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52話『ほしをみるひとたち』


 [明るい職場][事故は無い][かなり安全]などの標語が達筆に書かれてあちこちに貼られている。


 小石川御薬園内に建てられた長屋──小石川養生所でのことであった。

 養生所は江戸人口の増加に伴う下層民への福祉として作られた施設である。経済成長が続いている元禄の頃までは全国の農村から出稼ぎに来た者にも仕事が溢れて良かったのだが、ひと通り発展し終えて享保の頃は既に停滞時期に入っていた。

 そうすると元より農村の共同体に入れずに江戸に流れてきた者は仕事も無く、貧困や孤独になり一度病気にかかれば誰にも看取られずにそのまま死んでしまうこともままあったようだ。 

 社会的弱者に救済策を幕府が取るべきだと、目安箱に施薬院の建てるようにと投書したのが伝通院前で町医者をしていた小川笙船である。

 世情を知る良いアイデアだと思って箱を設置したものの、日頃の愚痴や無記名での個人的批判、さらには


「民から市政の意見を聞こうとする態度は認めるがそれを役人も使わずこのような非効率的な方法で集めるのは如何なものか。足元を確認しながらでは大局的な視野がおろそかになる。前に宗春公からも下々のことを知るのはいいが限度がありそれが返って民を苦しめることになると言われただろう」


 などという内容を分厚い紙束になるまで書き綴った、先代将軍の部下でクビにした老人から投書があったのには閉口した。容赦なく個人攻撃してくるあの人本当に何とかしろよと軽く頭を抱えた。結局、自分が何とかした結果として江戸で暮らす浪人になっているので決して口には出さないしこれ以上どうしようもないのだが。

 そのような中でようやく建設的意見が投げかけられたので、その通りに建設しようという話に進むのは早かったという。

 吉宗は早速、江戸町奉行であり腹心とも言える大岡忠相に検討を命じた。

 そして大岡忠相も投書した笙船を呼び出して共に構想を深めたのだが、その建設・維持費用については、笙船が黒い笑顔で、


「江戸の各町に居る町名主。あれを全部解任してそれの費用を当てましょう」

「いやそれはちょっと」

「どうせ名主なんて金ばっかりかかって何もしてないんですから」

「いやそれはちょっと」


 さすがに忠相もこれには待ったをかけた。下請けの部下を全部首というのは無理である。役人に尻尾を振って金を貰う庄屋は敵とでも云うような、薄ら赤い意志が笙船からは感じられた。

 ともあれ金に関しては幕府が全額負担することで作られたこの福祉施設はまさに救済と言えるほど画期的である。まるで画期的という言葉がこの場で生まれたかのような条件だ。それだけ将軍も乗り気だったのである。

 触れ込みを上げると、


・幕府お抱え医師の内科医、外科医、眼科医をそれぞれ取り揃えている。

・入院患者は食費や治療費などの薬代は無料。

・清潔な服と寝具を貸与。


 と、お触れを出して、これは盛況待った無しだな、と誰もが思い開院したのであった。

 すると何処からか、


「狐面の医者が薬物の人体実験を行っているらしい」

「養生所で死んだ者は山田浅右衛門が骸を持っていくらしい」

「これは幕府の陰謀だよ」


 という根も葉もない噂が囁かれて最初は来院者が少なかったようである。

 とりあえず狐面と首切り役人は呼び出したが当人たちも噂の出処は知らないという。それはいいことを聞いた、と冗談めかして表情の読めぬ顔で言った狐面はとりあえず小石川に立ち寄らないでくれと頼んだ。

 なのでそこで働く中間や同心らは暇なので現在入院している数少ない病人たちには過剰とも言えるもてなし体制で治療逗留を薦めているのだ。

 そして現在──


「大変だ! 例の患者が拘束具を解き放って逃げようとしている!」

「昼飯に出た魚の骨を隠し持ってそれで縄を擦り切ったんだ!」


 大声で中間達が注意を呼びかけている中、次々と長屋の敷居を破りながら出口へと三次元的な機動で飛び向かう獣が居た。

 女だ。

 右手の手首から先は無く、傷口を塞いで縫った痕には薬液が染み込んだ包帯で巻かれている。左足も片足だけ着物から開いてさらけ出し、添え木で固定されて包帯が巻かれているが左手の拘束具を引きちぎり添え木を圧し折りながら捨てた。

 犬歯をぎらつかせる顔にも包帯が巻かれていて、潰れた眼球を抜いた左目を布で塞いでいる。暴れて前開きになっている腹にも包帯が巻かれていた。

 少なくとも健康満足に見えぬ状態での行動に、医者が叫ぶ。


「姐さん! あんたはまだ怪我が治って無いんだ! おとなしく両手を上げて病室に戻りなさい!」

「馬鹿野郎! 人間ってのは誰もが心のどこかに怪我をしてるもんだ! それを治ったかどうかって思うのは他人じゃねえです……自分自身が治ったと思わねえと駄目なんだ。医者にできることなんて時間が解決することに比べればちっぽけだと思わんかね」

