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49話『彼の物語は続く』

 切っ掛けは小さなことだった。

 天爵堂の家に暇つぶしに訪れた九郎が、そこの片付けをしている場面に居合わせたのだ。

 古本や写本、がらくたに骨董など節操もなく集めている天爵堂の家の片付けはさながら家探しのようだったが、これが中々進まない。

 天爵堂と雨次は奥から出てきた本を[分類]と称して読み耽りだすからだ。

 こうなれば小唄が叱ろうがお遊が騒ごうが、生返事しか返さない二人である。もはや掃除はお遊と小唄が行っているような状況だった。

 

「そんなところは無駄に師弟そっくりなのだな」


 呆れて九郎も言いつつ、散らかされた本や巻物を崩さないように彼も適当に広げて眺めていた。

 その中に一つ、彼の目を引く物があった。


「……明の汁そば?」


 大陸から渡ってきた儒学者が、明で作られた汁麺を水戸光圀に伝えて、そして今度は光圀が家臣や僧侶を隠宅に呼んで自作したものを振る舞ったという記録だった。

 これを本邦初のラーメンと言う説もある。無論、現在食べられている中華麺ともラーメンのスープとも大きく異なるものだが、大陸より伝わった汁麺ということならばこれがそうである。

 汁と麺を食べる文化としては日本にうどんがあるが、これは中国から伝わったのは練った粉──饅頭の皮であり、それを細くしてかけ汁に付けて食べるのは日本で発展したものだという一説からすればラーメンこそが初の伝来麺料理なのであろう。

 

「ほう、水戸の黄門様がのう」


 九郎はじろじろとそれを読む。材料などは知らない単語が使われているのでよくわからなく、天爵堂に尋ねる。


「この藕粉と言うのは何の粉だ?」

「うん? これは確か……蓮根の粉じゃなかったかな。水戸藩は蓮根の名産地だからね。本来材料にしていたのかはわからないが、使われたようだ」

「調味料は……中国の漢字か、これは。読み方すらわからん」

「ふむ、確か……山椒、にんにくの葉、韮と白からし……それに、こえんどろとあるね」

「こえんどろ?」

「亀虫草とも言うやつで、昔の朝廷料理で出る魚の臭い消しに使われたものだけど……あんなもの入れて美味いのかなあ。僕はどうも一度嗅いだことがあるけど、閉口してしまったよ」


 天爵堂は匂いを思い返して顔を顰めた。

 こえんどろとは現代で云うコリアンダーやパクチーなどと呼ばれる香菜の事で、その青臭い匂いからそのままカメムシソウとも呼ばれていた。

 食が多様化した21世紀ですら、人を選ぶ強い風味には江戸時代からすれば更に苦手に思う人は多いだろう。

 だいたいどういうものか想像がついたのか、九郎は一応こえんどろを擁護する。


「確かあれは乾燥させれば青臭さはかなり抜けるぞ」

「そうなのかい? ……ああ確かに、粉にして汁に振りかけた、とあるから案外そうなのかもしれない」

「汁は……肉で出汁を取ったと書いているが、水戸のご老公の時代は肉食って大丈夫だったか? しかもそれを僧侶に振る舞ったのか……」

「うん、まあ駄目だったんだけど光圀公がそんな法を守るわけ無いよね。本気で将軍に犬の毛皮送りつけたから、あの人。しかも肉だけじゃなくてにんにくも韮も僧侶は駄目なんだけど気にするはずがないなあ」

「ふりーだむ黄門様すぎる」


 九郎の脳裏に、伺うようにラーメンの丼を目の前にしながら水戸黄門をちらちら見る僧侶に対して、例の印籠で黙らせて食わせている図が想像された。

 

「しかしどんな味だったのだろうなあ」

「さて。五辛が使われているから薬膳の意味もあったとは思うけどね」

「確か……」


 と、九郎は腕を組んで考える。

 魔王の城で読んだ本によれば、日本で初めて日本式のラーメン屋が出来たのは明治の頃らしい。生まれた年代こそ知らなくとも、一番最初の店である[来々軒]という名は誰しも聞いたことがあるだろう。

 九郎が今生きている享保の江戸から数えると百五十年以上未来である。

 そう思うと中々食えないものだと九郎はため息をついた。少なくとも、不老の魔法を解けば生きては居まい。

 

「んー? なになに、てんしゃくどーと九郎なに見てるの?」


 お遊が後ろから覗きこんで、何やら考えて込んでいた二人に尋ねてきた。

 

「ああ、いやこれに書かれている料理はどんな味だったかと思うてな?」

「……? よくわかんないけど、美味しそうなら作ればいいじゃない。わたしも食べたい!」


 そう言って、本に顔を落としていた雨次の腕も引っ張って、


「雨次も食べたいよね!」

「ああそうだなお遊」

「ほら! 雨次も作るの手伝うって!」

「ああそうだなお遊」

「……雨次よ、生返事ばかりしておるとそのうち変な口約束取られるぞ」


 ぼーっとしながらお遊に応える彼に九郎は忠告するが、やはり聞いていないようだった。

 天爵堂がふむ、と呟いて、


「歴史を再現するという意味ではやってみる価値もあるかもしれないね。光圀公に呼ばれて馳走になったのでは、美味いも不味いも無かっただろうから正しい味の記録を残しておけるだろう」

「ちなみに不味いと言ったら?」

「切られるんじゃないかな……いやまあ、彼は手打ちうどんの達人だったらしいからそう変な味のものは作らないと思うけど。となると、材料を集めなくてはね」


 天爵堂がとりあえず必要なものを書き出す。

 おおまかに分けるとまず基礎の材料として、


 麺:小麦粉、藕粉

 汁:火腿、胡椒、生姜

 具:山椒、にんにく葉、韮、白からし、こえんどろ


 二人は難しい顔をして、


「これだけでは美味くなると思えぬな」

「書いてない具材や汁の味付けがあるんだろうね。醤油とか、味噌とか」

「……では汁は己れが幾つか覚えがあるから、知り合いの意見も聞いてみるか。再現もいいが美味いのが一番だ」

「具と言うより調味料だなこれは……」


 話し合っていると今度は小唄が違う部屋の片付けを終えたのか、こっちにきて、


「まったく、先生も雨次もまた怠けて。それでは片付けは終わらないぞ──うん? なにを見ているのですか?」

「うむ、昔の料理を作ってみようと。天爵堂、蓮根の粉など売っているのか?」

「粉物問屋にあっただろうか。正直あまり藕粉を使った料理なんて無いからね」

「藕粉? それならうちに有りますけど」


 小唄の言葉に顔を上げて「ほう」と呟く九郎。


「保存食のつなぎに使うからって、わざわざ天日で干して粉にしたものを仕舞っているんです。不忍池の蓮から作ったもので……」

「それは丁度良かった。完成の第一歩だのう」


 九郎は嬉しそうにして、この時代の材料でラーメンを作るやる気が出て来るのを感じるのであった。

 こうして九郎のラーメンの材料探しが始まった。




 *****




 まず、スープに使うものは火腿とある。

 これは豚の腿肉を塩漬けにしたものだが、江戸ではあまり獣肉を食べることは無く豚肉など当然流通していない。ももんじ屋のように食わせる店はあるが、これらの多くは大川の上流で仕留めた鹿や猪、小動物など舟で下ろして来たもの提供している。

