたよな?」

「先生……話しかけられるのを待ってたら立ち位置を将翁さんに取られるのよ? 胸が大きくて妖怪に詳しくて薀蓄を喋り胡散臭い感じがただでさえ被さってるのだから」

「おのれ将翁。性転換して迫るとは卑劣な……!」

「追わないの?」

「属性が被ってる状況に後から参戦してもこっちが負け組みたいじゃないか。……そうだ、お菓子でも作って乙女力ちからを高めておこうかね」

「……」


 いそいそと店の板場に入り込み始めた絵の師匠を見ながら、お房は、


「自分から行かないと駄目なのに」


 と、聞こえない程度に呟くのであった。




 *****





 千駄ヶ谷にある天爵堂が持つ武家屋敷は、大きさこそ御目見得の旗本格がある立派な物だが、主が浪人身分である為に下働きの従者などを雇い入れておらず余計にがらんとした印象がある。

 近頃は雨次と茨が居候に住み込むようになっても広さは少しも減ったように見えないが、老人一人では管理しきれない屋敷の手入れなどをしてくれるので本人はなんとも言わないが実質助かっている面もあるだろう。

 お遊に連れられて九郎と将翁が訪れると、白い肌が青みがかった茨が玄関で応対に出た。


「てんしゃくどーは生きてる? 茨ー」

「……」


 頷き、ひとまず三人を屋敷に上げる。

 そのまま天爵堂の居る部屋まで案内されると、布団にうつ伏せになったまま本を開いて読んでいる老人が首の向きを僅かに変えて来客を見た。


「やあ。いらっしゃいと言える程元気ではないが」


 相変わらずのため息が混じるような声音で彼は起き上がりもせずにそう云う。

 九郎はどことなく見覚えのある体勢に、しゃがみながら声を掛けた。


「腰痛か」

「そうだよ。どうもここ今朝から具合がよくなくてね。……腰痛が原因で黄表紙の話は書けてないな」

「いや締め切り昨日だったから辻褄が合わぬ」


 薬箪笥を下ろしながら将翁も少しばかり嘲るような口調で云った。


「やれやれ。老中や奉行から触ると火傷すると恐れられた火の子、天下の新井白石殿もお年には勝てませんかい」

「そんな大層な呼び名をされた覚えは無いけどね、天下人だろうが非人だろうが腰痛には恐らく勝てないよ……あと君らの方が確か年上だろう」


 面倒そうに、六十の後半ながらそれより十以上は老けたような真っ白い髪と髭をしている老人は手を振って云う。見舞いをしている二人は見た目こそ少年と妙齢の女だが、年齢はどちらも百近いのだと云う。将翁に関しては素性が詳しくは知れないのでもっとかも知れない。

 九郎もしんどそうな天爵堂を見て、


(己れも六十ぐらいの頃は、若い頃の無理が祟って老け込んでいたのう)


 と、懐かしく思うやら、彼の腰痛に共感するやらで複雑な思いになる。

 

「塗り薬を処方されるのと、按摩で治されるの──どっちがよろしいですかい?」

「薬にしてくれ」

「おやおや、按摩なら綺麗に完治しますが」

「あたしが腰を踏んであげよーかー? てんしゃくどー」

「やめてくれ。若い頃からどうも苦手なんだ」


 苦々しい顔で天爵堂は云う。

 適当な理由で断ったが実際は将翁のような、微妙な関係である──昔の彼が出した政策で貿易が制限されたものの、それが今も続いているのは当代の将軍がやっていることだと云うのに──女に揉み療治をされるのは少しばかり気後れした為である。あとお遊は確実に加減を知らない。

