67話『幸せの行方』
明治五年に太陽暦が使われるまで日本では太陰暦──即ち月齢による月日の数え方をしていた。
太陽暦とは大雑把に言えば一月弱程現代の感覚では遅く訪れるのと同時に、季節もまたわかり易く決められている。
即ち年の始めから数えて一、ニ、三月を春。四、五、六月を夏。七、八、九月を秋。十、十一、十二月が冬である。
江戸では未だに蒸し暑く、眩む者も少なくない日差しが降り注いでいるが季節は秋になっているのであった。
さて……文明による温かみを人口密集分だけ恩恵を受けてるかのごとく暑苦しい現代よりは幾分かマシとはいえ、冷房も無い江戸では各々が涼み方を考えて猛暑の夏と初秋を過ごしている。
金のある商屋の主などは舟遊びとして大川に浮かべた舟に乗り、また花火の日などは乗り合いの屋形船も多く出た。
大川橋の上などでそれを羨ましげに眺める人も少なくはない。風が川を伝って来るから家の中よりは涼しいのである。
湯屋の二階などで碁を打ったりしながら汗ばんだらまた風呂に戻り体を流すなど、とりあえず汗蒸す環境からは脱したい思いが誰にでもあった。
そのような中で一部で知られているのが[緑のむじな亭]に入り浸ることだ。
店内がそこはかとなく涼しい上に冷えた水や酒を出すので非常に有り難い店であった。まあ、便利な店なのであまり広めては混んで入れなくなる……と客の多くが考えた結果、常連が増えるものの大評判とまではいかないのだが。
更に一部の女子に知られている涼しい場所がある。
それは、
「あー成る程、こいつぁ涼しいぜ」
「鬱陶しい」
九郎の胡座を掻いた足の上にどっかりと座っている少女が居た。
薄い体をだるだるの着流しに包んだ、町娘にも百姓の娘にも見えぬ奇妙な子供だ。
九郎がよく知る呉服屋の娘、お八───にそっくりの少女、お七がしているいつもの格好であった。
そして彼女は涼しいと評判の九郎の膝元でくつろいでいるのであった。
なにせ、夜に寝る時は部屋全体に使っていて涼しくしている氷結符だが、昼間は自分の周囲だけを冷やしているのである。おまけに疫病風装の衣が風通しが良く湿ったりしない素材なものだから快適に過ごせるのである。
それにあやかろうと隙を見て知り合いの子供が涼を取ろうとしてくるのであった。
「と言うかお主髪が臭うぞ。風呂には入っているのかえ」
彼女が目の前に座るとちょうど頭が顔のあたりに来て、やや皮脂で尖った髪質がちくちくとして気になった。
離れるように酒盃を手に体をやや後ろに倒すと、それに合わせてお七も見上げるような姿勢で九郎を見ながら応える。
「風呂ぉ? いんや。時々川で洗ってるぐれえだけど」
「タマ。ちょっと此奴を洗って来い」
「とうとうこのお小遣いで買った助平な薬を盛り込んだ洗い用糠袋を使う時が来たか……!」
「使うな」
「はい」
襟首を掴んで渡そうかと思ったが、弛みに弛んだ着衣であるためにそのまま脱げそうな気がしたので九郎はお七の両脇に手を入れて引き起こし、タマに手渡した。
「ちぇー」
口を尖らせながら笑顔満面のタマに連れられて長屋の奥の井戸へ運ばれていく。そこで盥に水を張って洗うのが無精者の入浴なのだが、夏場は熱いので水浴びとして行うことも珍しくない。
助平に定評のあるタマだが少年のような平坦ボディと羞恥心が無いお七には入浴補助をさせてもそうそう暴走しないだろう。まあ、喜ぶ事は喜ぶのだが。
とりあえず重しが無くなったので九郎は再び体勢を戻して手酌で昼酒を酌みなおす。
誰が広めたのか近頃は九郎が涼しいのでにわかに人気なのである。あの偏屈な老人の天爵堂ですら、屋敷に尋ねたら出涸らしではない茶を出して将棋も長引かせて涼もうとする。彼の家で昼寝をすると高確率で茨とお遊が枕にしてきて雨次が困ったようにしている。
