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48話『やりたい放題の夢とアウトブレイク』


 夢を見ていた。



 *****



 体の至近を巨大な柱が大気を圧し潰す勢いで通り過ぎて行く。

 触れれば血霧になりそうな柱の暴威は、死人めいた青白い外套に掠りもしなかったが、本能は只管に危機を叫び離脱を指示していくる。

 それは巨大な棍棒の一撃である。

 大樹を引っこ抜いてそのまま振り回しているスケールのそれを棒と呼んでいいものかは悩みどころであったが、一撃と思った攻撃は連撃として宙に浮かぶ九郎に襲いかかる。

 慣性も重力も無視した、まるで小枝を振り回すような気軽さで全長三十メートルの棍棒が襲い来る。


『くーちゃん、絶対受け止めようとしないでね! 死ぬよ!』


 インカムから警告が来る。防御したならば──いや、一割でも此方に破壊力が伝わったら人体など豆腐のように崩れ飛ぶのだ。

 九郎は振り回される柱が纏う吹き荒れた空気の渦を掴む感覚を無理やり脳にイメージさせて風に乗り相手に近づこうとしている。

 纏っている外套──[疫病風装]というローブに込められた魔法の効果で風を纏っている破壊の力は勝手に避けてくれるのだが、相手の攻撃で生み出された暴風に翻弄されるばかりでは埒があかない。

 正気の沙汰ではない巨大な武器を振り回しているのは、狂気の奇跡で理性を飛ばしている蛮族風の戦士だ。腰蓑を身につけているだけで、靴すら履かずに裸である。もっとも、それはこの魔王城の近くに辿り着くまでの地雷、砲撃などで衣服が吹き飛んだのだが。


「ガアアアアゴオオオアアア!!」


 戦士が周囲の砂を消し飛ばす叫び声をあげる。蝿のように飛び回り攻撃をすり抜ける九郎に苛立ったのだろうか。

 びりびりとした破壊音波は、その性質から風を通じて伝わるのでこれも防具の効果で無害化される。


『うわあ……不良漫画みたいな叫び声上げてる……元勇者が出す声じゃないよ』

「この服付けてなかったら己れの耳、潰れてる声量なのだが」


 ぼやきつつ九郎は近づいた距離を爆圧で開けられる。

 凄まじい破壊の力が背後で発生した。狂戦士の振った棍棒が砂漠上の地面に叩きつけられて巨大なクレーターを作り出す。

 それによる衝撃波すら蒼白のローブは涼風のように回避させる。風を起こさない攻撃が出来る魔法に弱いという性質はあるが、空気のある場所での戦闘ではほぼ物理攻撃が無効化される便利な防具である。魔王が召喚した一着しかこの世に存在しないが。

 攻撃方法が、百万倍に強化された力を使い、大棍棒──崩壊した軌道エレベーターの主柱を加工して棍棒にしたものである──で殴りつけるというこの狂戦士相手には相性が良いのだが、


「攻撃がさっぱり通じぬな」


 九郎は再び風に乗って接近して滑るように斬りかかる。

 武器は右手にアカシック村雨キャリバーンⅢ、左手には黒い霞がかったように見える巨大な鎌[ブラスレイターゼンゼ]を持っている。

 装備させて送り出した魔王は「光と闇の力を兼ね備えて最強に見える!」とか言っていたが、


「ぬう……!」


 接近してきた九郎に百万倍の反射神経で百万倍の威力の迎撃を行ってくるが、やはり殴るという攻撃そのものは九郎には当たらない。

 強制的に体が攻撃範囲から逸れるので、攻撃密度の上がる戦士の至近に来れば九郎自身目が回るほどに振り回される。

 それでも手に持ったブラスレイターゼンゼで薙ぐように戦士の腕にぶち当てた。

 百万倍の強度をした彼の肌には一切突き刺さらない。しかし刃先が触れた瞬間に黒い靄の鎌は分解して効果を発動させる。


 この鎌の形をした武器の正体はあらゆる種類の死病を凝縮させた病魔そのものなのである。遠距離からの拡散発動は広域感染で一つの都市程度ならば鎮まり返らせ、接触しての直接感染は生物どころか非生物にすら死級の病性を付与させるという悍ましい力を持つ。

 百万倍の頑丈さを持つ戦士相手にはまともに惑星上で使える武器は通じない。封印なども百万倍の運命力で突破してくる。故に、百万人を殺せる病で足止めするのが九郎の役目であった。

 突然の襲撃事件により魔王城の結界管理システムはダウン。魔王がそれの修復を行い、結界を破りに空間転移も行う一番危険な闇魔法使いを魔女が、制空権を奪った鳥召喚士には対空武装を多く持つ侍女が、正面から攻めてきた戦士には九郎がそれぞれ対処に当たった。

 しかしその戦士は戦神の最上位奇跡術[武僧野郎百万人]を発動させている。これは全世界に居る百万人の戦神神官の祈りにより、全員の能力を一人に集めるという百万倍強化の弩級術式である。