 しかしながら見透かしたように狐面の女は、


「ほう」


 と、声を出して薄く閉じた口を笑みの形にしている。

 どうも気分が落ち込むような具合になりつつ、天爵堂は開いた本に目線を戻した。


「そういえば雨次はどこにいるのだ?」


 九郎が尋ねると老人は骨ばった指を向けて、


「彼なら裏で薪を割っているよ。風呂に使う分が無くてね」

「ああ、そういえばこの屋敷内風呂があるのだったな」

「結構おっきいんだーお湯いれるのが大変なんだけどー」


 入ったことのあるお遊が何故か自慢のように胸を張って云う。


「さすがにこの歳になると湯屋に通うのも、水を浴びて体を洗うのも辛いからね。それだけはありがたい話だ」


 と、天爵堂は云う。若い頃は井戸水を被るだけで湯屋に通う時間も惜しみ勉強や剣術に励んだものだったが。以前など水を被っていたら小唄に怒られる始末だ。年寄りの冷水を体現しても良いことはない。

 

「ではとりあえず雨次のところに行くか」

「わかったーっと、その前に」

 

 お遊が寝転がった天爵堂の近くに座り込んで、すんすんと鼻を鳴らした。


「……てんしゃくどーは九郎と似た匂いなんだなー」

「なあ、己れ本当に加齢臭じゃないよな?」

「爺むさいだけだろうよ、僕も君も」


 天爵堂の言葉を聞きながら己の体の匂いを嗅ごうとするが、着用している疫病風装は無菌素材故に無臭な為によくわからないのであった。

 若返ったので加齢臭は無いと信じたいのだが。




 ******




「九郎君達が話し合っていた内容に則したお菓子を作ってみたよ!」

「へえ」


 板場で作業をしていた石燕は不敵な笑みを浮かべながら菓子を入れた重箱を取り出す。

 

「練香で良い香りを付けて全体を甘い羊羹で作り形を整えたのが」

「先生。悪いことは言わないからそれを手水場に捨ててくるの」


 開けようとした彼女の手を止めて、お房は断定的な口調で云う。


「見せたらこれ以上無いってぐらいに評価下がるから今すぐに捨てなさい。いいわね?」

「……はい」

 

 弟子の有無を言わせぬ迫力に石燕は頷いて、重箱を厠に持っていくのであった。あくまで手作りである。念のため。

 



 ******




 屋敷の裏で薪を割っている雨次は近づいてくる気配に手を止めて、首に掛けた手ぬぐいで汗を拭った。小唄から借りている手ぬぐいだ。何故か彼女はいつも回収していって新しい手ぬぐいを渡す。そこまでして貸そうとする意味は不明だが。

 眼鏡のレンズで矯正された明瞭な視界に映る相手を確認して声を掛ける。


「やあ、九郎さんにお遊……それと将翁さん」


 まだあまり見慣れていない、女になっている将翁に少し言葉を遅らせた。

 以前は普通に、狐面の下は細目をした役者のような美形の男であった筈だが気がつけばいつの間にか女になっている。体型や声も変わっているが誰も特に今更疑問視しない為、それに雨次も合わせる以外無かった。