(己れは氷嚢か)
などと現状の扱いを思っているのであった。
そして先程から離れた場所からこちらに視線を向けている二人をちらりと見て、げんなりとした表情で酒を飲み視線を逸らした。
「なあ石姉。九郎ってあたしよりあの七公に甘くねえか。ずるくねえか」
「ふふふ、はっちゃんよ。伴天連の名文句にこう云うものがある。『求めよ、然らば与えられん』」
「うぐ……」
石燕とお八の、駄姉愚妹連盟であった。何故か知らないがこの組み合わせでよく監視されている気がする九郎である。
お八は覚悟を決めたように、
「よ、よしそれならあたしも……」
「おっと。九郎君の膝なら順番待ちの整理券を房が売っているからまずはそれを購入するのだね」
「知らんがいつの間にか己れの体が勝手に売られておる」
石燕の解説に憮然と九郎は呟いた。
渋面を作ってお八は財布を取り出し──買う気だ──お房に近づいて尋ねた。
「幾らだぜ……」
「三十文なの」
「この店の蕎麦より高ぇ!? く、くそ……」
言いながらもしっかり支払って番号札を受け取る。
それに書かれている文字を見て更に声を上げた。
「[十]!? まさかの二桁待ちかよ!?」
「違うの。それは十月からなら予約が空いてるって札なの」
「まさかの二ヶ月待ちかよ!?」
「残念だったねはっちゃん。生憎と人気があって……」
「買い占めるの石姉ぐらいしかいねえだろ!」
ぎゃあぎゃあと言い合っているお八を横目で見ながら、九郎は本当に枕型の氷嚢でも作って自分の代わりに置いておこうかと若干悩んだ。
作るのはそう難しいわけではない。土嚢を作ってそれを氷結符で凍土に変え、上から布で包めば一日ぐらいは冷たさが持つ。やたら重いが。
しかしながら可愛い孫──ではなかった、九郎は軽く眉根を抑えて頭を振る。ともあれ、小さな友人の為だ。
「よし、待っておれお主ら。冷える枕を作ってやるからそれを使うのだ」
「それじゃ意味ねえだろ!」
「九郎、商品の希少価値を下げる真似をしちゃ駄目なの」
「女心がわかっていないね九郎君は」
「何故だ……わけがわからぬ……」
きっぱりと切り捨てられてげんなりと九郎はため息をつくのであった。
*****
掌に[妖怪]と三回書いて口に手を当て飲み込む仕草をする。
そしてふっと息をついて鳥山石燕は汗を拭う仕草をしつつやや遠くを見ながら、正面の座敷にいる九郎に宣言した。
「私は妖怪絵師、私は妖怪絵師」
「急に自分の立ち位置に不安を覚えたのか」
「ふふふ、最近私はのんべえでちょっと駄目なお姉さんとしか思われていない気がしていたからね」
さすがに九郎は何もコメントしなかったが。
石燕は眼鏡を正して不敵に笑い、九郎に告げる。
「それでは恒例の少し不思議探しに出かけようではないか九郎君! 目指せ天中殺!」
「目指すな」
しかしまあいつもの事なので、九郎は仕方無さそうに話を聞いた。
彼女は指を一本立てて話題を始める。
「九郎君は異類婚姻譚と云うものを知っているかね?」
「ん……ああ、別の種族で結婚する云々の話だったか」
ぱっと言葉で聞いては浮かばなかったがやや考えて九郎は応えた。
「己れが前居た世界でも時々聞く異種族同士の結婚問題だ。種族によっては子供はできぬし寿命も違うし基本生活環境から異なるのだから中々うまくいかないらしいが。その点男オークは割と色んな種族に人気でなあ。あれとならハーフも産まれず母体側の種族が出産率高いから」
「いやそんな社会問題とは関係ない話なのだが」
逆に女オークは珍しくて男オーク達からすればアイドル級の魅力を誰もが持っているらしいのだが。
異世界ペナルカンドではそのようなカップルがどうしてもと云う場合には婚活天使ゼクシリンの加護を受けると、寿命差を縮めたり子宝を得ることが可能ではある。
