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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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64話『長生き苦労といつかの約束』

 時の将軍、徳川吉宗は紀伊を治めていた頃からの倹約家で知られている。

 将軍に宣下されてからも、木綿の衣服を着て食事を質素にし、また幕臣がそれに倣うことを良しとした。

 例えば、御側衆の北条対馬守が絹の着物で目通りをしてきた時などは酷く不機嫌に無視をしていたと云う逸話すらある。 

 しかしながらそんな吉宗が好んだのは、寝る前の酒であった。

 将軍御用達の酒は伊丹で作られる上がりものの酒である。これを吉宗はその日によって何本と決め、寝る前にそれを嗜んだ。酔って暴れることも翌日に残すことも無かったとされているので、酒好きだというのに節制のある性格が伺える。

 ある日──吉宗はふと思い出したように、側近であるが幕臣というより何か奇妙な関係のある巨漢の男に言葉を零した。


「そういえば、去年飲んだ市中の酒も旨かった」


 市中の酒と云うのはその側近の男が、私用で吉宗に許可を取り町へ出かけた時に土産代わりに貰ってきた貧乏徳利に入れた蕎麦屋の酒である。

 店に置いてある高い方の酒ではなかったし、恐らく混ぜ物をしてある味がした。小納戸役が味見をすれば御殿医を呼んできて協議を始めそうな謎の味である。

 

「だが不思議とまずくは無かったな……」


 そう上様が云うので、側近の猪めいた男は困った。

 できればまた買ってきてあげたい気持ちもあるが、身の丈九尺近くあり小山が動いてるようないかつい体格の彼は、僧衣と笠で身を隠そうとしても酷く目立つ上にヘタをすれば怪物と退治されかねない。 

 実際に吉宗に出会った時も猪の化物だと思われてしたたかに火縄銃で殴り倒された。そんな彼が江戸城をそうそう出入りはできないのである。

 そしてこれは個人的なのだが、件の蕎麦屋で惚れた相手に振られたので行きづらい。

 困った彼は、こうなれば身分も小さく話しかけやすい、また年の功で頼りになりそうな相手に相談することにしたのであった。

 江戸城、二の丸にある同心詰所。

 幕臣の中でも最下級の役人である同心だが、江戸城勤めとなるとやはり風格が違う。多くの者が目にする、町奉行所や火付盗賊改の同心はお役目柄、町人とも親しみ易くする為に髷を町人風に結っていたり、中には密偵紛いに変装をしていたりする。

 しかしこの城の庶務を勤め、いざと云う時の番兵となる二の丸同心は質実剛健を擬人化したような存在であった。

 

(故郷の近衛騎士は何故か女騎士ばかりだったよなあ……)


 種族柄なのか、何故か男は学者になることが多かった故郷を思い出しながら詰所へ顔を出した。


「あのぉ、どうも」

「む。これは大奥殿」


 詰所の中で水を湯呑に入れて飲んでいた老人が言葉を返した。

 大奥殿、と云うのは巨漢のあだ名のようなものである。そのような役名は無いのだが、普段は大奥の前にて番人に似た事や御広敷の手伝いをしているからいつしかそう呼ばれるようになった。

 老人は小柄だが、年をとって体が縮んだのではなく若い頃からそうだと言わんばかりに皮のたるんだところはなく、高齢ながら引き締まった体に意志の強そうな顔立ち、矍鑠とした雰囲気を見せている。

 彼は二丸同心、飯田芳三郎──同心二十四衆の一人『最古の同心』と呼ばれる。口さがない者は同心の干物、などとも言うが。

 身分こそ低いが将軍家に仕える忠は長く、神君家康公の頃から脈々と世代を重ねて二の丸同心をやっている。

 明暦の大火事にて江戸城に火が燃え移った際には目覚しい活躍をしたこともあり、加役の話も出たのだが城の一大事に面目が無いと断り低い身分に誇りを持っている。

 その代わりに普通は世襲で交代する二の丸同心の役を、親子で行っても良いと許可を貰っているために息子も同心として働いているが芳三郎も隠居をせずにまだ現役を続けているのであった。

 そんな老同心に男は話しかけた。


「実は上様の事なんですけど……」

「どうなされた?」


 芳三郎が神妙な顔で問い返す。

 同心などと云う下級役人にとって、将軍はお目通りもできない雲の上の存在であるのだがその悩みについて相談に乗ると云うのは、そうそう乗れるものではないが年のおかげか肝が座っているのか、気にした様子はない。

 芳三郎は吉宗と一度会話をしたことがある。

 吉宗が江戸の将軍となり、まず江戸城をあれこれと視察に回った。己が住まう場所を知らずしていざと云う時にどうするのかと云った実務的な判断である。老中などは、


「そのような些事は報告させますので……」


 と口を挟んだが逆にその場で吉宗から江戸城の財政や仕える役人の数と名前、火事にて改築した部分の詳細などを答えさせようとしたが確りと知る者が老中に居なかったことに叱りつけたと云う。

