54話『眼鏡と雨次と周りの人々』
近頃、雨次が眼鏡をかけ始めた。
日本に眼鏡が伝わったのは十六世紀、キリスト教の伝来と共に伝えられ足利の将軍や神君徳川家康も眼鏡を使っていたと言われている。
ただ、当時の眼鏡は耳にかけるつるは無く、鼻にかける形の眼鏡だったようだ。
最初は輸入していた眼鏡だがそのうち日本でも長崎で作られるようになり、西洋での多彩な眼鏡に合わせて鼻の低い日本人にも使い易い眼鏡を改良していくようになった。
鼻に挟む眼鏡や手持ち眼鏡、単眼鏡や紐で顔に括りつける物も現れた。
そんな中で鼻あてと耳にかけるつるの形に注文して作らせた眼鏡を持っている石燕は、流行に乗ったというよりもその先を見て作らせたようであった。
日本でも貴重なその形をした眼鏡のうち一つを、彼女は九郎経由で雨次に渡している。
ともあれ、若干の弱視気味であった雨次は眼鏡をかけることで視界が良くなり、無料で貰った引け目はあるものの本が読みやすいと大層に喜んだという。
そんな雨次少年であったが、現在やや困惑していた。
その日はいつも通り、天爵堂の屋敷に来た。
江戸では本の多くは貸本屋から借りるのが殆どであったが、ここの主の蒐集癖はとりあえず活字のある新しい本が出れば買ってしまう。
集めたそれを売ることも捨てることもせずに、ただ貯めていく。そして何度も読み返し、古い本などは手垢で表紙が掠れているほどであった。
雨次は大抵、最低限の家事を済ませてこの屋敷で本を読み漁っている。
相変わらず自分の机で本を積んで読み漁っている天爵堂に軽く挨拶をした後──相手も聞いているのか聞いていないのか生返事しか返さない──縁側にあぐらを掻いて頬杖を付き[本朝二十不孝]と云う本を読んでいた。
ふと、視線に気づいて顔を上げる。
庭に植えているのか勝手に生えているのか微妙な低いツツジの木の葉に紛れてじっとこちらを見ている少女がいる。
何を思ってか、両手に葉のついた樹の枝を持って──顔を隠している気になっているのかもしれないが──雨次を見ていたのは、地主の娘の小唄だ。
ここ最近──。
具体的に言えば、眼鏡をかけ始めてから彼女の奇行は始まった。
(いや、もともとよくわからない子だったけどさ)
自分で思っていて否定する雨次。そもそも最初から何故か友達になりたがろうとするという謎の少女ではあった。
ともあれここ近頃は、このように本を読んでいたら襖の影から様子を伺っていたり、飯を食べていては天井からぶら下がっていたり、眼鏡をかけっぱなしでついうとうとと午睡した時は気がついたら眼前に居て、思わず寝たフリでやり過ごした。
思えば眼鏡姿で小唄とお遊にあった時にこちらを見て、
「ふぉばばばば」
と、口をあわあわさせつつ動揺して懐から取り出した気付け丸薬を噛み苦しむという反応を見せた。
恐らくはそれからこの妙な監視社会が始まったのだろうと雨次は論理的に判断を下す。
視線に害があるかないかは陪審員の判断に委ねられるかもしれないが、見る自由があるなら拒否する自由があっても良いはずだ。
「小唄」
「ひあっ!?」
(ひあっと来たか……)
まるで話しかけられたことが意外だとでも言わん反応で、むしろ困る。
わかりやすく動揺していて今にも走り去りそうなので、呼び止めた。
「ちょっとこっちに来てくれ」
「ええっ!? ち、近づいても大丈夫か!?」
「ぼくは猛獣か」
「いや、雨次が覚悟ができているかと……」
「猛獣は君のほうか!?」
何故友達と接近するだけで理解不能の覚悟を強いられるのか。世の中は不思議なことだらけだ。
ともあれ本を置いて、小唄を招き座らせた。
そわそわと雨次の顔を見たり目を逸らしたりしている彼女に尋ねる。
「最近、やけに見てくるようだけど……」
「気づいていたのか……」
気づかれていないと思っていたらしい。
哀れを含んだ目で見るとやはりどこか落ち着かなそうに、かつ喜んでいるようであり奇妙だ。
「時々小唄は残念になる──まあそれはともかく。眼鏡をかけてからだと思うんだけど、似合っていないか?」
「そんなことはない!」
握りこぶしを作り大声で明確な否定をしてくる小唄に、気圧される。
ずい、と雨次の方に乗り出して主張したことを自覚したのか、慌てて身を引いた。つい呼吸が荒くなっている事を自覚し、咳払いをする。
「そ、そのだな。雨次は眼鏡をかけると目付きが柔らかくなったじゃないか」
「自分じゃ気づかないけど……まあ、目を細めて字を読もうとすることは少なくなったかなあ」
「それでこう、雰囲気が優しい感じというか……それでいてそっけない態度がまたあれというか……いや前までのちょっと捻くれた雨次が駄目だったというわけじゃないんだぞ! あれもあれで! しかしこう、新たな飛び道具が効いてきて私にありがたくも……」
「……よく意味がわからないんだが」
くびを傾げる。
しどろもどろに言葉を濁したりしながら言い訳がましい説明をするのだから、雨次にしてみればまるで要領を得ない。
つまるところ小唄は──眼鏡属性のついた雨次によりいっそうの好感を持っているのであった。
彼女からしてみれば青天の霹靂めいた変化であったのだ。目付きの悪い厭世的な読書少年から、理知的な目元の柔らかい文学少年にクラスチェンジを眼鏡という一品だけで行えるまさに魔法の道具。
というわけで顔を見ていたいのだが妙な照れが混じっての奇行になっているのであった。
台所がある方向の廊下からお遊がぺたぺたとした足音を立ててやってきた。口には勝手に食べているのであろう桜の葉の塩漬けが咥えられている。
