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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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62話『九郎の江戸な日常』

 [緑のむじな亭]の日替わりメニューでそれなりに定着し、人気が出ているものが[半熟煮玉子]である。

 半熟なのに煮玉子と云う妙な感じのする名前だが、つまりは半熟玉子を剥いてつゆに漬け込むだけで良い、簡単なものだ。

 現代に比べて江戸の頃は玉子はやや高級品だが、庶民でも手が出ないと云う程ではない。九郎が千駄ヶ谷の地主から取り置きの玉子を購入する交渉を行って、週に一度は安定して手に入れることができるようになった。それに食うならばなるべく旨いものを食いたいと、店に来て半熟煮玉子と飯だけ頼む客も居るぐらいである。

 作り方も、半熟の茹で加減を図るには機械的動作を得意とする六科に湯で時間を正確に計測させるのが相性が良かった。現代に比べて玉子の鮮度や保存状況からしても──多少、鮮度の落ちた玉子のほうが殻を剥くのが容易である──調理の手助けとなっている

 また、作り方が単純な故に真似をして高級店などが作ってもこの店より格段に旨いものが出来上がるわけではない。

 そこで九郎があれこれと奉行所同心などの伝手を使ってきっちりと[緑のむじな亭]が最初に作った料理である、と認知させることにしたのである。

 意外なことに、玉子を食用にしていた歴史は長いのだがしっかりと玉子料理を作り出したのは江戸の中期以降に多い。この頃はせいぜい庶民が食う分には、玉子を味噌汁に落とす程度であった。

 ともあれ知り合いの同心が奉行所で噂を流し自慢するものだから、町方は誰と無く足を運び半熟煮玉子を食って旨いと絶賛した。持ち帰り、町奉行の口にも入ったと云う。

 こと、玉子に醤油味のタレという組み合わせはよほど味の趣向が変わっている者でなければ庶民から上流まで美味に感じるのではないだろうか。

 公儀への認知度が広まれば、元祖だのと他に名乗られた場合の訴訟が楽になると云うものである。

 別段、独占しようとか特許料を取ろうとか云う意図は無いが、後出しで作った店から商標や料理法などで文句をつけられると云う事態は当時からあったようであり、また解決も難しかったのだから対策しておく意味はある。


 味付けにも改良が見られる。

 最初は単純に醤油、砂糖に酒を煮た蕎麦のかえしへと漬け込んでいたのだが、今はそれに細かく刻んだ鰹節をたっぷりと加えた専用のたれを用意し漬けている。

 魚の出汁が効いていて、単純に蕎麦に載せて出す時も煮玉子を崩すことで味の変化が出て、うまいと評判である。

 濃い目の醤油味に滲み出るような鰹節の味わいは飯も進ませる。現代で出すと濃い鰹味に好みが分かれかねないが、当時の江戸としては、


「二日魚を食わなかったら体から骨が抜けちまう」


 と、云うぐらい庶民は毎日魚を食っていたのだから馴染む味であった。

 蒸し暑い夏場になるとさすがに熱い蕎麦は売上が落ちる。しかし、本格的な盛り蕎麦にする程つゆは旨くない。

 なので近ごろは茹でて冷水で締めた蕎麦に、薄めてこれも冷やしたつゆをぶっかける冷やし蕎麦が売れている。

 何せ、九郎の持ち込んだ氷結符でとんでもなく冷えているものだから味の奥深さよりも、清涼感が口に来るために誤魔化しが効く。

 長屋の連中もこれを食うために暑い中仕事に出ていき、冷やしぶっかけ蕎麦と冷酒の代金を稼いできている。

 そんなこんなでこの店は冬場よりも夏場に、知る人ぞ知る店として人気を出していた。


 また、それとは別にそこの店に居候している助け屋のこともちょっとした噂として広がりを見せている。




 *****




「お助け屋さぁーん!」


 そう言って店に駆け込んで来つつ、見回していつもの涼し気な蒼白色の着流し姿で団扇を扇いで座っている九郎に飛びついた女が居た。

 九郎はまたか、と面倒そうな顔のまま体を揺すられるままにして暫く無視し、やがて女は彼に抱きついたまま動きを止めて、


「うう~涼しい」

  

 と、落ち着いた声を出した。

 疫病風装と云う物騒な名前の衣服を着ている九郎は込められた事象の効果により風通しがよくひんやりとしているのである。暑い時はよくお房も膝に乗りに来る。

 九郎が忌々しげに見下ろす、結った髪が猫の耳みたくなっている町娘の女は百川子興──鳥山石燕の弟子にして家事担当の居候絵師である。

 鬱陶しげに九郎が頭をぐいぐいと押し戻しながら聞く。


「……またネタ切れか」

「うううっ! 仕方ないのよう! 天爵堂先生も手伝ってくれなくなったし! 毎週毎週お話考えるなんて出来るわけないのよう! そんな一日中何か面白いことないかなって悩んでるのは頭がおかしい人だよ!」

