65話『君の側へ』
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女だてら脚絆を履いて江戸中を走り回り、事件や小話を面白おかしく書き立て、契約している家や店に読売を配る女が居る。
名を、お花と云う。
年の頃は二十前後で、その素性は知れぬが千駄ヶ谷の地主が保証している町人であった。化粧っけがなく、健康的にいつも取材に走っているからか見た目よりも若く見える。読売の仕事をしている時以外の普段はとんと見つからない不思議な女であった。
実はこのお花と云う女、現在江戸に忍んでいて──まあだいたい今後も忍んだままずっと生活を続ける忍びの者の連絡員をやっている。
機密情報の遣り取りや情報屋、と言えば聞こえは良いが集会の日程であったり千駄ヶ谷の畑の人足募集広告を読売に載せたりと云った程度の情報が多いが。
ある日、彼女が巡回先である芝口の掛札場に寄った時のことである。
掛札場とは、将軍吉宗が奉行所に作らせた迷子掲示板のようなもので、頑是無い子供が迷子になっているのを見つけた時に、首に下げさせた名前の記された名札をここに掛けて所定の場所に預けると云った仕組みであった。
迷子探しまで奉行所の手が回らぬ対策である。青田狩りの利悟などは仕事を放り出してそちらに躍起になるのをこれで止められた形になる。
掲示期間は七日と決められていたが、そこに迷子札に偽装した連絡の札が掛けられることが稀にある。
[爺 十三や近く 虎久太]
と、あった。
これは上野にある[十三や]と云う櫛屋近くに住む、虎久太と云う爺が迷子だと示す情報だが、実際にはそんな人物は存在しない。
符丁だ。
数年に一度、有るか無いかの連絡にお花は息を飲んで懐に入れた読売の一枚に『針十三本の注文あり』と記してそれを配りにある場所へ足を向けた。
其の暗号が何を示すのか彼女は聞かされていない。記者ではあるが、調べようともしない。
わかるのは、伝える以上に関わろうとすれば闇に消されてしまう事と、この数年に一度の連絡で夕に冷酒を引っ掛けれる程度の報酬を貰っている事実だけなのである。
「今日の仕事はこれで終わり。帰りにむじな亭に寄ろっと」
それにしても、この不吉な暗号を伝えることには格別の寒気を感じる。
何故ならばそれから暫くすれば、己が大げさに書き立てるような暗殺死体が発見されるからだ。
口の奥に苦いものを感じつつも、所定の場所──神田の旗本屋敷、筧家へと向かうのであった。
*****
江戸の湊町──鉄砲洲川にかかる新湊橋がある。
明け方のことであった。まだ日は海の下だが徐々に明るんできている時合だ。
橋の上に、一人の痩せこけた浪人が欄干に凭れ掛かりながら何度も咳をしていた。
医者が聴けば、いかにもよくない咳の音をしていることに気づくだろう。
薄暗い中でも男の顔色の悪さはよくわかった。腰に差した刀の重みでふらつきそうな弱り具合である。
彼はじっと海を見つめて、時の進みを待っていた。
この場所で人と合う約束をしていたのだが……
「ごほっ……」
口元を拭って、荒い息を吐きながら云う。
「そろそろ時間だが……」
日が海の上に出る時刻に会う約束であった。湊町はその名の通り、商船の出入りが有るためにそれを越すと朝だというのに人気が出てくる。
だが、約束が守られるとは限らない。
直接交わしたわけでもなく、江戸や上方を行き来している[彼]が近くに居なければそもそも依頼が出来ないのである。
自分の絶望的な考えに、より顔の影を濃くしていると後ろから背筋を冷やす低い断定的な声がかかった。
「佐々木源之丞だな……」
それは反対側の欄干に、いつの間にか立っていた男がかけてきた声だ。
手すりに煙草盆を置きながら煙管を吸い、深々と煙を吐いた男が居る。源之丞と呼ばれた男は振り向こうとしたが、
「川の方を向いたまま会話をしろ……」
と、男から指示をされて、唾を飲み込みながら従った。
男が吐き出した煙の鼻孔をくすぐる臭いが風に流れて源之丞に届く。
乾き、枯れた喉をひねり出すようにして声を発した。
「さすが、時間通りに来られたのですね。[筧左天]殿──いえ、十三殿と呼んだほうが宜しかったでしょうか」
「……」
男は応えずに、無言で煙管の灰を川に捨てた。
身の丈六尺強、体は上から下まで様々な傷のついた筋肉で覆われていて眉が太く強い意志を持っている鋭い目つきをした者──それが、源之丞が会う予定であった殺し屋[筧左天]──そして偽名と思しき名だが十三と呼ばれる男である。
裏の社会では見た目の特徴こそしれているものの、その出身や信条についてはまったくの不明。旗本、或いは西国の筧氏が連絡の窓口となっていることから筧と呼ばれているが関係も不明。知ろうとすれば始末されてしまうと言われている。
暗殺の成功率は相手を選ばずほぼ確実で、噂によれば諸大名の重臣や幕府の上層も依頼をしたことがあると云う……。
「……要件を聞こう」