「私が間違っていた……!」

「先生! なんで即言いくるめられてるんだ!?」


 中間が混乱に頭を抱えた。

 それっぽいことを言われて瞬時に騙され膝をついた医者を無視して女は常人ならばまだ歩くだけで激痛が走る体を無理やり動かして養生所から脱出を図る。

 彼女が逃げ出そうとするのはこれが初めてではない。

 暫く前に九死に一生と言った大怪我で逗留することになった女だが、意識がはっきりとするのは早く、杖をついてさっさと出ていこうとしたのはまだ傷から血が滲む頃であった。

 その度に所員や息子である雨次少年が説得したり懐柔したり洗脳してみたり封印してみたりと対処していたのである。

 養生所も暇だから入院を伸ばそうとしているわけではなく、半年ぐらいは養生すべきな怪我だったため当然の処置であった。火盗改長官の命で運び込まれ、町奉行も始めての重傷患者の様子を見に来てその怪我の様子に顔を曇らせて所員に確りと怪我を治させるようにと任ずるほどであったという。

 一方で彼女の場合は暇なので早く外に出たいのである。ただそれだけなのであった。


「退屈は宇宙を滅ぼす悪徳だ! 鯛が靴履きゃ鮪は袴って云いますけれど……うわ足生えてるの想像した気持ち悪っ!」


 全て無意味な言葉を吐きながら、部屋繋ぎになっている長屋を駆け抜けて行く。

 他の逗留している病人などはぽかんと異様に元気な怪我人を見上げる始末である。暴走特急と謂うべき進軍に薬瓶や盥などをひっくり返されぬように中間達は慌てて避難する。

 そして、


「あの人を呼べ! この養生所最強の守り人──!」


 云うが早いか、広間に作られている長屋の出口へ女が辿り着いたと同時に外から駆けつけてきた男が居た。

 黒袴の上から薬草の匂いと色が染み付いて赤褐色がかった前掛けを掛けている、目付きが病的にきつい侍であった。

 風のように現れ、影のように立ちはだかる。養生所の見廻りと報告、連絡事務などを行う町奉行から遣わされている同心だ。

 名を、


「同心二十四衆が六番[停止即死]の江川祐佐右衛門えがわ・ゆざえもんただいま見参! 俺から生きて逃れられた患者はいな──ってうあああ!?」

「ああっ! 江川様そこは丁度騒ぎで油をこぼしたところー!」 


 広間に入った瞬間、床にこぼれていた油に自慢の素早い脚さばきで踏み込んだものだから摩擦を奪われ著しく板間を滑った。

 泣く子も地頭も役人も運動エネルギーには従う。いつもタダ乗りしている税金は事故という形で支払いを受ける。割り勘を食うのは常に間抜けなやつだけだ。

 

「だが負けねえ! だって負けてねえもん! うおおお!」


 凡な運動神経ならば転び床に強打してしまうところだが、上手く体勢を整えてつるつると平行移動している己の体を止めようと床を強く蹴りつける。

 すると偶々床板が腐ってでもいたのか、床下に蹴った部分からスッポ抜けてしまった。


「なんと!?」


 これには耐えられずに足が嵌って転ぶ祐左右衛門。手をついて受け身を取ろうとしたが、勢いで近くの棚を殴りつけてしまった。

 棚の上に置かれた壺がその衝撃で落ちてくる。咄嗟の判断で刀を抜き打ちして、壺を叩き割る。不測の事態に襲われ、転んで異様な体勢にあるというのに片手で刀を抜けるとは、器用な男である。

 しかし、その壺には──


「こ、これは──! 無闇矢鱈にねばねばする!」

「ああっ! 江川様が突然現れたかと思ったら松脂で固められた!」

「くっ!」


 中には、黒飴と同じ色の溶かした松脂がたっぷりと入っていたのだ。江戸では当時、松脂は煎じて咳の薬にしていたのである。だから養生所にあっても何もおかしくはない。

 こんなに多くの薬が必要な咳の患者がいれば相当な流行病でもありそうだと悪態を吐きたくなる量だったが、壺いっぱいなのは発注のミスがあったのだろう。よくあることだ。業者は明らかにおかしい注文でも、素直な無知さを発揮してそのまま集め届ける。それが仕事でそれ以外の思考を行う方がもっと問題だ。

 然し乍ら、運が悪いというか、一つの罠が全てに繋がっているというか、


「まるで比多珸羅ひたごら童子の祟りだ……!」

 

 祐左右衛門はねばねばの松脂により行動を停止させられながらげんなりと呻く。もはや脱出しようとする気力が湧いてこなかった。二つ名の通り、彼は止まり打たれることに弱い。何故なら気分が悪くなるからだ。もはや動きたくもない。松脂に塗れてそれでも仕事をこなそうという気分を持つ者などやけに醒めた吉宗ぐらいしか居ないだろう。

