挿話『咎人と眠れない茨姫』
これはお前に残す言葉だ。
世の中と云うものは只管海の水を掬う作業に似ている。誰も彼もが貝殻か何かで汲み上げているのだ。殆どの者は意味も考えずに、きっと何か意味があるはずだと隣で掘る別の人間と慰めあって生きている。
一部の人間はその海水に何か価値がある投資だとか、新たな漁の一種だとか勝手に存在しない意味を付与して結局やることは考えない者と同じだ。
一生掬い続けて我が子にも掬い続けさせて、決して減ることも無い海を世の中の人間全てが共同して作業している。
皆が行い、こんなに沢山の人間が多くの時間を掛けて行ってきたのだからきっと意味がある。最後に報われる。そう信じてこれまで何千年も、この先何万年も続けていく。掬うのに手を使うか貝殻を使うか、水を飲むか捨てるか程度の違いで、結局そのような違いにも矢張り意味は無く続けるばかりだ。
お前はそうなれば人生に意味など必要あるのかと云う命題を浮かべるかもしれない。
誰も彼もが意味のない行為に終始することに、それなりに満足して続けているのならば意味など必要無いと思うのではないだろうか。
それはそれで正しい。意味など持たなくても人は生きれるし、死ねる。
実際の人間の人生は海を掬うなどと云う無意味な行動以外にも、もっと素晴らしいものがある筈だ。生きている意味も個々人で持っている物だと少し賢くなった君は云うかもしれない。
だがそれぞれ個別の、一人一人が送る千差万別に見える人生だって、予め決められた行動を調和のようにやっているだけだとしたらそれは矢張り水汲みや穴掘りと変わらないのではないだろうか。花が毎年同じように咲いて散るのだって、若しかしたら一輪一輪に壮絶な感情があるのかもしれないけれど、誰もそれを知ることはなくただの季節の変化で起きるものだと認識しているように。
しかし世の中には数少ないがそれらを行わない者もいる。彼らは無意味と知っているのではなく、単に異なる価値観で生きている者だ。
沖に出て水を掬うとか、周りに水を引っ掛けて邪魔すると云った程度の違いではない。盛り土をして空を目指したり、海岸線から旅に出たりする者だ。
彼らは上から下へ重みに任せて落ちるように生きるのではなく、己の力で命を運ぶ──運命力と云ったものを持っている。それらの殆ど全ても異なる行動をとったところで無意味に終わるのだろうが、中には周りを巻き込んで別の流れを作り出す事も稀にある。
他人の運命を変える事こそが意味だ。一人では誰もがそれで完結してしまう。
安易な絶望と、困難な希望の未来を持つお前はどうありたいだろうか。
他者のさだめに干渉出来る者はそれが故に面倒が付き纏う。
助けてくれる友人を持て。体を鍛え壮健でいろ。知恵を付け賢く金をつかめ。望めば叶うと信じる事だ。
そうすれば未来は変わる。出来なければ出来る奴に頼み、手を引いて貰いなさい。
雨次。
きっと意味がわからないと云うだろうけど、お前は自分で意味を探し知りなさい。
これを伝える事はきっと、お前が生かしてくれた私に残された意味なのだろうと──
「へべれっしょん!」
そこまで筆を取って半紙に書き記していた女は、大きな嚔をした。
鼻をすすりながら文を見ると、吹き出した勢いでべったりと書いてた文字に墨が溢れてあちこち読めなくなってしまった。
彼女は顔を顰めて、書き終えたばかりの紙を丸めて放り捨てた。
「また同じ文書けって言いますの? まじむり……だるい……短く適当でいいっちゃ……」
片腕だけの女は心底うんざりと呟いて顔を文机に突っ伏した。
*****
雨次の母親、お歌夢が小石川の養生所から退院した際には、多くの所員から贈り物を与えられた。
快復祝いなのか、騒動が出て行く安心なのか──さてはて、貰うものは座布団、掛布の一枚でも多く運ばせてあたかも凱旋の賞品めいた雰囲気で千駄ヶ谷にある自宅兼廃屋へと帰っていった。