石燕は彼の話を遮って云う。
「まあつまり本邦では、動物のお嫁さんが現れた話の類型だね」
「獣が?」
「大雑把に言えば、空から降ってきたか罠に掛かっているのを助けたかされた動物が後日化けて家にやってくる。その嫁はたいそうな働き者か家に富を与えるという。しかし最後には人ではないことが発覚して別れる……と云った感じの話。どうだい、ぱっと幾つか思い出したりするだろう」
「ふむ……確かに聞いたことがあるような」
その反応に満足気に頷いて彼女は続ける。
「有名なのは[鶴の恩返し]だね。罠に掛かっていた鶴を助けた若者の家に美女がやってきて編場を借り機を織る」
「若者だったか? 老夫婦だった気が」
「若者の話もあるのだよ。それで編場の鶴は念入りに『俺がここに居る間は入るんじゃあ無いぞ木偶がぁ~!』と見ないように云う」
「ちょっと待て」
「しかし編場からは『俺は天才だ~!』とか『ん……? 間違ったかな?』などと声が聞こえてきてついに気になった若者は覗いてしまう!」
「気になるだろそれ……」
「姿を見せてしまったので編場から『うわらば!』と言いながら飛び去ってしまった……何故変わった朱鷺……」
「鶴だったろうが」
怪しげな昔話に胡乱な眼差しで語る石燕を見る九郎であった。
「鶴以外にもこのような話は妖怪、民話に枚挙が無くてね。蛤女房や雪女、天女の羽衣などもそうだ。古くは日本神話でも木之花咲耶姫が火中で産んだ子の一人、火遠理命は山幸彦の名で知られている。
彼は釣り針を探しに大海神のところへ行き豊玉姫と結婚して地上に戻ってくるのだが彼女が出産する時に決して産屋を見ないようにと言われていたのに針を失くすわ田を荒らすわと軽率なことに定評のある火遠理は覗いてしまう。
すると豊玉姫が巨大鮫形態でびくんびくんと出産してるのを見てしまい『魚じゃん……』とドン引きした夫の目に耐え切れず破局……! あまり調子に乗るなよ火遠理……!」
「あー……要するに救われんと云うことだな、異種婚」
「まあその後生まれた息子が乳母としてやってきた豊玉姫の妹とくっつくのだが」
「奔放なのか繊細なのかどっちかにしろよ神話」
熱の入った石燕の解説を適当に九郎は纏めた。
旨い料理を作る蛤女房も姿を知られて海に帰るし、雪女は恋愛要素とホラー要素がそれぞれあった民話が混じったように複雑な事情を抱えた話になってしまっている。
これらの話は異種だから夫婦間が上手くいかなかったのか、或いは上手くいかなかった理由付けとして異種であったと云う後付があったのかは不明である。
つい九郎もかつて身近であった異種族の例として──そう、デュラハンのイートゥエなどを思い浮かべて生活を共にしたならばと想像したがあまりうまく連想はできなかった。なお、一番妖怪っぽい異種族だからそう考えただけで他意はない。
「しかしこのような話を聞いた者の多くはこう思うのではないかな。『自分なら相手を大事にするのに』と」
「ふうむ、まあな」
「なにせ人間に変身していると云う前提だから獣度は低くて初心者でも難易度が低い。ちょっとでも獣度が残ってないのも寂しい気がするがね」
「何の話だ、何の」
個人的な趣味嗜好に脱線していく石燕を呼び戻した。
「さてところ変わってこの江戸で、毎日幸せげに暮らしている狐の嫁を貰った男が居るという。小石川伝通院近くにぽつんと豆腐屋を出しているそれまで天涯孤独であった伊作と云うのがその人物だ」
「……確か去年の暮に、不忍池で小判探しをした時に居た忍者だよな? そういえば将翁がそんなことを言っておったような」
「というわけで九郎君! 私達の来訪が彼らの破局をもたらすかもしれないけれどそこは涙を堪えて調査に行こうではないか!」