 ところで比多珸羅童子とは、不動明王従者三十六大童子の一人で仏教に於いては計算と建築を司る仏だ。名前は自ず導くという意味を持つ比多と叡智を表す珸羅の文字を組み合わせたという説と、古代ギリシャから追放されたピタゴラスの教団がインドに逃げてきて数学の研究を行うようになり、象徴であるピタゴラスが神格化されて仏教に取り入れられたとも伝えられている。

 日本に伝えられたのは平安の頃で、現代の言葉に残る計算があったり、図面通りにものが作れたりする時を表す[ぴったり]という語源は比多珸羅童子から来ているという話もある。逆に、建築が連鎖的に崩壊した時はこの童子の祟りであるかもしれないので不動の札を家に掲げるのが良いとされている。


 勿論嘘だ。そういう設定を祐左右衛門は考えているだけだ。ピタゴラスは蘭学で知った。少々空想癖のある男なのである。趣味で名を変えて黄表紙も書いているが、連載更新が滞って停止したら急に打ち切りになって新たな別作品に移るのでその方面からも[停止即死]と呼ばれ感想が荒れている。発想はあるが纏めるのが苦手なのであった。

 一方で雨次の母から見れば、何か大層な名乗りを上げて現れた変な侍が滑って転んで松脂を頭から被るという謎のパフォーマンスを見せたという意味の分からぬ状態であった。

 新手の儀式だろうか。頭から松脂を被って踊る奇祭とか。もしくは病気か。咳の薬として壺いっぱいの松脂が必要となればそれはもう重病なのだろう。哀れな男に哀れむ顔を見せた。何故なら哀れだからだ。哀れ同心だ。

 

「お、おう。養生しろください」


 気遣った声をかけて、彼女は長屋から脱出したのである。決められた道をただ歩くよりも、選んだ自由に傷つくほうがいいと信じて風の中デッドヒートである。

 慌てて他の見廻同心や中間達が追いかけていく──。

  



 *****




 夜の江戸では治安のために町の通りを木戸で閉ざしている箇所が多々ある。

 これは木戸番と呼ばれる。

 近くに小さな雑貨屋のような細々とした草履や浅草紙、食器に筆などを売っている小屋がありこれは木戸番の者が住んでいる番小屋である。

 木戸は大体、夜四ツから明け六ツ(午後十時~午前五時)ぐらいまで閉められていてそれの管理と共に番小屋での商売で暮らしている。

 その晩、番小屋にはいつも暮らしている笹治郎と云う名の老人ではなく、蕎麦屋の居候である九郎が詰めていた。

 笹治郎と九郎は去年の暮から、将棋仲間として親しくやっているのである。新たな技能ルールを取り入れた将棋にも対応している老人で、説得コマンドで次々と相手の駒を奪うのを得意とする。

 ともあれ、その笹治郎老人が片方の眼がどうも具合が悪く、目脂が多く出たり赤く充血しているのだという。眼病かもしれないということで医者にかかりたいのだが、番太郎という仕事はそれほど生活に余裕があるわけではない。

 そこで無料で治療してくれる小石川養生所に行ってみてはどうかという事になり、一日程木戸番を離れることになったのだ。

 その間、家族も居なかった為に九郎が仕事を代わりに頼まれたのである。


「さて、煮えたかのう」


 夜食に炊いていた鍋の蓋を開ける。むわりとした澱粉の匂いを伴った蒸気に、磯の香りが混じっている。 

 炊き込み飯だ。薄く赤に染まった米と、ぶつ切りの蛸が入れられているそれは桜飯と呼ばれるものである。

 下茹でをした蛸足を身が縮むことも考えてたっぷりと入れて、僅かに酒と塩を入れて炊飯したのである。

 醤油を入れて味付けする者も居るが、すると色が悪くなるので九郎はこの単純なものが好みであった。

 蛸から出た出汁を米が吸い込み、また入れられた塩の効果で一粒一粒がぴんとした気持ちのよい硬さの飯である。

 茶碗に盛って箸でわしわしと掻き込むと、こきこきとした蛸の食感が噛みしめる度に良い味を出してこれだけで鍋いっぱい食べれそうであった。

 他にも蛸を刻んでぬたにしたものや、皮を湯通ししたものも用意してある。 

 