「ただいま帰りましたーあら雨次、大きくなったわねこんなにぼろぼろになって……苦労したのねえ」
「母さんそれうちの崩れそうな柱だから。ぼくは養生所からついてきてたよね?」
「それならそうと早く言えよ! 親子だってのに隠し事か!」
「一厘も隠して無いよね!?」
「この潰された片目に封じられた魔の存在についての秘密を語る時が来たか……」
「よくわからないものを隠されていた!?」
などと親子はいつも通りに遣り取りしつつ、戦利品を家の中に運び入れるとおずおずと中から青みがかった色の抜けない、薄ら白い肌をした少女──着物は小唄のお古を貰っている──が出迎えた。
雨次が何か面倒な──母親が突然発狂して接近しないように──二人の間に立って茨に手を向けて紹介する。
「前に言ってた、うちで働くことになった茨だよ母さん。食事代なんかはぼくが稼いでるから心配しないで……博打だけどさ」
とりあえず九郎と共に稼いだ金で、一家十年は慎ましく暮らせる程度には蓄えがある。
お歌夢は茨をじっと見て、左手の人差し指を立てて彼女に向けながら上体を大きく逸らして謎のポーズを取った。
「蠍の構え……!」
「なんで!?」
唐突のモード・スコルピオンに対し何故か茨の方は両手を左右に広げて片足を上げる構えを真っ向から返した。
脂汗を額に浮かべながらお歌夢はやがて膝が震えだし、片足を床についた。
「くっ……鳳凰の構えか……中々やるじゃない……だけどわたしはまだ十二割の力しか発揮していないから調子に乗るなよ」
「限界を超えてるじゃないか!」
「あらまあ! ここにこんなに埃が残ってるざますの!」
「そこは竈だよ!」
まるで生来の仕事の如く母親にツッコミを入れ続ける雨次である。
昔は若干諦めていたというか、母親との距離感が悪かった為に反応を腐らせていたのだが近頃はこの調子である。
近いとか遠いとか云うよりも、悪い。そんな不理解の親子だったというのに随分と打ち解けている。理解できていないのは、まあ今もそうであるらしいが。
彼はいまだに鳳凰とやらのポーズをとる茨にも近づいて、
「っていうか茨もなんでそんな反応を……」
「……?」
「きょとんとされても。ぼくがおかしいのか」
化かされたような気分になりながら雨次はかぶりを振った。
そうこうしていると、お歌夢は茨にもたれ掛かるように肩を汲んで歯をむき出しに笑いながら台所へ向かった。
「よし、うちで働くんなら今日は宴だ! 秘技・帰ってきたら息子が家に女の子を連れ込んでいた祭り!」
「そうだけれど……そうだけれどなんか違うんだ!」
「むしろ被疑か? まあいいや。贅沢に、養生所からがめて来た障子の紙を使った紙正月料理を……気分盛り下がる~」
「なんでわざわざ!? そしてそんなものまで盗まれたのか養生所!」
予算からして金も人材も余っていた小石川養生所だからか、肝いりで入院させられたお歌夢にはあれこれと土産もやったのだが、さすがに障子紙まで取って行かれるとは呆れただろう。
何度か雨次も養生所には顔を出して、そこで働く下女や医師などとも顔を合わせていたので余計に彼らの顔が浮かび、雨次は恥ずかしくなってきた。
(ぼくは絶対あそこに行かないようにしよう)
そのような事を思いつつ。
竈に連れて行かれたお歌夢が、まあ険悪そうではない高い声音で茨にあれこれと紙の味噌汁を作らせている声を聞きながら、雨次は増えた家財道具を整理し部屋の隅に押し込める作業に戻った。
(茨もここに来た頃は握り飯さえ作れなかったんだけどなあ)
言葉が出ないという難点もあったが、決して頭は悪くないので雨次から教えられたことを努力し憶えて、大体の家事は──子供二人が生きる分には──出来るようになったのは良かったと思う。
