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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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63話『若草物語』

 夏ともあれば暁七ツ(午前四時)過ぎにはうっすらと日が明るみ出す。

 魚の棒振りなどはこの時間に河岸へ仕入れへ向かうが、多くの町人はまだ後一刻は眠りについているだろう。だが九郎は歳のせいか、日の出と共に目覚めて厠へ向かうのが習慣であった。

 膀胱やら前立腺やらは若返りによって正常化しているのだが、老人の時に──もっと言えば中年の頃から──長く付き合っていた習慣だからどうも便所に行かなくては気が済まない。

 むくりと布団を除けて、いつ見ても眠そうな目を更にしょぼしょぼとしたまま、狭い部屋を四つん這いで外に出ようとする。

 昨晩は蒸し暑かったものだから九郎の部屋──恐らく唯一江戸で冷房完備である──に、タマとお房が入り込んで彼の左右で寝ていた為に踏まないよう配慮したのである。

 

(去年までならタマと同じ部屋で寝るなど、身の危険を感じていただろうが……)


 もうすっかり家族に馴染んでいる少年の寝顔を一度だけ振り返って見て、九郎は部屋の外に出た。

 外は明け方だと云うのにもう湿気が立つような気配を感じて、部屋の冷気が逃げないように戸を閉める。

 現代でこそ埋め立てられたものや高架下にひっそりと隠れている水路が多いものの、昔の江戸では市中を水路が張り巡らされていた為にその街の湿度も高かった。

 一階に降りると、規則正しく毎日同じ刻限に起床する六科が昨日の余りだった米を握り飯にし、釜の中に入れていたものをもしゃもしゃと頬張っていた。


「己れの分は?」

「もう無い」

「なんだ」


 あくびをしながら九郎は言って、目を擦った。店の入口や窓の戸は開け放たれていて店内は薄明るく、風が入ってきている。

 

「そういえば昨晩渡した氷を張った盥は役に立ったか?」


 普段六科の隣で寝ているお房さえ暑さで九郎の方へ来たので、さり気なく一人淋しげだった六科にせめて暑さを紛らわせるように冷気が立っている盥を提供したのであった。

 さすがに九郎の部屋から氷結符を使い表店全体を冷やすのは細かな調整が難しいのである。

 六科は指についた米粒を食いながら、頷いた。


「うむ。お雪の部屋に置いている」

「……何故?」

「昨晩お房が出て行った後にお雪が寝床に来てな。寝苦しいだの寝る場所がどうのと、要領を得ないうわ言を言っていたので恐らくは暑さが原因だと判断した。故に氷をあいつの部屋に持って行って、寝かせた」

「たぶんお雪が期待していた結果と違っているぞ、それ。お主は?」

「睡眠は睡眠だ。寝ているのだから暑さ寒さは関係ない」

「ああ、そうだったな……」

 

 九郎は納得して、六科の汗一つ浮かべていない無表情を見ながら無駄な気遣いだったかとため息をついた。

 六科と云う男、一度睡眠に入ればそれこそ電源が切れたように寝返りも打たなければ寝息も立てない。呼吸音も少なく寝言、鼾、歯軋りなども起こさない死体めいた状態になる。

 おまけに古い電子機器と同じように再起動もおぼつかないぐらいで、夜中に起こそうとしても多くは徒労に終わる。それこそ、蒸し暑いだの肌寒い程度で目覚めるはずも無く、水圧五気圧下の無酸素状態でも一分は平気で寝ているだろう。

 本人が眠たがりと云うわけではなく眠らなければ三日程は体調に変化無く過ごせるらしいのだが、一度電源を落とすと決まった朝の時間になるまで駄目なのであった。


(しかしながらこう、お雪も時々卑しい行動に出るなあ)


 それもこれも、この報いを返さない朴念仁が相手だからなのだろうが。水瓶から柄杓で水を掬って喉を鳴らし飲んでいる六科を見ながら、男の鈍感は罪深いものだと憐憫に似た感情を浮かべる。

 思わずじろじろと見てしまったものだから六科が不思議そうに尋ねる。

 

「俺の顔に何か付いているか?」

「節穴と難聴の耳が付いているな……」

「むう?」


 真顔で首を傾げる六科を置いて、九郎は厠へ向かうのであった。





 *****




 

 その日は緑のむじな亭も休みなので、九郎はタマとお房を連れてかき氷用の蜜を持ち、晃之介の道場にでも寄ろうと出かけた。

 六科は相変わらずお雪が付きっきりで蕎麦打ちとつゆに使う返しの仕込みを練習させられている。彼女は視覚以外の五感を更に消していくことにより味覚を強化することで醤油、砂糖、酒を煮詰めた濃い味である返しの味さえ判別することできる。それで細かな分量を調整し、六科に教えるのだという。

