55話『仮説』
夢の中での九郎は老人の姿であったり、青年の体であったり、少年の形をしていたりとその時により様々だ。
過去を思い出すとその時に応じて変化するのだろうと九郎は考えている。
しかし朝起きて老人の時の夢はあまり覚えていない。老化していたからだろうか、忘れている事が多いのかもしれない。
ともあれその日──と言っても夢の中に日付があるのかは不明だが──九郎は久しぶりに魔王の固有次元、閉ざされた書庫に夢が繋がった。
「くふーんふんふん、くふーん貴方の職場にも一台ー♪」
ヨグは乱雑なリズムで歌いながらモンキーレンチを厳つい義手に持ち何らかの機械工作を行っているようだった。
基本的に読書やゲームなどを好むのであるが、もの造りや機械いじりも趣味にしている魔王である。彼女にかかれば大根をラジコンに改造したり掃除機をスーパーカーに作り変えたりすることなど朝飯前だ。
「何を作っておるのだ?」
魔王城に居た頃の格好をした九郎が話しかけると、彼女は立ち上がって振り返った。
「イモータルが居なくなってからそういえばコーヒー飲んでないなって思ってさ。バリスタマシーン作ってたんだよ」
「……己れの目が悪くなければ、お主の作っているそれは大型弩弓に見えるのだが」
「おかしいなあ? 間違えてバリスタそのものがいつの間にか出来上がってた」
あからさまに彼女が作っていたのは槍や石とかを射出する文明の利器であった。
それでどうやってコーヒーを作るというのか。
どこかそれでも満足気なヨグを見つつ、ふと九郎は言った。
「おや? 少し痩せたかお主」
「くっふふーん! いろいろ大変だったからそりゃ痩せるってさ」
「引き篭もりが云う大変ほど信用ならぬことは無いが」
「酷いなあ……くふふのふー」
何故か異様に邪悪な笑みを浮かべているヨグであるが、いつもの事なので九郎も気にしない。
適当に積まれて台になっている本の束に腰掛けながらバリスタにコーヒーフィルターを取り付けようとしているヨグを半眼で眺めた。どうやら一から作りなおすのではなく、改良でコーヒーを作れるようにする方向性に決まったようだ。
「そういえば己れも飲んでおらぬのう、コーヒー。イモ子の淹れたのは旨かった」
「あの子はコーヒー党だからね。メイドロボなのに。いいバリスタマシーン作ってもあの子の淹れたのには及ばないから困っちゃうよ」
残念そうに、ヨグは何を思ったかバリスタにパラジウムリアクターを接続しだした。それが本当に必要なパーツなのだろうか。
九郎は訝しみつつも尋ねる。
「イモ子を作ったのもお主だろう? コーヒーを作る機能も設定したのならば再現はできそうなものだが」
「いや、そこら辺は複雑でさ。学習型コンピューターで学ばせた実践データで上達した技術だから難しいんだよね。はあ、早く帰ってこないかなイモータル」
パラジウムリアクターにチャクラコンバーターをセットしながら物憂げに云う。妙なパワーに目覚めそうなコーヒーができそうであった。
この時点で九郎はこのコーヒーを飲むことは諦めた。
そもそも彼女は余計な機能をつけすぎる悪癖があるのだ。魔王城のトイレにだって男子便器に圧力と持続力を測定して画面で演出が起こるゲーム機を取り付けていて大層閉口したものだった。
開発したのは我じゃないあの会社が新しいハードを開発するために作ったと言い逃れしようとしたが、そんな妙なゲームをまともな会社が作るわけはないと一蹴したことがある。
「相当粉々度数が高い時空間爆発でいーちゃんと一緒に吹っ飛んだからねえ……一応原子レベルからでも自己修復できるように作ってたけどどれだけかかるやら」
「お主が作りなおしたりはせぬのか?」
「わかってないなあくーちゃんは。あの子は機械人形なのに心が宿ってたんだよ? 我からしても偶然出来上がった最高の魂持つ人形なんだ! そうそう同じのはできないよ」
「魂……?」
首を捻りながら九郎はどこか、呆然とした様子で繰り返した。
「……ペナルカンドでは人形に魂は宿らぬのではなかったか?」
「だから偶然だったんだって。感情回路を作ってた時に都合の良いのを引っ掛けてさ。それが徐々に成長していってたのに……魂まで消し飛んでたらどうしよう。いーちゃんの転生体の魂でも分割して代わりに補填しようかな」
「魂って割れるのか」
「くふふ、最近割ったりくっつけたりする術式を身につけたんだ」
妙に弾んだ声で言うヨグであった。
恐竜的進化を重ねてバリスタ本体が目立たなくなってきた事に彼女は気づいてすぐさま本体の大型化工事にもとりかかっている。もはや何が何だかわからない状態だが、ふと九郎は書庫にある瓶コーラの自販機を見つけた。
硬貨を入れなくても出てくるようになっているので押せば蓋が開き一本取り出せた。
「……おい、ちょっと魔王よ、これを借りるぞ?」
「うん? いいよー」
一応断ってから九郎は瓶を片手に意識を覚醒させようとする。
やがて周囲の実在を示す感覚は薄れて、あやふやな状態になり、やがて重力で押さえつけられる布団の柔らかみを感じて九郎は目を開けた。
緑のむじな亭二階の自室である。窓から見える空が明るんで来ているようだ。九郎は握っていた手を見るが──そこには何もなかった。
「やはり夢から物を持ち出せるわけは無い……よなあ?」
確認して呟きながら、壁に掛けている蒼白い衣を見遣り、頭を掻く。
*****
ある日の夕方──。
