外伝『IFエンド/クロウとクルアハの物語』
※挿話『異界過去話/九郎と魔女、それと誰かの物語』からのIFルート派生です
魔女と云う存在が居る。
元は宇宙の終焉や事象の停滞を司る一級神[怠惰神]が気まぐれにしても凄まじく珍しい創造行為として作り上げたその配下の天使、縮退天使イリスという存在だった。
世界を崩壊に導くという無意識的行動理念を与えられたイリスは[魔法神]と呼ばれる一級神を殺して魔法の力を手に入れる。それまで魔法とは他の神に祈り与えられる秘跡と同じだったのが、魔法神の殺神によって人間達にその使用権限は自由化された。
殺神の罪によってイリスは他の神や天使に滅ぼされるが、その際魂に固有の輪廻術式を仕掛けて人間に生まれ変わるように細工した。
天使や神は決まった強さを持つが、人間は稀にそれらを凌駕する可能性を持ちえる。世界を滅ぼすにはそれに為るのが良いと判断したのである。
生まれて、暴れて、滅ぼされ来世を待つ。
肉体の魔力が次の輪廻では強くなっているように呪いをかけて。
魔法の知識を蓄えて次の周へ持ち込みながら。
輪廻を続けて、魂の格を底上げする事こそが、魔女の理念であった。
*****
子供は学ぶ過程に於いて様々な失敗をする。
形に残る失敗もあれば経験に残る失敗もある。
その中で形に残してしまった物はどうするだろうか。歪な粘土細工、零点の答案、描きかけの絵、落書きだらけの教科書。まあ、様々にある。
捨てる物もあるだろうが、残してしまう物もある。本人がそれらに価値を見出さないのに残すとなれば、それは保護者が成長の記録として、思い出の品として保管しているのだ。
そういうものが、あった。
今日付けで魔女と呼ばれるようになったイリシアも、昨日までの魔法の授業で残した失敗の道具があった。
クロウという老人は、魔女化したが故に親に身を売られて磔にされたイリシアを見た。
助けようと思うのは簡単だ。いつか、校舎裏で練習していた落ちこぼれの魔法使いに手を差し伸べるのとそう変わらない。
ただ、老いた躰で出来るのかという焦りを、腰に下げた術符フォルダに仕舞い込んだ一つの符を思い出して収める。
隣に居るクルアハから便利な術符を貰って入れていたものだが、イリシアの作った失敗作の一つも中に入っていたのだ。
「クルアハ──やるぞ」
助けようとか、手伝ってくれとは言わない。その言葉だけで、彼女は小さく無表情のまま頷いた。
この場では誰も死なないことが告死妖精の能力としてわかっていたからだ。死に関わりのない行動以外では、クロウと共に行くことに迷いは無い。
クロウは取り出した──副作用のきつい術符を握りしめ発動させる。
「[強化符]……!」
それは単純な身体能力強化の術式がかけられた魔法の術符だ。
一般の魔法使いが使うそれよりもイリシアの高い魔力で遥かに強化倍数は大きいが、術式構成が甘く精神がやや乱される。それを気合で操作するのがクロウの役目であった。
赤黒い魔力光が広場の一角から放たれる。
そこに居たのは腰の曲がった老人ではなく──弛んだ皮をはち切れんばかりに筋肉と太い血管を浮かせて白い髪を逆立たせ、力がみなぎり肉の軋む音と筋の擦れる音を鳴らし、石畳の地面を踏み砕きながら一歩、一歩とイリシアへ歩み寄る超級覇王老人の姿であった。
見るもの全てが圧倒され、逃げ惑う者も多い。邪魔する奴は指先一つでやられるという確信が見ているもの全てに植え付けられた。
次の瞬間、地を蹴り一跳躍でイリシアの目の前まで跳び移動する。彼の蹴った地面と着地した箇所が爆発音と共に小さなクレーターが出来るほどである。
処刑官も、イリシアの両親も、槍を捨てて逃げ出した。もはや親だった者に目線も送らずにイリシアは荒ぶる強化戦士となったクロウだけを見て、喜びと自分で作っておきながら微妙に困惑の顔を浮かべている。やっぱ失敗臭い変化だ。
続けて通常よりも三倍程の大きさに拡大した妖精光翼で飛行し二人の真上に現れたクルアハが淡黄色の符を掲げて云う。
「……[光源符]──凌駕発動」
魔術文字に込められた魔力が暴走し爆発を起こす。一度で込めた術式が使用不能になる凌駕発動は、通常発生する魔法効果の数倍は出力を高めて発動させるのだ。
新たな太陽が生まれたような光量であった。
目を閉じていても手で塞いでいても焼き視界を奪う光は、真下にいるクロウとイリシア以外全ての観衆を黙らせた。
妖精という種族は悪戯程度のことはするが、ここまで大規模に他者へ攻撃することはない。
つまりは、本人も自覚していないことだがクルアハも──大事な弟子を処刑されかけて、怒っていたのである。
「You are shock……!」
「爺ちゃん! いやちょっと」
ショックを受けているだろうが助けに来たぞ、と云うような内容の単語を言うが上手く伝わらない。
めきめきと音を立てて磔にされていた柱ごと根本から引っこ抜きクロウは担ぎあげた。
彼は何かの波動に目覚めた如く白濁した眼差しをクルアハと合わせる。
クルアハも頷いて、南東の方角を指さし、
「……逃亡開始」
と、云うのでクロウも、
「First come ROCK……!」
中々ロックな状態になってきたな、という意味の返事をして重々しく衝撃波を伴いつつ頷いた。
強化係数が高く急激に変化するので精神が乱れ、言語に不便が発生するのが欠点の符なのである。
もし百万倍にでも強化されれば人間はほぼ意志を失い眼前を薙ぎ払うだけの狂戦士と成り果てるだろう。
ともあれ穏やかなる生活をしながら激しい強化によって目覚めた超老人は、告死妖精と魔女を伴い広場から駆け出した。