 異常な事でも案外堂々としていれば周りが適応するものなのである。

 とりあえず九郎と将翁は顔を見合わせて、つかつかと雨次に歩み寄る。

 いきなり無言で近づいてきた二人に思わず腰を引かして身構えるが、九郎に肩を掴まれて──。


「……ううむ」

「……ほう」

「なんだこれ」


 両側から首筋のあたりをすんすんと匂いを嗅がれた。

 知り合いの兄のような教師のような男と、謎の美女薬師に突然匂いを嗅がれる少年が雨次である。

 なんだこれとしか当人は言い様が無かった。

 そして二人は急に離れて、数歩の距離を置き雨次に背中を見せて相談しだした。


「さっぱりわからんかったが」

「いえいえ、あたしゃ違いがわかりましたぜ。医者の鼻は特別ですから、ね」

「ふむ、どうなんだ? こう、女を寄せるフェロモンみたいなのが出てるのかえ?」

「ふぇろもんだかどうだかはともかく」


 九郎の問いに、一度雨次の方を僅かに振り向き、声を潜めて将翁は云う。


「やはり……何やらよくない気配がしまして」

「……病気か?」

「僅かに。心に憑き物があると、汗に匂いが混じる事がありまして」

「ほう……確か、精神分裂症の患者は特有の臭いがするとか聞いたことがあるが……映画か何かで」


 詳しくは思い出せないが九郎は腕を組んで、納得したように唸る。確か猟奇殺人者の映画だったような記憶がある。

 精神によって体臭が変わると云うのは珍しいことではない。九郎には感じない程度にだが、お遊や将翁……女性には何かしら判るのかもしれないと考えた。

 お遊が雨次に意味もなく飛びついて、暑苦しいのか剥がされているのを見る。付いてきた茨もそれとなく近くに寄っていた。


「雨次殿はほら、あれでしょう。ここのところ割と苦労をしている」

「ああ、母親が死にかけたり、介護をしたり、家出したりとしているからな。性格も随分大人びた気がする」

「子供なれば特に。劇的に性格が変われば以前の心と新たな心に引っ張られ、乱れる。そこに妖かしの類や魔の物が入り込めば……まあ、よくないでしょうぜ」


 こつこつと狐面の額を指で叩きながら、


「果たして心念が乱れたから魔物を寄せたのやら、魔物によって心が影響を受けているのやら……」

「あー妖怪はよくわからぬが、ようは精神を安定させれば良いのだな。どうするか」

「左様で。ならば丁度良い。禊の儀式を元とする行為ですが──」


 囁く必要はあるのか疑問だったが、将翁が耳元に口を寄せて云う。

 将翁の説明に九郎も妥当性を感じて、雨次へ近寄って提案した。


「風呂に入るぞ、雨次」

「九郎さんの要件がまるで理解できない……」


 知り合いが突然訪ねてきて匂いを嗅いだかと思ったらひそひそと相談されて風呂に誘われた少年は、がっくりと首を項垂れるのであった。




 ******




「とりあえず妖艶さを取り戻す算段を含みつつも女子力のあるお菓子を作ったんだ」

「ふうん」


 石燕が再び板場で調理を終えて、乗せた菓子に紙を被せた皿を運んできた。

 

「ふふふ見たまえ! 三河名物[乳饅頭]!」

「おお拝なり! おお拝なりタマ!!」


 丸く、中心が薄く桜色に染められた饅頭を見てタマが拝みだした。

 見た目はまさに乳房である。つまり石燕は妖艶=乳房と判断してこれを作ったわけだが。


「先生」

「なんだね房よ! ふふふお前は伸びしろが無いのが」

「黙るの」

「はい」

「それを見せて九郎が惹かれると思うの?」

「駄目な意味で引かれると思います」

「おお拝なり! おお拝なり!」


 とりあえず、九郎に見せても冷たい反応しか帰ってきそうにない三河名物は、拝んでいるタマにあげるのであった。

 一回り以上年下の弟子に叱られる師匠は威厳を取り戻す方が先なのではないだろうか……。





 ******




 菖蒲を根まで細かく刻み布で包んで、それを湯船に入れた熱い湯に漬ける。

 そうすることで薬効が溶け出して若干濁り、薄く油がきらきらと揺れる水面に光った。

 

「これぐらいで良いだろう」


 九郎は水面に付けていた炎熱符を取り、立ち上がって近くに置いた水瓶を掴んだ。

 屋敷の湯殿である。風呂は横に七尺縦に四尺はある大きな檜造りの湯船で、複数人は入れるものである。外には湯を沸かす釜があり、天爵堂が一人の頃利用するときは近くの農家の者を雇って水湯を用意させていた程に大掛かりなものである。屋敷自体が下女下男が居る前提の作りなのだが。