口元から新たに煙の上る煙管を離しながら、ぼそりと十三は尋ねてきた。
源之丞は唾を飲み込んで告げる。
「外神田に屋敷を構える金貸しの男──美濃屋道山を抹殺していただきたい」
「……」
やはり──。
十三は無言のまま思案するように口元に煙管を運んだ。
話を続ける。
「奴はもと札差(米の仲介屋)でしたが、それで儲けた金を元に武士などへの高利貸しを営んでおります。その利子ときたら一月二月経てば元借りた金よりも膨らむ始末で、おまけにまだ少ない時に返しに来ようとすれば居留守を使うか逃げて受け取らず、利子が増えるまで待つのです」
「……」
「訴訟を起こそうにも、幕府が[相対済し令]を出したもので奉行所では受け付けてくれず、泣き寝入りしている者も多い……あのような悪徳の商人がいれば、人の世の為になりませぬ!」
熱が入った様子でそう云って再び咳き込む源之丞。
相対済し令とは享保四年に出された貸借訴訟を評定所で受付けないと云う令で、それらの問題は当事者間で解決するように変えられた。これは年中寄せられてくるそれらの訴訟を受理しないことで奉行所の繁忙な仕事を軽減させる狙いがあった。
悪用して──と云うのも変だが──借金を無効化したりしたものも居たが、弱い者はいつも割を食うものである。
「ここに差料を売って作った金と、あちこちの金貸しから借りて作った八十両があります。返済の期限が迫っていて、恐らく取り立てで複数の負債に気づかれれば私の命は無いでしょう。その前までに、これで美濃屋を……」
「……」
懐から取り出した金──暗殺の相場よりも安いものではあったが──を確認しながら、十三は源之丞の腰に差している刀をちらりと見た。
いかにも病んでいる体に負担となっていない、竹光であろう。
煙を吐き出し、氷の彫像めいた顔を向けて云う。
「自分の刀を売り、金貸しを殺す為に金貸しから借りる事情はなんだ……? まさか義憤ではあるまい……」
「それは……」
「信頼できない依頼人の話に乗って動く程、俺は自信家ではない……」
十三の彫像めいた眼光に気圧されて、源之丞は顔を今にも泣きそうにしながら語りだした。
「私の……私の借金の為に、妻があいつの手篭めにあって……おまけにもて遊ばれた後は川に捨てられ、借金を苦に入水したと云う噂まで自分が殺したことを隠すために流したのです……!」
「……」
「子も病気で、治すためには薬が要りました。薬を買うために借りた金も膨らみ、息子も治療の甲斐泣く助からず命を落とし……もう私には何も残っていません。体を病みまともに動くこともできない私では、あの男を殺しに行く力さえ無い……一刻も早くあの世に旅立った二人に会って詫びるしかできないのですが、どうかその前に、美濃屋だけは……!」
「……」
橋の上で、八十両を置き土下座をしながら涙を流し云う源之丞を見下ろしながら、十三は再び煙管の灰を落として小さな煙草盆を手元に持った道具箱に仕舞いこんで近づき、小判を拾い上げた。
「話はわかった、やってみよう……」
「おお……ありがとうございます、筧左天殿……!」
源之丞は只管頭を下げていたが、十三は振り向かずにその場を歩き去っていくのであった……。
*****
日本橋にある薩州との交易品を扱う大店、[鹿屋]に九郎はやってきていた。
何故か物騒な頼み事──この場合の何故か、は何故物騒になるのか不思議な、という意味だが──をよく受ける馴染みの店だ。
店に関わる人種はともかく、黒砂糖と枕崎産の鰹節、それに豚肉の塩漬けが手に入るので利用する価値はある。
その日は奥にある会議部屋ではなく店内の座敷に座って、麸に黒蜜を塗った菓子と茶を出されて九郎は相談に乗っているのであった。
「ですからその青木某と云う浪人がですね、この鹿屋や薩摩藩を無視して将軍に取り入ろうと唐芋の栽培を小石川薬草園で始めたわけですよ。こっちは芋侍なのにあっちは甘藷先生なんてちょっと良さ気な呼び名すら貰って」
「……別に良いではないか。飢饉対策だろう。薩摩芋の評判が上がれば唐芋侍と馬鹿にされることも無くなろう」
「しかし、気候と土壌が違うから容易く行くとは思えませんが、江戸近郊で唐芋の栽培が上手くいったら薩摩からわざわざ運んでくる利潤が……これは幕府の陰謀ですな九郎殿」
「面倒く──……そうだのう」
返すことさえアレだったので九郎は適当に同意した。
鹿屋黒右衛門はにこやかに脇においていた一斗樽を九郎の前に出して嘆願する。
「それでは九郎殿、薬草園の畑にこれを撒いてきてくだされ」
「塩を撒くとか鬼かお主は」
「いえ、塩ではございませぬ。火山灰です。どっちにしろ作物は育ちませぬが。薩摩では皆頑張ってこれを耕してるのだから江戸でも同じ辛さをと」
「自分らでやれ、自分らで」
「薩摩が関わったと知られると戦争になりかねません。まあ四、五人腹を切れば済みますが」
「やるな」
などと言い合っている。
物騒な話をしているので九郎はしかめっ面で周囲を見回す。