一歩ごとに町の地面にクレーターが出来る。走る度に衝撃波で暴風が吹き荒れる。唸りは人を怯えさせ、気迫は戦意を失わさせた。異世界人クロウ、これまでの人生最強のハッスル状態である。星を得た配管工めいた勢いで都市を走り抜ける。
縛られて連れられているイリシアは風をモロに受けて軽く絶息していた。
「じいちゃっ、せめてっ、魔力障壁張らせっ」
息が詰まり詠唱も出来ない。魔女とはいえ、声の出せぬ状況だと唱えられる魔法は極端に減る。過去に魔女が退治された時は歌神司祭の凌駕詠唱により魔法を封じられてから物理でやられたこともあるぐらいだ。
ともあれペンペン草も生えないレベルで地上を踏み砕きながらもやがてクリアエの街を囲む城壁へと辿り着いた。
戦争を行って成り上がった国だけあって戦時中に使っていた城壁を更に補修して作られている強固な壁だが、超クロウの前では紙切れ同然であった。
気合の声を上げながら、ただ進む。
「People with no name……!」
「ぎゃあああ!」
魔女の悲鳴がドップラーする。
彼の主観からすれば周囲の動きが止まって見える勢いの加速をつける。もはや赤いオーラに包まれた錐状の何かにしか見えない早さと威力を伴った飛び蹴りを城壁にぶちかますと、破壊の爆圧が壁を大きく破壊して外へと繋がり、三人はそのまま脱出していった。
事情の掴めぬ住人たちは謎の疾風怒濤に唖然とするばかりであった。
地平線の彼方まで土煙が上がる。
とにかく、魔女が生まれて逃げたという報告が伝神経由で世界全土に伝わったのはその騒動の暫く後であった。
*****
「痛痛痛超痛い死ぬ多分己れ今日が寿命」
「……心配無用。名前は見えない」
「爺ちゃん無理しやがって」
小さな村の上流にある川の側に、こんもりとした岩山が出来ていた。
それは魔女イリシアが前世の知識で作り上げた魔法の岩人形[瞑想ゴーレム]を数体囲ませて作った、身を隠すためのものであった。これは若干動きが遅いが自在に動き、瞑想を行うことにより自己修復するという頑丈さを重視しているゴーレムだ。最高位のものだと地獄の帝王とだって単独で殴り合える。
隠れた中心にある、[炎熱符]による焚き火にあたる三人のうち、老人のクロウは地面にうつ伏せになって呻いている。
再び骨ばって皮は弛んだ老人の体になっているクロウの背中には湿布のようなものが多数貼られている。[快癒符]によって治療しているのだ。
「爺になってからの筋肉痛はとてもつらいのだ……手足の感覚も無いし……己れの最期を看取ってくれ……」
「……全然平気。寝てれば治る」
「助けてもらってなんですが、爺ちゃん珍しく体張りましたからね」
イリシアの失敗作、強化符の副作用は使用時の精神汚染だけではなく、使用後の体に来る強烈な筋肉痛と疲労骨折寸前の体などもうひたすらダメージが後からやってくるのである。
ひとまずクルアハとイリシアに回復してもらっているが、痛みと疲労感は中々取れない。
そもそも回復の専門は魔法ではなく癒神司祭の秘跡か、薬物治療である。一応いくらか回復魔法といえる物はあるが効果が限定的だったり高度な術式を必要としたりするのだ。
それでも魔女化したイリシアの超常魔力ならば専門外でもなんとかしてしまうのだろうが。
「というわけで私の過去の魔法を思い出して爺ちゃんの体を治してあげます。ちょっと待って下さい」
言うとイリシアは腕を組んでイドの底に刻まれた知識を汲み上げ出した。
まだ魔女化して時間が経っていないので過去生で習得した全ての魔法を使える訳ではないのだ。一つ一つ思い出して回復に必要な術式を検索する。
「ええと……プラズマ砲弾5000連発じゃなくて……コールドスリープの棺でもなくて……メメロヘリタンディスカポイアの暴走でもなくて……」
「おい。大丈夫なのか? と言うか無理せんでいいぞ。かなり本気に」
「よし。思い出しました。身体修復術式[レジデントエビル]。ええと、発動媒体はこの枝でいいか」
「不安だのう」
ゴーレムを作るのに作った杖は薪代わりに燃やした為に、イリシアがその辺に落ちていた樹の枝を瞬時に魔法の杖に変換する──普通使われる魔法の杖は複雑な儀式により専門の魔法職人が作成する高価な物である──のを見ても、クロウは不安が拭えなかった。
なにせ魔法学校時代は付与魔法以外殆ど爆発させるという術式構成力の低さが問題視されていた魔法使いである。
いくら伝説に残り転生しても指名手配が消えない最強の魔法使い、魔女になったからと言ってもまだ昨日の今日のことである。腕前は疑わしいものがある。
クルアハも同じくそう思って怪しげな魔法をクロウに直接かけるのは危険な気がしたので、周囲を見回し丁度良いものを見つけたので、指をさす。
「……念の為にあれにまず使ってみて」
彼女が指したのは死にかけのカエルであった。
それは[増血カエル]と呼ばれる大陸に広く分布する、増血剤の材料にもなるカエルだ。そのまま食べても体の鉄分不足などを補える豊富な栄養を持っている。ただし、発作的にカエルの体内の鉄分が異常増幅して体内でメタルを形成し剃刀や鋏の形になってカエルの体を内側から切り裂いて死ぬという難儀な習性を持つ。
その場に居たのも誰が刺したわけでもないのに、体からカッターナイフを飛び出させてひくひくと瀕死で動いていた。
イリシアは小さな木の棒を向けて指示に従う。
「はい師匠。てりゃ。[レジデントエビル]」
気合の入っていない声で魔法を唱えると杖の先からぽわぽわした光がカエルに放たれる。
それは複合属性の高等な術であるが、理論によって作られたというよりも感覚によって行使されている術だと弟子が使うそれを見てクルアハは思う。
