61話『蕎麦屋と助屋』
江戸の町、大川の河岸に面しているそれなりに人行きのある通り。
そこに緑色の暖簾を掛けて、道端に向けて店の品目を書いて張ってある飯屋[緑のむじな亭]はある。
去年までは裏長屋の連中すら名前を正確に知らなかったような店だが、今では普通の味の蕎麦とそれなりの味のつまみ、安い酒と時々珍しい一品を出す店として少しばかり常連も生まれた店であった。
常連であり、店主一家とは親戚関係にある呉服屋の娘、お八はいつも通り妹分と居候の九郎に会いに店へ遣って来た。
ふと、店の前で立ち止まり張り紙を見る。
そこにはいつも[そば 十六文]と書かれているのだが、今日は違った。
[そば]が二重線で消されていて、[ほうとう]とある。
そう、ここはほうとう屋緑のむじな亭へとリニューアル──!
「なんでだぜ」
いいながら彼女は暖簾をくぐった。
店内は相変わらず──いや変わってきているのだが──繁盛しているのか、よく見ればいつも通ってる顔ばかり店に居るからそうでもないのか微妙な客入りであった。
一角の座敷で九郎がいつも通り誰かの相談に乗っている。
「──ああ、それでは達者でのう」
「お願いします」
頭を下げて九郎の前から立ち上がり、お八とすれ違いざまにまた会釈をして出て行ったのは雨次少年であった。
お八は「おう」と小さく返して、入れ替わりに九郎の前に座る。
「今度はあいつの悩みを聞いてるのか? 助屋の九郎さんよ」
「なんだ、それは」
妙な呼び名に、漬物を齧っていた九郎は訝しげに聞き返す。
お八は指を立てて笑いながら、
「最近世間じゃ評判だぜ。頼めば話だけは聞いてくれるお助け屋の旦那ってな」
「便利屋みたいだのう。助屋九郎ねぇ」
「いっそ看板でも出すか?」
「柄ではない」
顔を渋めて手を振る九郎であった。
お八は雨次が出て行った入り口を振り返りながら、声を潜めて訊ねた。
「そういえばあいつはなんの悩み相談だったんだぜ? 痴情のもつれか?」
「いや」
最も可能性が高そうな話題であったが、九郎は否定した。
少しばかり話すべきか思案してから九郎は云う。
「なんでもあやつの母親──お歌夢と云うのだが、それが書き置きを残して居なくなったようでな」
小石川の養生所から家に戻ってそう日も経っていないと云うのにまた出て行ったようなのである。
「書き置き?」
「『俺よりも強いやつに会いに行く』だそうだ」
「武芸者かよ」
とても母親の残す言葉とは思えなかった。
その意見には九郎も、息子の雨次も同意する所なのだがそれはともかく。
「実際に三日も帰っておらぬようでな。市中で見かけたら教えてくれとのことだ。その文以外にも、家は一年以内に壊れるから天爵堂のところに茨と居候にいけとか、体は鍛えて健やかに過ごせとか指示もあったようだがのう」
実際に書き置きとは別に、天爵堂へは彼女から話が通っていたようで、自分の生活の事は自分でするのならばあの広い屋敷の部屋を使っても構わないと気怠げな老人は許可しているようだ。
金についても雨次が賭博で稼いだ分と、彼の家の床下に小判壺が埋めてある事も教えられ当面生きていくには十分あった。
それにまだ十二ほどの年齢だが、厄介な母親と生活を共にしていたおかげか生活力は雨次もそれなりにある。
しかし、
「……なんか遺言みたいだぜ」
「うむ。それを雨次も気にしてな。しかしあの思考がずれた女の事だ。明日にでもひょいと帰ってくるかもしれぬ。だがまあ、知り合いに声を掛けて於くぐらいしか出来ないのう。ああ云う手合の行動を予想しようとしても、それはほぼ確実に間違いだという」
と、その場のノリだけで生きているような人物への心当たりが妙に多い九郎はしみじみと言った。
しかし傍目にはわからずとも、狂人は狂人なりの理屈と理念に基いて行動をするものである。だからきっと常人には推し量れぬ理由があるので、戻るべき時が来たのならばお歌夢も家に帰るであろう。
幸い怪我も治って、そうそう野垂れ死ぬ人物でも無いので命の危険がすぐに訪れると云う事は無さそうだが、息子の雨次としては矢張り心配なのだろう。家は一昨日から柱から湿気た煎餅を割ったような音が夜中にするので危険を感じて家財を処分し天爵堂の所へ引っ越したようだが。
お八が云う。
「じゃ、あたしも見つけたら教えるぜ。確か、片腕片目の女だろ? そうそう見かけ無いからすぐに分かる」
「頼んだぞ。ああ、そうだ。雨次もまた晃之介の道場へ通うようになったからそっちでも宜しくのう」
これもまた、お歌夢の書付けに従う内容であった。
体を鍛えることには近頃興味のついた雨次である。知り合いでそれの関係者となると、晃之介か影兵衛しか居ないので前者を選ぶのは当然である。
「ははあ、弟弟子ってわけだ。三瞬以内に茶を買いに行かせたりするぜ」
「早すぎる」
嬉しそうに嘯くお八に、呻いた。
門人が一人しか居ない道場に新入りが入るのが喜ばしいのだろう。何せ、六天流の鍛錬は一応晃之介も己が子供の時分に受けていたものを流用し習わせているとはいえキツいものである。
興味本位で入ろうとした町人などは、十四のお八と同じ訓練を一日受けただけで逃げるほどであった。
