46話『はじめまして』
雨次が九郎を訪ねたのは昼を幾つか過ぎたの時間だった。
母親を小石川の養生所に住まわせている今年で十二になる少年は、最近面構えに険や卑しさが抜けて、且つ子供らしいというより妙にすっきりした顔つきになっている。
特に眼が変わっている。据わっているのでも澄んでいるのでもなく、黒々とした瞳をしているのだが彼の左目だけがどうも淡黄色がかって見えた。
どこか、不吉な感じがするが……
「──ああ、なんだったか。眼病の相談? 将翁に頼んだほうが良いが……あやつ最近見ぬからな」
「違いますよ。仕事を探してるんです」
「ほう」
まったく話を聞いていなかったので適当に合わせようとして失敗したが、ともあれ九郎は感心して頷いた。
進んで労働をしたがるとは奇特な人間も居たものである。資本家を太らせる拝金主義の家畜め、とまでは思わないが。
とはいえ、当時の江戸からすれば雨次ぐらいの年齢でも丁稚奉公になっていても不思議ではないのであるが。
雨次は少しばかり苦々しそうに、
「なんと言いますか、ぼくが働かないとまた母さんが売春しまくるので」
「うむ……」
率直な理由に九郎は頷き、
「確かに実の母親がそれだと少しな」
「それに母さん、片輪なんだからそんな仕事してたら怪我が悪化して死んでしまいそうで」
「客が付くかもわからんしのう」
僅かに顔を曇らせて肯定した。
雨次の母は一月ぐらい前に、兇賊に襲われて左手、左目を失い腹にも刺創が残り、太ももの骨も軽く罅が入っている重傷患者なのである。本来ならば死んでもおかしくない──いや、むしろ死ななかったのが奇跡のような状態で生き伸びて、今では意識だけなら元気にキグルっている。
怪我を負った悲嘆も何もなく、恐らく体が動き出せばまたいつもと変わらぬ、夜鷹をして浴びるように酒を飲みくだを巻く生活を始めるだろう。
そもそもそう真面目に行われているわけではないが、夜鷹の営業は違法で取り締まりを受ければ罰を受ける。また、そうでなくとも夜鷹同士の縄張りというものがあるらしく、それを侵せば制裁を受けるそうだが雨次は母がそれを一々守っているとも思えなかった。
「ぼくが代わりに生活費を稼げば……と思って」
「ふむ……しかしこういうことならば天爵堂のほうが詳しいのではないか?」
九郎は雨次と一番親しい大人である、彼の教師の名を上げた。
今でこそ千駄ヶ谷に隠居しているが元幕府の役人であり江戸ぐらしの長い天爵堂のほうが伝手なども持っていそうではあると思ったのだ。
なにせ、すっかり馴染んでいるが九郎はまだ異世界から江戸に放り出されて一年経過していないのである。
雨次は顔の前を払う仕草をして、
「いや、爺さんは思いっきり商才とか無くて。本を読めて生きるのに必要な少しの食べ物がありさえすればいいって人なんだ」
「そういえば基本的に枯れておるのだったな、あやつ」
「裏の倉に高そうな骨董品なんかも詰め込んでるんだけど売る気も無いらしく」
「財を継がす子も居らぬのになあ」
九郎は気分をほぐすために熱い茶を淹れ直して、雨次にも進めた。
一口飲んで舌を潤した雨次はまた九郎を見ながら聞く。
「と、言うわけで九郎さん、何か仕事は無いですか?」
「何かと言われてもな。ええと、そうだな。希望職種とか、勤務時間帯の都合とか一応聞いておこう」
「そうですね。できれば簡単な軽作業で片手に本を読みながらでも出来て、なるべく短い時間で終わって人付き合いは最低限で月に十日程度の勤務で給金が小判で出るような……」
「せっ」
「痛い!?」
子供じみたことを言う子供に九郎は思わず目潰しを仕掛けてしまった。
目を押さえる雨次に九郎は半目で、
「あるわけなかろう、そんな仕事」
「ううう」
当然ではあるが、当然を子供に教えるのは大人の役目である。
──と、そこまで言って九郎は無碍に子供の希望を台無しにするのも如何なものかという意識が浮かんだ。
「……どうしてもと言うならば、まあつまり簡単に儲ける方法はある」
「それは?」
「お主が商売を始めるのだ。誰かの下で働くというのでは条件など望むべくもないからな、いっそ自分が企業主となれば良い。雨次よ、商売とはどういうことか知っておるか?」
「……ものを遣り取りして、お金を稼ぐこと?」
「惜しいな。少ない金を高い金に変える手段そのものを商売と言うのだ。その間に中間付属する要素はなんでも良い。お主、今幾ら持っておる?」
言われて、雨次は財布と言うよりも簡素で小さな巾着袋を取り出して中身を手のひらに出す。
じゃり、と音を立てて出てきたのは銭が二十枚程度だ。蕎麦一杯食べたら終わる額である。