「世の作家に喧嘩を売るでない」

「絶対他の人はなにか面白い話が思い浮かぶ蜜とか飲んでるに決まってる! 樹の幹とかから!」

「虫じゃないのだから……」


 九郎に泣きついたまま顔をぐりぐりと服に押し付ける。鼻水などがつかないかやや不安だが、特殊な抗菌効果のあるこの疫病風装では鼻水を付けても次第に無菌の水分に分解されて落ちるのだが。

 子興は黄表紙で絵物語を連載して金を稼いでいる絵師なのである。浮世絵師として後世に名を残す彼女であるが、日々の暮らしの糧になるのは浮世絵よりも美人絵や笑絵、または大衆向きの黄表紙などであった。

 子興も去年から[猫同心]と云うシリーズ物を手がけて、それなりに連載が続いているのであるが……


「そもそもお主の作品は話の筋とか誰も気にしておらぬから、新たな登場人物を突っ込んだり、勝ち抜き剣術試合編とかで時間を稼げばよかろう」

「もうその展開もやり尽くしたから九郎っちに頼ってるんだけど!」


 助言に否定的な言葉を返される。

 子興の描く──近頃は絵に付ける文も自作している──猫同心の人気は、多くの読者にとって先鋭的な化け猫系美少女画である絵が目的で売れている為に、多少話がお花畑でも問題はない。

 のだが、彼女は自分の絵と文が読者に期待されていると思い込んで日々良い作品を作ろうと頭を悩ませたりネタを捜したりしているのである。

 

(それはまあ、立派なのだが)


 再び己の体を揺すり始めた子興を抑えつつ思った。


「落ち着きたまえよ子興。白昼から大の女が情けない。そんなことだから嫁の貰い手が居ないのだよ」


 声を掛けたのはやや離れて九郎の対面に座っていた石燕である。弟子が突然現れて、ほぎゃあと叫びながら飲み相手に絡むものだから、声を掛けづらく黙っていたのだが。

 駄々っ子のように九郎にひっついたままの子興に軽く眉を潜めて、細い手を伸ばし彼女を掴んで引き剥がした。

 

「そしてこうだ!」


 得意げな顔のまま九郎の隣に座ると交代とばかりに彼の太ももを枕に寝転がる。

 

「さて、それで話だが……」


 九郎は何も無かったかのように寝転がった石燕の肩を掴んで引き起こして座り直させ、子興へと向き直った。 

 殆ど駄犬か猫の扱いのように慣れてしまっている。

 釈然としない顔つきで座っている石燕は、ひとまず酒を再開することにした。九郎は指を立てて子興に語りかける。


「話を考えるのに困ったのならば日常の細々とした出来事を、登場人物に入れ替えた話にすれば良いのではないか?」

「ほうほう」

「例えばそうだな……猫同心おにゃんが実は稚児趣味だとか。人体に刃を刺す度に狂躁するとか……あと出る度に大怪我、一人飯で押し黙ったように考える趣味がある、覆面を被っている、虚言癖があるなど……」

「実在の同心が最悪すぎるよそれっ!」


 知り合いの同心の特徴を上げてみるが、確かに萌えキャラには邪魔な要素しか持っていないおじさんばかりであった。

 子興は思いついたように九郎の顔をじっと見る。

 