雨次は、身体能力はともかく根性は据わっているように見えるし晃之介からのお墨付きでもある。しんどい訓練も一人より二人でやったほうが励みになる気がして、お八は楽しみにしているのだった。
姉弟子として先輩風を吹かせたい気持ちもあるのだろう。
雨次の話題はそこまでで、お八がタマに料理を注文しようとしてふと思い出した。
「そういえばほうとうとか、表に書いてたな。それで」
そして九郎に尋ねる。
「……蕎麦はどうしたんだぜ?」
「それがな、蕎麦粉が手に入らなくなってのう」
「蕎麦粉が? そりゃまた……随分おかしな話だな」
お八が考えこむようにして言葉を続けた。
「確か少し前には、油が馬鹿に値上がりして一月ぐらい騒動になった事はあったけど、蕎麦が減るってのは聞いたことがないぜ」
「ほう、油が」
「なんでも油問屋と仕入れ問屋が独占してたから調子に乗って一月で五割増しぐらいに値上げしたって話だ。当然この節制節約を上様が呼びかけてる時にそんなことをした連中は残らず大岡奉行にとっ捕まったんだけどよ」
お八自身は油の買い付けなどを行わないが、実家の店でも騒動が聞こえてくるほどに江戸を騒がしたのが油問屋の値上げから処罰の事件であった。
この話は[享保世話]と云う巷説を集めた当時の読本にも記録されており、まさに幕府が物価値下げ令を出した直後の油問屋が起こした謎の反体制的増長として有名であったようだ。
それによれば当時、油樽が十樽で二十二両か二十五両であったのを、値下げ令を出した次の月には三十七両二分にまで値上がりした、とされている。当の油問屋は生産地や保管、流通の拠点として大阪に店を構えていた為、将軍のお膝元でないと云う増長があったのかもしれない。当然吉宗と大岡越前の逆鱗に触れてあえなく四十人余りも摘発されてしまった。
しかし、それは油業界という独占がし易い商品であったから起こったことであり、蕎麦などと云うどこででも作れるものが少なくなるのはどうも変わっている。
お八の前に湯気を立てて運ばれてきたほうとうを見ながら九郎は云う。
「実に馬鹿げたことなのだがな、奈良屋と云う金持ちを知っておるか?」
「ん……と、確か材木商だったっけか。振袖火事とかの大火でにわかに儲けた商人じゃなかったか?」
「うむ。己れも聞いた話だが、それの二代目が吉原に遊びに行くのに先に行って待ってる友人に蕎麦を持参したそうだ」
「おう」
「持っていった蕎麦は二人分。それだけじゃどうも足りないと思ったその友人は追加で買い付けようと手下を走らせたが何故かどこにも売っていない。どういうことかと思ったら二代目奈良屋はこう云った。
『江戸中の蕎麦を買い占めて捨てさせたので、今ここにある二人分の蕎麦が唯一江戸で食える蕎麦なのです。贅沢でしょう』とな」
「相当駄目な二代目成金だな……そいつ」
九郎の説明に心底呆れた声音でお八は云った。
奈良屋茂左衛門こと奈良茂と、紀伊国屋文左衛門こと紀文と呼ばれる金持ちはそれぞれ大火や将軍縁の神社仏閣などへの材木商とそれの儲けを資本とした土地転がしと大名向けの金貸しで一世を風靡した商人であった。
特にその二名はこの御時世だと云うのに金遣いの豪遊さが逸話に多数残っていて、世間でも評判になっている。当時の世相からすると、無論ひんしゅくを買う方向に。
初代は大儲けした分を使いまくったものの多額の遺産を二代目に残して、
「お前に金儲けの才能は無いし、儲け話の少なくなる世の中だから素直に土地代と店賃だけで何もせず暮らしていけ」
と、言い残したそうである。
これは子供の商才を見抜いたことと同時に、当時の江戸で起こっていた景気の停滞や物価の上昇を感じての言葉であったようだ。
だが、二代目は初代を踏襲するように吉原通いに豪遊散財をしているのであった。
「それで、その奈良屋が勢い余って蕎麦屋どころか粉屋や穀問屋から蕎麦を買い捨てたので絶賛粉不足中なのだな。困ったことに」
江戸では当時、脱穀していない蕎麦を保管している穀問屋と、それを主に中野あたりの脱穀業者に製粉させて粉にして販売する粉問屋があった。
丁度季節の変わり目で保管分が減っていた事もあるのだが、多くは買い占められて残った少ないものも老舗の蕎麦屋が買いに出たせいで緑のむじな亭のような小店にまでは回ってこないのである。
「だから代わりにほうとうなんか出してんのか……まあ結構旨いけどよ」
でろりとした腰のない麺が半ば味噌味の汁に溶けかかったようで、根深ねぎと生姜が効いており腹に溜まりそうな味であった。
「これはうどんと違って麺を寝かさなくても良いからな。しかし小麦も値上がりしているから量は少ししか無い。江戸中の麺料理屋ではこの騒動の煽りを受けているようだ。中には栃の麺を使った店も出ているようだが……あれは扱いが難しくて六科には少しのう」
板場でひとまず客の注文分を作り終えたので命令を受けていない機械人形の如く活動を休止している六科を見つつ、云う。
伝統ある栃の実を下処理して麺に混ぜあわせた栃麺だが、しっかりと製麺するには正確で迅速かつ繊細な手際が必要なのだ。
[面食らう]と云う諺は栃麺がすぐに固まって驚き慌てる様を表すし、[トチる]と云う言葉は栃麺を作る際に焦って失敗した状況から生まれた言葉だ。マロンケーキが麺のようにクリームを巻いているのも栃の麺を外国人に振る舞った時に黒蜜を掛けて出したことで作られるようになったなど、中々に歴史深い食べ物なのである。