「つまりー、雨次の顔が変わってるからちょっとネズちゃん戸惑ってただけだってさー」
「そう、それだ私が言いたかったことは」
「なんだ……うーん、しかし眼鏡は折角貰ったものだから、外すわけにもいかな」
「いや! 外さなくていい!」
「……なんでそんな必死なんだ?」
どうにも、雨次にはよくわからぬ世界の話のようだった。
そも、母に似ている事が苦手──今はそれほどでもないが──と思っていた自分以外に、誰が何の目的で自分の顔を気にするというのか、不思議であった。
後ろからのしかかるようにしてくるお遊がぐにぐにと雨次の頬を軽くつねり遊ぶようにしながら、いつも通りの爛漫とした笑顔のままでお遊が言ってくる。
「ネズちゃんは雨次の顔好きだもんねー」
「ち、違うぞ!? いや、嫌いというわけではないけど……なんか刺がある言い方じゃないか!」
「いやだって、雨次と友達になろうとしたのも顔が良かったからなわけでー」
「よし! その話題はやめよう! はいはい終わり!」
そのお遊はまったく変わらぬ笑顔なのに、小唄は嫌な迫力と金属質の気配を感じる時があった。
笑顔も固定されているというのならば無表情と同じではないか、と背中を汗で湿らせつつも小唄は考える。
(私が引け目を感じてそう思っているだけなのかもしれないが……)
実際に雨次と友達になったのは、彼に何か惹かれるものを感じたからなのだが、それが容姿であったかはもはや彼女も正確には覚えていない。だが人にそう言われるとそうだったのかと思ってしまう。実際に好みの顔立ちをしているからだ。
もしかしたら前世か何かで付き合いのあったのでは、と字の練習の為に書いている日記に記したら父親に読まれて大笑しながら冷やかされたのだが。その時刺した傷はまだ彼の尻に残っている。というか話題に出してくる度に刺している。
懐いた猫のように座っている雨次にくっつこうとしては鬱陶しがられているお遊を見ながら、小唄は牽制されたような遣り取りが心にしこりとなって残るのであった。
*****
翌日。
緑のむじな亭にて。
「──ええと、眼鏡をかけた雨次君の顔が好きなだけで本質はどうでもいいのではないかと自分が思っている可能性があるのではないかと疑っている……ええい面倒くさい悩みだね」
江戸唯一と言ってもいいかもしれない眼鏡っ娘(自称)の鳥山石燕は本日の相談ゲストの持ってきた話題に苦笑いを浮かべた。
仮定と否定を織り交ぜた婉曲的表現であるが、年頃の娘の悩みなどそんなものである。
茶化すにしても本人が顔を暗く曇らせている上に同じ眼鏡属性に関わることなので、
「悩み解決の手助けをすることはやぶさかではないが……」
石燕が急須から湯を注いで小唄の前にも出す。まあ、湯と言っても般若湯だが。
「天爵堂には相談したのかね?」
「先生は『そういう面ど……いや、若々しく華やいだ話は船月堂と九郎先生に聞いてもらいなさい』と」
「あからさまに面倒だから回してきてるね、こちらに」
彼女はふむと言って一口酒を飲みながら、
「まあ確かに、眼鏡属性は男女関わらず良いものだと思うよ。顔に愛嬌が出つつも真面目な感じに見えるのではないか、ねー?」
ちらちらと隣に座って茶を飲んでいる九郎を見ながら石燕が云うが、
「……お、茶柱が立った」
「この反応だよ! まったく理解し難いね!」
「九郎先生の話題への興味なさがうちの先生並だ……」
見合いなどならともかく、思春期の悩みに関しては中々に難しいものがある。それ以上に終わっているのが彼自身だが、
だいたい、眼鏡の良さと言われても彼の知り合いで眼鏡を掛けている女性と言えば魔王と石燕ぐらいである。どちらも問題児だ。
前に魔王城に居た時にもヨグから、
『くーちゃんを眼鏡っ娘好きにするためにまずはアニメで洗脳するよ! イモータル準備して!』
『了解致しました。ではこちらの[直球表題ロボットアニメ]を上映致します』
『……あれ!? 眼鏡は眼鏡だけど地味にメイドロボ物選んでないかな!?』
などと云う事があったが、結局枯れ老人である九郎には理解できなかった。適当に話を合わせて「眼鏡っ娘って、外した時可愛いってやつだろう?」というような発言で泣いて怒られたりもした。全然わかってないらしい。
石燕はともあれ小唄に向き直って優しげに云う。
「ふふふ……若い内から悩むことは良い事だよ。恋とか愛って素晴らしいものなの胸のときめきが溢れる人生の宝物……」
「おい石燕。何か耳障りのいいことを言っている拒絶反応で口に含んだ酒が飲み込めずに垂れてるぞ」
「まずは彼の眼鏡と褌を奪って振り回しつつ『ふぇーへへ眼鏡眼鏡ぇ!』と言いながら踊り狂う姿を見せればいいんじゃないかな」
「奈落に突き落とす助言を行うな」
年齢が半分ぐらい年下の相手の恋の相談を受けているせいだろうか。真顔で駄目な事を教える。
神妙な顔で持ってきた紙にメモを取っている小唄も小唄だが。少々自分を見失っているようである。
九郎は机に肘をついて横目で石燕を見つつ、
「そもそもこの妖怪愛好が行き過ぎた後家に相談してものう。江戸の後家集団、[黒後家友の会]の会長だぞ、こやつ」
「自分で作っておいて何だけど足の引っ張り合いにだけは定評がある鬼女の会になったよ……!」
「うわあ」
軽く冷や汗を拭う石燕の反応に、小唄が呻く。
石燕が後家になった時に趣味などの共有や互助組織として商家の後家が集まって作られたのが[黒後家友の会]なのだが、現在ではいかに水面下の努力を隠しつつ優雅に見せて、相手を褒めつつ自分を褒めさせる実際殺伐な雰囲気で茶会や生花などのバトルが行われている。
