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【RE江戸書籍化】異世界から帰ったら江戸なのである【1~4巻発売中】  作者: 左高例
第四章『別れる道や、続く夏からの章』
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53話『飯屋商売』

 お房という少女は今年で十になるが、頭の出来と手先の器用さは同年代に比べても巧みである。

 それも、彼女の師でありよろずの事を教えている鳥山石燕が、普段の生活態度とは違い熱心に指導をしているからだろう。

 特に専門の絵に関しては既に江戸の絵描きの間でも、


「それと知れた……」


 腕前があるという。

 ある日の事であった。

 彼女が客の居ない店の中でおもむろに墨筆を取り出して、高級な和紙にさらさらと絵を描いているのを、暇そうに九郎とタマが隣の席で眺めている。

 二人して麦湯を飲みながら見ていて、徐々に表情を歪めて茶碗を置いた。

 お房が描いているのは全裸のハゲ散らかした中年男性が脱糞している絵だったのである。

 一目でわかるように装飾を極限まで削り簡素にして気の利いた絵ではあるが、糞絵としか言い様がない。麦湯が不味くなった気がした。


「よし──」


 彼女は出来に満足して書き文字も入れ、ジト目で九郎とタマの方へ絵を渡した。


「それじゃあ二人とも、これをあの店の目立つ所に貼ってくるの」

「酷い風評被害すぎる」


 絵には『此の店の御味噌汁に使われている味噌画』とあり、あの店と言うと近頃同じ通りのそう離れていない場所に出来た飯屋の事であった。

 安くて、旨い。そして腹いっぱい食えると評判の飯屋である。

 その店に客を取られて、久しぶりに緑のむじな亭はここ最近客入りが悪くなっていたのだ。

 故に妨害工作を仕掛けようとしているお房であった。





 ******




 

 緑のむじな亭と同じ通り、大川沿いにあった空き家は以前一人住んでいた老人が味噌問屋をやっていたそうである。

 黒黒とした八丁味噌を長屋の住人や飯屋に売っていたのだが、ある日突然錯乱して味噌樽を噛み砕いて死んでしまった。

 丁稚が慌てて救護したが、うわ言のように、


「味噌竜が味噌吐息を……」


 などと、幻覚でも見たように魘されてそのまま亡くなったのである。 

 どうもそうなれば、


「なんとも不気味な……」

 