九郎は頷いて、
「では、これを元手に金を稼いで見るか」
僅か二十文を手に取り軽く鳴らして、軽い調子で言う九郎が雨次は頼もしく思えた。
*****
晴れが続くと風も暖かく、すっかり春めいた天気に江戸の街は賑わっている。
二人で市中を歩きながら九郎は弟分に語るように商売の概要──というか方針を告げた。
「ところで雨次よ。[藁しべ長者]という昔話は知っておるか?」
「藁しべ……ああ、[今昔物語集]に載っていた説話ですね。確か、男が『自分が貧しいのは観音様のせいだ、恵みをくれるまで餓死してもこの場を動かない』とか寺の前で座り込んだので坊主が凄まじく迷惑して死なれても困るから食事を与えてたら三週間ぐらい居座られた──みたいな内容から始まるやつ」
「いや……原話は知らんかったが、そんなにアレだったのか、長者」
自分で話を振っておいてやや引く九郎。雨次の解説にも意訳が入っているものの、なんというか迷惑な話であった。
もっとも、九郎自体長年異世界に居た影響で昔話自体も曖昧にしか思い出せないのだが。
幾つかの話は類話として向こう側にもあったので微妙に混じって変質し覚えていたりもする。九郎の中では赤ずきんはサイボーグだし、人魚姫は深き者共の眷属で水の神殿に封じられた支配者の復活のために王子の魂を狙うがそのうち真実の恋に落ちて半復活した旧支配者は核攻撃とか漁船の突撃でまた眠りにつく。
それはともかくとして、
「確か、藁しべを持って旅にでた男は──そう、前から来た男と突然藁しべと……たしか金の延べ棒を交換させられる」
「いきなりの交換がそれ!? それはもう幸運とかじゃなくて怪しすぎるだろ!」
「その後金の延べ棒とみかんを交換するんだったか」
「話の筋を無理に戻さなくていいから! 大損してるから!」
此奴も大概ツッコミ系だなあ、と九郎は少し嬉しい気分を胸に浮かべて満足そうに頷いた。
「ともあれ、大事なのは安く価値が低いものでも、それが相手にとってはとても必要に思える事があるということだ」
「はあ」
「長者の場合は偶然だか観音様の加護に頼った方法だが確実に誰かに対して高値で売れるものを予測すれば即ち儲けとなる。商売というものは未来を読む力が必要だな」
「それで、これですか」
雨次は片手に持っている、蓋を閉めた三合徳利に並々と入った酒を意識しながら言った。
通常では二十文では少々足りないものだったが、混ざりの安酒ならばなんとか手に入ったのだ。
やや疑わしげに、
「……これを石燕先生に売りつけるとか?」
「それは早計だ。そもそもあやつは安酒は飲まぬ。事情を話せば金の無心ぐらいはしてくれるだろうが非常に後ろめたいから今回は無しだ」
「何かあったんですか」
苦々しく顔を振り返答を拒否する。彼女から金を借りる場合は相応の対価を用意しなければ罪悪感によって裏世界でひっそりと幕を閉じるような精神ダメージを受けてしまうのだ。
酒を持った九郎と雨次は常盤にある火盗改の組屋敷へ向かった。
ここは火盗改で働く同心が住まう役宅の一つで、特に妻帯者が多く入居している場所であった。町人が住む長屋よりはゆとりもあり、猫の額ほどだが各家の庭には小さな畑も付いている。
木戸で囲まれたそこに九郎はすたすたと入り、あたりを見回す。
干してあった洗濯物を取り込んでいる、丁寧に髪を結った純朴そうな顔の十八、九程の娘が居た。
「済まぬが、お主。確か影兵衛の奥方ではなかったかえ?」
「あら」
彼女は九郎から声をかけられて、洗濯物を籠に入れて一旦地面に置き、まじまじと九郎を見た。
「ええと、うちの人のお友達の九郎ちゃんね。いつも話は聞いているのよー。あ、睦月って言うんだけどえへへ影ちゃんにはむっちゃんって呼ばれてて」
「いや凄い早さでのろけだされても困る。ところであやつの見舞いに来たのだが……」
九郎は言葉を遮った。
彼女には見覚えがあったのである。前に影兵衛と殺し合いをした後、重傷の彼が緑のむじな亭にやってきたのを引きずって持って帰った[切り裂き]同心の嫁だ。
うっかり手を付けて即墓場行きが決定した相手だと影兵衛は言う。まあそれでなくとも、完全に無邪気で好意を寄せてくる相手にはどうも商売女や金に困った素人女を買う時とは要領が違ってしまっているのだが。
睦月は嬉しそうに九郎の手を握り、、
「丁度良かった! 影ちゃん、目を離すとすぐに遊びに行こうとしたりして私が買い物にも行けなかったのよ。少しの間、逃げ出さないように話し相手になっててくれる?」
「ああ、その程度なら別に構わぬ。なあ雨次」
言われて雨次も首肯した。