 これに対抗するために九郎に与えられたのが[疫病風装]と[ブラスレイターゼンゼ]の装備だ。

 百万人分の祈りにより理性を失っている戦士──元勇者で魔王が心をへし折って放置していたらしい──は、とにかく世界の敵を殲滅する本能により攻めてきている。九郎が立ちはだかっても無視されて足止めにならない可能性が高い。

 故にこの、疫病を齎し世界を滅ぼす青白い騎士の装備をしていれば九郎も敵に認定されるのではないかと魔王は提案したのだが、見事に的中して戦士は足を止め九郎を叩き潰そうと躍起になっている。


 九郎、今では立派に世界の敵であった。


(悩んでいても仕方あるまい)

 

 あと半日時間があればこの世界から逃げられたのだが、その寸前で襲われるというのがもう悪い運命の導きである。

 なんかこう九郎も把握していないがヤバイ系の病気に感染、瞬時発病させた戦士の動きが鈍った。

 九郎は右手のアカシック村雨キャリバーンⅢをおもむろに首に叩き付けた。

 手加減や峰打ちなど考えない一撃である。

 

「つっ!」


 だが、まったく首に刺さらない。剣の凄い概念を弾くほどの密度なのだ。

 人間の皮膚というものは意外に硬く頑丈なものなのである。更に百万倍にまで強化された戦士の体は、艦砲射撃が直撃しても殆ど傷を負わない。

 動きを止めて脂汗を流していた戦士が、


「極ォ──……道ィ──!!」


 と、叫びを上げて顔色を戻し、再び九郎に棍棒で攻撃を仕掛けてきた。

 百万倍の抗体で感染していた病気を克服したのだ。


『よっし、くーちゃん! 今の間で八回は病死させたよ! あと99万6731回殺せば倒しきれる!』

「無理すぎる」


 魔王からの応援に絶望的に返す九郎。この超戦士は術の効果で百万回殺さねば死なないのである。魔王城に近づくまでに多種多様な罠と砲撃で削っても一万も殺していない。

 外部攻撃では頑丈だからやたら面倒な上に如何に強力なもので殺そうとも一回判定なのに対して、病気による持続致死は殺害数を稼ぐのに便利なのだが、まだ九十九万回以上も残っているのだ。

 1秒に1回殺したとして275時間かかる。

 ブラスレイターゼンゼに込められた病気全てに──どれだけあるのかは九郎も把握していないが──耐性を持たれたら終わる。いや、癌とかは中々治らないだろうが。闘病生活を半年ぐらい送らせるプランならまあ行ける気がするけれども。

 

「もっと良い方法は無いのか」

『その辺り、転移系の罠仕込んでるからそっちに誘導してくれればありがたいんだけどー……あ、ミサイル発射シークエンス復帰。くーちゃん、五秒後にそっちにDミサニ発回すから離れて。罠方向に吹っ飛ばそう』

「五秒!? あのミサイル爆破範囲1kmじゃなかったか!?」


 魔王城に配備されている対神格エーテル気化弾頭ミサイル[草薙剣デイジーカッター]……通称Dミサイルである。神や精霊にも効果のある強力な武装だ。当たるとだいたい死ぬ。

 爆風はともかくエーテルの崩壊被曝が危険なので九郎は再び手に現れた病毒の鎌を戦士にぶつけて、隙を作ってから高速で離れた。戦士は急性殺人水虫で足が止まって追いかけてこない。

 人々を死に至らしめる青白い死神は、風に乗って疾く空を往く。顔を上げ周囲を確認すると此方に向かう二つと、空に上る二十八発の火線が見えた。

 九郎とは別に、魔王城上空で戦っている侍女にも支援ミサイルが放たれたのだろう。

 爆光で世界が一瞬白く塗りつぶされ──


 


 *****




「む……?」


 九郎は何もない、白い空間に立っていた。

 其処に滲みでたように青白いローブと黒い鎌を持っている己の他には、見渡す限り何も無い。

 白い地平線が遥かに続いているのか白い壁に囲まれているのか、影も境界も見当たらない場所であった。

 九郎はブラスレイターゼンゼを軽く振って、己の頭を掻いた。


「さっきまで夢を見ていたのだが……」


 と、呟く。反響は何も無く、ぞっとするほど音は広がり、消えていく。

 時折九郎はさっきのように異世界での記憶の再現を夢で見ることがある。夢の途中で夢と気づいても、映画を見ているように体は動かずに記憶の通りに状況は動く。

 明晰夢だと自覚して自分が動けるようになる夢だと、魔王が出てくることもある。ただ以前に、肥満を馬鹿にして以来彼女は登場しなくなったのだが。

 現在の状況は、魔王が出てくるに似ているものだ。装備はあの異世界で最後に超戦士と戦っていた時のままだが。


「あの後、地獄門とかトラクタービームとか宇宙皇帝ドリルガッデムとか出てきて色々カオスになるのだったが」


 何故か突然別の場面──いや、記憶に無い白い夢へ移動したようだ。


「おーい、魔王。居らぬか」

 