「ご機嫌な夜食だ……」


 言いながら、遠くから聞こえる風烈廻の拍子木の音に耳を済ませて、のんびりと夜を過ごしていた。

 そろそろ木戸を閉めて、温かく満腹になった幸せな気分で眠れば良い。

 近頃は歳のせいか頻尿気味で意識しなくとも夜明け前に目が覚めるので早起きの自信はあった。

 時折夜歩きしている駕籠持ちや小者らが芳しい蛸飯の匂いに釣られて番小屋に顔を出し、


「おっ。いつもの爺さんじゃねえのか。美味そうだなあ」


 などと声を掛けるが九郎は迷惑そうに、


「飯屋ではないぞ、ここは。他の煮売屋に行け」


 と、追い返すのであった。

 個人で楽しむ分量で作ってあるのに売り配ったら自分が食う物が無くなる。

 精々二人前といった所だろうか。

 九郎は茶碗一杯の桜飯を食ってふと思いつき、台所にある野菜を盛った籠から新生姜を取り出してアカシック村雨キャリバーンで刻む。

 四尺三寸ある大太刀を包丁代わりに器用に扱う。なにせ、研がずとも刃は濁らずに露を帯びている魔法の刀なので切れ味は折り紙つきだ。

 細く刻んで針生姜を作った九郎は桜飯に混ぜ込む。さくりとした食感と瑞々しい爽やかな風味が合わさり、またひと味変わるのである。あれば、紫蘇の葉や実を散らしても良い。


 混ぜた釜から再び飯を茶碗に盛った時であった。

 番小屋の入り口に倒れこむ人影があり、大きく音を鳴らした。

 血の匂いがする。


「む」


 九郎が顔を向けると、凄愴な顔をした女が息も絶え絶え、包帯の上から纏っている衣服も乱れに乱れてこちらを向いている。

 

「かはっ、はあ……すまない、匿ってくれ。"組織"の連中に追われているんだ!」

「いや、お主が追われてるのは養生所の者だろ」


 それっぽい言葉を吐いたのは、九郎も顔見知りである雨次の母親だった。

 年は石燕よりやや上ぐらいだろうか。気が触れた者のような焦点の合わぬ眼と、左右非対称な表情をしているのが特徴的な女である。

 大怪我をして養生所で生死の境を彷徨って居たことは、九郎にも関わりがあるので知っているし一度雨次と共に見舞いにも行った。その場で暴れる彼女の頸動脈を抑えて落とす実演も雨次に教えた。やり過ぎるとパンチドランカーに似た症状が現れる危険があるが。

 ともあれ、今の彼女の姿に九郎も眉をひそめる。

 血こそ滲んでいないが包帯は解けあちこち汗や泥で汚れ、折れた足を抑えていたところなどは再び赤黒く変色し腫れている。

 満身創痍そうに現れたのは演技混じりだが、重傷のまま走り回ったのならば決して痛くなかったなどということはないはずだ。


「これ、とにかく上がれ。まったく、そんなことだから雨次に心配されるのだ──って動き早っ」

「蛸うめえ!」

 

 狐憑きの如く手足をついてわさわさとした動きで小屋に上がり込み九郎が盛った桜飯をがつがつと食い始める。

 小石川の養生所で出される飯は多くが粥か重湯……具合の良い者には菜を入れた味噌粥に卵を落としたものぐらいであった。

 

「はふう……やっと硬い飯食ったです。おれは常々すっぽんの生き血とか出せって言ってたのにあいつらったら『血の気が良くなると怪我に触るから』って拒否状態で」

「まあ病人食ですっぽんを出すのは己れもどうかと思うが」

「あごめんちょっと胃が痙攣して吐きそう」

「おいこら」

 

 えづき始めた彼女を仰向けに寝かして落ち着かせる。その間に盥に水を張り、氷結符で冷やして手拭いを濡らして額と左足の太腿に当てる。

 骨折の痕が生々しい太腿は腫れていてかなり熱を持っていた。このままではくっついた骨がずれるかもしれない。九郎は適当な添え木を探した。


「なんでこんな怪我で出歩こうとしたのだ」

「家に帰ろうとしたんですけどよ。どうも片目はねえし片足は引き摺るしでふらふら思ったとおりに歩けなくてその内迷ってしまいまして。蛸の匂いに釣られてここまで来たでおじゃる。さあここからが勝負だ……!」

「どこからだ。もう寝ておれ。明日また養生所送りにしてやるから……ええと、お主名前なんだったか」

 

 雨次の母、という認識だったがそういえば名前を聞いていなかったことに気づいて尋ねた。正直云えば、九郎という男は「お主」などと呼ぶことが多いために会話に必要というわけではなかったが、知らないのは座りが悪い。

 彼女は寝転がったまま悪魔的動作を手で複雑に……まあ恐らく悪魔的複雑さなのだろう、表現しつつ名乗る。


「私の名を知らんとはもぐりだな──[剃刀]お歌夢かむと云えばここいらじゃ静かな知名度」

「それ知られてないってことだのう」

「ぴよぴより、餌! 餌を所望するじゃけん! 人間だけを殺す兵器かよ……!」

「雛鳥か」


 言いながらも、仰向けで食いやすいように固めに握り飯を作って持たせてやった。天から与えられし紅玉を手に入れたように彼女はそれを受け取る。魅力の九割は蛸なのだろう。婦女子は蛸が好きだ。北斎もそう言っている。