 その視察の際に話しかけられたのが芳三郎であり、彼の質問にきっぱりと長年の知識で己が知る範疇はすべて答えられたので覚えをよくされたのであった。

 ともあれ、巨漢が云うには、


「上様が市中の酒が飲みたいと言い出して……」

「ははあ……上様は時々変な要求をなさるのう」

「普段は質素なんですけどねえ。外国の望遠鏡が欲しいとか、和蘭の本と訳者を用意させようとか、突然言い出すんですよ」

「なに、それもこれもお考えあってのことだろう。しかし市中の酒か……手に入れるのは簡単だが……」


 芳三郎は日付を数えて頷く。


「よし、では店を教えてくれ。今度の非番にでも、賄役の鈴川殿と店を確かめに行ってくる。あの方は話がわかるからな、体に悪い物でも無ければ許してくださる」

「わあ、ありがとうございます。鈴川さんだったら僕も顔見知りだから、後でお願いしておきます」

「まああの上様なら大抵の物を食べても平気だろう。前に鷹狩りに行った時は途中で寄った農家で稗飯に塩をかけて食っていたと聞いたが」

「旨かったらしいです」

「……ひょっとして味にあんまり」

「しっ」

  

 などと二人で言い合って、思わず周りを見回すのであった。

 まあ、江戸城で将軍に出される米は炊くのではなく蒸して作るばさばさして味気ない物なので雑穀混じりでも下々が食うもののほうが旨い、という感覚はあったかもしれぬが……。




 *****




 賄吟味役の鈴川肖之介は三十絡みの、柔和な顔立ちをした痩身の男である。

 江戸城の料理人は京の四条流だとか由緒と伝統ある料理人から多くは選出されるのだが、彼の場合はむしろ鷹狩り獣狩りで捉えた獲物を捌く腕前で将軍に認められた武士であった。

 初めこそは京の料理人などから、粗野な下料理人と白い目で見られていたが生来の毒気を抜かれる抜けた性格と職務時は真面目な仕事ぶりによりそれなりに認められるようになった。

 それで下級だが、直参武士で料理や食材の良し悪しを監督する立場になったのだから世渡りが下手と云うわけでもないだろう。

 子と父程に年上の芳三郎とは、たまたま両国広小路にある粗末な小屋で売っている鰻屋で顔を合わせてそれから時々、どちらかの家に呼んで酒肴を開く程度に仲の良い関係である。

 

「いやあ、どんな酒でしょうねぃ」


 背中まで伸ばした髪を括り、笠を被っている下から目を細めながらのんびりと云う。やけに髪が長く髷も結っていないのでとても役目のある武士には見えないが、長い髪は料理に髪の毛が落ちず落ちてもむしろわかりやすくして取り除くためである。 

 城勤めの武士二人が市中を供も連れずに出歩くと云う事自体が武士らしくはないのであるが……。

 

「そう繁盛もしていない蕎麦屋の酒と聞いたから珍しくはないと思うがのう」

「蕎麦かぁ、いいですよねぃ。蕎麦をがっと啜って辛い酒をぐっと飲むの」

「うむ」

「暑い時だと蕎麦つゆに擦った芋を入れてですねぃ、一緒に啜りこんで口のぬめりを落とすように二、三杯……」

「良いな」


 この二人、鰻屋で苦い肝を焼いたものを食って酒を飲み意気投合しただけあって、酒呑みなのである。 

 それ故に上様の、たまには変わった酒が飲みたいと云う希望ぐらいは叶えたいものである。 

 無論この酒探しは大奥の男が聞いた非公式な望みである。将軍が他の部下にいえば、酒の味が落ちたのかと酒樽の底まで調べられたり、酒作りをしている職人らに迷惑がかかる。

 やがて、二人はたぬきの絵が書かれた[緑のむじな亭]と云う店にやってきた。

 