 だが九郎は豚肉について心当たりがあったのだ。

 日本橋にある薩摩からの交易船を扱う大店、[鹿屋]に九郎は訪れた。

 薩摩は琉球を通して大陸文化が多く流入してきているし、戦国時代から島津は豚肉食文化がある。豚のことを歩く野菜と呼ぶ程だ。まるでオーガである。

 

「オイ! 九郎どんがぶたンしょはいかつけもンいっちいっちょっがもさっとやっがよ! みんふとかやつがっさやらんけ!」

「わざわいかそげんおらがンでよかがー吾ァにいわれんでもだっがっさっちよ」

「なんじゃとォオ!!」

「何ィイイ!?」

「そん言葉……ひっくイイエアア!!」

「よか……ひィとっちがアアアア!!」


「……おい、主人。謎の言語の遣り取りで喧嘩が始まったのだが」

「また胆を練って捌け口にしないといかんですかなあ」


 茶を飲みながら凄まじい怒鳴り合いを眺めていた。

 何故か妙に薩摩人に好かれてしまっている九郎である。


(しかしこれほどまでに好かれて困る人種は居るのだろうか)


 猿叫を鳴り響かせて褌一丁になり、庭の方で決闘を始めるさつまもん甲とさつまもん乙を見ながら九郎はそう考えるのであった。

 ともあれこうして腿肉の塩漬けは手に入った。これは下茹でして砂糖醤油を表面に塗りつけ、塩をたっぷりまぶして寝かせたものである。水分が殆ど抜けてまるで木のような感触だった。

 しかし、これを煮たところで普通のスープは作れない。九郎は買った芋焼酎を片手に今度は石燕の家へと向かった。



 *****



 神楽坂にある呪いの恨み屋敷、鳥山石燕の家である。すっかり慣れた九郎は気軽に訪問しているが。


「ほう、趣味の麺料理かね九郎君」

「この豚の塩漬けを使うらしいのだがな、具体的な汁作りはあまり詳しくないのだ。石燕よ、知らぬか?」


 と、無駄に詳しくあらゆる知識を網羅したと豪語する石燕にスープの作り方を尋ねた。この場合のあらゆる知識というのは浅草寺にある樹木の数すら知っているらしい。以前聞いたら即答されたが、本当にあっているか数えては居ない。

 石燕は不敵な笑みを浮かべながら応える。


「恐らくその豚を使うのは[たれ]だね。蕎麦で云うと[かえし]の部分に使えばいいんじゃないかね。これならば出汁を合わせれば失敗が少なくなる」

「ふむ。ならば昆布や鰹節を濃い目に煮て、醤油と豚で味をつけるたれにするか。たれに使った後はまた切って味付けすればつまみになるからのう」

「しかし何かね九郎君! そういう面白そうなことに私を呼ばないとは!」

「あ、いやそもそも昨日あたりに作ろうかと天爵堂の家で決めたからな」

「ふふふ安心したまえ。しっかり私が出資してあげようではないか。そして後世の歴史には鳥山石燕が作らせたと残しておこう!」

「残すな」


 一応突っ込みを入れてから九郎は聞く。


「しかし割る出汁か……どういうのがあるかのう」

「ふむ。単純に三つ程作って試せばどうかね? 私がさっと思いつくものは……鰹節や貝で味を取った出汁、野菜や茸で味を取った出汁、あとは……鳥の汁などは結構将軍家でも飲まれているね。鶴や雁などだ」

「複数のスープか……まあ余っても何かに使えるだろうからな。ぶれんどで味が上がるかもしれん」


 さすがに豚骨や牛骨などは手に入らないので、出汁もその三つがメインになるだろう。

 九郎はぱっとそれらの材料となるものを考えて頷き、


(他の知り合いに材料を調達させに行こう)


 と、決めた。

 下手に自分が探すより質の良いものに詳しい相手に頼んだほうが良い。決して面倒だったわけではないのである。

 


 

 *****




「鳥で出汁、か?」


 九郎がその話を持ちかけたのは、鎧神社で寝泊まりしている録山晃之介である。

 神社の裏にある小屋に荷物を置き日頃の鍛錬を行っているところへ尋ねて来たのだ。

 道場と言えない環境であるがやはりお八も通っているらしく、彼女の身長に合わせた短槍で基本的な[払い]と[突き]の反復訓練を行っている。

 晃之介は野外生活に慣れていて弓矢の腕前も高く、よく鳥を射っては食っていたと聞いていたのだ。


「ああ、結構灰汁が出るがな、確かにあれは美味い。特に水鳥だな」

「ほう」

「旅をしていると取った肉を干したりして後で食うこともあるんだが、水鳥のもみじ……足首から下の水かきがあるところだが、あれの爪を削いで煮るといい出汁が取れるんだ」

「なるほど、いいな」

「それに鳥と猪などを一緒に煮込んだこともあるが──中々街では食えない、こってりとした味わいになってな。たれとして混ぜるのは豚の味だろう? きっと合うと思うぞ」

「うむ。では材料の調達は頼んだぞ」

「任せとけ。その代わり、俺の分も作ってくれよ」


 引き受けた晃之介に、槍の構えを一旦解いてお八が言ってくる。


「師匠! あたしも食べたいぜ!」

「そうだな。ではお八には鳥を捌くのを手伝うことだ」

「うっ……わ、わかったぜ。九郎、作るときはちゃんと呼べよな!」

「ああ、良いぞ。ふむ、結構な人数になってきたな」


 これは大鍋が必要かもしれないと思案しつつ、九郎は六天流道場(仮)を後にした。

 

 


 *****




「茸ですかい」


 偶然町中で出会ったので、詳しそうだと話を出したのは安倍将翁に対してだった。

 久しぶりに現実世界で出会ったのだが、自然に彼は江戸の街でいつもどおり茶と餡が詰まった蓬餅を茶店で食っている。

 本草学として植物のみならぬ、茸や鉱物の薬毒にも詳しい将翁ならば出汁取りに良いものを知っていると思ったのである。


「茸汁は良いもんですぜ。薬効もあるが、複数の種類を混ぜて煮ると味が格段に良くなる」


 茸の主成分であるアミノ酸は一種類でも深い味わいを持つが、複数種類になると味が複雑に絡んで奥深さがいや増す。

 普通の鍋料理でも奮発して三種類ほど茸を入れてみれば、瞭然とばかりに違ってくるのである。

 ただそれゆえに、味付けに気をつけなければ行けないのだが出汁としては優れている。

 

「ふむ。生憎と己れは茸というと椎茸やしめじなどしか知らなくてな。お主に頼みたいのだが」

「九郎殿の頼みとあれば、やむを得まい。あたしの持っている中で一番旨い──紅天狗茸の塩漬けを」

「いや、己れでも知ってるからそれ。毒茸だろう」

「おっと、ご安心あれ。一口齧る程度じゃ死にゃあしません、よ」

「そういうのいいから。普通の茸を用意してくれ」


 将翁は茶を啜りながら、ほう、と息を吐いて、


「ま、出汁にするには椎茸にえのき、平茸に鮑茸……ああそうだ、あれを食うならけしの実や麻の実などを薬味にすると良い。丁度、あたしが持っている」

「ドラッグの元がどんどん出てくる」

「なに、これはあたしの分も作る代金だと思って。それに、豚を煮たもので作る汁となると、結構獣臭く好みが別れる。それを抑えて澄んだ味にするには、茸と薬の風味が一番、ですよ」