どれかは嘘だ。
さて……。
「変わりものでは冷ほうとうも作ってみたのだが」
「へえ、どんなのだ?」
九郎がのそのそと板場へ向かい用意をしてお八の前に持ってきた。
見た目は普通のほうとうと変わらぬが、確かに丼に水滴が浮くほど冷えている。
お八が恐る恐る箸を入れて麺をすすってみると、
「冷たっ……あ、でもいいなこれ。冷えた味噌汁と冷えた飯を夜中にこっそり食うの好きなんだけど、あんな感じだ。夏場には丁度いいぜ。茗荷がいいな」
「そうか、そうか」
旨そうにつるつると啜るお八を微笑ましく九郎は見る。
茹でて流水で引き締めたほうとう麺と、汁は氷水にたっぷり目の削り節と味噌を入れて細かに切った葱と茗荷を入れかき混ぜた簡単なものである。
氷水に味噌と云うとちょっとどうかと思うかもしれない。水に鰹節、と云うのも抵抗があるかもしれない。だが、結構しっかりと出汁がとれて中々に味わい深い、冷えた味噌の汁が出来上がるのである。
何せ九郎が氷結符で氷水を作っているのだから他所の店では少し食えない冷し汁に冷酒などが飲めると夏場ではありがたい店になるのがこの緑のむじな亭である。それならば流行りそうなものだが、
「自分が行った時に混んでたり売り切れてたら困る……」
と、考える客が多くて口評判も中々広まらない。まあ、それでも利益が出る程度に客が入るのであったが。
腰に手を当てながらお房が冷茶を持ってきて云う。
「まったくお金持ちには困ったものなの。余ってるなら道にばら撒く方がまだ有意義なの」
「まあ、奈良屋の使いにふっかけて店にある蕎麦粉全部割り増しで売り払ったのはフサ子だが」
「それとこれとは話が別なの。目的を終えたら無償で返すように念書を書かせるのだったわ」
「足元を見まくりだぜ……」
お房は二人の前に茶を置き、九郎を指さして告げてきた。
「と、云うわけで助屋の九郎に依頼なの。奈良屋が捨てた蕎麦粉を探してきて回収するの」
「捨てたやつをか?」
「そうよ。どうせあの類の見栄張りはこっそり倉庫に保管して……なんて娑婆いことはしないはずなの。どこかひと目の付かない場所に捨てさせたに決まってるの。ここの所晴れてたからそうそう傷んでないの。どうせ暇でしょ。お八姉ちゃんも九郎と遊びに来たなら一緒に行ってくるの」
「……仕方ないのう。では昼から探すだけ探して見るか」
蕎麦自体の生育が早い作物だから、放っておいても暫くすれば夏蕎麦が入荷するだろうが値上がりも起こるだろう。
実際に代用として小麦を多く混ぜた蕎麦を出したり、一時うどんを提供する店も増えていて小麦の値も上がっている。
大量に廃棄された蕎麦粉とて使えれば問題はない。食うのは客だし作るのは六科なので味は客もあまり期待していない。
「そうだなー。まっ仕方ねえから九郎に付いていくか。仕方ないぜ。あはは」
何故か嬉しそうに、お八がそう言っていた。
*****
「ちっと夜中見ると不気味な衣だったけど、涼しげで似合ってるぜ」
「そうかえ? うむ、まあ着心地は良いのだ、これで一応」
九郎は長着として加工された疫病風装を身にまとい、お八の隣を歩きながら言った。
自然に還ってしまった第四黙示装備の片割れであるブラスレイターゼンゼを弔うためにも、疫病風装も普通の和服に作り変えることを決めてお八に頼んでおいたのである。
足を閉じていれば普通の町人が切る長着だが、うまい具合に切れ込みが入っていて足も動かしやすく走るにも苦にならない。
これは、六天流で武芸を習うお八だからこそ動きやすい服を意識して作ってくれたのであろう。
常に風が通っている感覚がある疫病風装は夏場でも涼しく、また殺菌浄化作用があるので汚れないし汗なども臭わない。極端な話で言えば、別に洗わなくても良い便利な服なのである。
外に出かける前に受け取った九郎は早速来て通りに出た。
「頼んでおいて何だが、よく作り直せたのう。これ、鋏とか通るのか」
「あー……いやなんか上手く切れなかったからさ、こう板で固定して破る感じで作ったんだ。ほつれは直したけどよ」
「破れるのか」
衣に回避能力が付与されているのでどうも想像しにくいが、案外破れたらしい。特殊能力重視で防御性能は低いようだ。他の第一黙示から第三黙示までの衣もそうだと魔王から聞いた記憶を思い出した。
しかし去年までは針仕事も嫌がっていたお八が、今では人から頼まれてさっと気の利いた衣服を縫えるようになるとは。
これも晃之介の修行の成果かと思うと感慨深いものがあった。
「晃之介の奴にも何か作ってやったほうがいいかも知れぬなあ」
「あん? 師匠に? あー別にいいんじゃねえかな。この前味噌樽持って行ったらすげえ喜んでたしそれで」
「まあ、あやつの服はあちこちに留め具や隠し袋がついていて難しいが」
普段着とは違う決戦用の戦闘服と云う物も六天流にはあり、九郎は見せてもらったがまず着方がわからないような代物であった。恐らく着せられても脱ぎ方もわからないだろう。
「そういえば九郎。捨てられた蕎麦を探すったって、心当たりがあるのか?」
「……無いことも、無い。ま、外れても暇つぶしにハチ子と出歩いたってだけだから別に良いだろう」
