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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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57話『補助役九郎と晃之介』

 昼下がりの事であった。

 緑のむじな亭では大方客も片付いて、遅めにやってきたお八と昼酒を飲んでいる石燕が残るのみである。

 九郎は相も変わらぬ眠そうな目をしたまま、ぼんやりとして目刺しなどを齧って彼もまた昼酒を少しばかり飲んでいる。

 そんな彼を見て、どんぶり飯にさつま揚げを乗せ、生醤油をかけ回した昼飯を食べていたお八が怪訝に見て石燕に話しかける。


「なんか九郎、最近はタマを見てぼーっとしてるぜ」

「ふむ、その言葉だけだとまるで怪しからぬ男色家のように聞こえるね」

「嫌なことを云うなよ、石姉」

 

 無論、彼が見ているのは陰嚢ではなく店で働いている小僧、タマなのだが。今は買い出しに出ている。

 そこはかとなく、彼を見る目付きが優しくなったような、或いはセクハラ関係に関しての自由さに納得が云って諦めたような不思議な雰囲気であった。

 ともあれ九郎は思うことがあった。

 タマに宿っている魔女の魂は半分。残り半分を他の誰かが持っているという。

 意外に身近な人間が転生者であったことに驚き──というよりは肩透かしを食らった気分ではあった。

 しかし、そうすると、


(案外、他の知り合いの中にも魔女は居るかもしれん)


 そう九郎が思うのも当然である。

 

「フサ子や、ちょっと良いか?」

「なにかしら」


 九郎に呼ばれて浅葱色の真新しい着物を着たお房が寄ってきた。

 彼はお房の頭の上に軽く手を置いて、


「うむ、少しな」


 そう云って彼女に頭を寄せて、額を触れさせた。まずは手近なお房から確かめてみようとしているのである。

 するとそれを見ていたお八と石燕が、


「ぬあ!?」

「酒の飲み込み方を忘れて口から漏れていくのだがどうやって飲み込むのだったかね」

  

 だらだらと口の端から酒を零しながら突然の九郎の行動に対して露骨に動揺している。

 端から見ていると突然相手の頭を抑えて額を付ける謎のアプローチである。説明もしていないので、まるで意味がわからずとも妙に破廉恥に見えた。無論、九郎としては八十五程も年下の曾孫並なお房にやる行動なので然程気にしていないのだったが。

 一方のお房はきょとんとして、


「熱でもあるの? あとお酒臭いの」

「いや、すまぬ」


 九郎が誤魔化すように笑いながら離れた。お房の中に魔女の魂の痕跡は見つからず、むしろ安心した気持ちであった。

 お房も特に気にしたことが無いようで、目刺しが片付いた九郎の皿を持って板場へ持っていった。

 そして九郎は辺りを見回し、お八と石燕に目を向けて腰を浮かせる。


「ちょいとそこの二人」

「なななななんだぜ!? っていうか今のはなんだぜ!?」

「いやお主らも少し調べて──」

「だ、駄目駄目ちょっと無理恥ずかしい。なあ石姉!」


 お八がそう言って石燕に同意を求めると、彼女は顔をやや赤らめてがくがくと首を上下に揺すった。

 普段、九郎におぶられたり持ち運ばれたり、しなだれかかったり絡んだりしているものの、相手から仕掛けられるとなると、この鳥山石燕という女は良い歳だと云うのにめっきり弱い。

 余裕ある態度など虚勢であるのをバレていないと思っているが、案外彼女の周りからは知られていることではあった。

 二人の反応を見て、九郎はふむと腕を組み考える。


「……ひょっとすると、あまり他人にやるには体裁が悪い事だったろうか」

「当たり前だぜ。っていうか意味がわからない」

「そうすると……ちょいとこれから知り合い連中にやって来ようと思ったのは止めておいた方が良いか」

「そ、そうしたまえ九郎君。下手な行動は誤解を招くよ」


 止められたので九郎はきまりが悪く座りなおして、確かめるのはあっさりと諦めた。

 魔女を見つけなければ明日にでも死ぬような呪いではないのだ。せいぜいが寿命の問題であり、魔法を解除してもまだ数十年は生きなければならないと思えば別段見つけるのが後回しになってもそう困らない。

 無理をして知り合いに妙なことをして回るのも面倒に思えてくる。なお、知り合いというと影兵衛や晃之介、雨次などの男連中から子興にお雪、お歌夢などの女も含めてだったのだが。


(そのうち何かで見つかるだろう)


 と、後回しにすることにした。タマのように偶然見つける事がそのうち訪れる予感があったのである。

 

「ああ、ところでハチ子と石燕。鼈甲細工のかんざしを貰ったからお主らにやるよ。去年フサ子にやった時に欲しがっていただろう」

「え? いいのか?」

「良いも悪いも、[鹿屋]に貰ったのだから己れが持っていても仕方なかろう。琉球渡りの良い品らしいぞ」


 そう言って九郎は、琥珀色と黒色のかんざしを二人に渡した。

 若干透き通った色合いをしたかんざしを透かして見ながら、お八は感嘆のため息をついてふと気づいた。


(そういや、九郎に会うまでかんざしなんか気にした事も無かったんだよなあ)


 と、すっかり身なりを気にするようになっている自分が居て、何やら複雑な気分ではあった。

 石燕も、服装同様に黒い──かんざしには金で色付けされているが──を気に入ったようで、髪に差そうとしている。

 お八が後ろに回って、


「石姉は髪の毛結ってない上に鬼女みたいに流してるからあんまりかんざしも似合わねえなあ……せめて梳かすとか」

「ふふふ、まあ少々癖毛だがね、半刻程湯と椿油を用意して頑張れば真っ直ぐに整えられるが──それをすると私の美しさは鯉が滝を登り竜になるが如く昇華されてしまうので自重しているのだよ!」