 という事になり、丁稚は故郷に帰り店跡は閉ざされたままになったのだという。

 その場所に今年になって、[白屋]という大根料理を作る店が出来たのを緑のむじな亭が知ったのは最近の事だった。

 むじな亭で酒を飲んでいた辻駕籠の男たちが話していたのである。


「しかし酒を飲むならともかく、飯ならちょいと先に行った白屋って店がいいぜ」

「ほう、どんな店だい?」

「大根と菜を混ぜた飯に大根千切りの味噌汁、漬物に鰯のつみれを入れた含め煮がついてこれを僅か七文で食べさせる!」

「へぇ!」


 その安価に驚いて仲間の男も顔を上げた。現代とは物価が違うので一概に金銭価値が同じではないが、七文は百五十円前後と考えてもいいだろう。

 語っている方は得意気に披露しながら酒を飲みつつ、


「この店の蕎麦だって十六文、飯だって盛り切り一杯で八文もするだろ?」

「ああ、安い店でも納豆でもつけるだけで十文を越える」

「ところがあの店は更に飯と漬物は食い放題と来た!」

「そいつはすげえ。腹一杯食えるな」

「おうよ、それでうちのかみさんも子供二人連れて毎日通ってる。食いざかりだからな」


 辻駕籠二人の会話を、周りの客もちらちらと窺っていた。

 その席にお房が蕎麦の丼を荒々しく置いて、どきりとした二人は口を閉ざした。

 腰に手を当てて少女が云う。


「……お兄さん達、他の店のさくらなら外でやってくれるかしら。できれば江戸の外で」

「ごめんなさい」

「それに二人とも蕎麦好きだからここで蕎麦を食べていくわよね?」

「はい。頂きます」

「お腹いっぱい食べたいならお代わりも必要よね?」

「はい。頂きます」


 にっこりと微笑む看板娘に頷いて、二人は蕎麦を手繰るのであった。

 ともあれ、江戸の世でも口コミによる評判の広がりというものは中々に侮れぬものがある。 

 暫くすると方方に噂は流れて次々に人を呼び、目に見えて周辺の店の客は減っていった。


 この日も昼の時分には白屋の前では行列ができているというのに、近くで開いている緑のむじな亭は数名しか客が入っていない程だ。

 だからといって、


「……営業妨害は止すのだぞ、フサ子よ」


 糞絵を貼ってデマを流すのはさすがに犯罪だ。九郎は憤慨しているお房を止めるのであった。

 彼女は不満そうに口を尖らせて、


「なによ。はっきり言ってここ近辺の店に対する営業妨害してるのは向こうなの。七文なんて価格破壊されたら商売上がったりなの。おまけに対抗して幾つかの店も値下げし始めたし……」


 と、云う。

 消費者であれば嬉しい事かもしれないが、場末の飯屋であるこの店にとっては大きな問題であった。  

 生憎とこの時代では独占禁止法も公正取引委員会も無いために、米などの幕府が管理している物資など以外では価格競争を止められない。

 下手に白屋の天下が続けば、近辺の飯屋はおまんまの食い上げである。

 去年以前は売れない貧しい不味い店であったのだが九郎が来てからはそれなりの売上をしていた為に、いまさらあの状態には戻りたくない。

 お房は不安を紛らわすように文句を続ける。


「というか七文ってのがおかしいのよ。お饅頭二個分じゃない。それで食べ放題って気に入らないの。きっと不正して得たお金で経営のやりくりをしているに決まってるのだわ。ああいう店に限って裏の顔は盗賊だったりするの」

「レッテルまで張り出した……」

「お房ちゃんは商売になると最近怖いですねぇ……」


 九郎とタマが囁き合う。 

 一応、彼女が特別守銭奴というわけではなく、工夫や営業努力をすれば客が増えて儲けが出るという楽しみを知った故の積極性なのだろう。

 きっと、恐らく。

 

「というわけで九郎。あの店の偵察に行って安く値段を抑えているからくりを見つけてくるの。それが非合法だったら容赦なくお友達の同心を突っ込ませて潰すのよ」

「ううむ……まあ、安い仕入れの手段などは参考になるかもしれんが」


 あまり下手ないちゃもんを付けても、それを利用している客からこちらに文句が来るのだが……。

 仕方なさそうに九郎は草鞋を履いて出かけることにするのであった。




 *****




 件の店は四半刻も歩かぬ近所にある。

 何度かは目にしていたが、然程気にすることもなかったのであるが、改めて見ると今の時分は店の外にずらりと人が並んでいた。

 子供連れの女房や大工風の男、食い詰め浪人のような者も見える。

 貧民救済の如き安さだからかやはり町人の姿が多いようだ。

 行列を眺めていると、顔馴染みの茶屋の娘が声をかけてきた。

 大体この辺り近所の店では、変わった髪型に大太刀を佩いた金払いの良い男・九郎の姿は認知されている。江戸に来たての頃は刀を持ち歩き目立つのも難だと思っていたが、同心や岡っ引きと顔見知りになったので今更しょっぴかれることも無いので良いかと開き直っている。


「あっ、お兄さん。あの店に列びに来たので?」

「おうさな。しかし客入りが良すぎると店に入るのにも手間だな」

「うふ、ふ、それじゃあ、列んでいる間に食べるお団子でも買って行きません? 一串三文で売ってます」

「成程……そうやって商売をしてるのか。考えたな」


 と、悪戯っぽく言ってくる娘に九郎は笑いかける。

 他所の客に自分の店の食い物を売りつけるとは中々に強かであった。丁度白屋の飯を合わせて十文になる値段も、それぐらいならいいかと手が出る価格である。腹を空かせて並んでいる子供などもねだるだろう。

 