彼女はそんなに慌てなくても良さそうなものだが、洗濯物を家に放り込んで財布を片手に、
「それじゃあお願いー!」
と、言いながら駆けて行くのであった。
唖然と見送った後で、九郎は開けっ放しの長屋の戸へと入る。
入ってすぐの場所に布団が敷かれていて、そこに男が仰向けに寝ていた。
てっきり不敵な挨拶でも来るかと予想していた九郎と雨次は、薬の匂いが染み付いた包帯をまだ顔と胸に巻いている影兵衛を上から覗き込み、
「……なんというか、痩せているのではなく、やつれているのではなく……」
「乾いてる、って感じですね」
百年ほど吸血を止めたヴァンパイアの如き、即身仏めいた雰囲気で影兵衛は寝込んでいる。
掠れてがらがらになった声が搾り出すように上がった。
「く、九郎……それに雨次のガキか……」
「どうしたのだ一体。飯でも抜かれたか?」
「いや……毎日健康的すぎる飯が勝手に出てくるせいで体がついてこれなくてよ……そして、拙者ァあの日から酒を一滴も飲ませて貰ってねェんだけど……おかしらの命令で嫁が……」
「ああ……」
よぼよぼと呆けた老人のように上げた手は小刻みに震えている。
現代と違って骨を固定するギブスも無いので基本的に動けない状況で、女遊びも博打打ちも喧嘩も春の血祭りもできずに、酒まで抜かれた彼はひたすらに退屈で心が死にかけていた。
精神の飢餓伝説が始まる勢いで。
九郎はにっこりと闇金の回収業を思わせる笑みを浮かべて、徳利を持ち上げて見せつけた。
影兵衛の目に淀んだ光が映り引きつった声が出される。
「あ、ああ……酒……」
「そうか、火盗改長官の命令とあればお主にこれをやるのはちょっとなあ……」
「鬼か手前! 人殺し! 残虐趣味!」
「全部お主だろそれ……あとこの酒は雨次が買ったものだからな。交渉は此奴にしろ」
「雨次! 手前!」
「はい!?」
影兵衛は怒鳴ると、後ろ手にごそごそと布団の裏を探り無造作に何かを掴んだ。
そして引き寄せた雨次にそれを握らせる。
小判が十両あまりもあった。
「売ってください!」
「なりふり構わなすぎる!?」
その額は同心の年収の半分以上もある代金だったが、もはや我慢ならない影兵衛には理屈は通用しないらしい。
そもそも彼はほぼ分家扱いで役人としては最下級の同心になっているとはいえ、実家が大身旗本である為に金に困ることはなく、暴力と恐怖で配下にした者共から季節の変わり目には大量に貢がれる立場な為に非常に裕福であるのだ。
目先の欲に駆られれば十両ぐらいぽんと差し出すぐらいどうということはない。
二十文の安酒が十両に変化した。
肋骨がへし折れて酷く痛むはずの上体を起こして徳利から直接酒を煽る。
久しぶりに呑んだ影兵衛は薄く味も下らぬ酒でも旨そうに、
「くはあ、これだよこれ!」
と、嬉しそうに呑むのであった。
むしろ、彼は上品な酒よりも場末の濁った酒を、獣臭いつまみで呑むのが上等だと思っている性格である。
以前、知り合いで適当に集まった飲み会の時に鼠の姿揚げを肴にしていたのには九郎もさすがに拒否した。意外なようで意外ではないが、それを作ったのは狐面の安倍将翁だったのだが。
上機嫌になった影兵衛はげらげらと笑い出して、
「よっし! むっちゃんもいねぇしこれから刀持って遊びにでも行くか!」
「刀と遊びを繋げるあたり」
「危険人物すぎる」
「馬鹿野郎! 大事な嫁を守るため、今日も拙者様様は江戸の平和のために悪党を斬って斬って斬りまくる──」
「かーげーちゃん?」
押入れに隠されたらしい刀を起きだしてごそごそと探り始めた影兵衛の肩を、がしりと掴む手があった。
睦月だ。笑顔の。
開けっ放しの外から一足で跳んで出現したらしい。
影兵衛は真顔になって冷や汗をだらだらと掻きながら小声で返事をする。
「奥さん。お早いお帰りで」
「うん。私のお財布に入れていたお金もいつの間にか抜き取られてて、慌てて八百屋さんから帰ってきたんだーけーど」
気持ちが悪いほどの汗と精神的な動揺から鼻血を垂らしている影兵衛。
彼が遊びに逐電する費用の為にこっそり拝借していたのだ。
すっかり嫁に財布を握られているようであった。
(おかしくねえか? 拙者が必死こいて血とか内臓とかださせて稼いだ金じゃん? ついこの前まで他人だった女が好き勝手していい道理が……)
「影ちゃん、こんなに汗掻いて……また拭いてあげるから布団に戻ろうか。ヘチマで」
「ヘチマは勘弁してくださァい。せめて痔なんで尻は見逃してくださァい」
あっさり降伏宣言をする影兵衛。
そんな彼へ九郎と雨次はせめて親指を立ててコクリと頷き、何か言われる前にダッシュで家から二人共逃げ出した。