 この日は九郎が湯船に水を張ってそのまま火属性の術符で沸騰させ、そこに更に水を加えて温度を調節するのである。

 見ていた雨次に適当な話題を振りながら水瓶を軽々と持ち上げて傾ける。


「人の骸も茹で続ければでぃーえぬえーが破壊されて身元がわからなくなってなあ」

「言ってる意味はわからないですけど碌でもないことなのはわかります」

「随分昔は人が溶けた風呂の掃除を依頼されたのだが、パイプにまで臭いが染み付いたのは別の業者の仕事だというのに」

「いえ本当、湯の話題はいいですから」


 今から風呂に入るというのに気分が滅入る話だった。

 九郎の仕事がますますわからなくなる雨次である。話半分聞いたとして、半分はやばそうな印象を受けるから困る。

 水瓶を何杯か入れて、湯船も埋まった。二人は脱衣場で着物に手をかける。


「それじゃあ入るとするか。菖蒲湯は神経痛にも効いてな。今は大丈夫だが年を食うと……」

「ええ。………………ええっ!?」

「どうした?」


 九郎の体格はそう大きくはない。十二になる雨次よりは頭半分ほど大きいが、晃之介などと比べると筋肉もついておらずいかにも子供の体つきである。

 雨次は普段、井戸水を浴びて湯代わりにしているが近頃は晃之介に連れられて湯屋に行くこともある。のだが。

 己の逸物と九郎の逸物を見比べて果たして同じものなのかと衝撃を受ける雨次であった。


(いや、あれと比べると逸と云う字を使えない)


 彼は年齢相応のそれなのだが、何故か冷や汗が出てくる。

 大きい。

 ちらりと再確認する。

 大きい。力が篭っているわけでもないのに大きい。


「ひょっとして、九郎さんは前世で道鏡と呼ばれてませんでした?」

「ん? その名は……坊さんだったか確か。いや、全然知らんが」

 

 奈良時代、法王となったこともある僧の道鏡は大層巨根であったと伝えられている。

 江戸でも[道鏡は すわるとひざが 三つでき]などと川柳が読まれるぐらいに知名度のある俗説なのだが、雨次はその川柳が理解できたような気がした。

 雨次は心を落ち着かせて──不意な混乱から立ち直れば人は深く落ち着くものである──洗い場へ戻った。

 湯に浸した手ぬぐいで体をこすり垢を出して、湯を被る。この時代は石鹸などは無いし、糠袋は主に女性が使うものであった。

 九郎もざぶりと湯を頭から被る。普段から疫病風装などを着ているせいで殆ど体は汚れず、体表からの老廃物も埃のように分解されて落ちるのであまり体は汚れない。

 そうして二人で向い合って湯船に入る。温められた胸から絞り出すように声が出た。


「ふう……菖蒲湯などいつぶりかのう……」

「ぼくは初めてな気がします」

 

 たっぷりと入った湯にほのかに香る菖蒲の匂いで、雨次も自然な笑い顔になる。


「ところでなんで湯に?」

「うむ? まあ色々あるが……」


 九郎は天井を仰ぎ見ながら云う。


「近頃は道場の稽古で知らずと体が傷んでいただろう。自覚はなかろうと、それとなくお遊なども気づいていてな」

「お遊が……?」

「まあそれで体と、気分もたまにはのんびりして湯から上がったら昼寝でもするのだな。色々大変だろうが、お主もまだ子供なのだから気を詰め過ぎるなよ」

「……うん、そうしよう」


 気負わない言葉で、雨次は一息ついて首まで湯に浸かった。

 

「それと腰痛の天爵堂にも菖蒲湯がよくてな。後で入浴介護してやれ」

「そうですね、爺さんにものんびりしてもらわないと」


 また、それ以外にも入浴と云う行為自体が禊に通じるものであり、更に菖蒲は古来より魔除け、疫病避けのまじないに使われる薬草であった為に取り憑いている悪鬼妖怪にも効果がある……と、将翁の説明ではあった。魂を蝕む呪いの値が下がるらしい。