「ところでお主、あの店の主人はどこのお大尽か知らぬか? 酔狂としか思えぬ値段で売っておるが……」

「あたしも詳しくは知らないけど、蔵前の方で米の先物取引やってるでしょ。あれで成功して大金が手に入ったから店を出したって噂だけど……」

「そうか、そうか。うむ、ありがとうよ」


 九郎は多めに看板娘に銭を握らせてやると、彼女は、


「ありがと、お兄さぁん」


 と、甘えるような黄色い声を上げて九郎の手を握り喜んだ。

 団子を受け取り行列に向かって歩く九郎に笑顔満面で手を振る娘に九郎も軽く手を上げて別れる。

 行列の後尾について団子の串を咥えていると、食い放題ながら客の回転は意外に早く、


「次のお二人さん」

「おっ待ってた、待ってた」

「行こうぜ」


 と、行列は早く進んでいった。

 店から出てくる客の顔色を九郎はじっと見るが、飯が不味かったなどという不満の色は見えなかった。

 

(安かろう不味かろうなら廃れるのも早いのだがな……)


 思いつつも、やがて九郎の順となり店に入る。

 四十人は入れる客席だろうか、それが毎日行列ができるまで売れているのだから大したものである。

 案内された他の客との相席で軽く会釈しつつ座って七文の膳を注文する。

 厨房は仕切り板で見えぬようにしてあるが、竹格子の窓があり声は届くようになっていた。女中が五人ばかり料理や洗い物を分業して行っている様子が見える。

 配膳は男の店員が三人程で行い、忙しそうに板場と店を往復していた。

 大人数の客を回すのにも慣れているようで注文から程なくして九郎の膳は届く。

 大根飯。大根と共に炊いた飯に、刻んだ大根菜を混ぜあわせたものである。米が八、大根と菜が二ぐらいの割合で混ざっていて、程よく蒸れて噛みごたえのある大根の食感も悪くない。

 味噌汁。千切りにした大根と葱、それに少量だが油揚げが入っているのが嬉しい。味噌汁における大根と油揚げの組み合わせは其れだけで飯が進む。味も辛めにしていてぼんやりとしていないのが江戸っ子好みだ。

 漬物も刻み、胡麻を混ぜている。含め煮は鰯の味を大根がよく吸い込んでいて、


「ふむ、中々に美味いなこの含め煮」


 声に出して鰯の味が濃厚なそれで飯を食っていると隣に座った子供連れの女房や職人風の男が話しかけてきた。


「そうでしょう兄ちゃん、これでご飯と漬物は食べ放題っていうんだから、食い盛りの居る貧乏人には大助かりですわ」

「白い飯じゃないってのが少し残念だが、まあ贅沢は云えねえよな。食いでがあってむしろいいや」

「まったく、白屋さまさまだぜ。兄ちゃんもたんまり食っていきな」


 と、褒め称える声が上がる。

 九郎は大根を噛み締めながら首を傾げ、


「しかしその店主のお大尽はどんな御仁なのだろうのう」

「そりゃあんた、ほらあそこで働いている」


 箸を向けられて九郎が見ると、前掛けをした袖なし羽織の中年がにこにことした笑顔で配膳をしたり代金を回収したり、板場に指示を出したりと忙しく立ちまわっていた。


「自分はもうある程度食うに困らねえから、これ以上儲けようとしねえで周りを助けようって考えの立派な主らしい。出た薄利も材料代と給料に使えば殆ど残らねえとか」

「ははあ、無欲なのだなあ」

「この不景気な中珍しいよな、ああ、飯お代わり」

 

 男が茶碗を上げると店員が愛想よく返事して厨房に運んでいく。

 九郎は働く主を見ながら、その様子に悪どい気配や後ろめたさなどを感じないので裏がありそうには思えなかった。

 慈善の食料配給に潜む悪事をといえば、ヤクザが炊き出しを行ったのであるが配給したシチューにシャブが混入されていてシャブシチューを食べた者をシャブ中毒にしようと企んでいたという事件を思い出すが、そういうこともなさそうだ。

 

(成程、安く、味付けは真面目で、救済というほど恩着せがましくない。店主の人柄も良さそうだ)