 このような状況を作る心当たりに呼びかける。

 すると虚空から小さな鏡のようなものが投げ込まれてかしゃりと地面──地面というよりも白く境目のない足場なのだが──に落ちた。

 携帯端末のようである。

 一応念の為にブラスレイターゼンゼの先で突いて安全を確認し──いつの間にか持っていたアカシック村雨キャリバーンⅢは無くなっていたので──拾い上げると嵐がかった画像に虹髪の少女、魔王の姿が写っている。


「魔王、何だこの夢は。あと痩せたか?」


 小さく全身が写っているが、前に見た時に膨らんでいた腹はすっかり凹んでいた。

 ざ、と異音と共に聞き取りづらい音声が端末から聞こえる。


「──共通無意識下の通路──よ、そ──は──可愛──認──」

「うむ?」

「夢と夢の繋がりの──其処に招かれたん──我はくーちゃんが物騒なもの持ってるから行けな──」


 酷く音声が悪く、画面も嵐かかった中から魔王は九郎の持つブラスレイターゼンゼに指を向けて言った。

 

「この端末もコンピューターウイルスに侵さ──もうすぐ爆発す──」

「空気感染して爆発させるコンピューターウイルスがあるのか?」

「あと──そこで死ぬと意識が現実に戻らな──気をつけてね!」


 何やら物騒なことを魔王が告げて画面はブラックアウトした。

 狂った歯車が押しつぶされるような異音と、焦げ臭い匂いがしてきた為に九郎は咄嗟に全力で携帯端末を投げる。学生時代、携帯投げ世界大会に入賞したことが小さな自慢であったことを思い出しながら──!

 白くどこまでも広がる空間の遠くに黒い携帯端末は投擲され──目測で周囲十メートルは巻き込む炎の爆発を起こした。

 九郎は投げた体勢のまま半眼で、


「……魔王の渡した端末が悪かったのか、この鎌から感染したウイルスがヤバイのか、どっちであろうな」


 或いはその両方か。このウイルスがあればスカイネットに支配された未来を変えれるかもしれない。九郎はそんなどうでもいいことを思いながら早く夢が醒めることを考えつつごろりとその場で横になった。

 しかしどうも手元に疫病概念であるブラスレイターゼンゼがあるとのんびり、という気分にはなれなかった。

 意志を込めて発動呪文を唱えるか、刃先で突かない限り病魔の感染は起こらないが、いわば最終殺人形態ゲキヤバ毒ゾンビウイルス殺人ドリルバクテリアっぽいものが詰まった封されているビーカーがあるようなものである。

 一応九郎の疫病風装には病魔無効化の効果があれども気分がいいかは別だ。

 ガスマスクをしているからといって毒ガスの中で昼寝はできないだろう。

 居心地が悪そうに九郎がしていると、顔に影が落ちた。

 この光源があるのかさえわからない白の空間で影ができるものかと一瞬驚いたが、それは影ではなく黒い物体が寝ている九郎を覗きこんだのだ。

 

「む?」


 それを確認すると──黒い毛並みの獣だった。

 突き出した鼻にぴんと立った耳、ふさふさの尻尾を垂らしていて、体に幾つか独特の模様が描かれた装束のような布切れや染められた紐──縄を巻いている。

 九郎はぼんやりとそれの名前を言った。


「犬か?」

「──狐だ、阿呆が」

「痛っ」

 

 黒狐の口から渋い男の胴間声が聞こえて、九郎は仰向けに寝たままの顔を前足で踏まれる。

 肉球はふんわりしていた。

 九郎はそのままの体勢で半眼を作り、理性的な眼の色をした狐に話しかける。


「なんだ、お主。己れに何かようか?」

「九日十日ってな」

「……」

「俺様だって好き好んでお前などに話しかけるか」


 くだらない洒落を吐き捨てて、自分でも面白くは無かったのか不機嫌そうな狐が九郎の足元に向かってのそのそと移動した。尻尾がやたらふさふさしている。凄いふさふさだ。九郎は思わず掴んだ。噛まれた。

 九郎も上体を起こして座った姿勢で狐を見やる。手についた歯型を擦りながら。


(エキノコックスとか持ってないよな、こやつ)


 寄生虫は果たして疫病風装で防げただろうか、と不安になる。

 さて、喋る狐。奇妙なものだが異界にも繋がる夢の中で出てきているので、如何に不思議なものが出ようともそう驚くものではない。

 九郎は予想を口にする。


「化け狐か」

「ふん」

「痛っ」


 再び言葉に失敗したらしい。頭突きを食らった九郎は眉根を寄せて狐を見やる。

 なんだってまた、初対面の狐にここまで非難を受けなくてはならないのか。げんなりしつつも諦めたように九郎は提案した。

 

「わかった。お互いに背中合わせになって十歩進み振り返りざまに自己紹介と行こう」

「やかましい。俺様はシトゥンペカムイだ。お前の事はどうでもいい」

「シトゥンペカムイ?」


 聞き慣れない言葉の並びに九郎は鸚鵡返しに名を唱えた。

 シトゥンペカムイ。黒狐の霊を意味する彼はアイヌの高位神霊であった。北狐の神霊であるチロンヌプカムイは毛皮を与える神だが、黒狐は人間たちに病や危険が迫った時に知らせる神だと言われている。