カエルは光に包まれると、爆竹の代わりにダイナマイトをケツに突っ込まれたようにはじけ飛んだ。
「……」
「……」
クロウとクルアハが無言で赤い染みになった元カエルを見ていると、逆回しのように周囲に吹き飛んだ肉片がまたその場に集い、肉団子を形成してやがて内側から皮が張り、カエルの形になった。
げこ、と鳴き声を上げてカエルは元気よく跳ねて逃げていく。
イリシアは当然の観測結果だとばかりに頷いて二人へ振り返った。
「こんな感じで治ります」
「絶対にそれを己れに使うなよ」
「……見た目えげつない」
当然だが、当然のように断られた。
結局クロウは複数の治癒術式をクルアハからかけられて体を治すことにした。
魔力も総合的な知識もイリシアの方が遥かに上だが、こと付与魔法に関する術式の緻密さに関してはクルアハが一日の長を持つ。
「さて、これからどうするか……」
クロウがぼんやりと呟いた。逃げおおせたはいいが、何も持ち出さなかった為に着の身着のままでありしかも迂闊に街には近づけない。
ぱちぱちと爆ぜる焚き火をつつきながら、光に照らされている青い髪の魔女は云う。
「まあ折角お尋ね者になったのですからヒャッハーと略奪してみたり」
「……駄目」
きっぱりと云うクルアハの迫力に、イリシアは口を噤む。
「……必要な道具はわたしが揃える」
「でもこれから野外生活ってのも困ります。私や師匠はともかく、爺ちゃんが」
先の生活に対する不安を感じて、イリシアは提案した。
「助けてくれてありがとうございました。しかし、もういいですよ。私と居ると二人にも迷惑がかかりますので」
「……」
「ぶっちゃけこれまでの過去生でも一人でやっていけましたし。余裕余裕。だから──ここでわかれましょう」
そう云うイリシアに、クロウは顔を見ようとしたが全身の筋肉と関節が酷く傷んで向けなかったので、寝転がったまま尋ねた。
「のう、イリシア。お主、前世とかで家族はどうした?」
「うーん、大抵は今回みたいに売られるか捨てられるか殺しに来るか……まあ自分の子供が取り憑かれて入れ替わられたようなものですから、仕方ないですね。肉体についてはともかく、転生し続ける私に家族なんてもともと居ないのですから」
「ふうむ。じゃあお主、己れとクルアハの家族になるか」
「はい?」
寝転がり他所を向いたまま、いつも通りの声音でそう言ってくるクロウに聞き返した。
「己れの孫でクルアハの妹。そのぐらいで丁度良い距離だろう。よいな」
「い、いやいや。良いとか悪いとか……なんでそんなことを?」
「なんとなくだ」
「なんとなく!?」
クルアハが相変わらずの無表情で両手を上に上げて万歳の仕草をする。
「……わたしも家族は初めて」
「己れも、こっちの世界には居ないからのう。孤独三人組の慣れ合い家族誕生だ」
「ええええ」
引き攣った表情で半開きの口から不満のような声を出しているイリシアの前に、やはり表情の無いクルアハがすっと立つ。
「……妹よ」
「し、師匠はいいんですか? なんかいきなり決まってますけど」
「……おねえちゃん」
「?」
「……りぴーとあふたみー」
「お、おねえちゃん……」
イリシアがそう返すと、彼女はわざとらしく驚いた感情表現の仕草をして、優しげに彼女の頭を撫でた。
表情には出さないが、妹ができて嬉しいのかもしれない。
クロウがその微笑ましいところを見ようと身を捩るがやはり体が悲鳴を上げて諦める。
「ということで、家族になったのでイリシアも家族の事を思って行動することだ。勝手に出て行くでないぞ」
「勝手に決めたのは爺ちゃんなのに……」
「しかし住むところは確かに決めねばな。砦の三悪人じゃあるまいし」
社会の共同体に所属せずに暮らすということは中々に難しい。
それが家族持ちなら尚更だった。食う寝る処に住む処、ゴーレムの岩山では少し厳しい。
クルアハが指を立ててジト目のまま提案する。
「……わたしにいい考えがある」
*****
ペナルカンド大陸に於いて未だ未踏である地図の空隙が点在する。
その中でも有名なのが、大陸の中央樹海──通称[ヘビースモーカーズフォレスト]である。
かつて存在した樹召喚士の能力が暴走して作られたと言われるその広大な樹海は、常に地面が脈動し樹木の急成長と枯れ朽ちる現象により道は無く、森の上空まで蒸散した煙のような霧が立ち込めていてそれは探索者の方向や時間感覚を狂わせる。
幾度も探検が行われたがそもそも最奥がどこかもわからず、気がつけば入った場所から出てきていたり、一週間の調査予定が出てくる頃には数十年の時間が経過していたりとする不可思議な場所であった。
そこに[妖精郷]があるという。
「……妖精郷はなんかこう……田舎だから大丈夫」
瞑想ゴーレムの肩で揺られながらクルアハはそう云う。
樹海の木をゴーレムが薙ぎ倒して道なき場所に道を作りつつも三人はヘビースモーカーズフォレストを進んでいた。
自然破壊な気もするが、この樹海ではどれだけ木を壊そうが燃やそうが、一日とかからずに生え育つので問題はない。
クルアハの指示に従ってゴーレムを動かし進ませるイリシアも、
「そういえば私もこれまで妖精郷には行ったこと無かったのです」
と、云う。恨みを買っている場所では安息とはいかない。
妖精郷とはその名の通り、妖精の暮らすとされる集落である。実際の場所は誰にもわからず、世界各地の辺境などで迷ったものが偶然辿り着くとされているが、確かな記録には少ない。
座標が不確定なので魔王の持つあらゆる場所に繋げる事が出来る空間転移道具[遍在扉]でも入れないそこは、妖精であるクルアハの導きが無ければ行けないだろう。