 九郎はとりあえず膳を平らげて、


「ここに置くぞ」


 と、七文を置き席を立った。

 お代わりはしていないが腹はそれなりに満腹になっている。

 これにも仕掛けがあることに九郎は気づいた。大根を多く使っていることで咀嚼回数が増える料理構成になっているのだ。人の脳は噛む動作を行えばヒスタミンという物質が分泌されて満腹中枢を刺激し満腹になりやすくなるのである。

 安価で提供しているだけあってお代わりをすれば赤字になりやすい。だがこれならば一杯目で満足になる客も多いだろう。


(店も考えている……)


 と、思いながら団子の串を咥えて、川沿いの植えられているすっかり葉桜になった桜に身を預けてそれとなく昼営業の時間がそろそろ終わるはずの白屋を眺めていた。

 ふと、見知った顔の黒袴が通りかかったので声をかける。

 友人という程親しくはないが、店の常連ではあった。年の頃は二十半ば程だが、やや見た目が厳ついので十は老けて見える。

 町方同心の[警邏直帰]水谷端右衛門である。


「見廻りか? ご苦労だのう」

「ああ。……そうだ、昼飯を抜かしたのだが、今日は店をやってるか?」

「うむ。閑古鳥が鳴いているがな。お主はあの流行りの店には行かぬのか?」  

  

 同僚の菅山利悟などの聞いた話によると、端右衛門はあちこちと飯屋を渡り歩いているそうだ。

 独り身で趣味は金のかからぬ鮒釣り、読書。女遊びもしないとなれば金の使い道は飯に行っている男なのである。それでもそこまで裕福というわけではなく、世渡りが下手な男ではあった。

 大食らいの部類に入る為に興味がありそうだがと聞いたが彼は首を振って、


「いや、ああいう混んでいるところは趣味じゃなくてなあ」

「ふむ……」

「料理を食べるとつい考えこむ事が多いから、静かな場所がいいんだ」


 九郎は腕を組みながら頷き、


「意見ありがとうよ。今日の日替わりは蒟蒻丼だぞ」

「……聞いたことがない料理だ」


 と、端右衛門は食う前から色々考えだしたように神妙な顔で緑のむじな亭へ向かっていった。細切りにした蒟蒻と葱を、唐辛子と胡麻油を入れた蕎麦汁で煮たものである。酒の肴にも良いが、飯の上にかけまわして食っても辛くて良い。

 店の様子が窺える茶屋でそれとなく待っていると、昼八ツ(午後二時)を過ぎた頃には夕方の仕込みの為に昼営業を終えたようである。

 客が全て帰った頃合いに、荷車に野菜──大根が殆どだ──を乗せて筵を上から被せた野菜売りが店の裏に入っていく。

 目元に皺を寄せてじっとその野菜売りの姿を見て、九郎は茶屋を立った。

 荷台を軽くして出てきた男に後ろから肩を叩く。


「おい、朝蔵」

「うわっと……あ、あれ? 九郎の旦那じゃねえですかい」


 それは知り合いの職を転々としている食い詰め町人、朝蔵という男であった。

 出会ったのは去年のことで、辻斬の真似事をして晃之介に捕まえられてからちょろちょろと江戸で見かけ、その度に違う仕事をしている。大道芸をしたり、亀を売ったり、ちり紙拾いを手伝い分前を貰ったり、船で賑やかしの太鼓打ちをしたり……

 

「今度は野菜売りか?」

「へ、へえ。いえ、まあ……」


 返答にどこか、含みがあるものを感じて九郎は薄笑いを浮かべた。

 そのまま朝蔵と肩を組んで店から離れていく。


「仕事も終わったのだろう? よし、これからちょいとそこらで呑んでいこう。何、酒手は己れが出すから」

「そ、そりゃありがたい事ですけどよう」

「はっはっは」


 笑いながら男を引っ張っていく九郎であった。

 この店に恨みはないが、安く抑える方法を暴くという手段には面白さを感じているようである。




 *****

 




 その晩──。 

 緑のむじな亭の客も粗方帰り、残った米に番茶をかけて食いながらお房は調査から戻ってきた九郎に尋ねた。

 