「く、薬か?」

「おっと、ご存知でない。大陸の清どころか越南でも印度でも、汁物には生薬を混ぜて味を深めているのですよ」

「そうか……? いやまあ、とにかく頼んだぞ」


 小さな袋で渡されたそれを胡乱げに見ながら九郎はとりあえず懐に戻した。

 詳しくは知らないのだが、自分よりは将翁のほうが知識が有ることは認めている。それに漢方を使った薬膳料理や、カレーに入れるスパイスなどもいわば薬のようなものだ。

 そういうこともある、と思うことにするのであった。

 将翁は草餅の乗っていた皿の上に代金を置いて、高下駄を鳴らしながら立ち上がる。


「茸の方は用意させて貰いますぜ。それじゃあ後ほど──」


 そう告げて、彼は幽玄のように歩き去っていくのであった。




 *****




「あー駄目だ駄目だ九郎。ちまちまと昆布なんぞで出汁を取っててもそこそこ以上にはならねえぞ」


 布団に横向けに寝転がり頬杖をついて、鼻をほじりながら凶悪な人相の男はそう言った。

 そういえば魚を捌いて下ろす裏だか表だかわからない仕事もしていたなあと思いだして訪ねたのは、謹慎──もとい療養中の中山影兵衛である。

 骨の具合はともかくまだ仕事に復帰できていない彼は退屈しのぎの相手が来たと思いニヤニヤと笑いながら云う。


「そこらの潮汁作ろうってんじゃねえんだ。かの水戸のご老公が作った先進的な料理なんだろ? もっと、がつんと個性出していこうぜ兄弟」

「ほう、するとどうするのだ」

「味付けするたれの方に昆布と鰹節は入れるんだろ? じゃあいっそ出汁からはそれを抜いてだな、魚のあら汁を煮込むんだ」

「あら汁か……一気に魚臭くならぬか?」

「いいんだよ、ちょいとぐれえ臭い方が愛情たっぷりで。個性と個性がぶつかって友情ってもんは生まれるんだ。獣の味と魚の味の二重葬! 愛情友情思い重ねてってなぁ!」

「ふむ……」

「追加で入れるのは……帆立だな。乾燥したあれを削って汁に溶かすと一気に本格っぽくなるんだぜ」

「帆立か、それは良いな」

「そうそう。あとあれだ! 拙者よう、干物を湯漬けにして食うの好きだから鯵の干物とか汁に入れればいい味取れると思うぜ! アジだけに! かはははっ!」

 

 愉快そうに提案する影兵衛は笑いすぎて折れた肋骨に響いたのか、胸を抑えて悶えた。

 九郎は呆れながらも布団の側に用意されている、患部が熱を持った時に当てる為の濡れた手拭いを渡す。


「なんでもかんでも入れすぎだと思うぞ。アラと干物と帆立汁など想像もつかん」

「あー畜生。拙者がこんなに苦しんでるのは誰の仕業かなー? せめて拙者の提案受けて作ってくれれば痛みも止まるんだけどなー?」

「いや、それお主が己れを殺しに来た所為だから。己れはマジで悪くないから」

「あたたた、痛えなあ……ああそうだ、九郎。拙者が恩を売ってる大店を紹介してやるからよ。去年に盗賊から盗まれた乾物なんかを拙者が殺し──いや、ええと……殺して取り返したらえらく礼を言われてよ」

「言い換えようとして言い換えて無い……」


 人の命を野原の花感覚で摘み取る影兵衛にげんなりしつつも、安く提供してくれそうな乾物屋の場所を九郎は聞いた。干鮑などの高級乾物は軽くて運びやすく、また食べ物なので転売しやすいためによく狙われるものである。

 影兵衛の妻、睦月が買い物から帰ってきたので辞したが、少し前に殺し合いをした彼は生来の友人のように手を振りつつ、


「じゃ、作るときは呼べよー。呼ばなかったら半殺しな」


 と、割りと本気でそういうので九郎は笑う他無かったという。




 *****




「やーさーいー、やーさーいー、たーのーしーいーやーさーいー」

「お葱にあさつきー葉生姜にうぐいす菜ー」


 歌いながら神田須田町のやっちゃば──青物市場から帰ってきたのはお房とタマであった。

 手に持った籠には瑞々しい野菜を沢山積んである。並んで居ると二人は仲の良い兄妹に見えた。

 休業中の店であれこれと予定を立てていた九郎の前の机に野菜をどんとお房は置く。


「タマが来て何が良かったって、口が上手いから凄く値引きしてくれるの」

「そうか、よくやったのう」

「お房ちゃんもずばずばと質のいいやつを見繕って凄いですよう」


 九郎に褒められたことを照れながら、タマは目利きの手柄はお房のものだと讃えた。

 お房はふんす、と胸を張りながら、


「当然なの。先生にも生物と死物を書き分けるようにと指導を受けているから、生き生きした野菜を選ぶなんて他愛なしなの」

「フサ子のすきるが若いのにみるみる上昇していくのう」


 去年までは扱えなかったのだが、最近では包丁も使って朝餉を作るようになってきたお房である。六科唯一の調理的アドバンテージが包丁さばきなのであるが、普通の飯を作る必要度数には既にお房が達しているという悲しい結果である。

 その分、一厘(約0.3ミリ)単位まで物の切れ幅を揃えるなどと機械じみた性能を六科は持っているのであるが、それを活かしたところで蕎麦の味は並である。

 

「それより、野菜の出汁になりそうな風味のやつを揃えてきたの」

「うむ、済まぬな。さすがに玉葱はまだ無いか……いや、確か天爵堂の家で去年取れたトマトを干させて置いたな。あれも使おう」


 観賞用の原種に近いトマトを唐柿として庭に植えていた天爵堂は去年それを九郎によってピザで消費させられたのだが、余っていたものを干させたのである。

 トマトには旨味成分であるグルタミン酸が多く含まれるために汁物の出汁としては非常に良く、現代でも使っているラーメン屋がある。

 

「なんか健康になりそうな汁ですねえ」

「脚気予防にも良いかもな、ここでの暮らしでは」

「ちゃんとあたい達の分も作るのよ」

「わかっておる。しかし、結構な人数になってきておるからな……どれだけ作れば良いか計算しておるのだ」


 九郎が紙とにらめっこして考えていたのは材料の分量であった。 

 麺を一人前作るにはどれだけの小麦粉と藕粉が必要か、出汁は大鍋で三つ炊いて混ぜるとして、ベースとなるたれはどれぐらい作ればいいか。

 それらは足りなくなることも考えられるので人数よりも多めに用意はしなければならない。 

 具はこの際凝らなくても良いだろう。


(三銃士でも具の専門家の人は地味だったからのう)


 前に読んだグルメ漫画を思い出しながら九郎は考えている。

 それを覗きこんでお房が聞いてくる。


「うわ、それの材料とかうちのお金で出すの?」

「いやこれは色々と金がある奴らから募って作る。天爵堂に石燕、影兵衛などだな。己れやむじな亭の腹はあまり痛まん」


 お房の目が真剣に輝いた。


「じゃあみんなが作り過ぎかなーって不審に思う限界まで大量発注して残ったものは全部貰って店で使うの」

「薄汚い横領を覚えてしまっておるこの十歳児……」

「お、落ち着こうよお房ちゃん。ほうら綺麗なちょうちょと蒼く澄み渡る空が見えるよ、矮小な考えなんてあの空の自由さに比べれば」

「あたいは冷静なの。こんなどさくさはそう無いの。おもてなしする側として切らさない分量を作るのは当然なの。あたいは冷静なの」

「ぬう……」


 九郎は有無を言わせぬお房に気圧されて小麦粉発注の単位を一つ増やされるのであった。

 

「……? 何か合ったのか?」

 