「そ、そうだな。うん。普段から……こう云うのも付き合っても構わんぜよ」
「土佐人か」
焦った口調で噛んだお八にツッコミを入れる。
彼女はむきになりつつ、
「矯正しようとしてんだよ! とにかく、心当たりってなんだぜ?」
「無闇に探しても仕方ないからなあ。ある程度目安を付けてそこを探し、無ければ諦める程度でいいだろう」
九郎は見栄を張る成金の考えそうな事を予想して説明した。
「まず蕎麦は捨てるものとしただろう? 残してたら金遣いの凄さがいまいちになる。しかし捨てるにしても江戸の市中に捨てる場所など無い。海に捨てれば漁師や船手奉行に怒られる。そもそも捨ててるところを見せるべきではないから人通りの多い街道筋もよくない。きっぱりと見つからんほうが、後腐れが無くていいからのう」
「そうすると?」
「だからと言って捨てるためだけに遠国まで持っていくのも馬鹿らしい。荷車一つ二つでは無いからな。程よく離れていて人気の少ない山があり、かつ道がある場所──そして後は好みの問題だのう」
「好みねえ」
「己れだったら不法投棄するなら奥多摩か秩父にする。きっと多くの人間はそうするだろう。そして秩父はその……蕎麦が捨ててあっても残留汚染とか……いやちょっと気に入らんから多摩方面を目指して茶店にでも寄りつつ情報を集めるとしよう」
「よくわからんこだわりだぜ」
疫病の鎌が自然に還ったとは云え少しばかり遠慮しておきたい気分であった。
(そういえば秩父で蕎麦を食ったが、あれは平気だったので地元住民にただちに悪影響は無いだろう)
無責任な政治家のような自己弁護を心のなかで浮かべる九郎であった。
「と云うわけでちょいと歩くが、ハチ子は大丈夫か」
「当たり前だぜ。これでも師匠に散々走らされてるんだ。それにほら、」
くい、と軽く顎を上げて、九郎の巻いている相力呪符と同じように首元に巻いた快癒符を見せてお八は笑った。
「この御札言われた通り身につけてたら疲れがあんまり来なくてな。あんがとよ」
「ふむ、そうか……イリシアの奴もそう云う役に立つものばかり作ってくれればのう……」
「よく知らねーけど」
九郎が持っている単純な効果を発揮する術符以外にも、魔女自身が使うものは複雑な術式が込められているものが沢山あったことを思い出すのであった。
そうして二人は市中を抜けると、多摩川に沿って足早に上流を目指し進んだ。
夏の日差しはあるが鬱陶しいような湿気は少なく、また山方向から川の水気を含んだ涼しい風が吹いていたので苦にならない。身軽な格好をした二人なので進みも早かった。
お八も家にいる時こそ叱られるので着ないが、鳶職のような足が動かしやすい改造着物に脚絆を履いていて動きやすそうではあった。一応意匠は凝っているが、そのような格好をして江戸を駆けまわっている女もお八か読売屋のお花ぐらいだろうが。
半刻あまりも進んだあたりで茶店を見つけたので寄ることにした。
「茶と何か食うものをな」
と、注文すると人の良さそうな眉の薄い老婆が、大きめの湯のみにぬるく入れた茶と、餡がかかった鼠色の団子を持ってきた。
楊枝で刺してお八と同時に団子を口に入れると、醤油の入ったやや甘じょっぱい餡に素朴な蕎麦の香りがする。
「九郎、これ」
「蕎麦団子……だなあ」
茶で口を潤すと九郎は先程の老婆を呼んで尋ねた。
「ちょいと婆さん。この蕎麦団子だが、どこの蕎麦粉を使っておるのかのう」
「あらまあ、随分と爺さんみたいな子だねえ」
顔をほころばせつつ老婆は答える。
「これは少し前に、荷車で蕎麦粉を運んでいる人足が居てねえ。ここで休憩していったから、少し分けてくれないか頼んだら格安で売ってくれたのだよ」
「そうかえ。ありがとうよ」
言って、お八と顔を合わせると、
「どうやら我々探検隊は着実に真実へ向かっているようだ」
「探検隊ってなんだよ」
「原住民とか蠍とか人喰いオオアリクイに気をつけるのだぞ、ハチ子よ」
「人を食うのか蟻を食うのかどっちなんだぜ」
とてもまっとうなツッコミに九郎は満足気な微笑みを漏らすのであった。
茶店を出て再び道を往くが、
「しかしここを蕎麦粉投棄集団が通ったからって、どうやって捨てた場所を特定するんだ?」
「うむ、それは一応大丈夫だ。丁度疫病風装を着ててよかった。あまり食品に使う能力ではないがな。食欲が失せるからのう」
「?」
言いながらも迷いの無い足取りで進む。
疫病風装を装備している時の副次効果と云うか、隠された能力を引き出すことで目には見えない細菌やウイルスを感覚的に把握する能力を得ることが出来るのである。
普段はまったく使いようが無いが、これにより先程茶店で確認した蕎麦粉の生菌と似た痕跡を辿り追いかけているのである。
九郎の瞼を細めて力を入れると、道に薄く残った色のついた煙のような、地面に散らばった苔のような物が見えた。数日経過して見えにくくなっているがまだ何とか分かる。
このような能力があるから失くしたブラスレイターゼンゼをあっさり見つからぬと断じて居たのだが。ただ町中で人を追いかけるなどは、多くの菌が溢れすぎて不可能なので人探しにはあまり使えない。
やがて。
古道なのか、下草の生い茂った道に外れた。草にはまだ轍の痕が残っているようで、さすがにそうなればお八にも荷車が通ったことが知れた。