クロウはゴーレムの頭の横についた取っ手を掴んで落ちないようにしつつ、歩く振動で全身の関節が馬鹿になりそうな状況に顔を草臥れた顔をしている。
「ふう、ゆるりと暮らせれば田舎でもコンピューターが管理するディストピアでもなんでも良いのう」
「……ちなみに、妖精郷は温泉もある」
「俄然行きたくなってきた」
クルアハの言葉に疲れた表情を輝かせる。老人は温泉好きなのである。
やがてクルアハは軽くゴーレムから飛び降りて地面に降り立つ。イリシアもゴーレムの動きを止めて、自分とクロウを手に乗せて降ろさせた。
「……ここ」
彼女が指し示したのは何の変哲もない、この樹海にならいくらでもある木の一つに見えたが……クレヨンで落書きをした跡が残っていた。
クルアハの手のひらがそれに触れると周囲の霧が濃くなり、あたりをまったく見通せなく為る。
戸惑うクロウの手をひんやりとしたクルアハの手が握り、またクロウも隣のイリシアとはぐれないように握った。
若干怯えたように──クロウの手を握り返すイリシア。
そして霧が晴れる。
そこは開けた村だった。あちこちに小屋ぐらいの小さな家が点在し、果物を育てている畑が見えて、風車や妙なモニュメントがある。
あちこちで飛び回ったり走り回ったりして遊んでいる少年少女の姿をした妖精が見える。橋のかかった小川でガチンコ漁をしたり、広場でサイコロ賭博をして木の実を賭けあったり、穴を深く掘っては埋める労働を自発的に行ったりしていた。
樹海の中にあるとは思えない。村の周りは森であるがあの動物的に成長しうねり続ける樹木ではないし、むせ返る程に立ち込めた霧もなく空から日差しが降り注いでいる。
「ここが……いかにも長閑な場所だのう」
クロウが見回しながら率直な感想を言っていると、遊びまわっている妖精の数名が入り口にいる三人に気づいて大声を出した。
「あー! お客さんだー!」
「あれ告死の子じゃない? お客さん連れてきたのー?」
「髭だよ髭ー! 王様みたいー!」
妖精光翼をはためかせてすいすいと近寄ってきて騒ぎ出し、すると他の妖精も寄ってきた。
口々に少年少女の高い声でわいわいと話しかけてくる。
「えーと確かクルアハちゃん! 何年ぶりぐらいだっけ? 三日ぶり? 三日って何年?」
「人間連れてきたの? 珍しいなー」
「こっちの子は髪の毛青いよ。あ、もしかして鯖の食べ過ぎ? サバスキー?」
「じゃあ今夜は川鯖祭りだ!」
「川鯖記念日だ!」
「ねえねえ爺ちゃんは王様なの?」
と、取り囲んで言いまくるのでクロウとイリシアは引き攣った笑みを浮かべながら、迫る子供達に押されていた。
クルアハは二人の様子を見ていつも通りの無表情で頷き、
「……大体こんなノリ」
「お主が特殊なのだなあ」
「……告死妖精は感情が無いから。こら、わたしの妹の髪を引っ張っちゃ、駄目」
イリシアの背中に上って珍しい青色の髪の毛を触る妖精を窘める自称感情がないクルアハである。
十歳前後に見える小さな子供の姿をした妖精達以外にも、空を飛んでいる小人のような妖精も居る。しかし大人の姿をしたものは一人も居ないようだ。一番大人びているのがクルアハだが、彼女だって十代にしか見えない。
歓迎なのか物珍しい客をいじり倒しているのか、しばらくそこで足止めを食らっていると、
「王様が来た!」
と、妖精の誰かが叫んで、皆は慌てて村の方を振り向き、王の前で整列した。
妖精郷の主──妖精王が来訪者の様子を見に現れたのだ。
その姿はそこらに居る妖精と何ら変わらない、少女のようだったが──口元に立派なもっさりと首元まで伸びている髭を生やしていた。
クロウはクルアハに聞く。
「妖精王って……あれ?」
「……そう。正確に言えばあの付け髭を付けてる妖精が妖精王になる。週に1回ぐらい革命が起きて髭を他の妖精に奪われる」
「斬新な王制ですね」
解説をして、クルアハは妖精王の前に歩み出た。
「……あの二人はわたしの家族。妖精郷で一緒に暮らすことに許可を」
その言葉に周囲の妖精達が深い意味もなく同調する。
「いいんじゃなーい?」
「クルアハちゃんの家族だし」
「人間って珍しいしね」
「最近ヒマー」
「髭ー」
しかし、重々しく王は首を横に振る。
「駄目じゃ」
こちらも何か考えがあるわけではないが、ともあれその場の気分的な問題で不許可を出した。
他の妖精も不満のブーイングをするが、「王様が云うなら仕方ないけど」と一応は賛同を示すものが多い。
クルアハはすっと妖精王に手を延ばして彼女の口を覆っている髭を引っ張った。
軽く両面テープで固定されたそれはあっさりと外れて、クルアハは当然のように自分の口元に髭をつける。
妖精王クルアハの爆誕である。そして、
「……この二人がずっと住んでも良いことにする。あと、暇な子は家とか作って」
「りょーかーい!」
「大工妖精呼んでこようぜー! あいつ山小屋を作っては解体するを繰り返してるぐらい暇だから!」
あっさりと代替わりした命令に周りの妖精は従いつつ、クルアハはまた髭を取って適当なそこらの妖精にくっつけた。新たな王は自分が王になった自覚も無く、祝い用の川鯖を取りに小川へ向かっていく。
先代王も歓迎用の花輪をぽんと妖精術で創りだして二人に渡しつつ、家造りへ行った。
クロウとイリシアは茫然と事の成り行きを見つつ言い合う。
「そんなんでいいんだ」
「妖精って一体一体ぐらいなら外でも見ますけど、集まるとこんなのなんですね」
すると、クルアハは二人の手を取って、
「……妖精郷へようこそ」
と、言った。
こうして、クロウの老後の田舎ライフが始まるのであった。
*******
妖精郷と云う場所は文化が停滞している。