「それで九郎、何かわかったの? あの店の店主が血も涙もない押し込み盗賊だとか、無限に大根飯が湧き出る釜を持ってるとか」

「そんな迷い家めいた面白い情報は無かったが……」


 期待に満ちた──相手が陥る期待だが──顔を向けて、ふんすと鼻息荒く対策を求めるお房に九郎は茶碗にへばりついた米粒を箸で取りつつ応える。

 朝蔵に酒を飲ませて、「悪いようにはしないから」と云い含め聞いた話と、隠形符を使い隠れ料理中の板場を覗いてきた事による調査内容であった。

 

「ま、確かに貧民救済をしているのは立派だがつけ入れる小細工は結構あった。一番風評被害を招くのはだな、あの店では普通売り物にならぬ屑大根やの入った古大根をあちこちから二束三文で集めてきておるのだ。

 煮付けに使っておる魚のつみれも、網で捕まえた途中で身が潰れたり欠けたりした猫の餌ぐらいにしかならぬものを混ぜて団子にしておるようだ」

「よし、お花さんの新聞に垂れ込むの。報道の天下御免って素晴らしいわ。だって素晴らしいもの」

「待て待て」


 る気満々なお房をひとまず抑える。


「屑大根に身欠き魚とはいえ、それを旨いこと調理して安くで出していて客が満足しているのならば文句はつけられんぞ。高級な料理として金を高くとっているのなら心象は別だが。

 原料についてあまり突っ込まれると、こっちが新蕎麦の季節に一割ぐらいしか使ってないのに新蕎麦と名乗ったり、下酒と焼酎を混ぜた謎の安酒を提供している事もまあ地味に問題だからのう」

「ぐぬぬ」

「この店そんな事してたタマ……?」


 去年の暮れから働いているタマは店の闇を聞いて悔しがるお房を半眼で見る。

 自分で飲む旨い上酒も置いているが、九郎が酒を合わせ、砂糖──今では[鹿屋]から安く仕入れた黒糖──を少量加えて味を誤魔化した安酒はそこそこの人気である。特に、夏場になるとこれを木に塗るとカブトムシがよく取れると子供にも売れる。

 

「他にも調理場を覗いて見たがな、大根飯を炊くときに塩と酒、それに油を少々入れていたな。炊きあがった時にそれぞれ塩は米がぴんと立ち、酒は旨味が増し、油は見た目の艶がよくなる。それでいて米自体の味が濃くなるから満腹感も見た目より多いのだな。

 蕎麦の味を誤魔化すために麺に唐辛子を練り込んでみるこっちとは随分違うまっとうな工夫だ。拉麺にあるから蕎麦もと思ったが尖りすぎてキツイだけだったが」

「結局あれお父さんしか食べなかったの……」

「旨かったぞ」


 真顔で洗い物をしながら言ってくる味音痴の六科はとりあえず無視された。

 お房は俯き気味に九郎を見つつ尋ねた。


「それで、どう対策するの? お八姉ちゃんに可愛い着物でも作って貰ってタマとあたいで着て接客とか?」

「如何わしい店じゃないんだから……別に特別なことはせんで良いぞ」

「えー」

「敢えていうなら営業時間を長くするか。どうせ昼時分は開店休業状態になるのだからのんびり構えていよ。向こうの店は昼過ぎから夕方まで準備中になるがな、客が来なかったらこっちは開けっ放しにしておけばよい」

「そんなんでいいの? お客取られて潰れないかしら」


 心配そうに云うお房に九郎は皮肉げに笑みを作って返す。

 今まで当たり前の売上になっていた為に、急にそれが鈍ることで過剰に反応しているのだろう。


「なに、己れが来た頃でも長屋の収入でなんとか生き延びてたのだ。そうそう潰れはせぬよ。固定客も居るしのう。ま、様子を見てみよ」


 そういうと、番茶漬けの飯をすっと飲み干して九郎は茶碗を置いた。




 *****




 それから暫くして。

 相変わらず白屋は繁盛をしていて、昼飯時にはむじな亭は数名の客が来る程度の静かなものであった。

 しかし、昼七ツ(午後四時)前後の白屋が閉まっている時間帯にはそれなりに人が入るようになり売上としてはそう悪くない。

 常に店にいる六科とタマは昼の暇な時に食事を取って休んでおけば問題は無く、またこの店は湯や汁を沸かす燃料代が[炎熱符]で無料なので店を開けっ放しにしていても薪代が嵩むわけではなかった。