「御免」


 外はじりじりとした陽気を持つ夏日で風も少ないが、店内は匂いが変わって感じる程度に涼しく心地よい。

 入ると、前掛けをした眠そうな目つきの少年──九郎が顔を向けた。


「二人様、座敷でよろしいかえ?」


 促されて芳三郎と肖之介は履物を脱いで上がった。

 その日は相も変わらず朝晩と蒸し暑く、例によって冷房の効いた九郎の部屋に子供らが寝に来たのだがタマが風邪を引いてしまったのだ。

 タマが風邪を引いたと云うと陰嚢が冷えてしまったような印象を覚える表現だが、とりあえず病欠することになった店員の代わりに暇していた九郎が店に出ているのである。

 座った二人に九郎が、初めての客だな、と思いながら尋ねる。


「注文は何にしますかのう」

「ああそれじゃあ酒と……蕎麦は出せるんだよねぃ?」

「うむ。冷やしおろし蕎麦が今日のお勧めだが」

「ではそれを二人分」


 注文すると、ほどなくそれらは出てきた。

 現代のように打ち立て、茹でたてを提供するような設備はない為に、当時で云うと茹でおいたものに熱いつゆをかけるか、水で洗って笊に盛って出すかが多い。

 この店でも店主の六科が打った蕎麦など茹でたてにこだわってもそう味は変わらない為に茹で置きにしているが、その後の処理が少々九郎の手が入り異なる。


「お待ちどう」


 丼に入れた蕎麦の麺の上に大根おろしと刻み葱をたっぷり載せて、つゆを上からかけ回したものと銚子の表面に水滴が浮かんでいる冷酒である。

 二人はそれぞれ丼と銚子を触って、


「……?」


 と、顔を見合わせた。

 ひとまず茶碗に酒を注いで、冷やし蕎麦を箸でつまんで、


「ずっ」


 と、すすり込み、目を剥いた様子で次に酒をぐい、と煽って同時に冷えた息を吐きながら目を合わせる。

 冷たいのである。両方共。

 蕎麦の麺もつゆも酒も、九郎が使う術符で作った氷水で冷やして提供しているのである。

 そうとは知らぬ為に二人は声を潜めて、


「井戸の水はこんなに冷たいものだったかねぃ……?」

「まさか。夏場など浴びても体が冷えぬ苔臭い温水。郊外にある湧水を使った蕎麦屋でも夏場ではここまでは……」


 異界から持ち込まれた魔法によって冷やされた物は、江戸の者にとってはくどく繰り返すようだが、未知に近い冷たさである。

 現代よりも気候が寒かった時期があり、大雪などが降ることもあったが夏に出される冷たい物の温度差は別格であり、それ故に氷室から運ばれる氷は将軍や貴人しか口にできぬものなのである。

 

「蕎麦も中々のものだねぃ」

「この辛いおろし大根がよりすっきりとした風味を出している」


 などと蕎麦を手繰りながら云う。

 暑い時期でもこの冷えた蕎麦ならば何杯でも食えそうだ。

 本来ならばここはかけ蕎麦を出す店なのだが、さすがに猛暑の中では売上も糞も無い。かと言って、そのまま盛り蕎麦につゆの味付けを変えようとすれば作り手の六科の味覚インプット情報に異常が起こりかねない。 

 そんなわけでつゆの味はあまり変えず、冷やして更に大根おろしだの、卵だのを載せることにより蕎麦の味を誤魔化すことにしているのであった。

 酒は安酒を九郎の経験から混ぜて、塩を若干加えて味を整えたものを出している。チープな味わいだがこれも冷やせば味以上の付加価値がつく。

 九郎が以前、現代日本にいた頃に働いていた会社で、コメ不足の折に作られたブレンド米の下酒を複数の銘柄捨て値で買い込み、それを再調合して売るという仕事をしていた経験によるものだ。醸造用アルコールを混ぜればさらに味がよくなるが。なお、酒税法違反な行いである。


「蕎麦のお代わりを」

「他に肴もあれば頼むよぉ」


 と、追加で頼みつつも二人は冷えた容器をつつきながら考える。

 普通の客ならば、冷えている、珍しくて旨いな、で済ませるところだろうがこの二人は将軍に酒を買いに来たのである。

 去年に飲んだと云う酒の味は知らないが、この冷えた酒を所望しているのではないか。

 となればなんとしても冷やす方法を知らねばならない。


「こうなれば店員の親族を人質にとって……」

「発想がすっ飛んでるねぃ飯田さん。普通に聞いてみよう。おうい、店員さん」


 呼ぶと、別の座敷に座っている喪服の奇妙な女──石燕だ──と会話をしていた九郎が盆を持ちながらやってきた。

 肖之介は手を戸のように口の横に立てて声を潜め、九郎に話しかける。


「身共はお城で働く料理番なんだけどねぃ、ちょっとここの酒ってどうやって冷やしてるのか知りたい」

「城……? 江戸城の料理人か。ううむ」


 それを聞くと九郎は唸り頬を軽く掻いた。

 そして面倒くさげに周りを見回して、


「大層な役目の方に悪いのだが、企業秘密にしていてのう……っと爺さん、店の中で腹を切ろうとするな。何をしているのだ。サイコかお主は」


 こうなれば命に変えても、とばかりに己の命を散らしかけた芳三郎を止める九郎。

 この最古の同心、気はいいのだが思い込みによる衝動が激しいところがあるのである。

 刃傷沙汰は店のためにもならぬし、お上からの要請となれば秘密にし続けても良いことはない。

 だが妖術のようなもので冷やしている、などと真面目に説明できるものでもない。

 

(どうしたものか……)


