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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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60話『ある条件』

 九郎が知り合いの男から女遊びに行こう、と声をかけられることは初めてではない。

 多くは金を持っていて遊びの荒い中山影兵衛からだったが、彼は最近嫁が出来たのですっかり遊郭通いはご無沙汰になってしまっているようだ。

 一朱程の値段でちょんの間に相手が出来るという安い店も近ごろは評判になっていて、臨時に儲けた長屋の男などに──九郎はわりと羽振りが良いので──誘われたりもしたが、歳のせいで性欲が枯渇している九郎は当然断っていた。

 見た目は若く健康で、更に女嫌いであるとか、衆道家であるとかそう云う理由も無いのにそこだけ不具な彼を、


「雷にでも打たれて駄目になったのだろう」


 などと噂されたという。

 ともあれ、他人からそう云う興味が無いと明確に知られた頃には誘う声も無くなっていた。影兵衛などはからかい代わりに誘うが、九郎もそうなれば弄られ放題では面白く無いので適当に女郎に酒でも酌させ、肩でも揉ませるぐらいの付き合いで出向くことはあった。

 しかし今回、九郎に声をかけた相手は意外であった。


「吉原?」

「えぇ。ちょいと付いてきてくれませんか、ね」


 九郎が問い返したのは、相も変わらず狐面をつけている不審な本草学者にして薬師──阿部将翁相手にである。 

 緑のむじな亭に来て蕎麦を注文した彼はそれを食い終わり[百の中で四十九]と点数を付けた後で九郎に切り出した。四年後までに八十は越さねば医療費百両の即時支払が請求される。証文も用意された。ちなみに二月前も四十九点だった。もはや成長の限界かもしれない。

 

「いえね、あたしゃ医者として吉原に出入りしてるんですが……その中でほら、あの……」

 

 ちらり、と狐面を付け直した顔を丁稚のタマに一瞬だけ向けて、話を続ける。


「亡くなった玉菊太夫と縁深い、紫太夫ってのがおりまして。玉菊とのことで九郎殿と、いろいろ、話がしてみたいと」

「ん。ああ、あの姉っぽかった娘か。ふぅむ」


 確かに、無事こそは伝えたもののそれっきり玉菊──タマとは顔を合わせていない。去年の末以来である。

 だからといっていかに女装をやめ髪を切ったと言っても、タマ自身を連れて行ける場所ではないだろう。

 そうなれば近況を伝えるのも九郎の役目であるだろう。


「そうだのう、わかった」

「それでは明後日。あたしが吉原に行く日に迎えに来ますので……おっと」


 将翁はおどけたように、狐面の下でくすりと笑い肩を竦めた。


「別に金子は要りやせんぜ。医者の手伝いで潜り込めば、待ち時間も無い」

「それは何よりだ。なんかさっきから何故か遠巻きに石燕が慈悲の微笑みを見せつつ財布を取り出していたのでな」


 遊郭に行く為の小遣いを渡そうとしてくる年下の知人女性を九郎はなるたけ視界に入れないようにしていた。なんでやっても居ない要求の罪悪感を覚えねばならないのか。


「くくっ……ま、無料で酌ぐらいはしてくれるでしょうぜ」


 そう言って将翁は代金を置き、店を出て行った。

 すると接客を終えたタマがやってきて、


「紫姉さんに会いに行くんですか」

「うむ。お主が元気でやっておると伝えにな」

「わあ、それなら丁度良かった! 先月晃之介さんから貰った蝮を焼酎に漬けたやつが好物だから持って行ってください! あ、黒焼きも好きだったな……また捕まえに行こうかな……」

「何故吉原の花魁が蝮好きなのか……」

「紫姉さんは吉原に行く前からぼくと一緒に働いてたから、外では蝮とかすっぽんとか皆食べてましたよ! 吉原じゃあんまり食べられないだろうからなあ」


 と、云う。

 玉菊と紫太夫、他何名かの女郎は店の失火や店主の挿げ替えなどによってあちこちの色街に店を変えており、一つ前の遊郭主によってとうとう公認の岡場所である華の吉原に参入したのであった。

 多くの利権と深く根付いている縁、それに通常ではまったく不可能と思える条件の一つや二つを可能にせねば余所者が店を出せる場所ではないが、経営手腕は確かだったのだろう。

 ただその楼主は人心に欠けていて、結果店と命を失い、幾人かの女郎は証文の消失と共に足抜けしたが、まだ残っている者も居る。

 それが玉菊の姉のような存在である人気の女郎、紫太夫であった。


「しかし、羨ましいなあ」


 タマは懐かしそうに宙を見ながら頬をゆるめて云う。

 その肩に軽く手を置き、九郎はしみじみ告げた。


「お主とて成長期だから、あと五年もすれば随分男らしくなるだろうよ。会いに行くならそれからにせよ」

「いえ、そうじゃなくて」

「うん?」


 首を傾げる。タマは目を輝かせて息荒らげに、


「紫姉さんにシャクをしてもらうとかいいなあ……!」

「シャクの漢字が違うぞ」


 興奮する彼に九郎は心底冷たい目で返した。




 *****


 