*****
──半だ。
九郎には見える。いや、感じた。壺振りがからころと音を鳴らして掻き混ぜた賽子の目だ。
錯覚かもしれない。実際に妄想であろう。如何な視力を持ってしても、壺の内に転がる賽子を見通すことなどできはしない。
少なくとも音の調子から振った賽子が七分賽でないことだけは把握している。
七分賽とは細工をして重さを変え、丁目か半目しか出ないようにしたいかさま用の賽子である。腕の良い壺振りはこの賽子二つと、普通の賽子二つをまるで魔法のように入れ替えて誰にも気付かれずに目を操作するのだが、今回の壺振りにそれ程の腕はないように見えた。
ともあれ、九郎は次の目を半と感じる。
壺の周りに集まり食い入るように見ているのは三十人も居るだろうか。そこで一番若く見えるのは、九郎の隣にいる雨次だろう。
十二歳で賭場にいるというのは、やはり目を引く。
しかし一流の博打打ちとなれば十代の半ばから賭場に入り浸っている者も居るので騒ぎ立てる程の珍しさではない。
事実、雨次の場違い感よりも勝負のむせ返るような熱気に場は包まれている。
九郎は半の札を出してテラ銭と掛け金を渡し勝負に出る。
隣の雨次も、相談したわけでも九郎の真似をしたわけでもないが、半を選んだ。
行灯に照らされて鈍く金に光る左目は、一か八かというわけではなく己の選択を信じているようだった。
「さぁ、出揃いました。出揃いました! 丁か、半か!」
中盆がそう唱えて壺が開けられる。
賽子の目は、四・一。半だ。
「おお……」
と、声が上がる。
雨次と九郎の連勝が続いているのだ。
賭けている金額は然程大きくないが、連勝が八度も続けば馬鹿についていると周りが思うのも無理はない。
元手として雨次と分け合った十両は既に二人で八十両にまで増えている。
影兵衛から金をたかった後、二人で未来を読む商売として訪れたのが賭博場だった。
炭問屋をやっている美濃屋美兵衛という男がひっそりと店の奥で開いている賭場である。大きな店ではなく、やっている商売もケチがつくようなちんけなものだが、賭場に参加するものは多い。恐らくはこちらが主力の商売なのだろう。
集まっているのはどれも──当然だが──人相風体のよくない男ばかりだ。その点でも、九郎や雨次のようなこざっぱりした身なりの少年らは目立つ。
それが連勝を続けているとなると、験を担いで二人に合わせた勝負に出る者も出始めた。
(恐らくは、美濃屋としてもそろそろ面白く無いはずだが……)
九郎は注意深く壺振りの動向を探る。
以前に影兵衛と組んでいった賭場であり得ない程に連敗を重ねた九郎は通常仕掛けられる限りのいかさまを疑ったことがある。何故か九郎に一切勝たせないその壺振りからは何も掴めなかったが。
次の勝負。
やはり九郎と雨次は同じ札で勝負した。
「丁」
同調するものも多く、皆一両、二両と大きめの額を賭けた。
これで外れても馬鹿ツキの子供から運が逃げたと思うだけで、中盆は一切疑われまい。なにせ九度目だ。一回ぐらい外れてもおかしくはない。
(だからいかさまをするには狙い所なのだ)
九郎は注意深く壺振りを眺めた。
から、ころと音を立てて振られた賽子がすり替えられた様子はない。
そもそも壺を振ってから丁か半か選ぶのだが、もちろんそれでもいかさまを仕掛け特定の目にする方法など幾らでもある。
結果は、半で九郎と雨次は負けた。
ため息と共に勝手な憎々しい視線が二人に浴びせられる。首を捻り賽子の目を見る雨次。おかしい、と思っている。確率の偏りをおかしいと思うのは不思議だが、確実に彼は丁だと云う未来を掴んでいた。
(仕掛けてきたな。壺振りに不審な様子は無かった)
次の勝負だ。九郎はあえて、十両の大枚を掛けた。
「さァ~出揃いましたァ! 出揃いましたァ! 丁ォかァ、半かァ!」
開ける直前。九郎は立ち上がった。
「その壺、待て」
どよめきが上がる。
物言いである。つまりは、相手側がいかさまをしていると正面から告げたのだ。
当然賭場側の用心棒がどす黒く顔を怒らせて、腰の物に手を当てながら凄んできた。
「お客さん、何かご不審でも」
「ある。客が勝ち続けたからといって負かすべくいかさまをしているな?」
九郎は目に嘲る笑いの色を灯しながら、壺振り、中盆、用心棒のそれぞれを瞳で射すくめた。
小僧に睨まれたからといって怯む商売ではない。
用心棒が顔を近づけてきて、眉間に皺を寄せ獰猛そうに歯を剥き出しにし、
「素人が、ここを寺子屋か何かと勘違いしてねえか? その青っちろい尻を床に戻せ、クソガキ」
「壺振りの腕が悪いのがいけなかったな。自然と他で操作している予想が付く──おい」