最近ではどうせ家に居させても暇なので天爵堂の塾へ通っているが、平仮名も反復で読めるようになりこれまでの見世物扱いだった人生を取り戻すように、人として生きるに必要な知識を取り込んでいる。
問題は母親との仲だったが、そう悪くはないと思う。
「いいか……この味噌樽の横にそっくりな肥樽を置いてだな……毎日に緊張感があるってわけだぎゃ」
「……!」
見えない所でそのような会話──喋るお歌夢に頷く茨という一方的な形だが──をしている二人に、
「なるほど、みたいな顔で頷いてないといいなあ……!」
と、だいたいの被害を被る雨次は祈りの言葉を唸った。
この後も茨は、懐いたとか畏れたとかそう云うわけでは無さそうだが、普通にお歌夢と料理を作っていた。見世物小屋仲間と認識している可能性も無くはないが、少なくとも彼女にとって少しばかり躁気味の年増はあまり気にならないようである。
三人で察しの通りの味がした障子紙の味噌汁──実在する──を飲んで、ともあれ雨次の母親は家に帰ってきたのであった。
*****
残していくのが喩え話を書いた文だと云うのはお前は頭を悩ますかもしれない。そもそも、文と言うより口で喋る内容を記すのも妙な話だと思うだろう。
それは仕方ないことなのだ。
私は中身が空っぽ故に、何かに例えて何かの真似をし、見たままを口にして考えたままを言葉にするしか能が無い。
花に嵐の喩えもあり、さよならだけが人生だと誰かも言っていた。誰だったかは覚えていない。おそらく、お前も知ることはない。
こう云う話がある。
ある城の井戸に気が狂う薬毒が放り込まれ、それの水を飲んだ家臣団は毎日箸が転げ達磨が転けても馬鹿笑いを繰り返す阿呆になった。
唯一飲まなかった殿様は井戸の毒がわかり困り果てていたという。
しかしやがて、家臣の者達が逆に疑い始めた。
自分たちは阿呆のように笑っているのに、殿様はいつも困った顔をしている。もしかして気が狂ってしまったのではないか。こうなれば凶事を起こす前に殺してしまえ。
そのような相談をしているのを聞いた殿様は自分も毒を飲み阿呆になった。
家臣も殿が正常になったと喜び、阿呆しか居ない城で皆馬鹿笑いして過ごしたという。
さて。雨次。自分の周りに、やけに狂人や妙な性格をした偏屈変人が集まると思わないか。
脅かすわけではない。お前も暗黒の情を持つ女も、汚泥の恋に生きる女も、忍び崩れが集まる村も、人斬りが高じて事象を切り裂くようになった侍も、あらゆる局面に対抗する武芸により確率を変動させる道場主も、誰も彼も正常だから安心して欲しい。
変なぐらいが普通なのがこの世界だ。
そして、正常すぎる故に馬鹿げた狂人を演じる羽目になったのが私だった。
私は自分が何も残せず、何も影響を及ぼせないまま死ぬことを識っていた。
きっとお前は私が死ねば二度と思い出すことは無いし、残せるものは手から全て落ちていくさだめが決まっていた。
だからこれは最後の別れなのです。
*****
ある日の事。
「おーぅ坊主ぅ。母ちゃん帰ってきたって?」
のそり、とやや屈んで入り口から入ってきたのは巨漢を柿色の野良着に包んだ中年の男であった。
岩が張り出したようないかつい体と顔つきに眉が薄く上背から見下されると酷く人相の悪い。彼は小唄の父親で、このあたりの地主である根津甚八丸であった。
その時は丁度、茨を連れてお歌夢は川で鰻をとると張り切って出て行ったので、留守番をして天爵堂の家から借りてきた本を読んでいた雨次が応対した。
「どうも、甚八丸さん。今日もかっこいいですね」
「ばぁきゃろう褒めても何も出ねえよ。これは今日の分の報酬だ」
「……」
娘の小唄から聞いた楽な彼との付き合い方としては、とりあえず出会い頭にカッコイイだの素敵だの褒めておくと云うことだったのだが。