 すごい勢いで口の中に突っ込んで嚥下しようとするお歌夢。九郎は米が飲まれていくのを上から見て、手挽きのコーヒーミルを思い出した。老後の趣味として買っていたが数回使った後にインスタント粉末に戻った。その後埃を被っていたそれを見つけた誰かが淹れてくれるようになったが、


(はて誰だっただろうか)


 思い出せないが、当時家に来ていたのはスフィぐらいだった筈なので彼女だろうと判断する。思い出せなかったところで何というわけでもない記憶だ。

 寝転がったままという体勢なので喉につっかけそうだと見ていると、

 

「もごもごもご……えほっえほっ!」

「……」

 

 案の定むせている彼女に湯のみに入れた茶を渡す。

 寝転がったままなので傾ける角度が難しいらしく、口の端に茶湯を零しながらやかましく飲んだ。


「熱! この熱さはあの時に家ごと焼けて消えた息子の思い出が蘇る……! 焼き芋なんてもうしないと主に誓うよ……!」

「焼けておらぬから。雨次子供だけで頑張って生きておるから」

「ううう……雨次よ、床板を掘り返すと大判小判が……あっ、そっちの部屋の床じゃない。そっちの寝室の床は掘ると誰かの人骨が出てくる」

「嫌な所で寝ておるなあ」


 うわ言のように呟く彼女にぼんやりと九郎は返した。どうでも良い事ではあったから、どうでも良さそうに。寝ようと思えば人は死体の上でも病毒の鎌を片手にしていても眠れる。眠らなくなった時に人は死ぬ。

 とりあえず明日の朝、木戸を開けたら番の笹治郎老人を迎えに行きがてらこのお歌夢を連れて行こうと決める。正直以前彼と酒を酌み交わした時の証言によると、若い頃は片目から火遁術的な熱光線が出るのではないかという妄想に取りつかれて何度も擦っていたらしい。それが原因で無いことを祈る。

 お歌夢は背負って行ってもいいが、やはり大人の女を背負うというのは目立つ所業だ。ついでに云えば背中で暴れられては堪らない。知り合いの駕籠を呼んだほうがいいだろう。


(背が大人の時ならそれほど目立たんと思うのだが)


 思う。現在九郎は中学生男子平均ほどの背丈しか無いのだ。平均身長の低かった江戸の世では成人男性として低いわけではないが、九郎が最も背が高かった頃は現在よりも七寸余りも伸びていた。彼は二十五歳までじわじわと背が伸び続けていて六尺ほどの偉丈夫になったのである。

 傷の治りや疲労回復の早さと運動能力の折り合いが一番良いバランスなのがこの体なのだという術式による判断ではあるが、正直不便な点もある。若い姿だと社会的立場が低いことが上げられる。子供が大人になりたいと願うのは弱者の立場に甘んじないという反逆の意志なのだ。老人が若返りたいと思うのもそれだ。社会は多くの革命闘士と愉悦持つ強者で構成されている。

 弱者でも強者でもない、狂者のお歌夢は己の都合で自由に口を開く。


「よしとりあえずあたくしと九郎先輩で負け犬死にぞこない談義でもしよう。いえーいたぶんあとひと月以内に今度こそ死ぬ」

「先行き不安なことを云うな。折角拾った命だろうよ」


 指についた米粒を指ごと齧りながらお歌夢がそう謂う。

 九郎は蛸のぬたを箸の先で摘んで食い適当に応えた。茹でた蛸の皮と吸盤を、酢味噌に細かく刻んだ葱、胡麻を入れて和えたものだが、歯ごたえと酸味が、合う。

 片方だけ残った目を閉じながら彼女は口を動かし語る。


「私は死ぬ予定だったんだが生き残らされてしまった。死ぬ運命が覆された。それには代償がある。そんなもの払って変えようが、天命なんてのは、すぐに揺さぶり戻して来るのですの」

「……代償?」

「ねたばれすると人類は滅亡する!」

「壮大すぎる」

「あぎゃぎゃぐげ」


 呻いて頭を揺らしながらぶつぶつと意味のわからぬ──恐らくは意味も無い単語の連なりを口にし始める。

 如何なる事情があってこうなったかは知らないが、気が違っているのだ。まともな内容ではあるまい。


「ううう……おれは、お前ら人間には想像もできないものを色々見てきた。三ツ星の側で炎に包まれた攻撃型宇宙船」


 ただ九郎が石燕から一度狂人について聞いたことがある。例えば狐憑きや悪霊憑きなども、発狂した人間を「そう」だと周りが云っている場合があるために彼女もひと通り知っていた。