鹿屋の店内は晃之介の道場数個分はありそうな広い畳敷きの座敷になっており、屏風などで簡単に仕切ってあちこちで様々な商品の商談が行われている。
上方からの下りものほどではないが、遠く離れて殆ど異国に近い薩摩からの交易品も江戸では珍重されている。特に、鼈甲などは南方と貿易しなければ手に入らぬために、薩摩か長崎でしか殆ど出回らない品物であった。
ふと、九郎は店の中に居るがっしりとした体格の男に目が向いた。
髷や服装こそ町人のものだが、着物から見える首元は金属繊維を束ねたような筋肉をしており、彫りの深い顔立ちに濃い眉毛、切れ長の三白眼をした男である。
商品の煙草、薩摩刻みを煙管で吹かして味わっているようだが、周囲に気を張り巡らせている感覚があった。さり気なく目を逸らしたが、九郎が見ていたことに気づいたように僅かに視線を返した。
九郎は小声で黒右衛門に尋ねる。
「あの男はよくこの店に来るのかえ?」
「はて……商売人ですのでお客の顔は覚えているのですが……これ」
と、黒右衛門が呼ぶと、男の前に居て商品を薦めていた手代は一礼をしてやってきた。
「あのお客様はどなただ?」
「はい、本日初めて来られた方で、障子の張替えをやっているそうで。薩摩刻みを暫く喫んでから買いたいとのことで……」
「それならお茶などを出さないか」
「茶はいらないと辞去されましたから……」
「ふぅむ……それで九郎殿、あのお客が何か?」
九郎は「いや、少し気になっただけだ」と、返して茶を飲んだ。
彼が御用聞きとして公儀の手伝いをしていることは店の者も知っている為に少しの情報でも求めれば提供してくれる。
まあ、この店の看板芋侍共の方が世間的にはヤバイ扱いだがそこまでは九郎も一々口を出さないが。
彼としてもふと、侍とも町人とも違った印象を覚える不思議な男が気になっただけであり、深い考えがあっての問いではなかった。
話を黒右衛門との間に戻す。
「ところで九郎殿、また肝ね……いえ、宴の誘いが明日の夜ありまして」
「ああその日凄まじくやるせないほどに忙しいから不可能極まりない」
「わかっております。わかっております。九割九分無理だとしても、残り一分に賭けて無理にでも参加してくださるのでしょう。場所は……」
「せぬから。知らぬから。説明しだすな」
とりあえすは九郎は芋の加工に関して、芋羊羹や芋のてんぷらなどを江戸で先んじて作ることで他店が売りだしても違いを出せれば良いのでは、と助言をした。
土産の品を持って店を出ることには、切れ長の目をした男はもう居なくなっていた為に九郎は気にも留めなかったが……。
*****
(……やはり外に出る用事は無いようだ)
十三は外神田の金貸し、道山の屋敷を遠巻きに見ながら胸中で呟いた。
門構えも立派な屋敷でそこらの旗本よりも大きな敷地をしているだろう。やくざ崩れか、浪人の男を門の前の番小屋でたむろさせている。
これではあの病んでいる依頼人の源之丞が決死の覚悟で踏み込んでも止められて叩き殺されるのが落ちであろう。
聞き込みをしたところ、主の美濃屋道山と云う男は年に数度しか外に出ることはせず、借金の回収なども手先にさせているのだという。もちろんその回収に向かうのもやくざや食い詰め浪人、悪党くずれなどだから非道も行う。
ただし金を貸させるときだけは屋敷に招き、相手が頭を下げてねだるのを楽しみにしていると云う。
標的の趣味はどうでも良いが──
(外に出る時間を待っていては、期間までに間に合わない、か……)
残された時間は二日と半日。
義理立てるわけではないが、規定された期間込での報酬はすでに受け取っている。
依頼され、契約が成立すればどうあってもやるのが仕事である。
(狙撃できそうな地点……)
周囲の建物を見回しても塀を飛び越えて矢弾を届かせる場所は見当たらない。
それこそ塀の上に登れば別かもしれないが、どうあっても目立つことは避けられないだろう。それに、今だ屋敷の間取りを掴んでいるわけではない。
ならば、中に侵入しての暗殺となるがこの様子では中にも用心棒を多く雇っている筈だ。小間使いなどの数も不明。
十三は暗殺計画の妥当性を様々な側面から練りながらその場から離れていった。
*****
翌日の暮れ六ツ半(午後七時ぐらい)の事である。
時刻こそ夜だがまだ昼が長い為に明るさは空に残っている頃合いである。
美濃屋の屋敷で小さな騒動が起こった。
獣の甲高い叫び声と怒鳴り声がなり、特別に作らせた桐風呂に入っていた道山は眉根を寄せながら近くのものに尋ねた。
「なんの騒動や?」
大阪訛りのある声である。実際、彼は上方の出で向こうに米蔵を持っている商人でもあった。
でっぷりとした浴衣の道山に、女中の年増女は応える。
「猫が家に入り込んで、障子を沢山破ったようでして……」
「なに、猫が?」
「旦那様のお部屋も」
「この糞暑いっちゅうのに……」
苛立ったように道山は云う。
どかどかと足音を立てて大暴れされたと云う場所に向かうと、確かに障子に爪を突き立てて破いたものが何枚もあり更に彼は機嫌を悪くした。