 

「お雪さんの純粋かつ色っぽい誘い気配は独身男性の毒ですよねー」

「一瞬でも手を出そうとしたら六科に殺されるというおまけ付きなのが長屋の連中の辛いところだな」

「しかしなんというか、あたいの気分的にはお姉ちゃんがお父さんに仕掛けてるという家庭崩壊状況なの。お雪さんは好きだけどちょっと難しい問題だわ」


 彼女にとってはお八、お雪、石燕などは姉同然の関係なのである。

 とは言え、昔からやたら六科から無自覚に袖にされているお雪を見ているので半ば下手糞な恋愛劇の観客気分であるが。

 

「お父さんはともかく、タマなんかはお客に色目をあんまり使わない事よ。しかも最近は近所の娘さんを誑かして三味線だの長唄だのを教える約束をしてたじゃない」

「世間の女の子は女の子力を磨くのに熱心タマ。というか、その辺ちゃんとしとけばいい所の女中になれたりするかもしれないし、しなかったら石燕さんみたいに残念なことになるから」

「ああ見えて石燕は一応なんでもこなせるのだぞ。絶滅した可愛げ以外は感心する女だ」

「九郎はそれを先生の前で言わないでね。泣くかも知れないから。しかも誰も見ていないところでひっそりと面倒くさく」


 などと、妖しげな雰囲気を纏った喪服を着ている底知れぬ謎の美人女絵師──と云う設定の鳥山石燕に言いたい放題であった。

 もはや関係の深い知り合いの間では変な女の石燕と云った印象だろうか。あんまりであるが、世の中そんなものだ。正体が解明された妖怪のようなものである。理解されてしまえば柳の下の幽霊だってプラズマで説明が付くし、河童だって深海に棲む邪神を崇拝する眷属でしか無い。

 適当にそのようなことを話しながら六天流の道場へ向かう三人であった。

 

 晃之介が主を務めるその道場は、畑を荒らす害獣や空き家に住み着く無頼を追い払ったりするために土地の者からは評判が良いものの、稽古が厳しい為に入門者が少ない。

 現在二名で両者はまだ子供であるものの、練習風景を見に来た農家の者が不安になる程度には厳しく鍛えているようである。

 九郎ら三人が道場に辿り着いた時はお八と雨次が居て、二人共汗だくで床に座っている。慣れているお八はともかく、雨次は呼吸を浅く繰り返してぐったりとしたまま、付いてきたお遊が出した濡れ手ぬぐいを頭に乗せて顔をあげる気力も無いようである。

 一人立っていた晃之介が九郎に気づいて声をかけた。


「九郎か。丁度、鍛錬の前準備が終わったところだ」

「前準備で弟子二人死にかけておるようだが」


 準備運動とは思えないぐらいぐったりしている弟子を見て云う。よく見れば晃之介もうっすらと汗を掻いているが、彼の場合ほぼ日課なので慣れているのだろう。

 六天流では特に足運びを重要にしている。あらゆる間合いに対応できる技を使いこなすためには自在に離れ、近づく早さが重要だ。故に無手及びそれぞれの武器を構えたままの全力ダッシュ往復訓練は基礎的な体づくりとして行われる。

 

「そうでもないぞ、ほら」


 と、晃之介は軽く木製の小太刀を二人に放り投げた。彼の技術による木剣でも畳を突き破る威力の投擲ではなく、当たっても怪我をしない程度の威力でだが。


「どりゃああ!」


 ヤケクソ気味にお八は叫びながら飛んでくる小太刀を転がって回避する。

 晃之介は「よし」と言って、


「疲れて動けない、というのは一番駄目な状態だからな。無理にでも反応して動くように体に覚えさせてる」

「く、くく、通いたての時の打ち身の原因一番はこの疲労時の追撃だったんだぜ」

「過酷だのう……ってまだ通いたての雨次は」


 九郎が顔を向けると、飛んできた小太刀が当たったらしい雨次が床に横たわっていた。

 単に疲れて動けないというより、胸に手を当てて酷く息苦しそうに荒い呼吸音を立てている。


「お、おにーさん! 九郎! 雨次がなんか変だー!」


 お遊が呼びかけに応えない雨次に不安そうに肩を揺さぶりながら叫ぶ。

 慌てて九郎と晃之介が近寄って様子を見る。


「息が荒いな。病気の気配などは?」

「いや、鍛錬前にはなかったし動いてる時も、体力不足以外は問題無かった」

「となると過呼吸かもしれぬ。紙袋は……この時代では無いか」


 周りを見回して九郎はどうしたものかと思う。

 お遊が問い返した。


「かこきゅー?」

「息の拍子が大きく崩れた時に起こるもので血中の酸素濃度が……いやまあ、そのあたりはどうでも良いが。つまりは息しすぎだ。しばらく呼吸を止めさせて、気分も落ち着けさせれば良いのだが……」