大きく分けて妖精は一般妖精と特殊妖精に分けられる。妖精郷に住む多くの妖精は前者で、これらは特に使命も無く毎日遊んで暮らしているだけの存在であった。生まれつきか一般妖精が何らかの神などから使命を与えられた時に、特殊妖精になる。クルアハは後者である。
ともあれ、使命を果たすためや知識を欲しがるようになった妖精は外の世界に出て行ったまま、多くは帰ってこない。妖精郷自体も外の世界の者が訪れることは殆ど無くて新たな文化の流入が発生しないのである。
クロウとイリシアは妖精郷始まって以来初めての人間の住人であった。これまでも僅かに訪れた者は居るが、皆いくらか滞在して出て行ったのである。
妖精が妖精術という特殊な能力で出現させられる主食のマナ。これは僅かに甘い小麦粉に似た食物だ。
エルフの国ではそこで暮らす妖精に出して貰ったマナをケーキに加工して銘菓として販売しているが、妖精郷ではせいぜいが花の蜜などで固めて食べる程度である。
クルアハは付与魔法を刻んだ道具で釜や調理器具を創りだして妖精郷でもマナケーキやマナプリン、マナシェイクドリンクなどを器用に作って見せた。
種族の殆どが甘党な妖精である。皆競って次々とそれを平らげて、
「おいしい!」
「クルアハー! これどうやって作るのー!?」
「……もう一回作るから見てて」
と、云うように妖精の皆に菓子作りや料理を教えていった。
中にはすぐにイリシアより料理がうまくなる妖精も居て、最強の魔女は敗北感に打ちひしがれる場面もあったという。
*****
妖精郷を流れる川は、何処かに繋がっているらしく海魚も川魚も取れる不思議な場所である。
妖精達の遊び場でもあるのだが、ここでは魚を捕まえる方法がガチンコ漁と手掴みしか無かった。ガチンコ漁にしたって、岩をぶつけて遊んでいたら魚が浮かんできたという偶然の発見らしい。
しかし最近は村に住み始めたクロウが釣り竿を持って釣りに来ている。
何がかかるかわからないので釣具はイリシアに強化して貰ったものだ。妙な棒を伸ばし、水面に糸を垂らしているクロウの周りでは妖精達が変なことをしていると集まってじっと眺めていた。
やがて、竿が動いてクロウは強い引きに立ち上がり、竿を立てる。
拳を握って妖精達も応援を始めた。
「頑張れー! クロウー!」
「何が釣れたの? 何が釣れたの?」
「うぬっ……待っておれ。よっと」
力を込めて一本釣りで水面から獲物を飛び上がらせると、糸の先の針にでっぷりとしたアンコウがかかっていた。川釣りで深海魚ヒットである。
出てきた見たことのない、変な魚に妖精たちは大はしゃぎだ。
それからクロウの真似をして竿を用意しさながら釣り堀のように川で魚釣りをする妖精が良く見られた。
彼が訪れると、
「クロウー針結んでー」
「餌つけてー」
と頼んでくるので、
「おお、良いぞ」
クロウもすっかり気分が良くなって、小さい妖精達に釣りを手解きするのであった。
****
妖精郷の一角、クロウらの家とは別の建物として工房が作られている。
クルアハとイリシアが魔法の研究を行うための施設である。
日夜暇な時はここで付与魔法についての授業や新術式の開発を行っていた。
「……魂情報の改竄を魔術文字で上書きすれば破壊衝動は収まる」
「でもどうやって魂に直接刻むかなのです」
「……まず魂を摘出する術式を作る」
「それで死なないようにする魔法も必要ですね」
ここでの暮らしは安定して、クルアハとクロウという二人の存在と、あまり過去生を思い出さないようにして意識の侵食を防いでいるイリシアの魔女としての本能を封印する術を作っているのである。
それさえ無ければただの強い力を持った魔法使いでしかない。イリシアとしては、他の世界はともかくクルアハとクロウの居る場所を滅ぼしたいとは思わなかった。
然しここで作業をしていると、
「じー」
「面白くなーい」
「イリシア、遊ぼー」
窓の外から妖精が覗きこんできていた。
新たに村に来た三人……特にクロウとイリシアは毎日妖精が絡みにくるのである。
クルアハは頷き、
「……休憩。外であの子達と遊んできて」
「ええ~……お姉ちゃんもたまには相手してあげてくださいよ」
「……お菓子作っててあげる」
「仕方ないですねえ」
そう言って、苦笑いを浮かべたままイリシアは外に出て行った。
「おーイリシア出てきたー」
「今日も魔法見せてまほー!」
「派手なやつどかーんって」
「そうですね。ではちょっと流星雨でも観察しましょうか。天体破砕術式[フォールオブヒュペリオン]」
魔法の杖を振るって唱えると、真昼だというのに空に無数の光が流れ星となってかけていく。
「わー綺麗ー」
「願い事! クロウが流れ星に願い事すれば叶うって言ってた!」
「え? えーと……ケーキ!」
「お菓子!」
「うふふ。それは本当に叶いそうですね。さしずめ私は……」
イリシアは自分で作った流星群に向かって、手を当てて何かを祈った。
***
妖精郷にある温泉はいつ行っても誰か妖精が居る。もはや住んでいるのではないかという疑いもある。
クロウは毎日温泉に通い、村で唯一おっさん臭い声を出して、
「あ゛~……生き返るのう」
などと言って居るので、次第に他の妖精も真似しだしてどこか可笑しさを感じる光景となっている。
温泉は無論大露天風呂が一つなので、一応妖精にも男女はあるのだがどちらも子供なので気にせずに入っている。無論老人であるクロウも気にせずに普通にクルアハやイリシアと肩を並べて温泉に浸かることが多かった。
艶のある話ではない。
もう完全に老人と孫の外見の離れ具合だ。
一人の少年妖精がクロウの近くを泳いでいて、ふと気付き彼に話しかけた。
「クロウはちんちんでっかいな!」