 疫病の権化である青白い騎士の格好をした九郎を嫌っているのはそれが理由である。

 なお、当然ながらアイヌ神話など知らない彼には喋る黒い狐としか思われなかった。そして別に喋る動物は、日本ではともかく異世界では珍しく無い。


「名前が長いな……シト公と呼んでも構わぬか、構わぬな。ありがとう」

「馴れ馴れしくするな、人間もどき」

「忌々しいのはこの服と鎌で己れは人間だ。それで、この空間はお主に関係あるところかえ?」


 嫌そうに言ってくるシトゥンペカムイを無視して九郎は疑問を尋ねる。

 彼はふいと鼻先をある方向に向けて、


「俺様の盟友がお前を呼んだ。案内役に俺様も呼ばれた。それだけだ」

「盟友……?」


 首を傾げる九郎。狐の盟友と知り合いなど居ただろうか。そう考えて3億円事件の犯人めいた狐目の薬師がすぐに頭に浮かんだ。


「将翁か」

「そう呼ばれている狐の男だ。アイヌの地で薬草を探している時に俺様達カムイとあったんだが、赤く熟した麻をごっそりと持っていく妙な奴だ」

「ドラッグの流通ルートすぎる」

「あと最近は植えると周囲の土壌が枯れまくる朝鮮人参なんかを植えまくって顰蹙を買ったりしている」

「本当に盟友なのかそれ」


 非常に疑わしいのだが、シトゥンペカムイは顔をそらしつつ、


「まあ……あれで一応病を治したりしていたようだからギリギリ……」


 そして、のそのそと歩き出しつつ、


「ともかく。盟友が囚われてるらしくてな。それを助ける為にお前を連れて来るように頼まれたのだ。さっさと行くぞ」

「囚われている……ううむ、そういえば最近姿は見ていなかったが」


 九郎は進む狐を追いかけて歩き出した。ブラスレイターゼンゼを肩に担いで

 地面は相変わらず質量を感じない硬さで踏む足の裏が奇妙だが、風も起きないこの空間では飛ぶのもうまくいかない。

 安倍将翁。神出鬼没で謎の多い本草学者にして薬師の変人である。とにかく胡散臭くて謎が多く、旅に出ることも多いがその移動経路すら不明だという。

 というか、


(こんな夢の……共通無意識だったか、そんな場所で捕らえられて救助を呼ぶとか、特殊な状況すぎてさっぱりわからん)


 九郎はそう思いながら白景に浮かぶ黒狐の後を歩み進んでいく。集合無意識と違って知り合いの間だけで発生する意識の共有空間だと魔王は言っていた。

 なにも目印はなく地平線と空の境目さえ無い空間なので前に動いている実感すら薄い。

 暇だったので前を往くシトゥンペカムイに話しかけた。


「なあシト公」

「なんだ」

「ここは夢の中なんだよな? そうそう他人と夢が交じるなんてあるのか?」

「出来るやつは出来るんだろう。特にあいつは、陰陽術とか道術どか仙術とか詳しく知らんがそんな妖術を使えるんだ。へんてこなカムイモシリめいた空間を作ってもおかしくない」

「ま、確かに」


 納得して頷く。

 元より異世界から来て魔法の呪符を扱う己が居るような状況だ。あの怪しげな将翁がなにをしでかしたとしてもそうそう驚くようなことではないと九郎も考える。

 暫く進むとシトゥンペカムイはすんすんと鼻を鳴らしながら立ち止まった。

 周囲を見回している狐に九郎は話しかける。


「どうしたのだ?」

「この辺に居るな。よし」


 シトゥンペカムイはそう言って、大きく息を吸い込む。

 彼は黒狐の霊であり岬に居るとされる神霊である。岬、というものは境界線を表す土地で、その向こうにある海から訪れる客神や病を招きたり払ったりする能力があるとされていた。

 白い空間の境を破るように、低いバリトンボイスの声で大きく叫んだ。


「こゃーん!」

「その声でか……」


 声質に合わぬ可愛らしい鳴き声を上げると、どん、どん、と大きな音を立てて白い空間の一部からじわりと物体が滲みだして現れた。

 それは檻だ。

 最低限の棘のついた赤い紐──縄で地面以外の全てを覆われた、檻の中には将翁が座って居た。

 居たが、いつもの格好とは異なっている。彼は全身を白い衣に頭巾を被り、手には錫杖を持っていて狐面を外していた。

 まるで山伏である。


「おや」


 こちらに気づいたように、将翁が口を開いた。


「お久しぶり、とまあこんなところで云うのもなんでが、ね。シトゥンペカムイ殿もよく、来てくださった」

「また妙な、夢の中に囚われている上に変な格好をしておるなあ」


 九郎の言葉に彼はくくく、と笑って、


「いえね、これには深い訳があるんですよ」

「なんだ?」


 問いかけに、将翁は表情を変えずに続ける。


「実はちょいと前、石燕殿の体を治す神便鬼毒酒をようやく熊野の神に分けて貰えることになりまして。

 で、貰いに言ったら何やら土地の鬼が暴れているのでおさめろ、酒はそれからだ、とか云うもので。

 鬼退治の酒なのに鬼退治の礼に渡すとはなんともおかしな話なものだと思ったんですがね。

 それで大江山に居る鬼が、なにか仲間を人間に攫われたとかで荒れているものだから、過去に倣って修験者の格好で近づこうとしたらまあ、同じ手は桑名の焼きぼっくりといったところで──」