 現代で一般的な治療法では、袋を利用して呼気に含まれる二酸化炭素を再度吸い込むことで血中の酸素を減らし安定させる方法が取られるが、この時代では道場に丁度良い袋など無い。

 となると呼吸を外部から止めさせてまたゆっくり吸わせるようにすれば良いのだが、その際は気の動転により症状が悪化しないとも限らない。急に口を塞がれては驚くだろう。

 お遊が目を細めて笑みの形にしながら雨次の顔を両手で掴んで言った。


「それじゃーいい方法あるよ。わたしが口吸いで息を整えてあげよー!」

「あらまあ」

「おいおい」


 同じ年代の女子であるお房とお八が大胆なその行動に感嘆の声を上げる。

 男三人は顔を見合わせるが、まあいいかと頷きあった。そう、時は一刻を争う医療行為なのである。少年の女性関係は今のところ棚に上げようではないか。晃之介が二人に耳打ちする。


「雨次のやつ、来る度に違う子を連れてきてるんだが」

「彼が身につけるのは体力とか知識じゃなくて甲斐性だと思うタマ」


 言い合ってるうちに、瞳に妖しい光を灯したお遊が顔を苦しげな表情の雨次へと近づけていく。


「いっただきま───」

「駄目だあああ!!」

 

 叫びながらお遊のすぼめた口にきゅうりを突っ込んだのは、表から凄まじい疾さで駆け寄ってきた雨次のもう一人の幼馴染──小唄だった。

 突然のことで面食らった──実際に喰らったのはきゅうりだが──顔をしたお遊はぼりぼりとかじり取りながら不満げに云う。この場合の不満は、邪魔をされたことよりもきゅうりに塩気が欲しかったことだ。人の口に襲撃してくるならば自分で味噌を塗ってくるぐらい覚悟を決めて欲しかった。


「あれー? ネズちゃんなんでここに?」

「天爵堂先生のところに野菜を持って行ったら、茨ちゃんからこっちに行ったって聞いたんだ」


 確かに手にはきゅうりや茄子などを積んだ野菜籠を持ってきている。若干減っているのは半分は天爵堂の家に置いてきて残りは雨次が世話になっているこの道場に渡そうと思ったからだろう。

 茨は読み書きが遅れているのでよく天爵堂から出された課題をして字を書こうと努力している。

 小唄はお遊を指さして、


「し、しかし来てみれば、一体何をやっているんだ! 真っ昼間からいかがわしい!」

「えー?」


 お遊は顔を青くして死にかけている雨次と小唄を交互に見て、また無邪気なのに厭な黒さを感じる笑みを浮かべる。


「いかがわしいって言っても。雨次はこの通り、息が上手くできない病気だから治して上げようとしただけなんだけどなー?」

「なっ……」

「ネズちゃんはどんな想像をしたのか聞かせてくれない? ねーねー」

「それよりっ、雨次が大変なのはわかったが、お遊ちゃんがやらなくてはいけないことでもないだろう。こ、ここは私がだな」

「ふうん?」


 ぐったりと脱力した雨次の体を掴んで小唄の前に出した。手足は痺れて意識は朦朧としている。現世と彼岸の境界で誰かが手を振っていた。父さん。父さんはアフロだったんだね。声にも出せない。


「じゃ、ネズちゃんお願い。今、この場で。すぐ口吸いしてあげて」

「……え」


 差し出されて。

 小唄は固まった。つい大きなことを口走ったものの、実のところそんな覚悟は無かったのである。蒼白気味な雨次とは対照的に小唄は顔を赤くして、周りから注目を浴びている──お遊以外の男女五名が成り行きを見ている──ことに気づいて、両手を振った。