「それでは女子力向上会議、始めようではないか!」
「わー」
「凄いどうでもいいの」
「せめて負の値を正常に……」
神楽坂にある、不滅の霊魂が漂いまくっている江戸の霊地と自称する鳥山石燕の家でそれは開かれていた。
何らかの危機を覚えた石燕が招集したのは、それなりにやる気のお八とどうでも良さそうなお房、それに婚期を逃させたら中々のモノを持っている百川子興である。
勉強会ついでなので、既に子供二人はここに今晩はお泊り会をする予定であった。
「なあ石姉」
まず、お八が手を上げたのを石燕が指さして質問を聞く。
「[女子力]ってなんだぜ?」
「ふふふ、いいかねはっちゃん。──女子力とは輝いた生き方をしている女子が持つ力であり、自らの生き方や自らの綺麗さや扇子の良さを目立たせて自身の存在を示す力、男性からちやほやされる力──なのだよ!」
「わあ何処かに書いているのをまるっと読んだような説明なの」
「扇子がなぜ関係してるのかなあ?」
よく理解できていない子興。
というか、
「……凄くふわっとした掴み所の無い力なのね」
「まあ……そうだが」
輝いた生き方とか自らの綺麗さを目立たせるとか、基準がよくわからない。
リア充アピールともまた違うらしい。
だがしかし、と石燕は云う。
「女子力がどうとかはともかく、男性からちやほやされる能力というものは持っていて損しないと思わないかね?」
「されたいの? ちやほや」
「断固されたいね! なあはっちゃん! 子興!」
「あ、あたしはまあその……ちやほやっつーよりちゃんと対等に見て欲しいっていうかさ……」
口篭るお八に大して眼に爛々とした光を灯して子興は主張する。
「はい二枚目の男にちやほやされたいですぅ!」
「素直だね子興! ふふふさすが行き遅れている女は違う」
「師匠の所為ですよーう!」
近所や絵描き界隈では鬼門とされている触れられざる負の遺産的喪女の鳥山石燕と暮らしているだけあって、結婚できない血の盟約を交わしたと噂される子興も、二十を越えたというのに嫁の貰い手が居ない。
江戸では男性の人口比率のほうが多く、女性は多少欠点があっても嫁の行き先に不都合はないのが常であるが、巡り合わせが酷く悪いのだろう。
基本的に子興が日常で付き合いのある男というと、年寄りの天爵堂と九郎、同輩で馬鹿で生理的に不可能な麻呂ぐらいである。
だが石燕はきっぱりと云う。
「私が悪いのではない! 努力していなかったお前が悪いのだ! 女子力の足りないお前が悪いのだよ子興!」
「うぐうう!」
「しかしここで幸運の転機だ! 女三人寄れば文殊の知恵と言うがここには一人多い四人の女子が集っているではないか。これなら文殊とて楽勝だね!」
「石姉、モンジュってなんだ?」
「文殊菩薩……または文殊広法天尊という、崑崙にいる仙人とも言われているね。捕縛技術が優れていてナタ太子は捕らえるわ四聖の王魔は捕らえるわ印度から来た夜叉と同一の馬元は捕らえるわ霊獣の蚪首仙は捕まえて乗り物にするわとやたら強い。まああの話は仏関係の登場人物が優遇されているのだが」
「まじかよ……三人集まっても勝てる気がしねえぜ……」
「知恵で比べなさいよ。知恵で」
冷静にお房が云った。
「なあに、私達にかかれば女子力とやらを解き明かしてそれを溢れんばかりに身につけることなど他愛もない」
「そうだよな! 女子力とか余裕だぜ!」
「残念乙女なんて言わせませんよー!」
何はともあれ意気込む三人である。
少なからず残念な自覚はあったのだろう。普段の行動とか。言動とか。男に相手にされなさとか。
茶を飲みながらお房は干菓子を齧って溜め息を付くのであった。
「……多分こういう会議開いてる時点で女子力ってのは取り返しがつかない低さにあるの」
まあ恐らく、合っている分析なのだが。
*****
その日の九郎は気になることがあったので再び秩父山中まで出かけていった。
江戸から歩いてはそう気軽に行ける場所ではないのだが、隠形符で姿を隠して疫病風装で空を進む移動を行う九郎には別であった。
初夏の気持ちの良い晴れた空を、蒼白いローブを纏った者が飛んでいても地上からは気付かれまいと上空に上がってからは隠形符も解いて進んでいく。
上から見ても分かる、やや森が開けた場所にある遺跡のような石郡を目印に、近くの石灰岩が地表にも出ている地面に少し前に穴を掘ったのである。
その穴には蒼白い衣とセットで持っていた、あらゆる疫病の原因情報が鎌の形をした武器──というよりも黙示の舞台装置とも言える物を埋めようとした。
穴の外に置いていて自分の背が埋まるほどに縦穴を掘り進め、這い上がったらもうその場には無かったのである。
「ふむ……」
念の為にもう一度その場所の近くを見回す。
確かに鎌はあった。もう目を逸らして逃避するのはやめよう。不味い事になってからでは遅いのである。あの鎌から二三種の感染病が漏れて江戸を襲うだけで、犠牲者は万を超えるだろう。
九郎は注意深く周囲に──もし持ち去った誰かが居たのなら──足あとなどを探し、動物の死骸が落ちていないか、草木の枯れが見えないかも調べた。
「……! これはまさか……」
じっと穴の周囲を眺めていた九郎がそう呟いて、再び空に舞い上がった。
そして広がる森と聳える武甲山の眺めを見て、次はその山へ飛行していく。
山頂にある御嶽神社に降り立ち、九郎はそこからの景色を見つつ険しい顔をしていた。