「そっとしておいてやれよ……」
「とりあえず胸糞悪くなる話でも用意していくか。九郎君、南蛮で絶賛大流行中の競技[狐潰し]って知ってるかね?」
「字面からして知りたくないわい」
なお、狐潰しとは十八世紀頃の欧州──の一部──で盛んだった紳士も淑女も楽しめるスポーツで、簡単に説明すれば投石紐を複数人で持ってずらりと並び競技場に放った狐がその紐を跨いだ瞬間左右を持つ者が協力して狐を上空にぶん投げるという狂気のような遊びであった。
ともあれ石燕一人で行かせるよりはマシだろうと思うので九郎は飲みかけの酒を空にしてよっこらと立ち上がるのであった。
*****
緑のむじな亭を出て二人は小石川へ足を向けた。
途中小腹が空いたので、九郎は寿司の売り歩きに声を掛けて握り飯のように丸めた寿司をぱくつきつつも微妙な顔をしていた。
「ううむ、半なれ鮨だから一応食えるが、こう独特だよなあ」
「ふふふ酒が追加で欲しくなるかね?」
石燕は氷を入れた徳利を揺らしながら尋ねる。酒が薄まるものの江戸当時では水で薄めて飲むのもそう珍しくはない。
享保の頃では寿司と言えばなれ鮨か、その発酵時間を短くして米まで食えるようにした半なれの鮨の事である。せっかちが多く製造期間も短く作れる為に江戸では後者が好まれた。
木桶に詰めた半なれ鮨を天秤棒にぶら下げて売り歩くのはよく見られる光景である。
「しかし普通の早寿司は一度試して作ったが、米酢が高い上にそんなに出回っておらぬからのう」
「そうだね。九郎君の店で作っていた酢飯は酢の安価な供給が無ければ普段食べる物には使えないだろうさ」
云う。
現代で云う握り寿司のような、酢飯に刺し身を載せる料理が流行したのはまだ百年は先であった。
理由の一つが九郎の云う通り、米酢の値段が高い為に尾張で安価に作られる粕酢が出回るまで中々一般化しなかったことがあげられる。
米酢に比べて甘い為に酢飯を作る際に砂糖を使わずに良く、また炊きたての米に混ぜ込めばわずかに山吹色に艶を見せる粕酢は一気に広まった。それを作ったのが中野又左衛門──現代で云うミツカンの会社の初代であると言われている。
「酢はちょいと自家製では作れそうにないからなあ」
半分ほど食べた大きめの鮨握りを笹の葉に巻き直して、石燕から受け取った徳利に直接口を付けて酒を飲んだ。
癖の強い味の鮨だがその分酒には合う。
しかしこの暑い盛りにはまたさっぱりとしたものが食いたいと思っていると、店頭にひさしの付いた水桶の並んだ豆腐屋が見えてきた。
覗きこむと夕方だからだろう、あらかた売り切れているが二つばかり豆腐が水に沈んで残っている。
「冷奴でも食うか」
「そうだね。おーい、店主は居るかね?」
殆ど今日の商売を終えた気分だったのだろう、店の奥の住居部分から覆面を付けた伊作がやってきた。
「いらっしゃい、いらっしゃい……おや? 鳥山先生じゃないか。その節はどうも……」
「……なんで覆面?」
相変わらずの不審な忍者ルックであった為に一応尋ねる九郎。
伊作は「やだなあ」と軽い調子で云う。
「さっきまで外に屋台を出して油揚げを作っていたんだ。それで油が跳ねて火傷しないように覆面を」
「……さも合理的な理由だろうと言わんばかりだが覆面付けて天ぷら作ってる者が居るか?」
確認の為だったが、無視された。とりあえず彼は手ざるで水桶の冷奴を掬い上げる。
「おっと、そうだ。ここで食べていこうと思うのだが構わないかね?」
「どうぞどうぞ」
伊作は豆腐を平皿に移して店内へ手招きするので九郎と石燕が入っていく。
店頭販売が主な商売だが、一応は中で食べれる程度に座敷があった。履物を脱いで上がると、
「おい、座布団を出してくれ」
と、伊作が声を奥に掛ける。