「い、いや、その、物陰とかで……」

「へえ。ネズちゃんはー雨次の命より自分の恥ずかしさを優先させるんだー。へー。仕方ないかーネズちゃんにとってはその程度の問題なんだもんねー」

「なあ!? 違うぞ! ええい、すぐにやってやる!」


 痛いところを陰湿に言葉尻を取って突かれたようで、意気込んだ小唄が手を伸ばすが軽くはたき落とされた。

 にこにこと笑みを浮かべたまま拒絶の声を出すお遊。


「駄目。一度引いちゃったものねーもう駄目。帰っていいよ?」

「そんなことを言ってる場合じゃないだろ! こうなれば……!」


 瀕死の雨次を引き合って争う二人に見物している五人はそれぞれ微妙な顔をしながら、


「不穏な空気になってきたなあ」

「大岡越前でも来て『大岡剣で真っ二つにするから分け合え』とか判決出さねえかな」

「そんなお話だったかしら」

「第三勢力として僕も参戦するべきタマか」

「やめておけ。うむ、しかしこのままでは雨次のやつが可哀想だ」


 九郎が前に出て、争っている少女二人に掴まれた雨次から器用に彼女らの手指を引き剥がして奪う。

 混濁した意識の奥で赤い仮面が体の譲渡を要求してくる幻覚に苛まれている少年を持って、軽く指で喉を摘んだ。

 気道を潰しているのである。

 絶息するがまた数秒で九郎は指を離し、雨次が呼吸をしたら再び喉を潰し息を止めさせた。

 数回繰り返すと雨次の意識も戻ってきて、口元の痺れも取れたようである。


「大丈夫か。 落ち着いてゆっくり[反体制]と三回唱えるのだ」

「ぐ……反体制、反体制、反体制……」


 吐き出す方向に呼吸を整える言葉を口にさせ、同時に喋ることで落ち着かせる。

 どうやら症状は回復に向かっているようで雨次の背中を撫でてやった。


「これでよし、と」

「最初からやれと思わなくもないぜ」

「さすがは助け屋の九郎なの」


 どこか、自身の手柄のように云うお房である。

 一方で争っていて雨次をないがしろにしていた幼馴染二人はバツが悪そうにしている。九郎からしても、何やら感情面ではともあれ二人共彼を助けようとはしていたので叱ることではないと思うのだが。

 

「はあ……なんとか、なったな……」


 呼吸も安定した雨次が、頭に引っかかったままだった濡れ手ぬぐいで顔を拭きながら体を起こす。幻覚症状が重なりあって般若面を付けたアフロが反体制を叫ぶというロックな映像が脳裏に浮かんでいたが、なんとか無意識の奥に封印することに成功した。

 すると、すぐに小唄が彼の前で頭を下げた。


「すまん! 雨次!」

「はっ? ええと、どうしたんだい、小唄」

「お前を助けようとしたのに、一度躊躇ってしまった。友達の命より自分のことで……本当にすまないことをした」


 雨次は謝る小唄に、事情はよくわからないが肩に手を置いて、


「よくわからないけど、助けようとはしてくれたんだろう? それで充分だよ、小唄」

「うっ……次、同じことがあったらもう迷わないようにする。だから、雨次……」


 不安そうな顔で見上げてくる小唄に、雨次は苦しげな笑みを返す。


「謝ったりしないでもいいよ。心配してくれてありがとう、大丈夫だよ」

「雨次……」


 実際、走ってたら酸欠になって瀕死状態になって気づいたら治ってただけなのでさっぱりと騒動がわからない雨次は、泣きそうな顔の小唄を慰めるように云うしか言葉は見つからないのであったが。