 二日後──。

 昨日は店に訪ねてきたお八がタマから、九郎が吉原にシャクしてもらいに行くという話を聞いて純粋な疑問顔で当然のごとく酔っていた石燕に、


「シャクってなんだぜ?」


 と訊ねたところ、ニヤつきながら教えられ熱を出して倒れるという非常に面倒な事態になり、石燕を叱ったのだがお八が起き上がってからも誤解したまま変なところに行くなとか説得してくる始末である。女と言い合いをしては敵わぬとばかりに九郎は暫く神妙に話を聞くふりをして舟を漕ぎ誤魔化すのであった。

 一応懇切丁寧に説明してやり誤解は解いたのだが、彼への尊厳は一時的に低下したであろう事は間違いない。

 ともあれこの日、迎えの将翁が来るのを待っていると、昼九ツ過ぎ(十二時過ぎ)頃に店の暖簾をくぐる狐面があった。


「来たか、将翁───……?」


 言いかけて、九郎は上げた手を所在なさ気に降ろした。

 狐の面と担いだ薬箪笥。高下駄に奇妙な作りの長着と、部分的に属性は同じであった。

 だが、狐面が顔の上半分だけを覆う半面になっていて髪は結ってお下げにするほど伸び、長着の首元から胸元までゆったりとした作りになって、襦袢は履かずに白い太ももが見えている。

 あと女になっていた。

 若干背も小柄になっていて胸は谷間を作り尻は肉付きが良く腰は締まっていて、中背で棒を立てたような体型の将翁から大きな変化をしていたのである。

 一部の衣裳以外原型は留めていなかった。

 半面になったおかげで口元が見えるが、にっこりと横一文字に薄く笑い、


「どうも。阿部将翁です、よ?」


 声も落ち着いた調子ではあるものの、高い琴の音のようになっている。

 三秒九郎は迷った。ついでに店の中に居たお房とタマ、石燕も言葉を発するかどうか互いに牽制しあう。最初に話しかける者が疑問を氷解せねばならない。ザムザの変身を見た上司のように。月に降り立ったサッチモのように。

 九郎は頷く。ここは人生経験豊富な自分が一言、周りの意を汲んでやらねば。


「……人生長ければ女体化することもあるよなあ」

「あってたまるかー!?」


 長い人生で若返ったりした男へ、周囲から一斉にツッコミが上がった。

 男の時の将翁とまったく同じ仕草で彼女は肩を竦めて、


「なにね。どうもあたしが吉原に行くとまあ……なんと言いますか……何人かの遊女を勘違いさせちまうようで向こう様から抗議を受けまして、ね」

「ふむ、お主は役者顔負けだからのう。妖しい態度もそうだが」


 自虐のように、口の端を歪めて云う女にひとまず九郎は頷く。

 阿部将翁の顔立ちは町人とも武士とも違い、またそれが非常に整っていることから狐面を外し歩けばまず間違いなく人目を寄せつける。声も脳に響く低いが優しげな音で、近づけばくらくらくるような匂いが立ち、目を間近に見れば我を忘れる魅惑の妖気を放っている。

 非日常の美丈夫とも言える彼が通えば、そこの女が狂うのもわからなくはなかった。


「それでまあ、女の装いでいけば問題が無いって事になりまして。尼寺などに行くにも意外と便利なんですぜ」

「成る程」


 納得する。まったく論理的に問題は見当たらなかった。九郎を意味もわからない上に魔女本人も知らない魔法で若返らせたり、許可無くエルフをオークの体に変身させる魔女と比べるべくもない正当な理由である。

 

(男の方は惑うかもしれぬが……)


 と、客とタマの視線が空間上に投影されてるように、将翁の開いた首元から見えるぶつかり合う肉餅に注がれていた。

 どういう方法を取ったか不明だが、タンパク質と脂質が使われている事に疑いは持てないぐらい真実の存在として露わに、そしてたわわになっている。

 

「どうでも良いか」

「良くないタマ!?」


 流そうとした九郎の両肩をタマが掴んで前後に揺らす。

 そしてはっと気づいたように離して自分の手を見た。


「しまった……! 今の勢いで将翁さんを揺らせば最大限近くで揺れるのを見れたのに……! ぼくの糞虫があああ……!」

「キレすぎであろう」

「本物かしら。……先生より柔らかいの」

「躊躇いなく揉みに行くなフサ子」

「ふふふなんか暑いねー首元緩めようかねー」

「喪服など着ておるからだろう」


 襟元をはためかせる石燕にジト目で云うと、


「なんでこっちには突っ込むのにそこの性転換には反応薄いのかね!」

「合理的ではないか。大体だな、知り合いに話で聞かせてみよ。『あの阿部将翁が怪しげな術を使って体が女になった』と。最初に見たから衝撃を受けただけで、結構納得するのではないか?」

「それはまあ」

「確かに」


 そう言われればそうである。

 録山晃之介が鬼退治をしてきたとか、中山影兵衛が大名行列に切り込んでいったとか、雨次少年が旅に出たとか、利悟が捕まったとかその程度の驚き内容である。実際にやっているかどうかはともかく、そうなんだ凄いね、と世間話で出る程度の内容であった。