「綺麗な着物と化粧して、眼鏡外して髪結って、しなを作って微笑んでたらそりゃあ先生だって美人だけど無個性になるの」

「だろう! くっ何故か泣きたくなってきた!」

「最近メンタル弱いのう」


 弟子から個性の全否定を食らって涙ぐむ師匠であった。

 お八が思い出したように、

 

「そういやこの前の節句で鯉の絵を描いた旗とか立ってたけど、あれ鯉が滝を登るのとなんか関係あるのか?」

「ああ、登竜門という故事から立身出世を願って作られた最近の風習だね。吹き流しだけでは寂しいのだろう。まあ、私から言っておいて何だが別に鯉は滝を登ったりしないけれど」

「登らねえのかよ!」

「そもそも登竜門で言われるのは鯉ではないからね。本草綱目によると身の丈ニ、三丈(六メートルから十メートル)、体に棘のような甲殻を持つとされている。もうこれ最初から竜なんじゃないかなって外見だね」

「そんな生き物居るの?」

「実はこれは此の国の川にも居るよ。直接見たわけじゃないが、聞いて絵で描いて目撃者に見せたらだいたい合っていると言われた。確か形は……」


 そう言って、文箱を取り出してさらさらと絵を示す。

 絵描きであるだけあって、こういう時は説明が得意である。彼女が描いたのは確かに魚のようだったが、鯉とは似ても似つかぬ形をしていた。

 お八が首を捻りながら尋ねる。


「これは鮫じゃないのか?」

「そうだね、確かに似ているが鱗と棘があり、川にいるところが違うかな。一応近くの村で聞いたが襲われた者は居ないようだね」


 九郎はその川に住む鮫によく似た魚を思い出すようにして唸った。


「ううむ、確か何と言ったかのう……そう、蝶鮫だ。日本にも居たのか」

「やっぱ鮫なのか?」

「一応鮫とは全然違う種だったとは思うが」


 さすがに分類学までは詳しく無いので言葉を濁す。高級食材を産み出す生き物としては彼も覚えていた。

 日本でも北海道や東北などでは川を遡上して卵を産むことがあり、巨体と奇異な姿から吉兆の証とされて珍重されたが、その話だけは尾ひれをついて出回り妙な形の魚として記録に残されている。

 やはり、お八は納得がいかぬように云う。


「しかしなんでこれから鯉になったんだぜ?」

「一説には此の魚は[鮪]や[テン]とも呼ばれているが[黄鯉魚]と云う呼び名もあってね、字面からすれば黄色い鯉だろう?」


 紙に文字を記しながら石燕が解説をした。


「誤訳か」

「あくまで一説だよ。鯉という魚が霊力があるものという認識は大陸でも本朝でも同じことでね、あちこちに大鯉の妖怪伝説が残っているのだよ。だから鯉が竜になってもおかしくはないと思うのも共通しているのさ。髭だって生えているし長生きだからね。

 また、淡水魚の親玉を鯉と見る事も多いけれどね、これは長生きして竜になる蛟もまた池や川の主として伝えられているから同一視するのも不思議じゃないだろう」

「ふむ、まあ、滅多に見ぬ蝶鮫よりは鯉のほうが分かりやすいしのう」

「そんなわけで鯉が竜になるというのもそんなに間違った話でもない、ややこしい事になっているのだね」


 そう言って、石燕は酒を飲み干す。 

 九郎は彼女を見ながら、


(此奴が酒を求めて口をパクパクさせているところは、まあ鯉めいているな)


 などと思うのであった。

 竜には程遠い情けなさではあったが。

 話をしていると客の居ない店に小間物屋のような大荷物の男が現れた。

 

「あら、晃之介さんじゃないの」

「まだやっているか?」

「ええ。おろし蕎麦でいいわね」


 入ってきた客──録山晃之介の姿を認めたお房は確認も取らずに注文を確定して板場へ再び向かった。

 苦笑しながらも腹に入れば良いか、と思って晃之介は荷物を下ろして席に座る。

 九郎が荷物を見ながら問いかけた。


「なんだ? 引っ越しか?」

「ああ。道場の普請が出来たそうでな、鎧神社から引っ越すことにした」

「あの呪い神社の連中はもう大丈夫なのかね?」


 あまり良い思い出がない──死ぬほど魘される夢を見た神社に囚われた生贄的な神職連中を思い出して、石燕は少し顔を曇らせる。

 晃之介は頷き、


「せっかく住居にしていた小屋もあるからな、俺の代わりに住んでくれる剣術使いを探して交代したんだ。毎朝早くに立ち木に向かって凄まじい奇声を発しながら打ち込む音には、もはや盗賊や怨霊どころではないと評判だぞ」

「よりにもよって薩摩人か。煩そうだのう」

「怨霊どころじゃない──音量でな……ふっ」

「……」

「……」


 晃之介の下手な洒落に三人共シケ面を見合わせる。

 これさえ無ければ、二枚目で武芸もできる良い男なのだが。

 ともあれ、蕎麦が晃之介の前に運ばれてきた。大根おろしがたっぷり載っていて、濃い目の蕎麦汁によく合う。

 彼は食いながら石燕の描いた蝶鮫の絵を見て、


「ん? この魚は俺も旅先で食ったことあるな」

「卵は旨いらしいが」

「いや、食ったのは身だ。結構いけたぞ。焼いても食えるし刺し身でも食えた。大きいから食いでがあってよかった」

「野外生活に慣れておるのう……」


 彼の場合、野山で生存するのも修行の一つなので食えるものならば大抵口にしたことがある。江戸で暮らしていては食わないが、虫なども食える種類については良く識っていた。

 