 と、九郎が悩んでいると、彼の後ろから客の一人──石燕が得意げな顔で割り込んできた。


「ふふふどうしたのだね九郎君! さては秘密を伊賀の素破めいて抜き取ってくる──名づけて素破伊すぱいの登場かね!?」

「こんなに堂々と聞いてくるスパイが居るか」

素破伊賀すぱいがと続けると上級のようだよね」

「どう効果を上げるというのか」


 憮然とツッコミを入れる九郎。

 だがやはり石燕は聞かずに話を進める。


「ここの酒を冷やす方法は特別でね。お上に教えることは吝かではないが、さすがに他の客に知られてしまうのは困るのだよ」

「ふぅむ。それじゃあ店が閉まってから聞きに来ようかねぃ。なに、ただってわけじゃない。個人的に報酬もあげるし他所には教えないようにするよぅ。ねえ飯田さん」

「拙者の息子の命ならば惜しいがくれてやる……!」

「いや要らんが。というか何故息子。そこは自分の命を差し出せよ。要らんが」


 ともあれ、昼営業が終わった頃にまた二人は来ると言い残して出された蕎麦と酒を片付けて出て行った。 

 外は冷えたものを出す店内に比べて、うっとする熱気を感じるがともあれ、何やら特殊な技巧の教えを受けるのであれば相応の礼が必要だろう。

 権力に傘を着て無理やり町人を脅して何かを奪い取ったなどと話が広まっても余計悪い。

 飯代と酒の五合でも買い付ける程度にしか金を持ってきていなかった二人はひとまず肖之介の屋敷に戻り、金子を用意に行くのであった。

 さて……。

 一旦二人を帰したものの、改めて来られた時にどう説明したものかと九郎は考えを巡らせる。

 妖術を説明して氷結符を召し上げられるなどと云う事態になるかもしれない。快適な生活に不可欠だと云うのに。

 

「困っているようだね九郎君! そこはこの江戸に名高き超常現象・鳥山石燕にお任せだよ!」

「存在自体が現象なのか……今更だが」

「私にかかれば震え神こと妖怪[震々(ぶるぶる)]を取りつかせて涼しげに!」

「妖怪妖術以外でなんとかしようと頭を悩ませているのだ」


 一応云うが、石燕はやはり余裕の態度を崩さずに、


「要は自然に冷える道具をこしらえて見せれば納得してくれるのだろう? ならば私にいい考えがある」

「不安だ」

「とりあえず九郎君と……重いから女手は無理だね、叔父上殿も手伝いたまえ」


 彼女は六科を呼びつけると命令を下された剣闘士のように彼はのっそりと無言で板場からやってきた。

 さらさらと石燕は取り出した紙に何かを書き連ねると二人に渡して、


「それらを集めてきたまえ。それで冷やし酒の秘密は出来上がるのだよ」


 


 *****




 まだ暑さが日陰に入れば問題の無い時期には緑のむじな亭も日中は営業を続けていたが、あまりに暑くなると酒や水を切らす──井戸は特に夏場になると気にしない性質の六科か九郎以外飲用には向かない為に購入していた──ので営業時間を再び夕方になると一旦閉じていた。その間にまた仕入れを行うこともある。 

 ともあれ、九郎と六科はそれぞれ示された道具を買ってきて石燕の指示通りに準備を整える。 

 やがてまた賄吟味役と二の丸同心の二人組が店にやってきた。


「宜しいかねぃ」

「ああ、うむ。よくわからんが……」

「は?」

「いや、なんでもない」


 九郎は己の呟きを否定しつつ、石燕の云う通りにした、被せ布で隠している物に目を落とした。

 理屈はわかるのだがいとも容易くそれを思いついて実行させた石燕の知識がよくわからなかったのだが、まあ彼女に関して深く考えても無駄かもしれない。

 視線の集まる布の塊に、石燕が含み笑いを零しながら手をかけた。


「そう、これが水を冷やし続ける仕組みの道具──[高尾の御仏壺]と呼ばれるものだよ」


 布を剥ぎ取るとそこには奇妙な物があった。

 まず非常に大きくて口の広い瓶があり、その周りに手ぬぐいが巻かれている。

 瓶の中心に別のふた回りほど小さな、水の入った壺が入っていて、壺の周りは濡れた砂が詰まっていた。

 そして壺の蓋には三角錐の置物が置かれている。

 訝しげに二人は見る。


「これは……?」

「ふふふ、まあまず飲んでみたまえ」


 論より証拠だとばかりに石燕は三角錐のついた蓋を取り、柄杓を入れて水を掬う。

 が、


「しまった、これは船幽霊用の底の抜けた柄杓だった……!」

「持ってくるなよ、そんなもの」


 惜しげもなく対幽霊ゴミを放り捨てて新たなもので掬い、茶碗に入れて飲ませる。


「冷たいねぃ」

「どういう仕掛けだ……?」


 不思議そうにしている二人に石燕は得意げに解説を入れる。


「この壺については江戸の幕府が開かれるより前の話だ。ある僧が生き仏になろうとしたのだよ。食を断ち漆を飲み込み、そして元から小さかった彼の体は前から頼んでいた焼き物職人にこのような壺に入れてもらい、高尾山の洞穴に納められた。

 それから何年か経過して、高尾山に寄った僧と知り合いだったものが生き仏になった姿が残っているだろうかと探したところ……その体は腐らず、ひんやりとしたまま残っていたと言う」

 

 二人は彼女の話を聞きながら、その壺を見つめる。

 