会長をやっている石燕などは多芸多才に遺産もたっぷりで遊び歩いたり若いヒモと仲良くなったりしているので羨ましがられ、つまりは共通の敵になっている。会長を共通の敵とすれば会員の繋がりや信頼関係は強固になるのだが、当の悪役は溜まったものではない。
さすがの石燕もそれを思い出すと疲れた表情を見せる。
「はあ……誰か代わりに会長してくれる後家さんは居ないものかね。私はもう有閑気取り婦人の矢面に立たされるのは御免だよ……彼女らを参考に[青女房][毛倡妓][骨女]と妖怪画を三つ続けて出した件でいまだに嫌味を言われる」
「雨次の母親でも入らせて見るか?」
「それは止めたほうが……ところで私の相談なんですが」
「おう、そうだったのう」
小唄が話を戻したそうな様子なので九郎は江戸に蔓延る鬼女の話題はひとまず置いた。
「つまり、雨次の事を好きなのは顔が好みだから性格その他はあばたもえくぼ的に好みになっているだけであって、本当に奴のことを理解して好きなのか不安なのだな」
「うっ……ま、まあ好きとか好きじゃないとかそこまで大袈裟なあれじゃないのですがまあその、友人的に見て相手の性格などもちゃんと認めて好きになっているのだろうかとかお遊ちゃんと違ってまだ付き合いが浅いからその」
「ふふふ、肝心なときにヘタレる負け組な性格をしているようだね……!」
ひたすらに言い訳がましい小唄を半眼で見る九郎と、なにか居た堪れない石燕である。
「よいか? ネズ子よ。顔が好みと云うのは別段、引け目を感じることではないのだ。そもそも顔に人格というものは──まあ偽って無ければ現れる。雨次はあまり顔芸は上手く無いからのう。それでその顔が好みというのは、にじみ出る其奴の性根も含めて好みになったというものだ。
出会いの印象がどこであろうが、付き合って浅かろうが、好きになったということは変わるまい。性格を知って嫌いになったとかそういうものも無いのだろう。あやつは少しひねているが、根は良いからのう。誰に遠慮をするものか」
「九郎先生……」
励まされて小唄は敬う視線を向ける。九郎の言うことには根拠はない後押しなのだが、大抵女性というのは論理的な答えよりそういうものを求めている傾向にあると九郎は知っている。知っているが故に、それらしい事を述べているだけである。
「雨次の奴は鈍感だからのう。そうそう気づかぬが。やれやれ、女心のわからぬ奴は困ったものだな」
「あ、今ツッコミ入った。何処かでツッコミ入ったよ。多分時間とか次元とか越えて。代わりに私がやっておこう──君が云うな」
「年をとって頑固になってるだけあって余計に自覚しないんですよね……」
渋面で女性二人から文句を言われたので、やはり老人が女心を語るべきではないか、と九郎も胸中で頷く。
石燕は溜め息の後に慣れた様子で気分を切り替え、にやついた笑みを浮かべる。
「ま、確かに雨次君はちょっと顔が良いからね。農民町人顔ではなく、武家や公家の血が混じっているのだと思うが」
「顔でそこまでわかるんですか?」
「そうだとも。これでも絵描きだから人種による顔の特徴などはすぐに目につく。特に公家などは五代も十代もずっと京の都で公家暮らしをしているのだよ。子孫も骨格から変わってくるものさ」
得意気に云った。
実際に侍と町人はそれほど大きな変わりは無くとも、京都の公家などはすぐのそれと知れる気品のある顔つきに勝手になっていたようだ。
食べるものもずっと雑穀を食べている農民と、柔らかな京料理を食う公家ではえらの張りや顎の細さも違ってくる。
公家の者が町人との間に産ませて捨てた落胤などは美男美女がやはり多かったと言われている。
微妙な顔で小唄が般若湯を飲み干したのを見て更に注ぎつつ、
「とにかく私は小唄君を応援しているから頑張って雨次君とくっつきたまえよ」
「く、くっつくって……」
「なにせ金を賭けているからね!」
「……」
やや赤らんだ顔をした小唄の目が細められた。
石燕は胸元から丸められた証文を取り出して上機嫌にそれを見せつける。そこには知っている名の署名が書かれていた。
「ほら。一人頭一両で、私は小唄君。九郎君は茨ちゃん、天爵堂はお遊ちゃんだね。将翁が全員とくっつくに賭けて、影兵衛君は途中で刺されるに賭けている。楽しみだね!」
「ちょっと待て!? この大人達最悪だ! どういうことですか九郎先生!」
「すまぬが己れは雨茨派でな。一般論からの助言ぐらいはするが……」
「派閥の名前まで出来てる!? っていうかぜ、全員とくっつくとか刺されるってなんだぁっ!」
「美少年となればその程度起こりうる事態だよ」
般若湯で酔って気が昂ぶっているのか、噛み付くような勢いで怒る小唄。
微笑ましく見守られるのも恥ずかしいが、自分らの関係が酒の肴にされているとは許しがたい。
いつも通り緑のむじな亭の常連たちは、九郎や石燕が同卓の者と騒いでいても今更気にはしないのだが、前掛けを付けたタマが般若湯のお代わりを持って近づいた。
「美少年の話題と聞いて僕登場タマ」
「ふふふ、タマ君も美少年ならなんでも起こると思わないかね?」
「当然ですよ。美少年なら嫁の十人や二十人。背中の刺し傷の十や二十当然ですとも」
「うむそうだろうそうだろう。頭を撫でてやろう」
「石燕さんはこっちが悪戯しなくても絡んでくれるから最高タマ」
「悪い顔だぁ……」