「晃之介君や叔父上殿のような悪食が、妖怪を妖怪と思わぬまま食ってたりするのだよね……」

「妖怪の分類も怪しい野生動物が含まれておるからのう。お主の描いた絵でも、狸やら獺や鼬を含めておるであろう」

「狸は臭いぞ、さすがに。獺は結構美味かったが、そういえばこの前ももんじ屋で猪の肉を食ったら獺の肉でな、さすがに脂の付きが違うからわかる」

「ふふふ、晃之介君に化けて妖怪が出るかもしれないよ。窓から覗く目がね……!」

「新しい道場は窓にもしっかり戸を付けさせたから大丈夫だ……!」


 気がつけばこちらを覗いている目の怪異を思い出して少し顔を引き攣らせながら、晃之介は言い切った。

 幽霊妖怪の類にそこまで恐ろしがらぬ男だが、意味不明のものに対しては何せ意味がわからぬのでげんなりとした気分になるのである。物言わず見ているだけの目より、悪夢となって語りかけてくる怨霊の方が道理がわかる。

 お八が九郎の袖を引っ張りながら、

 

「せっかく新しい道場になったんだから行ってみようぜ九郎」

「そうだのう」

「私も行こうかね。言っては何だが、暇だからね!」

「……とりあえず、俺が食い終わるのを待ってくれ」


 そうして、晃之介の新築道場に三人見物に行くことになったのである。





 *****




 目白、神田川近くに録山晃之介の六天流道場はある。

 建ててそうそう去年には厠は破壊されて逆流するわ、道場主の奥義に耐え切れずに柱が折れて倒壊するわと酷い目にあった道場であるが、さすがに建て直しただけあって真新しく、頼もしく見えた。

 がらんとした板張りの道場には申し訳程度に残骸から発掘された撓や木剣が隅に並べられている。

 

「懐かしの……というわけではないが、やはり我が家のほうがしっくりするな」

「中々立派に仕上がったのう。金は足りたのか?」

「ああ、なんとかな。また文無しの道場主に出戻りだが」


 笑いながら彼は正面の壁に向かって行き、用意していた木札を壁に和釘に打ち付けた。

 [録山晃之介]という道場主の名が書かれた名札である。


「ほら、お八も自分のは張っておけ」

「おっありがとう師匠!」


 そう言って、お八の名が書かれた札も投げて渡してきたので、彼女も木槌で自らの名が書かれたそれを左側に貼る。

 唯一の弟子であるのでさながら師範代の位置のようだったから、少しお八も気分が良い。

 更にその左側に晃之介が別の札をつけた。

 それには[雨次]と名が書かれている。


「……あいつ入門したっけか?」

「予め貼っていたら次来た時に強引に入れられそうだろ」

「さすが師匠、知恵があるぜ」

「……」


 師弟のやりとりに九郎は複雑そうな顔になる。

 雨次自身も、そう満更ではなさそうな感じではあったので通わせても良いかもしれないが。妙にトラブル体質がある気がするので、体は鍛えておいて損はないだろうと既視感を覚えつつも九郎は思う。

 度胸と腕っ節があれば何でもできる、とまで言わないが解決できる問題が多くなる。

 

(また今度連れて来るか……)


 と、場所も変わったので一応は知らせる名目でそう考えた。

 

「おーい、剣術やっとうの先生やーい。戻ってきたのですかい」


 入り口から伸びた声がした。

 振り向くと、手ぬぐいを頭に被った農作業着の中年が葱の入った笊を持って立っている。

 道場の近くに住む農民の、右吉と云う男であった。


「どうした? 入門か?」

「そりゃしてる時間がねえですが……あ、これ新築祝いとしちゃ悪ぃけど葱でさ。根深汁にでもしてけろ」

「ありがたく貰っておこう」


 そう言って、晃之介は葱を受け取る。 

 汁や煮物には何でも使えるし、葱を飯に炊きこんで食うと何とも言えぬ滋味があって役に立つ野菜である。

 右吉はやや困り顔で頭を掻きながら、


「ところで先生にお願いがあるんでさ」

「なんだ?」

「実は……」


 そう言って話しだした。恐らくその頼み事をしに野菜持参でやってきたのだろう。

 その間に、九郎はここに来る前に買ってきていた米を勝手場に運ぶ。お八も井戸から水瓶に水を汲みに行き、石燕も茶や酒などを並べるなど引っ越しの作業を手伝い行っていた。

 とりあえず右吉を道場に上げて座らせ、晃之介は話を聞く。


「近頃、先生が居なくなってからだったんですが、変わった猪が出て畑を荒らすんでさ」

「そうか。退治するのはやぶさかではないが、変わった、とはどのようにだ?」


 請け負う態度をしつつ疑問を投げかける晃之介。

 以前よりここに住んでいた時は、鳥や鹿などの獣を捕っては捌き、肉をわけるなども行っていたのである。

 あまり獣肉を食わぬ地元の者からすれば、


「越して来た剣術の先生は、ああいう物を食ってるから体つきから違うわな」


 と、偉丈夫で弓槍を振るっている晃之介を見て感心していたという。

 ひとまず、二人に茶を出そうとも湯水の用意ができていなかったので、石燕が柄樽で持ち込んだ酒を茶碗に入れて持ってきた。

 珍しい猪、という話にも興味がある。


「おや、此方は先生の……うーむ、姉さんと言った感じですかい?」

「そこで嫁という発想が他人から見ても出ない辺りが石燕殿の人徳だな」

「ふふふ、晃之介君が房か子興の旦那にでもなったら姉的存在にはなるがね」


 お互いに良い歳をしているが、まったく特殊な関係に見えない友人同士であった。晃之介も、巨乳はともかく女とは最低限精神はまともな相手が良いと思っている。恐らくはそれを江戸で望むことがどれだけ困難かも知らずに。