 [気違い]とは古来に於いて[幾知可比]と書いた。幾つか知りなぞらえる。また[既知外]とも掛けることができる。知られざることという意味だ。

 即ち気が狂れたものは普通は捉えられない物を見て、知り、それにより思考が別の法則に感化されてしまったとも言えると、石燕は謂う。

 その既知の外にあるものを通常の人間が狐や悪霊と言い表すのだ。本人にしかわからず、出力も出来ないので確かめる事は不可能なのだが。


「たんほいざあ門の近くで闇の中に輝く極光を見た。それら全ての瞬間は時が来れば失われる。雨の中の涙のように。……死ぬ時間だぐっすりすやすや」

「……いや、どっかの映画で聞いたことある気がするが」


 唐突に糸が切れた人形のように寝息を立て始めたお歌夢を胡散臭そうに見る。

 小さく既視感を感じた。言ってることも行動もむちゃくちゃだが、石燕に似た言動である気がするのだ。

 見ているものは大体同じだが彼女は理性で選んで言葉を発して、お歌夢は思いつく端から口にしている。そんな違いがあるように思えた。


「石燕も少し思考がアレだからのう」


 見えないものを見てそれに則った考えを持っているというのなら、まさに自称・魔眼で妖怪や幽霊を見つめ絵に記している彼女もそうなのだろう。

 何の役に立つかと云えば、持ち主次第だと彼女は謂うのだろう。当たり前だが、当たり前のように。

 九郎の呟きに再び倒れていたお歌夢が声を漏らす。


「せきえん……ああ、お豊とか謂う女は死んだのでしょうか。あの生ける屍番付殿堂入りのご同類」

「生きておるぞ。最近は病気も治って大蒜にんにくとか焼いて丸かじりしててな、フサ子に口臭いって指摘されへこんで……」

「……拙いな」

 

 お歌夢は目を見開いて低い声を出した。

 それが普段壊れたテープを垂れ流しにしている風な言葉ではなく、感情の篭った一言だったので九郎は口を閉じ彼女を見る。隻眼はぴたりと瞳孔を広げて、だらしなく虚言を漏らし続けていた口は引き結んでいた。

 彼女は起き上がろうと上体を起こす。片足は添え木で抑えられる上に感覚がなくなっているのか動かないが、這って動こうとする。

 慌てて九郎が襟首を掴んで止めた。


「これ。何処に行くのだ」

「あの女と武力の行使も辞さない交渉してきます」


 きっぱりと、意味のわからぬことを謂うので九郎はどう反応して良いのかわからず問いを繰り返した。


「大怪我人と戦闘力が虫並な女が何を争う」

「眼鏡を──」

「眼鏡?」


 唾を飲み込んで、お歌夢は潰れた方の目を一度手の甲で擦り続けた。


「彼女は死の際に形見分けとして眼鏡を新井白石に渡し、そして数年後に亡くなる彼はそれを引き取った同居の子──雨次にくれる。そういう流れがあった。しかしそれは覆された」

「……まるで、見てきたかのように謂う」

「あの眼鏡を……雨次に渡さなくては……朱面が……」


 女は眼鏡、眼鏡と呻いている。

 九郎は難しい顔をしながら、よく事情は掴めないのだが、


「つまり、雨次の目が悪くなるから高性能な眼鏡が欲しい、とかそんな感じか?」

「その通りで御座います」

「……はあ。わかった、それなら己れから明日にでも石燕に頼んでやるからとりあえずお主は休め。そんな体で夜道を歩くと其れだけで死ぬぞ」


 そう言って九郎はお歌夢を引き釣り、敷いていた布団の上に寝かせた。住人の笹治郎の布団を勝手に使っているが、泊まり込みの代わりをしているので文句は言われまい。 

 彼女は安心したのか脱力して布団に寝転がり、再び戯言を囁く。


「眼鏡……眼鏡……奴から眼鏡属性を奪え……」

「あやつからそれを取ったらただの目元不健康なアラサーになるのう」

「一方、雨次は鈍感草食系眼鏡男児だ……これからも頑張れ……」

「お主が息子のことを想っているのは分かったから、もう寝ていろ」

「うん……」

 

 大きく息を吐いて、彼女は背中を向けた九郎へ最後に礼をした。




「──ありがとう、爺ちゃん。最期に会えて」




「──!? お歌夢……?」


 九郎が振り向くと──彼女は目を瞑り……もうその動きを、止めていた。

 安らかなその顔は、随分と小さな子どものようであった……。




 *****








「寝てるだけじゃねーか!」


 くうくうと規則正しく寝息を立ててる気持ち良い寝顔のお歌夢へ、久しぶりに九郎は叫んでツッコミを入れたがまったく起きなかった。

 ついでに彼女と額を合わせてじっと数秒待ち、離してもう一声、


「魔女ですらねーじゃねーか! 死ぬほど紛らわしいな!」


 とりあえず無駄な戯言に振り回された九郎は深夜、理不尽を怒鳴るのであった。  

 