「その安置した場所は軽く崩れていて土砂が壺を半ば覆い、また水で常に湿っていた。いいかね? 例えば、水で濡らした手ぬぐいで体を拭い風に当たると冷たくなるだろう? 常にその状態だったのだから腐るものも腐らない」

「確かにひんやりとする……つまりこの壺は」

「そう。まず一番外側にある濡れ手ぬぐいで瓶を冷やす。次に瓶の内側の砂で更に中心の壺を冷やす仕組みになっている。あとはこれを風通しの良く日の当たらぬ場所に置いて、砂と手ぬぐいが乾かないようにしておけばいつでも冷えた水が出来るって寸法さ」


 と、いかにもそれらしく言った。

 その理屈は気化熱を利用した冷蔵方法で、実際に内部の壺は温度が一桁代になるので食品の保存や冷水の作成には十分仕える道具である。

 今回は作成から披露までの時間がなかったから予め九郎が氷結符で冷やしていはいるのだったが。

 

(それは良いのだが……)


 九郎はじっと壺の蓋を見ながら、石燕の発明に驚かずに胡散臭げな念を送っていた。 

 芳三郎もそれに気づいたようで尋ねる。


「このトンガリは?」

「それは三角錐に秘められた宇宙力を利用することで内部に入れたものを傷ませない術さ」

「なるほど……さすが巷に聞く鳥山石燕」

「ピラミッドパワーは嘘だろ」


 一応言うが九郎の言い分は誰も聞いていないようだった。言論の自由は無視される権利でもある。少し寂しげに冷えた焼酎を口に流し込む。

 三角錐の内部に入れた生ものが腐りにくいという説はムーでも取り上げられた正当な現象だが、筆者の実験では宇宙エネルギーの不足により再現できずに終わった事がある。宇宙エネルギーが多いところでやらなければいけないかもしれない。聖人の墓とピラミッドそのものがある青森とか。

 

「なるほど、これなら冷えた酒が城でも作れるねぃ。上様に出す料理だって冷やし物を最初から作ったほうが味はよくなる」

「ふむ、興味で聞くのだが将軍に出される飯とはあまりよくないのか?」


 九郎の素朴な疑問に肖之介は苦笑して頷く。

 

「そうだねぃ。まず膳に盛ってから毒見役の御膳番が食べて、それから半刻ぐらい置いてから上様に出されるんで汁は冷めて濁ってるし魚は生臭くなってるし……」

「あまり羨ましくないのう」

「おまけに精進日が多いから魚も食べれないことも珍しくない。これまでの七人の将軍とその奥方の祥月命日と毎月命日だねぃ。これで十代二十代将軍と続いたら一年の半分は精進日になりそう」

 

 と云う。

 更に命日はそれだけではなく、歴代将軍の近しい血縁者や特別な側室などの命日も含まれる為に、将軍からしても「誰それ」と云った人物の為に精進日だったりするのである。

 この後数十年後、さすがに多すぎると思ったのか故人の命日を変更して他の人物の精進日と同じ日にするという、ちょっとそれもどうなのか不安になる解決法が取られることになる。


「ともあれ、秘密を教えてくれて感謝する。これと、酒を一本貰おうかねぃ。この徳利に入れておくれ」

「礼金を払っておこう」


 と、芳三郎から一両を渡されたので九郎は肖之介が持ってきた徳利に五合ブレンド酒を入れてやった。

 帰りながら、漬物も冷やせるとか家にも作って置こうかとか話し合っている。

 果たしてこの冷蔵機構が江戸城で利用されることとなったのかは……また別の話であるが、ひとまずこの酒は小納戸役の毒味を経て将軍に渡されることとなったのであった。

 二人を見送りながら九郎は安堵の息をつく。

 妖術で冷やしたと言うよりは、誰でも再現可能な変わった方法を使ったと説明したほうが良いに決まっている。  

 それにこの気化熱冷蔵庫が江戸に広まっても、それ以上に冷やせるこの店の優位性は保たれる。

 

「ふふん、どうだね九郎君。私に任せてよかっただろう」


 石燕が九郎の後ろから抱きつき、顎を彼の肩に乗せながら顔の近くで囁いた。


「ああ。ありがとうよ石燕。感謝しておる」

「それじゃあお礼をしてもらおうかね。なに、大したことじゃない」


 石燕はにんまりと笑いながら、甘い声音で云う。


「ちょっと一緒に寝てもらうよ、九郎君」



 

 *****




 慌てず騒がず当然のように。

 九郎は近頃暑いので、冷房の効いた九郎の部屋に泊まりたいという石燕の頼みを請け負った。

 