 出汁取り用に使う大きな鍋を、金物師をしているやくざ崩れの知り合いから借りてきた六科が店に入ってきながら尋ねた。

 九郎はため息混じりに、


「いや、どういう子育てをすればこうしっかりしてしまうのだろうと思ってな」

「そうか」


 気にしていなさそうな六科は大鍋を置いて、竈でじっくりと弱火で加熱させていた小さな鍋の様子を見に行った。

 それは胡麻油にたっぷりと目分量で大蒜にんにくと大辛(赤唐辛子)を入れて煮込んだもの──ラー油である。九郎のラーメンからの思いつきでついでに作らせたものだ。

 ただ、これは六科の好みに合わせて作らせたので横からむじな亭の三人が見ててぞっとするような量の唐辛子をどばどば入れていた。 

 彼はそのレッドでホットでチリペッパーな液体を小皿に掬って、躊躇わずにぐいと飲み、


「うむ。旨いな、これ」


 と、珍しく喜色を混ぜた声音でそう言っていた。

 どう見ても激辛である。三人は顔を背けて味覚破壊人間が店主をやっている蕎麦屋を憂うのであった。




 *****




「さて、九郎君。いよいよタレを作ろうかね」


 前掛けをした石燕が神楽坂にある自宅の竈に立ちながら、弾むような声音で九郎にそう告げた。

 喪服に白い前掛けが酷く似合わない。

 九郎はしげしげと眺めながら言った。


「……そういえばお主が直接料理をするところを見るのは珍しいかもしれん」

「おや? そうだったかね? ふふふまあ子興の修行を妨げるわけには行かないからね」


 ちらりと彼女が視線をやると、鰹節を削る鉋みたいな器具に必死で乾物を砕いている子興が居る。


「じゃあ変わってくださいよ師匠ー! 師匠の震える手先なら力掛けずにすいすいとやれますって!」

「馬鹿を言っては行けないよ子興。それを剃るのも絵筆を扱う技術の一つなのだからね」

「そうなんですか!?」

「………………うん」

「嘘だ!」


 適当な嘘が思いつかなかったのか、或いはそれすら考えるのが面倒だったのか曖昧な師匠の答えに嘆く子興であった。

 石燕は気を取り直して、


「さて、まあタレとはいえ特別な作り方は必要ない。むしろ、細かな味付けの合わせ出汁でするからぶれない味で決めるだけで良いのだよ」

「どうするのだ?」

「まずは叔父上殿の店で使っている蕎麦のかえしだね。これを鍋に入れる」


 小さな瓶に入れて運んできた濃褐色の汁をなみなみと入れた。

 かえしとは醤油と味醂と砂糖を混ぜて煮返し、数日寝かせたものである。店ではこれを鰹節の出汁で割って蕎麦汁にしている。

 保存が効く上に混ぜて煮るだけで失敗の要素が少ない為、何度も九郎が配合を変えつつそれなりに無難な味で纏めていた。安い屋台の二八蕎麦などはそれこそ醤油をそのまま使っていたりするのだが、少なくともそういう店よりは美味くなっている。

 それを鍋で加熱し始める。火元は石燕の家の竈なので普通に薪だ。

 

「続けてこれに味を加える。子興に作らせた、血合いを多く含んだ鰹節、砕いた煮干し、糸昆布の三つだ」

「前二つは良いとして、糸昆布で出汁を取るのか?」

「わっと沸かして味を取るからね。水からじっくり出汁を取るなら普通の昆布でいいが、糸状に細くしてやればすぐに味が解けて良いのだよ?」


 彼女は無造作とも言えるぐらいにそれらを投入してかえしの中で短時間煮込んだ。

 浮かんでいた鰹節が沈んで僅かな時間で鍋を上げて布で漉す。

 別の鍋に移して今度は塩抜きをした豚腿肉の塩漬けを中に入れて再び加熱した。

 

「塩漬けにされたことで豚の味が中に濃縮されているからね。それをタレに移して……おっと! 煮込み時間はうちの店の秘伝だよ!」

「いや、なに煩いラーメン屋の親父みたいなことを言っておるのだ」

「ふふふ、黒い服は着ているから、後は鉢巻をして腕を組みふんぞり返れば完成だね」

「なんで大体ああなのであろうなあ」

「また二人の世界に入ってる……」


 他人から聞いたら意味不明な会話を繰り広げる九郎と石燕に、子興は横から寂しそうに言った。

 そうこう話をしているうちに秘伝の煮込み時間となり石燕はチャーシューをタレから出す。

 

「さあ、ひとまずこれは完成だね。他のも順調かい?」

「そうだのう。江戸でラーメンを作るのに準備から数日もかかるとはな」

「無駄を楽しもうではないか、それが日常というものだよ」


 言い合っていると、石燕の家の入口の戸が勢い良く開けられて手帳を手にした動きやすい服装の女性が、明るい化粧をした顔を覗かせて元気に言ってきた。


「こんにちはあー! ここで新しい料理を作ってると聞いて取材に来ましたー!」


 読売の女性記者、お花である。

 石燕は待ってましたとばかりに、


「うちの店は取材拒否だよ……!」


 と、笑顔で断るのであった。言ってみたかったのである。




 *****




 人数分の麺は店の営業時間もあるので天爵堂の家で作られることとなった。

 小麦粉と藕粉、それに水と塩である。ラーメンの麺に見られる縮れ、コシ、色合いなどを担当するかん水は当時手に入らないので使わなかった。

 ではどうするのかというとそれの代わりとなるのが藕粉である。

 これは蓮根の粉なのでかん水と同じくアルカリ性を含み、またムチンと呼ばれるいわゆる蓮根の粘り成分による独特のコシが生まれる。麺の色合いは元より黒ずんだ蓮根の色が混ざるので気にしなくても良い。

 水の量は石燕の試験により粉の量の約五分のニと決まった。

 さて、その材料をこね合わせるのが三人集っている。


「それじゃあ頑張りますよーう」

「ふあははは! 俺様が頑張るときは頼まれた相手が美女の時だけだが、運良く君らは美女らしい!」

「……お゛う」


 前髪で目元の火傷痕を隠した盲目の女按摩、お雪。とりあえずこねる専門家として参加した。

 もう一人は着流しだというのに頭にだけ黒頭巾を被った巨漢は千駄ヶ谷の地主、根津甚八丸である。全身之筋肉、と言った日本人離れした体格で腕周りなどお雪の太腿より太い大男だ。

 両端を美少女に囲まれてとても嬉しそうである。彼は藕粉を提供した者としてそれの調理にも興味があったために

 甚八丸の腰ほどの背丈しか無いのが、若干関節などが青みがかって、癖っ毛が角のように尖っている少女、茨だ。雨次の家に住み込んでいる下女で、見世物小屋で喉を潰されている為に滅多に喋ろうとはしないが、極短い返事程度はするようになったらしい。

 雨次が料理の準備を手伝わされているので彼女も自ら参加する事となったのである。

 そんなわけであまり接点の無い三人組であったが、腕まくりして天爵堂のあまり使っていない無駄に広い板場を借りての作業である。なにせ、屋敷は旗本屋敷並の大きさなのであるが家主が浪人という身分なので下男や女中、従者を雇わなくても良い為に広々とした天爵堂の家の半分は埃を被ったままなのである。