 軽口を言いつつ、晴天の下で野良仕事をしていて汗を掻いた右吉は冷たい上酒を、ぐいと水のように飲んだ。

 旨い酒だ。濃い飲み口ではなく、すっと飲み込めてじんわりと浸透する。右吉は驚きつつも口元を手の甲で拭って話しだした。


「それが、見た目は大猪なんですが、背中に棘が何本も生えてるんでさ」

「棘?」

「へえ、それこそ矢でも刺さってるみたいに……」


 猪の中には毛が伸びたものも居るが、それが泥や木の汁などで固まっているのだろうか。

 どうも想像がつかずに晃之介は顎に手を当てて考えた。

 九郎とお八もやってきて晃之介に話を聞く。


「毛の尖った猪……のう?」

「うーんよくわかんねえぜ」


 一方で石燕は思案顔だったのだが、ぽんと手を打って答える。


「そうか、それは豪猪と云う生き物だよ」

豪猪ごうちょ?」


 聞きなれぬ名前に九郎が問い返した。


「別名は山嵐とも言うね。背中に針鬣を持つ猪だよ。大陸の深山にしか居ないはずだが……本草綱目には針を飛ばして矢のように人を射る、とある」

「山嵐って針を発射するようなふぁんたじぃ生物だったかのう?」

 

 九郎が大きく首を傾げた。名前ぐらいは聞いたことがある、針鼠のような生き物だったとは思うが実際に見たことはなかった。

 石燕はさらさらと絵を描いて見せる。

 てっきり、豪猪の絵かと思ったのだが、何やら頭に大量の棘がある半裸の中年めいた妖怪の絵である。


「ちなみにこれはそれを元に私が考えた妖怪[山颪]だ」

「棘しか要素残ってなくないか?」

「ちゃんと後世に残す予定なのでせいぜい解釈に困るが良いと思うね」


 何故かオリジナル妖怪を堂々と発表する石燕であった。

 彼女の描いた妖怪画には、巷説や伝承を元に形作った創作妖怪も多くある。山颪のように分かりやすいモチーフと解説が乗っているならまだしも、それすら無いのも多くあり研究家を悩ませる。

 意地の悪い笑みをしている彼女はともかく、


「ふむ、針を飛ばすのであれば此方も弓矢で仕留めるか」


 と、真面目くさって晃之介は狩りの手段を選択していた。

 なお、豪猪が針を飛ばすというのは本当に書かれていたことだが、実際はもちろんそんなことは無く出任せの記述であった。これもつまり、蝶鮫が滝を登り龍になると同じような俗説なのである。

 彼は道具箱から弓と短刀を取り出して弦の具合を整え出した。


「引っ越して早速だが、少し見て回ってこよう。九郎も来るか?」

「うむ、そうだのう。針を飛ばすのなら見てみたい気もする」

「ふふふ、できれば私も行きたいのだが──野山を駆け回れる気はしないね! 今日はすでに飲酒しているから!」

「あー、それじゃあたしが……」


 控えめに手を上げるお八であったが、晃之介はまだ彼女が猪を狩るには早いと首を横に振った。


「お八は荷物の片付けと道場を整えておくこと」

「はあ、仕方ねえか。それじゃ豪猪とやらの肉を期待してるぜ」

「和漢三才圖會によると、肉には毒があるらしいが……まあ食べてみるのもいいかもね」

「外敵には針を飛ばして食われるのは毒で防いでって、どれだけ繊細な生き物なんだぜ……」


 がっかりしながら項垂れるお八であった。

 ともあれ、九郎と晃之介が猪狩りに出かけている間に、女二人は残って飯でも炊きながら待っていることになったのである。




 *****




 晃之介の狩人としての勘と経験、知識の量は九郎と比べるべくもなく、桁違いに高度であったために追いかける事に関してはまったく持って彼の能力頼りであった。

 豪猪に荒らされた田畑を見て、足あとを確認して周囲の野山を見回したかと思ったら巣鴨方面へさっさと歩き出した。

 宿場町を離れて歩けば弓を持っていたとしても咎められるものではない。そもそも、弓を背負っている晃之介は正面や横から見ても持っているようには決して見えぬように装備していた。この状態から構えて速射するまで、一秒と掛からぬのだから不意打ちを受ける相手は堪らぬだろう。

 竹林になっている大藪に当然のように晃之介は足を踏み入れ、入って二十歩と歩かぬところで屈んでシダをどけて地面を九郎に見せた。


「見つけた。新しい足跡だ」

「どうやって一発で見つけたのかさっぱりわからぬ……」

「体重は四十貫を超える大物で雄だな」

「足跡から何故そこまで……」


 まるで名探偵だと言わんばかりの断定に九郎は不思議がるばかりである。

 これは、生活の為でも駆除の為でも無く、狩りを[修行]の為に習得した晃之介の能力と言えよう。経験や感覚としてと云うよりも、当然として彼は野山で獣を追跡できる確信があった。