 そこで言葉を止めて、顎に白い指を当てて小さく上目遣いになり、言い直した。


「あれ。焼きハマグリ……でしたっけ?」

「いや、それは別にどうでもいいが」

「ともあれ、あっさり返り討ちにされて鬼に攫われて隠されてしまいましてね。これにはあたしも参った。いつまで経っても出られやしない。

 おまけにお仲魔だった狐達とも繋がりが絶たれてしまい、仕方なく蝦夷に居るシトゥンペカムイ殿と繋ぎをとって、ようやく九郎殿を呼んでもらえました」

「しかしまたなんで己れを」

「九郎殿の持つ刀ならば、この檻を切れると思って呼んだんですが……」


 改めて、何も帯びていない九郎の腰と、肩に担いだブラスレイターゼンゼへ目を往復させて彼は、


「あれ」


 と首を傾げた。

 軽く頬を掻きながら九郎は、


「呼ばれておいてなんだが……夢の途中で落としたらしくてな。今はこのゲキヤバポジ系病魔の鎌しか持っておらぬぞ」

「あなた、それ……なんでそんな危なっかしいものを」

「己れとて好きで使ってたわけじゃない。まあその、周りに人が居ないことを確認してだな」

「人の意志を持つシカトゥルケカムイなんぞ其れだけで邪悪だぞ」


 シトゥンペカムイは穢らわしそうに吐き捨てた。

 魔王城の周囲は人気のない砂漠が広がっていたために疫病が広がる心配はない──と、魔王に言われていたが、実際あの後すぐ逃げる予定だったので土地に残留する影響は怪しい──からこそ、疫病の騎士なんて真似をしたのである。

 下手なところで使えばそれこそ世界が終末へ一直線という恐るべき鎌だ。例えば江戸などではとても使えない。複数の不治伝染病が流行りまくって日本終了感染列島となるだろう。

 特に、異世界ペナルカンドは大きな病気というものが少ない。癒しの神が病気の治療を慈善で行っている為に、症状の軽いうちに治されるのだ。さすがに老化してくると自然回復力の限度が近づき、痛風やリュウマチ、癌などが慢性化するのではあるが。

 九郎はとりあえず鎌を檻に向けて云う。

 

「これでも切れるかもしれんからやってみるか。腐食の病気とか持ってるかもしれん」

「あ」

「あ」


 なにか言いたそうに口を開けている将翁とシトゥンペカムイを無視して、鎌の刃先を檻になっている縄に引っ掛けて力を入れる。

 刃先は滑らず、何かいい感じの手応えで食い込んだ気がした。


「む、いけそうだ。将翁、ちょっとその縄を伸ばす感じで持ってくれ」

「はあ。この紐を」

「縄だ。縄だからそれ」


 そうして切ろうとしていると、何やら再びどん、どん、とあたりから音が鳴り始める。

 

「なんだ?」

「ああ、鬼が気づいたようですぜ。隠されたあたしを暴いたものだから……怒っています」

 

 彼の言葉に合わせて、白の地平の向こうからこちらに近づいてくる者があった。

 いや、大気の屈折による遠近感すら怪しい夢の空間だ。どれだけの距離から来ているのか、どれだけの大きさなのかも把握しにくい。

 

「鬼、というものは日本ではおぬという字から読みを取りましてね。即ちそのまま、隠すもの、隠れているものという意味がある。

 人が山で迷い、攫われ、闇夜に消えていくものを鬼の仕業だと昔の人は言った。この国で隠すのは天狗や神ではなく、鬼だったのです」


 近寄ってくる。

 鬼は人型だ。体中から蒸気のようなものを上げて。腰巻き一つで理性の欠片もない淀んだ目とむき出しの歯をしている。

 そして、


「どれだけ英雄が鬼を退治しようと、陰陽師や修験者が鬼を使役しようとも人の世に鬼は消えない。人あるところに鬼は現れる。

 怖いもの、暗い影、信じられぬ思い。人の心にこそ鬼は生まれる。そしてここは夢の世界。九郎殿、貴方の鬼がやってくるぞ」


 その鬼は、全長三十メートルはある大棍棒[天柱]を持っている──過去に戦った百万人力の超戦士が鬼の角を付けている姿であった。


「──!!」


 大音響で狂気の叫びをあげると、百万倍の脚力でこちらに突っ込んでくる……!