「む、なんだ」

「そういえば九郎っちも岡っ引きになったんだっけ」

「まあ、一応はそうだな。正直面倒だが」

「よしっ! それじゃあ九郎っちの周りで起こる騒動とかを話にすればいいんじゃないかな」


 子興のその思いつきに、にやついた顔の石燕が云う。


「ふふふ、それはいい考えかもしれないよ。なにせ九郎君は何かと事件に巻き込まれ易いからね。ただ、解決力が高いからすぐに終わらせるのが問題だ」

「己れの日常なんぞ、いまいちパッとせぬと思うぞ」


 九郎はしかめっ面で己も昼酒を飲みながら目の前で手を払う仕草をしながら答えた。

 多少悪党に会うことは多いが、基本的にそうそう耳目を集める日常を送っているわけではない── 

 と、その時。店の一角で丼を割る音が発生した。


「へっ! こんなものが名物蕎麦とはなんと笑える冗談か!」


 男が椅子を蹴り立ち上がって嘲る言葉を響かせる。 

 胡乱気に他の客と、九郎たちが男を見遣り、頬杖をついたままの石燕が告げた。


「ほら、事件が起きた」

「己れのせいではなかろう」


 ぼそぼそと言い合う間に、男は一人で白熱して高説を垂れる。


「おれは喧嘩包丁の伊三次! つまらねえ料理で客を寄せて儲けようとする飯屋を許しちゃ置けねえな!」


 芝居がかったように云う。やはり石燕と九郎は白けたように、


「どうせ冷やす方法も判ってないと思うよ」

「と云うかあのたぐいはなんで食い物を無駄にするのか。丼まで割りおって」


 九郎は冷やしぶっかけ煮玉子乗せ蕎麦をぶち撒けられた机を見ながら顔をしかめる。

 男は懐から取り出した包丁を──律儀に[けんか]と書かれている──板場の六科に向けて続けて云う。


「店主に料理対決を申し込む!」

「うむ?」


 話を聞いていたのか聞いていなかったのか、六科は機械的に首を傾げた。


「おれが勝ったらこの店を貰うし娘はおれのヨメにさせてもらうぜ!」

「なんであんなに喧嘩を売りに来た側が過大な要求を通そうとしているのだろうね」

「いや、知らんが」


 顔を互いに向け突然の挑戦者相手への疑問を言い合う二人を尻目に、子興が興奮した様子で紙と筆を持ちだす。


「おお、これはお店を掛けての九郎っちと喧嘩包丁の料理対決……! 果たしてこのお店とお房ちゃんの操は守れるのか……!」

「多分要求してる娘とは、六科の隣で蕎麦を打ってるお雪の事を言ってるのだと思うが……」


 九郎は店内を見回してため息をついた。


「まったく、こんな時に利悟の奴がおらぬ。いれば[めきょっ]とした感じの擬音系で解決させるというのに」

「さあさ、それより天才料理少年九郎っち! 早く手助けしないと六科さんじゃ料理勝負は分が悪いよ!」

「わかった、わかった」


 うるさげに九郎は手を振って座敷から立ち上がる。

 板場の六科と目を合わせてお互いに頷き、二人揃って喧嘩包丁の男の前に進み出た。

 相手は酷薄な笑みを浮かべている。目の前で対峙──せずに九郎と六科は伊三次の腕と肩を左右から抑えた。


「話は裏で聞くからちょっと来い。ああ、タマはすまぬが掃除しておいてくれ」

「うむ。娘が……どうと言った? 貴様」

「いや待て料理対決する品目はだな……」


 引きずられ──抵抗しているようだが、二人の恐ろしい力にはまったく抗えずに板場の奥にある勝手口に伊三次を連れて行かれた。

 そして奥から、


「めきょ……」


 と、云う奇妙な振動破砕音が聞こえたかと思ったら、表にどさりと何かが結構な距離を放り捨てられた気配がして、九郎と六科のみ帰ってきた。

 そして九郎は常連の駕籠かき二人に、


「灰次に江助。ちょっと表に寝てるやつが居るから遠くに捨ててきてくれ」

「起こす必要はない。死ぬほど疲れてるそうだからな」

「へ、へえ」


 そう言って九郎から、一分銀を握らせられて始末のために出て行くのであった。

 紙と筆を手にしたままの姿勢で固まっている子興は、のそのそと座敷に戻ってきた九郎に聞いた。


「料理対決は!?」

「無い。そんなものは」

「ええええ」

「どうしてあんな無礼な男に付き合う必要があるか。それに己れも六科も別段料理が得意なわけでもないからのう」


 挑まれる料理勝負を暴力で解決する展開。

 それをどう猫同心に反映させるべきか、子興は軽く頭を悩ませるのであった。

 苦笑しながら石燕は弟子の肩を叩いて云う。


「ま、暫くの間は九郎君の周りで様子でも見ていたまえ。面白いねたが出てくるかもしれないよ」

「ううう、わかりましたよう」


 そう云うことで、数日の間子興は九郎を観察することにしたのであった。

 

(己れの日常なんぞ参考にならんとは思うが……)


 水を差すのも悪い気がして、九郎は言わなかったがそう思った。




 ***** 

 

 

 

 本所、清澄に芝道場と云う広い道場がある。

 ここは元禄の頃に作られた同心や手先などが剣術の他にも捕縄や十手、刺又などの扱いを教える総合的な武芸道場として開かれており、なにせ日々悪党と捕物をする者達が通うものだから門徒の腕も上等で他所の武士も稽古に来るような場所であった。

 月に一度は火盗改の者と町奉行所の者に分かれて剣術試合が行われ、これもまた実戦さながらの激しさを持つ為にその日は見物に来る者も多く、時には町奉行や火盗改長官も足を運ぶ。

 その日は試合の日程であったのだが、道場の中で九郎が居心地悪そうに壁を背に座って試合を見ていた。

 九郎がここに来たのは、店を訪れた中山影兵衛からの頼みであった。

 本来は彼が試合に出るのが定例なのだが、この非番日は嫁の睦月を連れて神社に行くのだそうである。身篭っていて日に日に腹が膨れている嫁と並べれば、かの火盗スレイヤーな切り裂き同心も普通の旦那に見えた。 

 それで代わりに九郎が利悟と試合をするようにと頼まれたのだが、


「面倒だから厭だ」

  

 と、断るのであったけれど、隣に居た子興が、


「九郎っちが剣術試合編やれって言ってた。だからちょっと参加してるところ見学させて欲しいなあ」


 などと重ねて頼み込むものだから、やむを得ず同心道場に出張ってきたのである。

 ついでに、店も客入りが少なかったために子興が女一人で行くのは心細いとお房まで連れてきている。九歳女児に同行を頼む二十の女であったが、まあ同門の妹弟子──弟子入りの順番は北川、お房、子興の順であった──の頼みなので仕方なく付いてきているあたり、お房も良い子である。

 しかしながら、九郎と云う奉行所や火盗改にそこそこの知り合いが居て何度と無く手を貸している男は実態はともかく知名度はあったようで、伺うような視線を他の同心、手先から浴びて早速閉口してしまう気分であった。