「はっはっは。そうかのう」
「……若い頃はもっと大きかった」
ぼそりと補足するクルアハの言葉に、若クロウの全裸を想像したのかイリシアが激しく咳き込むのであった。
無論特別な関係は無く飲み会で酔って脱いだそれを目撃してただけなのだが。
温泉から上がると特製コーヒー牛乳を妖精は一気に飲む習慣もついた。クロウのような老人はそんな冷えた物をぐいと飲ると危ないので、クルアハが淹れたぬるいカフェオレを飲んでいたが。彼女はコーヒー派で、昔にクロウがくれたコーヒーミルをまだ大事に使っている。
家に帰れば家族三人で静かに過ごした。
イリシアはこの気まずくない静寂が好きだった。そしてクロウとクルアハがお互いにものを言わないのにあれこれ通じあっているのを見るのが、どこか面白くて飽きなかった。
(この人達が家族で、良かったです)
そう思うほどに……穏やかな日々だった。
**
やがて村に更に他の客人も訪れた。
スフィとイートゥエとオーク神父の三人だ。
クルアハが手紙を出して連れてきたのだという。クロウが淋しくないように友達を呼んだのである。
クロウの楽しげな隠居生活にスフィは笑って、
「随分良い生活をしているんじゃのー」
と、自分でも歌教室を開き妖精たちに歌を広めた。
たどたどしい音程でよく妖精はクロウに歌を聞かせに来たり、クルアハが短い歌を歌えるようになったりとまた村が賑やかになる。
イートゥエもしばらく滞在することにして、
「どうせ鎧を壊す方法も見つから無いのですから、ちょっとした休暇ですわ」
そう言って村の畑を土魔法で耕し、新たな作物を作るようにしていた。
また、剣製妖精ムラサメという名の妖精がとてつもない切れ味を持つ剣を作っていると聞いてそれの手伝いもしつつ、その剣で鎧を剥げないか期待している。
オーク神父は普通では辿り付けない妖精郷に来れたことに興奮しつつ、暇を見つけては他の妖精の案内でヘビースモーカーズフォレストを探検するという充実した暮らしをしている。
「僕もしばらくここで執筆活動でもするよ」
そう言って、クロウと将棋を指したり釣りにも出かけたりしながら彼もまた妖精郷に馴染んでいった。
妖精郷での食事は滋養と健康に富んだもので、毎日の温泉の効果もあったのかクロウの体の不調や持病も治り、集まった友人や懐く妖精たち、そして家族と幸せな日々を過ごしていた。
毎日、楽しそうに。充実した日常を噛み締めて。最上の老後と言えるだろう。
そして──やがて──しかしそれでも。
どれだけの時をゆっくり過ごしたか、クロウが昼寝をする時間は少しずつ長くなっていった。
*
ある日──うたた寝をしているとクロウは自分の体が動かないことに気づいた。
よく皆が集まる広場で、いつも通りスフィが指揮した歌の合唱会などを聞いていた昼下がりである。
急に薄暗くなった気がしたが、それは自分だけの感覚だろう。
(あ……死ぬのか、己れ)
クロウはそう確信した。
寿命だろう。若いころに随分と無理をした割には、長持ちしたものだと感心するほどだ。
家族に恵まれ、友達が居て、子供達に囲まれて花やかな陽だまりで死ぬ。
(己れには過分すぎるほど、幸せな末路だ……)
だらり、と組んでいた手が垂れた。
誰かがこっちの様子に気づいたのか、叫ぶ顔が見える。慌てて周囲の者が駆け寄り、クロウの顔を覗きこんだ。
何か口を開いて呼びかけているが、もう声は聞こえなかった。徐々に暗くなる景色に、皆の顔が見える。
(イリシア。最初に逝ってすまんが、姉と仲良くな。スフィ。ずっと長い間友達で居てくれてありがとう。己れの人生半分はお主のおかげだ。イツエさんは鎧がそのうち取れるといいな。温泉、入りたかっただろう。神父はいつも大変そうだけど、お主に救われた者も多いのだから胸を張れよ……ああもう)
クロウは声が出せない状況にもどかしくて、自分の頬に何か水滴が落ちるのを感じた。
(皆……そんなに泣くなよ。己れ、幸せだったんだぜ)
自分がそろそろ寿命だということは皆知っていただろうに。覚悟も出来ていただろうに。それでも泣いていた。
最後の力を使って、クロウは皆を安心させるように顔に笑みを作った。成功したかは自分ではわからなかったけれど、生きていて良かったという証の為に。皆が泣く代わりに自分は笑った。
声が出ない。聞こえもしない。
妖精のいつも騒がしい喧騒も何も。
静かだった。視界も闇に沈んでもう見えない。
(そういえば……あやつは何処に居ただろうか)
思った時に、随分はっきりと聞きたかった声が届いた気がした。
「……クロウ」
(ああなんだ、そこに居たのか)
そこで、クロウという男の意識は完全に途絶えた。
異世界に来てそこで暮らした男の最期であった。
妖精郷には一つだけ墓がある。
基本的に死なない妖精達には必要のないから、作るときに知識が無いのでつい大きく立派な物を用意してしまったが、それを見たら墓の主は笑うだろうか呆れるだろうか。
墓に文字が刻まれている。
半永久的に消えない、魔女の魔墨で刻んだものだ。
『クロウ 此の場所で眠りにつき、魂は故郷に還る』
祈りの言葉を残して、今日も墓に花は絶えない。
******
目が覚めると酷く体に倦怠感が漂っていた、
寝起きなので当然だがそれにしても酷い。夢見でも悪かったのかと思うが、朝起きた時にあまり夢は覚えていない方なので気にしたことはなかった。
少年はベッドから起き上がるとふらつく足をなんとか踏みしめて歩く。
両手をだらりと垂らしながらフローリングの廊下を進んで洗面所まで辿り着き、鏡で顔を見た。