半ば酔っ払った石燕に頭を抱かれて邪まに笑うタマに小唄が引く。
セクハラをされたらお房から制裁が飛んでくるし石燕も良い顔をしないのだが、酔って寛容になった彼女から絡んでくる場合は別だ。美少年相手なのでガードが低い。九郎は絡まれても鬱陶しく思うだけでタマは静かに喜ぶのみなので、中々絡み甲斐が無いといえばそうなのだが。
胸の感触を楽しみつつ彼はくるりと小唄の方を見て、宣託を与える預言者のように厳かに告げた。
「ところで迷える少女よ、僕で良ければ素晴らしい助言を与えてあげよう。なにせこう見えて僕はかつて一ヵ月に五十人の男を骨抜きにした超絶持て囃され人間なのです」
「はあ。五十人……男? え? え?」
「他の人には聞かせない内緒の手繰だから……」
と、周囲を見回す仕草を見せてタマは両手で口の端を隠しながら小唄の耳元に近づいてきた。
何故男が男を骨抜きにするのかさっぱりわからず混乱している小唄だったが、同年代の少年からの助言ということで素直に聞こうと耳を近づけ──
九郎が痛ましい顔をして、石燕がにやにやしているのが疑問だったが。
「……ふぅ~」
「ぐきゃああああ!?」
迂闊である。
タマの口車に乗って耳など貸すものだから──耳に息を吹き込まれた小唄であった。噛まれなかっただけマシである。最悪舐めて穿られる。もはや寄生生物だ。奴ら脳を吸い取るぞ。
転瞬、タマは小唄に突き飛ばされ、さらに追撃でお房が振るい唸りを上げたアダマンハリセンに殴られ壁に叩き付けられた。
「ぐっはあ……!」
更に飛来した苦無と手裏剣が顔面付近や股、袖などを縫い止めるように突き刺さる。頭に関しては咄嗟にタマは首を捻って避けたが、眉間のあたりに。
小唄は酒の入った顔を更に赤くして、涙目にまでなって睨んでいる。
「わ、わ、私の初耳を……雨次にあげるつもりだったのに!」
「……それ奪われたりあげたりするものであることが初耳だのう……」
「いや、まあタマ君が悪いのだがね」
壁に磔になったまま更にお房からハリセンでどつかれて全身ぼろぼろになりながらも、
「お客に。手を出すなって。何度も言ったわよね?」
「触ってない……触ってないタマ……あと僕の助言は奪われかねないものなら、先に相手に与えるようにしなさいってことを行動で伝え……御免今考えたタマ」
そう言い残して、快音を出す一撃が顎に入ったことで気を失った。正確には花魁時代からの特技で寝たフリをしているのだが、そうそう見破られるものではない。
苦情を言いたい相手が寝ては吐き出しきれずに、憤慨を伴って小唄は再び座った。
愛想笑いを浮かべた石燕が、
「まあここは般若湯でも呑んで忘れたまえ。猫に噛まれたようなものだよ」
「不真面目過ぎます!」
湯のみから茶碗に容れ物を変えて、波々と注いだそれを一息で煽る小唄。
まだ十二、三の少女なのでそれだけでかなり回ってきている。ちなみに決して子供への飲酒を奨励している訳ではない。あくまで般若湯だ。
彼女は呂律も怪しくなりつつも怒った様子は崩さない。
「ひゃんと忘れられりゅんですか!?」
「ど、どうだろうね九郎君。こういうのは体質があるからなあ」
「そうだなあ……よし、こうして見よう」
そう云うと、九郎は財布から取り出した一文銭に細長い布製品を通して振り子を作る。
「おや、それは……一昨日見世物小屋に行った時に見たまじないの振り子だね?」
「うむ。これを振って狐憑きを再現していたが……」
謂わば、即席の催眠術具であった。どの程度効果があるのかは不明だが、江戸時代ならば信心深いのでなんとかなるんじゃないかという安易な考えで九郎はそれを小唄の前で揺らした。
ショックを受けていることと酔っていることもあり、ぼんやりと目の光を無くして小唄はそれを注視する。
ゆっくりと言葉を唱えて繰り返した。
「初耳のことは忘れる……初耳のことは忘れる……」
「忘れ……初耳……忘れ……」
「効いているか……?」
「初……耳……初音……耳作……初音耳作……」
「あっなんか失敗した気がする」
九郎が振り子を止めるが小唄は耳からボーカロイド芸人の名を唱え続けた。
まだ催眠術は研究の余地があるようだ。失敗を糧に前に進む事こそが人類の進歩を招いた。尊い犠牲があるからこそ、それを忘れずに涙を拭い次へ活かそうと思う九郎であった……。
ともあれ、顔の前で手を叩いて催眠から起こした時には忘れていたので結果オーライだと納得して忘れることにしたのだが。
小唄は据わった目になりながら般若湯をちびちび飲みつつ机に頬を付けて伏せて管を巻く。
「私らって精一杯なんれすよ……もしかひたら私が雨次の好みから外れしゅぎてるのかも……」
「若いのに酒を呑んで愚痴を言っておると石燕のようになるぞ」
「深刻な風評被害は止めたまえ」
「はあ……男の子ってどういう女がしゅきなんでしょうね……お遊ちゃんみたいな明るい子や茨みたいな従順な子がいいのかな……」
ネガティブな思考になった小唄は自虐的な乾いた笑みを浮かべながらうめき声を垂れていた。
眠そうに半分閉ざされた彼女の半眼が、雨次と同じく女性関係に鈍い九郎を捉えてふと疑問をこぼす。
「例えば……九郎先生はどんな子が好みなんれすかね」
「己れか?」
ぐっ。
石燕が親指を立てて小唄に笑顔を送った。ナイス質問だ。超石燕君人形を後であげよう。集めると江戸三十三箇所巡りの旅に行ける。出発も期限も勝手で費用も自分持ちという自由な企画で。
突然振られた話題に腕を組んで眉根を寄せ、九郎は一応考える素振りを見せる。