何も出ないと言いつつ雨次に一分銀を握らせてくる甚八丸であった。
彼はきょろきょろと、家の中を覗きお歌夢が居ない事を確認して茄子や西瓜など新鮮な野菜を入れた駕籠を雨次に渡してきた。
「ほらよ、快復祝いだ。お前が西瓜食い過ぎて寝小便したら呼んでくれよ。小唄と一緒に見に来るから」
「しませんよ。……いいんですか?」
「母ちゃんにはあれだ。適当に山賊を倒したら献上されたとか言えよ? お前の母ちゃんなんか施しを受けた気分になると松明を振り回しだすから」
「完全に合ってる認識で困るな……」
野菜笊を受け取りながらしみじみと雨次は云う。
千駄ヶ谷あたりではお歌夢が松明を持って妖しげな祈祷を行ったりするのは彼女が住みだしてから周知の行いであった。
何故かひとしきり踊り狂った後は雨が降るので日照りの時分には村人も一緒になって踊るようだったが。
「しかしあれだ。そんな母ちゃんでも居ないより居たほうがいいだろ」
「ええ、そう思います」
言われた言葉に素直に頷く雨次。感慨深く甚八丸も腕を組んで、
「そうだよなあ、中々自分では選べねえっていうか。俺様の嫁なんか見た目はいいんだけど春画を買ったり便所紙に潜ませたりおかずに飯を食ったりしてたら殴りかかる暴力女でなあ」
「時と場所をわきまえないからでは」
「そもそも俺様の好みはちょっと世間知らずだけど助平な事したら顔真っ赤にして説教するけど許してくれそうなそんな女の子なのに……強気姉御肌幼馴染じゃんあいつ……」
ぶつぶつと文句を云うのでどうやら、恐妻家であるようだ。
もっとも、暴力を振るうのも甚八丸がハンカチ感覚で春画を取り出すわ、近所の農家の女衆にセクハラをするわと奔放な彼の根性を叩き直そうとしているだけなのだが──この歳になっても治らないのはもう無理かもしれない。
なお女性に煩い甚八丸だが性格が闇底に落ちている女や発狂している女などメンタル系は苦手なのであるが。
甚八丸はずいと雨次に顔を寄せて云う。
「あと勘違いするんじゃねえぞ、これは俺様が先に野菜をやることで小唄が手ずからあげようとしていた行動を阻害する嫌がらせなんだからな」
「はあ……どっちが持ってきても同じぐらい感謝しますけど」
怪訝な顔でそう云う雨次に甚八丸はどこからともなく、妙な木彫の人形まで取り出して解説をするのである。
「向こうの気持ちが違ぇんだよ! いいかこうだ、『雨次。母上殿が戻ったようだな。こほん、ところでこれはうちで取れた野菜だが……せっかくだから私が料理を作っていこう。台所を借りるぞ』」
「うわ声真似にしても似てない野太い声! でも小唄が言いそうだから逆に嫌だ!」
「『でゅえっへっへ。ぼかぁ野菜より小唄が食べたいでげすぶりんが』」
「まさかそっちはぼくの真似か!? 最悪だ! そしてなんだその語尾!」
「『ちょいとそこの泥棒猫! あたいの雨次を取るんじゃないよ!』」
「そしてもはや予想もつかない第三者が!」
追加で更に女の人形が現れた。
「とまあこうなりお前は左右から引っ張られていい思いをするんどぅあああ! 許せねえ……ちょっとおじさんと一緒に上田の須川湖で真冬の水練でもするか、町奉行に大岡剣で真っ二つに割かれて裁かれるか選べえええ!」
妄想に熱狂して頭を抱えて叫びだした。
しかしながら、狂人の対応はだいたい慣れている──九郎とも話し合ったが、深く考えずに流すで合意した──雨次は外を指さして注げる。
「あ、そんなことより見て下さいよ甚八丸さん。鳥がど助平な春画を咥えて飛んでいきますよ。渡り鳥かなあ」
「なにぃ! そんな厭らしい──じゃなく、ええと、厭らしいもの渡らせたら江戸の男がふしだらに思われてしまうかもしれないので回収に行く俺様! 決して不純な動機ではない殉教者の如き決意の瞳……!」
明後日の方角を示されて全力で走りだす甚八丸の背中に、