しばらくするとまた移動して今度は秩父神社に降り立った。秩父の土地は神社仏閣が多く、また土地の者も信仰心が強いのでよく賑わっている。
主な祭神は八意思兼命で知恵を司る神格である。九郎は境内に入り、賽銭を入れてから外にも緋敷布をかけている椅子を出している店に入り、名物の秩父そばを頼んだ。
これは盛りそばで、やや色は薄いがしっかりとコシが効いて香りも良い。黒々とした汁に伏流水で栽培した山葵が溶かし込まれていてつんとした味が、
「うむ、うまいな……」
と、九郎も顔をほころばせた。
つまるところ──。
思兼に知恵を借りたという訳ではないが九郎の頭の中でブラスレイターゼンゼの行方がわかって来た。
あれは確かに九郎がこの世界に持ち込んで存在していたのだ。現実逃避は止めて認めよう。
もともとブラスレイターゼンゼは単なる魔王の召喚した十把一絡げの召喚物ではなく、あの世界にあった現物を怪しげな術式で九郎が使用可能に調整した装備であった。少しばかり時間差で九郎の元に再出現することは……まあ、実際あったのだからあり得るのだろう。
それに他人が持ち去ったというのも考えにくい。魔力で汚染された呪いが掛かっているのはこの世界の人間に影響無いが、病そのものの呪いが掛かっているので九郎のように疫病風装をつけるか病にかかっても徐々に治る魔法がかかっていなければ何らかの病気になるだろう。
なお、疫病風装は完全防菌防毒と周囲に対する除菌除毒で殆ど汚れない性質を持っているが、これもやはり一般人がつけていると体の表面に居る必要な菌やバクテリアもどんどん死んでいくので長時間の着用は体に悪い。九郎専用装備である。
つまり、持ち込んで消えたが盗まれたと考え難いのであれば──
(きっと、放置している間に自然に還ったのだろう)
落ち着いて考えれば当たり前だった。
この雄大な自然、溢れる緑と水に大いなる大地。
それに比べればなんとちっぽけなことだろうか。ありがとう自然主義。ありがとうガイア。誰にも害を及ばさぬように浄化されてしまったようだが人の語る黙示などその程度だ。秩父山中に何かを埋める人の気持ちがわかった。
九郎は蕎麦に舌鼓を打ちながらそう結論づけて観光し帰っていくのであった。
無論、そんなわけはなくブラスレイターゼンゼは後々彼の前にまたその姿を現すことに為るのだが……少なくとも当面の悩みが無くなったのである。
*****
「とりあえず女子力の為にお菓子を作って見たのだがね。ほら、落雁だよ」
石燕が重箱に詰めた干菓子を三人の前で蓋を開けて見せると、感嘆の声が上がった。
それは上品な薄桃色や淡黄色に染められ、石燕手製の型で丁寧に形作られた菓子細工とも言えるものである。重箱の下に土台となる、障子を模した大きな二重皿のように薄く焼いた物を置いてその上に小さな楕円形に並べられている落雁は──瞼から覗く瞳の形をしていた。
障子に大量発生する眼の妖怪、[目目連]を菓子で表現していた。
感嘆の声も、
「うわあ……うっわぁ……」
と、最初は感心した様子だったのにすぐに引かれた。
しかし石燕は腰に手を当ててふんぞり返りながら、効果音のようなものまで口にしつつ自慢する。
「邪気ぃん! 鳥山石燕の女子力が上がった!」
「開き直る強さが一上昇したの」
「内臓の強さが八減少したぜ」
「婚期が一年伸び──いったぁ!? 師匠蓋で叩かないでくださいよ、しかもカドで!」
弟子の迂闊な一言に容赦無い制裁が加えられたものの、とりあえずやけにリアルに作ってある目目落雁を食べる子供二人。
「あ、おいし」
「本当だ。うちの店の茶菓子で出すやつより旨いぜ」
「ふふふ、そうだろうそうだろう。お菓子作りは得意なのだよ。もともと川越に居た時に爺様に教わったからね」
「そういえば師匠、菓子職人のところでしたっけ」
「教わったら即座に習得してしまうので、私の腕前を恐れた爺様からあるときから調理場を見ることも許されなくなったがね」
「一子相伝の技術じゃないんだから……」
と、お房はパキ、サクっとした食感に清涼感があり程よく舌に染み入る甘みを口に感じながら云う。
「でも九郎って甘いものは嫌いじゃないけどそんなに沢山は食べないわよ。ケットウチとかなんかそういうのが気になるとかで」
「決闘地? なんか知らんが……なんで気になるんだぜ?」
「さあ」
「甘いものが苦手な相手にでも食べられるようにするのが策士というものだよ。諸君、このお茶を飲んでくれたまえ」
石燕は予め用意していた茶を三人の前に出した。香りが変わっているが、見た目は普通の茶である。
「苦い茶を飲まして甘いものをってことか? ってうえ……苦っ」
「予想してたのとは違う苦味の方向なの……」
「あうあうあー」
「こら、ちゃんと舌で味わって飲み込みたまえ子興」
それぞれ顔を顰めながら、出されて渋苦い茶を飲む。普通に使われる茶の葉で淹れられたものではなく、何らかの別の葉っぱを茶にしたようであるが、人を選ぶ味であった。
「さあそして落雁で口直しをしてみるのだ」
言われるまでもなく、甘い物を欲して手で落雁を取って口に放り込む。
上品な和三盆糖の甘みで口を癒やし──
「……? あれ。甘くない」
「本当だ。全然甘みが感じないぜ」
「そう! この茶葉は棗の葉を使っているのだよ。これを口にするとしばらく甘みが感じないのでいくらでも食べられる!」