 お房はその無自覚に誑そうとしている言葉に口笛を小さく吹いて、お八などは舌打ちをした。

 口を尖らせて腰に手を当てたお遊が何かそれなりの雰囲気になっている二人を見ながら云う。


「なんで後から来て引っ掻き回したネズちゃんがちょっと得してるかなー?」

「お主が微妙に悪女モードになるからだ」

「んー? 別にわたしはなんにも悪くないと思うよー?」


 九郎の言葉に心からそう思っているとも、とぼけているとも取れる声音で返す。

 タマが道場の入り口にある水瓶から茶碗に汲んできた。


「はいどうぞ」

「どうも……」


 タマを見るとどうも複雑そうな顔になりつつも雨次は水を飲み干すと、再び汗が吹き出たようで手拭いで首筋を拭う。


「それにしても、息が出来なくなる程鍛えるなんてやり過ぎじゃないのか?」


 小唄が雨次の酷く疲れた様子を見ながら聞く。彼はのろのろとお八を見ながら、


「いや、実際同じ量を先輩や先生はやってるけど、どうってこと無さそうだから、きっとぼくの体力が無いんだ」

「まったくだ。あたしの実力舐めんなよ」


 平気そうに立ち上がって胸を張るお八。その胸はなだらかという言葉すら発生しない平面であった。

 晃之介は懐かしそうに、


「最初の頃はお八など吐いて戻したりとちょっと俺もどうかと思うぐらいだったから、それに比べれば雨次はマシだと思うぞ」

「があー! 師匠ぐがー! 女の子に対する気配りが無いぜー!」

「さすがに俺もお八に血尿が出たあたりで少しは鍛錬の量に気配りを……待て、首をくくろうとするな。頑張って耐えたお八は凄いぞという褒め言葉のつもりだったんだ!」


 デリカシーに欠ける師匠の発言を妹分や九郎の前で滔々と語られたもので首に紐を巻き付けて手頃な鴨居を探しうろつき出すお八。

 当初、晃之介の練習量は本人が行うものと同じ分を十四の少女であるお八にやらせて見たのである。自分も子供の頃はそうしていたからだ。晃之介が一時間でできるものを半日ばかり掛かるような体力面の問題があったが、それでも気力で課題をこなしていたのであった。

 たまたま三日続けて通える日が出来たので這いつくばってでも練習に参加したら尿の色が変わっていて「子供が産めなくなる!」と泣き出したので晃之介も反省し、効率と休息や栄養などを九郎と話し合って多少は改善されたのだが。

 それでもまだ子供の雨次はおろか、普通の大人の男がやってもきつい練習量である。

 まだ通い始めて日が浅いが、動けぬほどに疲れるとはいえついてきている雨次は晃之介からすれば、


(見どころは、ある)


 ような弟子であった。

 そうこうしていると再び入り口に入ってくる影があった。


「どうもー読売でーす──ってあれ、録先生、今日は随分と繁盛してるんですねえ」


 入ってきたのは女だと云うのに半股引に脚絆を履いて動きやすそうな格好をした瓦版の記者兼出版社、お花である。

 彼女は街頭で客を呼び込んで販売を行うのではなく、決まった家や店を回って出来上がった分の読売を販売する配達式をとっている。意外に利用者は多く、充分それで食っていけるのだと云う。緑のむじな亭も定期購読をしていた。

 晃之介が買っていたのは初めて知った九郎は意外に思う。貧乏性なところもあるが、少しばかり浮世離れをして野生生活や剣の鍛錬に打ち込んでいる彼がわりと娯楽要素もあるこのお花の読売を購読していたことがである。