 呪いや悪霊がどうとかは、九郎にとって眉唾ものであるのだが。

 熱い湯に入ってゆっくりすれば精神が落ち着くと云うのは尤もな事なので雨次をこうして入浴させている。


「しかし湯屋ではどうしても狭いからのう、ゆるりとしていい」

「ははは、前に利悟さんが近くに居た時は妙に狭い感じでくっついてきて困ってしまって」

「後で殺そうあいつ」

「何か逆鱗に触れました!?」


 このご時世に児童狙いの性犯罪者が出てはいろいろ拙い気がして、九郎はとりあえず去勢しても罪に問われない法の盲点を思案し始める。

 そうしているとばたばたと足音を立てて洗い場に駆け込んでくる少女が居た。

 お遊だ。


「あたしも入る!」

「ああこら、お遊。足はちゃんと洗えよ、お前泥だらけなんだから」


 雨次が困ったような笑みを浮かべて裸ん坊のお遊に盥で湯を掬って渡した。

 おずおずとその後ろから茨も洗い場に入ってきた。雨次がゆっくりと湯船の奥に詰めるように移動する。

 同年代の少女との混浴だが、そもそも妹みたいな相手なので特に気にしては居ないようである。

 手ぬぐいを持ったお遊が、


「背中洗ってあげる!」

「……」


 と、茨を座らせて手ぬぐいで背中と言わず全身を洗い始める。 

 交代して茨がお遊を洗うとくすぐったいのか大いに笑い転げ、足の指の間まで拭かれるので風呂場にはお遊の笑い声が響いた。

 そしてざぶりと波を立ててお遊が入り、真ん中あたりで両手両足を伸ばしてのびのびとする。


「ちゃんと詰めろよ、お遊。茨が入れないだろ」

「んーこれなら毎日入りに来てもいいわー」

「毎日は湯を張らないよ、さすがに」

「……」


 雨次がそう言うと、任せろとばかりに茨が腕の力瘤を浮かべる。ぷっくりとした膨らみだが、雨次よりは相当腕力がある。

 濡れた彼女の髪に手を置きながら、


「仕事じゃなくて薪がなあ。九郎さんが居れば別だけど」

「それじゃあ九郎も毎日入りに来ればいいんだよー!」

「九郎さんは仕事があるから、ほら、ちょっと人には言えない後ろ指さされる感じの」

「おい。己れを何だと思っておるのだ……」


 子供達から豪く誤解を受けている気がしないでもなかった。

 一応訂正しようとすると、ぺたりと足音が更に続いた。 

 九郎と雨次はそちらに視線を向けて雨次が思わず盛大にお湯を吸い込んで吹き出した。

 洗い場に今度は阿部将翁が入ってきていたのである。

 勿論湯に入るに適した格好をしている。先程から諸事情がありあまり詳細には記していないが、この場に存在する布面積は手ぬぐいと九郎の首に巻いたままの呪符ぐらいだ。

 年齢相応のお遊と茨の体はともかく──肉付きの良く染み一つ無い将翁の女体を直視して雨次は白目を向きつつ顔を全力で背けた。


「いやはやこれは中々立派な風呂で……おっと? 雨次殿はどうしたんですかね」


 狐面を外しているので表情が見えるが明らかに面白がっている顔だ。雨次は顔を赤らめて硬直し壁の木目を数えているが。

 彼は手探りで、利悟に強壮の薬でも持って幼馴染嫁と閉じ込める計画を立てている九郎の腕を引っ張り二人で壁に向かって囁きかける。