すると軽い足音と共に座布団が運んでこられた。
「……」
「……」
運んできたのは四足の狐であった。手足の先が黒く、全体的に赤茶色と白色をしていて鼻が尖り尻尾がふさふさしている紛うこと無く狐である。
唯一、頭に花嫁がつけるような絹帽子を被っているのが野生ではない証だろうか。
口に座布団二枚の端を咥えて、怯むこともなく九郎と石燕の座るあたりにそれらを配置して前足で綿を叩いて膨らませる仕草まで見せた。
ひとまず座って顔を寄せ合い、二人はちらちらと狐を見ながら言い合う。
「なあ思っていたより獣度が高いのだが」
「そうだね……獣人愛好家の中でも最上位に位置するあれかもしれない」
「あれ?」
「獣姦趣味」
「うう」
思わず唸る九郎である。
とはいえ、都会の江戸などでは目を覆う性癖に思えるそれだが、田舎の農民で嫁の貰えぬ次男三男などは牛馬を相手に……などと書かれた当時の資料が残されている時勢ではあった。
豆腐に刻んだ青紫蘇と醤油、胡麻を振った冷奴を運んできた伊作を見る目が若干変わったことを自覚しながら、九郎と石燕はとりあえず誤解かも知れないという一縷の望みに掛けて話しかけた。
「ところであの狐は……」
「ああ、可愛いだろう。俺の家族なんだ」
「うう」
口ごもる九郎。
石燕も咳払いして尋ねた。
「ところで君のところに狐が嫁入りをしたと聞いてね」
「狐か……そう、まさしく俺の嫁で毎日同じ布団で寝て朝は起こしてくれるし夜はけんちん汁などを作ってま! これで旦那様の精をつけてどうしようっていうのかうはは、店が休みのこの前には二人で王子の稲荷神社へ散歩に行くと川べりで山椒魚なんか取りまして普段はお客の前以外じゃツンとしているのにこんな子供っぽいところもあってそれがまた。それに山椒魚となればすっぽんみてえな味でこれまた体の具合に良くておいおい俺をあまりいじめるなよと言いながらもこう」
「分かりましたから落ち着いてください」
思わず石燕も敬語になった。
認めよう。
彼は重度のケモナーを拗らせてズーフィリアになった男だ。
(行ってしまったんだな……彼岸に)
一片も現状を疑うことのない正気の瞳で嫁について語る伊作を、優しさに包まれた目で見ることしか九郎と石燕にできることは無かった。
それでも敢えて助言するなら、
「寄生虫に気をつけるのだぞ」
「ここから神話が始まるぐらいの覚悟で頑張りたまえ」
などと言っていると、入り口から甘ったるい声が掛かった。
「ただいま帰りましたわ、だぁ様」
「おおおおっかええええりいいいい! お刻!」
「だぁ様? お豆腐が無くなったのなら店仕舞の札を出しておきなさいって前に言わなかったかしらぁ?」
「すみませんでした!」
「あらあら、謝るのではなく、なんで従わなかったのかをお教え願っているのですけれども──だぁ様?」
「ありがとうございます!」
籠に野菜と卵を乗せて入り口から入ってきて、和やかな笑顔で伊作を責めているのは背の高い女性であった。呼び方こそ[旦那様]と甘えたものだが有無を言わせぬ切れ味を感じる。
質感のある長い髪の毛を貴族のようにおすべらかしに括っていて、まるで巫女服めいた紅白で質の良い着物を着こなしていた、派手な雰囲気のする女である。
名を、お刻と云う。
彼女は白い顔をにこりと九郎らに向けた。目の端に赤い紅が塗っていて狐面をつけているような印象を覚える。
「申し訳ありません、そそっかしい主人で」
「ああ、ここの奥方の家人の方か?」
「いやそそっかしいも行き過ぎるとその……変わった趣味で大変だね?」
「は?」
やたら曇った眼差しでお刻と、その背後の住居から顔を出している絹帽子の狐へ視線を行き来させながら云う二人に彼女も小首を傾げる。
暫く意味を吟味して、大きく頷いた。