 九郎は慌てて鎌を引き抜き、檻の近くから離れた。移動に伴う豪風に乗り付けて鬼へこちらからも接近する。逃げる場所など無いからだ。

 魔王城周辺は柔らかい砂漠だったので百万倍の脚力を使用するとあらぬ方向に吹き飛んだり地面が崩れて沈んだりするために飛んだり跳ねたりはしてこなかったが、この空間では別のようだ。

 やはり慣性を感じさせぬ動きで棒が振り回されて九郎を叩き落とそうとしてくるが畏れずに全て疫病風装に任せて回避。すれ違いにブラスレイターゼンゼで薙ぎ払うが、効果は見えない。

 

「効かぬ!?」


 病の感染が見られずにすぐに首だけ振り返って鬼は、大きく口を開けた。

 口元に青白い炎がちらついたのを見て九郎は慌てて鬼の攻撃によって生まれた空気の対流に乗り距離を開けて地面に降りる。

 次の瞬間には鬼が溶岩を入れたバケツをぶちまけたような、粘性のある炎を吐き散らしていた。

 質量あるものをぶつける攻撃に対してはそれに伴う風で勝手に避けられる衣だが、炎は周囲の空気を一度吸い込んで撒き散らすので回避の軌道が怪しくなる上に熱は殆ど遮られずに伝わるのだ。

 というか、


「あの男、炎を吐いたぞ!?」


 少なくとも超戦士の能力は通常の百万倍の能力というだけで、特殊な能力は持っていないはずであった。悪魔のような地獄耳はあれども超音波や熱光線や空を飛ぶことは出来ないのである。

 将翁が座ったまま特に焦りもしない口調で言ってくる。檻の後ろに既に避難しているシトゥンペカムイも見えた。


「『鬼の姿で火など吹いて来ないよな』……なんて、疑ったんじゃないですかね」

「なに!?」

「一度疑心を持ってしまえば、それはこの夢で現実として扱われる──かもしれませんぜ。故に、疑心暗鬼というので」


 九郎は耳元に空気の圧し潰れる音を聞きながら、それでもはっきりと届く将翁の声に顔を顰めた。


(確かにこの服にも病原体の鎌にも、炎というものはとても有効だが……!)


 棍棒は勝手に避けてくれる為に九郎は再び鬼へ接近する。

 鬼は片手で持った棍棒を振り回しながらもう片方の手で鬱陶しい相手を捕まえようとした。

 しかし、百万倍に強化されたそれはどのようにしても、指一本動かしただけで速度と風が生まれる。如何な手加減上手でも百万分の1の力加減をするのは難しく、また彼は理性を殆ど失っているのだ。

 煙を掴むように九郎の体は再び鬼をすり抜けつつ病魔の刃がぶち当たる。

 だが、やはり鬼が怯む様子はない。


(これは……)


 九郎が歯噛みする。

 ここに来る前に見た夢で、散々このブラスレイターゼンゼが決定打を与えられず、倒せないと思ってしまったことで。

 この鬼に通じないのではないかと思った故に、無効化されている。

 

「まずいな」


 再び鬼の炎が吐かれて九郎は足で逃げ惑う。そして、より状況が悪くなったのを確認して舌打ちをする。

 今度は鬼は、棍棒自体に炎を吐きつけて纏わせたようである。

 破棄された軌道エレベーターの主柱を材質としたそれは、魔王の解説に依ると形状記憶自己増修復カーボンだ。熱に強く、自己増殖因子を持つ故に燃え尽きない炎の棍棒が出来上がった。

 

「将翁、鬼の専門家なら何か弱点とか無いのか」

「それなら……恐らく雷に弱いかと」

「何故だ」

「ま、いろんな要素は絡みますが……だってほら、あたしは大江山の鬼を退治に来たんですぜ? 前に倒した侍の名は頼光らいこう──雷光らいこうってね」

「洒落か!」


 言いながらも九郎は腰の術符フォルダから[電撃符]を取り出して構えた。

 揺れる炎の中、こちらを見てい唸り声を上げている鬼へと発動させる。


「発雷──!」


 放電による熱で空気が急速に膨張して轟音を立てながら押しのけられる。ぱり、と小さな音を立てて鬼の棍棒に静電が生まれたと思ったら、次の瞬間には太い放電が高速で直撃した!

 

「やったか!」

「それを云うなよ……」


 シトゥンペカムイが不吉なフラグめいた言葉をかけるので突っ込みを入れると、案の定放電の先で鬼は目の光を向けたまま立っている。

 効いていないようだ。

 襲い掛かってくる鬼に九郎は[氷結符]を指で摘んで炎を消すように温度を下げつつ怒鳴り声をあげる。


「将翁、全然効いておらぬぞ!」

「ふむ……いえ、だって。さっきのそれは雷じゃないですかねえ」

「どういうことだ」

「電気の放電と雷ではそりゃあ違いますぜ。[かみなり]ってのは名前の通り神の御業なわけですからねぃ。武御雷しかり、いんどら、でうす、雷祖などと、何処も彼処も偉い神様の役目。ちょいとぱちぱち言わせても、そりゃあ鬼には……」