「別に恩を着せなくともこれぐらい、いつでも泊まらせてやるが……」

「心の問題だよ」


 言いながら夜もまだ浅いが、九郎の部屋に二人布団を敷いて、枕元に置いた酒を飲みながら向かい合って座り雑談をしている。

 タマの風邪も夜には良くなっていたので店に出ている。布団の用意している二人を見ながら、「急いで仕事を終わらせて待機しないと!」と謎のやる気を出していたが。

 窓を開けっ放しで冷房全開にするという素敵な使い方をしながら月見酒をしている二人である。


「いやあ涼しい。これはいっそ、真夏にこの中で湯豆腐なども楽しめるかもしれないね」

「ふむ、そうだのう。冷気も熱源も使い放題だと便利で良い」

「ひょっとして冬も暖かくいけるのかね?」

「冬はのう……自分ひとり温めるぐらいなら大丈夫だが、部屋全体を長時間となると調節失敗したら火事になりそうだからやりたくはないな」

「まあ、その時は例の炬燵に一緒に入るのも情緒があるから良いか」


 石燕は機嫌よく云う。


「まさに一家に一人、助け屋九郎君だね」

「己れを家電のように云うでない」

「ま、取り上げたら房に怒られるから頼みに来る程度にしておこう。それに我が家は今、妖怪[目目連]が大発生中で寝る場所が無くてね」

「確か……障子に目が付いている妖怪だったか?」

「そうだよ。まあ本当にそれなら良かったのだけど、目みたいな模様の亀虫が何処からか家の中に大量に入り込み、夜になると明かりを反射する障子紙にみっしりと……」

「嫌だのう……というか子興のやつを一人残してきただろ、お主」

「なあに、彼女ならやってくれるさ……!」


 家では今頃、臭さと気色の悪さに涙目になりながら子興が退治に回っている。亀虫に刺されても涙拭え子興。拭ったその手にもすえる臭いが付いているぞ子興。


「そういえば」


 石燕が九郎に寄りかかる。元から細っこい手は冷房で冷えてよりひんやりとしているので若干九郎は気になった。風邪を引かれたら困る。


「九郎君はあまり私に、この妖術の札を見せようとしなかったね」


 窓際に貼っていて僅かに光っている氷結符と、その冷やした空気を循環させる起風符を指差しながら云った。

 九郎は気まずそうな顔で頭を掻き、


「何か不吉な予感がしてのう」

「不吉とは?」

「さて、わからぬ。お主は別に悪用しようと云う感じではないのは知っておるが……」

「ふふふ、さて。九郎君がそう思うのならばそれはそうなのかもしれないね。別にいいよ。奇々怪々な不可思議探求は好きだが、手に届くそれは少し違う気もするからね」


 と、意外にもあまり術符へ使おうと云った興味は示さない様子であった。


「その代わり、話を聞かせてくれるかね? その札を作った人とか」

「うむ。己れの孫みたいな存在のイリシアが作ったのだな。あやつは世間では誰も使っていなかった魔術文字を編み出し、次々に術を作っていった。今思えば不思議だのう。別に付与魔法にこだわらずとも、幾らでも強力な魔法は思い出せていた筈だが……」


 幾らか、イリシアがこれ以外の魔法を使っている時も見たことはあった。魔王によれば一々魔術文字を刻んでから発動させるのではなく、口頭で詠唱して使うペナルカンドで普及している魔法はほぼ全てマスターしているのが魔女であるらしかったのだが。

 彼女はわざわざ未知の術式であるそれを解析して新たな術を作り上げると云う研究を続けていたのである。

 石燕は考えて云う。


「……そうだね、例えば房がいる」

「フサ子がどうした?」

「あの子は絵の才能があってね。きっと自由に伸ばせば軽妙で面白さを感じさせつつも、深い含蓄と新たな視点を考えさせる絵柄を持っている」

「ほう。それは将来が楽しみだ」


 素直にそう思う。お房は年の割に賢く、金勘定もきっちりとできて、絵は既に九郎の贔屓目を抜いてもそこらの浮世絵より上手に見えた。


「だが、今のところは私が教えた技法を真似──と言うのは妙だな、それに合わせてそこから独自に発展させる方向で学んでいる。何故自分独自の絵柄で伸ばさないと思うね?」

「それは……お主から学んだからだろうう」

「うん。そうだね。きっとその孫の子も、大事な人から教えられたことだから大切に抱えているのだろう。……九郎君が教えたのではないのかね?」

「己れが? いや、まさか。己れは使えぬしのう……」


 九郎が顎に手を当てつつ思い出そうとする。

 イリシアと旅を続けていた時も、ふと疑問がよぎることがあり聞いたこともあったが、彼女も首を傾げていた。

 誰かをすっぽりと忘れているような九郎の難しい顔に、石燕はやや目を落として自分と彼の猪口に酒を注いだ。


「……なあ九郎君。もし、未来の事。いつか房が一人立ちをして、有名な絵師になったとして……ちゃんと私の事を覚えていてくれるかな」

 

 寂しそうにしている彼女の肩を叩いて九郎は云う。


「子供とて、いつかは大人になるものだがな。いつまでもその子供にとって、頼りがいのあり助けてくれた大人を目指すものだ。そうであって欲しいと思う」

「──ふふ。そうだね」


 彼女は杯の酒を飲み干して、やや頬を染めた顔を窓に向けながら独り言のように云った。


「それなら……私も偶には大人な九郎君に頼み事をしようかな」

「なんだ? 今回もあれだが、いろいろ世話になっておるから別に構わぬぞ」


 受けるつもりで九郎も応える。もっとも、別に借りが無くとも身内に甘いこの男ならば何だかんだと引き受けるのだろうが。


「対価はまあ、これまででも不十分な気がするから追々払っていくよ。少しばかり、迷惑をかける頼みだからね」

「迷惑?」

「……いつになるかわからない事だ。明日かもしれないしずっと先かもしれない。半端なところでやってくるかもしれない時のことさ」

「回りくどいのう……」


 石燕は顔も向けずに続けた。

 