「ううむ、己れはもう枯れてるからのう……いまさらあまり気にすることは無いが。そうだな、敢えて云うなら」
「云うなら?」
「金持ちなら良い」
「……」
「……」
真顔で、云った。
これは単に九郎が異世界の役場で働いていた頃に市民窓口で訴訟相談や多重債務などの応対を行っていて、借金や貧困や低賃金長時間労働などのきつさを目の当たりにしたことから──高額の借金を抱えてなく、生活に苦しまない財力を持っている方が好ましい、程度の意味を恋愛とは関係ない評価として一言で口にしたのだが。
どうも時折、表現が誤解を招くことがある。
少なくとも女性の目の前で堂々と云う言葉ではなかった。小唄など青醒めた顔で見ている。
一方で石燕は、身を乗り出して対面の小唄を引き寄せ、九郎から顔を背けつつ上擦った小さな声で云う。
「こ、これは遠回しな告白じゃないかね……!」
「こんな最低な告白があってたまるものですか……!」
全力で否定された。小唄の中で九郎に対する評価が絶賛暴落中だ。
決して未亡人が金を持っているからといってうきうきして確認しようとする内容ではない。警戒した小唄の眼差しに、九郎は訝しげである。
しかしやがて、小唄は大あくびを一つして
「くう」
と、寝てしまった。
般若湯が回りきったのだろう。そこらのものではない、上等な甘口ですっきりとした味をしているものだから、子供でも飲めるのだ。
昼間から子供の恋愛事情をからかいつつ酔い潰させる大人達である。
まともとは言い難い。
それにしても、小唄をどうしたものか。起きるまで放置しても目覚めて体調が良くなっているとは限らない。見なかったことにして川に流す、という案もあるがやはり目撃者が多い。
やはり九郎が背負って家に運搬するのが容易いが、最近彼は良く誰かを背負っている気がしておんぶ妖怪の呪いかもしれないと少々気後れした。
(都合よく雨次でも来れば良いのだが……)
思っていると、店に入ってくる聞き慣れた声があった。
「おーう。お八さんの来店だぜー」
名乗った通りの人物だ。動きやすいように作られた緋色の小袖を揺らしながら上機嫌そうに大股で入ってきた。
彼女は早速九郎と石燕を見やって、呆れた吐息をこぼす。
「まぁた昼間っから酒呑んでるのかよ。お天道様もいい夏日和だっつーのに屋根の下で」
「ほれ、言われておるぞ石燕」
「だって日が照っているのに外だと喪服が熱くなるではないか」
「こやつめははは」
「ふふふ」
「二人共だよ!」
煙に巻いて再び乾杯の音頭を取った二人にお八が食って掛かった。
そして二人の正面で涎を垂らしながら泥酔している少女を見て、
「他のやつまで巻き込んでまあ……いや、丁度良かったか。おい、雨次。手前のお友達が来てんぞ」
彼女は外に呼びかけると、眼鏡の少年とそれに連れられて背中に米一斗の櫃を背負った青みがかった肌の少女が店に入ってきた。
雨次と茨だ。
確かに、変わった眼鏡を掛けていることもあるが目を引く顔立ちをしている、と石燕も思う。
お八は得意気に、
「さっき町中で珍平に絡まれててな、あたしが助けてやったんだぜ」
「お主もまた喧嘩など……大丈夫だったのか?」
「はっ、ちょいと川に放り込んでやったぜ。ま、その後仲間が三人ばかり出てきたんだけど通りかかった利悟のおっさんが全員即座に縄で縛って川で水責めを初めたら与力に殴られてた」
「殴られるところまで含めてたまにはいい仕事をするな、あやつも」
「目付きが怖かったので珍平以上に茨に近づいて欲しくなかったんですが、あの人」
胡乱げな目付きではしゃぎ子供の危機を救いに現れた同心を思い出して評価する雨次。ここぞとばかりに活躍を図り、市中で拷問を始めた利悟も縄で縛り付けられて番所まで御用になってしまったが、その表情は自己満足に明るかったという。愛するものを守るため傷つくこともあるだろうが、それに酔っているあたりが駄目な男であった。
それにしてもお八という少女、去年から習っている武術の腕がめきめきと上達して今や、大人の男でも不意を付けば痛打を与えられるほどになっている。
剣術はまだまだだが、格闘や棒術は覚えが良いので同年代と喧嘩すればそう負けないだろう。
喧嘩の為に習っていたのではなく、知り合いを守るためとは言え不逞の輩相手にそれを振るったとなると親にきつく叱られるだろうが。
九郎は雨次の後ろにぴったりと付いて回っている茨を微笑ましく見ながら云う。
「今日は米を買いに出たのか」
「ああ、はい。茨にも買い物を教えようと」
「ふむ。しかし重そうな荷物を女子に持たせるのは少しばかり情けない気がするよ?」
「……持てないわけじゃないのですが、茨がどうしても持つと」
バツが悪そうに振り返るが、癖毛の同居人はふんすと鼻息荒く軽々持っている様子をアピールした。
一斗の米と言うと、十五キログラムもある。雨次ほどの年齢ならば持てないことはないが、ここから千駄ヶ谷まで運ぶのは少々骨な気もするけれども、元来腕力の強い茨は平気なのだという。
お八はぐだぐだになった小唄を突付き「酒臭」と呟いて雨次に云う。
「手前の近所の子だろ? 持って帰ってやれよ」
「小唄じゃないか。またなんでこんなところで……はあ」
溜め息を吐きつつも仕方ないので背負おうとして小唄に近づいた。
雨次は、
(そういえば少し昔までは、他人を介抱しようなんて考えもしなかったな)
と、感傷のようなものを覚えつつも友達になった彼女らにはそれぐらいしてやらねば、とも思う。
その様子を石燕が見つつ良い顔で酒を飲み、にやりと笑った。