 石燕はその非日常へ目を背けようとしている愛弟子の体を掴んで自分に引き寄せ、言い聞かせる。


「だ、駄目だ房よ! この世にそう不思議なことなんて無いのだと思うよ!」

「微妙に曖昧に濁してるの」

「断言しないほうがいいからね! 色々と!」


 冷や汗を浮かべながら非日常妖怪作家、石燕は続けた。

 妖怪はともかく、超常現象には懐疑的なところがあるのだろう。そもそも、妖怪とはあり得た現象に形づけたものが多い。種も仕掛けもある謎を彼女は好む。


「道理的に考えよう。完全に体つきまで変わって男が女体化するかね? おかしいと思いませんか?」

「なんで口調変わってるか知らないけど、実際なってるじゃない。話した感じも将翁さんなの」

「だから事実はこう言うことなのだろう」


 石燕は九郎やタマの方も向いて、自説を唱える。


「つまり彼女は将翁の妹とか、親類の者なのだよ。お互いに口調とかを合わせ、知識や経験を定期的に同期させ、あたかも同じ精神が宿ったかのような別の体の持ち主となる。

 これならば将翁が齢百を越え、そして日本中津々浦々に出没することも説明が付く。或いは阿部将翁を伝える将翁村とかそう云う隠れ里があるのかもしれないね。村人全員狐面の老若男女な将翁が住んでいる」

「嫌な光景だな」

 

 様々なバリエーションの狐面を被り生活する人々を想像して九郎は軽く顔を顰めた。

 将翁は特に感情を浮かべずに、


「どうだか」


 と、どうでも良さげに呟いた。九郎も頷き、云う。

 

「本人がそうだと言っているのだから、名前など小さなことだ」


 そもそも、九郎の要件は将翁の性別などは関係なく、吉原に言って玉菊の知り合いに会いに行くことなので重要ではない。

 しかしそれでも、何故か微妙な顔をしている石燕は思いついたように言った。


「それでは……ふふふ今の私はお豊お姉さんだ! 呼んでみたまえ!」


 などと云うので九郎は真顔で、


「お豊」


 と呼びかけると怯んだ。


「うっ」

「どうした? お豊」

「……矢張り無しでお願いします」


 自分で提案しといて呼びかけられると照れる、鳥山石燕──本名お豊であった。




 *****




 店を出て将翁と二人で舟に乗った。

 猪牙舟と云う小型のものである。名前の通り猪の牙のように反り上がった形をしており、吉原に行くには一人ならば[だんかご]と俗に言われる駕籠に乗って大門まで行くか、二三人ならばこの舟で行くのが通常である。

 足代をケチして徒歩で行くのは野暮だという風潮であったらしい。

 舟は山谷堀を進み向かう。何せ、吉原に行く途中であるのだから堀の舟場近くには多くの茶店や、いかがわしい船宿が見られた。


(吉原に行く前に客の幾らかはここで捕まるのだろうか)


 などと考えている九郎は、将翁の代わりに薬箪笥を背負っている。

 これは、


「まあ、医者の手伝いで行くのですから……あたしが運んでるより、手伝いの九郎殿に持たせたほうが世間体がいいでしょうぜ」


 との事だったので九郎もまあそれならと持ち手を引き受けた。

 青年の将翁ならばともかく、今は女になっている相手だ。重いものを持たせるのも──と思いかけて、


「……いや、己れより年は上だったのう」

「くくっ」


 そう思った。

 江戸では珍しく──妖かされている気もするが──阿部将翁は年齢不詳で百年以上生きていると言われているのであった。

 多少の不思議は己の体の事もあるので九郎は気にしないことにした。

 舟から降りて衣紋坂を下り、五十間道を巡ってから大門へ至る。そして吉原の中に入り、将翁の後について九郎は歩く。

 関係者でもなければ入ることは無かった吉原を歩く分にも、彼女の格好は奇妙な衣裳に胸元を開けていることからさも関係者らしく見えて、その市中では淫靡に見えた格好にも理由があるらしいことはすぐに知れた。

 しっかりと大門の面番所で入場切手は貰っているし医者なので入る理由はあるのだが、一々問いただされるのも面倒なのだろう。

 それはいいのだが、


「どことなく、きゃぴきゃぴと歩くのは止めろよ……」

「おっと。こいつぁ、演技が過ぎましたかい」


 きゃぴきゃぴなどと云う昭和の男、九郎である。

 昼間でも人通りのある色街に於いても将翁の姿は目を寄せる。そも、顔を面で隠していると云うのが案外にその筋の者には、


「そそる……」


 ものがあるらしい。身分を隠している、と思われるのだろう。

 なので妙に色気を見せて歩かれても厄介を招くだけである。

 ──と、二人に声を掛けてくる者が居た。


「あれー? 阿部氏に九郎氏じゃない。やあ」


 どことなくのんびりしているが、掠れた音の混じった声で話しかけてきたのは、痩身で徹夜の高揚を持ったまま脱力しているようにふらついている浪人風の男──山田浅右衛門であった。

 九郎は錦に飾り白粉で染めて紅を塗り、色めき立っているこの吉原で灰色がかって見える穢れ全開な首切り役人がどうにも似合わずに、一瞬亡霊でも見たかと思ってしまった。

 一方で将翁は、


「これはこれは。ひょっとして、新しいものが」

「そりゃもう。今は乾燥させてるよ。後で取りに来る?」


 会話する将翁と浅右衛門に九郎は訊ねた。


「知り合いだったか」

「ええ、まあ」


 少し口調が淀んだ将翁に代わって、浅右衛門が変わらぬ調子で告げる。


「人の肝を干したものは薬にも使えるからねぃ。某の副業。昨日新鮮なものが手に入って、さ」

「ああ……まあわからんでもないが」


 首切り役人、山田浅右衛門は公儀が行う斬首の担い手を代理する仕事についているのだが、それが直接儲けになっているわけではない。むしろ、彼が金を払って代わる事が多いほどだ。