このままでは蚊も自在に入り込めてとても役目を果たさなくなった障子を思いっきり蹴飛ばしてやろうかとすら思える。それで夏が涼しくなり、蚊が絶滅するのならば実際そうしただろうがそううまくはいかないので衝動に耐える。
借金取り立てに雇っている男が三毛猫の首根っこを捕まえて困った顔で頭を掻いてこちらを見ていた。
「どういうことやああああ!?」
「あ、旦那様。へへえ、こいつが大暴れしたようですぜ」
「こんの糞猫が、三味線にしてくれますわあああああ!」
「おっと」
道山は声高く思いっきり猫を殴りつけようとしたのでその浪人崩れはひょいと身を躱す。
勢い余って道山は畳に転び、殺さんばかりの視線で彼を睨むが曖昧な笑みを浮かべて、
「一発で殴り殺せるならまだしも、殴り飛ばされて猫が逃げたらまだ暴れまっせ」
「──なんやてええええ!? さっさとそいつを川にでも沈めるでおまああああ!」
「へいさ」
続けて女中にも唾を飛ばす勢いで怒鳴る。
「誰でもええから障子の張替え屋を連れて来るんでっせえええ! 早く直させやあああ!」
「は、はい」
言われて、慌てて裏口へ向かう女である。
浪人は猫をぶら下げたまま表門へ向かい、顔見知りの門番共に軽く会釈して猫を片手に出て行った。
外に出た時に不満げに自分を睨んでいる猫を見て、にへら、と笑う。
「悪かったよ、罪をなすりつけて。鰯でも喰わせてやるから。あのおっさんに関わると変な声出すから煩かっただろ」
いいながら、今日はこのままどこかで飲みにでも行くかと鼻歌など歌いながら歩いて行く。
胸元にある冷たい金属の感触に顔を綻ばせながら、
「それにしても、猫がやった振りをして障子を破かせるだけで一両くれるなんて、最近の張替え屋は変わってるなあ……」
一方で……。
屋敷の裏木戸を開けて外に出た女中であるが、どうしたものかと考えをぐるぐると回していた。
出入りの張替え屋などは無く、そもそも張替え屋は昼間ならその辺を通りかかって必要な日に呼び止めるものだが、今はもう夜だ。
張替え屋と云うものは店を出しているわけではなく長屋住まいの者が売り歩く仕事である。となれば誰かから聞いてその長屋を探すことから始めなければならない。時間がかかればかかるほど、道山の機嫌は悪くなるだろう。
暗澹たる思いをしていると、暗がりから人が歩いてきたのではっとして道の端に寄った。
男の風体は町人風で笠を被っているが、刷毛と糊樽に紙を入れた箱を天秤棒に吊るして歩いていた。
女は思わず声をかける。
「ちょっとすみませんが、張替え屋さんでは……?」
「ああ……今日の仕事を終えて帰る途中だ……」
「丁度良かった! ごめんなさい、もう一仕事頼まれてくださる? うちの障子が猫にやられて、旦那様がかんかんになってて……」
「いいだろう……」
低く唸るような声だったが、承諾されたので安心して胸を撫で下ろす女中である。
張替え屋と云うと、声を張り上げて、
「障子、襖の張替え~提灯、行灯、笠など、よろずの張替えを~」
と、歌い唱えながら町を練り歩くものだが、この男はずいぶん愛想が悪そうに見えたが好みは云っていられない。
それに今日は仕事を終えたと言っていたのだから普段はそうしているのだろう。
女中は、お不動のような厳しい顔つきをしたその張替え屋がそんな元気よくしているところを想像して胸中でくすりと笑った。
「旦那様、お連れしました!」
「そうでっか……幾ら掛かってもええから早急に、わての部屋から頼んまっせええええ!」
「わかった……」
怒鳴る道山に十三は頷き、障子を取り外して丁寧に破れた紙を剥がしていく。
「悪いが水桶を用意してくれ……手伝いはいい」
「はい」
女中にそう指示を出して、十三は黙々と作業を行うのであった。
手際はさすがに本職と女中が思うばかりによく、これならば確かに手伝いもいらないと元の仕事場へ戻っていく。
奥の部屋で一人──怒るとやかましい上に当たり散らすことを自覚しているので、本人も一人になりたがる──道山が酒を手酌で飲みながら外された障子の戸から星空を見上げているのみであった。
それから暫く時間が経ち……。
がん、と残響を残す大きな音が近所中にも聞こえて鳴り、屋敷の者は顔を合わせた。
「なんの音だい?」
「さあ」
首を傾げていると板場に張替え屋の男が顔を出す。
「あっ張替え屋さん。仕事は終わったのかい?」
「それどころじゃない……美濃屋道山が賊に火縄銃で撃たれたようだ」
「ええっ!? それじゃあ今のは、じゅ、銃声!?」
「とりあえず向かってくれ……俺は傷の手当の道具を探して向かう……」
十三からそう指示を出されると、怯えたように女中は手を取り合うが、一人の年の云った女が、
「火縄だって一発しか打てないだろう、沢山人が押しかけてきたら賊も逃げるだけさね!」
と、言われてもつれるような足取りで女中達は現場へと向かった。