棗はその実を食用として、棗茶も干した実で作るのだが石燕の出したものは敢えて葉を使っている。
葉にはジジフィンと呼ばれる特有の成分を多く含み、これが味蕾の甘みを受容する部分に干渉することにより食後には甘さを感じにくくなるのである。
逆に甘み以外には干渉しないので、茶の味を引き立てるものとして葉を噛んでから飲んでいた茶人も居るほどであった。
お房がジト目で得意げな石燕を見ながら云う。
「……それで、甘くもなんとも無いお菓子を食べて何が美味しいの?」
「……さて、次の女子力を検討しようかね」
石燕は目を逸らして話題を終わらせようとした。
*****
秩父から江戸に戻った九郎は、濃く淹れた麦湯が名物の茶屋に行って真っ黒で熱いそれを啜っていた。
麦の若干焦げた匂いと口良い苦味が感じられて、どことなくコーヒーを彷彿とさせる。
夢でコーヒーを意識したのだがあいにくと江戸ではコーヒーは出回っていない。鎖国をしていたこともあるが、これよりやや時代が下り蜀山人が記した瓊浦又綴に、
「焦げくさくて味ふるに堪えず」
と、書いたことからまだ日本人の味覚には合わなかったこともあるだろう。本格的に流行しだすのは明治になってからである。
なので九郎も麦湯で我慢している。麦は世界大戦時に独逸軍が代用コーヒーに利用したり、現代でも麦茶にコーヒー粉を混ぜる飲み方もある通りに味の相性とでも云うべきものが合っている。
のんびりと夕方を過ごしていると笠を深く被った浪人が近づいて来た。
「よう九郎」
軽く笠を上げると、同心の中山影兵衛である。
怪我をしていたが近頃勤務に復帰したのであった。早速一人見廻りを行っているようで、飢えた霧の怪人の如く獲物を探し求めているのだ。
彼は九郎の麦湯が置かれていた盆に銭を入れて九郎の手を引っ張り起こした。
面倒そうに九郎が聞く。
「なんだ?」
「悪ぃんだけどちょいと尾行に付き合ってくれ。相手は二人組でよ、別れると面倒だ」
「……仕方ないのう」
「おっなんだ今日は素直だな。ははぁん手前も血に飢えていたか」
九郎は秩父で感じた森羅万象のように寛大な心でたまには進んで仕事を手伝うことにした。
大自然で分解消滅した疫病に比べれば火盗改の手先を一度や二度する程度、
「ま、たまにはな」
やってやるか、という気分になっていた。別に血に飢えていた訳ではない。
そうして影兵衛と尾行をすることになったのは、一見剣術師範風に髪を撫で付けて腰に立派な拵えの刀を差した男と、ずんぐりむっくりとした鳶職の格好をした男だった。
不自然にならない距離を保ちながら追いかけ、影兵衛が説明する。
「あっちの鳶っぽい奴は[狸の佐吉]って野郎で、押し込み盗賊一味の一人だ。俺の手下がやってる船頭が見つけて知らした。十人かそこらで荒っぽい仕事をする連中でな。片方の剣術使いは知らねえが、まあ用心棒かなんかだろ」
「ふむ。狸というよりも、猫背でひょこひょこ歩いているところなどは穴熊だな」
「似たようなもんだろ。で、奴らの盗賊宿を見つけてぶっ殺捕まえるのが俺らの仕事ってわけだ。なにせ十人以上は居るはずだから逃さねえようにな」
「そういう仕事は仲間呼んでやれよ……」
町奉行などはいかに死人を出さずに取り押さえるかを考え、刺又に突き棒、袖搦に梯子などを駆使して捕縛するというのに、影兵衛ときたら刀か小柄と切断特化で容易く挑む。
一応は現場で一人二人は生かして証言をさせ、殺した相手は盗賊だと正当性を主張するのだが度々にやり過ぎだと謹慎や叱りを受けている。
しかし影兵衛が過激なのは今更なので、九郎も盗賊に若干の同情をしつつも正すのは諦めている。
こう云う凶悪な取り締まりが無いと一般の町人が困るという程に、押し込み盗賊という連中は年を通して現れるのである。
「俺も九郎も怪我して職場の連中にだらしねえところ見せたから、さくっと活躍して行こうぜ」
「わかったわかった」
そも、九郎と影兵衛が怪我をしたのは互いの殺し合いが原因なのだが。
一応は──疑う者こそ居るものの──職務中に盗賊にやられたということにはなっているのであった。
あの[切り裂き]同心とその手先の腕利きを半殺しにした非実在盗賊に一部の関係者は震えたという。
ともあれ二人は適当に雑談をしながら容疑者というか犠牲者を追跡するのであった。
途中で前の二名が飯屋に入ったので、九郎と影兵衛もその店の通りを挟んで立っているうどん屋で腹ごしらえをしつつ入り口を見張った。
茹でたてのうどんを水で引き締め、上に葱をたっぷり載せて塩味のついた出汁をぶっかけた簡単なものだったが、良い天気の中歩きまわった喉にはつるりと入って旨い。
出された冷たい酒を、九郎が氷結符で徳利の表面に水滴が浮くほどに冷やしてきゅっとやれば、仕事中とは思えない程に影兵衛は上機嫌で飲んでいる。
「かあー! こりゃ夏場は九郎を連れて歩かねえとな!」
「好き好んで糞暑い中では手伝わんぞ。夜に飲みに来い、店まで」
「あんまり遅番してるとかみさんが怒るんだよなあ……所帯持ちは辛いぜ」
などと一刻程休憩も兼ねて店に居たら、目的の二人が店から出た。
すると二人別々の方向に歩いて行くので、
「……んー、じゃ、俺が剣士っぽいやつを追うから九郎は狸野郎を頼む」
「普通こっちが本命じゃないのか? 名の知れた盗人だろう」
「いやだってあっちの方が強そうじゃん? 他の浪人の手伝いとか用意するかもしれねえし……そっちで盗人宿見つけたらそうだな、俺の手先がやってる船宿に使いでも出してくれ」