「く、九郎さん……! なんで将翁さんが入ってくるんですかしかも女性で」

「うむ? ……む? ……なにか、問題だったか?」

「……」


 露天風呂に猿が入ってきたとか、その程度の問題を聞いたような困惑度で九郎は問い返した。

 ややあって、手を打つ。


「ああ、女の裸見ると恥ずかしい年頃か。お遊と茨気にしておらぬから平気なのかと」

「条件が違いますよね」

「いやでも将翁だぞ、深く考えるなよ。男将翁と胸が付いているかいないかぐらいの差だろう」

「別人ですよどう見ても!」


 髪だって伸びているし体つきも柔らかくなっている。顔立ちは似ているものの男女の兄妹程度に差はある。どう見ても女体である。

 雨次は九郎と違って枯れ果てた大地のような状態ではなく、単に普段そう云う意識をあまりしない少年なのである。むしろ鈍感故に免疫が少ない分類かもしれない。

 とりあえず仕方ない事と諦めて、雨次は目を伏せ気味に瞑想の精神状態になるのであった。宇宙の真理。大いなる知慧。己の内面。銀河皇帝。なんでもいいが意識を逸らす。


「おやおや」


 口元に手を当てながら、すっと将翁も湯船に入る。たぷり、と湯に半分沈んだ胸をお遊と茨が「おおう」と呻き瞠目した。

 殆ど九郎にくっつくような距離で肩を並べている将翁だが、やはり彼は気にしていないようである。若い女と入浴など、孫同然のイリシアで慣れていたのであった。なにせ二十年は彼女とあちこち旅に出ていたのだから共に湯には入るし同じ寝床で寝るなど日常だったのだ。

 菖蒲湯の底に沈む九郎の動じぬ大きさを目の当たりにして、雨次は改めて底知れない大人だと九郎を敬するのであった。

 まったく憧れはしなかったが。





 *****





 九郎が緑のむじな亭に戻ったのは夕刻だった。

 店に入ると出る前に居た石燕──しっかりと見えては居た──が出迎えて、腰に手を当てながら自信げな笑みで仁王立ちしている。

 

「おかえり九郎君。遅かったね!」

「雨次や将翁と菖蒲湯にのんびり入っていてな」

「ああっ先生が膝から崩れたの」


 置いて行かれた挙句に除け者で湯浴みなどされていた石燕である。

 付いて行けばよかったという後悔がひしひしと胸に押し寄せてくるが、ぎりぎりで持ち直して引きつった笑みを浮かべたまま眼鏡の位置を直して石燕は近づく。


「近頃私をないがしろにしている気がする九郎君に良い物をあげようと思ってね」

「そんなつもりは無いが……なんだ?」


 石燕は懐を探って目的の物を取り出してすかさず九郎の手に握らせた。

 紙で包まれた切り餅と呼ばれる現金二十五両束である。


「現ナマだよ!」

「待てこんなものを渡すな。いきなり良い物とか言って現ナマ渡す女がいるか!」


 現ナマとは、江戸の頃に上方あたりでは給料の事を[生しょう]と呼んでいたのが[なま]と呼び替えられ、[現金]と云う言葉と合わさって金子そのものを[現生(げんなま]と呼ぶようになったと言われている。

 とは言え理屈もよくわからぬまま大金を押し付けられそうになった九郎は、慌てて彼女に返そうとするがぐいぐいと手に持ったままどこからか取り出された布で巻きつけて器用に固定される。