 主な稼ぎとなるのは、首を切り落とした後の躯を貰い受け、刀の試し切りを大名などの依頼で行い銘刀の格付けを行うことで、これにより様々な伝手が出来て食うに困らぬ報酬も貰えた。

 また、切った後の骸を更に腑分けして使える部位を売り捌くのも収入源の一つである。

 金を払い首を切り、死骸を刀で両断して内蔵を引き出して加工する。そのような仕事をしているだけあって、世間では酷く畏れられている。ただ話せば気さくというか、少し抜けた感じを覚えるので本人の住み家近くの茶店では甘党なのでよく寄るために、ひょろりとした顔体つきから、


「鎌鼬の先生」


 などと呼ばれたりしているが。


「人も死ねばただの肉と骨さ。むしろ躯を役立てて功徳を積ませれば仏さんだって喜ぶって。まあ、想像だけど」

「それでここには何をしに?」

「指」

「うむ?」


 彼は懐から、しっかりと蓋を縛ってある小さな骨壷めいた陶器を取り出した。


「切り落とした罪人の指を遊郭に売ってるの。ほら、指きりげんまんってね。でも本当に切り落として送るのは厭じゃない? だから、罪人の指を代わりにして本人の指は包帯でも巻いて誤魔化す」

「そう云う謂われだったのか、あれ……。意外とグロいな」


 これは所謂、女郎が客を自分のものと引き止める常套手段の最終奥義で、まずは起請文と呼ばれる神仏に誓いを立てた恋文を送って惚れさせ、また腕に相手の名前を刺青で彫って入れ込ませ、最後は指切りとして小指の第一関節に剃刀を当て、上から鉄瓶で殴りつけて切り飛ばし、香箱に入れて送った、とされる。

 無論客を何人も相手にしなければならないのだから、真に惚れただの身請けしてくれるだの云った相手以外にもやらねばならないので、刺青は灸で焼いて消したり、指は死人や粉細工で作ったものを使っていたようだが。


「ま、罪人なんて大抵毛深い悪党なんだけど、毛をそって酒に漬けて保管してやれば、白くふやけて良くなるんだって。見る?」

「別に良いわえ」

  

 嫌そうに九郎は顔の前で手を振って近づける浅右衛門を追い払った。

 そして、矢張りふらふらと頼りない足取りで去っていく浅右衛門と別れて二人はやや歩き、[湖月屋]と云う遊郭へ入った。 

 中見世だが立派な構えをした郭であった。

 吉原には大別して、大見世、中見世、小見世(河岸見世)と呼ばれる遊女屋の格があり、中見世以上は百以上が並ぶ吉原でも一割しか無い大店で、武士や大尽の主しか客を取らない。

 こうなってくると遊女が居る置屋と、客が入る揚屋がまた別の建物になる。

 

「どう、も」


 独特の抑揚を付けて将翁が入ると番台の丸顔の男が顔を上げ、


「いらっしゃい、将翁先生。おっと、そちらは?」

「こちらはあたしの付き人、九郎殿ですよ」

「そうでした。次は御付きが来るとか言ってましたねえ。今日は揚屋も断ってるから、広間に皆を集めてやらせましょうか」

「ああ、それじゃあ。集まるまでに化粧品でも鑑定しましょう。九郎殿、行きますぜ」

「うむ」


 云って、二人は一階の奥部屋にある幾つかの襖を取り払い、広間にした場所に移った。その際、九郎の腰に佩いていたアカシック村雨キャリバーンⅢは一時預けられる。遊郭に帯刀は許可されていないのである。

 女郎が集うまでまだ時間がある。将翁は下働きのかむろが持ってきた化粧盆を受け取り、白粉の粉などを指に付けて匂いを嗅ぎ、擦っている。

 

「それは何を?」

「いえね、白粉とか伊勢軽粉とかは鉛や水銀を使って作るのですよ」

「体に悪そうだのう」

「確りと精製したものならばそこまで悪い物じゃない。あたしら薬師も、肌荒れや虫下しに服用させるぐらいで……しかし粗悪に作った物が混ざると、酷い中毒を起こしちまう。それも本人だけじゃなく、ほら、中には乳房になんか塗る者も居るから客も悪くなるときた」

「ははあ……それは良くない」

「だからこうやって、収められてる化粧品の質が落ちて無いか、確認しているのです」


 などとやり取りをしていると、やがて[遣手]と呼ばれる遊郭の実質親方な職業の三十過ぎな年増女に連れられて女郎、続いてかむろやお針の女なども広間にやってきた。

 揚屋で客を取っていない、と云う事は今日は出納で休みなのだろう。皆部屋着のような簡素な服を着ている。

 