 しかし百五十キログラムを超える猪となると、かなりの巨体だ。これも足跡と噛み跡から判断したものだが、


「柳河藩の者に聞いた話だと、上様は身の高さが八尺ほどもある大猪を銃で殴り倒して捕まえたらしいぞ」

「……身の高さ? 体の全長ではなくて?」

「ああ、見上げるような大猪だったとか」

「もうそれこそ妖怪か何かだろ……巨大過ぎる……」


 将軍吉宗の凄まじい逸話を聞いて戦慄する九郎であった。

 無論、この時捕まえた猪というのが普通の四足歩行ではなく、二足歩行のオークだった為に身の高さが途轍もないことになっているのであるが、知る由もない。

 とりあえず猪の痕跡を見つけた二人は更に竹藪の奥へと入っていった。

 陽の光を好む猪はあまり密集していないところを住み家にしやすく、また地面が枯れ笹で覆われている為に猪の寝た跡は見つけやすい。

 ひとまず九郎は晃之介に任せてついていくのみであった。

 風向きなども気をつけながら晃之介が進み、半刻も立たぬうちに、


「見つけた」

「ううむ……」


 ことになったので、もはや九郎は舌を巻きすぎて上手く褒め言葉も出なかった。

 さて。

 その豪猪と云うけだものは、見れば瞭然なのだが山嵐では無かった。そもそも、山嵐は鼠の仲間であり猪よりも遥かに小さい。四十貫などという体重にはならない。そして日本の野山にはおらず、生息地は中国であるのだ。

 問題となった豪猪は、ただの大猪であった。

 ただし背中にある棘は──無数の矢が、刺さったままにしてあるのが棘のように突き出しているのだ。

 猪狩りで武士に撃たれたのだろう。銃痕も幾つか遠目に古傷となって見える。すでに矢の跡も、肉が盛り上がって抜けるも刺さるもしないまま固まっているのであった。

 顔はいかにも気性が荒そうな、目を尖らせた顔立ちをしていた。体中のむず痒さと痛みに苛立っているのだろう。

 鼻先を九郎と晃之介に向けて、じっと止まっている。


「こっちにも気づいているな……」

「鼻が良さそうだからのう」

「弓の威力も知っている様子だ。ここからなら打ってもそう当たらないし、威力も落ちるだろうと考えているのかもしれん。あの猪は逃げるか襲ってくるか、それが問題だ」


 そう晃之介は判断する。野山で、互いの間に無数の竹が生えていて、それでいつ動き回るともしれない猪を狙って打つのは武士とて難しい。

 

(せめて半弓ではなく、長弓を持ってきていれば威力は充分だったのだが)


 晃之介は思いつつも矢を取り出した。


「やるのか」

「ああ。いいか九郎。いくら相手が矢弾の怖さを知っているつもりになっているからと言って、見てみろ。何発も当たっているだろう。自惚れしているだけだ。本当に賢い獣はそもそも当たらん」

「ま、そうだろうが……」


 いかにも歴戦に見える猪相手に、身も蓋もない評価であった。昔に傭兵をやっていた時、全身まさにあの猪のようにハリネズミに撃たれまくったことのある九郎は苦々しい記憶が思い浮かぶ。後衛のスフィを守るために矢の雨から頭だけ庇って体で受け止めたのだが、死ななかったのは単に運が良かっただけだろう。

 しかし向こうが此方を見ている以上、狙いをつけるという動作は人間が思う以上に獣を警戒させる。既に撃たれたことのある身なら尚更だ。

 故に晃之介は構えなかった。

 後手に弓へ矢を番え、体の前に出した瞬間に撃ち放つ。

 弓も見せぬ状態から僅か2アクションの速射であった。

 二枚羽の矢が空気を滑るように、音も立てずに猪に吸い込まれていく。

 鉄の鏃がぷ、と毛皮を突き破る小さな音を立てて、猪の額に刺さり頭蓋骨を貫き、脳髄へするりと食い込んだ。

 冗談のような早打ちから、当然の如く頭を狙撃成功する晃之介である。


(……生まれる時代を間違っておるぐらいの腕前だのう)


 と、彼の凄腕に対して思う九郎であった。


「──むっ」


 手応えを感じたはずの晃之介が声を上げると、猪は嘶いて額に矢を刺したまま逃げ去って行った。

 追いかけようにも距離があり、猪の姿はすぐに見えなくなる。

 

「頭を打ったのに動けるとはのう」

「そうだな……だが頭というのは致命傷を与えられる箇所でもあるが、どれだけ毀せば良いかというのはかなり曖昧でな。半分頭が潰れているのに四半刻はしゃべり続ける者も入れば、転んで頭を打ち、傷は見えないのに死んでしまう者もいるぐらいだ」

「当たりどころが良すぎたか」

「或いはもう痛みなどに慣れているのかもしれないな。少々厄介だ。槍を持ってくれば良かったが……」


 晃之介が頭に巻いた手ぬぐいから小刀より短い小柄を取り出しながら手頃な岩に座った。


「あるものでどうにかするのもまた修行だな。矢を少々改めてから挑むとしよう」

「それなら己れは一応、あの猪の後を追ってみるとするか。案外頭を打たれて暫くすれば死んでおるかもしれぬし」


 そう言って、九郎は一旦晃之介と別れて猪が逃げた方向へ駆けていった。

 腰に佩いたままでは動きにくいので鞘ごとAMC-Ⅲを外して片手に杖のように持って竹林を身軽にかける。この刀は鞘と柄をそれぞれ握って抜かねば鞘から出せない魔法が付与されているので、片手で振り回す分には鞘から外れることはない。