がん、と音を立てたのは、九郎が床を強く踏んだ響きだ。
用心棒のやくざなど無視して、彼の肩越しに壺振りと中盆を睥睨し九郎は言う。
「随分と──薄い床だな?」
僅かに、壺振りの視線が床に落ちた。
確定だ。
「己れは穴熊狙撃と呼ばれた。何もしていないというのならば、床を踏み抜いて確かめてみようか」
用心棒の男もうっと呻いて額の汗を隠し切れない。
[穴熊]といういかさまの構造は単純だ。床下に人を潜ませ、僅かに上が見えるように木目などに合わせて仕掛けをしていて、真上に来た賽子の目を読み取り針などで下から動かす方法である。
九郎が気づいたのは、二度まったく同じ場所へ賽子壺を置いたことと、中盆が読み上げる文句が普通よりも僅かに間延びし始めたことからだ。賽子の目をいじる時間を作ったのだ。
予め疑っていたらそれらで何をやろうとしているか気づく。
そして、九郎が床下を踏み抜いたら、そこに人がいれば明らかであるし、人が入れる空間があってもすぐに穴の仕掛けは露見するだろう。
なお[穴熊狙撃]は単に異世界での将棋でついたアダ名である。
ざわつく九郎他の客の様子を見て、人のよい笑みを浮かべた白髪交じりの男が奥からやってきた。
九郎を見ながら困ったように言う。
「お客さんは何か勘違いをなさっているようだ。よろしい、言い分は聞きましょう。おい、お前。部屋に丁寧にご案内しろ。
他のお客様方、今日はもう盆を終いにしますのでまた明日、遊んでくだされ。もちろんのことですがこの賭場はお客様を気持ちよく楽しませることを第一にしておりますから、何もおかしな点はありません。安全安心です」
欺瞞。
それを感じつつも、賭場の人間に見送られて次々と客は店を後にした。
雨次も一番最後に出ていき、誰にも見られていないことを確認して店近くの路地に潜み九郎が出てくるのを待った。
寒い夜だった。養生所の母は大丈夫だろうか。心配というのは、彼女が大鼾を掻いて周りの人間が大丈夫なのかということなのだが。
胴巻きには四十両あまり。少年が持つにはあまりに大金である。重さを確認して、現実味のなさに頭がくらくらした。
夜闇に僅かな明かりが遠くか近くかわからぬが、点々と見える。ここがどのあたりなのか雨次は想像できなかったので、九郎が出てこねば帰れもしない。そもそも基本的に街に出るのは天爵堂のお遣いぐらいしかないので、地理に明るいわけではないのだ。
四半刻も待たなかったと雨次は体感的に思った。
九郎が懐に手を入れて、厠でも済ませてきたかのような平気の顔で店から現れたので雨次は安心して寄っていった。
「おう」
軽く手を挙げる動きで九郎が放り投げてきたのは二つのものだった。
切り餅──と呼ばれるそれは、二十五両の小判を紙で一纏めにしたものである。
黄金の菓子とかに仕込むあれだ。
「口止め料をふんだくってきた。お主にやる」
「いいんですか?」
「元金はお主のものだからな」
特に未練も無さそうにそう云う。
九郎は少しばかり遊ぶ金に困る時こそあれ、あまり金に執着が無い。
それはきっと、
(今日みたいに、必要があればその時に稼げるからなんだろうな)
と、雨次は考えた。
二人は再び並んで夜道を行く。さすがに、合わせて百三十両も稼げば上々も良いところだろう。
暗い道を提灯の淡い光が照らしている。
「小石川の養生所に行くのかえ?」
「いや、母さんが──『家を留守にしまくって泥棒に入られたらどうするんだ! ええと、教えてください』とかなんとか騒いだから、千駄ヶ谷に帰ります。盗むものなんてうちに無いんだけどなあ」
「ふぅむ。ま、送っていく。野犬にでも襲われたら事だからのう」
言いながら、自身番などが辻に立つ街から僅かに外れた林を切り開いた砂利道に入ると、九郎は立ち止まった。
腰に差していた刀を鞘ごと抜いて肩に軽く担ぐ。
雨次がきょとんとすると、九郎は短く言った。
「犬だ」
言葉に釣られたように、後ろから三人。予め別の道から前に詰めていた浪人が二人、九郎と雨次を囲んだ。
どれも殺気を放ち九郎と雨次へ抜き放った刀や短刀を向けている。
のんびりと九郎は、
「さて、小奴らは美濃屋が払った金が惜しくなって差し向けたか、大儲けした己れら二人に最初から目を付けていた連中か」
九郎は貪婪に笑いながら腰を僅かに落とした。
「どちらかと言うと前者が良いな。追加で謝罪金を請求できる」
掛ける。夜影に染みこむように体を低くして前方に居る浪人風へ鞘に収めたままの刀で殴りかかった。
額を正面から打たれて瞬時に意識を昏ませる。驚いたもう一人へ、近づいた勢いをそのまま当て身を鳩尾に入れた。