 江戸でも三指に入る剣の達人と呼ばれる、影兵衛の友人であり代役を務めるとなるとやはり剣の腕も相当だと見られてしまう。

 剣術の稽古めいた事をするのは晃之介相手に時々行っているが人に注目を浴びてやる、となるとどうも妙な気分になりむず痒い。

 

「九郎っち頑張ってね!」

「お主は気楽で良いなあ……」

「ま、怪我しない程度にするの」

「わかったわかった」


 にこやかに九郎の背中を叩く子興と、それに抱きつかれているお房にため息混じりの声を返した。

 彼女は拳を握りながら、


「緊迫する立ち会いの駆け引きとか、激しい打ち合いとか、奥義とか出しちゃってよ!」

「妖術とかでもいいのよ」

「いやそこは今やってる連中の試合を参考にしろよ。己れの剣術にあまり期待されてものう。あとビームとか火炎放射したら一発で捕まりそうだ」


 九郎は云うのだが、聞いていないようではあった。

 しかし九郎が見ても中々にこの道場での試合は練度が高い。さすがに日々、悪党と命がけで捕物をしている上に広く人口も密集した江戸を守るには少数の同心しか居ないだけあって、個々の能力はそこらの侍よりも高い様子であった。

 勿論中には詮議方や取締係など内勤の同心も居るわけでピンからキリまであるようだが……。

 単純な剣術の能力ではこの中でも九郎は中程度の腕前だろう。利悟のような格上相手にその差を埋めるのは強化された身体能力と、引っ掛けにはったりと勘に度胸……すなわち年の功と云ったところである。

 ちなみに疫病風装の着流しは身につけているものの、自動回避はこうも人が多いところでは使えない為に機能を切っている。あからさまに不自然な三次元的回避が発生するので非常に目立つのと、以前に晃之介相手に使った時は近接技の隙を別の技で打ち消し接続する六天流奥義の一つ[乱舞]を避けまくったのだが九郎が酔う程に服に振り回された経験が苦々しいのであった。

 おまけに最終的には持っている木剣を目標に[駒投げ]と云う吸い込むように掴む投技で道場の外まで吹き飛ばされたという。


(面倒だから利悟と子興には悪いが一瞬で決めよう)


 九郎はそう思った。

 やがて、大取りに出番が来た。


「よし、ではこの短いを二本借りるぞ」


 と、道場に置かれていた木剣を両手にそれぞれ持って九郎は進み出る。

 対する利悟は普通の長さの木剣を一本持って九郎を見遣った。


「む、二刀流だっけ? 九郎」

「さあ、どうだったかのう」

「……まあいいか。お房ちゃんにいいところお房ちゃんにいいところ……」


 あまり江戸では見ない二刀の流派を想像したのか、若干緊張したようだが、ぶつぶつと見物客に紛れているお房を意識しながら集中したようだ。

 利悟とは何度か仕事を共にしていることもあり、九郎の見た目に反して異様に高い身体能力の事は知られている。それの意表を更に付くにはまた方法を変えなくてはならないだろう。

 審判役──今回は町奉行所の筆頭同心・美樹本善治が旗を持って中央に立つ。相変わらず怪我が多いせいか実年齢より老けてるように見える中年は飄々とした声音で双方に告げた。

 

「それじゃ、両者準備はいいな? おい。……始め!」


 告げると同時に九郎は軽い動作で宣言と共に上方向へ片方の木剣を投げた。


「秘技──お手玉の剣」


 観衆、子興に審判の善治まで含めて投げられた剣に注目が集まる。

 これは九郎が魔王城で自堕落な生活をしていた時に見た子連れ狼で使われていた剣法であった。

 上に投げた剣は相手にまっすぐ落ちていきその場から動かねば頭上から刺さる。また、それに気を取られているうちに接近して正面から斬りかかり、正面に対応すればやはり投剣が刺さり投剣に対応しようとすれば正面から切られるという二段構えの剣術であった。

 なお、劇中で出た攻略法は、幼い大五郎を肩車することで投剣が大五郎バリアで無効化されると云う状況を作って相手が躊躇ったところでバッサリ切り捨てるという……九郎も劇中の刺客と同時に軽く引いた戦法であったのだが。

 しかしながら道場試合の木剣。更に別段九郎はお手玉の剣を使えるわけではなかった。

 わざわざ口に出してまで放り投げたのは、視線を誘導させる為だ。


 利悟の眼球が投げられた木剣を追った瞬間、九郎は床を蹴り加速する。身体強化に合わせて首元に巻いた相力呪符が青く僅かに発光する。

 投げられた木剣を確認する。

 相手の動きに気づく。

 対応の行動を選択し、実行する。

 相手にその三行動を押し付けるのが目的だ。腕がよくとも人間ならば神経伝達速度には限界がある。

 九郎の接近は瞬速であった。間合いは一足一刀より僅かに遠い。しかしながら一度目を逸らしたものが、猛禽の速度を越えて急加速して迫る。周りで見ているものは勿論、やや離れて観戦している火盗改長官から見ても異常に早い。