「野菜ありがとうございました」
と、声をかけるのであった。
「よく絡んでくるけど悪い人ってわけじゃないんだよな……」
悪くなければ変人でもいいのかと自問自答してみるが、答えは出そうにない。
「おっと、二人が帰ってきたら西瓜でも切ろう。母さんは西瓜に味噌派だったよな──あれ? これどっちの樽だっけか」
そうして暫くし、お歌夢と茨が戻ってきたが鰻は取れずに、
「代わりに蛇をとってきた。まあ魚みたいなもんだわさ」
「今昔物語じゃないんだから」
「……」
「なんで二人揃って片袖から蛇を出す格好で佇むの。蛇手女なのか」
それでもとりあえず、夕食は三人で皮を剥いた蛇を照り焼きにして、焼き茄子と共に食った。
お歌夢も茨も飯をお代わりするほど飯が進んだようだ。
雨次はゲテモノを食うのも忌避感を覚えなくなったなあとぼんやり思いながら独特の臭みがある蛇肉をむしゃむしゃと齧る。
(度胸がついたのならいいんだけど)
そうして夜になると、灯油代も勿体無いので三人はさっさと寝るのであった。
こうしてお歌夢が帰ってきてからも、好き勝手に──夜鷹の仕事には雨次が懇切丁寧に二時間説得して体の怪我もあるので辞めさせた──過ごしにわかに喉の潰れた少女と雨次の住んでいた家は、暫くの間賑やかになっていたのであった。
*****
何にだって理由はあり、おおよそそれは絶対だ。
故に私がお前の前からいなくなるのも理由があり、それはきっと変えられない。先延ばしにしていずれ状況を悪化させて催促が来るだろう。
その時にツケを払うのがお前になる。
既に何処からか、莫大な負債を抱えているようだと云うのに。
*****
「雨次ー! 遊ぼうー!」
昼九ツの正午前程の時間である。
夏の日差しを感じさせる目も眩むような太陽光を避けて雨次が家で読書をしているとお遊がいつもの調子でやってきた。
服装は粗末な野良着に頭には手ぬぐいを巻いている。手足は泥で汚れてついさっきまで畑仕事をしていたかにみえる格好であった。
「遊ぼうったって、お遊、君は家の手伝い中じゃないのか?」
「昼だから一刻休憩するんだって。だからその時間遊びましょー」
「休憩しなよ……」
無駄に元気を有り余らせている様子の彼女に呆れて返す。
いつも遊びまわったり天爵堂の家で菓子を食ったりしているところが見られるお遊だが、仕事はてきぱきとして早くこなす。一方で真面目で小器用に見えるが妙なところで失敗やドジをする小唄とは対照的であった。
彼女は家に入り込み見回すと、何故かうつ伏せになったお歌夢の背中で正座している茨が目に入った。
「あ! 雨次の小母ちゃん! 帰ってきてたんだ」
「うぃりっす超まじ余裕っす」
よくわからない軽い言葉でお歌夢は潰れたまま顔を向けもせずに応える。
お遊は雨次に向き直って尋ねた。
「何してるの?」
「いや、母さんが急に片腕を鍛えるとか言ってあのまま腕の力だけで体を起こしたり沈めたりようとしたんだけど……無理だったみたいで」
「茨ちゃんは?」
「重りに乗ってろって言われたものの、母さんそのまま力尽きてるからなあ」
茨もどうして良いものやら、何か「あ~背中気持ちい」などと呻いているので降りるに降りられずに座ったままなのである。
「まあいいや! 雨次遊ぼう! 石合戦とかで」
「間違いなく怪我するよなそれ……」
「石合戦は神君家康公も小さい時は楽しんでたお上公認の過激派遊戯だらー」
「そんなんが開いた幕府で大丈夫か……」
お歌夢の解説に不安になる雨次であった。
「……この暑いのに石の投げ合いも無いだろう。とりあえず河原にでも行って涼もうか」
と、手足を泥だらけにして顔にも汗を浮かべているというのに元気にしているお遊の体を気にして雨次は提案した。
お遊は両手を上げて、
「そうだねー! 河原なら石もあるし!」
「石から離れよう」