続けて十三は屋敷を歩く無頼の輩を見つけて声をかける。
「ここの主人が賊に襲われて倒れた……金蔵の心配をしていたからそっちを見てきてくれないか……」
そう云って、一人に道山が首に下げていた金蔵の鍵を渡すと、無頼は受け取った後数秒呆けたようにして、顔をひく付かせる笑みを浮かべ、
「わかった、見てくるぜ!」
そう云って慌てて掛けて云った。
同じく十三は数名の浪人達に金蔵を見てくれと頼むと彼らは眼の色を変えてそちらへ向かう。
結局誰から盗み始めたか、ドサクサに紛れて小判を掴めるだけ掴んで屋敷中の荒くれ共が奪い、さっさと屋敷から逐電していくのであった。悪党の金貸しに仕えていたと云う自覚があるだけに、義理も無い。
十三は落ち着いたまま再び現場に戻り、血止めの手拭いと水桶を持って死体を遠巻きに見ている女中達に割り込んだが、
「駄目だよ、死んでる」
「そのようだな……」
と、頷き答えた。
道山は額に穴を開けてドス黒い血を流しながら動くことはなかった。後頭部に傷はないので貫通はしていないのだろう。頭蓋骨の内側に銃弾が食い込み、脳を破壊されている……。
*****
町奉行所でこの一件が取り調べられた限りでは、関係者を呼んで話を聞いても、
「賊が火縄銃で美濃屋道山を殺害した後、どさくさで金蔵から金を奪って逃げた……」
と、しか説明のつかぬ状態であった。
女中は皆銃声を聞いているし、十三はその時別の部屋の障子を直していた。
そして大勢居なくなった屋敷で雇っていた浪人、無頼共は明らかに金を盗んで逃げている。
その中の誰かが犯人であろうと思われるのだが……
「ううむ……」
南町奉行、大岡忠相は吟味与力によって書かれた調書を読みながら難しげに唸った。
そして担当した与力の者を呼んで問いただす。
「この当日入っていたと云う張替え屋の男……これに怪しいところは無かったのか?」
彼がそう尋ねるのも、ちらりとひと目見ただけだがその張替え屋が只者ならぬ雰囲気を出していたからである。
与力の前川力蔵は頷き、
「確かに、ただの張替え屋とは思えぬ風体でしたが、証言ははっきりとしていますし、動機もありません」
「持ち物は探ったろうな?」
「道具箱はすべて探しましたが銃や火縄どころか、火打ち石も無かったようで。また、念の為に三瀬に確認させましたが、煙の臭いも体について無かったです」
「そうか……」
怪しいとは思うが、今回とは別件だろうか。大岡忠相は調書を机に置いた。
三瀬と云うのは高積見廻方同心、二十四衆の一人[反乱射]と呼ばれる三瀬広彦と云う男である。もとは幕府の大筒下役と云う職だったのだが、紆余曲折があり町方同心として転役してきた。
大筒役は幕府の砲術や鉄砲場の管理を行う役目で、そこから来た三瀬も火薬に関しては詳しい。射撃時に衣服に染み付いた硝煙の臭いなどはすぐに分かる。
それが違うと云うのならば確かに狙撃者では無いのだろう。ひとまず、今回はそうしておく他はない。
力蔵が、
「叩けば何かしら出てくるかもしれませぬが……」
「いや、それには及ぶまい」
さすがにこの程度の怪しさで証拠、そして証言無しでは牢問(拷問のこと)はできない。
町奉行所では牢問を行うには老中に許可を取る必要があり、またそれをせずに犯人を自白させるのが町奉行の腕前を表すとまで言われているので気安くは行えないのであった。
手に余れば切り捨ててもあまり問題にならない火盗改と違って規則が厳しいのである。
「調査には誰が行っている?」
「利悟と……大阪東町奉行所の高崎殿が出ています」
「高崎与力が?」
偶々、御役目で江戸に下ってきていた別部署の与力が捜査に参加していると云う。
「なんでも今回殺された美濃屋道山は大阪奉行所が探していた賊の一味だったそうで、検分役に」
「内輪もめの可能性も出てきたか……利悟で大丈夫か?」
捕縛術の腕前はともかく、性格的にあまり頼りにならない同心の顔を思い起こしながら尋ねる。
「手先も連れてますので、恐らく平気でしょう」
「利悟の手先と云うと……あの若い者は火盗改の手先になったのではなかったか」
「どうせ非公式なものですから手伝ってくれるならどちらでも良いとまあ、手間賃を利悟が払って頼んだみたいですね」
「ふむ……まあ良いか」
そうして何故火縄銃などと云う凶器を使ったか若干怪しいところもあるものの、ひとまずこれは金目的の事件だとして捜査させておくことにした。
普通、上司である町奉行が同心の手先などを非公式なこともあるので関知しておらず、同心も己の手先が手柄を出しても自分のものとして報告するために知ることも無いのだが。
九郎の場合は少年の風体にあれこれと事件に関わって解決してもいる上に、相方となる同心が己の活躍を特に気にせず報告する影兵衛や利悟、他同心二十四衆なので上役にも知られているのであった。
******
町奉行が次の書類に目を通し始めた頃、外神田にある美濃屋の屋敷では……。
「つまり、ここが殺人現場っちゅうことやな工藤!」
「九郎だ」