「それを早く言えそして解決しろ!」

「やれやれ、わかってますよ」


 と、言って将翁は檻から細く白い手を差し出した。

 指先でシトゥンペカムイの尻尾を軽く摘んでいる。


「ここは夢の場。縁と魂と記憶の繋がりから、自由気ままとは言えやせんが、支配し直すことだって可能だ。檻に隠されていてはそれもできやしませんでしたがね。

 隠は破られた。鬼はね、隠れて、隠している時だけ無敵の怪物なんです──よ!」

「痛──!?」


 将翁が勢いを付けてシトゥンペカムイの尻尾を引っ張ると──その手には華美な装飾の施された宝剣の柄が握られている。

 振り返って黒狐が驚いたように叫んだ。 

 

「カンナカムイの宝剣!? 俺様の縁から引っ張りだしたのか!?」

「さあ、九郎殿──これを」


 手首の動きで鞘に収められたままの剣を九郎に向けて一直線に放り投げる。

 それを受け取りつつも九郎は暴風のように襲い来る戦士から逃げまわっている。

 シトゥンペカムイは将翁を見ながら云う。


「あれを使えるものか! 確かに雷神の剣だが、その子であるオキクルミしか使えない宝剣だぞ! あの人間もどきとは縁がない!」


 アイヌに伝わる英雄の伝説──雷神カンナカムイの子に生まれ太陽の女神に育てられ人間の村で暮らした神人オキクルミが、暗黒の国の魔女に攫われた白鳥姫を救いに行き魔物や魔神を倒すために使った宝剣である。まるで王道RPGのシナリオみたいな伝説が蝦夷には残っている。

 だが勿論、九郎は北海道とは殆ど関係の無い男だ。蟹漁船に乗る為に少し居たことはあるだけである。

 将翁が宝剣を抜く間も無く飛び回っている九郎を見ながら云う。


「確かに。九郎殿とアイヌの英雄とは何ら関係が無いでしょうね。しかし、しゅという細い縁がある」

「呪?」

「名前はただ誰かと同じにするだけで、それに肖った効果を期待される。そのままそれが影響を及ぼすわけではないが、それを知っていて、繋がっていると思う事こそが、夢という狭間のあやふやな状況では繋がりとなる」

「オキクルミとあいつに何の関係が?」

「一笑に付すような小さな説の、僅かな名前の繋がり──ある老人が出した史書によると、蝦夷に逃げていった源義経がオキクルミだと云う。義経の別名は──九郎」

「それだけの繋がりで!?」

「使えると、あたしが信じればいい。夢とはそういうものだ」


 とある史書──それは[読史余論]という正徳二年に将軍に寄進された藤原政権からの政治史を纏めた本である。そこにはこうある。


[……世に伝ふる事のごとくならむには、忠衡が討たれしは、義経の討たれしよりさき百日に近し。忠衡すでに討たれし上は、義経の死ちかきにある事、智者を待たずして明らか也。義経手を束ねて死に就くべき人にあらず。不審の事也。今も蝦夷の地 に義経の家の跡あり。又、夷人飲食に必ずまつるそのいわゆるヲキクルミといふは即ち義経の事にて、義経のちには奥へゆきしなどいひ伝へしともいふ也]


 つまり、義経が死んでから首が渡ってくるの遅すぎだからこれ偽物で本当は蝦夷に行ってる。ヲキクルミって義経のことだろうという……まあ一説である。別にこの義経が本題な内容の書ではないのでさらりと流しているが。

 ちなみにこれを書いたのは現在千駄ヶ谷で隠居している天爵堂である。

 

 九郎はブラスレイターゼンゼを投げ捨てて、宝剣の鞘を握りつつも風に翻弄され抜き放つタイミングを測った。 

 ふと。

 風が止んだ。

 いや、振る度に吹き荒れる暴風を鬼が敢えて角度を調節し、無風の空間を作って九郎を空中に固定したのだ。

 

「しまっ──」


 鬼の口が開き、中心に向けて風を吸い込む炎の渦が吐き出される。

 瞬間、九郎の眼前は赤く染まった。それは熱ではない。炎のように赤い色のだぶついた大きな衣を、防火服のように頭から被ったシトゥンペカムイが九郎に向けて体当たりをしてきたのだ。