「少年よ、石を抱け」
「それ多分沈めるときに云う言葉だよね」
律儀に母親にツッコミを入れる。
「ああちょっとチバラギちゃん背中から退きんす」
お歌夢がそう言うと、一瞬の間があり茨が自分の事だと気づいて載っていたお歌夢の背中から降りた。
すっくと立ち上がりお遊の前に進み出るので、お遊は首を傾げる。
「? どうしたの小母ちゃん」
「お得な大豆知識を汝に与えよう。あれ? 大豆であってたっけ?」
「既に知識が危ういぞ」
脈絡もなくそう告げるとお歌夢は手を伸ばしてお遊の胸元に無造作な動きで突っ込んで、中から何かを取り出した。
指二本で摘んで擦り取ったものは──抜身の包丁である。
「……お遊、またお前はなんでそんなものを」
若干体を引きながら尋ねる雨次。
矢張り彼女は不思議そうな顔で、
「え? いやだって、雨次のところに行くなら必要でしょ。包丁」
「なんで!?」
「変な雨次だなあ」
「変なのはぼくなのか、世界なのか」
お遊としては雨次がいざ危険なことに巻き込まれたら包丁を使って助けようと云う純粋な気持ち──少なくとも今のところは──なのであるが、雨次には伝えていない上に伝えても何故即包丁なのかは理解できないだろう。
哲学的な悩みに襲われそうになる雨次だったが、それはともかく。
ぐるぐると焦点の定まらない眼つきをしたお歌夢が包丁の刃を見せて云う。
「ほら、肌身離さず持ってたら汗とかで刃が鈍るだろ」
「ふむふむ」
「だからこれは捨ててさあ」
小枝でも扱うように包丁を適当な方向に投げ捨てて、お歌夢は己の袂から一尺程度の鞘に収まったまっすぐの短刀を取り出した。
町の破落戸が持っている安物には見えない、雨次は刀の知識は無かったがしっかりとした拵えの小刀に見えた。
「こっちなら鞘に収められてるから大丈夫だわさ。力が欲しいか……ならばくれてやりんす」
「え、くれるの? うわ、ありがとー!」
「妖刀村正の一作……おっと、迂闊に抜くんじゃないですよ。抜けば一億人程血を吸わないと暴れ狂い止まらない」
「代償が莫大すぎる! そして刀を持ち歩くのはいいのか!?」
おどろおどろしくお歌夢が云うので、お遊も神妙に頷き鞘に収めたままの刀を懐に戻した。
満足気にお歌夢は頷く。
「あと水の中には持ち込むんじゃないですよ。爆発しますから」
「爆発!?」
「はーい」
「素直に聞くんだ」
「よし、じゃあ雨次。茨も連れて遊びに行きなさい。ええと、こう言うだろう。『子供は風邪の子』」
「なんか違う気がする」
「……『虎列剌転げた木の根っ子』?」
「症状が悪化した」
などと遣り取りをして、とりあえず子供三人は外に出されて河原に向かう事にするのであった。
途中でお遊がくすくすと笑いながら声を掛けてくる。
「なんか楽しそうだね雨次」
前よりも母親と騒がしく言い合いをしているのを、雨次は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「まあ……騒がしいのに慣れたのはお遊のおかげでもあるよ」
「……」
「茨もありがとうな」
そう言って、雨次は悪い気分の篭っていないため息をつくのであった。
──三人の後ろ姿を見送り、見えなくなってからお歌夢は酷く咳き込んだ。
そして、一人笑って文机に向かう。
*****
「柄にも無い──いや、柄も忘れたような事を書くものじゃないな」
お歌夢は何枚か墨をぶち撒けて駄目にした半紙を竈へ放り込んで新たな紙を取り出した。
筆の尻を歯で齧りながら最終的に自分は何を伝えたいのかを考えて、呟く。
「私の言葉であれを惑わしたら余計な因果を背負うことになる──かな。そうだな、何もかも伝える必要はない。きっとそのうち自分で知るさ」
そう言って、筆を走らせた。
『家は柱が腐っているのでこれから天爵堂先生のところにお邪魔するようにしなさい。