「うむ」
そう言って、九郎と影兵衛は一旦別れた。
連絡用に使える手駒は居るのだが、捕物の時に連れて行こうという相手は居ないし、彼の恐怖支配によって火盗改の狗になっている手先達は殺害空間に巻き込まれることを恐れて積極的に行こうという者も居ないのである。
腕利きでもいつ笑いながら斬撃がついでの如く味方から襲ってくる場所に行きたがるものではない。
むしろ彼らとしては何度も同じ捕物現場に赴いている九郎を、
「死にたがりかよっぽどの弱味を握られているか」
と、畏怖しているのであった。
*****
「やっぱりこう、女子力っていうと嫁にした時に役に立つ能力だろ? つまり裁縫ぐらいはできないとな」
「うぬぬ……私だって、私だって」
「ああっ師匠の手が震えて針穴に糸が入れられない!」
「お酒の力に頼るのは可愛さじゃないのよ、先生」
この日は非常に珍しく、石燕は夜になっても酒を飲んでいない。
女子力に果たして酔っ払い要素は必要なのかという疑問を子供達に向けられたため、一晩ぐらいは断酒ということになったのだ。
口の中が物足りず、少しだけ痺れるような寂しさ代わりに茶を飲み過ぎて近い厠に調子を崩しつつも、石燕は裁縫能力に欠けている──飲めば出来るのだが──ことを弟子達の前で見せてしまった。
幸いまだ筆を持つ手が震えても斬新な妖怪画が発生するだけで被害は済むが、機械の如き正確さを求められる裁縫は体の芯から発生する振動機能によって阻害されているのである。
この一年でぐんぐんと針仕事が上手くなり、一枚布から着物を縫えるようになったお八は「ひひ」と悪戯っぽい笑いを石燕に向けながら、持ってきた着物を広げた。
「ほら、これ九郎から貰った着物の意匠を借りて、あたしなりに作ったやつだ。南蛮の下女とかの着物つってたかな?」
「へえ……前掛けもついててちょっと可愛いの」
「ちょっと着てみるか?」
と、袖などの長さなど全体的に小さい物と大きい物を作ったので、お房と石燕に渡して着替えさせて見た。
洋装という程ではなく、アレンジが入った和メイド着物という変わった作りになっているのだが、お房が着ているものは夏らしさを感じる浅葱色と、石燕は白い装飾模様の多い黒布で作られている。
作りの珍しさと派手ではないが趣きのある模様がある着物で、中々の腕前であるといえよう。
ソーイングは女子力の基本である。外れた男のボタンなどを軽くその場で縫い付けることができれば男も見直すであろう。この時代ボタンは無いが。
「ぐぬぬ……手さえ震えなければ……病んでさえ居なければ……」
「ま、石姉も人には得意不得意ってやつがあるから気にすんな。二人共その着物はあげるからよ」
「ありがと、お八姉ちゃん。仕事着にすれば目を引きそうね……タマの」
「似合うか似合わないかで言えば似合うだろうけどよ、あいつもそろそろ背が伸びるんだから無理に女装させんなよ」
「ところでお八ちゃん。小生には何も無いのかなー?」
にこにこしながら子興が物欲しげに言ってくるので、お八は店で余った切れ端──それも本来は使うのだが──と、縫い針を渡して云う。
「子興ちゃんは裁縫覚えた方がいいと思うぜ。いつも着てるの古着だろ」
「うっ……」
「せめて短衣でも縫えなけりゃ嫁には程遠い話だ」
切れ端を受け取って、正論に軽く涙ぐむ子興。
絵を書く技術と掃除に洗濯、料理まではなんとか習得しているものの縫い物はまだまだであるのであった。
夜になっても石燕の自宅は灯りを点けて姦しい女子会は続いていく。
*****
九郎が佐吉を追いかけて、それらしい場所に付いた時はもはや辺りも暗くなっていた。
大川の上流、堀切に近い場所だった。
狸の佐吉を追いかけてきたが、まだこの辺りは当時まさに狸が出そうな草ぼうぼうの土地である。
複数の人が居る気配のある大きめの荒れ屋敷である。
恐らくそこが盗賊宿なのであろう。
一応人数だけ確認してから通報に出るか、と九郎が隠形符を咥えて音を立てずに忍び寄ろうとした時である。
まだ夜もそう更けていないというのに、柿色の布で作られた頭まで体を包む装束を着た十人程が宿から出てきた。
(なに? もう仕事に行くのか……むう、影兵衛へ連絡が間に合わぬ)
小走りで何処かへ向かう連中を置いて知らせに行ってはみすみす見逃すことになるだろう。
恐らく賊は船を用意して川を下り盗みに行くはずだ。大金を盗む場合は、一度に運べる船を使うのが容易であるし全ての船舶を取り締まることはそうそうできないのである。
十人仲間がいるということはそれ相応の分け前を与えなければいけないことから、狙う店も大店になる。
九郎はひとまず隠形符で身を隠したまま賊の後を追った。
やはりと云うべきか、船で灯りも付けずに隅田川を下り進んでいく。
まだ舟遊びをする時期には早いために浅い時間でもそうそう他の船にぶつかることも無いようだ。
現代と違い、真っ暗な川の真ん中を進めば音も無く岸からは一切気づかれずに川を進んで行けるのである。
僅かな灯りだけですいすいと動かす船手──狸の佐吉はかなり慣れている様子であった。
ふと、櫂を握るまくった二の腕を掻くような仕草を見せた。
「それにしても、今晩は冷えますねお頭」
「川の上だからな……大事なときに苦沙弥なんてするんじゃねえぞ」
「へい」