  




 *****





 翌日……。

 健康的爆睡を続けるお歌夢を駕籠に乗せて九郎は共に小石川養生所に行った。

 医者や中間に彼女を引き渡し、眼病で訪れていた笹治郎の様態を伺ったところ、目薬を処方されて良くなったということなので安心した。何故か割れた床に足を埋めて固定化放置されている同心が居たが、それに触れない優しさも九郎にはあった。

 そして一応は約束なので神楽坂にある悪霊の神々集うロンダルキアめいた石燕の家を訪ねたのである。

 戸を叩くといつも通りの呆れ顔をした子興が開けて、うんざりと家の中を指さした。室内は鼻を押さえる程酒気が残っている。

 丸まった布団で頭を抱え呪いの言葉を口にしていた。自分の生まれた日すら呪う勢いだ。


「──私の生れた日は滅び失せよ。[子が胎に宿った]と言った夜もそのようになりたまえ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。闇と暗黒がこれを取りもどすように。雲がその上に留まるように。日を暗くする者がこれを脅かすように。その夜は暗闇がこれを捕えるように。年の日のうちに加わらないように。月の数にもは入らないように。またその夜は孕むことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれないように……」


 九郎も激痛のあまりに神に後悔している様子の石燕を見て嫌そうに子興と顔を合わせた。


「二日酔いなんだって。体が治ってからお酒の量が増えて……二日酔いの純粋な頭痛が襲ってくるようになったみたい」

「どれだけ心折れておるのだ。悪魔にでも取り憑かれたか」


 九郎の言葉に反応して、相変わらず寝不足に見える隈のある目元を向けてひたすらに襲いかかり意識を朦朧とさせる頭痛と吐き気に耐えながら石燕は云う。

 

「く、九郎きゅん! うぐぐぐぐ……見ての通り今私は神話級激痛に耐えているところなのだ! つまり……わかるね?」

「ああ。神話級激痛が終えてから来ることにする」

「鬼かね!? こういう時は膝枕だよ! ひーざーまーくーらー!」

「最近此奴の自重が行方不明だのう」


 呆れながらも仕方なく近寄って座り、膝を貸してやる。

 躊躇なく九郎の小さい膝にごろんと頭を載せる石燕に、近くにあった盥と手拭いを取って瞬時に冷やし彼女の顔を拭ってやる。

 毛穴が引き締まる冷たさの手拭いを頭痛響く顔に当てられて、


「はふう……熱が出て苦しかった……」

 

 と、情けない声を出す。 

 本当に、


(最近は子供返ったかのようだ……)


 九郎はそう思いながら手拭いを彼女の額に載せた。体が良くなり、余裕が生まれたのだろうか。

 一応わからなくはない感覚ではある。九郎とて、老人の頃よりも今のほうが性格は若々しくなっている。魔女のはちゃめちゃに付き合わされた影響もあるが……。

 

「ところで石燕」

「なんだい九郎君。お小遣いかね? ふふふ機嫌がいいからほら幾らでも」

「これ、小判を手渡そうとするな。違う。己れがいつも小遣いをせびっているようだろう」


 慣れた手つきで懐から金子を取り出す石燕の手を押し留める。  

 当然のことだが彼の遊び金を全て石燕が支払っているわけではなく、それなりに余裕のできた[緑のむじな亭]から報酬金も受けている──適当極まりない分配として、六科が単純に九郎とタマと店で三分割しようとしたのだが、お房が叱りつけ適正に賃金を計算されて渡されるようになった──し、何かと人助けや仕事の手伝いなどで暮らして不自由無い程度に稼いでいるのである。

 ただ遊びすぎ素寒貧になった時に石燕と世間話をしたりして交際費として援助してもらっているだけである。

 とりあえず、要件を云う。


「実は眼鏡のことなのだが……」

「うん? はっ! もしかして九郎君、新たに属性を追加し鈍感草食系眼鏡男子になるつもりかね!?」

「なんでそう発想が被るのだ」


 流行っている筈はないのだが、と軽く目眩を感じる。

 

「いやな、雨次という子供が居ただろう」

「ああ。天爵堂の所の青春こじらせる感じがしそうな生徒だね。彼が何か?」

「あやつの目が悪くなるらしくてな。確かに暗い所で本などをよく読んでおるからのう。それで眼鏡……お主のような良いものが必要なのだとあやつの母親が言っておったので、譲ってくれとは言わぬが作れる場所など知らぬか?」