「いつか、私が死ぬ時……それを看取ってくれないか、九郎君。私より先に死なないで、臨終の時に一緒に君が居てくれれば私は幸せ者だ」

「……」

「君にお願いしたいと、思うよ」


 九郎は口に苦いものを感じた。唾か、汗か。

 昔に己も、誰かにそれを頼んだ気がして──そして、置いて行かれたのだろう。一人、まだ生きているのだから。何故かそれはわかった。

 懐かしむように、九郎は疲れた息と共に言葉を吐き出した。


「そうだな。死ぬのを看取ってくれる相手が居ると、安心するよなあ。だけど、若い奴らから先に死んでいくのは結構辛いものだぞ」

「……伝わり方が違った気がしたのだけど」

「だが置いていかれるのも、慣れた己れが我慢すれば良いか。己れがどこかで悪党に刺殺されでもしなければまあ、ずっと一緒かは約束できぬが、きっと死ぬ時は側に居てやろう」

「……うん、ありがとう」

 

 気の長い上に、酷く年上な彼には酷な約束だとも自覚していたがやはりいつものように、保護者のように困った顔をしながらも引き受けてくれる九郎に、石燕は目元が緩くなるような安心を感じて──


(……肩が軽くなった)


 気が、した。

 いずれ訪れるその時もそう怖くは無い。お房も、子興も、麻呂も、それぞれに別に頼むことがあった。死を悼んで最期を見守ってくれるように頼めはしない、大事なことがあったのである。

 病は殆ど治り、体調も良い。だが、人はいずれ死ぬ。己はそのうちに死ぬ。長いか短いかはわからないが、確実に。しかしきっと……その時に九郎は生きていてくれるのならば。

 九郎も石燕の頼みを聞いて、


「魔女の術も考えものだな……」


 などと複雑な気持ちになった。

 できれば普通に生きて普通に老いて死ねれば充分なのだが、自分に手を伸ばしてくる誰かが随時居るのが悩みどころだ。

 長生きすることは疲れる。馬鹿が多く絡んでくるし面倒事は頻発する。若い奴は先に死んで残されて辛い。

 だがそれでも、それなりに楽しく日々は過ごせているのだ。

 

(生きていても、いつか死ぬだろう)


 魔女の魂の転生先は少し気になるが、否が応でも不老を治さなくても、誤魔化し誤魔化し生きていけばそのうち影兵衛のような悪党が殺しにくる。或いはひょんなことで術が解けるかもしれない。先のことなど分からないが、力が及ばないその時まで適当に生きても良いかと思えた。

 自分が死ぬことで、他の誰かが残される辛さを受け無いで済むのならば。

 まあ、不老の術を解いた瞬間に年齢通りの老いを受けるのでなければ、解除しても石燕よりは長生きできそうではあったので──つまりは焦らず行き当たりに任せればよいか、と考えたのである。

 ──と、その時。


「辛気臭──い! 生きるとか死ぬとか最初に言い出したのは誰タマ!?」


 すぱんと心よい音とともに障子を開け放って部屋に入ってきたのは、新しい酒を持ってきたタマであった。

 

「まあ、最初に死んだ人は閻魔大王と言われているがね」


 軽い調子で笑みを作り、石燕はタマへ向き直る。

 タマの後ろからひょこりとお房も顔を出して、中の涼しい空気を吸って額の汗を拭いながら告げる。


「こう、甘ったるい話になるから待っていようってタマに言われてこっそり待機してたんだけど」

「ほう」

「姥捨て山の末期みたいな会話だったの」

「……」

 