その先に生活感の無い廃屋同然の山小屋がぽつりと立っている。誰かが今も使っていると云うことは無さそうである。
「ここか。野ざらしにするには少し気が引けたのかも知れぬな」
「鼠に喰われてそうだぜ」
「全部が全部食えるほど時間も経っておらぬだろうよ」
言って、開けっ放しの入り口に土足で入った。
中はあちこちと壁や屋根が剥がれて意外に明るく、風通しも良かった。黴臭くないのは助かるが、と九郎は思う。
家の中に無造作に、叺と云うむしろを組み合わせて作られた俵のような袋が大量に積まれている。外側のものは食い破られていて、蕎麦の粉が漏れており鼠が齧っていたようだが全てがそうではないようだ。
江戸全ての、とまではいかないがかなりの量だ。この分だと捨てる場所を分散していたのかもしれない。或いは捨てた使いの者も後で回収しようと思ったか。少なくとも、地元の農民が保管しているようではなかった。
お八が感心したため息を吐いて云う。
「おお、本当に見つかったぜ」
「そうだのう。店で必要な分を持ち帰るとするか」
そう言って九郎が進み出て蕎麦俵に手を伸ばすと、お八の少年みたいな声がかかった。
「おっと待つんだぜ」
「? どうしたのだ、ハチ子よ」
「あん? いやあたしは何も言ってねえぜ?」
振り返るが、疑問顔で首を振るお八である。
確かに彼女の声で制止の指示が聞こえたのであったが……
すると、天井付近から呼びかける者がいた。
「おいおいこっちだよ兄ちゃんよ。きしししっあたしの顔は忘れようにも忘れねえはずなんだがよ。近くに居るから」
言いながら、床に飛び降りてくる。
音もなくはげ落ちた畳の上に着地したのは、ぶかぶかでだらしない着こなしをした着流しを肌に纏わせて、片手に匕首を持っている顔と胸の平坦さがお八に瓜二つな少女──お七であった。
歯をむき出しにして笑うお七にお八は食って掛かる。
「てめえは!」
「おいおい、自分そっくりのやつの顔みたら寿命が縮むって云うからその可愛子顔を向けねえでくれませんかね妹ちゃんよ」
「誰が妹だこの顔面盗作女!」
「左右から喋るな、お主ら」
同じ声で言い合う二人に、九郎が片耳を抑えて止めようとした。
お八からすればこのお七と云う女は、九郎を船宿に連れ込むは彼をその薄い体で誘惑するわおまけに斬りかかるわと、まったく良い印象の無い謎の女である。
なまじ、自分と似た顔体つきをしているのが余計にむかついている。
お七は云う。
「この蕎麦粉はあたしが先に見つけた物だからよぉ、お兄ちゃんらが取っていく道理はねえと思うぜ?」
「ざけんな。捨ててあったものを丸ごと猫ばばしようなんてふてぇ奴だぜ!」
「ハチ子、その発言はこっちに返ってくるからな。そもそもなんでシチ子はこれを見つけておるのだ」
「どっかの成金が蕎麦粉を買い占めて捨てたっつーからよー、それ拾って売り払えば儲けるんじゃねえかと、知り合いの乞食やってるおっさんや姉ちゃんと探しまわってたんだがあたしが一番に見つけたみてえだな」
自慢気に彼女は積まれた叺を叩いて、匕首を水平に構えて言った。
「痛い目見ないうちに帰ったほうがいいぜ」
「どっちがだ」
ずい、と九郎の前に出たお八が鋏を袂から出して短刀のように持ち彼女を睨む。
九郎が髪をがりがりと掻きながら、適当に双方を止める方便を考えた。単純にわけ合っても十分にある蕎麦の量だが、そうは互いの感情がいくまい。
しかし目の前で子供同士を刃物振り合わせて勝負させるわけにもいかない。
「お主ら止めておけ。蕎麦のことで血を見る争いをすると……そう、妖怪[火竜そば]が現れるぞ」
「か、火竜そば? なんだぜそれ」
どっちが聞いてきたのか確認を失敗したが、とりあえず九郎は続けた。
「火竜そばに取り憑かれると毎晩夢の中で火竜が出てきて、口から蕎麦を吐きまくるのだ」
「火を吹けよ火竜なら!」
「実害は!?」
「……嫌な夢だろう? 毎晩だぞ毎晩。一年十年何千回と毎晩蕎麦を吐きまくる火竜の夢を見るのだぞ」
「地味な嫌がらせすぎるぜ……」
げんなりとする表情もそっくりな二人である。
「と、云うわけで切った張ったの争いは止めだ。蕎麦の争いなら蕎麦作りで勝負すると良い。それとも自信が無いかのう?」
「そんなわけねえぜ! こんな偽物女、全部あたしが上位互換に決まってら!」
「おいおい、こいつは見くびられたもんだな。こちとらきっぱりさっぱり負ける気はしねぇんですがよお」
九郎の煽りに、お八はむきになったように、お七は皮肉げな表情で睨み返して矢張り相対する。
「うむ、しかしこんな所では作れぬな。とりあえず一旦店に持ち帰ってそこで作り合うと云うことにしよう」
「目にもの見せてやんよ」
「吠え面が楽しみだぜ」
そう言って、お八とお七はそれぞれ蕎麦俵を一俵ずつ持ち上げ、再度睨み合い持ち帰る手筈となった。
要は蕎麦さえ持ち帰れれば九郎は良いのであって、勝負にかこつけて目的を達成する算段なのである。
(単純な所も似ておるのう)
二人に見えないように笑いながら、九郎も懐から取り出した十手の捕縄で俵を縛り担ぎあげた。
こうして一行は再び、多摩から江戸市中へ蕎麦を運んで歩き帰るのであったが、いかに鍛えようともお八もお七もまだ十四の少女である。