「ちょっとだぁ様。こちらへ」
「なんだいお刻。まだ日も高いと云うのに。まあいい、俺が君の夜さ」
意味不明な決め台詞を吐きながら奥に連れて行かれてすぐに、
「だ ぁ さ ま?」
「ありがとうございまぐえー!」
と、悲鳴が聞こえた。九郎達からは見えなかったが狐が怯えた様子を見せている。
物陰から倒れた男の腕が痙攣して見える。咳払いをしながらお刻は足早に戻ってきた。バツの悪そうな狐もその後についてきている。
「私めが伊作の妻の刻でございまして、こちらは遣い狐のコンですわ」
「ああちょっとからかっただけだ。うむわかっておったぞ」
「この世には不思議なことなど何もなんとか」
「お二人共目を逸らしながら言わずとも」
獣姦野郎が出した物だと思わなくなった今では素直に冷奴の味も感じられた。実直な味がする旨い豆腐である。
江戸の食通では豆腐に薬味など邪道、味噌や醤油ではなく塩を掛けて食うと豪語する者も居るが無難に酒の肴にするには薬味乗せが丁度良い。
石燕が酒で喉を鳴らしながら云う。
「私達はそこの伊作君が新婚生活を楽しんでいると聞いてね、手土産を持って様子を見に来ただけなのだよ。怪しい者ではない」
「まあ、ところで何故喪服を?」
「……慣れてしまっていたが石燕。お主普通に怪しいからな年がら年中」
「おやおや、この瓜田で屈んで地底王国の気配を探ろうが、李下で手を伸ばし大宇宙と交信しようが『危なそうだから声を掛けないでおこう』と噂されるぐらい人に疑われることのない私が怪しいと」
「かなり正気は怪しいな……」
残念そうな九郎である。わかっていたことではあったが、再確認すれば何度でも味わえる。
石燕が袂から油紙で包んだ手のひらに乗るぐらいの大きさの物体を取りだすと、ぷんと揚げ油の匂いが広がった。
ふと正面に座るお刻と狐が同調したようにぴんと耳を──お刻は耳に見えなくもない髪の跳ね返りを──立てて瞳孔を細くして石燕の取り出したものを注視する。
「これは土産の鼠の天ぷらなのだが……」
包み紙を広げながら見せようとしたのだが──九郎がその、鼠を姿のまま揚げたと云うあまり食欲の湧かない物体を目にする前に石燕の手の上からそれは消えた。
視線を消失した軌道に沿って動かすと、鼠の天ぷらはお刻の口から半分出て、もごもごと動いている。隣の狐はよだれを座敷に垂らして羨ましげにそれを見ていた。
「狐じゃないのですから……むぐ、むぐ……このような物を貰いましても……」
「食いながら喋るな」
「──? はっ! 私めとしたことが……おいしい……」
はっとした様子だがそれでも、小顔の美女が餅を食うように鼠まるまる一匹の天ぷらを口にしてやがてごくんと飲み込んでしまった。
九郎は思わず、
(狐だよな)
と、尋ねかけたがなんとかその言葉は飲み込んだ。
化け狐の好物と言えば油揚げが有名だが、それは一説に鼠の素揚げを代用したものだと言われている。鼠が好物であると云うのはかつて稲荷神が穀物を守る神だった名残だろうか。
口元を手で隠しながら薄く目を閉じて味の余韻を楽しんでいるお刻に、
「そういえばこの店は油揚げを売っていると聞いたが」
「はい、人気なもので今日はもう夕飯用にしか残しておりませぬ……あ、でもだぁ様の分でしたら」
店にある重箱から、甘辛く煮染めた薄揚げを取り出して皿に出した。
九郎は持っていた笹の葉を解き、半なれの鮨を袋状に開いたお揚げの中に詰めて形を整える。
「これが稲荷鮨と云うものだが……あ」
あ、と云う間に再びそれはお刻の口の中に消えて、目を瞑りながら肩を震わせて味わっている狐女が出来上がった。
隣の狐は不満そうに畳に背中を擦りつけて腹を見せながら舌を出して息も荒らげだ。こちらは狐と云うか犬である。
石燕はわざわざ深刻そうに、