 自動で疫病風装がその体当たりに纏う風を掴んで、炎の効果範囲から離れるが代わりにシトゥンペカムイは火に包まれる。

 それを気にかけるよりも先に、九郎は鬼に生まれた隙へ向けて宝剣を抜き放った。

 神の力が走る。現実世界では決して使えないにしても、夢の想像が現象となる世界では、将翁が使えると思い渡されたそれは力を発揮する。


「なんだかわからんが喰らえ!」


 鬼と戦っている場所はどこまでも続く白い空間だった。

 だが、九郎が剣を振り抜いた瞬間──見果てぬほど遥か先まで一斉に幾億条穿ち乱れる雷槌の暴威が吹き荒れて……世界が割れた硝子のように砕け散った。

 鬼は跡形も無かった。空間も九郎より前が存在しない状態になっている。

 振った九郎自身が、ぽかんと刀を振った姿勢のまま固まった。

 ずるずると赤い衣を引き摺っている効果範囲外に逃げていたシトゥンペカムイが声をかけた。


「おい、使い終わったのなら返せ。カムイの宝剣だそれは」

「……いや、ちょっと威力に目眩がして」

「暗黒の国を跡形も無く消滅させた剣だぞ。当たり前だ」


 九郎は慎重に剣を鞘に戻して黒狐に渡す。

 骨っ子のように口に咥えて、ひょいと背中に放り投げると体に纏った藍色の布飾りにすっぽりと剣は収まった。

 賢い犬の芸を見たとばかりに感心してシトゥンペカムイの顎を撫でながら、


「シト公。助けてくれてありがとうよ」

「勘違いするなよ九郎とやら。俺様はお前を助けたのではなく宝剣が炎に巻かれるのを防いだのだ。そうでなければお前など──」

「そういえばお主、炎を食らっておったが大丈夫かえ?」

「ああ、それなら」


 声がした方を向くと、檻が無くなっていて将翁が立ち上がってこちらを向いていた。


「シトゥンペカムイ殿に被せたその羽衣──[火鼠の皮衣]と言って、着ていれば燃えない便利なものでして」

「そんなものが何故ここに」

「いえね、あたしが以前、不老不死の薬を持っているお姫様に近づこうとした時に貢物にしようと手に入れたものなんですが──渡すのが勿体なくなりまして。偽物を渡したら燃やされてしまいましたよ」

「はあ」

  

 今更だが随分とお伽噺だと九郎はどこか冷静になった頭で思ったが、まあ夢だしなと小さく諦めた。

 将翁もどこから取り出したか、狐面を被って九郎に頭を下げた。


「ともかく、これで鬼は倒せました。九郎殿もご協力感謝を」

「ううむ。元のあれは百万回殺さねばならなかったが、さすがにそこまで再現はされなかったか」

「人の心の闇を写すにも、限度がある。実際にあたしとシトゥンペカムイ殿があれを倒せたと思う雷を食らって、消えてしまったのでしょう」


 九郎は地面に落ちっぱなしになっていたブラスレイターゼンゼを拾いながら「そんなものか」と返した。

 少しだけ気分が良かった。異世界でまるで倒せなかった超戦士を、鬼が化けた姿だとしても消し飛ばせたからかもしれない。なにせあの時はミサイル[草薙剣]すらも一発は叩き落とされてもう一発は打ち返され、魔王城が3分の1ほど消し飛ぶという被害を受けたのである。

 

「後は夢を覚めて神便鬼毒酒を貰うだけ……これで、石燕殿の病気も良くなる」

「……あやつ、そんなに体が悪かったのか?」 

  

 よく風邪を引いては重くして、アルコール切れで苦しんでいる友人の絵師を思いながら九郎は聞いた。

 体が強いとは思っていなかったし、何らかの持病──アル中以外──もありそうだと予想していたが。

 将翁は首を振り、


「患者の個人情報はちょいと秘密にさせて貰いますぜ。石燕殿からも口止めされてるもので」

「左様か……」


 表情の見えない仮面の中から、将翁はぽつりといった。


「……死すべき運命の者が、居るべきでない者に救われる。一度狂った歯車は作られた脚本を台無しにするだろう」

「それは……石燕が確かそんなことを言っていたか?」


 玉菊が死に、タマとして店で雇うようになったときである。

 返事をせずに、将翁は後ろを振り向いて迷いなく歩き出した。


「また、江戸でお会いしましょう。所詮ここで起きたことなど、夢泡沫……」


 シトゥンペカムイも一度だけ九郎を振り向いて、のそのそと黒い尾を揺らしながら去っていく。


「次に俺様と合う時はその服と鎌は捨てておけよ」


 そして九郎は、ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと──。




 *****




 九郎は窓から照らす、朝飯の煮炊きの煙で霞んだような朝日を目に感じていつものように目覚めた。

 緑のむじな亭の二階にある座敷である。二部屋だけあるそこには九郎とタマがそれぞれ住み込んでいる。


(何か怠い夢を見ていたような……)


 江戸に来て、過去のことやら魔王のことを夢で見るのはよくあることだが、思い出せるかは微妙であった。夢の一部は魔王と魂の繋がりがあるために上映会感覚で見られているのであったが。

 目を擦りながら上体を起こして、首を回し伸びをする。

 春一番の後の寒さも過ぎ去り、すっかり暖かな空気が朝から匂っていた。今日もまた変わらぬ、江戸での一日が始まる。

 九郎は目を覚ますために大きく深呼吸をして──





「──ごほっ!?」




 

 自分の右手に持ったままの、黒い靄を鎌の形に固めたような物体が目に入って思いっきり吹いた。

 爽やかな深呼吸がストロング級の病原菌を吸い込んでしまった錯覚を覚えて死ぬほど噎せる。青白い服を着た体がげほげほと前後に揺れた。

 

「な、なんでこれがここに……」


 九郎にもよくわからないが、どうやら──




 夢の中から、世界を滅ぼす伝染病の詰まった終末の鎌、ブラスレイターゼンゼが江戸に持ち込まれたようである。


  



 


 *****







「──みつけた」


 

 朱面が、蠢く。

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