 あんまりな評価であった。

 少し前まで病気で死にかけていた女と九十五の爺とはいえ。

 タマが憤慨しながらもそっと酒徳利を置いて二人に云う。


「もっと助平な雰囲気を期待していたらこの二人と来たら……」

「己れに助平を期待するなよ、爺なのだぞ」

「そう云う割には将翁とは一線の上で舞い踊り状態だったがね」

「一服盛られたからだろうが」


 女体化しても狐目の美丈夫の顔がちらついて精神的に怖気を感じながら九郎は抗弁した。


「ずるい! 兄さんばかり豊かな胸の女性に恵まれて! あっでもお八ちゃんは可哀想な胸だから相殺か……」

「明日にでもお八姉ちゃんに言っておくの」

「兄さん、どうやらぼくの命も明日までのようだけどちゃんと看取ってくださいね……!」

「覚悟を決めるでない」


 それにしても、とお房が腰に手を当てながら云う。


「ちゃんと先生も九郎も長生きしないと駄目よ。こんな若いうちから物哀しいことばかり」

「……うむ、そうだのう」

「聞いたかね九郎君──若いのだよ私は」


 得意気に石燕が云う。

 九郎はジト目でちょいと手招きをしてお房を呼んで、己の膝の上に座らせた。そしてぷにりとしたお房の頬を突付き感触を憶えて石燕の顔に手を伸ばし、


「はい比較禁止だよ!」


 はたき落とされた。観測していないので石燕先生の肌年齢は推定少女のようだと云うことにしておこう。

 彼女も対抗するようにタマを膝に乗せて猫のように頭を撫でつつ、


「しかしそうだね。精一杯毎日、楽しんで生きて笑って暮らそう。さながら今日は四人で寝ながら愉快な暴露話でもしあおうか」

「暴露て」

「一番、鳥山石燕。御仏壺ってあれ適当に作った嘘話です」

「酷い」


 そうしてまるで本当の兄妹達のように、四人は涼しい部屋で夏の夜を過ごすのであった。

 相変わらず六科は暑い一階で機能停止していたが。



 一方で鳥山石燕の屋敷では……


「ああもう! 亀虫が退治しても退治しても切りがないよう! もういい、寝ちゃう!」


 そう暑さから生じた苛立ちを吐き捨てて、行灯の火を消して布団に入った子興だったが、暫くして寝て半開きになった口に亀虫が飛び込んできて悲鳴と嗚咽を漏らして起き上がり、うがいをしても臭いが取れずに泣いた。


「小生も九郎っちの部屋に泊まるうう……」


 弟子で居候なので留守居ぐらいはしなければならない身を嘆くのであった。





 *****




「一度は折れたフラグを立て直し、さてそれは本当にハッピーエンドの条件か。この時交わした約束が、その時になって後悔することになることを、彼はまだ知らない……」

「これ」


 九郎はマイクにぼそぼそと喋りかけていたヨグの脇腹を突いて不吉な話を止めさせた。

「おうふ」と身を捩らせてヨグは文句をつけてくる。


「なんだよもう、くーちゃんセクハラ!」

「人の夢の中で厭なナレーション入れるのはセクハラを通り越した何かだと思うが」

「天からの助言だよ! ……しかしまあ、くーちゃんもどこへ行っても保護者体質というか」

「一々こっちの行動把握しているのか? ……き」

「キモイとかキショイとか気味が悪いとか君が好きだと叫びたいとか言ったら傷つくからね!」


 先に釘を刺す。彼女は魔王などと呼ばれてふてぶてしくも世界の敵をやっていたのだが、個人的なメンタルはそんなに強くない。

 彼女は思いついたように机の引き出しから書類を取り出して九郎の前に置き見せた。


「そうだ、くーちゃんが死ぬ時は我が看取ってあげようか。死んだ後も怖くないようにここで雇ってあげる。ほらこのクリーンでホワイトな契約書にサインすればいいよ」

「なるほど、確かにホワイトな契約書だな……サイン欄以外白紙だから」

「イモータルも居ないから自由だけど暇なんだよね。話し相手も作ってみたんだけど……くーちゃんはSiriってアプリ知ってる?」

「あぷり?」

「ほらあの携帯電話とかについてる便利機能」

「己れが若いころはポケベルとPHSだったからのう……」

「お爺ちゃん……」


 憐れむ顔で九郎を見るヨグ。そういえば魔法スマフォを見せた時もSFの未来道具としてしか理解してくれなかったことを思い出した。


「と、とにかく。それに使われてる会話できるプログラムを我が改造してお喋り端末を作ったんだよ!」

「途中で虚しくならなかったか?」

「ちくしょう! ご覧あれ、これが我の作ったSiri改め──[尻]!」


 彼女がペペンとソリッドな効果音を何処からか発すると、腹のあたりに付けた亜空間収納ポケットから道具を取り出す。片方義手の手は棒の先にゴム毬を付けたように丸くなっているが、不思議とものを掴むのに不足はしないようだ。

 彼女が取り出し、机に置いたのは尻であった。

 なんとも言えずに、至極当たり前のシリコン製に見える尻だ。

 自慢気にヨグは九郎に云う。


「さあくーちゃん話しかけてみて! 自然な返答が──」

「屁とかで返事する安易なネタじゃないよな?」

「……」


 九郎がそう云うと───

 ご、と尻はジェットを噴射して天井──遙か上まで積み上がった本の棚は霞んで見えないほど高いが──に向かって飛んで行く。

 そのまま光って消えて無くなった。

 非難がましい目で見ながら、


「……くーちゃんがネタ潰しするから恥じて自滅プログラム[たったひとつの冴えたやりかた]が発動したみたいだね」

「うむ、ある意味潔いとは思うが」


 この時飛んで消えた尻が、あのような悲劇を齎すことになるなんてまだ想像もしていなかったのである……。


「これ」

「おうふ」


 脇腹を再び突かれ、嬉しそうな悲鳴を上げるヨグであった……。


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