 すれ違いざまに相手の武器を叩き落とす算段である。ぶつかれば人体がただでは済まない衝撃があるからだ。

 九郎が異世界で習ったジグエン流の基礎にして究極は[まっすぐぶつかって、打ち勝つ]である。提唱していたジグエン傭兵団長などはそれで全身鎧騎士でもゴーレムでも粉々に砕いていたが、九郎には無理だった。当たり前だが。

 しかし今なら可能だ。技術が拙い部分は陽動と奇襲で補う。

 生物の限界を超えた速度領域にある一撃。気づいた時は終わっている。打撃音が響いたのはまだ多くのものが宙に投げられた木剣を見上げている時であった。

 九郎と利悟が離れて背中合わせになっている。からん、と投げた木剣が床に落ちたと同時に──。

 

「……ぬう」


 膝をついたのは──九郎の方だった。

 己の痛みも遅く訪れたようで手首を抑える。酷い鈍痛で腕が跳ね上がりそうである。骨に罅ぐらいは入っているかもしれない。 

 九郎はおおよそ人類が感知不能な高速度で迫撃を行ったのだが──利悟が最低限の動きで見事な迎撃を受けて攻撃を失敗しすれ違って抜けたのであった。

 

「び──びっくりしたああああ! 何だ今の打ち込みの早さ!? 伯太郎の狼より倍以上素早かったんだけど!?」

「ええい、しっかり打ち返しておいて嫌味か。というかよく反応できたな」

「いやあーなんか体が勝手に動いた感じで」

「むう……」


 一刀流の達人である利悟が何百も繰り返した型による無意識の打ち込みとでも云うべきか。

 脳や脊椎が反応するよりも早く、手先が危機を把握し迎撃して来たのだろう。

 普通はそのようなことが起こる筈はない。だが、若くして町方の中でも段違いに強いと言われる利悟だからこそ出来る常識はずれの反応である。

 困ったような笑みで立っていた善治が云う。


「それじゃあ利悟の勝ちだね、これは」

 

 そう判定を出して、決着を付けた。

 目に映らぬ一撃同士で勝負がついたのだが、勝ち星を上げた町方から利悟を褒める言葉が聞こえて利悟も勝利の笑みを浮かべて返した。

 九郎は影兵衛の代役ではあったが、それを相手に見事な快勝である。

 相手が影兵衛となるとこうは行かない。防御の構えで粘りに粘って木剣を破壊するか、鍔迫り合いから柔術に持ち込むかしなければ影兵衛相手には勝ち星は殆ど得られないのである。白熱してくると尋常ならざる方向からの蹴りを含んだ連続攻撃に滅多打ちにされ負けることも多いが、そもそも利悟で無ければあの戦闘力特化の切り裂き相手に引き分けか勝つことはできないのであったが。

 試合場の外からお房がすたすたと近づいてくる。利悟は両手を広げて、


「見てくれていたかい!? お房ちゃん!」


 云うが、無視されて彼女はよれよれと立ち上がって怠そうにしている九郎に近づいた。


「大丈夫? 九郎」

「ううむ、ちょいと腕をやったが、そのうち治るだろう」

「そ。手を出して。気休めだけど布を巻いておくの」

「すまぬなあ」


 懐から取り出した手ぬぐいを包帯のように、腫れだした九郎の手首に巻きつけていく。

 利悟は凍りついた笑みで手を伸ばしたまま、


「……しまった! 拙者もいい感じに負けて怪我をすればお房ちゃんの手当を──」

「利悟さん?」

「はい」

「うちの店に来たら暫く料金は倍取るから」

「嫌われたああ!?」


 利悟が真っ白に燃え尽きて床に倒れ伏した。

 酷く冷めた目で常連の同心を睨みつけたお房は、九郎の無事な方の手を引いて試合場から離れていく。周りから見られるが、九郎が適当に手を上げて顔を顰め、挨拶をして道場から出て去っていく。

 慌てて子興も追いかけてきた。

 お房に引っ張られている九郎の顔を覗き込みながら子興が云う。


「でも九郎っち……なんかこう、奇襲までして一瞬で逆に負けるってのは、お話に出してもあんまりウケないと思うんだけど」

「まあ、仕方なかろう。思っていたより利悟の奴が腕利きだったのだからな。奇襲と云うのは攻撃に意識を全部向けるものだから予想外に反撃されると手痛い」


 以前に力士上がりの盗賊に背後から仕掛けて腕をへし折られた事を否応なく思い出しながら九郎は云う。

 振り向かずに機嫌が悪そうな声が前方から聞こえた。


「別にやっとうの試合なんて負けてもどうでもいいの。九郎は他に出来ること沢山あるんだから。料理だって考えられるし、人から頼られて役に立つもの。喧嘩なんてそこそこでいいのよ。なんてことないわ」