応えて体を動かし、温まろうとする。手下も何人かは船に乗せた筵に包まって寒気を防いでいた。
一方で九郎──。
その船の後を、ひたひたと歩いて追いかけている。
川の水面上をである。
草履には氷結符を貼り付け、歩くことで踏み込んだ水を凍りつかせて足場を作り追跡しているのであった。
符は一枚しか無いので若干妙な歩き方になっているものの、盗賊を逃さずについていけている。
疫病風装を着て浮遊し追いかける手もあったが、あの蒼白い服は月夜に善く反射して目立つ。いかに可視光線を曲げて姿を隠す隠形符とはいえ、自らが発光するようでは見破られる危険が高いのである。
(あの服着て浮いて夜中進んでいたら確実に幽霊と思われるであろうなあ……足はあるけど)
追いかけながらも川を歩く自分の姿も、目に付けば大概だと思わなくもなかった。
余談だが幽霊として描かれる形で、[足のない幽霊]が描かれて流行りだしたのは丁度この頃からだと言われている。
九郎は追いかけながらも、どうやって盗賊を逃さずに捕らえるか考えていた。
(背後から一人ずつ気絶させて物陰に引きずり込んでいくか? ホラー映画風に……)
口を塞ぎ首を絞めれば数秒で一人ずつ落とせるだろうが、
(全員に成功するまでに気づかれるな……二三人ならともかく)
この静かな夜にあからさまに連れ去る音が聞こえてしまう。
(上手いことロープを張って一網打尽にするとか……いやさっぱりその状況が想像できんから無理だのう)
奇襲で一気に暴れて仕留めるのも考えたが、それでもやはり一人二人は逃げて行きそうだ。一度見失ったら夜では追跡は難しい。
下手に恨みを買うと後々面倒になる。捕まえるなら全員でなければ。
考えていると船は外濠の水路に入り更に奥へ進んでいく。
夜の街並みで更に川を歩いているということで今どの辺りにいるのか把握するのが難しく、きょろきょろと目印になりそうな橋を探しながら九郎は追いかけた。
やがて船は静かに岸について盗賊らは降り、周囲を警戒しながら移動を始めた。
(確かこの辺りは牛込か……む、そういえば神楽坂も近いな。今日はフサ子とハチ子も石燕の家に泊まっておるが……)
嫌な予感をしつつも九郎も付いて行く。ここまでくれば現行犯で全員とっ捕まえても良いかもしれないが、もし「私達は黒尽くめで夜の江戸を歩く会の会員です」とか言われたらどうしようかと悩みどころだ。
しかしやはりというべきか、盗賊の集団は石燕の屋敷の方角へ向かう。
見たらいけない系の噂が立っている呪いの家だが、元は金貸しをしていた男が遺産をたんまり残しているというし、家に居るのは基本的に女二人だけだ。知れば盗賊が狙い目だと思うのもおかしくはない。
もうすぐ辿り着いてしまう。九郎は一気に仕留める簡単な方法を取ることにした。下手に考えを巡らせるよりも単純である。
下手に分散などされては困る。九郎は石燕の屋敷よりも前で、盗賊達の前に回って姿を表した。
足を止める賊。目の前には少年が一人だ。警戒の眼差しはあるが、普通ならば目撃した相手を消そうとするだろう。
動き出す前に九郎は腰に佩いた刀を抜き放った。
「ちょっと良いか? これをどう思う」
月明かりの下で刀身全体が白く光って見えるその刃に、十人全員が目を向けた。
「凄く……凄いです」
「うむ。アカシック村雨キャリバーンⅢ発動」
刀身から放たれる閃光が目を焼くと同時に悪党どもの全身を不可視の衝撃で打ち付け、ふっ飛ばして気絶させた。
*****
「だからもしここに押し込み強盗が来たらどぎゃーっとあたしが投げ飛ばしてだな」
「いやいや、危機のところを屋根を突き破ってしゅばーっと九郎君が現れてだね」
「遅かったな九郎! あたし一人でやっつけるところだったぜ! って決め文句をだ」
「多数の方向から襲いかかる盗賊。手の離れた場所にいる子興を助けるために武器を投げつけて素手になった九郎君に、この安達ケ原の鬼婆が使っていた由緒正しい包丁を使いたまえと投げ渡す!」
喧々諤々とした話し合いというか、脳内展開を言い合うのを見ながらお房は寝転びつつ、
「……そんなに危ない目に会いたいのかしら」
「いざという時は九郎っちが救ってくれると信頼してるんだねー」
「でも駆けつけるなら見た目たくましい方がいい気がするの。お父さんとか。晃之介さんとか」
「晃之介さんは男前だよねー」
微妙に好みに差がある集団であった。
お房の場合は一年も居候していればもはや九郎は引き取った遠縁の親戚めいた関係で家族と思っているのであまり恋愛沙汰にはピンと来ないのであるが。一応たくましい男の方が好みであるのは無骨な父の影響だろうか。
九郎とて肉体年齢を五年成長させれば中々の体格になるのだが。
子興は単に面食いである。胡散臭い勢いで色気を持っている将翁は行き過ぎだが、顔が良ければだいたい良いという。
女子力なのか妄想展開を語り合う会なのかもはやわからなくなってきている場だった。
ふと、にわかに外が明るくなった。
火が燃えた色ではない。ぱっと輝き、障子に余韻を残して消えた。
最初に反応したのは石燕であった。
「隕石かね!?」
慌てて彼女は履物をつっかけて外に飛び出て空を見上げるが、異常は無い。
見回すと塀の上を危なげもなく歩いてくる影があった。
鞘に収まった太刀を肩に担いだ九郎である。
「おうい石燕。ちょいとそこで怪しからん悪党を懲らしめたから、縛るのに使える細長いあれをくれ」