長い距離を好天の中重たい俵を持ってペースを乱さずに進むのはかなりキツいものがあるようだが、汗をだくだくと掻きながらお互いを睨みつつも疲労を隠して歩いていた。
その後ろから、
「無理するでないぞ」
と、九郎が涼しい顔で俵五つを縄で括って持っているのだからなんとも奇妙な光景である。
首元に淡く光る相力呪符で力が強化されているのでこのような運搬も可能なのだが、大層力持ちに見える。
やがて根を上げたのが、快癒符による疲労回復効果も無かったお七であった。
「ええい、面倒だぜ」
そう言ってひょいと器用に九郎の担いでいる俵の上に上がって、バランスを崩さないように座り込んだ。九郎も掴んでいる縄に力を入れて落とさないようにする。
それを見てお八が、
「ああ、クソ。降りろよ。もうこれあたしの勝ちだろ。少なくとも一勝目だろ」
「下々の者が何か言ってるぜ。よーし後は任せた兄ちゃん、きゃほう怪力だな惚れそうだぜ」
「惚れるな! ええと……惚れるな!」
「……疲れたなら休んでも良いのだが」
一応九郎はお八の為に提案するのだが、彼女は怒ったように足を早めるのであった。
仕方なく九郎も、背中の荷物を追加したまま付いていく。
*****
店に三人で戻ったらまず、お房に労いの言葉とお八お七は汗だくだったので水を浴びてくるように指示があった。
「まさか本当に見つけてくるとは」
「思っても居なかったか?」
「いいえ。九郎ならやると思ってたの。褒めてあげるの」
「はっはっは、よしよし」
軽く汗ばんだだけの九郎の顔に、冷やした手ぬぐいを当てながらお房が云う。
「でもまさかお八姉ちゃんを増やして戻ってくるとは思わなかったわ」
「片方はお七と言って、そっくりさんだ。間違えて噛み付かれるなよ」
「ふうん。先生の言ってた妖怪みたいね」
「そういうのが居るのか?」
「うん。誰かそっくりの人物画を書くとそれに魂が宿って道を歩くようになり、時を経て人間化するらしいの。ずっと昔からの風習だから人物絵で実を写しとる描き方は忌避されるんだって」
「ほう……それっぽいな」
九郎は日本画に於いてややデフォルメした絵面が主流な事に合致すると思いながら頷く。
お房は続けて、
「ちゃんとした名前はついてなかったんだけど、先生が名づけたわ。道を経て現しでる画──[道経現画]なの」
「急に胡散臭くなった」
「つまりお八姉ちゃんを描いた絵が暴走してああなったのね。水浴びで溶けないかしら」
「それだと勝負が決まって楽で良いなあ」
言いながら、テキパキと井戸端と店を往復しているタマを見やるのであった。
一方で……。
お互いにぎゃあぎゃあと騒ぎながら、裏長屋の井戸端に大盥を持ってお八とお七が水を浴びせ合っていた。
服を脱いでいれば違いは殆どわからず、双子のようである。
しかし度々、
「手ぬぐい持ってきたタマ」
「体を洗う糠袋はどうタマ」
「お茶でも飲みながらゆっくり水浴びするタマ」
などと笑顔三連でタマが現れる。あからさまに覗き目的であった。
「露骨なんだよ手前は! っていうか男が来たら隠せ!」
「んっだよ別に見られて減るもんでもねーんだし」
「減るんだよ! あたしの尊厳が!」
と、恥ずかしがらずに裸体を晒しているお七に組み付いてお八が隠す羽目になっていてタマにとっては大変眼福であった。
自分とほぼ変わらぬ体を惜しげも無く見せているのが我慢ならないらしい。
暫くして、さっと水洗いし炎熱符で乾燥させた服を矢張りタマが届けてお八とお七は店に戻ってきた。
店も昼でほうとうが無くなったものだから閉めている。九郎がまず二人に、
「蕎麦打ちとは言うが、作ったことも無いかもしれんのでまずは六科の手本を見せよう」
と、云うので板場に立つ六科に注目した。
彼は運んでこられた蕎麦粉を鉢に入れて製麺を開始する。
「まずは水を加えて練る」
数十秒ほど捏ねて丸めまな板の上に載せた。
「擂粉木で伸ばす」
力任せにぐいぐいと棒で薄く伸ばすが、あちこちが粉を吹いて割れたりまな板に張り付いたりしている。
「重ねて切る。完成だ」
伸ばした生地を束ね、包丁捌きだけは正確に寸断して確かめもせずに次へ移った。
「汁は醤油を煮る」
鍋にどばどばと醤油を直接入れて火にかける。
「砂糖と酒を入れる」
目分量で素早くそれらを追加して適当に煮立つと、
「水を加えて薄める」
若干色がそれらしくなったのを認めて、小さく頷き、
「先程の蕎麦を入れる」
湯に投下された蕎麦は千切れ溶けるような、ぬるぬるとつゆを変化させつつ温められた。
「完成だ」
云うと、丼に盛って箸を付け一気に啜り込んだ。
「うむっ」
「『うむ』じゃない!」
九郎とお房がケーキ入刀めいて二人でアダマンハリセンを持って満足気な六科の頭をどついた。
快打音を響かせて六科の上体を錆びて曲がった鉄塔のように斜めに軋ませて、彼は真顔のまま二人に云う。
「どうした」
「蕎麦の雑さが一年前に戻っておるではないか」
「むう」
彼は悪びれもせずに云う。
「ここ数日作ってなかったからな。諺にもあるだろう。男子三日会わざれば刮目して見よと」
「それは悪い方向に落ちこぼれた相手に云う言葉じゃないわ」
「……初心忘れるべからず?」
「それも」
「むう」
九郎とお房が揃ってがっくりと首を落とした。