 彼女はきょろきょろと見回して、


「なんか美少年が多いと思ったら知り合いばっかりだったので目新しくなく残念無念」


 などと笑いながら言った。確かに、九郎とタマは緑のむじな亭で会うし、天爵堂の家にも配達しているので雨次も見かける顔であった。

 彼女は折り曲げられた紙を応対に入口近くに来た晃之介に渡す。


「はい、録先生。今回は先生の好きそうな記事が出来ましたよー」

「あ、ああ。楽しみだな」

「それじゃあお忙しそうなのでこれで。また月末の集金の時にでも、感想聞かせてくださいねー!」


 そう言って彼女は手を振りながらまた走り去っていく。晃之介が緊張を抜いたように息を吐いた。 

 彼の真後ろで九郎が半眼のまま晃之介を見上げつつ云う。


「……あれだな。お花の胸が大きいので、つい購読の勧誘に乗ってしまったのだろう」

「ぐっ……俺は美人にぐいぐい来られるのにちょっと弱いんだ」

「師匠。胸で人の価値を測るのはよくないぜ。九郎も。反省して欲しい。海より深く反省して欲しい」


 冷たい目で平坦お八が云う。

 お房は「そういえば」と思いついたように尋ねた。


「うちの先生なんかはお胸大きいのに晃之介さん、でれでれしたりしないの」

「ああ……狂じ……性格がその、ちょっとな」

「凄くまっとうな理由だったの」


 誤魔化すように口篭りながら晃之介は読売を広げた。記された文字情報を読み取り、口に出す。


「──ほう。深川で通し矢が行われたらしいな」

「通し矢?」


 聞きなれない言葉に九郎が聞き返した。

 周りの子供達も道場の床に座ってそちらを見ている。稽古の途中だったが、一時休憩といったところだろう。

 晃之介が解説を行う。


「京に三十三間堂と云う仏堂があるだろう」

「ん……若いころ行ったことがあるような無いような……仏像が千個ぐらいある建物だったか、確か」

「それだ。そこの西側の軒下を南から北の端まで矢を飛ばす技競べのことでな。ええと、ちょっと来てみろ」


 そう言って晃之介は、壁にかかっていた弓と矢──弓の弦は毎朝張り直す為にいつでも使用可能である──を持って外に出た。

 九郎と他の皆もそれに続いて行く。入り口のすぐ外で晃之介は立ち止まり、遠くを指さした。


「あそこに一本、赤松が見えるだろう」


 彼が示したのはおおよそ120メートル先に立っている、樹高4メートル程の松であった。


「だいたい三十三間堂の長さがあそこまでだな」

「随分遠くに見えるぜ……」


 晃之介に弓も習っているお八は目の上に掌で影を作りながら、箸ほどの太さにしか見えない松を目を凝らして見た。

 自分の射る矢が届くかどうかは、遠的をやったことが無い為に想像はつかなかったが自信はない。

 晃之介は今度は指を立てて、


「それだけじゃない。仏堂の廊下でやるんだから屋根もある。そこの屋根より上に飛ばしたら引っかかって途中で落ちるんだ」


 道場の屋根の一部に今度は視線が集まる。高さは五メートル無い程だ。

 当然矢というものは山なりの放物線を描いて飛んで行くものなので、遠くに飛ばそうとすれば角度が必要となる。しかし三十三間堂の通し矢をするには、強力な弓を用いて殆ど角度を付けずに約百二十メートルを飛ばさなくてはならないのである。 

 これには相当の弓の腕前が必要であり、それだからこそ武芸自慢の藩はこぞって弓取りの武士を訓練させ、最高記録を出そうと競いあったと云う。


「天下一と記録されているのは貞享の頃の紀州藩の武士、和佐範遠だな。一昼夜のうちに八千百三十三本の矢を通したそうだ」

「八千ン!? 師匠、それ法螺を吹いてるんじゃねえか!?」

「どうだろうな。ともあれ、京都で大流行したものだから江戸にも三十三間堂を作って武士の気概を奮わせようと云うことになり、作られたんだ。一度火事で焼かれたそうだが今は深川にある。そうだな、試しにちょっとやってみせよう」


 言うと晃之介は強弓を軽々と引いて、殆ど力を溜めずにつがえた矢を松に目掛けて撃ち放った。

 果たして、飛翔する矢は道場の屋根よりも低い位置で放物線を描きするりと飛んで──


「当たった……!?」


 最初にそう呟いたのは雨次であった。眼鏡を抑えて、目を見開き見る。

 他の皆もじっと先にある松を見つめるが、確かにその幹の真中に矢が突き刺さっていた。

 距離を通すだけでなく、目標に当てたのである。

 晃之介は気取る様子もなく別の矢を更に持ちだした。


「今度は六天流の弓術でいってみようか。弓は引き方さえ修めてどんな体勢でも打てるようになればいいから、矢に拘るようになったんだ。これはその一つでな」


 再び構えるとやはり狙いをつけている時間は無い程に素早く次を放つ。

 彼にとって弓と矢を持てば視線が即ち照準となり、風や重力その他要素全てを含めて総合的に射線を捉えることができる感覚がある。

 技名を口に出すのは九郎に聞いたことだ。やってみると存外に気持ち良い。


「[羅旋射]」


 尾羽根のついていない棒のような奇妙な矢だ。

 矢に螺旋状の溝と空気を取り込み回転する細工が施されたそれは錐揉み回転をして弾道を安定させながら、先程打った矢よりも低く殆どまっすぐ目標を射抜くように、一本目の矢の隣により深く突き刺さった。

 晃之介の弓の腕を見た子供達は、


「わあ雨次! 雨次も特訓したらこんなのできるようになるのかなー!」

「いや、絶対無理だろう……なんで当たるんだ?」

「やっぱすげえぜ師匠! いっそ師匠が通し矢の競技出たらどうだ!?」


 などと驚いた様子で晃之介の腕前を感心するのだが彼は肩を竦めながら、


「あれは挑戦料が俺の道場の千倍は高いんだ。とてもじゃないが払えないな。それに、あまり通し矢が実戦向けと云うわけじゃない」

「そうなんですか? この距離から当てられれば十分実戦で使えそうですけど……」


 おずおずと小唄が云うが、晃之介は九郎へ向き直って、


「例えば九郎。お前があの松の場所に居たとして、俺がお前を狙って打ったらどうする?」

「まあ……避けるであろうな」

「そういうことだ。これだけ離れていては打ったのを見てから避けるのも容易い。多少動きを予想して放つこともできるが、あまり効果は見込めないな。遠距離から矢で抑えると云うのは雨のように矢を降らせることで威力を発揮するものなんだ。下手をすれば逃げられてしまう。確実に仕留められる位置に接近した方が良い」