 猪も身の危険を感じて慌て逃げたのだろう、ある程度の痕跡は素人の九郎にも見て取れた。

 怪我を負わされて襲い掛かってくるのではなく即座に逃走を選ぶのは、臆病だからか野生として当然だからか、晃之介の実力を見ぬいたからか。

 激昂して向かってきたのならば二の矢が再度突き刺さり、或いは接近した所で九郎が太刀で打ち払っていただろうから判断としては正しい。

 綺麗に突き刺さった矢傷からは血もあまり垂れていないのか血痕は無い。

 矢を打たれた場所から半里も離れていないところで猪の姿を発見した。

 鼻息から色がついてそうな荒い呼吸をしている猪は、額から垂らした血が両目に垂れてより凶相を深めている。

 元来動物は持久力というものが多くない。一キロもニキロも走り続けられる──それも逃げる速度で──ものは稀である。人間は野生動物に比べれは足が遅いと言われるが、走り続けられる距離ということに関してはそれなりに優れたものを持っていた。

 ともあれ、匂いですぐに気づいたのかすぐさま九郎の方向とは逆の、深々と茂った笹藪に入っていこうとしている。

 

「魔女の猟銃は壊れてしまったが……」


 術符フォルダから遠距離攻撃が可能な魔法の符を取り出して指先でつまみ、効果を発現させる。


「[電撃符]!」


 薄紫色の符に刻まれた青い魔術文字が発光して雷という現象を発生させる。

 轟音と共に横方向へ殆ど瞬間的に空間を貫く雷の矢は──水分をたっぷりと含んだ太い竹の幹、数本に当たって地面に吸収されて消滅した。

 

「……使う度にこれの使えなさを確認しておる気がする」

 

 ひょっとしてこれは近接使用以外使えないのではないかと思いながらも、激しい雷鳴によって周囲から鳥などが飛び去る音が聞こえて、より猪を警戒させた結果になったことからは目を逸らした。

 密集した笹薮は切り開いても入っていけぬと九郎はすごすごと晃之介のところに戻ると、彼も矢の加工を終えて此方に向かってきていた所だった。


「何かすごい雷鳴がしたが……」

「青天の霹靂というやつだろうな。竹に落ちたようだ」

「そうか……」


 しれっと誤魔化す九郎である。

 

「ではまた追いかけるか。少なくとも此の近辺からは出てないだろう」

「そうか? 二度も追い立てられて雷まで鳴ったのだが……」

「手負いだからな、よそに出るというのはかなり危険だと獣も理解しているし、雷が鳴れば広い場所からは遠ざかる性質もある。体力とて無限ではない。縄張りの寝床にでも帰っている筈だ」

「かなり下草が密生しているところに逃げ込んでいったけれど見つけられるか?」

「ま、見ていろ」


 そう言って再び晃之介を前に、二人は竹林を進んでいく。

 時折しゃがんで足跡以外を確認しているようで、九郎から見てはよくわからぬ方向に進みつつも彼の目に迷いは無かった。

 

「……恐らくこっちだな」

「印があるのか?」

「見てみろ。山蛭が出てきているだろう。猪の荒い呼吸と血の匂いに誘われて葉の裏や木の幹から落ちてきたんだな。九郎も気をつけろよ、背中に入り込まれると気づかないぞ」

「この格好だと防御性が低いのう」


 着流しに草鞋のまま山歩きをしている九郎は半ば諦めたように呟く。

 現代ならば煙草の煙を吹きかけたり灰を落としたりして皮膚から落とす方法が有名だが、酒を浴びせても結構落ちるものである。昔見たロードムービーで若者たちが沼に嵌まって服の内側が蛭だらけになった映像を思い出しながら、決して水たまりには入らぬと注意する。

 ともあれ呼気に含まれる二酸化炭素や動物の熱に反応する蛭の動きを見ながら晃之介は更に足を進めた。


「猪は目が悪いが鼻は良い。風の流れでこっちの匂いに気付かれなければいいのだけどな……」

「む……なら待っておれ」


 そう言って九郎は術符フォルダから一枚取り出し、込められた魔力を発動させる。


「[起風符]……よし、向かい風を作ったぞ」

「相変わらず便利な術だな、お前のそれは」

「はっはっは。雷の奴にも聞かせてやりたいのう」


 言いながら、匂いを消して往く。

 やがて言葉数も少なくなり、呼吸音すら互いに僅かになった。

 晃之介は獣臭を嗅ぎ分けて獲物を追い詰める。

 獣の気配を読めなければ己が餌になるという環境で少年の頃から過ごしてきた。感覚を研ぎ澄ませればこの世に察せない存在は無い。何かが在るのならば、必ずこちらに勘付かせる要素は現れる。

 

(故に、追いかけたならば追いつくのは当然だ)

 

 そう晃之介が念じた通りに──やがて再び猪の姿が二人の前に現れるのと、その額に穿った傷跡に新たな矢が打ち込まれるのはほぼ同時であった。

 

「一瞬……だな」


 力を込めるとか相手の様子を観察するとか、そのような余計な行動を取らずに晃之介の一矢は正確に猪の、額に刺さりっぱなしの矢とまったく同じ場所に突き刺さっている。

 今度は猪は霍乱を起こしたかと思うと、即座に倒れてしまった。

 

「特別な矢を使ったのか?」


 尋ねると晃之介は頷き、


「ああ。鏃を石と鉄をくっつけた物に変えたんだ。鉄の貫通力で皮や肉を貫き、中身の抵抗で石が砕けて内側で飛び散る。頭に当てれば脳味噌に無数の破片が飛び散り広範囲に破壊する。六天流弓術必殺技だな」