体を鍛え、悪党に負けないように生きなさい。私も強い相手に会いに行ってきます。薩摩の波動とか極めてきます。
それでは風邪などを引かないように気をつけて、誰かと共に楽しい事を見つけ、自分が本当に好きな物を探して、そしてお元気で』
*****
夜中の事である──。
小石川養生所から貰ってきた、薬草漬けの酒を雨次に飲ませた所彼はすぐにふらつき寝てしまった。
蚊帳から出て、開け放しになった破れ戸の縁側に腰掛けて月の明かりを肴にお歌夢は酒を飲んでいる。
その膝の上に、ぼーっと夜空を眺めている茨も乗っていた。彼女の元から青みがかった肌は夜明かりに照らされて余計に青く見える。
「ねえ茨」
お歌夢が自分の頭の上に顎を乗せながら話しかけてきたので、見上げる事もできないが聞いている意志を示す為に頷いた。
「雨次はいいやつだと思わないかな」
「……う゛」
小さく唸って肯定する。
少しばかり捻た様子もあり、人に関わるよりも本を読むほうが好きで、教師の影響か偏屈の気配が見えるが彼は善良な性格であると思った。
そう一般的な尺度で考えることが出来るようになったのも、
(雨次が一緒に居てくれって手をとったから……)
と、茨は考える。
見世物小屋の暮らしは辛かった。当時は綱渡りや曲芸などの特技を持つ者だけでなく、生まれながらに体つきが奇妙な者などの行き着く先である見世物小屋もあり、茨が居たのは後者だ。
外ではまともに働けもせず、皆自分が生きるのに必死でありまた見世物になっていると云う苛立ちに仲間意識よりも敵愾心、嫌悪感を同僚の間でいだく悪い環境であった。
そんな中で、身体自体は普通で喉が潰れ声が出せず、少女であった茨は居心地が良いはずもない。
比べれば雨次に家事や勉強を教えられながら暮らすのは極楽のようなものである。
「そっか」
お歌夢はぐりぐりと顎を茨の頭に押し付け撫でた。
言葉に出していないが、それを悟られた気がして、無意識に茨は己の喉に触れる。
「じゃあ妙な事を聞くようですけどよ、雨次がもし死ぬほどヤバい状況になった時、お前様は命を掛けて助けようとするかえ?」
「……う゛」
それにも、茨は頷く。どうしても彼女には恩人である雨次を死なせてまで惜しむ命ではないと思えてしまったのである。
頭の上からため息が聞こえる。
母も子供も、ため息の音は似ているなと茨は思った。
「こうも考えられないか? もし茨が雨次を庇って死にそうになったとしよう。そんなことになったら、逆に雨次は自分を顧みずに汝を助ける行動に出るだろうな」
「……ん」
少し考えてやはり頷いた。
あのお人好しの少年は、頼れるものが何も無い時には自分がどうにかしようとしてしまい兼ねない危うさがある。
助けてくれたもう一人の九郎のような頓智も無く、通うことになった道場主の晃之介のように武力も無いのに。
お歌夢は優しい声で云う。
「もしそうなったら余計に悪いことになるだろう。だから最初に言っておく。もし二人揃って危ないことになったら、雨次は見捨てて自分だけ助かろうとしろ。あいつは最終的に死なないでなんとかなる」
「……」
「二人揃って死に損なわないこと。自分が雨次より先に死なないこと。この約束を守れとも言えないけど、頭にとどめて於いておくれ」
彼女はそこまで言うとがくがくと全身を高度な貧乏揺すりで震え出させた。
そしてケタケタと笑い出す。
「あがががけひひっ! いけねえお嬢さん酒だ! 酒を飲まねばならぬ! おれのような咎人は酒を飲んで酔っ払って無ければやってられぬぇ! うしゃしゃしゃ!」
そう笑い出して升で薬草酒を一気に煽り、また膝に載せたままの茨にもぐいと飲ませた。
青みがかった頬に朱が差したぐらいの量で茨もまた意識を混濁としてしまったが、昏睡はしない。酔って頭がふらふらしたまま膝を下ろされて、手に折りたたんだ文を握らせられる。