 実際、遠距離だろうが飛んでくる矢を見て冷静に着弾位置を把握して避ける、などと云うことができるものかと思うが、九郎だったら問題なく実行しそうではあった。

 六天流は相手がこちらの攻撃に対応できることを念頭に置いて、二手三手と間合いを変え武器を変え攻撃することを教えている。


「でも川なんかを挟んで一方的に打たれたら不利よね。九郎はその場合どうするの?」

「うむ? そうさなあ……こっちも何とか打ち返すか……」


 お房の疑問に、九郎は近くを見回して手頃な石を拾った。


「これぐらいだったらなんとかいけるだろう」


 言うと首元に巻いている相力呪符をしゅるりと外して術符フォルダに直し、助走を付けて遠投の要領で石を放り投げた。

 呪符をとったのは魔法に強化されない自分のベスト記録がそれぐらいだったので、余計な補助を取る為である。通し矢ではないので高さは屋根を越えるが、ぐんぐんと石の飛距離は伸びて──


「お、当たった」


 言うと、百二十メートル先の松に石は直撃して砕け散った。

 野球観戦が趣味だった九郎は、部活にこそ入っていなかったものの社会人になったら働いている系列会社の草野球チームで野手をしていたのである。

 異様にグラサンが似合う恰幅の良いおじさんや顔に傷が入り携帯電話を何台も持ってよく外国語で怒鳴ってるおじさん、メンバーは九郎以外銭湯で断られる系なので大きなお風呂場を持つ自宅に練習上がりはチームを呼んでくれる金持ちおじさんなどが参加するチームである。若い九郎は強肩もありそれなりに気に入られていた。

 体つきこそ当時より小さくなったが、力はそのままであるし遠投はコツを掴めば伸ばせるので九郎の能力ならば強化が無くとも届くのである。

 しかし野球のようなボールを遠くに投げる理論が確立していない江戸の世では少しばかり驚嘆に値する距離の投石である。


「やるな、九郎。俺でも投石紐でも使わなければあそこまでは投げられないぞ」

「なに昔取った杵柄だ。確かにこの距離なら動く的には当てられそうに無いしのう」

 

 にこやかに言い合う二人。

 唖然と口を半開きにしたままの雨次に、先輩であるお八は云う。


「ちょっとおかしい上位ばかり見てると足が眩むから、着実にやっていくのが大事なんだぜ」

「……はい」


 感慨深げな彼女の言葉に、後輩君は素直に頷いた。

 

 その後、七夕の供え物としてつい買い込みすぎた素麺が余っていたので晃之介のところで昼飯に素麺を作ることにした。

 茹でた後で氷水で冷やし、小唄が持ってきたきゅうりと茄子を切って乗せて椀に盛って甘めにしたつゆをかける。

 単純なものだが、疲労で胃がひっくり返りそうな雨次にもするすると食えて旨い。

 事あるごとに便利な氷結符だが、当時としても氷水で締めた素麺などは口にできないのでそれだけでもいつもと違ったつるりとした食感に皆は喜んだ。江戸に迷いこむ時は氷の魔法を習得しておくとお得だという……