「必ず、殺す、技であるなあ」


 技というよりも鏃を作る技術と当てる技量が組み合わさって出来る能力なのであろうが、効果は高いようだ。普通ならば頭に矢が当たればそれだけで死ぬが。

 これは頭のみならず、手足に当てても飛び散った鏃によって治療が難しくストッピング能力の高い弾頭になっているのである。また、野鍛冶で簡単に作れる利便性もある。

 ともあれ二人は倒れた猪に近づき、既に息のないそれを見下ろす。


「……随分と、傷の多い猪だな」

「この大きさでよく目撃されて仕留められてなかったのならばどこかの山の主だったのかもしれない。せめて供養に食ってやろう──九郎、確か火も出せたよな」

「うむ」


 と、二人で百戦錬磨の猪をてきぱきと解体していくのであった。

 



 *****




 日が沈む前に九郎と晃之介の二人は、皮を剥いで血抜きし、内臓を取った肉を持って道場に戻ってきた。

 一部の古傷となっていた部分の肉や保存の効かない内臓、穴が空いて加工も面倒な毛皮は山に埋めた。穴を掘るにしても、九郎の硬い土を砂状にする術符が役立ち晃之介は感心したという。

 それにしても、百キログラムを超える肉が手に入ったのである。

 道場ではお八と石燕どころか、子興にお房までやって来ていた。一旦、町に戻って食材などを購入してきた時についでに連れてきたらしい。

 夜のむじな亭はタマと六科で充分だろうとお房も食い気が勝って来たのである。体こそ小さいが、食欲は中々のものがある娘である。

 既に火鉢と鍋が用意されている。牡丹鍋が回ると思って準備していたようだが、


「猪の肉は二、三日しないと硬くて食えないぞ」


 と、晃之介から言われて徳利を持った石燕とどんぶり飯を持ったお八はがっかりしていた。

 苦笑しながらも、


「はらわたなら新鮮な方が食えるから、幾らか食いやすいものを下処理して持ってきた。それを味噌の鍋にしよう」

「うむ、それはいいね。内臓は脂たっぷりだから酒も進むのだよ!」

「それで小生に一斗あるお酒を持ってこさせないでくださいよ師匠ぉ……」

 

 酒やら米やら運ばされた子興は草臥れたように道場の床に突っ伏している。


「ほらほら、子興は肉と野菜を切って準備をしたまえ。九郎君と晃之介君は血生臭いから外で水でも浴びたらどうかね」

「いや、けだものの臓物を女人に捌かせるわけにもいかないから俺が」


 晃之介が断る。

 此の時代、今よりもずっと食肉の習慣は少なく、更に獣の内臓となれば薬のようなものでありあまり一般の者が取り扱う部位ではないのだ。

 魚や鳥ならまだしもそんな穢れたものを女に触れさせるのは、どうも気後れする。

 子興は笑いながら両手を広げて、


「全然大丈夫だよー、ほら、穢らわしいなんて言ってもこちとら穢れ十割な妖怪絵師鳥山石燕先生のお世話してるんだから」

「ふふふ、子興。そんなに穢れが平気なら、後で九相図の宿題を出しておこうかね……!」

「うっ……さ、さあ早く料理作っちゃうから、九郎っちも晃之介さんも水浴びてきて!」


 誤魔化すように笑って内臓を受け取って二人をとりあえず、薄暗くなってきた外に出す子興であった。

 苦笑しながらも、


「あ、そうだ。ハチ子や、蚊帳を持ってきてくれ。肉を吊るすから」

「おーう」


 そう言ってとりあえず裏の小屋に正肉部位を持って行き、吊るして蝿がたからぬように蚊帳を被せた。

 薄暗いが風通しはよく、母屋の日陰になる位置に立っているので日中もあまり気温が上がらない小屋である。九郎は大きな瓶の水を[氷結符]で完全に凍らせて肉の側に置き、丁度良い室温を保てるように仕込んだ。


「ううむ、殆ど晃之介の手柄だったからのう。このぐらいはせぬと」


 解体の手際もやはり九郎は敵わぬのであった。彼とて野生動物を捕まえ捌いた経験はあるが、それももはや何十年前か。

 そして二人は井戸から汲んだ水を頭から浴びて血を取る。

 のだが……


「……ハチ子ー、酒か酢を持ってきてくれ。あと包帯」

「どうしたんだぜ?」

「蛭がな……」

「気づかないものだな、お互い」


 やはり、着物の内側に入り込んでいた黒い血吸虫がじゅるじゅるとくっつき、流血も赤々と出ているのであったという。

 蛭の唾液は傷口を固まらせない効果もあるので放っておけば血が止まらぬ。

 服が汚れぬように、あちこちに布を巻いて二人が戻ってきたら既に準備が出来ていた。

 濃い出汁と味噌に生姜を効かせた鍋と、薄切りにして山椒味噌を塗って火鉢で焼いた猪の肝臓である。

 農家から貰った葱と牛蒡もたっぷり入れた鍋は脂が浮き出ている程に味が濃いが、猪の新鮮な内臓の脂と云うものは臭みもなくコクを出して、旨い。


「あんまり脂っこいもの普段食べないんだけど、美味しいの」

「まったくだ。師匠んところに通うようになってすっかり悪食になってきたぜ」


 と、子供二人も、ひたひたに汁へ絡めた内臓の肉でばくばくと飯を食っている。

 大人連中は酒を水のように飲みながら、焼いた肝のほろりとしつつねっとりとして、焦げた味噌の香ばしいそれを肴に舌鼓を打っていた。


「肉ができたらむじな亭にも持っていかないとな。どうせ一人では食いきれないから」

「わあいありがとうなの晃之介さん。ただでものをくれる人って好きよ。だってただなのだもの」

「ああ、いいよな。ただって」

「妙な共感をしておる……」


 ちゃっかりした性格は似ているお房と晃之介であった。

 石燕が子興に酒を注がせながら、


「それにしても豪猪の正体は全身傷だらけ矢だらけの猪か。それだけ打たれても死なないとなるとまるで妖怪だね」

「時には野生の動物もすごい生命力を発揮するものだからな」

「二人共ほんの数刻で捌いて持ってくるのだから猟師になれるねー」

「蛭に吸われるのはごめんだがのう」


 九郎が傷口を包帯の上から掻きながら云う。

 にやにやと石燕は笑いながら指をさした。


「案外、山の主だった猪から呪いを受けたのではないかね?」

「縁起でもない」

「いやいや、鳥獣など自由に山を行き来するものはともかく、蚯蚓に蛞蝓、蛭など下等な生き物共は同じ山で住むしか無いもの共だから山の主と繋がっていると言われているのだよ。死後の呪いで生前に体の傷を受けた所と同じ箇所に、蛭を遣わし傷を……とね」