「忘れておったこの男のポンコツ具合を……ちょっと蕎麦打ちをやめただけですっかり初期化されておる……」
「ねえ九郎。お父さんを後四年で一流にするより百両貯めた方が現実的な気がしてきたの……」
「問題ない」
「何の自信があるのだこの男は。教えてくれていたお雪に悪いと思わぬのか」
「大丈夫ですよー六科様には何度でも何十度でも来世になってもずっとお側で教えて差し上げますのでー」
「ひっ」
言い合っていると勝手口の方から覗きこんで告げてきたお雪に思わず息を飲む九郎とお房である。
この聴覚優秀な女按摩はどこから聞いているかわからない。
意味深に手招きしているお雪の方へ六科を向かわせてとりあえず事なきを得た。
「お父さんの再教育はお雪さんに任せて……それじゃあお八姉ちゃんとお七姉ちゃんの勝負を始めるの」
「お房ー、別にこいつを姉ちゃん呼ばわりしなくていいんだぜー」
お八がへらへらと云うが、「別にどうでもいいの」とお房は取り合わない。
ともあれ、蕎麦粉に小麦粉、出汁用の鰹節や葱といつも使っている──六科は忘却していた──汁の返しを準備されて二人はそれぞれ調理にとりかかった。
九郎は蕎麦粉に湯を入れてかき回した蕎麦掻きに醤油を付けてもちゃもちゃと食いながら、酒を飲んで待っていることにしたようだ。
「はい、今日は九郎も働いたから注いであげるの」
「こうあれだな、味もひとしおだのうフサ子に労われると」
「あら。別にいつも働いてくれてもいいのよ」
「はっはっは年寄りにはしんどいものだよ」
などと和んでいて暫くし、二人のドッペル少女達は蕎麦を作り終えたようであった。
丼に入れられた太打ちのかけそば。上に刻み葱が載っていて関東風の黒いつゆに浸かり湯気を上げている。
九郎とお房はそれを見てお互いに頷き、
「驚いたの……」
「ああ、まさか」
「この流れで何の変哲もない普通の蕎麦を二人共作るとは驚きなの」
「まったくノリが悪いのう」
「がああ!」
「いいから食え!」
両方から苦情が来て、九郎は仕方なく箸を取った。
ずるずると啜る。味はまあ、普通の手打ち蕎麦といったところだ。そこらの二八蕎麦よりは旨い。六科よりは当然美味だ。だが味のレベルもまた甲乙つけがたい、似た領域にあった。
まるっきりそっくりというわけではなく、味付けや蕎麦の茹で加減などはそれぞれ違うのだが、客観的に見て両者同じぐらい旨い。
(……心情的にはお八を優遇してやりたいものだが……)
と、九郎も悩むところであった。
すると隣から別の箸を持ったお房がつるりと九郎の丼から蕎麦を両方啜ると、彼女は至極あっさりとこう告げた。
「あら、両方共いけるけど九郎はこっちのお七姉ちゃんの方が好みじゃないの?」
「うむ……ってフサ子」
「なによ」
思わず同意してしまった。微妙な個人的好みで言えばお七の作ったほうが良いと思ったのだ。
口に出したものは取り戻せない。板場でお七が握りこぶしで勝利宣言をする。
「っしゃあ! あたしの勝ちだぜ、こちとら九郎の好みの味付けは知ってんだよ!」
「ちぇっ。あんだよてっきり依怙贔屓してくれるかと思ったんだが失敗だったぜ」
「……うむ?」
両者の言葉に首を傾げる九郎に、得意満面な顔のだらりとした衣服を着た方が説明した。
「九郎の贔屓無しじゃ勝てねえんじゃねえかってそいつがいちゃもん付けるから、服を交換してお互いに化けて勝負をしてたんだぜ! ま、九郎ならどっちが旨いかちゃんと判断してくれると思ってたけどな」
と、お七の格好をしたお八──首元の快癒符は外している──が説明を入れる。
双子の入れ替わりであった。九郎は一杯食わされて思わず感心の吐息をついた。
お房もきょとんとして、
「全然どっちかわからなかったの。あ、お雪さんなら気づいたかも。あの人心音でわかるから」
「参ったのう、これは」
「全然気づかなかったタマ……裸の印象が強すぎたあの時からぼくは罠にかかっていたというのか……」
おそらくは関係ない戦慄を覚えるタマであった。
拗ねたようにしているお七に指を突きつけてお八は云う。
「よし、九郎。敗者には精神と体にえげつない敗北の傷跡を付けて二度と真似できないようにしてやれ!」
「けっ……煮るなり焼くなりするがいいぜ」
「そう云う勝負じゃなかったろうに……」
呆れた九郎は、二人が蕎麦打ちをしている間に準備していた細い飾り布を取り出してお八の着物を着たお七に近づいた。
「では、負けたお七は紛らわしいから髪型を変えて貰うか。……よし」
「あん?」
簡単にお七の髪の毛を後ろで結ってやると、随分と女らしい印象になる。
飾り布が単純ながら少女っぽさを見せるアクセントになった。
「あら、似合ってるじゃないの」
「お八ちゃんより可愛なんでもないです」
率直な感想を言い合うお房とタマだが、タマは背後から感じる殺気に言葉を止める。
お七は結われた髪を気にしたように手で触り戸惑った反応を見せた。
一方で、
「んなああ!? なんで負けた奴に贈り物があるんだぜ!? おかしいだろ!」
「間違わぬように普段の髪を崩されるのも厭だろう。それにお主には前に簪をやったしのう」
九郎から貰った簪は、髪が伸びた時に綺麗な服と一緒に見せて普段との違いにときめかせる予定だったのでいつもは付けていないのであった。