「ぐむん……」
男は小さな声を上げて呼吸困難になり悶絶する。
そして余裕たっぷりに後ろから詰めてきた三人に向き直って、九郎は今度はそちらへ襲いかかった。
猟犬のような速度で跳びかかり敵を仕留める九郎を一歩も動かずに見ながら雨次は、
「多分、この人も真似しちゃいけない系統の大人なんだろうなあ」
と、しみじみ呟くのであった。
キグルな母親。書痴の天爵堂。殺人鬼な影兵衛。特技はヒモとたかりな九郎。あと地主。
「うん、まともな大人いないな、ぼくの周り」
絶望的なことを爽やかに確認した。涙はない。ただ明日に微笑みあればいいなと夜空に輝く一等星に願って。
*****
雨次の家は、壊れかけのボロ屋から呪われた壊れかけのボロ屋にクラスチェンジしている。
一応多少の血を拭く掃除はしたものの、入り口の戸は破壊されたままだし土間の土には血とか汁とか染み込んでいて未だに臭う気がする。天井についた血糊など落とし用がない。
この村で疫病が流行るならまずここだろうと思えるような家だった。
ともあれ、雨次は九郎と共に家に帰り着いた。家の前ですぐさよならというわけには──九郎が思いっきり家の惨状を見て顔を顰めた為に──ならずに、家に上がることにした。
「本当に、何も盗られるようなもの無いんですけどね。虫の湧いた米と味噌ぐらいしか」
「なんというか、せめて儲けた金でお主も良いもの食えよ?」
言いながら家に入ると。竈のあたりに気配があった。
猫でも入っているのか、と雨次は最初に思った。鼠にしては大きいものだ。
九郎が提灯を向けるとそこには──異形が居た。
「──!?」
「む」
夜の闇による錯覚ではない、青い肌。
赤くぼさぼさの髪の毛から二本のねじれ曲がった角が生えている。
口元に光る白い牙。身にまとうのは薄汚い黄色のボロ布だ。
酷く怯えて震えた様子でなければ──それは、青鬼のようだった。竈に蹲って、生米を齧っていた。
現実感がない、己の家に現れたその化け物に雨次はばくばくと心臓を鳴らし、妙に疼く左目でじつと見る。
「鬼娘だな」
冷静に九郎が呟いた。
「見世物小屋での出し物の一つだ。肌を青の顔料で塗りたくり、髪を染めておるのだろう。角は……髪の毛を膠か漆で固めておるのか」
「逃げてここに来たのか……?」
日本では明治から大正頃にはすっかり見なくなったが、見世物小屋として奇っ怪な様体をした人間は定番であった。
この娘のような鬼娘、体中に毛の生えた熊娘、鱗の刺青を入れた蛇娘など、それこそややグロテクスなものまで見世物にしていたという。
雨次はそのような見世物など、生まれて見たことも無いので驚きの視線を送っているが、九郎は特に反応もせずにぼうっと見ている。
なにせ、異世界にはリアルな鬼娘は普通に存在していたのだ。蛇娘どころか竜娘も居た。ドラム缶に手足の生えた通称缶娘も居た。それに比べればまあ、見た目に対しての感想は無い。
雨次は息を飲み込みながら、僅かに震え声で、
「おいお前。ここはぼくの家だぞ。その米はぼくと母さんの米だ」
「……」
「なんとか言ったらどうなんだ」
恐怖を一度抑えれば、冷静に鬼娘を見て雨次は落ち着きを取り戻せた。
青い肌と角さえ「そういうもの」と棚に上げてしまえば、ただの痩せて怯えた少女である。
雨次が問いかけても何も応えない鬼娘は、くい、と顎を開けて喉を押さえる仕草を見せた後で、口を開いた。
「お゛え゛んあ゛ざい゛」
「うわ!?」
「……喉を潰されているようだな。濁声のほうが鬼らしいという理由でかもしれんが」
言葉の発音も殆どままならない鬼娘は、驚いた雨次へ頭を下げて、首を横に振った。
雨次は言葉にならない嫌気を感じて、九郎に尋ねる。
「九郎さん、見世物小屋のこういう子って……」
「親に売られたか、孤児を連れてくるのが普通だ」
「……」
きっぱりとした九郎の言葉に雨次は口の端を結ぶ。
実際に見世物小屋の内情などは九郎も知らないが、想像は付くし異世界でも似た商売はあった。現代日本でいうところの人権問題はごく限られた時代にしか通用しない常識なのだ。
この時、雨次は鬼娘に哀れだと感じた。
これまではいつも、自分の境遇が惨めだと思っていたし、それを同情されると腹が立つという底辺に居ることを認識していたので、他人にそういう感情を覚えたのは初めてだった。
親が居るのかわからないが、恐らく助けられることはなく、肌も髪も好き勝手に弄り回されて他人の好奇と嫌悪の視線を集めることだけが仕事で、不満を口にする喉すら無い生活をしている相手だ。
これでは本当に人間ではないかのようである。