「……なんというか危機になる前に終わっていたようだね。分かった。子興、細長くて頑丈なやつは何処に置いている?」
「はぁい、物を縛ったりするやつですね。持ってきます」
回りくどい符丁で言い合う三人に、お八とお房は目を見合わせながら、
「そこは[縄]でいいじゃん……」
「逆に気になる言い回しなの」
ともあれ、長い縄を受け取った九郎が倒れている盗賊らの後ろ手を結んで繋げて放り出した。
そうしていると何やら呼びかける声が血の匂いと共にやってきた。
「九郎ー! 殺ってるかー!? 俺も混ぜろー!」
返り血を浴びて、抜き身の刀を持った影兵衛であった。
もう見た目が完全有罪である。
子供達も引いた。
彼は全速力で九郎の元まで辿り着くと、見た目には無傷で倒れて縄で縛られた盗賊たちを見て、
「おいおいおいおい、なんで血ィ出てないのよ? 内臓だけ破壊とかしたのかよ?」
「いや普通に全員正面から気絶させただけだ」
人間はなんともない様子でこれを見ろと言われたらつい見てしまうものである。
黒服のエイリアンと折衝する男達が一般市民の記憶を消すペンライトで行っていたように、九郎の刀を見て硬直した盗賊は全て凄みの波動で吹き飛ばされた。
壁や地面に叩き付けられた軽い擦り傷はできるが、基本的にこの刀の吹き飛ばす効果は、見たものを[気圧す]という影響を強めて行っている為に気を飲まれれば確実に吹き飛ばされ意識を失うが深刻な怪我は負わないのである。
影兵衛は露骨に拗ねて、
「なんだ、つまんねェの」
と、そっぽ向いた。
「それでお主の方は?」
「ああ、あの浪人はあんまり関係ない奴だったわ。誘われたけど今回は不参加ってやつでよ」
「いやいや。めっちゃ血出されてるよなその様子だと」
「抵抗してくるもんでちょいと拷問して──いや、勝手に責めを行ったっつーと拙いな。ええと、己れの正当的な反撃で切られたそいつはペラペラと自発的に襲撃場所を喋ってくれたもんだから九郎の為に慌てて駆けつけたってわけだ」
「血が見たかっただけだろ……」
当然の事なので一々返事はしなかった。
影兵衛は女四人組に向き直って、
「さ、嬢ちゃん方は危ねえから家に帰りな。俺と九郎が後は処理すっから──っと、そうだ。こいつら起こすのに水龜を一杯くれ」
「ううう、重いから九郎っち持ってよ」
「ああわかった。さあハチ子もフサ子も石燕の家に戻るぞ。子供は寝ておれ」
二人の手を引いて共に家に向かう。
お房が眠いのか欠伸を一度して、九郎の顔を覗き込みながら言った。
「いつも怠け者の九郎が働くとなんか事件が起こるの」
「ううむ。己れ的には一年中怠けておきたいのだが」
「どうせ怠け続けても途中で飽きて遊びに行った先で巻き込まれるのよ」
「参るのう」
容易に想像がついたので九郎は自嘲気味に苦笑いを零した。
「しっかし、また九郎が先手を打って解決したな。去年も台風の時に師匠とやってたけど」
「お主に危ないことをさせるわけも行かぬよ」
「これでも鍛えてるんだぜ?」
「頼られなくなったら己れが寂しいからのう」
九郎は笑って、威勢のよい事を云うお八をたしなめた。
一方で子供に伸ばした両手からあぶれた石燕はさり気ない動きで存在を主張しつつ話しかける。
「ふふふしかし九郎君何か今晩は寒いね!」
「うむ? 氷結符はもう切って……石燕」
がくがくと手と顔が震えている石燕をげんなりと見る。
「……一度酒を抜くと決めたのなら最後まで飲むなよ」
「つらいね……!」
言いながらも皆を家に入れて、九郎は水甕を受け取り再び路上に戻った。
影兵衛の指示で寝ている盗賊に水をぶっかける。
「──ぷはっ!? な、これは……?」
目を覚まして辺りをきょろきょろと見回す盗賊の頭と思しき、眉を剃った男。目がぎょろりとして顔もえらが張りごつごつとしているのでなんとなく蟹を彷彿とさせる。
彼は眼前に立つ九郎と、わかりやすくする為に十手を手に持ちぶらぶらと揺らして見せている影兵衛を見て瞬時に状況を判断した。
そして下手糞な笑い顔を作って、
「ええと、旦那方、あっしらは[黒尽くめで夜江戸を歩く一派]という集団で怪しいですが悪いもんじゃ……」
「本当にその言い訳使われるんだ……」
「なあお前ら?」
「へ……へえ」
あからさまな嘘を述べるので呆れて九郎は呻く。
当然そんなことをすれば捕まるし怪しければ厳しい取り調べも受けるのだが、強盗の現行犯よりはマシと思ったのだろう。
影兵衛は大袈裟に肩を竦めた。
「成程なあ、合点承知の助だ! 九郎、こいつらは怪しいが盗賊じゃねえな。ああ、悪かったな手前ら」
「は、いえ」
「でもよ、一応取り調べは行うから連れて行くぜ。ああ、悲しい。手前らに悲しいお知らせだが、俺ァちょいと取り調べの拷問が下手糞でな、三人に一人はやりすぎて責め部屋で舌を噛むか傷が膿んで牢で死んじまうんだが、頑張って無実を証明するために心を鬼にしてやるからよ」
影兵衛の言葉に盗賊どもは絶句するが、彼は半笑いで続けて云う。
「まずは指の一番先から関節を逆に曲げて骨を少しずつへし折った後で、竹串を刺してまっすぐにするんだ。その後芯に竹串が入ったまま外から曲げてベキベキに折ってよ、指の内側で串がささくれて突き刺さる。これを取るには指を縦に切り開いて毛抜で丁寧に箚さくれを抜かねえといけないんだが、ま、指は二度と動かんわな。これを両手両足繰り返すから無実なら全員耐えてくれよ?