 譲渡を終えて素早く離れた石燕に、九郎は無駄に固く結ばれた布を解きながら云う。


「何故にこんな金を渡してくる」

「ふふふ、私が勝っているものと言えばそう、財力だと思ってね! 最近九郎君はお金の請求をしてこないからね!」

「何を競っている。というか要らぬから。別に今不自由していないし」

「気にせず使えばいいよ! 一晩で博打に溶かしてもいいのだよ! そうしたまえ!」

「フサ子、石燕は何でこうなっているのだ?」

「迷走に瞑想した果てなのかしら」


 微妙にやけっぱちになっている石燕に、九郎とお房は並んで呆れた顔を見せる。

 九郎は彼女の手も借りて、手に巻きつかれた布を解いて石燕に近づく。気まずそうな顔で少し身を引く彼女の袖を掴んで、腰に下げた小袋を九郎は渡した。

 それには硫黄の香りがする白い結晶がいくつも入っている。


「これは……」

「ほれ、逆に己れからやる。奥多摩の温泉から取ってきた湯の花だ」


 千駄ヶ谷で湯から上がった後に、一人で奥多摩の温泉宿まで飛んで温泉にて成分が沈殿、凝固したそれを頼み貰ってきたのである。砕いて湯に溶かせば入浴剤になるものだ。 

 菖蒲の湯で湯治をして、折角だから石燕にも温泉気分でも分けてやろうとわざわざ行ってきたのであった。空さえ飛べば江戸近郊ならば九郎にとって近場である。

 動きを止めた石燕の手に現ナマも返してやり、


「とりあえず風呂にでもゆっくり入ると良いぞ」

「あたいも先生の所で入ることにするの」

「うむ、うむ。また温泉旅行にでもそのうち行こうなあ……って石燕?」


 何やら壁に手をついて酷く落ち込んだ様子の彼女に声を掛ける。


「……何か私、無駄に馬鹿な行動をしたかなあって」

「いつもの事だろう」

「ううう」


 九郎は肩を竦めながら言った。


「まあ、いつも通りが一番だぞ。石燕よ」

「……そうだね! なに私は江戸に名高き『なんかあの人ぐいぐい来るよね』絵師鳥山石燕だ! ちょっと除け者にされてもへこまないぞ! さあ九郎君、うちで湯に入ろうではないか!」

「いや、己れもう充分満喫したから」

「おのれ将翁!」


 石燕はとりあえず狐面の女に吠えるのであった……。





 *****




 千駄ヶ谷にあるひときわ大きな農家の屋敷、根津家にて。

 巨漢の男が正座した少女の前で報告書を広げていた。


「えぇ~本日の幼馴染会報。新井爺さんのところの雨次くんは爺さんの為に菖蒲湯を用意しましたぁ~」

「そうか。雨次の奴は天爵堂先生に孝行しないとな」


 父親が読み上げる幼馴染の善行に、小唄は嬉しそうに頷く。


「それでついでに、家に来ていたお遊と茨と一緒に仲良くお風呂に入りましたぁ~」

「なんで私除け者にされてるんだ!?」

「更にぃ、家に来ていた美人で巨乳でマブな姉ちゃんこと阿部将翁ちゃんとも入りましたとさぁ! 畜生ぉぉ!」

「おのれ雨次!」

「おのれ小僧ぉ!」


 親子二人は同じ拳を固めた格好で怒りに震える。

 そして甚八丸はふと思いついた。


(雨次の小僧をうちの風呂に呼べば将翁ちゃんも来るんじゃねぇの?)


 江戸の市街から離れた農家で、井戸も掘っている上に多くの小作農を住まわせているから内湯もこの屋敷には用意してあるのであった。

 

「ぃよおし小唄ぁ! 今度うちの湯にも呼ぶぞ!」

「ああ! 父さん物分かりがいいな!」

「菖蒲湯以外の体に良さそうな湯だ! 今日はなんと既に用意してある! 名づけて[薬研堀の湯]!」

「体に良さそうだ!」

「おぉう。小唄、まず試しに入ってきて見ろ!」

「わかった! 待ってろよ雨次、ちゃんと解説できるようにしておかないと……」


 そう言って、着替えを持ち屋敷の内湯へ向かう小唄であった。

 彼女はとりあえず相手の知らない事を解説するのが好きな性質がある。よく雨次には「話が長い」などと言われ、九郎から密かに「説明好きな女は行き遅れるのでは」と思われているが。 

 勢い込んで小唄は用意された薬研堀の湯───薬研堀で購入した唐辛子を漬け込んだ湯に浸かって悲鳴を上げて飛び出すまであとすこし。

 家の内湯にそんなものを用意した甚八丸が嫁に殴り飛ばされるまで、またすこし。


 地主の家は今日も平和であった。

 

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