 その言葉を──。

 九郎は聞いて、痛む手で軽く頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。

 お房の声にはどうでも良いという言葉とは反する苛立ちのようなものが感じられる。

 それは恐らく、九郎という物臭でちょっと駄目な生活態度があるが、頼りになって強い兄のような存在が負けたのが───悔しいのであろう。

 ぽん、とお房の頭に巻布された手を置いて告げる。


「なに、次やったら己れが勝てるさ。ちょいと格好悪いところを見せて悪かったのう」

「……じゃあ、ちゃんと、格好いいところ見せるのよ」

「おう」


 お房の足取りが緩やかになり、九郎は横に並んで歩いた。お房は感情が昂って滲んだ涙を一度だけ拭って、いつも通りのやや据わった目つきのまま九郎と手を繋いで進む。

 後ろから子興が、


「うーん、兄妹話は意外と行けるかもしれないね。おにゃんには丁度兄代わりの岡っ引きが居たし……」

「確か其奴は2ヶ月前の話で汚職で捕まり、その姿を大百足に変身させて退治されたであろう」

「うっ、そうだった……」


 中々、彼女のネタは埋まらないようである。





 *****






「煮詰まっているようだね子興! ここは私が特別に手を貸してやろうではないか!」


 ここ数日は九郎に張り付いて緑のむじな亭でだらける事が多かった子興に、石燕は蔑ろにされた神楽坂にある自宅の家事を済ませてから店へやってきてそう云った。なにせ九郎の周りで観察してろと命じたのは自分なので家の仕事をしない子興に文句を言えず、また早く彼女の目的を済ませて家事を押し付けようという算段である。

 とりあえず店の定位置である座敷に座っている九郎と、その膝枕で寝ている子興にずかずかと近づいて子興の両肩を掴み引き摺り起こした。


「そしてこうだ!」


 子興を退かした石燕は胡座を掻いた九郎の腰元を椅子にして対面座位で座り込む。


「それで何をするのだ?」


 言いながらひょいと九郎は膝に座った石燕を持ち上げて隣に適当に置く。

 少しだけ固まった石燕だが、その対応にももはや慣れたようで寝ぼけている子興に指を突きつけて不敵に云う。


「いわば子興の猫同心は日常ものなわけだが……」

「盗賊や妖怪などに次々と遭遇しているがのう」

「こほん。ともあれ、日常には時節の定番を入れて於けばお茶を濁せるよ。春なら花見、秋なら月見などだね」

「ほうほう、それで師匠! 夏は?」


 子興が身を乗り出して尋ねると、彼女はにやりと笑って云う。


「決まっているではないか。怪談だよ」

「お化け! い、いやまあおにゃんは設定上化け猫なんだけど」

「と云うわけでこれから定番のお化け捜しに九郎君と行くので付いてくるが良い」

「己れが行くのは決定なのか」


 一応尋ねるが、当然のように頷いた。


「題目は江戸三大七不思議の一つ……」

「それちゃんと二十一個設定しているのだろうな……」


 数に適当な魔王を思い出しながら呻くが、無視された。


「本所七不思議と云うものがあるのだよ。これは広く庶民にも知られている、場所に由来する話だから受けも良い巷説でね」


 石燕は指を立てながら一つずつ七不思議を解説しだした。


「まずは有名な[置いてけ堀]。釣りをしていると川の方から置いてけ、と声が掛かる。魚を置いていかねば迷って帰れないとか、家に帰り着いたら魚籠の魚が無くなっていると云う。河童の仕業とも、狸に化かされたとも言われているね」

「ほう」


「次に[足洗邸]これは屋敷の天井を突然突き破って落ちてくる巨大な足の妖怪だ。しかも汚い。綺麗に洗うと破った屋根ごと何も無かったかのように引っ込むと言うけど、洗わないで放置したらどうなるのか気になるね。古狸が正体だとか」

「迷惑だのう」


「更に[狸囃子]。どこからともなく祭り囃子が聞こえてくるのだが追い掛けても一向に見つからない。うっかり追いすぎると迷ってしまう。名前の通り、狸の仕業だ」

「狸の割合高くないかな師匠これ」


「まあ待ちたまえ。次は[送り提灯]。暗い道の先にちらちらと提灯らしい明かりが見えて、目印にして歩けども近寄れない。いつまで経っても追いつけないという……」

「さっきのと被っているぞ」


「[松浦家の老木]……これは見た目は立派な木なのだがね、どうも見ていると『オカシイ』『アヤシイ』と皆が噂するようになった。そしてある時気づいたのだよ。この木は……[椎シイの木]なのだとね!」

「怪談じゃないよな、もはや」


「ふふふ、次は本格派だよ? [片葉の葦]。駒止の堀近くの葦は不思議と葉が枝の片方にしかついていないのだ。これは、その堀で殺しが起こってね。殺された娘は片手片足を切り落とされていたらしい。その恨みが葦に宿り……ふふふ」