「九郎、さん。どうしたらいいんだ、これは」
雨次は理解不能な存在に対して、助けを求めるように九郎へ聞いた。
彼はやはり普段の調子で、
「どうしたら? いや、己れ知らん。関係ないし。お主の家の客だろう」
「ううう、ばっさりだ」
「己れに助けなさいとか見捨てなさいとか言わせてどうするのだ。自分で選択して決めなさい。今日は八回連続で正しく選べただろう」
突き放されて。
或いは彼の意志を尊重させる言葉だったのかもしれないが、雨次は困ったように頭を掻いた。
九郎は雨次という少年に対しては、頼られれば導くこともするが本人にとって大事な選択は任せられると認めているのだろう。
彼は鬼娘の怯えた顔を見ながら、こう思う。
(そもそも助けて欲しいと言われたわけでもないし、こいつの事情だって正しくは知らない)
だがなんとなく。
生米を齧る細くて骨の浮いた体をした少女に、
「なあ、お前。それじゃ不味いだろ。炊いてやるから、一緒に食べるか?」
と、手を伸ばして声をかけた。
ぽかん、と鬼娘はその手を眺めて、恐る恐る自分も手を上げて、握り──
「そこまでにしてもらおうか」
声が掛かった。
九郎が提灯を向ける。
入り口に馬用の鞭を持った傾奇者のような妙に鮮やかな着物の男が立っている。
九郎はきっぱりと言い放った。
「出る場面を待ち構えていただろ、お主。外で」
「うん、まあ……」
曖昧に肯定する鞭男。
ともあれ彼は鞭で鬼娘を指し示し、
「そいつは伊吹の大千山の麓、百姓郁右衛門の娘に生まれ変わりしは茨木童子の転生体。生まれた時から角、牙を持ち産婆に噛み付いたという! 我が見世物小屋の七枚目となる、ああ、大事な鬼娘なり」
芝居がかった口調で高々と唱えた。
実際小屋に掛かっている看板か何かを引用しているのだろう。すらすらと男の口から設定が出てきた。
「なんの妖術を使ったものか、小屋から逃げ出しようやっとのことで探し見つけたところだ。さあ、返して貰おうか」
「……」
雨次はじっと鬼娘の顔を見た。
無表情気味だった鬼娘は、雨次の吸い込まれそうな目を見ているうちに、何故かぼろぼろと涙を零して首を横に振る。
意思表示だ。
「おい、あんた。この鬼娘は幾らで売ってくれるんだ?」
「なんと。それは妖力の高い悪鬼羅刹。はっ。お前のような子供に扱いきれるものではない」
「幾らかと聞いている」
「ならば百両! 今すぐ即金で貰えば、その鬼娘はくれてやろう」
馬鹿にしたように、見世物小屋の男は扇子を広げて侮った顔で雨次を見た。
当然ながら雨次のような、田舎の廃屋に住んでいる子供に百両など払えるはずがない。そう思ってキリの良い数字を出したのだが……
「ほら、数えてくれ」
雨次はそう言って、丁半で稼いだ小判の束をぽんと男の前に置いた。
この日、この夜の雨次に限っては、百両のあぶく銭を持っている子供なのだ。
現実味がないほど稼いだとはいえ、元の金はたったニ十文ぽっちである。
男は「は? え?」と呟いた後、その小判が狸の化かした葉っぱじゃないかと慌てて数えだす。
九郎は暗闇の中、雨次の家から天爵堂の塾で使う半紙と墨を見つけ出して、
「証文も書いておくから、名前を書け」
さらさらと簡単に鬼娘の引き渡しに関する約束を書いて、男に渡した。
己が口走ったことから急に手放すことになったのだが、彼は鬼娘の価値と目の前の百両を天秤にかける。
鬼娘の見物料は僅か八文。そしていざとなればまた別の娘を仕立てあげる事もできなくはない。
それに鬼娘よりももっと売れそうな見世物の人物を最近招き入れることが出来た事情もある。
だから、
「ではせめて約束してもらおう。我が見世物小屋から買ったその鬼を、二度と見世物にしないと」
商売敵にならないように釘を刺しておく確認であった。
「わかってるよ」
と、男のどこまでも偉そうな口調に苛立たしげな気分を覚えながら雨次は肯定した。
百両数えたのだろう。九郎が用意した証文に男はすんなりと名を書いた。
去っていく男に向けて手際よく九郎が塩を撒いているのを横目で見ながら、雨次は無言で見つめている鬼娘に云う。
「……」
「ぼくの母さんさ、片輪なんだ。手伝いが必要なんだよ。わかるか?」
こくり、と頷く鬼娘。
「なんというか……給料とかあんまりやれないけど、飯ぐらいは食えるようにするから」
「……」
「その……なんだ。ええと、これからここに住んでくれないか。行くところが無いなら、でいいんだけど」
「……!」
本当は──彼女が可哀想でそうしたというよりも、雨次のもっと暗い感情があった。
(ぼくより哀れなやつなら、ぼくを見下さないでいてくれるだろうか)