 これまで昼過ぎに店を閉じていたのは作り置きのおかずの再料理や減った蕎麦の打ち直しなどを行っていたが、昼時に余るとなればする必要も無い。

 それにしても、これまでも開けっ放しに営業していた時はあったのだが、夕方あたりに来る人の数はその時よりも多い。


「どうなってるの?」


 お房の疑問に九郎が早めの晩酌をしながら応える。


「白屋はそこまでお代わりをせんでもその場では満腹になるであろう? それに大根というのは消化に良くてな、あまり量を食えなかった者は後からすぐに腹が減ってくるのだ。

 どうせ昼飯に使ったのは饅頭二個分程度の金だから、蕎麦でも改めて食おうか……とそんな気分になる客が入ってるのだろう」

「へえ。結局お金使っちゃってるのね」

「毎日大根は飽きるしのう。それも騒がしい店内でだ、平気な奴は平気だが、嫌になる者も居るさ」


 水谷端右衛門などがそうである。

 特に、安いとなると身なりの貧しいものが多く集まる傾向もあり、収入のある町人や侍などはむしろ、


「貧乏くせえや、みっともなくて入れるかよ」


 と、見栄を張って入れぬようになる。値段を下げるというのはそれに応じた客層を選ぶということでもあるのだ。

 ぐい、と[氷結符]で冷やした酒を飲んで、刻んで胡麻を振った沢庵漬けを齧る。白屋のをそのまま作ったのである。こりこりした歯応えに胡麻の食感が心地よく、旨い。

 

「それに飯は出すが酒は出さんからな、あの店。時間と客を被らぬようにしてやれば、妙な対策をすることも値下げをすることも要らぬ」


 九郎は余裕そうに、蜜に群がる甲虫の如く酒を飲みに来た他の客を見ながら肩を竦めた。

 意外に九郎、酒場で二十代の頃働いていたこともあり酒の混合が得意なのである。異世界でも仲間に新しい酒の開発を頼まれて、うがい薬を混ぜた酒を作ったことはあるが、成分が法に引っかかりかけて証拠をもみ消したのを懐かしく思う。


(試しに飲ませた仲間キマってたもんな……)


 回復役のスフィまで飲んだのが拙かったのだろう。あの惨事はもう起こすまいと青い星に誓いを立てつつ記憶の奥底に沈めることにした。


「しかし最近は嫁が出来たからか影兵衛が来ぬからな。飲み相手が居なくて……」

「もう限界どあああああ!!」


 叫びながら店に飛び込んできたのは新婚の影兵衛──ではなく、最近幼馴染と同棲中になった利悟であった。

 胡散臭そうな視線が集まるがそれほど異常と思われてない──何故かこの店の常連や固定客は変人が多いので客も慣れている──ようだが、利悟はきょろきょろと店内を見回してお房を見つけると奇声を放ちながら四つん這いの動きで迫った。


「どぅうぇっふぇお房ちゃん! 助けてくれ!」

「ていっなの」


 ごぎゃんとフランスの画家めいた打撃音を出してアダマンハリセンが迫った利悟を叩き潰した。

 彼女は真顔で、


「あら、利悟さんなの。てっきり蟲かと思ったわ。だって這ってたもの。ひょっとして利悟さんによく似た蟲なのかしら」

「いえあの、[青田狩り]ですどうも」

「そ。店に来たのならお客さんよね。椅子に座るといいの」

「はい」


 九郎に酌したタマが密々と話しかける。


「お房ちゃん最近とみにツッコミが苛烈タマ」

「死を乗り越えて強さを手に入れたのだ。まあ、少なくとも迫ってきた稚児趣味野郎は蒸発させても文句は云えまい」

「利悟さんが一銭も持たずに現れた時が命日タマ」


 言い合いながらも、近くに座った利悟がすごく話を聞いて欲しそうな鬱陶しさの高い目でこちらを見つつ徐々に近寄ってくる為に、仕方なく九郎が尋ねる。

 