「将翁先生だわぁ」

「相変わらず綺麗ーこれでお医者さんってのが信じられない」

「あら? そっちの子は?」

「もしかしてお医者の卵? 粉かけていい?」


 などと、わいわいと騒ぎながら九郎にも好奇の視線が注がれる。成る程、髷を結っていない身分とすれば、医者というのはそれらしくも見えるだろう。

 さすがに吉原の中でも上等の見世だけあって、若く美しい女が多いが九郎から見ればほぼ子供である。

 私娼や夜鷹などと違い吉原は十代半ばぐらいから客を取り、二十六、七ぐらいで引退となるので──借金が残っていれば針子や飯炊きなどとして残留する──若い女好きが来るのであった。

 

(石燕は引退済みな年齢だな)


 本人が聞いたら寝込みそうな失礼な考えを浮かべる九郎であった。

 さて。

 診察なので当たり前なのだろう、既に気にせずに脱ぎ始めている女郎も多い。


(まあ向こうが気にしてないなら別に構わんが)


 怠そうに目を細めてぼんやりとしている九郎であった。 

 彼的にはこの一年通っていた風呂屋とそう気分は変わらない。まあ、いまだに彼は風呂屋で二度見される事が多いが。

 意識の範囲外でじりじりと少年愛の女郎数名が柔術のような構えで近づいてきているが、それよりも先に一番前に歩み出た女が止めた。


「はいはい、この人は妾の客だから手を出さない」

「えー紫姉さんー」

「そりゃ若いのに羨まけしからんさね」


 この遊郭でも上等の花魁、紫太夫である。九郎が招かれた相手であった。

 年の頃は二十前後だろう。実年齢はそう年をとっているわけではないが、経験年数が長くてベテラン扱いである。

 彼女は九郎の隣に座り、肩を汲んで真横から彼の顔を指さした。


「それにほら、この女衆の裸を見ても微妙に白けた目を見てご覧よ。いいかい、この人は───陰間がいたたたた!?」

「ホモ扱いは放置すると面倒なので許さぬ事にしておる」


 紫太夫の口に両手の指を突っ込んで左右に広げる九郎である。

 口を抑えて離れる紫太夫。

 彼女からすれば、男であった玉菊の良い人なのだから当然男色家だと思っていたのに酷い裏切りを食らった気分であった。

 呆れ顔で九郎が、


「単に己れが歳の所為で使い物にならんだけだ。衆道でも狒々爺でも無いからのう」


 云うと遊女達がよよ、と哀れんだ顔と共に声が上がる。


「か、可哀想! なんか色々可哀想じゃ!」

「あの歳で、もう駄目とか……」

「ああもう、己れの事は良いから早く診察をしろ」


 煩そうに九郎は手を振り、将翁に促す。

 枯れているとはいえ一応美醜の感情は持つのだが、それが性欲に繋がらない九郎だった。

 並ばずに周りを囲むように、将翁の前に進み出て検診を受けだす女衆。

 目や舌などの様子を見て、皮膚や腹を揉み、体の匂いを確かめて病気や妊娠の有無などを判断していく将翁であるが──

 一部の遊女はそれでも身悶えしている様子であった。


「……女になっても惑わす事は惑わしておるのだのう」


 そもそも、男の状態でも男を誑かすのも容易だったのが将翁と云う白面九尾の化身めいた色気を持つ人物である。

 全身から淫靡な気配を漂わせている。本人も自覚はしているようだが、どうしようも無いし、どうにかする気もあまり無いようだ。ただ、医療や交渉事に利用するだけである。

 百合の華咲きそうな光景に九郎は輪の外に出て離れた。

 すると紫太夫──服は着ている──も九郎のところに遣って来て、


「妾は最後で良いから、向こうで一休みするかや」

「そうしよう。……ああ、うちの[タマ]からお主に、蝮酒を持ってきたぞ」

「蝮酒! いいねえ、深川の女はそれが無いと始まらない」


 気分が浮き立ったように彼女は九郎の手を引いて、女の匂いが充満する広間から出て別の部屋へと行く。

 食膳も部屋には用意されていて、小ぶりだが鯛の塩焼きや、天ぷらもある豪華なものであった。 

 向い合って座り、九郎に蝮酒を注いでくる紫太夫に聞いた。


「タマも前は深川に居たのかえ?」

「そうそう。あの子とは小さな店で飯盛女として雇われた先で出会ったんだけど、その時はこぉんなに小さくて可愛かったなあ」

「その大きさでは魚か何かだろう」


 紫太夫が細く白い両手を広げて大きさの表現をするが、一尺少しぐらいだったので思わずツッコミを入れた。

 彼女はからから笑いながら、


「タマなんて猫みたいな名前を付けたものだから間違えちまった」

「そのうち元服で新しい名をつけようとは思って……ぬう、蝮酒、臭いがきついな」


 喉の奥まで染み付き鼻に逆流してくる臭いに九郎は渋面を作る。

 野山で近くに出没するだけで蝮臭いと言われるように、青臭さと独特の生臭さがキツい米焼酎の臭いと合わさってつらい。

 臭い酒は何度か飲んだが、それでもこれは一等であった。

 