「よしっ」
「いや待て雨次よ。いかに小唄は少女とはいえ米よりは重い。茨の荷物をお主が持って、小唄の躰は茨に運んで貰ったほうが賢い」
「何を言ってるのかね九郎君! 妨害工作は止めたまえ! 女の子の体重を云うのもだ! 少女は皆羽根のように軽い!」
……本人らの都合そっちのけで雨茨派と雨唄派で行動選択の奪い合いがおっ始まっていた。
すると、店の中でこちらに背を向けて座っていた男が立ち上がった。
背中からは何の変哲もない中肉中背のようだったのだが、如何にして姿をそう装っていたのか、立ち上がると筋骨隆々の大男に見える。
頭に手ぬぐいを巻いて人相を隠していた──隠せるはずはないのだが不思議と気付かなかった──男は重々しい声を上げる。
「むぁああてええ……! 酔っ払った娘を連れて行く一見大人しそうな眼鏡野郎なんざ、送り狼そのものじゃねえか! そうやって世間知らずの子を誑し込むなんざ、飲み会の神が認めてもこの甚八丸様が認めねえええ……!」
「ここで保護者の登場かね……!」
「そもそもねおじさん、酒とか風邪とかそういう状態の時に仕掛けるなんざ邪道だと思うの! そりゃ容易く進展するけどさ、そんなんじゃないじゃない、こういうのはさあ、もっと自然な時にゆっくりと育まなきゃあ……!」
「そして結構こだわりがあるロマンチストだのう」
熱弁する甚八丸だったが、やはり雨次と茨はよくわからぬとばかりに首を傾げて、小唄は健康的な寝息を立てたまま聞いていない。
彼は眠っている小唄をひょいと肩に担ぐ。さながら、少女を攫う山賊と言った雰囲気だ。
そしてびしりと雨次を指さして地の底から湧き上がるような低い声で言って聞かす。
「小僧ぉぉう!」
「え、はあ」
「せめてちったぁ体鍛えやがれぇ! 青瓢箪じゃ認めねえぞ! あと珍もげろ!」
「なにが!?」
云うだけ云って、彼は娘を背負ったまま外に走りだした。小唄の寝ていた場所にいつの間にか彼の食った蕎麦と小唄の飲んだ般若湯の飲み代が置かれている。
ぽかんと見送って雨次は、
「……この店の客層って変人多くないかなあ……」
「云うな」
率直な感想を告げるので、薄々自覚している九郎は諦めたように応える。
そんな雨次の背中を軽くお八が小突いて、
「っていうか鍛えろってのは実際そうだぜ。なんつーか手前、虐められ気配みたいなの出てるから自分の身ぐらい守れるようにしとけよ」
「ううう、そうだろうか」
さすがに、今日先ほど珍平に絡まれた上にお八に助けてもらっては言い返しようが無い。
今日だけのことではなく、千駄ヶ谷の村でも他の子供に石を投げられる──小唄が居ない時にだが──ことも、町で悪そうな輩に目をつけられることも何度もあったことだ。
見た目が良く目立つのに育ちが賎しいため、態度にもどこか出ているのだろう。
自分一人ならば耐えるなりすれば良いが、今日などは茨を連れていたので彼女まで巻き込みかねない。
お八はにんまりと口の端を上げながら、
「だから、うちの師匠がとりあえず稽古に来てみろって言ってただろ。なに、最初は何の用意もいらないし金は通うと決めてからでいいってさ」
「剣術か……あまりぼくが得意になってるのが想像できない……」
「晃之介のところは己れも良いと思うぞ。なにせ多様だからのう。自分にあったものだけでも身につけられるかもしれん」
九郎もそう勧めるので、雨次は以前に影兵衛に言われたことも考えてやはり鍛えなければと思い「九郎さんがそう云うなら……」と、顔を出すことを決めた。どうやらまだ九郎の信頼性は見限られていないようである。しかしやはり筋肉が重要なのだ。男はハルクを目指さねばならない使命がいつの時代、どこだってあるはずだ。
お八が九郎も呼んで、
「じゃ、これから一緒に鎧神社に行こうぜ。九郎もどうせ暇なんだろ」
「ふむ……ま、勧めておいて知らん顔するのもな。石燕はどうする?」
「ふふふ。あの神社超呪われてるから行きたくないお酒呑んでる」
「おい妖怪狩人」
震え混じりに首を振り立ち上がろうとせずに酒を飲む石燕であった。
妖怪を見たい怨霊を見たい好奇心と、実害があるレベルで呪われている土地に何度も足を運びたいという感情は別のようである。
九郎を連れて四人で出て行ったあとで一人残された石燕に追加で酒を持ってきたお房がぽつりと言った。
「お八姉ちゃんも実家はお金持ちなの」
「ごふっ」
思わず、むせた。
だらだらと口から垂らした酒が卓を濡らし、受け取った台拭きで拭わされる石燕であった。
*****
六天流の道場で打ち込みに使う立ち木は、青竹に筵を幾重も巻きつけ、その上から膠を塗った獣の皮──熊や猪のそれを使う。
こうすると皮の粘りが強くなり、日に千回木剣で打ち付けても朽ちぬという。
にわかに六天流道場になっている鎧神社の境内、裏の林にその柱は立っていた。
そこに縄で小器用に九郎とお八が雨次を縛り付ける。
「え? え?」
きょろきょろと二人を見回すが、気がつけばがっちりと手足から腰まで縛られて動けないようになってしまった。
茨もぽかんとその様子を見ている。
涼し気な顔をした録山晃之介が、住んでいる物置小屋から木剣大小、棒、木槍、弓、の五つを持ってきて確りと固定された様子に、
「よし、その程度でいいだろう」
と、指示を出すと二人は離れた。
眼鏡をかけたまま身動きの取れぬ雨次は、とりあえず眼前の晃之介に呼びかける。
「あのこれは……」