「し、師匠。それ見に行くのは止めましょうよう」


「次もいいのが来てるよ……[津軽家の太鼓]。これは本所にある弘前藩津軽家の屋敷の火の見櫓はね……何故か火事を知らせる為に鳴らすのが板木ではなく、太鼓なのだよ!」

「……? それがどうしたというのだ……?」


「最後は[消えずの行灯]。ある蕎麦屋の前にある行灯は一晩中消えず、そして蕎麦屋には店主も誰も居ないという……正体は狸だと言われている」

「締めにまで出たか、狸め」


 若干、怪談なのかどうか怪しい物もあったが石燕は解説を終えてにんまりと笑い云う。


「これが本所七不思議と云うやつさ」

「……いや待て。さっき全部で八つ言わなかったか?」

「そう! 七不思議なのに八つある……これが九つ目の不思議」

「それ『七不思議なのに六つしかない』とか云う状況で数合わせに使うネタだろう」


 やはり数に適当な詰め合わせだったので九郎はがっくりと頭を落として左右に振った。

 そもそも同心二十四衆などだって全員存在するのか怪しいところだ。そういえば[似非同心]は捕まえて獄門送りになったので揃ってない気もする。

 子興がおずおずと石燕に尋ねた。


「あのう師匠。それで、どれを探しに行くのかなあ」

「そうだね。順番通りと云うわけではないけれど、確かな情報で近頃[置いてけ堀]が出たと云う話を聞いてね。今晩早速妖怪探しに行こうではないか!」

「うううっ、く、九郎っち、ちゃんと夜道では守ってね」

「さて。話の種には置いてけぼりにされた方が貴重な経験になるのではないか」

「意地が悪い!」

「はっはっは」


 九郎は軽く笑い飛ばした。

 それから夜になり……。

 提灯に焼き鰯を何本か持って、三人は本所へと向かった。

 置いてけ堀は釣り人の魚を要求するので魚を準備しておく、と尤もらしい事を言って石燕が子興に用意させたのだが、彼女は鰯を齧り酒を飲みながら行く口実であったように思える。

 

「師匠、こんな焼き魚の臭い出してたら置いてけ堀じゃなくて化け猫が出そうだよう」

「それはそれで楽しいではないかね」


 提灯を持っている九郎が振り向きながら尋ねる。


「そういえばどのあたりで出た噂があったのだ?」

「弥勒寺の坊主が何人も[おいてけ]と云う呻き声を聞いたらしくてね。気味悪がってるとか……まったく、仏僧だと云うのに妖怪に怯えるなど不心得者だね」

「となると六間堀か五間堀のあたりか」


 とりあえず目的地を決め、大橋を渡ってそのニつの堀が合流する付近を目指して進んだ。

 現代よりも市中を行き交う水路が多い江戸の夏夜は、湿った生ぬるい空気が広がっていて中々に妖怪の雰囲気がある。

 妖怪絵師の弟子だと言うのに子興は恐る恐ると石燕の裾を握って後ろから付いている。つま先立ちで歩き、また結った髪が耳のようにも見えて夜中に見かけると彼女が猫が化けた女のようであった。

 現代よりも神仏狐狸妖怪に信心深い当時の人からすれば、暗い夜中に響いてくる何かしらの音に怯えて妖怪の影を見るのだろう。疫病風装で青白くぼんやりとした九郎の影も、また妖しげな噂を呼びそうではあったが。

 やがて──。

 五間堀近くになると、虫の音に混じって何らかの声が聞こえてきた。子興が総毛立たせながら、石燕に抱きついている。


「おいて……け……いてけ……おいてけ……」


 言葉ははっきりと聞こえ出した。

 確かに、堀──きっちりと岸が舗装されているわけではない、水際である──の縁から声が聴こえる。

 

「近づいてみよう。……ええい、子興。邪魔だよ」

「師匠~河童だったら尻子玉抜かれちゃうよう」

「そんな助平河童なら九郎君がなんとかしてくれるさ」

「……とりあえず、己れが先に行ってみるから離れておれ」


 動きにくそうな石燕を置いて、提灯を持っている九郎はすたすたと河岸へ向かう。腰にはアカシック村雨キャリバーンⅢが差してあるので大抵の事は大丈夫だと判断している。

 近づくと人型の影がある。それはしきりに、


「おいてけ……おいてけ……」


 と、唱えていた。九郎は提灯を突きつけて云う。


「誰だ」


 明かりに照らされたのは──。

 半端に毛が伸びてみっともない月代に手入れが行き届いていない髷をして、襤褸切れを纏っている男であった。

 髭が伸び顔も汚れているがまだ三十前後の顔つきに見える。

 乞食姿ではあるが、間違いなく置いてけ堀の噂に上がるうめきを上げていたのはこの男だ。

 提灯に眩しそうに手で目を塞いでいる。九郎はひとまず、狸や河童の化け物ではない事を確認して石燕と子興を呼んだ。


「ただの人だぞ」

「ふむ──そこの、おいてけ君。何者かね?」


 石燕のその呼びかけに男ははっとして掴みかかろうとした。


「拙はぁ! [おいてけ]ではなあい!」

「落ち着け」


 九郎が素早く前に出ると、男の肩に手を当て、ぐ、と力を下方向に込める。

 強烈な重圧で踏ん張ろうとも地面に座り込まされる男は唖然と九郎を見上げた。


「深呼吸せよ」

「は、はあ……」

「よし、この振り子をじっと見ながら自己啓発と三回唱えるのだ」

「じこけいはつ、じこけいはつ、じこけいはつ……」

「九郎っちがなんか怪しげな術を施してる……」


 徐々に腕を上げつつあるマインドコントロールに、九郎本人も仄かな罪悪感と嫌気のする達成感の混じった妙な気分を覚えた。

 ひとまず落ち着いた男に石燕は尋ねる。


「それで君はここで何をしていたのかね?」

「……拙はその、以前はさる藩の勘定方に使えていた武士なのですが……」


 男はぽつりぽつりと語りだす。


「その藩は今の時勢珍しくもなく、財政に窮しておりまして……勘定方の拙がどうにかこうにかやりくりをしようと日々工夫をしておりまして」

「ふむ」

「しかしある時、公金横領の嫌疑が拙に掛けられました。毎日金の工面に苦心して家財道具を売り払い、女房に内職までさせていた拙を訴えたのは目付役の[御伊手]と云う男。それにより役目を取り上げられ、女房は親類のある商屋に帰らせて拙は一人こうして乞食の身……