そんなことを思っていたのだ。自分と彼女と底辺な共感を覚える後ろ向きな理由で。
言われた鬼娘は無言で、ぎゅっと雨次に抱きついた。
慌てて雨次が手をばたつかせる。
「わ、ちょっと離れろってお前!」
「……」
言われると、すぐに離れる鬼娘。
しかしその目は残念そうな色だった。
雨次は胡乱げに見ながら、
「でもこれから暮らすのに名前が無いと不便だな……こいつに聞こうにも」
「……」
喉を指さして、首を横に振る。
二人の何やら初々しいような遣り取りを見ていた九郎が指を立てて提案する。
「あの男が確か茨木童子の生まれ変わりとか言っておったのう。そこから取って[茨]でどうだ? 雨次の[次]という漢字も含まれてるのでなあ。イバラギと繋げると半端な田舎のようだし」
「まあなんでもいいですけど……お前、茨でいいか?」
「……」
鬼娘──茨は再び頷き、青い肌に赤みが差すほどの笑顔になって再び雨次に抱きつくのであった。
それを見て九郎はなんとも言えず、雨次の頭を撫でてやった。
*****
翌日……。
茨の肌と髪を丹念に雨次が洗ってやったものの、だいぶ色は落ちたが地が白い肌に僅かに沈着した青色は落ちなくて少し青肌は残り、また角に固めた髪も解かそうとしたものの癖が完全についていた為に角のように逆立つのはそのままだった。
家事なども一々雨次が教えてやったが、驚くほど早く彼女はそれを覚えた。言葉は話せないが不便はあまり無かった。
傍から見たら仲の良い兄妹のようで、微笑ましい関係だ。
そんな二人のことを見つけてにこやかに報告する巨漢の地主が居た。
彼の家で裁縫の訓練をしている小唄とお遊の元へ飛び跳ねるように軽やかに現れ、
「はぁい負け組幼馴染諸君、今日も無駄な女子力上げてるかぁい? 君たちに大な情報をお教えしようじゃないかぁ!
あの噂の雨次小僧、ついにある日突然現れた美少女が家に住み着いたってよ! 青肌無口従順系の女の子とか一日にどれくらい助平な妄想してたら来てくれるんだ!?
誰かさん達が幼馴染の立場に甘えて地味な努力してるうちに楽しそうにきゃっきゃってしたりうふふってしたり──」
最後まで言えなかった。
複数の苦無と包丁で壁に磔にされた地主を置いて、小唄とお遊は猛ダッシュで雨次の家へと駆け出すのであった。
「雨次ー!! 私は許さんぞー! そこに直れ説教だー!!」
「えへへ。おかしいよね。絶対に変だよ。どういうことなのかな雨次。」
数分後訪れる理不尽な怒りにも今は予兆すら気づかずに、家の掃除を終えた雨次と茨は天爵堂の家から持ってきた茶を飲みながら、縁側に座ってのんびりしているのであった。
すると、茨が喉をぐにぐにと揉みながら口を開けて、雨次に向かって濁声をなるべく静かに放った。
「あ゛えじ」
「うん?」
彼女は、とても鬼には見えない微笑みで言葉を紡ぐ。
「あ゛いがどお」
雨次は酷くばつが悪いような、むず痒いような気分になった。
それもきっと、初めて得た感情だ。
*****
余談だが。
後日、九郎は石燕とお房、お八を連れて件の見世物小屋に行ってみた。
鬼娘を取り下げて世にも珍しい奇芸を見せる男が居るのだという。
「さあさあ、この度ご視聴いただくのは耳成の池の水をば産湯に使ったところ、口の代わりに耳からおぎゃあと初めての産声を上げた怪奇なる男! それ以来なんと耳で喋ることが出来るという!
目は口ほどに物を云うといわれているが、果たして耳はどれほどに物を云うのか!」
鬼娘を売った男はやはり芝居がかった口調で集まった聴衆に声を張り上げている。
お八が身を乗り出して、興味深そうに云う。
「へえ、耳から喋るんだって。すげえな」
「何故その芸をちょいすしたのか謎だがな」
九郎はお房を肩車しながらも顎に手を当ててじっと眺めた。
やがて小屋の奥から、なんの変哲もない──敢えて言うならローリング・ストーンズのような舌の模様が描かれた着物の青年が出てきて、懐から煙管を取り出し口に加えて煙をくゆらせ始めた。
解説の男が云う。
「さあ、彼こそが耳で喋る怪人、その名を初音耳作!」
「ミミサクダヨー」
「ええええ」
耳から妙に甲高い声を出した男に、九郎と石燕は思わず同時にツッコミを入れた。
その後も耳から歌をボーカロイドする男に、集まった客は喝采を浴びせるのであった。
彼が口にしている煙管から上がる煙はゆらりともしていない。つまり、口から呼気は放って居ないようのだが。
鬼娘に代わる新たな見世物芸人、耳から歌う初音耳作。
……彼は江戸中期に実在した人物である。
「セーガー」
初めての音に会えたであろうか……。