「まずはお水に塩を混ぜて」

「……」


 と、鍋に分量を計って分けている水に塩を投入する。一度にすべての粉を練るのは量的に不可能なので何度かに分けて作る。

 目の見えないお雪を補助するように茨が彼女の発する手順に従って塩を溶かす。

 その間に甚八丸は小麦粉と藕粉を混ぜあわせ、粉は灰色になってきた。


「この、蓮根の粉ってのは中々腐りにくいのが特徴でな。水を混ぜて固めると虫も沸かなくて蟻の巣穴とかの上に乗せると迷惑そうにする」

「あら、でも藕粉を固めて食べるなんて珍しい食べ方してるんですねえ」

「毎年毎年師走にそれをもそもそと食うなんて誰が決めたんだ! 俺か! ちぃ、そんな戯けた法案を再諾した議会に問題があると思うね! 裏切り者!」

「……」

 

 テンションの高い甚八丸を胡乱げに見ながらも色の変わった小麦粉を茨は覗きこんだ。

 それぞれの鉢に適量の粉と、全体に満遍なく塩を溶いた水を入れて、お雪はぎゅ、ぎゅとこね始めた。


「握りながら押し潰すように力を込めてまずは生地の硬さが均等になるまで練ってね、茨ちゃん」

「……お゛う」

「ふあははは鬼娘よ! 俺様のこの北海の氷上で殺人鯔とどをこねて餅にしたこの動きをよく見て尊敬するのどぅあ!」


 大きな手で固めてびたんびたんと早くも一纏めにした生地を持ち上げてまな板に叩きつけ始めた甚八丸である。その剛力から繰り出される揉み力は岩石を砂状に砕く威力はまさに工業用粉砕マニュピレーターである。

 かつてその力にて親友の大猿を助けるつもりが手にかけてしまった悲しみを背負いながら甚八丸は生地に後ろめたい怒りを叩きつける……!


「俺が何故幕府を裏切ってまであの密林での作戦にこだわったか、まずはそこから教えてやろう……!」

「あの、ちょっと甚八丸さん?」

「はいなんでございましょうかお嬢様。いかん、ここでデキルおじさんだと思われなくては! ええと飲み物の準備は……この家、塩水しか置いてねえ! どこの深き者共の住み家だ!」

「いえ、そうではなく。ほら、この生地……」


 と、まな板に執拗に打ち付けていた塊にお雪は指を突き入れる。

 すると表面は水で纏まっているがまだ粉状の中身が零れた。

 彼女は口元を柔らかな笑みにしながら、


「蓮根の粉を混ぜてますから、それが粘って中々混ざりにくくなってるようです。もうちょっとこねてから打ちましょうね」

「ぬうう。上等だ! もういっちょ揉んでやるァァァ! 殺戮の宴をおっぱじめる──はっ!? 今誰かおっぱでしめるとかちょっと助平なこと云わなかった!?」

「……」


 茨がテンションの高い甚八丸を睨みながら首を横に振った。

 ともあれ、暫く三人で念入りにこねる作業が続いた。蓮根の粘り成分が強いコシを生み出し、中々に力が居る作業である。

 剛力の甚八丸と按摩で鳴らしたお雪──そして、茨はと言うと細い腕に似合わずに小さな体を乗り出しながら力任せにこね続けている。生地からくる強力な抵抗と反発力は、同じ年代の雨次などがやれば二分で音を上げそうな程に力が居るのだが、茨は軽々とそれを行うので、


(ほう……怪力属性もあるのか。ある日突然現れた、青肌鬼系怪力無口従順少女……あの小僧許せねえ)


 と、甚八丸は内心で妬みを義憤に変えつつ腕の筋肉をどくんと一回り大きく盛り上がらせつつ生地をこねる。

 暫く三人で練っていると台所から直接外に繋がる裏口が開けられて声がかかった。


「どうもー差し入れに来ましたー」


 言ったのはこれまた黒袴だというのに頭に黒頭巾を被った不審者である。手には麦湯を波々と入れた大きな土瓶と握り飯の包みを持っている。

 彼は町方隠密廻同心、藤林尋蔵である。隠密廻だから──というわけではないがあからさまに忍者めいた格好だが、実際頭巾を取って出てくる顔も彼の素顔とは限らないという変装、顔化けの名人であった。

 この日は個人的な用事で甚八丸の家を尋ねたら、彼の妻から、


「近所のお爺さんの家で料理の手伝いをするって出かけたからこれを持って行ってくれるかい?」


 と、渡されたのでこちらに来たところであった。

 ところが彼は裏口から台所に入ってすぐに、


「あーっ!」


 甚八丸を指さして叫んだ。

 そして慌てて零れないように麦湯の入った土瓶を近くの台に置いて甚八丸に詰め寄る。


「ずるいずるい! 頭領が老人介護のふりをして目隠れ系美少女と青肌系美少女に囲まれてきゃっきゃってしてる! 頭領ずっとずるしてた!」

「ばぁっきゃろおおい! これは俺が前世で積んだ高い徳のおかげだ! るなんかじゃねえ!」

「前世は砂漠の美少年王子で悪魔の乗り移った美しい尼僧が夜な夜な魂を狙いに来ていたとか主張してたじゃないですか! それでどんな高い徳が積めるんだ! この卑怯者!」

「違ぇよそれは前々世なんですぅー! 関係ありませぇーん」

「奥方様に言いつけてやる! 寝床のどんでん返しに竹槍を仕込まれればいいんだ!」

「ふあははは! 遅ぇ遅ぇ! お前が俺の家に辿り着く前に俺が先に嫁に土下座してくれるうぅわあぁ!」

「くそうこうなったら忍法[加速措置]──!」


 などと嵐のように騒いで二人は飛び出して行ってしまった。

 遥か続く田園の長閑な道を土煙巻き上げながら猛ダッシュで走り去っていく二人。

 その光景はお雪の目には映らなかったが、彼女は口元を隠しながら「うふふ」と笑い、


「楽しい人達ですねえ」

「……」


 その言葉に、一応茨も頷いたのをお雪は感じた。

 しかし、とお雪は頬に手を当てて首を傾げながら、


「後は麺きりをするだけなんですけど……わたしは包丁扱えませんし……茨ちゃんは?」

「……」

 

 ふるふる、と茨は首を横に振った。その仕草をしても角状に固まった髪は揺れない硬度である。

 圧搾して丸める機械があれば別だが無いのならばラーメンの麺も蕎麦切りと同じく、薄く伸ばして束ねて紐状に切る方法が取られる。

 目が見えないので包丁は握れない──正確に言えばやろうとした時期もあったのだが、六科から止められたので従っている──お雪と、そもそも最近まで料理という概念が無かった茨ではどうしようもないのである。

 悩んでいると家の方から廊下をどたどたと走る音が聞こえて台所にやってきた。


「なになに? 包丁使うんだったらわたしがやるよー!」


 お遊である。彼女はむき出しの包丁片手に現れて向日葵のような明るい笑顔で手伝いに加わるのであった。

 子供ながら何故か包丁さばきはとても上手であったという。

 麺の形にしてほぐしたものを一人分ずつに纏めて、一晩寝かせれば完成である。





 *****





 夜──。

 天爵堂の家の台所で、灯りを付けたままふつふつと沸いている鍋の隣に座って本を読んでいる少年がいる。

 雨次である。

 彼は本に目を落としながら時折隣の鍋の様子を確認して、浮いた灰汁を掬っては別の鍋に捨てるという作業を夜通し行っているのだ。

 鍋の中は捌いた鴨の肋骨や足であった。

 晃之介が猟ってきた得物をお八が指導の元に解体して、天爵堂の家に持ってきたのだ。

 一応面識のあった雨次に、


「後は頼むぜ……ああこれ出汁の作り方」


 と、さすがに血を見てぐったりした様子で渡して行ったのである。

 仕方ないので雨次はこうして夜になっても煮える鍋に水を足したり灰汁を掬ったりしながら見張っているのだ。

 