黒袴に二本差し、そこに追加で十手を差している与力の格好をした若者が快活に自分の名前を間違えるものだから即座に訂正した。
大阪東町奉行所付与力、高崎長久と云う二十半ばの男である。
まだ畳に染みこんで生臭い脳漿と混じった臭いの出ている血を気味悪げに見ながら、九郎はあたりを見回す。
利悟が店の前で大声で手伝ってくれと喚き散らし地団駄を踏み「負けたじゃん! 負けたじゃん!」などと騒ぎ立てて九郎を手伝わせに来たので顔面の形を変えるぐらい殴りつけた後で仕方なく仕事に手を貸すことにしたのである。
「それにしても江戸でも起こるのだな、射殺事件」
「確かにちょっと珍しいんだけどね」
利悟が答えながら、真新しい障子を軽く指でつつくとぷすりと穴が開いて慌てて手を引っ込める。
「下手人は障子を開けて部屋に踏み込んで正面から一発で脳天を打ち抜きそのまま逃走、姿を見た者は居ないけど金蔵は開けられていて雇っていた浪人の多くが金子を持ち逃げ……こりゃあ大変な事件だ」
「誰が何両盗んだのかもわからぬからのう」
「つまり、密室殺人っちゅうわけやな」
「ちゃうがな」
長久に合わせて真顔で応える九郎。かなり無駄な気分はしたが。
逃げた浪人の数は十五名。殆どはそれぞれ別に付き合いがあると云うわけでもないのだからバラバラに散ったのだろう。盗まれた金を平均すると一人あたり九両。十両盗むと死罪になると噂なので律儀に遠慮したのか。
残った浪人も雇い主が死んだとなればまた出て行った。一人、猫を連れた浪人は若干態度が不審だったが、事件の時は近所の煮売屋で酒を飲んでいた証言があったので警備業務不履行を気に病んでいるのだろうと思われた。
実際は何かやば目なことに関わっていることに気づいたが、それを告げても一両は取り上げられるかもしれないし何か罪に関わらされるかもしれないので口を噤んだのだが。
「考えられるのは三つやな」
当然のように長久は指を三本立てて九郎と利悟に語りかける。
「一つ目はその逃げた浪人の中に犯人が居て金目的だった」
一本指を折り、続けた。
「二つ目はわいが探しとる盗人一味が口封じに美濃屋を殺しに来た……」
「その盗人一味と云うのは?」
九郎が一応尋ねる。
「上方で活動してる裏金の浄化組織でな、複数の盗賊と組んでいて盗んだブツを小判に変えてくれる両替商みたいなもんや。盗品買いの小さなところは多いがここは根の深い組織やで」
「それの一員だったここの主が、何らかのしくじりで消されたか……それにしては仕事が回りくどい気が」
「せやかて九条」
「九郎だ」
間髪入れずに訂正する。本当に訂正されているかは復唱すらされないので不明であったが。
「最後の一つは?」
利悟が云うと長久は最後の指を折って応える。
「それ以外全部の何らかの事情、ってやつやな」
「曖昧だ」
「まあ、とりあえずは逃げた浪人探しになるだろうが……正直これはもう火盗改案件にした方が良いのではないか? 市中から離れたかもしれぬし」
「そうなんだけど、何でもかんでもあっちに凶悪事件の主導権渡してると世間体が悪いんだよなあ」
困ったように利悟は云う。
あちこちに逃げたであろう浪人も、例えば江戸の郊外に行けば勘定奉行の範疇になり、どこぞの藩邸の賭場にでも泊まり込めばそこの目付などに話を通さなくてはならない。
一方で加役である火付盗賊改方は怪しいとなれば犯人を江戸の外まで追い掛け、他所の縄張りでも問題覚悟でガサ入れを行える。「拙者が裁判官だ死ね!」が火盗改を代表する同心、影兵衛の言葉であるがまあそんな感じである。
「しかし火縄銃で狙い撃ったのか……案外遠距離から撃ったのではないか? 逃走するにはそっちのほうが容易いが」
九郎が現場に面した庭、その先の塀を見ながら確認する。
「うーん、あの上は無いんじゃないか。自身番が近くにあって、音がした時に雷かと思って外を見回したけど何も無かったそうだから」
「向こう側の建物は何がある?」
「確か……薩摩藩の別邸だったかな」
「なに、薩摩……そういえば当日は宴の……」
九郎が苦い顔をして腕を組んだ。
薩摩。銃声。宴。導き出せる真実はいつも一つ。見た目は子供頭脳は老人な彼の灰褐色の脳細胞が閃きを見せた。
見せたが、あまりにバツの悪い上に自分も無関係ではない案件で面倒なことになること請け合いなので閃いたまま暗い記憶に押し込めることにして、
「……まあ特に関係は無さそうだのう」
真顔でそう告げた。事件の原因やからくりを解き明かすより大事なのは現在だ。諦めない明日を、そして振り向かない昨日を。
……最悪、流れ弾と云う説さえ脳裏を掠めたので一人、塀の高さと放物線の予想をしてみる九郎であった。
「とりあえずわい達は盗品買い一味に繋がる証拠を探しますわ」
「こういう時[家屋解体]の奥村さんとかいれば簡単なんだけど……」
「仕方ないのう」
そうして三人で家宅捜索を行うことになった。