「で、どうしたのだ? 首になったか?」

「ならないよ!? っていうか聞いてくれよ九郎、瑞葉の奴と暮らして毎日地獄みたいなんだ……! 拙者が何をしたっていうんだよチクショウ……!」

「……」


 半眼で九郎は睨み、言いたそうな利悟に先んじて口を開いた。


「毎朝自分より早く起きて味噌汁と飯と一品作り、仕事の袴は折り目をつけ皺を伸ばして綺麗に揃えて用意しており、掃除も行き届いて布団も干してくれて近頃は野菜の苗を買って庭に植えている世話も行い、帰ったら足湯を用意していて体に良いけんちん汁などを作って疲れていたら揉み治療もしてくれて無計画に使っていた小遣いが切れそうになると内職で稼いだ金をくれるとか……まあそういう悩みだったりせぬよな?」

「そうだよ! ひょっとして見てた? それを十歳前後の少女がしてくれるならともかく年増がするとか拙者に対する嫌がらせにしかならない!」


 周りの客達が顔を見合わせ、物々しい雰囲気を纏った代表が静かに九郎に近づいて手で口元を隠しながら聞いた。


「ええと、その瑞葉とかいうこの咎人同心と暮らしている人は年老いて妖怪化した醜く邪悪な猩々とかそういう?」

「いや、二十前後の涼し気な美人幼馴染だったが」


 九郎の言葉に店の客が一斉に頷き、手に持った茶碗や徳利を振り上げ、投げつけた。


「死ねてめえええええ!!」

「うわっ!? なんで!? 拙者が何をしたっていうんだ……! こんなに拙者と江戸の人で意識の差があるとは思わなかった……! これじゃ拙者、江戸を守りたくなくなっちまうよ……!」

「文句があるならその嫁よこせ糞がああああ!」

「嫁じゃないがそれは駄目だ! 美樹本さんに殺される!」


 店内で乱闘が始まるが、安全圏に退避してお房は冷静に壊れた食器の数を数え紙に記録し、代金を計算し始めている。

 九郎は呆れて、


「時々こっちの店も騒動が起こるのは難点だのう。静かに飲む相手がたまには欲しいが……」


 そう呟くと同時に、お房が入り口に飛び込んできた新たな者を見て云う。


「あ、野生の先生が飛び出して来たの」

「九郎くぅぅぅん! 呼ばれて飛び出て即酩酊……!」

「そして倒れたの」


 派手に動き既に飲んでいた酒が回ったのか、ふらふらと膝を付くのは鳥山石燕だ。

 なにせ移動経路に飲み屋があればとりあえず梯子するという酒場に現れる妖精のような事をやっている為に、辿り着くまでに大分酔っているのであった。

 九郎は呆れた様子で耳まで赤くなっている石燕を抱き上げ、床に座らせた。意識は大分朦朧としていて、首を揺らしている。


「まったく、仕方ないのう。家まで連れて帰るか。騒ぎが収まるまで飲めんし」

「行ってらっしゃいなの」

「うむ」


 九郎はひょいと脱力している石燕を背負って店の外に出て行く。

 そろそろ初夏の季節であるが、夜風は冷えて酔いに丁度良いだろう。神楽坂まで足を進めながら、ふと声に出した。


「……少し重くなったか?」


 以前は骨が詰まってるか不安になるような軽さだった石燕だが、ここの所の体調回復のおかげか良い重みを感じる。  

 後ろから酒臭さを伴った言葉が曖昧に帰ってきた。


「太ってはぁいないよーぅ? あと……ふふふ私は重い女じゃあ……無いからねへぇ……」

「わかったわかった。飲み過ぎだ。明日また苦しむぞ」

「飲んだ朝だけはぁ……妖怪はげんちを信仰しそうになるよぉ……知ってるかねはげんち、酒を水に変える下戸の悪魔……」

「それに取り憑かれて貰え、もう」


 言いながら歩みを進める。


「九郎お兄ちゃああん、帰ったら飲もうねぇ……」

「こんな大きい妹が居たっけか。はいはい妹キャラ妹キャラ」

「ふふふ妹を背負うつまり[妹背]。夫婦を表すのだよ!」

「うわ急に声変えた。そしてしゃっくりが出そうになって気分悪い鳴動をしている」

「うっぷ、早く家にぃ……」

 