「雨次、居るか?」


 そう言って家の方から入ってきたのは腰まで緑の黒髪を真っ直ぐに伸ばしているおかげで九郎や石燕に密かに[学校に内緒で髪タレントやってる委員長系]とか呼ばれている少女──小唄だった。

 手に薄い掛け布団を持っている。彼女は雨次の様子を見に来たのである。

 ふと、彼の座っている椅子の両隣を見てふっと笑った。


「なんだ、両手に花じゃないか」


 そう言ったのは、雨次の右隣にお遊がしがみついて寝ていて、左隣に茨がひっついたまま寝入っているからだった。

 げんなりとした顔をしながら雨次は本から顔を上げて云う。


「花というか蔦だよ、これじゃあ。立ち上がっても絡みついたままだから精々が手を伸ばして灰汁掬いしか動けない」

「さながら、手のかかる妹か娘みたいだな、端から見ていれば」

「まあそんな感じなんじゃないかな」

「──よし」

「?」


 雨次が適当に、しかし同意するに値する感想だった為に頷いたら何やら彼女が小声で呟いたようだったけれども、聞き取れなかった。

 お遊が妹、茨が娘と来ればそう、残った女性である自分の立ち位置は決まっている……!


「……おーさーなーなーじーみー」


 裏口が僅かに開いて幽かな声が聞こえてきたので小唄は無言で苦無を投げつけた。

 

「今なにか聞こえなかったか?」

「虎鶫か何かだろう。そろそろ夜鳥も増える季節だからな」

「はあ」


 呟いて雨次はちらりと鍋を見て再び曇った灰汁を掬い捨てる。

 炊きだした最初の頃は取っても取っても灰汁がぶくぶくと湧き続けて、食品なのか怪しくなったものだがそろそろ一刻に二三回手を掛ける程度に落ち着いていた。

 鳥の出汁は時間を掛けて煮るのが肝心だと手順書には書かれていたので、従う。

 

「そうだ、小唄。そこから水桶を取ってくれないか? 減った鍋に足していたんだけど、使ってた分が無くなってさ。移動できないから」

「いいぞ。しかし、夜通しでは大変だろう。私は夜に強いからな、見張りを代わろうか。夜に強いからな」

「なんで二回言ったんだ? でも別に大丈夫だよ。ぼくが手伝うって返事したんだから、自分でやるさ」

 

 苦笑しながら雨次はそう応える。

 本を読みながらほとんど聞き流すようにお遊の言葉に相槌を打ったのだが、


(自分の選択には責任を持たないとな)


 と、本人は思っているのである。

 小唄から見てみればこのような面倒くさい退屈な仕事など余程不服なのだろうと思っていたのだが、意外そうな顔をした後で小さく笑った。

 

「ともかく。掛け布団ぐらいは被っておけ。広げれば入るだろう」

「ありがたく受けるよ」

「──ふふ、いや、前までの雨次だったら施しがどうのとか対価がどうのとか言ってきそうだったけど、素直になったな。うん、いいことだ」

「む……」


 何やら弱みを掴まれたような気分の悪さを雨次が感じて、生来の拗ねた顔をやや険しくしたが小唄は上機嫌そうなまま、座って並んだ三人に薄い布団を被せてやり、自分は雨次に対面するところにあった椅子についた。

 雨次は胸元まで布団を被り再び本を読み始める。行灯に白く照らされた顔を小唄はじっと座ったまま見ていた。

 彼女の視線に気づいて雨次はちらりと目を本から上げて、


「……? 小唄は寝床に行ってていいよ。ここはぼくが見ておくから」

「もし、うとうととして火事にでもなったら大変だからな。私も一応ここに居ておこう」

「一人いても二人いても作業は変わらないんだけど」

「じゃあ私が居ても問題無いということだな」


 そうまでして居座ろうとする理由がわからなかった。火の用心とはいえ、竈の周囲に燃えやすいものなど無いのだから火災が発生することはなさそうに思えたが。

 雨次は小さくため息をつきながら、


(まあつまり、心配性なんだよな、小唄は)


 それなりに打ち解けた間柄であるから、最初のようにお仕着せがましいお節介だとか、偽善の押し売りだとは今更思わないが、彼女の性格としては心配性で面倒を見てしまうのが根にあるのだろう。

 他人の性格をどうこう出来るわけでなし、


(大人なぼくが譲歩して諦めてあげよう)


 と、思う雨次であった。

 しかし三人並び布団も被っているこちらは温かいのだが、すると対面で座っている小唄が寒そうに思える。 

 自分のものは用意していなかったのだろうか。

 雨次は頭を掻きながら小唄に、


「寒くないか?」

「いや、平気だ」

「そうか……寒ければこっちに来てくれても良かったけど」

「超寒いな今晩は! 凍死寸前だ! 震えが止まらないぞ!」

「それはもう医者に行けよ」


 心底小唄の体を思いやった発言だったのだが、椅子から平気そうにすっくと立ち上がった小唄が近寄り、雨次の隣に立って咳払いをした。


「そ、それじゃあ失礼して」


 そう言うと彼女は布団を捲り、座った──雨次の膝に。

 

「……」

「……」


(わけがわからないよ)


 何かすごく残念な選択を彼女が選んだのではないかと雨次は不安になる。

 視界を小唄のうなじと後頭部が占めて、雨次はうめくように呟く。


「なあ小唄」

「はうあ……! 息が首に……! ど、どうした? 私は重くないぞ! 決して重くて面倒くさい女じゃないからな!」

「本を読み難い」

「……」


 率直な感想に、ずるずると滑り落ちるように小唄は床に崩れて雨次の足元で車座になった。

 何か意味不明な消沈をしている小唄に声をかけた。


「普通に詰めれば横に入るだろう。右か左かに」

「そ、そうだな……」


 言われて、小唄はふと配置について考えた。

 今の状況では[茨][雨次][お遊]と並んでいる。さて、そうなれば自分は何処に入るべきなのか。二つの選択肢がある。

 一つは茨と雨次の間に入ってお遊と囲む幼馴染包囲網作戦。これにより希望の未来へレディ・ゴーとなるか惨劇へのシナリオになるかはこれから次第だ。

 二つ目は雨次とお遊の間に入る状況。これにより現状で最も強敵なお遊を離すことが出来る。なに、茨という少女は所詮ぽっと出の落ち物ヒロインだ。まだ脅威にもなっていない……!