 九郎などは面倒なので、


「妖術を使うが、あまり言い触らすなよ」


 などとと嘯いて、適当に知り合いの前で使う時はいい含めている。

 また、食後にはかき氷も作って食べた。

 食ったことの無い氷菓にまた一際珍しがって、暑さを解消する特効薬とばかりに頬張るのは特にお八とお遊であった。

 当然だが、当然のように。


「いきゃああ!?」

「痛たたた!?」


 頭に凄まじい痛みが発生したようだ。すでに体験済みで警戒してゆっくり食べていたお房とタマは指をさして同時に嘲っている。

 しかしながら、ある程度その痛みの質を知っていれば覚悟や慣れもあるだろうが、初体験である彼女らにとっては御し難い激痛が襲ってくるようである。

 お遊などは泣きながら頭を抑えて、心配した雨次が、


「とりあえず横になるんだ……大丈夫なんですよね? 九郎さん」

「うむ」


 尋ねて肯定され、ほっとする。 

 お遊は雨次の腰にしがみつくような格好で彼の座っている膝に頭を乗せて十秒ほど呻いていたが、痛みの波は去ったようでやがて騒ぐのを止めた。


「大丈夫か、お遊」

「うん……ちょっとこのまま食べさせてー」

「まだ食べるのか……」


 呆れたように膝枕状態のお遊に、少しずつかき氷を掬って食べさせる雨次。

 それを見ながらしばらく匙を咥えっぱなしだった小唄が、急に喚きだした。


「あ、あいたたたた! 凄く頭が痛いぞ! 割れるようだ! 寺の鐘を突かれている勢いで!」

「やけに具体的だけど、そんなに痛むのかい、小唄」

「そうだな! あーこのままじゃ大変だなー! 何かいい方法ないかなー!」


 ちらちらと雨次の膝を見ながらそう主張する小唄。目的は彼以外の周りにバレバレであったが、雨次は純粋に心配して、


「そうか、それなら……この小石川養生所から貰ってきた頭痛薬があるから飲むといいよ」

「……」


 袂から油紙で包んだ散薬を渡され、それに目を落とす小唄。

 

「……うん、なんか治ったからいい……」

「そうかい? 気をつけて食べるんだね」


 心底がっかりした表情の小唄には気づかなかったようである。

 タマがお房に耳元で囁きかける。


「なんかあの必死さが石燕さんを彷彿とさせるタマ」

「やめてよ、先生が負け組幼馴染みたいに云うの」

「そして構ってもらう暇も無く治っちまったあたしも居るぜ」

「悲惨なの」

 

 九郎は立っているまま、かき氷器と化したアカシック村雨キャリバーンⅢで氷を細断作業中なので膝枕は無理だっただろうが。

 ところで、時折店でもお房にせがまれてかき氷を作るのだが、太刀を使って削り作るものだからどうも生産効率は良くない。

 

(もっと効率化できないだろうか……例えばアカシック村雨キャリバーンを発動させたら上手い具合に氷が粒子化するとか)


 ふと、自分以外七人分のかき氷を作るのがそれなりに面倒だったために魔が差したとしか言いようが無い。

 九郎は抜身の凄い刀身を氷に当てながらキーワードを唱える。


「アカシック村雨キャリバーンⅢ──発動」


 質量を持つ凄い光が膨れ上がり、晃之介の道場内で爆発が発生した。

 皆すごい勢いで吹っ飛び、戸や窓は砕け割れたが──刃を当てていた氷はいい感じになっていたので、九郎は冷静に氷に蜜を掛けて食った後で、


「すまん」


 と、謝るのであった。



 

 *****




 軽く破損した道場を全員で片付けて九郎達三人が家に戻ると、意外なことをしている六科が居た。

 座敷で横になり、お雪から耳掃除をされているのである。

 しかしながら、


「……耳掃除ってもっとゆるりとしたものではなかったか」


 寝ている六科はまさに直寝不動といった感じで、立ち姿の彫像を横たえたように固まっている。

 正直言って似合っていない。和むとかそんな雰囲気ではなく、六科だけ見れば整備を受けているとか云った雰囲気だ。

 一方でお雪は楽しそうに六科の耳に触れたりして、


「うふふ」


 と、微笑んでいた。


「なんでこうなったの? お父さん」


 お房が原因を聞くと六科は頷こうとして──お雪の細い手で頭の動きを止められて「むう」と唸った。


「九郎殿に聞いた話だと、どうやら難聴の気があるらしくてな。それをお雪に話したら耳掃除をすると云うことになった」

「目が見えぬのによくできるなあ」

「そこは指先の感覚ですよーぅ。じっくり丁寧に頑張っちゃいます」

「むう」


 嬉しげにいい、時折耳の穴に息を吹きかけるとその度に六科はむず痒そうに呻く。

 

「羨ましいタマ……」

「後でタマはあたいがやってあげるの」

「わあい嬉しい!」


 現金に喜ぶタマであったが、やがて六科の耳掻きは終えて彼はむくりと立ち上がると仏頂面のまま頷いた。


「うむ。よく聞こえるようになった気がする。これで難聴はあるまい」

「そうかのう」

「例えば店の外、三十二歩先にお豊がこちらに向かって来ている」

「まさか……」


 六科がそう言って、人間が約三十二歩進んだ程度の時間ピッタリに石燕が入り口から顔を出した。


「やあ九郎君! ここは私の出番だよ!」

「何がだ。……っていうか」


 九郎達は当然のような顔をしている六科を見て、なんとも言えない気分になった。 

 お雪だけは、


「さすがです、六科様」


 と、褒め称えるのであったが。

 六科は難聴を克服するために音波センサーを手に入れたのであった。


「何か間違っている気がする」

「ところで私の出番は? 膝枕でもすればいいのかね?」


 石燕は九郎の手を引っ張りながら尋ねるのだったが、ひとまず今日はここまでである……。






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