戸棚をすべて開けたり、屋根裏に潜りこんだり、床板を外したり、鍵の掛かった蔵を片っ端から九郎が鍵を切り落として開けたり、怪しげな穴に六角棒を突っ込んでくるくると回したらオブジェが動いて宝石が出てきたり……。
などとしていると、従者も付けずに慌てて屋敷に駆け込んでくる同心が居た。
三十がらみの男で、やや小柄だががっしりとした体格の彼は同心二十四衆の一人[反乱射]三瀬広彦である。
「竈はどこだ!」
「は、はあ、あっちですが……」
利悟が剣幕に押されながら指を差す。広彦はそちらにどたばたと走って行くので、三人も首を傾げて付いていった。
竈のある厨に辿り着いた彼は、火が落ちた竈灰の中に手を突っ込んで中の燃え滓を漁る。
炭化した木片の小さな欠片ぐらいは見つかるが、すっかりと燃え尽きて確認が取れそうなものは無かった。
恐る恐る利悟が話しかける。
「三瀬さんは火縄銃の出処を探ってるんじゃ……」
「死体から刳り出した銃弾を確認したんだ。見てみろ!」
そう言って彼は、手に握っていたやや変形している鉛製の楕円弾を見せた。
武士とは云え火縄銃など手にしたことがない利悟や長久、それに九郎は何処におかしげなところがあるのかと首を傾げる。
出来の悪い生徒を見るように広彦は眉根を寄せながらため息をついて説明する。
「そもそも頭に火縄の弾があたって貫通してなかったと云うのがおかしいんだ。柔らかい鉛で出来た弾丸とは云え、頭蓋骨に当って変形こそすれ容易く脳髄を破壊して突き破る威力を持っている。それにこれは貫通性を上げる為にわざわざ楕円に特注してある弾だ」
「ううむ、ますますプロっぽいが……」
「見てくれ。火薬で撃った場合付くはずの僅かな焦げが無いんだ。臭いも付いていない」
「これは一体どういうことや久能!」
「九郎だ。しかし脳天に食い込んでいたのは確かなのだろう?」
訂正する。認めたら恐らく負けだ。諦めの早い九郎だが、時と場合による。
銃弾を受け取って眺めながら云う九郎に広彦は頷き、手振りをしながら説明をする。
「おれの考えではこうだ。犯人は短弓を隠し持っていて、鏃代わりにこの銃弾を括りつけていた。そして何らかの道具で銃声を鳴らし……美濃屋の脳天を弓矢で射殺したんだ。
そして銃弾を残して矢を回収し、何食わぬ顔でこの竈へ来た。女中を現場に向かわせた後、凶器にした弓と矢は竈に放り込めば証拠は残らない。
その後は死体から奪った鍵を使って雇われの無頼共を煽り略奪させる。すると現場は荒れ、容疑の目も逃げた連中に向かい真犯人は一度取り調べを受けただけで開放される……火縄銃で殺されたと証言があり、証拠の品も無く体に硝煙も漂っていないのだから疑われもしない」
「そ、それでは射殺した犯人は……!」
射殺事件に一切動じていない、獄卒の如き雰囲気をしていた巨漢の張替え屋を思い出しながら利悟は身を震わせる。
顔を外へ向けながら、広彦は云う。
「短弓ならば張替えの道具に紛れて持ち込むことも簡単だっただろうさ。だがしかし、これはあくまで状況が『そう取ることも可能だった』と云うだけの推測の話だ。それだけでは捕縛、牢問の許可も降りない」
「確かに、可能性っちゅう話やったら逃げた浪人の誰かがやったってことも十分考えられるからな……」
「今回の件で、あいつが犯人だと断罪するには、可能性がある者すべてを獄門に送るしか無いだろうよ……」
九郎は手に握った弾丸を見下ろしながら云う。
「[無罪]か……」
大胆、かつ周到な犯行があった事実に、その場の四人は重たい沈黙に包まれていた……。
*****
「おーい、水死体が上がったぞー!」
大川に浮かぶ無数の船。
蒸し暑い江戸では金のある町人は舟遊びへと繰り出すことも多い。
近くにかかる大川橋の上で涼んでいたものも身を乗り出して、水死体を引き上げる様子を覗きこんでいた。
船宿の漕手である男が櫂で引き寄せて顔をしかめながら緩んだ衣服の裾を掴んで、ずるりと水気の有る死体を舟に乗せる。
死体を上げるのは数度目である。無視するのも仏に悪いと思って皆が手を拱いている時でも彼は仕方無さそうにそれを役人に引き渡すことをしていた。
「こりゃ侍だな」
髷の形を見ながら、近くに寄ってきた他の舟の者に聞こえる声音で云う。
痴情のもつれか、借金苦か、殺しか。好き勝手に書き立てた読売が明日の朝か、早ければ今日の夕方にでも出回るだろう。物騒な世の中だと云うのに江戸の住人達は事件の情報に飢えている。
つい昨日もどこぞの金貸しの大尽が殺された話で盛り上がったばかりだと云うのに。
「お侍が身投げするようになっちゃ幕府も長くねえや……おや」
ぶくぶくに水で顔体が膨れているが、仰向けにして張り付いた藻や塵を手拭いで拭いてやると、その顔を見てなんとも言えない表情になった。
「お多福みたいに笑ってやがる。ま、あの世は居心地がいいらしいからな。誰も帰ってきやしねえ。南無阿弥陀仏っと」
どこか微笑んで見える仏を見て、皮肉げにそう言って「退けろ退けろ」と周りに声を掛けて岸へ運ぶのであった……。