「とんだ嫌がらせだ……と、それが本当なら」


 九郎は身を乗り出して、隣に座っていた前髪を下ろしている晃之介に手を伸ばした。

 怪訝な顔をするが、彼の髪の毛をひょいと上げてやると……


「うわ、居たぞ晃之介。お主が二度も矢を当てた額に蛭が」

「……参ったな」


 さすがに、気色悪そうに顔を歪める晃之介である。 

 石燕が何故か喜色を浮かべて、


「よし! 蛭退治には煙草だ! 子興、煙草盆を!」

「はあ。いいんですかー?」


 一応持ってきていた彼女が煙草盆と煙管を石燕に渡した。

 銀と真鍮を使った高価な煙管に薩摩きざみの葉を入れて、火種を移して咥えてすっと吸い込む。

 最近行方不明気味な属性であるが、妖艶な雰囲気を持つ石燕には似合っている。

 のであったが。


「ごふぉごふぉげほっ! えほっ! むせた!」

「吸えないのかよ!」


 一斉にツッコミを入れられて、子興の方が恥ずかしそうに顔を抑えている。


「師匠、もともと病気で肺が弱かったのに格好良いからってだけで煙草なんて持って……」

「ううう……ともかく、子興。この焼けた葉を蛭に押し付けてやりたまえ。ころりと落ちる」

「はいはーい」


 そう言って、毛抜で煙管から燻る煙草を取り出して、晃之介に近寄る。

 煙草の熱とアルカリ性の灰による成分で蛭は牙を抜いて身を縮まらせるのである。下手に払い除ければ牙が残り、化膿したり腫れたりする。


(二枚目の顔に残しちゃ勿体無いよねー)


 と、思いながら子興はそれを近づけた。

 もちろん、額などにいれば当人からは見えないので他人にやってもらう必要がある。

 必然と正面から。

 晃之介の目の前に、子興の胸が近寄り彼は固まった。


「い、いや子興殿? それは九郎にでもやって貰うから」

「もう、動かないでくださいよっと」

「解せぬ……」


 頭を子興の手で抱えられて胸がより近づいた。 

 晃之介の男むさい人生で珍しい幸運助平状況である。

 数秒のことだったが、額から何か泥粒のようなものが転げ落ちると同時に束縛が解かれて彼は空白化していた気を取り戻してぎこちない動きで子興っぱいから離れた。


「取れましたーってあれなんで九郎っちに向かって倒れこんでるの」

「ぬっ、これ晃之介。無駄にデカイ体を倒してくるではない。そしてなんだその耐えている顔は」

「九郎。ちょっと不埒なことを考えた己れを殴ってくれ」

「ええい若者め。丁度良い」


 何故か暴力を求めてくる晃之介に、九郎は座ったままの姿勢で額を打ち合わせる頭突きを思いっきりかました。

 割りと遠慮のない威力である。ついでに、違うとは思うが魔女かどうか調べる意図もあった。

 強い衝撃が走り、蛭の取れた晃之介どころか、酒を飲んでいて血行が良くなっていた九郎の額も軽く切れて血が出た。

 何故か男二人が頭突きし合ったので、慌ててお八が立ち上がる。


「ちょ、何してんだ二人共!?」

「大丈夫だ」

「何も問題はない」

「大有りだぜ! ああもう、包帯そこも巻けよ!」


 謎の行動を取った男達にお八とお房が後ろに回ってぐるぐると流血している額に包帯を施した。

 きょとんとして子興が石燕の方を向き、


「……何か小生、悪いことしたでしょうかね?」

「ふふふ、いいや何も」 

  

 笑いながら答える石燕であった。

 男に縁がない嫁の貰い手が居ない江戸の行き遅れ画家二番手──石燕は後家なので実質一番手──と常日頃自虐している子興だったが、あまり自分の体つきや顔の美醜に関しては頓着が無い様子であった。

 動揺から真顔になっている晃之介を見て、意地悪げに嗤いつつ、


「……今どき、こう云う反応する男も珍しい……と思うのは知り合いが変な男ばかりだからなのかね」


 鉄面皮の絡繰人間や不老の枯れ果て少年、情欲春画師に人斬りや稚児趣味の同心、政権批判隠居老人などを思い浮かべて、少しため息をつく石燕であった。

 ともあれ、この日九郎が確かめたところでは晃之介とお房には魔女は入っていないということであった。


 後日持って来られた猪肉をどう店で出すか、また少し考えを巡らせながら楽しげに酒宴は続いたという。


 



 *****





 その晩。

 晃之介の夢枕に落ち武者風の威圧してくる男が、惨殺した猪の死骸を持って現れ、


『余計な呪いは払ってやる故、神社から出たとは云え努々約束を忘れぬように……』


 と、伝えてきたという。

 録山晃之介は呪いをものともしない。特に最近はなんというか、もっと厄介なのが取り憑いているからかもしれないが。



 








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