「ふむ。目が? 悪く、ね……彼の母親は……ああ、成程。もしかして九郎君、その女性は左眼が潰れていないかね?」

「そうだな、最近暴漢に襲われてしまってのう」

「……となると拙いのは、まさかその雨次少年か……?」


 九郎の言葉に石燕は目を細め、口元に手を当てて考える仕草を見せた。

 何かを気にしているようだが九郎は知らないことなので、不思議そうにしている。


「何がだ?」

「いや……今は確証がない。私の思い過ごしだろう」

「適当に後回しにして後で台無しになる天才の台詞みたいな不安を煽るな」 

「ふふふ、話は変わるが」


 誤魔化して彼女はにへら、と笑みを作った。


「暗い所で本を読むと目が悪くなるという事は実際無いのだよ、九郎君。知っていたかね?」

「そうなのか? 己れが小さい頃は言われていた気がするが」

「ふふふ、蛍雪の功を成しても目が潰れていては話にならないだろう?」

「ケイセツの功?」

「晋代の故事だね。車胤と孫康という貧しい二人の青年らは蛍を袋に集めた光や窓に積んだ雪の反射光で勉学を励み官吏に合格した……というものだね」

「蛍の光、窓の雪というやつか。己れはてっきり蛍の光で窓の雪を照らしていたのかと」

「雪の降る季節では死んでいるよ蛍は」


 笑いながら石燕は己のかけていた眼鏡をそっと外して九郎に渡した。

 受け取りながら、素顔の石燕をじっと見て九郎は聞く。


「……良いのか?」

「この世に二つとない、殺生石の欠片を埋め込んだ貴重な魔封じの眼鏡だよ。作れる職人も長崎にしか居ないしね。私から、九郎君へ膝枕の代金としてあげよう。九郎君からその雨次少年に渡してくれたまえ」

「ううむ、しかし……言っておいてなんだがお主の眼鏡がなあ」


 困った顔で、冷えた手拭いで眼鏡を外した石燕の目元を拭う。いくら熟睡しても消えたところを見たことのない隈を擦るとくすぐったそうに笑う。


「いいのだよ。その代わり頭痛が消えるまで膝枕をしてくれたまえ」

「──わかった」

「ああそれと子興」


 石燕は手を軽く上げて指を鳴らした。

 

「はあい」


 間延びした返事をし、子興が棚から小さな木箱を持ってくる。

 それを開けると──中には殆ど似た意匠の眼鏡が入っていた。見たところ枠に使われている金属が違うが、それ以外は。

 石燕は何事も無かったかのようにそれを顔にかけて、いつもの眼鏡形態へ戻った。


「おい。二つとないとさっき言ったばかりではなかったか」

「ふふふ! そっちは殺生石を使った眼鏡でこっちは青生生魂アポイタカラという金属を使った軽量版なのだよ! 南朝の復興を画策している集団から高値だったが購入してみた怪しい物質でね!」

「なんで胡散臭い素材に惹かれるかなあお主は……」


 大きく溜め息を付く九郎だが、予備の眼鏡があるお陰で石燕が弱視力で困ることが無さそうなので、少し安心している自分に気づいた。

 膝枕をしたまま喋りすぎてまた痛んでいるのか、軽く目を閉じ睡る体勢に入った石燕を見下ろしながら、


(まあ、眼鏡が似合うからのう)


 と、思ってそれから起きる昼過ぎまで、膝を貸してやっていたという。





 *****




 その眼鏡を雨次に渡す時にまた少し悶着があった。

 なにせ、職人が南蛮風を意識して作った逸品である。ただの眼鏡でもそう流通していないのに、このような特注品は普通ならば町人は持てない貴重な物であった。

 それを、ただでくれるという。

 怪しむほど付き合いのない関係じゃなかったが、困惑はする。例えるならそこそこ仲良い従兄弟からざっと数十万しそうなジオラマをくれてやると言われて素直に受け取るのは骨川さんの息子ぐらいだ。

 人の善意を悪意と受け取る。天の光は全て敵。兄より優れた弟は居ない。まあそんな、凝り固まった思考に暫く前まで染まっていた雨次では無償の善意に躊躇するのも当然である。彼に兄弟は居ないが。

 

「確かに最近は本を読んでたら目が疲れるけど……」

「いいから貰っておけ。お主の母親が心配しておったのだ」

「母さんが……? うう、それでも……せめて代金は払いますよ」


 云う。雨次はこの前の賭博の稼ぎがまだ残っているのである。

 しかし九郎としても、自分が金を出して買ったわけでもないものを売るのは気が引ける。仮に受け取って石燕に売上の代金を渡そうとしても拒否されるのは、


(目に見えている……)


 ので、雨次の申し出を断る言葉を慎重に選んだ。


「よい、よい。この眼鏡はな、そう……」


 膝枕の対価としてだが無料で手に入れたものだ。正当な取引、営んだ商業の結果と云えよう。即ち言葉をわかりやすく纏めると、


「──枕営業で貰ったものだから」

「……」


 最近、雨次が自分を見る目が随分と悪く見える。


(眼鏡で少しは柔らかな目付きになればよいのだが)


 九郎は彼に眼鏡を渡しながら、何やら選択肢を間違った気がしつつもそう思った。

 




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