 小唄は高速分割思考により様々な状況をシュミレートして──


「……はあ」

「どうしたんだ? 小唄」


 結果、[茨][雨次][お遊][小唄]という並びになった。

 小唄はつい恥ずかしくなって引いてしまった自分を胸中で叱咤しつつ、夜は静かに過ぎていくのであった。

 

 

 

 *****

 

 


 調理の日──暫定的にラーメンは[闘将蕎麦]と名付けられ、それの試食会は天爵堂の自宅庭で行われた。

 屋外に出汁スープの鍋を並べて既に火にかけてある。人数分の食器から持ち寄りで様々なつまみと酒も用意されていて、企画した[歴史にある味の再現]という主題よりも宴会のような形になっており、不本意なのか主催者である天爵堂の顔色は優れない。参加者の人数はどんどん増えて二十人前後も居るのだ。

 野菜と茸の薬膳出汁の味付けも最終段階へ入っていた。こちらはそこまで煮こむ時間は取らずともよく、また薬味による風味付けはあまり熱を通しすぎては良くないものもあるために将翁が細かく調味料を足している。


「ここで胡椒の粉、陳皮の粉、けしの粉と混ぜまして」


 薬箪笥から出した謎の粉末を入れて行くのを、野菜出汁班であるお房とタマが不安そうにしながら見ている。

 だが狐面を被った薬師の表情は読めずに次々に具材を投入していった。


「御種人参と霊芝は少量だけ摩り下ろしたものを。五行的に見て……おっと、こいつはどうしたものですかね」

「その茸の生えたセミの幼虫は止めて欲しいの」

「はい、はい」

 

 あからさまに危なそうなものはさすがにお房から制止されていた。

 最後に薬箪笥の最下段、それの隠し底にもなっているところから具材を取り出して掴んだ。


「そして仕上げにこのモケ──」


 言いかけて、はっとした様に将翁は狐面の鼻を抑えた。

 そしてしなびた植物を持ったまま、周囲をちらりと見回し、微妙に注目を浴びていることを確認して言い淀む。


「おほん、ごほん……ええと……ああ、────[草]」

「なんの草だそれー!?」


 一斉にツッコミが入ったが、ぽいと鍋に草を放り込んで混ぜ出したのだからもう止まらない。

 鴨出汁の鍋の方は最後に晃之介が軽く手入れをしただけで完成している。


「鳥の骨と煮崩れを濾しとって、と。最後に細かく刻んだ肉を汁の表面に浮かべてやれば余計な脂が取れる。鴨の脂は旨いんだが、ありすぎると汁には重すぎるからな」


 表面が厚い脂の層になっている鍋に、晃之介が挽肉状にした胸肉を浮かべると汁は清澄さを取り戻す。

 特に現代に比べて食事の脂気が少ないこの時代ではあまりに脂っこいものでは胸やけしたり下痢を引き起こす可能性があるから拉麺のスープと云えどもあっさりした物が良いのだ。

 脂を吸い取った胸肉は火で炙れば酒の肴にもなる。

 お八が手際よく処理する晃之介に感心しながら言った。


「へえ、師匠ってそんなことも考えてるんだな。前に師匠の鍋食った時は適当に煮込んで終わりじゃなかったか?」

「自分達で食う分だけだと手間を掛けるのが面倒だからな。料理は精神修養にもなるからひと通り出来るようになれ──そう親父から言われて十ぐらいから飯を作るのは俺の役目だった」

「師匠……それもしかして押し付けられてないか……」

「俺も若干そう思うが師の云うことだから従わないとな……しかしこれが作れたのは一晩面倒見てくれたやつの手柄だぞ。雨次と言ったな」

「あ、はい」


 少し眠そうにしながらも雨次は自分が出汁取りの調整をしていた汁の様子を見ていたので、晃之介に応えた。


「よくやったな」

「いえ、見ていただけですよ」

「忍耐力がある。武術向けの性格だと思うぞ。良ければ道場とか……興味無いか?」

「え。いやあの……」

「褒めたと思ったら勧誘が始まったぜ……」


 現在形で潰れ道場な六天流に弟子を誘う晃之介であった。

 九郎は少し離れた場所から見ていて、さて影兵衛の魚介出汁はと目を向けると、出汁を取った後の味が抜けた干物に生醤油をかけまわしたものをつまみに既に一杯やっている男がいた。

 影兵衛であった。


「ぷはあー! いい酒持ってんじゃんよ新井の爺っつぁん! 五臓六腑を切り分けるぜ!」

「切り分けてどうするのだ。と言うかお主が担当した鍋は?」

「あん? ああ、途中で腹減ったから子興の嬢ちゃんに任せた。拙者お先ぃ」

「ううう、味を纏めるの大変だったよー……」


 湯気の上がる鍋の前で項垂れている子興である。彼女は基本的に押しに弱いのだ。

 昨日の早朝に影兵衛に借りて行かれてそれから今まで旨い出汁取りに手伝わされていたのだった。

 干し鰈と干し帆立、それに小さな鯛のアラなどから取った出汁だ。魚は旨味は強いのだが生臭さや磯臭さが出やすいのだが子興がなんやかんやで調整したようで悪い匂いは立っていない。

 

「影兵衛さんは鯛が食いたいから鯛のアラで出汁を取れっていうし、試しに煮てみたら血生臭くてとても汁には出来ないから、念入りに包丁でアラから身を剥がしてお酒で洗って火で炙ってからもう一回煮直して……

 それからも色々適当に放り込むもんだから睦月さんと一緒に薄めたり煮詰めたりしながら延々と調節して……ああもう疲れたー!」

「まあまあいいじゃねえか。出来上がった奴は味噌とか混ぜるだけでうめぇ汁になったんだから。むっちゃんも喜んで近所に分けてただろ?」

「その間影兵衛さんは切った端っことか食べてただけだし!」


 うー、と唸るように睨み上げるが茶碗に入れた酒を片手に下品な笑い声を上げて頭を押さえられるだけであった。

 九郎の隣に立っている石燕がどこから取り出したのか──というか江戸で見たことがない、羽扇を持ちながら告げてくる。


「ふふふ三つの出汁は完成したようだね。この状況──まさに三国志といったところか」

「……確か、劉備と関羽と張飛が三つの国に分かれて戦争する伝記だったか?」

「違うよ!? 桃園の誓い台無しだなその展開! はいお集まりの方々で三国志を知っている人!」


 石燕が呼びかけると、何人かが反応した。


「[通俗三国志]っつうのなら読んだことあるぜ」と、影兵衛。これは元禄の頃に出された三国志演義の訳本で、日本初の外国小説と言われているものである。

「あたいも先生の家で読んだの」お房も手を上げた。

「僕は漢書で読んだな。前の家と一緒に焼けてしまったけどね」これは天爵堂だ。

「ああ、曹操殿は残念でした。治療前に、怒らせてしまいまして」謎の着眼点を持つのは将翁であった。


 ともあれ、幾人かは知っているのでそのまま石燕は語りだす。


「この三つの出汁をそれぞれの国に当てはめると──煮詰めた濃厚な風味の鳥がらが蜀、多種多様な野菜茸漢方を懐広く取り入れたものが魏……そしてまあ……海とか川が近いから魚介は呉」

「呉だけ適当だ!?」

「そしてそれに合わせるタレはさながら三つの中心、荊州を守護している関羽といったところかね」


 さらさらと持っている紙に三国の絵を描いて図で示す。

 なるほど、荊州は魏呉蜀それぞれが奪い合っていた土地と考えるとまさに三国の中心と云えよう。それを守護していた関羽も、劉備の義兄弟であり曹操から欲しがられ孫権からは娘との縁談を申し込まれていて、取り合いのような形とも言える。

 曹操が生きている頃はまだ魏ではなく漢だが細かい事はとりあえず置いておこう。


「ま、どの組み合わせが合うか少し試してからだね。ここは[神の舌を持つ絵師]と呼ばれる私に任せておきたまえ!」

「なんで絵師に味覚系の二つ名が付くのだ」


 言われながら、小皿を用意して少量の出汁でタレを割って、まずはそれぞれ味わう。

 次に二種類をそれぞれの組み合わせで混ぜて、更に上から天爵堂の用意した五種類の調味料を混ぜたものを組み合わせて考える。

 