 言いながら、夜を往く。

 今にも落ちてきそうな程に星が煌めき、澄んだ空気の夜であった。

 江戸は今日も平和である。





 *****





 後日。

 緑のむじな亭に昼下がり、ひょっこりと録山晃之介が顔を出した。

 結構客入りが多く、蕎麦をすする音が店内に多い。

 その時九郎は店の座敷で、雨次にお遊に小唄と茨が提出した課題の問題用紙に天爵堂から頼まれて朱筆を入れているところであったのだ。

 版元の日雇いで彼の原稿を催促しにいったら代わりに渡されたものである。それぞれ異なる問題が組まれていて、新しく受けるようになった茨はいろはの書取である。声を出せぬから文字を覚えることをさせるのは確かに良い。

 そんな彼を見て同じ座敷に座る。


「九郎」

「なんだ?」

「聞いた話だとこの辺りに毎日盛況な、飯を食い放題の店があるらしいんだが」

「ああ、この前集団食中毒を出して潰れた。五十人も倒れればな……」


 ぼんやりと云う。当たったのは屑大根ではなく、傷んだ魚のほうだろう。

 なにせ、中々食当たりを起こさないことから、当たらない役者を大根役者と云うぐらいだ。

 一方で鰯を叩いて潰し団子にするのは店内の板場で行っていた。細かく刻みつみれにするというのは、それだけ身に触れる空気の面が大きくなり腐敗も早くなる。

 そしてあの店は清潔とも言えない不特定の貧民を毎日何十人も店に出入りさせていたのだ。中には風邪を引いていたものも居るかもしれないし、食品管理環境として良い空気が保たれるとも限らない。

 貧民救済をするために行った事の顛末が集団食中毒とは何とも救われないが、起こるべくして起こった事件である。店の主も店員もむしろ安く値段を抑える知恵と旨く料理する技術もあり、そして善人達であったのだろうが……

 晃之介が溜め息をつきながら、


「俺が行く前で良かった、というべきか。ところで妙にこの店繁盛しているな」


 見回すと、張り紙がしてある。

 [薬膳蕎麦:三十文]

 これは単に蕎麦の具に大蒜と生姜、それに以前拉麺作りで余って貰った五香粉を効かせただけの風味が変わった蕎麦なのだが、ここ数日の売れ筋である。

 なにせ、食中毒が出て急に心配になった者達がこれを目にしてこぞって注文する。晃之介は注視していなかったが、店の外にも貼ってあった。

 晃之介は苦笑いを浮かべながら、


「予め用意していたのか?」

「健康系は多少高いほうが良いからのう。楽な商売だ」


 この友人は時々悪どい知恵を持つものだ、と晃之介は呆れるのであった。

 上機嫌なお房が晃之介の前にも蕎麦を置きながら、


「はい、晃之介さんは特別に五割大盛りにしておいたわ」

「ああ、すまないな」

「値段は晃之介さんだから特別に四割増しでいいの」

「……」


 しれっと告げて下がっていくお房を見ながら、とりあえず蕎麦を箸で掴んで云う。


「しっかりしてるなあ」

「いやまあ、フサ子が値引きするのお主ぐらいだから喜んだほうがいいかもしれんぞ」

「多分金無しだと思われてるんだろうな」

「うむ」


 男二人、そう言い合ってお互いの食事と作業へ戻るのであった。

 一方で利悟は磔場で冷たく横たわっているのを発見されひっそりと息を引き取りかけていたが、うかつに話しかけたのが頑是無い子供だった為に蘇生した。

 




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