「普通の酒にしてくれ」

「わかったよ」


 九郎は山椒味噌で和えた菜物を口に入れて注文をした。薬用としてならまだしも、進んで飲みたいものではなかったようだ。

 清酒を飲んで味噌を溶かす気分で口腔内を洗い流し、一息ついた。口を占領していた蝮臭は胃に流され、胃から漂って来そうな気配を見せて九郎は酒を続けて飲む。


「あの子は元気にしておる?」

「うむ。妹のような年頃の元気な娘も居てな、いつも仲良く──まあ叱られてるが、楽しくやっておる」

「そうかい。うん、あの子、お兄ちゃんになりたがってたからねえ」

「……」

「お姉ちゃんにもなりたがってたけど」

「どっちか片方にしておけ……いや普通にお兄ちゃんにしておくべきだな」


 男なのだから、と九郎は半眼で呻く。

 だが紫太夫はやや憂いたため息をついて、云った。


「覚えてるはずは無いんだけど、きっとそれを心が求めてるのだろうなあ」

「む」

「妾が気になって調べたのだけど、あの子は家族が無くて捨て子だったところを遊女に拾われて、その母親代わりもすぐに死んで自分も陰間になった子だから……家族が欲しがってる」

「ああ、そうか……」

「それにね、聞いた話だとあの子には兄弟だかが居たんだと」

「なに?」


 問い返すと、彼女は蝮酒をぐい、と飲んで続けた。


「三つ子揃って捨てられて、二人はもう死んでいたらしい。畜生腹って云って、一度に何人も産むと縁起が悪いと捨てちまうんだよ、特に武士なんかは」

「……それで兄か姉か、弟や妹に何か特別なものを感じているのかもしれない、と」

「覚えては無い筈なんだけどね。赤子の頃だから」

  

 それでも、何らかの因果を感じてしまうものではあった。

 タマは生まれも育ちも恵まれたものではなかったかもしれないが──。

 よく笑っている顔には陰りは見えない。きっと今まで出会ってきた大事な人が好きだから、不幸せでは無いのだろう。

 九郎は頬を掻いて、また飲み干した酒盃に酒を注がれてから云った。


「あやつは直にいい男になるさな」

「妾が年季明けして会いに行く方が早かろう」

「どうだろうな」


 笑いあって、二人はタマのこれまでやこれからの、エロ失敗やエロ成功話に花を咲かせて酒を交わし合うのであった。





 *****




 さて……。 

 一刻以上は話をしていた気がした二人は、検診は終わったかと再び広間にやってきた。

 そこには狐面の女の姿は無く、思い思いに遊女たちが寛いでいる。中には昼酒を飲み始めた者も居るようで、休みと云う事もあるがこの遊郭はかなり遊女に自由があるようだ。

 健康診断で優良だと言われると途端に酒が旨くなることは、昔から変わらないらしい。

 帰ってきた二人を見て何人かが真顔で、


「お楽しみでしたね?」


 と、云うが紫太夫はこめかみの辺りを抑えるようにして、


「この紫太夫からシャクを受けて蝮酒も飲んだのにこの無残な……」

「いやこの歳になると本当になんとも来ぬからそう言われても困る。九十五だぞこちとら……それより将翁のやつは何処に?」


 見回しながら尋ねる。


「二人がゆっくりしてるので、先に向かいの[清白庵]の検診に行っちゃいましたよ」

「む、そうか。一応話は終わったと伝えて来る」


 そう云って九郎は軽く手を振って紫太夫に会釈を交わして店を出た。

 表の通りには人が多く足を止めて、[清白庵]と看板のかかった遊郭の二階窓を見上げている。

 何事かと九郎も見ると、


「うおおおお!! 不義密通して男を弄ぶ売女をそこに並べて連れて来やがれええええ!!」


 窓から、刀を手にして怯えた遊女の首元に突きつけて怒鳴っている侍が姿を見せて居た。

 完全に激昂してわけが分からなくなっている様子で、酷く危なっかしい。ぎりぎりで聞き取れるような叫びを続けて悪しざまに遊女を罵りまくっている。

 九郎はげんなりした顔をしながら近くの者に聞いた。


「何をしておるのだ?」

「なんでも、小指を送られるほど入れ込んだ女郎が自分を待たせて他の客を取ってた事に怒っているようで」

「馬鹿だな」

「ええ。珍しくも御座いませんが」

「しかし馬鹿に刃物を持たせたら危ないのう。……ぬう、既に何かを切っておるようだ」


 目を凝らしてよく見れば、刃の先にべたりと真新しい血が付着しているのが見えた。

 手練手管を使って客を惚れさせるのが遊女の技なのだから、このように勘違いしたり思いつめたりする者も少なくなかったようである。行き着く先は凶行か、心中かだ。

 やがて大門の番所から町方の与力、同心が駆けつけて道を開けさせる。黒袴の与力が落ち着かせようと語りかけるが、唾がふらんばかりに奇声の雄叫びが帰ってくるばかりであった。