「ああ。俺の流派ではとりあえず目を慣らして度胸をつけることから始まるからな。どんな状況だろうと目を閉じてはいけない。人間の体というのはどのような構え、武器を持っていても必ず付け入る隙があるからそれを見極めるためにな。寸止めで技の型を放っていくから、目を閉じたら駄目だぞ」
「寸止め。寸止めですよね? 本当に大丈夫なんですよね?」
不安そうに呼びかけるが、当然のことなので当然のようにスルーされた。どちらにせよ間違いなくこなすのならば安心させる意味は無い。
晃之介はお八に顔を向けて、
「それじゃあ立っている相手に行う素手以外の技、五種合わせて五十四を続けてやるからお八も見ておくようにな」
「わかったぜ」
「頑張るのだぞ、雨次」
「……」
適当に離れたところで座って見物している気楽さに苦情を入れようとした瞬間──風が来た。
額に木剣の先が触れている──さっきまで剣が届く場所に居なかったというのに、いつの間にか近づき音も無く放った突きが額に入った。衝撃はない。だが、突き抜けるものを感じた。それは殺気だ。
(今、死んだ)
濁濁と汗が吹き出てきた。それを自覚する間も無く、意識を眼に戻せばゆっくりにも見える速度で──いや、木剣の周りに暴風が爆ぜているのを幻視する恐るべき速度で喉首を剣が掠める。遅いのではない。死を意識した脳がゆっくりにしか処理を行えないのだ。
寸止め、と言ったがこれが真剣ならば先端が触れた切断力が派生して首を半ば以上するりと切り割りそうな勢いだった。呼吸が止まる。喉を切り落とされる感覚を確かに覚えた。
右からの袈裟懸け──いや、左? 平衡感覚がおかしくなったか判断能力が低下したか、ただ眼の奥が熱く頭の中で狂人が激流下りをしながら酒盛りを開いているような狂奔する高ぶりを感じた。
死の間際で脳内麻薬が過剰分泌されている。口の奥に苦いものを感じ、死の味を宥めるために快楽を脳が与えようとするが、一度ではなく何度も死に続ける恐怖を抑えられるものではなく、完全に脳内麻薬でバッドトリップをするという珍しい状態になっていた。
斬撃が掠める。死ぬ。風圧が体を冷やす。死んだ。不可視の圧力が蝕む。再び死んだ。
即死と蘇生を瞬時に繰り返している感覚を味わっていた。
それほどまでに、寸止めと思えぬ程苛烈な速度と気迫を持つ攻撃が、続けられる。
雨次はそれらを目も閉じられずに受け続ける。
気を失うか狂わせることも出来なかった。
六天流の度胸試しとでも謂うべき臨死体験はそう長い時間は続かなかった。
それでも、縄の束縛から解いた雨次は完全に脱力して立ち上がることさえも不可能で仰向けに倒れて目を抑えて呼吸を荒くしている。
晃之介はそれを見下ろしながら、
「中々、見込みがあるな」
と、嬉しそうに褒めている。
入門すれば後輩になるであろう少年に対する高評価にやや拗ねたように鼻を鳴らすお八。なにせ、彼女が師匠にこれを行われた時は弓の技だけで気を失ってしまった事があるのだ。
茨が神社から貰ってきた水を倒れている雨次に飲ませているのを見つつ、
「そうか? 随分限界って感じだけどよ……」
「子供どころか大人でも、普通は失禁ぐらいするものなんだがそれも無く最後まで目を開けていた。お八も確か」
「ぎゃあああ! そ、それを云うんじゃねえぜ!」
顔を真赤にさせつつ、彼女は隣に居た九郎の耳を塞ぎながら大いに喚いた。もちろん九郎には聞こえていて心のなかでおねしょ娘と云う称号を与えていたのだが。
九郎はほぼ全力かつ当てない六天流の型を演舞した晃之介に、
「しかし、改めて見るといろいろあるのう。あれだ、己れとの練習では使ってないのを」
「お前だって俺との練習では使わないのもあるだろう? それと同じだ」
「ふうん」
言いながらも、やはり武術に関しては自分より晃之介に分があるのを認める九郎である。
自分の隠し球など、防がれて相手の力量を示す為にあるような存在の電撃符と馬鹿力を出せる相力呪符、しぶとい体ぐらいのものである。
(次に影兵衛から襲われそうになったら晃之介を用心棒に雇おう)
そう勝手に決める。
「ま、とにかく雨次は今日はこれで帰すぞ。己れが運んで行こう」
「そうか、助かる。やる気があるなら大歓迎だと気分が良くなったら伝えておいてくれ」
「うむ」
そう言って九郎はひょいと雨次を背負う。手足に力が入らぬ様子で、足を九郎が確り持たねばずり落ちて行きそうだ。
心配そうに茨が見上げているが、やがて彼女も地面に置いていた一斗の米櫃を背負って後ろから雨次の腰を抑えについた。
「えーなんだ九郎もう行くのかよ」
お八が不満そうに云うが、九郎は笑いながら、
「そうだ、この前やった服で何か良い物は作れたかえ?」
「おう。ちょっと変わったやつだけどな。今度持ってくるぜ」
「楽しみにしておるぞ。またな」
と、次の約束をして別れた。
子供の方から老人を訪ねてきてくれるというのはとてもありがたいことだと、九郎は心が暖かくなる思いだ。
たまには小遣いもやろうか……いや、甘い物の方が良いかと思いつつ、千駄ヶ谷へ足を向けた。
後ろから師弟の声が聴こえる。
「それじゃあ、お八。とりあえずさっき見せた型を順番に百回な」
「うっ……し、師匠もう一回見せてくれ」
「仕方ないな。じゃあその柱の前に。正面からも見たほうがわかりやすいだろ」
「……ちょっと先に厠行ってくるぜ」
……消沈したお八の声が、やけに悲しげだった。
*****
雨次を背負って千駄ヶ谷に入る頃には、大分彼の具合も落ち着いたようだった。
しかしまだ足が震えているので九郎の背に居るが。
(そういえば、弟がこれぐらいだったか……?)