******
江戸から離れ川崎宿──六郷の渡しを見る茶屋にて。
十三は湯のみを脇に置きながら、煙管から煙を吹かしている。
考えの読めない鋭い目つきのまま、ゆっくりと渡しを待っているようであった。
「おっ、旦那。ちょいと煙草を分けて貰えねえか」
旅装束をした若者が話しかけて来たので、
「ああ……」
と、煙草盆を差し出してやる。
若者は葉を煙管に入れて盆の炭火で火を付けてゆっくりを煙を喫んだ。
「ふいー……やっぱり煙草は薩摩刻みが一番だなあ」
「……」
十三は無言で顔も向けずに押し黙っている。
「おいらァこれから伊勢参りに行くんだが、旦那はどこまで?」
「……」
陽気に話しかけてみるものの、まったく反応が返ってこないもので若者は大きく肩を竦めて、煙草の灰を落として渡しの関所へ先に歩いて行った。
煙をくゆらせながら、十三は晴れた空を見上げている……。
江戸の取締は郊外、寺社、武家屋敷など場所によって管轄が異なる。
それにより発覚しない犯罪や、江戸を売って逃げる盗賊が未解決事件として多く残される問題がある。
完
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九郎は読み終わった原稿──上記は九郎の意訳である──を机に置いて、真剣な顔をしている雨次に告げる。
「……よく取材をしておるようだし、着眼点も良いだろう。これまでの黄表紙には無い種類の話だ。十二でこれを書けるのは中々凄いぞ」
「じゃあ」
「だがボツだ」
「……」
がっくりと頭を下げる少年。
雨次は何か仕事を始めようと思っていたのだが、よく知らない人に接客したり肉体労働を行うのは不得意であった為に、筆を取って作家になればと良いと考えが至り物語を作成したのであったが。
知り合いの同心や道場主、天爵堂などに話を聞いて膨らませ作った話がこの[筧左天]だったのである。敢え無くボツにされたが。
「何が悪かったのでしょうか」
「うむ……多分発表したら怒られそうなところかのう」
「やはり実在の役人などは難しいですか」
「いやまあ登場人物もそうだが未来的なところから」
「?」
そこらを気にする素振りを見せる九郎。時空の壁を突き破って襲いかかる時間警察を警戒しているのだろうか。彼らが持つ存在消滅措置にかかれば抵抗も無意味に先祖に遡って消滅させられかねないので抵抗は無意味かもしれないが。
一応確認の為に尋ねる。
「ちなみにこの話、夢の中に出てきた頭の変な義手女が元ネタの本を読ませてきたとかそう云うのは無いよな?」
「ええと、どうだったかな……」
「まあ良い……そうだ、掲載はできぬが、一応原稿は貰っておくから代金は払っておく」
そう言って九郎は雨次に一分銀を渡した。
若干言いにくそうに九郎は云う。
「文筆だけで暮らすのは結構難しいぞ。たいていは副業をしながら筆を取るものが多い」
「そうですか……また何か、考えてみます」
進路についても助言をしておく。当時、本は高価で貸本が盛んであったが一冊作るにも大量の人材が必要だったので作者に入る金もそう多くはない。
おおまかに分けると[作者]が物語を考えて原稿を作り、[筆耕]が文字の清書を行って、[画工]が挿絵を付け、[板木師]が板木を彫り、[摺り師]が転写して、[丁合い]と[天地切り]がそれぞれ頁を整え、[表紙掛け]が表紙を作って[製本]で糸綴じを行う。
その九つの過程を別の部署に回しながら行い、行事、町年寄、町奉行所を通してそれぞれに金を支払わなくては出版許可も取れないのだから一冊あたり高くなる筈である。
文筆の作だけで暮らしていけるほどに稼ぐとなると[東海道中膝栗毛]の十返舎一九か[南総里見八犬伝]の曲亭馬琴ぐらい売れた作家でなければ難しかった。
「ともあれ、見どころは大いにあるから次も何かできたら頼むぞ」
「はい」
「あと、実在の人物名はぼかしておけよ。本にするには奉行所に見せねばならぬからな。赤穂浪士の事件だって名前を変えてあれこれ物語や芝居にしているからのう」
「そうします。ありがとうございました」
言って、九郎は原稿を持って天爵堂の屋敷を後にした。
歩きながら限りなく扱いに困る物語を眺めて、ため息を付く。意訳しつつ読んだがこれは……
「おっと、何読んでるんでぇい? 助平なの? ねえ助平なの?」
声を掛けられて頭の上からぬっと手が伸び、九郎の持っている紙の束を奪い取った。
見上げると鍬を肩に掛けた大柄の渋い声をした男──この辺りの地主、根津甚八丸が雨次の原稿を読みふけっている。
「なんだこりゃあ。あの餓鬼、どこからこんな事を知りやがる」
呆れた様子でそう言う彼に九郎も肯定した。
「まったくだ。変な電波でも受信して無ければ良いが……」
「んん? いやぁ、別に内容がどうとかじゃなくてよう───」
甚八丸は低い声で、云う。
「掛札場のこの符丁なんざ、命が惜しければ誰も教える筈ぁねぇんだが……」
九郎は絶句して、原稿をすぐに焼き捨てるのであった。