「ううう! こ、この、それを寄越すんだぜ!」
お八がお七に掴み掛かるが、するりと彼女は躱して出口へ向かった。
「勝負のけじめも終わったからあたしはこれでおさらばだぜ。じゃあな兄ちゃん」
「おう、達者でのう」
「ま、待ちやがれ! っていうかあたしの着物ぉ!」
お八用の動きやすい着物で走り去っていくお七を止める事は出来ずに、お八はだぶだぶで肌の露出が痴女めいた服だけ残されて涙目で見送るしか無かった。幸い、快癒符は渡していなかったが。
「ああうう……何もかも九郎が悪いぜ……」
「そうかのう」
頬を掻きながら適当に相槌を打つ九郎であった。
破茶滅茶な行動をする娘には慣れているので対して気にしていない様子だ。
「待つんだお八ちゃん! そのゆるゆるの服にも利点はある!」
きりっとした顔でタマが落ち込むお八を慰めるようにいうが、彼女は半眼で返した。
「助平な点だったら殴るぜ」
「……」
タマは黙った。図星だったらしい。
そして殉教者のような爽やかな顔で、
「殴られても伝えなくてはならない事がある……怖いのは痛みなんかじゃない!」
「下から胸元に入ってくるな!? この野郎!」
「たとえ卑怯者の誹りを受けようともぼくは未来の為に戦うんだ……!」
「良さ気な言葉吐けば許されると思うなああ!!」
その後、店の鴨居に吊るされるタマの姿があったが、まあいつも通りの光景ではあった。
*****
後日。
二代目奈良屋の行った贅沢蕎麦の話は町奉行どころか、目安箱に投書があり将軍の目にまでついてしまった。
その奢侈──度をすぎて贅沢をすること──は目に余り、また蕎麦を打ち捨てた時に飢饉が起きたらどうするのか、町人にさえ迷惑を掛ける甚だしく無遠慮な行為であったと大変厳しく処罰を受けることとなった。
特に近年の新田開発と米価の下がり方を感じて将軍側近のある男が、
「米の不作が起きたらちょっと危ないのでは……なんて」
と、なんとなく助言のような事をしたことから──幕府もわかっていたことだが、良い時期だとして──江戸近郊でも蕎麦、芋などの栽培を奨励する話が持ち上がったばかりなのも悪い時期であった。
己のみならず他人に迷惑を掛ける財産は一部を闕所没収の事となる。
土地として日本橋、両国、霞ヶ関、神田など一等地その他諸々の所有権利を失い、諸大名への貸付数千万貫文、幕府への貸付十万両、更に貯蓄していた財産までも没収されることとなった。
小大名以上の財力を商人が蓄えていたのはまさに時勢と云うものである。
一代で財を為して多くの豪遊伝説を持つ奈良屋だが、二代目でその殆どを失い三代目以降はもはや富豪の面影も無く歴史から消えていったという。
「おごれる者も久しからずだのう」
「ふふふ、九郎君! 平家物語の事ならば正確には『おごれる人も久しからず』だよ! 勘違いされやすいけどね」
「居たのか、石燕」
読売に記されたその奈良屋の顛末を読みながら呟く九郎に、石燕が背後から覗き込みながら言った。
そして奈良屋の記事を見て鼻で笑いながら、
「まあ、もともと馳走などと云う言葉の語源は馬をあちこちに走らせ贅沢の準備をすると云う意味だから間違ってはいないのだがね」
「人の迷惑になるのは困るよなあ」
「時勢が悪いからね。世間は不景気なのさ。かの天爵堂だって側用人時代に朝鮮通信使相手に馳走の贅沢をさせるのを止めさせたぐらいだよ。馳走については伊達政宗公が金言を残している。『馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である』……とね。こっちのほうが良いかもしれないね」
「料理好きだったらしいのう」
そして石燕は持ってきた底の深い黒塗りの重箱を取り出して九郎の前に置いた。
「ならば料理の材料から手塩を掛けて育てたものを振る舞えば最高の御馳走ではないかね。というわけで私が心を尽くして作ったものだよ。ぜひ賞味してくれたまえ」
九郎が蓋を開けると足のように先端が二股に別れ、死に顔によく似た模様が浮かんでいる大根が丸々入っていた。
マンドラゴラのような大根である。顔つきがどう見ても不気味すぎる。山鳴りめいた音を感じる凄みさえ覚える。
蓋を閉じた。
「……これは?」
「こっそりと小塚原刑場に植えていた大根が実ったようでね」
罪人の血で育った呪われていそうな野菜であった。見た目が大根なので、マンドラゴラと云うよりも力の最大値が下がる毒草を投げつけてくるお化けのようだ。
「引き抜く時叫んだりしなかっただろうな」
「ふむ、それも心配だったのだがこう云う方法を取れば叫びそうな野菜も収穫できるのだよ」
石燕が云うに。
周囲の埋まっている土ごと掘り起こして、水に沈めて土を落とす。水中なので魔菜が死の絶叫を上げられない。犬を無駄にしないマンドラゴラの収穫方法であった。
「……で、どうするのだこれ」
「私としては話の種に作れただけで満足なのだが」
「晃之介にでも持って行って食わせるか」
剥いて薄く切った大根に味噌をつけるだけで中々歯ごたえと塩気が良く味わい深いものであったという。
あと何故かその日はお八ではなくお七が道場に修行に来ていたが、晃之介は気づいていないようであった。まあこれで鉢合わせして晃之介が驚いたりするのも、まだ先の話である……。