 将翁の姿も見えない。

 どうしたものかと九郎が思っていると、駆けつけた同心の一人が話しかけてきた。


「貴様は確か町方や火盗改の手伝いをしている九郎だったな。町方では利悟や伯太郎の仲間として」

「断固否定したい組み分けだな。お主は?」

「わたしは同心二十四衆が七番[出任せの説得]の斉藤伊織だ。覚えておけば得をする。何故なら得をするからだ」

「矢張りどう考えても褒められる称号じゃないよな、それ」


 一応言うが、二十四衆で自分の称号を気にした者を見た試しが無い。

 三十がらみ程の、冷ややかな印象を受ける自信に満ちた目をした男である。びしりと着崩すこともなく皺も無い袴を着こなしており、この晴天の中汗も掻いていない。

 彼は確認するように云った。


「遊郭から逃げた者の情報によれば、あの首に刀を突きつけられている女以外に二階で怪我人が一人と高名な医師の阿部将翁がその治療に取り残されているようだ」

「ふむ」

「わたしが正面から奴の気を引くように話をするから、その隙に裏から忍び込んで救助を頼めるだろうか。潜入が得意だと聞いたのでな」

「わかった。将翁も居るしのう」


 九郎は頷いて、人混みから抜け出た。

 正面では与力に伊織が説明をして説得役を代わったようだ。

 彼は堂々と丸腰になり腕を組みながら嫉妬に荒れ狂う侍を見上げて雑踏の中でも非常に良く通る声を張り上げる。


「いいかよく聞け──わたしは神だ!」


 どよめきが走るが、そのうちに九郎は裏へ回った。

 勝手口らしき木戸の切れ目を見つけるが、押しても引いても動かない。中から閂がかかっているのだろうか。

 九郎は愛刀を預けたままだった事を思い出して舌打ちした。だが虚言癖の説得は既に始まっている。早く事を終わらせねばならない。今丁度、犯人の要求には頷きつつも、鰻飯を食っていたら墓場から蘇った屍人に俳句で苦情を言われた話を聞かせている。ちょっと気になった。

 腕力で破壊できないこともないが、大きな音を立てては気づかれる恐れがある。

 

「開かないの?」


 夜に聞いたらぞっとしそうな、のんびりしているのに不思議な声音で話しかけてきたのは山田浅右衛門だった。

 彼も九郎と同じ裏に回って来ている。 

 ぼさぼさに伸ばし放題な頭をがりがりと掻いて、


「いやほら、某が売った指で問題が起こったとなるとちょっとさ……でも捕まえるのは下手だから任せようかと思ったんだけど」


 彼は腰に帯びた刀の柄に手を当てた。

 き──。

 と、割れる音を九郎が感じたと思ったら、彼は刀を下から上へ抜き打ちにし、頭上に構えている。

 そして納刀する。壁には何の変化も無いが、浅右衛門は軽く木戸を摘んで横にずらした。内側から固く閉ざしていた太い止め木が、壁と戸の僅かな隙間へ刀を打ち込まれて両断されたのだ。

 一切、壁に傷を付けずに鍵だけ切り分けた浅右衛門。彼は肉だろうが骨だろうが巻藁だろうが──何かを正確に切る事に特化している剣術家なのである。

 

「助かる」

「助けに行くのは君でしょ?」

「ああ」


 送り出す浅右衛門を置いて、九郎は術符フォルダから隠形符を取り出して口に咥える。

 魔法の効果により彼の体は光学的に目視困難になるために接近しての不意打ちが容易いだろう。

 二階への階段を上がる。伊織の話は気狂いと屍人とからくりの三名が世直しを決意する場面になっている。それよりそれは果たして説得なんだろうか? 九郎は不審に思った。

 ともあれ、通りに面した部屋に入り込む。入り口付近で胸元を切られて血に染めている遊女と、その手を握り──医療行為を侍に制限されているが、脈を測ってまだ大丈夫だと判断している──座ったまま動かない将翁が居た。

 彼女は狐面を九郎に向けるが無言のままで、九郎も見られたことに気づいたものの疑問には思わずに懐から十手を取り出し、捕縄を広げて背中から犯人に近づいた。背後で隠形符をフォルダに戻す。

 まず、刀を持っている腕の手首を掴んで思いっきり捻った。嫌な音がして侍は握力を失い刀を取り落とす。

 ぎょっとした相手が反応する間も無く、遊女を掴んでいるもう片方の手をしたたかに打ち付ける。これには堪らず悲鳴を上げて手を抑えた。

 両手が下がった所で捕縄を回して背中側にきつく結び、捕らえた姿を晒してやった。


「商売相手に喧しいぞ、馬鹿者め」


 十手を片手に持った九郎に侍が取り押さえられたのを見て観衆から喝采が送られる。

 背後では、将翁が素早く切られた遊女を脱がして傷を拭い、包帯を巻いていた。深く傷は残らずに済む、表皮を切られて出血が派手だっただけのようだ。

 

「お見事で」

「この程度お主でも……っと、今は女なのだったな」


 いつもの男の体ならば少なくとも中背で力が弱いと言うこともなかろうが、体が変わってはそうもいかない。

 それは九郎自身も、二十代程の歳に若返らせてくれればまたできることも多かったのだが。他人から小僧と侮られる事も無い。


「ま、世の中ままならぬものだからのう」

「左様なもので御座います、よ」


 将翁は狐面の下でにっこりと笑った。

 その後、暴れた侍を町方に引き渡してどうもあちこちの遊女に見られていたようで、相手にしてやる事も出来ない九郎はさっさと一人で帰っていったと云う。

 




 *****



  