いつ見ても眠そうだと人に言われる眼はより眠そうで気を抜けばこの場で寝れそうな気すらした。髪の毛もぼさぼさに寝ぐせが付いている。うがいをすると口の奥から古いコーヒーのような風味がして、気分悪く水を吐いた。顔を洗ってまた老人のように壁に手をつきながらリビングへ向かう。
「おはようさん」
「おはよう……って九朗、いつに増して怠そうねえ」
「そうかな、よっこらしょっと」
とぼけて母親に返すが、確かに怠いのは合っている。
テーブルには飯と味噌汁、ハムエッグが用意されている。いつも一緒に食事を取る弟はまだ寝ているのか、現れていない。
眠そうな目付きを九朗に遺伝させたであろう、似た目元をした母親は心配そうにしながら言った。
「やっぱり夜のアルバイトがきついんじゃない? 辞めても……」
「平気だって。他に人居ないしのう」
手をひらひらと振りながら軽く答えた。
九朗は近頃、マンションから十五分程離れた所にある夜中まで営業している飲食店で働いているのだ。
反対されても難なのであまり母親に詳しいことは伝えていないが、喫茶店風に見えるものの実際はバーで酒を出している店である。一応売れ筋はブランデーとコーヒーを混ぜたカフェロワイヤルだが、九朗が開発した無水エタノールと医療用経口補水液を組み合わせたカクテルも静かな流行をしている。
まだ学生である九朗が深夜の時間帯に働くことは法律上難しいのであるが、ここでは九朗が個人事業主として登録していることで幾らかの雇用への違反を隠している。
黒に限りなく近い職場で凄まじくグレーな雇用形態を取っているバイト先だが、一応知り合いが経営しているということとバイト代が高額なので通っているのであった。
母親は小遣いに不満を持つ訳でも家が貧しいわけでもないのに、何故かやけに働きたがる息子を心配しながら、
「でもねえ……あ、また九朗少し爺臭い雰囲気になってる」
「あれ? そうだっけか」
言われて、九朗は首をかしげた。
時々爺臭い喋りが出るのは小さい頃に懐いていた祖父の影響だろうと思うのだが、指摘されると恥ずかしい。
バイトの話題はひとまずそれで終わると、軽い足音で小さな子供が歩いてきた。
まだ四つ程に見える少年だ。九朗の弟である。
「おはよーお兄ちゃん」
「おう、おはよ」
「またお母さんよりお兄ちゃんが先なのね……」
少し悲しげに母親は云う。
年の離れた兄に懐いているのはいいが、親としては少し寂しいのである。
「さて、朝飯も食うか」
「うん!」
九朗の隣に座って、スプーンとふりかけを手にした。まだご飯はふりかけの魔力に頼らなくては食べないのである。
二人は「いただきます」と唱えて朝食を取り出した。
父親は海外の仕事に出ていて普段はあまり居ないから、これがいつもの九朗の朝の風景であった。
*****
九朗の通う高校は黒の学ランが男子の制服の為に、体格の良い者が着ると威圧感がある。
彼もまた背がここのところ伸びている為に学ランが窮屈に感じられ、前を開けっ放しでだらしなく着ている事が多い。
生徒会の会計をやっているのに不良のようだと人には言われるし、よく注意もされるがぬらりくらりとした態度で直そうとは中々しない。
不真面目だが友達の間ではそこそこ頼りにされているし、面倒見がよいから人気者ではあるというだけの、普通の高校生であった。やや個性的な生徒の多いこの高校では埋没している程度の個性である。
彼は放課後になると一応生徒会室に顔を出し、何も用事が無ければ適当に居るメンバーと雑談して帰る。バイト先の闇酒場が開店するのは夜からなので夕方は暇なのだ。
引き戸を開けて中に入ると、予想していた声が投げかけられる。
「現れたな九朗君!」
言ってくるのは女子生徒だ。九朗と同じ学年で生徒会長をしているこの部屋の主である。
一応九朗の2つ年上の幼馴染なのだが、二年留年して同じ学年になっている彼女のアダ名は[二重限界]と付けられていた。
九朗はいつも通りにため息混じり、テンションの高い幼馴染を見て云う。
「そういう会長は現れて無かったなあ、授業には」
「ふふふ……病弱なので自主的に保健室で休んでいたのだよ!」
「もう治っただろうに、病気」
彼女のニ留の原因が病気休学なのであるけれども、既に完治済みだ。ただ保健室でサボって寝ていただけだろうことは容易に想像できた。
「っていうか保健室の臨時の先生は?」
「出張に行っているよ。マサオキ先生はあれで結構忙しい人らしいからね」
「臨時なのに居ないとかどういうことだ」
言いながら、だらりと椅子に座る。無人保健室ならば自分もサボって寝れば良かったかもしれない。
生徒会長も隣の席に座って頬杖を突いてにやついた顔で九朗を覗きこんでくる。生徒の中でも最高年齢だけあって中々一般生徒はとっつきにくいので、小さい頃から知り合いの九朗はよく彼女の相手になっていた。
というか大抵の相手でも変わらず接する九朗は「問題児係」とか「下手物食い」などという名を裏で貰っている。
「そういえば九朗君、この前の進路希望調査は出したかね?」
「ああ、あれか。まだだなあ。特にやりたいことが見つからなくてな。会長は?」
「ふふふ……探偵社を開いて探偵になると書いたら考えなおせと言われたよ!」
「同感すぎる……」
「その時は九朗君を助手に雇ってあげよう」
「いらん」
一応断るが、生徒会長の目は冗談ではないので下手をすれば巻き込まれかねないと九朗もげんなりした。
彼女は眼鏡を光らせながら尋ねて来る。
「まったく、君ときたら冒険心が無いね。将来の夢もやたら遠いし……なんだね[幸せな老後を過ごしたい]って夢は」
「その場合だと公務員にでもなればいいのだろうか……今のバイト先にも誘われては居るが、公務員になったらキレられそうだ」