お歌夢がそのまま、草履を履いて笠を被り歩き去っていくのを歪んだ視界で見ていたまま、動くことも出来なかった。
彼女は一度だけ振り向いて、
「ああ、そうだ。明日じゃなくてもそのうちに、雨次に伝えておいてくれ。──大きくなったねって。それじゃあ」
そう言って、軽く手を上げたまま闇に消えていった。
翌朝。
雨次が起きだすと戸から日が差し込んでおり、酒の気持ち悪さで眠れないままだった茨に気づいた。
「茨……?」
「あ゛えじ」
彼女はそう云うと、お歌夢から渡された文を見せる。
中に書かれているのは引っ越しの指示とこちらのこれからを気遣う言葉、そして旅に出ると書いたものである。
雨次はとりあえず眼鏡を拭き布──天爵堂から貰った絹のものである──で拭いたあと再度読みなおして、
「……また何かの気まぐれかな。元気になったらと思ったらまったく。そのうち帰ってくるだろう」
苦笑いをして、ひとまずその場は置いておくのであった。
しかしそれから二日しても、七日過ぎてもお歌夢は帰ってくる事は無かった……。
*****
それから……。
茨に家財を纏めさせている間に、雨次が天爵堂の屋敷へ訪れて部屋を間借りさせて貰えないだろうかと交渉に行った。
正直に言えば交渉と云う程に子供しかいないこちらに取引の材料は無く、家賃を幾ら支払えば良いのかさえわからなかったのだが。
だがいつも通り、茶を飲みながら顔も上げずに本を読んでいる老人はあっさりと、
「ああ。いいよ。ただ自分の事は自分でやってくれ。食事の材料費ぐらいは出すからついでに作ってくれるとありがたいがね」
そう云って雨次と茨が余っている部屋に住まう事を認めた。
「引っ越してもいいんだ……?」
「と、云うか前に君の母親が来て交渉させられてね。君を預かるようにだの、元服後の名前を考えて於くようにとか……まあ、相応の対価は支払って貰ったけど本当に役に立つのかな……」
思い出すなり眉を潜めながら天爵堂は云う。
雨次は身を乗り出して、
「母さんを見たの!? 居なくなってるんだけど……」
「その約束をしたのはもう一年以上前の事だよ。いつか居なくなると決めていたか……それは僕が推測することじゃない」
彼は本を読んだまま応える。
「茨も一緒だけど、まあ静かな方だから別に読書の邪魔にならなければいいさ。引っ越しも手伝えないけどね。老人なもので」
「ありがとう、爺さん」
「別に礼を言われるようなことじゃないよ」
そう云うが、雨次は深く頭を下げるものだから天爵堂は白髪頭を掻いて彼にも茶を勧めた。
去年に子連れで命を狙われた女を助けた時もそうだったが、昔に幕府で働いていた時の役職からしてもあまり他人に感謝される事は無かったので、女や子供に礼をされるとどうも気まずい気分を味わうのである。
こうして──千駄ヶ谷にあった、母子が住み着いていた廃屋と云う物件は無くなり、学者崩れの老人の家へ二人居候が出来るのであった。
二人がその家に移り住んでも、矢張りお歌夢は帰ってこなかったが……。
*****
ある夜──。
鳥山石燕が千住大橋を渡っていると、欄干にくすんだ瞳をした女が腰掛けて夜空を見上げていた。
周りには他に誰も居ない。川には不思議と夜舟の明かりも無い、静かで暗い夜だった。
「何をしているのかね?」
石燕が声をかけると、女は答えた。
「星を見ている。お前さんもどうだ」
「……そうか」
石燕はそれだけ 云うと歩みを再開して橋を進む。
女の背中とすれ違うときに、小さく石燕は呟いた。
「心配しなくても大丈夫だよ」
なんの意味があった遣り取りかは──他人には推し量れないが。
それだけの邂逅であった。
一人は星を見て座り込み、もう一人は歩くことにしただけの、小さな接点である──。