 翌日。

 阿部将翁──まだ女である──が朝方に、緑のむじな亭の二階で間借りしている九郎の部屋にやってきて、切り餅(二十五両束)を渡した。


「[清白庵]の遊女や主ら一同が九郎殿に、感謝を伝えて欲しいと」

「そうか。ありがたく貰っておくか」


 礼ならば断るのも失礼であると九郎は思い、枕元に置いてある木箱にそれを保管した。

 そして布団も畳まぬその上に座ったまま、将翁が差し出した濃い茶を啜る。口が酸っぱくなる程に苦いが、朝方の眠気を払ってくれる。

 彼女は胡散臭い口調で話を続ける。


「それで、そこの遊女や[湖月屋]の皆からもちょいと依頼を受けまして」

「なんだ? それにしても苦いな、この茶」

「ええ。九郎殿のご病気を──治して欲しいと」

「なんだそれ……は?」


 云うと、九郎の飲むために開けていた口が塞がらず、だらりと端から茶だと思っていた液体が垂れる。

 眠気ではないが、深酒をやった時のように頭だけで無く腰も動かなくなっていた。

 痺れ薬を盛られたのである。九郎は時々思っていたが、あれだけ即効性のある痺れや睡眠を齎す薬は体に相当悪影響を残しそうだ。それを自身が体験するとは──何故か初めてではないのが悲しいけれども。

 将翁は薬箪笥から乾燥した人参や鉱石のような角ばった物、盛っている茸などを取り出しながら、云う。

 

「腎の機能を改善させ、血の巡りを良くし、体を温め、心を正常に戻し──まあつまりは、不能を治してやってくれと頼まれまして、ね」


 少なくとも見た目は若いのに不能となっている彼へのお返し気分なのだろう。慌てて口を動かす九郎。


「待て待て待て。これは別に病気ではないので治る治らぬの問題では」

「いえいえ、実年齢はともあれ、体は確かに若いのならば病気の一種、で御座います、ぜ」


 云うと、彼女の指先が僅かに薬の緑色に染まった手で軽く九郎は押され、布団に仰向けに倒された。

 体が動かぬ。口も震えるようにしか喋れなかった。恐らくは、薬を飲み込ませる為にある程度自由にさせているのだ。

 覆いかぶさるように将翁が紙に包んだ粉薬を持って九郎を覗きこんだ。


「離れろ、落ち着け。別に己れは要らぬ」

「治るべき病気を治さぬのは薬師の名折れ──おっと、洒落っぽくなりましたかね。前金は貰ってるもので」

「どうでも……いいから……退け」

「なに、別に媚薬を盛ろうってんじゃない。健康の為、で御座いますよ」


 妖しげな将翁の声と共に、謎の薬品が顔に寄せられてくる。九郎は身の危険を感じた。首元の相力呪符が青く輝き力を増幅させるが、動く命令を手足が効かないので無効化されてしまう。

 とにかく胡散臭いのだ。九郎とて体の不具は気にしているが、現状それで問題があるわけでもないのでこの将翁の謎薬を試す価値が無いと判断して拒否しているのである。


 脳裏に/記憶がフラッシュバックする/不自由を与えられた記憶だ/誰かが己の体に/魔女が最後の時に/侍女が飲み物に/──何故か怖気がして、ひたすらに九郎は首を背け拒否をする。なにか、まずい予感があった。


 自身の胸板に将翁の肉餅を押し付けられるように密着されながら薬が近づく──。

 その時、二階に駆け上がってくる音が聞こえた。途中で転んで頭を打って呻く声も。


(あの運動音痴は石燕だ)


 思うが早いか、彼女が九郎の部屋に飛び込んでくる。


「九郎君! 昨日は吉原で縛り的な行為をしたり血が飛び散ったりと特殊な状況だと北川から聞いたが本当か──ね……」


 めっちゃ九郎を押し倒している将翁の姿があった。

 後ろから付いてきたお房も「あらー」とわざとらしく顔を抑えている。

 動揺をしたものの石燕は上っ面の冷静さを取り戻し、ふふんと格好を決めて眼鏡を正して云う。


「将翁よ、そのような事をしても無駄だとも! 九郎君は不能者だからね!」

「それを治す薬を今飲ませようとしてるのですが、どうなるでしょうねぇ」

「ぬあっ!? くっ……止めるべきか見守るべきか悩む!」

「止めなさいよ」


 冷徹なお房の声が後ろからするが、聞こえなかったふりをした。

 九郎はその間になんとか手を壁に掛けている蒼白の衣装──疫病風装へと向けて、掠れる声で云う。


「来い」


 すると、その彼専用の装備は命令に従いするりと空中を滑るようにして九郎の手に収まり──解けたように粒子状に分解され──次の瞬間には、九郎は寝て押し倒された体勢のまま、体にその装備を着用していた。

 同時にあらゆる病気と毒を防ぎ、無力化する魔力と云うよりも疫病風装に込められた概念が使い手の体を癒して活力を取り戻す。黙示四番目の騎士として認められた彼のみに効果のある能力であった。

 九郎はさっと将翁を跳ね除けて窓から飛び出し、空中をある程度浮遊してさっさと外に行ってしまった。妖しげな薬を飲むのは御免である。

 

「おや、おや。ま、その気になったらやりましょうか、ね」


 将翁は楽しげに笑いながら、薬を仕舞いこんでいく。

 まだ思い悩むような石燕に、窓から身を乗り出すようにして九郎が飛んでいった位置を確認したお房が訊ねる。


「ねえ先生」

「うん? なんだい房」

「不思議な事が無いなら、九郎はどうやって空を飛んだのかしら」

「そ、それはええと……上手く風に乗ったのだよ! その……角度とか!」

「角度ねえ」


 どうも信用ならない説明に、疑わしげに師匠を見るお房であった……。



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