頭はともかく手下どもは素直に白状すれば島流しで済むかもしれねェが、拷問受けた後の遠島生活は辛ェだろォなあ……でも無実なんだからそんなことにはならないんだろ?」
滔々と責めの様子を語る影兵衛に、盗賊の頭以下は真っ青な顔立ちになって、口々に、
「すみません俺らは盗賊です」
「お頭はこいつです」
「頭に命じられただけで今回初めての参加で殺しはやってません」
「お、お前ぇら!?」
次々に白状していくのだった。
島流しではそれこそ刑期まで生き延びれるのは流された半数程度だと言われる程なのに、不具になっては絶望的だろう。
影兵衛は近くの番所から連れてきた番と共に縛られた一団を連れて火盗改にしょっぴいて行く。
「九郎も行かねえの?」
「己れは別に良い、お主の手柄だろう」
面倒でもあったので九郎はここで別れることにした。
もとより、同心以下の手先、密偵などの手柄は上司である同心の手柄として扱われる。九郎もそう役人に褒められる為にやっているわけでもないのでどうでも良かった。
「ちぇっ。ま、いいか。金一封出たらまた博打にでも行こうぜ」
「おう」
そう言って九郎は別れ、一仕事終えたというよりもいつもの日常と変わらぬとばかりに背伸びをしてまたふらふらと歩き出した。
「さて、煮売屋に飲みにでも行くか」
*****
盗賊らが狙っていたのは鳥山石燕の家ではなく、その近所にある薬種問屋の方であったらしい。
薬というものは高ければほんの小匙で一両は値段がするものもあり、卸先を選べばとても儲かる。
中には薬種問屋と金貸しを兼業しているところも少なくない為に、その店の金蔵には小判が唸っているのだと聞かされたのはその数日後であった。
九郎が鳥山石燕の家を訪ねた時にであった。
「それでその主人が将翁の知り合いでね。礼に珍しい物をと、くれたものがあるのだよ」
と、石燕がメイド着物の格好で九郎に解説をする。
「珍しいというと肉霊芝とかか?」
「あれは一説によると見たら死ぬ系だからね……もしかしたら持ってるかもしれないけれど。とりあえず用意してくるからちょっと待ってくれたまえ」
と、石燕が台所へ向かっていったので九郎は置いてあった目の形をした落雁をかじりながら待つことにした。
暫くすると部屋の向こうから、懐かしい焙煎の芳香が漂ってきて九郎は眠そうな顔をじっとそちらへ向けて待っていた。
「おや? しまったね手頃な茶碗が無い。まあこの高取焼でいいか」
「師匠ー!? それ五十両ぐらいするやつですよー!?」
何やら騒いでいるようだが、やがて盆に茶碗を2つ乗せた石燕が戻ってきた。
湯気の立っているつるりとした陶器には薄黒い湯が入っていた。すぐにそれはコーヒーと九郎はわかった。
「コーヒーなんて江戸にあったのか」
「流通はしていないのだが薬として極少ない量を将翁は手に入れたようだね。これに関しては私が淹れた方が何倍も上手さ」
得意満面な笑みを浮かべて石燕は云う。
普及するに至らなかったが、味こそ常飲には受け入れられなくとも薬としてならばその苦味もまた効きそうだということで、解熱や利尿の処方されていたことがあったらしい。もともとコーヒー自体が薬として広まった歴史があるので当然ではあるのだが。
「なんで流通していない飲み物の腕前が高いのだ……まあよい、ありがたく貰おう」
ともあれここでしか飲めないコーヒーを、九郎はゆっくりと啜った。
炒った香ばしい匂いと、口当たりの良い酸味が気分を落ち着かせる。僅かに、滓を濾しとった麻袋の風味も混じっているが雑味と云うほど邪魔をしていない。
目が細められて、九郎は一口二口飲んだ茶碗を一旦置きながら、
「旨い」
と、言った。
好みの味である以上に、なにか懐かしさを感じて、少しだけ目元が熱くなるのであった。
それを石燕も何も言わずに嬉しげに見ていた。
*****
「不味っ」
そのころ、固有次元にて出来上がったチャクラ波動哲学バリスタマシーンのコーヒーを飲んで、魔王は呟いていた。
「コーラに混ぜたらちょっとは飲めるかな……うわやっぱ不味っ」
独りで彼女は何かを待つように、ただ過ごしている。
*****
盗賊団を一網打尽にしたということで影兵衛は鮮烈な復帰を遂げた実績で、やはり周囲から一目置かれる存在と再認識された。
手柄として金一封が長官より送られて、ついでに九郎に渡す十手も支給が許可された。
火盗改に御用聞きとして所属という訳ではないが、民間で何度も協力をされているので今後の事も考えて、十手があれば聞き込みや町人への協力が容易になるので持たせておけという判断である。
このような非公認の手先は実際に多かったようで、貸し与えられる十手の意匠も同心与力などとはまた少し変えられていた。
ともあれ、またしても九郎と影兵衛は賭場に繰り出す。
今度こそ、やけに九郎を外してくる禿頭の壺振りを可能性の悪魔に取って食わせると九郎は自己催眠などの方法をも駆使して挑んだが──見事にまたしても素寒貧にむしられる結果になったという。
だが──。
それで、九郎は軽くなった財布を手に帰る最中に、ふと気づいた。
「いや、まさか……しかしそれならば説明がつく」
後ろを振り返りながら、夜闇の中で九郎は己の考えを深めて、とてつもない真実が隠されていた事に戦慄した。
「そうか……因果は繋がっておるのか」
それがそうならば、少しばかり寂しい気もした。
すぐに確かめようかと思ったが、やはり少し落ち着くためにその日は家に帰ることにして歩みを再開する。
難しい顔で九郎は歩きながらぶつぶつとつぶやいていた。
「魔王城での賭け事でもそうだった……つまり」
コーヒーの味を思い出して、唾を飲み込み己に向けて囁く。
「あの禿頭の壺振りが──魔女イリシアの転生体か……!」
石燕の占い結果でも禿げたやくざと出ていた。
それに運が大きい単純なゲームではイカサマと思わんばかりに魔女には負け続けていた事実があった。
その生まれ変わりがあれだとは意外ではあったが、何事も思い込みからだった。疫病の鎌が自然に還ったと同様に、真実は粛然として存在するのである……。