ふと、背中に居る雨次の軽さにそういう気がした。
年が離れた弟がかつて日本に居たのだが、もはや記憶を呼び起こしても顔を思い出せない。
郷愁の思いもかなり薄れたが、九郎が僅かに物思いに耽っていると、視界の端にこちらへ飛んでくる数個の石礫に気づくのが遅れた。
軌道の先に十前後の年頃の童がいる。石は土地の子供が雨次に投げつけたものだ。
早く気付けば背負いながらでも避けれたのだが石は近くに迫っていた。手は雨次の足を掴んでいて離れない。
それほどの力が込められた石ではない。本気で雨次を憎んでいるというよりも、この辺りで人気な小唄と仲良く遊んでいるのが気に食わないだけの幼い感情で投げられたものだからだ。
(雨次の頭に当たらぬよう……)
と、身を捩ろうとした時に、九郎の肩に後ろからだらりとかけられていた雨次の細い腕が動き、打ち払うような軽い動きで振るわれ、ぱっと音がした。
石は当たらなかった。外れた一個が近くに落ちて、雨次の振った手に二個が握られている。空中で掴み取ったのだ。
子供達がその様子を見て、騒ぎながら走り去っていった。それを掴んだ雨次も不思議そうにまじまじと石塊を眺める。
近くに飛んでくる石が、先程まで見ていた晃之介の攻撃に比べてまるで止まっているように見えたので、掴んでみただけなのだが──それがあっけなく上手くいった。
「投げられる石って、こんな……怯えたり、恨んだりするほど、強くなかったんだ……」
こんなに簡単に受け止められる物に今まで負けていたのだと思うと、雨次は目元に熱いものがこみ上げてきた。
これまでの少年の境遇を思い、九郎は何も言わずに顔を背中に押し付けて声を殺す彼を家まで送っていった。雨次は泣き声を上げなかったし、茨も無言だった。
雨次は自分を、強くなどなれないから賢くなろうと考えて生きてきたのだが……少しでも強くなれば、世界が広がる事を知るのだった。
夕焼け空に薄雲がかかっている。
五月雨になるかもしれない。九郎は見上げる空に水気の匂いを感じてそう思った。
*****
千駄ヶ谷、天爵堂の屋敷にて。
「てんしゃくどー! あたしと雨次のもっと仲良くなる作戦考えてー!」
「ん? ああ。いつもの調子でくっついて行けばいいんじゃないかな。彼は鈍いからそれぐらいやっておけばそのうち勝手に収まるよ」
「さすが賢いなー! でも他の子とくっついたらどうしようかな」
「それもいつも通りでいいんじゃないかな。なるようになるよ」
天爵堂老人は本から顔を上げもせずに、家に入り浸る──三人生徒の中で最も早く、菓子目当てに遊びに来るようになった少女に適当に答えた。
彼の場合は生徒の恋愛にまったく口を出す意味を感じないのだが、その中で一番アドバイスが雑で良くて勝手にどうにかなりそうなお遊に付き合いで賭けているだけである。
ただ、それ故に──。
「いつも通り……そうだねー」
お遊は懐に入れた包丁を意識しながら、満面の笑みを浮かべて無意味に一人彼の屋敷で踊るように過ごしている。
適当に扱うが故に──生徒の闇にはまったく気づかない天爵堂だった。
侍や幕臣相手には嫌味と弱味を見つけることに長けた元側用人なのだが……彼も実のところ、若い頃はモテても気づかない系統の人種であったのだ。
いつだって楽しげに遊んだり歌ったりしている、朗らかで明るい少々お馬鹿な、孫みたいな年齢の少女の闇に気づけというのも──無理な話であった。
「誰が相手でもー、血が出るならー……あれ? なんだっけ?」
*****
なお、後日どうしても何故か気になって仕方ない小唄が他の三人を誘って初音耳作の見世物を見に行ったという。
その際に余興で行われた振り子式催眠術を見た小唄がフラッシュバックで「ふぇーへへ眼鏡眼鏡ぇ」と錯乱し始め、より残念な印象を彼に与えることになったのだが……上手いこと記憶の欠落によって九郎と石燕は罪に問われなかったという。
まあとにかく、一見仲の良い幼馴染達であった。