「九郎君のお稲荷さんが新妻に喰われてしまった……!?」
「よし、黙れ」
「うん」
素直に頷く石燕である。
「旨いか?」
「こ、こんな私めがこれしきで……美味しゅうございまして」
「うむ、そうか。半なれの鮨は割と簡単に作れるし、そこらに売っておるからな。店で出しても良いぞ」
「!」
お刻が少しだけ訝しげな顔になって九郎を見た。
いきなり来たこの客達は何を云うでも無く、好物を目の前に吊るして反応を楽しんでいるようだがその目的がわからない。
「なぜ、そのような施しを?」
九郎はアカシック村雨キャリバーンを杖にのそのそと立ち上がりながら、石燕の手も引いて座敷から降りつつ云う。
「いやなに。ただ旨い稲荷鮨の店ができたら贔屓にしたいと思っただけだ。旦那と仲良くな」
言って、石燕と共にだらりとした足つきで豆腐屋を出て行く。
少し離れたあたりで振り向くと、復活した伊作とお刻が並んで店先で見送っていた。
「九郎君」
石燕が呼びかけると、怠そうに九郎は云う。
「ちょいと、他人事とはいえ種族が違おうとも、幸せにはなって欲しいと思ってのう」
「ふふふ」
石燕が含み笑いをした。
「そうだ九郎君。狐に化かされないおまじないを知っているかね?」
「なんだ?」
「眉に唾をつけると狐の幻術が解けて見えるらしいよ。どれ」
二人が振り向くとお刻と伊作は並んで店の中へ帰っていくところだった。
指を軽く口に付けて湿らせ、さっと眉を濡らした。
一瞬、店の暗がりに消えていくお刻の髪が狐色になり、腰から尻尾が生えているのが見えた──気がした。
彼女の尻尾は愛おしそうに、隣の伊作に巻き付いていた。
「……」
「さて、帰ろうか」
「そうだのう」
そうして、夏らしい暑さのみ残っているが夕が暮れるのがすっかり早くなった時間を、どこか満足そうになった石燕と歩くのであった。
異種婚姻譚は破局するまでが一つの流れで、異なる立場の者同士は幸せになれないと云う結末があるが───
「……そうだね、九郎君。一つ教えておこう」
「なんだ?」
「……悲劇的な話になる妖怪や動物との結婚話だがね。これは何もかもが上手くいかなくて終わるわけではないのだよ。
ただ、上手くいかずに悲しい終わり方をしてしまったものが話に残るだけで、本来はもっと多く──語るのも馬鹿らしいぐらい、日常を過ごしてその生活を最後まで共にした異種婚もあるのさ。きっと、残っていないだけで。そう思わないかい?」
「そうだな……そうかもな」
物語にならない無数の日常の中には。
単なる凡百の幸せを得た誰かもきっと居るのだろう。
いつかの自分が笑って過ごしていたような気持ちを思い出して、
「何か旨い晩飯でも食うか」
「それに旨いお酒だね」
いつものように、石燕と言い合って色を失い始めた空の下に並んで歩いた。
*****
後日。
「よ、よし九郎! この枕を冷やしてくれ!」
「マジで作ったのか。うむ。マジでかお主」
縦長の土嚢に布を被せ、着物風の物を更に上に巻き、デフォルメされた顔を描いて黒布で髪の毛を再現した──有り体に言えば九郎モデルの抱きまくら人形を自作したお八が額に汗を浮かばせ、本人に冷やすよう要求してきた。
これには九郎も驚いた。
結構アレな方向性に驚いた。
「くっ! その手があったか! はっちゃん! 私にも作ってくれたまえ!」
「ああん!? 駄目に決まってるだろ! 石姉は生身の九郎でも抱いてろ! これからは九郎人形こと九ちゃんの時代だぜ!」
「時代を作るな。と言うか落ち着け」
どんどん駄目な方向に暴走するお八をどうやって止めようか。
とりあえず我関せずに膝枕で寝ているお七を排除しなければならないのだが、だんだん面倒になり九郎は自分も目を閉じて昼寝をすることにするのであった。