「あの店は早く手を切ったほうがいいよ違法臭い。大体あの入り口にある[公務員の入店は固くお断りしています]という表記は怪しいよ」
「己れもそう思う。店が検挙されたら何も知らない立場を取……れないだろうな、困る」
売り物として怪しい酒やら高校生のバーテンダーやらを雇っている店なのであからさまに危険なのだが、こちらは天下の未成年だから何とか勘弁してもらえないだろうか。
希望的観測は死を招く。もし前科者になれば汚辱に塗れた老後を過ごしかねない。
そう思いながらも時給が良いのでしばらくは続くだろうが。
「あ、そういえば映画部の人から君にDVDを預けられたよ」
「おう。そういえば頼んでおいたのだ。弟が変身ヒーローにハマる時期でな、そういうのを」
「ふむ……」
幽霊部員だが人数だけは揃えるために彼は映画部に所属しているのだ。
その部の普段の活動は映画の批評をするか、学園祭などのイベント用に毎年ゾンビ映画かバイキング映画を撮影している。そこの同学年の友人に娯楽映画を借りて、弟と見るのが休日の過ごし方だった。
生徒会長は手元にある[キャシャーン]と[デビルマン]の映画が記録された媒体を見下ろしながら、困ったような笑みを浮かべた。
「てっきりネタ映画鑑賞会と思っていたのだがね……」
「ん?」
「君の友人は映画の趣味が特殊なのだね。まあ、見ればわかるよ」
諦めた様子で言って、彼女は九朗にそれを渡した。
「そういえば九朗君は知っているかね? 今度留学生が転校してくるらしいよ」
「留学って。そりゃまたなんでこんな学校に」
「つまりは深い理由も無いのだろう。ちゃんとした留学目的なら相応の学校に行くだろうしね。姉妹で来るようだが、確か今日職員室に挨拶に来ると情報を得た」
彼女は立ち上がって、九朗の手を引っ張り彼も立たせる。
「生徒会役員としては他の生徒に先んじてその留学生のご尊顔を拝みに行こうではないか! さあ九朗君!」
「別に見に行かなくてもなあ……」
「まったくやる気無いね。美少女だったらどうするのだね美少女だったら。……変なフラグを立てないでくれよ、九朗君」
「なんで己れが」
「君は無自覚に誑し込むからね」
ジト目で言ってくる生徒会長にげんなりとした目付きを返した。妙な風評被害を煽らないで欲しいものだが。そもそもバイトと弟の世話が忙しくて彼女など作る余裕はない。
仕方なく彼女に手を引かれて生徒会室から出て、職員室へ向かった。
(見てどうなるでも無いのになあ……)
歳若いというのにすっかり受け身で怠け気味に過ごす生活になっている九朗はそう思う。
学校でも友人かこの生徒会長に振り回されなければ、日なたで茶でも啜っている生活を送っているだろう。それぐらい、枯れた雰囲気の男子なのである。
薄く夕焼けが差す廊下を歩き、やがて職員室の近くに辿り着いた。
他の生徒の姿は見えない。ただ、こちらに背中を向けている二人の女生徒が居た。一人は艶やかな黒髪を腰まで伸ばした女子で、もう一人はなんと青い髪の色をしている少女であった。学校で見たことのない髪色である。
声を潜めて会長が云う。
「九朗君、あれだろうか。しかし髪が青色とは、パンクでもやってるのかね?」
「自然色であるのか? 青髪とは」
「さて。ちなみに緑髪は外国であったそうだ。なんというか、街の水道管に大量の銅が溶け込みシャワーを浴びた人が緑髪になるという奇病だったのだが」
「嫌すぎる」
話し合っていると、その二人がこちらに気づいた様子だったので会長が話しかける。
「やあこんにちは。私はこの学校の生徒会長をやっている者だが、今度転校してくる方々だね? おっと、ほら君も挨拶したまえ」
言って、九朗を前に出すので彼は頭を掻きながらいつもの半眼で一応名乗る。
「はじめまして。己れは会計の九朗だ」
そしてその黒髪の転校生を見た。
人形めいた整った顔に無表情を貼り付けた、西欧風の顔立ちの少女が九朗を見上げている。外国人だが、別段背中に羽根が生えているわけでも黒眼に金瞳なわけでもない、普通の子である。
彼女は九朗の挨拶に対して、その顔を──にっこりと、自然な笑みに変えて応えた。九朗の後ろにいた会長が、同性でも見惚れるような美しい微笑みだった。
「……はじめまして、クロウ。わたしはクルアハ」
その微笑みを見て──
「あ、れ……」
九朗は何故か、目から泪が零れた。
ただ初対面の少女に笑って挨拶をされただけなのに、抑えきれない熱いものを感じて、理解不能の涙を抑える。
(なんで己れ、泣いてるんだ……)
九朗にクルアハは近づいて彼の手を取った。
「……わたしはここにいるよ」
その一言を言いたくて、あれからひたすら魔導に打ち込み研究を続けてとうとう彼に会いに来れたのである
クロウが生まれ変わり覚えていなくても、見せられなかった笑顔を見せるために。無かったはずの魂さえもいつしか体に宿し、異なる世界の距離をも越えて。
泣けるようになったクルアハは、それでも今は泣かずに笑っていた。
彼女の代わりに九朗が泣いていたからだ。
いつか彼が泣く皆のために笑っていたように、クルアハは微笑んでいる。
「ああ、そうだのう」
九朗の震える喉から自然に言葉が漏れた。
彼女のことは何もわからなかったけど九朗はひたすらに泣き笑いをしていた。
こうして名前を言えた妖精と彼の物語は──はじめましてから、またはじまる。
*****
「なにか私の中で急に負け組ヒロイン警報が鳴り響いているのだがどういうことだろうね」
「ずっとお姉ちゃんのターンってずるいですよね、実際」
なんかこう二人の世界に入ってる九朗とクルアハを見ながら、会長と転校生のイリシアは言い合っていた。