 それで夜な夜な悔しく、あの御伊手の家に恨みを募らせて呻いていた次第でして……」

「ははあ、それで[御伊手家]と云うわけかね」


 涙をぼろぼろと流しながら男は地面を叩き嗚咽を垂れる。


「ああっ……拙は単に、藩の財政を潤そうと公金八百両ぐらい博打と米相場に突っ込んだり、無断で殿の茶器を質に入れただけだと云うのに……! 全部素寒貧にしたからと云ってあの御伊手め……!」

「お前が悪いよ!」


 一斉に三人がツッコミを入れた。

 切腹ものの不祥事をした男の完全な逆恨みである。恨み事と云うか、御伊手氏への風評被害を垂れ流しているようだ。

 男は難しそうな顔で俯いて、


「しかしこの御伊手への恨み、本所の方にも共感する者が居るようで」

「いるかなあ……」

「なにせこれまでも何人かは拙への同情か、魚などを置いていってくれるほどで」

「妖怪扱いされてるだけだな……」


 とりあえず、この御伊手家堀と云う珍種の現象はそう害がなく、また石燕の興味範疇外なので放置して帰る事にした。

 これからも延々と置いてけ堀の噂の種となり江戸住民を楽しませる巷説として存在していくのだろう。

 

「やれやれ、今回も空振りだったのう」

「ふふふ」


 帰り道でいつものことだが、相変わらずくだらない結末だったことにぼやいた九郎に石燕は笑いかけた。

 がっかりした様子も無いので不思議そうに九郎が振り返る。


「案外そうでもないかもしれないよ。置いてけ堀の正体は狸だと云う説があったね? ではあの名も知らぬ、おいてけおいてけと唱えるだけでその正体が出回っていない男と会ったのも私達が狸に化かされただけ、だと云うのはどうかね?」

「……まさかな」

「確かめればわかるが、確かめていない今ではそうかもしれないと少しでも思ってしまっただろう? これでまた置いてけ堀と云う妖怪が起こした奇妙な出来事がひとつ増えたのさ。

 妖怪探しで失敗と云うものはね、その現象が起こる条件を満たしてなお何も起こらない事を云うのだよ。いかに平凡な結末でも似た状況が発生したのならば──それは確かに、目に見えぬ妖怪が引き起こした可能性とてあるのさ」


 理屈ではあったが──実際に妖怪と云うものに九郎よりも接して、具象化している絵描きの云う言葉に九郎は「そうだのう」と納得したように頷いた。

 しかし、と腕を組んで首を捻っている子興を見ながら石燕は聞く。


「どうだったかね子興。九郎君についてまわってみて」

「ううん……料理対決は捻り潰して終わらせるし、剣術試合は一瞬で負けるし、妖怪は乞食のおじさんだし……」


 彼女は小さく頷いて云う。


「案外、九郎っちも地味な日常だね」

「だからそんなに期待するなと」

「おやおや」


 石燕はおどけたように肩を竦める。

 

「微妙に麻痺している感じがするがね。まあいい。良いか子興。毎回血生臭い事件など起きてそれが日常になっている方がおかしいのではないかと読者も思ってしまうだろう? お前の作品もたまには何も起こらない日常を過ごさせてこそたまの活躍が光るのだよ」

「はっ! つ、つまり落差のある展開にしたほうが人気が!? おにゃんと犬忍者のおぬいをゆるーりと女同士いちゃこらさせた挙句暫くしておぬいを吐き気を催し、気が欝ぐぐらい惨死させることで読者の心を掴めばっ!」

「いやそれは版元ごと炎上しかねないからやめておきたまえ」


 悪い方向に話を展開させようとする弟子を止める石燕。誰も得をしない方向に逸脱しては修正が困難になる。

 何だかんだで子興も話の種は掴んだようで、彼女が九郎の日常を観察する日も終えたのであった。


 後日……。

 刊行された[猫同心]を九郎が店で読んでいる。


『半熟煮玉子!? そんなものどうやって作れば……』

『出してるお店に行ってみるにゃあ』


『両手に持ってる剣を片方手放すことでなんか素早くなる忍術だわふー』

『心の目を開くんだおにゃん!』


『──と、これらが本所七不思議だにゃあ』

『おにゃんちゃん、それ八つあるんだけど……』


 ……などと、現代語の感覚で意訳すればそんな風な文が書かれていた。


「……小ネタだけは採用されておる」

「お店の宣伝はしてくれてるからいいの」


 呆れたように九郎は呟いて、お房と共に苦笑いを漏らした。

 今日もせいぜい死人が出ない程度に平和な日常が続いている……。



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