「ふむ……よし、決まった」

「どうだ?」

「一つは鳥がら出汁と組み合わせたシンプルな味だ。すっきりとしながらも醤油の旨味がよく出ている」

「やはりな」


 晃之介がどこか嬉しそうだ。


「次は鳥がらに魚介を混ぜたものだね。タレも合わせた三段重ねの複雑な味わいが濃厚で良い。

 野菜薬膳と魚介の組み合わせ。これは生臭さを消しつつ野菜の甘味を感じる。茸の風味も奥底から感じて素晴らしいが、あまり混ぜる量を増やすと薬膳の味に侵略されるから注意だがね」

「なあ将翁。一応聞いておくがあの出汁、致死量とかそういうのは無いよな?」

「これは異なることを仰る九郎殿。こういうでしょう──大は小を兼ねる」

「不安だ」


 ぼそぼそと言い合っていると、お八が手を上げて石燕に問いを投げかけた。


「なー石姉! それ三つ全部混ぜたらどうなんだ? せっかく作ったんだからさー。ほら、三つの心が一つになれば一つの勇気は百万力って云うじゃん」

「なかなか欲張りな意見だね。しかしこれが……」


 石燕は大体均等に混ぜたスープを口に含んで微妙そうな顔になった。

 

「三国志というものは統一していたら話にならないからか、全部合わせるとまるで合わない……蜀の鳥がら出汁を増やすと役に立つとか立たないとかそういう次元じゃない跡継ぎを彷彿とさせるぼやけた味になるし……

 呉の魚介出汁を増やすと君主が老害化して重臣の家に放火しに行くような刺々しい味が浮き出てくる……

 魏の野菜薬膳出汁を増やすと後継者選びを尽く失敗して内乱や乗っ取りされたような、複雑だった茸と漢方の自己主張が尖りまくりげんなりする……」


 じわじわとスープの分量を変えながら酷評していく石燕。

 やがて全ては渾然と混ざり合い、もはや三国時代の味はまるでわからない謎の液体になってしまったスープの丼が出来上がった。

 

「あ、うん。最初の麺が茹で上がったようだね……」


 不味そうな顔で石燕は、試しに茹でた麺をその丼に放り込んで、無言で座っていた六科の前の机に置いた。


「失敗だ。やはり無理に混ぜないほうがいいよ君達! 失敗作は叔父上殿が美味しく頂きます! 勿体無い精神!」

「俺か」

 

 ぼそりと彼は言って箸を受け取った。  

 そして持参してきたラー油を入れた瓶と、酢を入れた瓶を取り出して──どばどばとかけ回す。

 躊躇わずにスープの表面がラー油で覆われて丼内の嵩が一割ほど増えるぐらいその二種類の調味料を叩き込んで、箸でぐるぐると混ぜて、ずずっとそれを啜った。


「──うむ。酸っぱくて辛くて旨い」

「もうラー油と酢をそのまま飲んでろよ……」

「意外といけるが……飲むか?」

「飲むか!」


 真顔で薦めてくる六科に九郎は全力で拒否した。

 ともあれ、それから次々と宴会に集まった皆に好きな味付けの特製ラーメンが振る舞われた。基本的な味付けとして石燕が紹介した三種を食べるものが多かったが、変わったものを食べようと自分で出汁を調節する者も居た。

 九郎も鳥と魚介のダブルスープでラーメンを準備する。具は単純に刻んだ葱と、天爵堂が用意した五種類の香辛料を乾燥させふりかけにしたものを掛けて食べる。

 藕粉を混ぜた麺は見栄えこそ妙な黒麺だが、その分粘り成分が小麦同士を粘着させてもっちりとした独特のコシがある立派な中華麺だ。スープも丁寧に捉れていて、タレを割ってラーメンにしているが生醤油を掛け回すだけで立派な汁になるほどである。

 すすると鴨の良い脂の香りと鯛の上品な風味が絡まり、わずかに帆立の匂いがする。魚介の味は鰈の干物でびしりと際立っていて濃厚な鳥に負けていない。

 上に振りかけられる山椒、にんにく葉、韮、白からし、こえんどろの調味料も汁の味を壊さずにかつ味わいを増してくる。六科はばっさばっさと大量にふりかけているがあれはともかくとして。


「ふふふ、やってるかね九郎君!」

「お主はもう酒に移行しておるのか……」


 炙った火腿を切ってつまみにし徳利をラッパ飲みしている石燕に向けて半眼で九郎は云う。

 しかし彼女は大げさに肩を竦めて、


「いいや違うよ九郎君。私は最初から酒の締めに麺を食べるつもりなのさ!」

「試食会なのに確信犯的に慣れておる選択だな!」

「なに、こういうのは好き勝手に食べればいいのさ。ほら、みんな旨そうに食べている」

「ふむ……江戸の時代ではまだ受け入れられない味かもしれんと思っていたがな」


 鳥と魚介のダブルスープや薬膳スープなどは現代日本でも駄目な人は受け入れられない、ニューウェーブ系のラーメンである。

 しかしながら江戸に生きる彼らはごく当たり前に、旨そうにそれを享受していた。

 晃之介が意外とイケたらしい薬膳出汁について将翁と意見を交わしている。

 影兵衛がラー油を入れすぎて六科の隣で額に脂汗を浮かべている。

 雨次とその女友達がそれぞれ違うものを丼に入れて少しずつ交換しながら食べている。

 心だけは若いつもりで鳥魚介スープに挑戦した天爵堂が最初は良かったが徐々にキツイ表情になってきた。

 お八が残り汁に握り飯を投入する発明を覚えた。もう一人のお八が火腿を頬張りながら酒を飲んでいる。どちらかが紛れ込んだお七だろう。 

 石燕が酒を旨そうに飲みながら、


「美味しい料理に境界は無いのだよ、九郎君」

「そうだなあ」


 細かいことは考えずに、九郎も今日はラーメン美味しいと思いながら、ほのぼのと啜った。

 石燕もまた新たなつまみを求めて宴会へ突入していく……。







 




 *****




 わいわいと騒ぐ皆を、老人の頃のような心持ちで少し離れて見ていた。

 

 魔王が異世界で己れに言ったことを思い出す。


「自分が選んだものが正しいと信じるんだ。諦めずに幸せを願うことだよ。冷たい方程式を否定し、たったひとつの冴えたやりかたは捨てて、ご都合主義のハッピーエンドを目指そう。我らはそれに巻き込まれたいだけなのさ」


 ──君が望んだ物語を進めよう。


 きっと戯言ではあるが、まあ思うだけならタダだから、少しはそう考えるようになった。


 七十年前に己れは異世界に迷い込んで。


 新しい仲間達と命をかけた戦争に巻き込まれて多くの犠牲を出しながらも敵の軍勢や精霊召喚士と戦った。


 それからも世界中を旅して回っていろんな冒険をして──

 

 魔女や魔王と仲間になり、世界が滅ぶような決戦が終わった。


 そんなとてつもない物語が終わっても、己れの日々は続いている。

  

 新しい場所と新しい友人と、変わったり変わらなかったりしながらも今日も過ごしている。


 これからも歩み続けるのだ。この日常という緩やかな坂を……








「……九郎君が妙に投げやりというか現実逃避してるような雰囲気がないかね?」

「さあ。なんかヤバイもの失くしたって少し前は鬱になってたの」


 石燕とお房はラーメンを食べながらひそひそと言い合った。



 まあなんというか、ブラスレイターゼンゼを秩父山中に埋めに行ったら深い穴を掘ってる間に誰かに盗まれて所在が不明になったので、全力で鎌の存在を忘れようとしているだけなのだが。


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