45話『動くな、死ね、甦れ』
その日、佐野六科は朝餉を済ませてから、蕎麦の生地を練り、出汁に規定された量の昆布と鰹節で味を付けた。味見は特にしていない。自分の味覚を信じるなと言われているからだ。とりあえず、決まった量を決まった時間煮ることだけを考えろと矯正された。
出汁に混ぜる蕎麦のかえしは、週に一度ほどに大量に作り壺に入れて保管している。日毎に作るのではなく、寝かしたほうが良いと言われて気づいたのである。
それだけ準備して、彼は以前に神田柳原の古着市で買った長着を身につけ、
「では、出てくる。夜までには戻る」
と、タマと九郎、お房に言い置いて店を出た。
何やら今日は昼間から寄り合いがあるのだという。それで六科は店を空けなければならないので、最初は休業日にしようかと思ったのだが、
「お父さんが居ても居なくても別に作る手間は変わらないの」
「それもそうか」
娘からとても納得のいく理由を告げられたので、あっさりと六科は頷いた。
もとより手の凝った物は作っておらず、蕎麦生地さえあれば後は茹でてつゆを混ぜ出すだけである。
今日の一品料理もしらす干しに大根おろしを加えて生醤油で混ぜあわせたものなので特に調理の手間はない。
ある程度の知的生命体ならば六科の店主としての代わりは事足りるのである。
(これこそ、しすてまちっくな経営というものだ……)
九郎は満足気に頷く。まあ、機械的に材料の分量などを決めて繰り返させている事で六科の料理の腕は[普通]から上達しないのだが。
味の追求は休業日に行うようにしている。客に出すものではないからだ。その際はお雪がとても役に立つ。視覚が無く、他の感覚に優れている彼女は味覚も良いのである。
本人曰く、
「感覚を一つずつ閉じていったら、残したものはもっと良く感じますよーう」
とのことだ。以前に五感全てを消して集中していたら心の動きが読めた事があるという。それすら塞いだら意識その物が浮かび上がり、更に深層には阿頼耶識との繋がりすら感じるのだという。
それを聞いた時九郎は胡散臭いというよりもなんか危なそうだから止めておけと言っておいた。抱きしめた心の小宇宙を感じて危険を悟ったのかもしれない。熱く燃やすし、奇跡だって起こるのだ。
ともあれ、今日この日──六科が居ないだけで緑のむじな亭は通常営業日なのである。
張り切るタマとお房を監督するのが九郎の役目だ。客入り次第では手伝うが、二人の労働能力を確かめる意味合いも込めて手出しはあまりしない。タマは小器用に包丁も扱えるし、お房だって注文も配膳も慣れたものであるから然程心配はしていない。
決して働くのが嫌だから監督しているわけではないのである。
「若いうちに流さなかった汗は年をとってからの涙になる。若いからこそよく働くべきなのだと、産業革命時代英国の資本家が言っておった」
「それ多分絶対児童労働を正当化するための理屈なの」
半眼でお房に指摘されつつ、九郎は聞こえなかった振りをして昼酒をちびちびと飲んでいた。
*****
人の不幸は蜜の味という言葉がある。
他人の不幸で飯がうまいとも言われている。
だがまあ、そんなこととは関係なく、また一人露骨に顔を青くして客が食いかけの蕎麦から箸を下ろして銭をそっと置いて店から無言で出て行った。
ここは緑のむじな亭。流行っているわけではないが食うに困るほど売れないわけでもない、固定客がそれなりに居る蕎麦屋であった。
その店内の事である。
有り体に云うと、痴話喧嘩が起こっていた。
「ええい、縋るな懐くな気色悪い。貴様のような畜生に付き纏われるなど吐き気がするわ」
「ひどい……私はこんなに、あなたを……」
「煩い、黙れ。呼吸もするな。頼むから逝ね。小判をやるから首を吊れ! 自害しろ!」
「私めは貴方様と一緒に生きていとう御座います……ひどいことを言わないで……」
「うぬ!」
とうとう縋る相手に耐え切れずに叫び声を上げて、旗本の息子風の身なりが良い侍は熱い蕎麦つゆを相手の顔面にぶっかけて店から飛び出ていった。
顔をびしょびしょに濡らしながら蕎麦の麺を張り付かせている残された方を見て、最後の客が嫌そうに酒のお代わりを拒んで支払い逃げるように退店する。
九郎はうんざりとため息をついた。
事の始まりは、最初に若侍風の男が一人で店に現れて座敷に上がり蕎麦を食っていたのだが、あとから来た顔見知りらしきもう一人が擦り寄るように若侍の隣に座り、それを見てぎょっとした侍が罵りまくったのである。
なにやら、ただならぬ関係のようだ。
まあそれが普通の痴話喧嘩風ならば、この店に連なる長屋から来た連中などは面白がって酒を飲みながら愉悦るのであるが。
若侍にしつこく言い寄っていたもう一人が、控えめな表現で言えば筋肉盛々の変態男なのだ。妙に女柄な単衣をがっちりとした体に纏い、張り裂けんばかりに見える胸筋や二の腕には無数の生々しい刀傷が見える。
あろうことか、顔には白粉を塗りたくり、紅を唇に差して、眉墨も書いているところが気色悪くてならない。
九郎から見れば、
(筋肉はゴリラ、牙はゴリラ。燃える瞳は原始のゴリラ……言った風か)
と、感想を覚えるほどである。総称としてはまあ、毛深くないゴリラである。
衆道というか、男色関係の痴話喧嘩だったようだ。
飯屋で女装ゴリラがなよなよした口調で男に言い寄っていて、蕎麦を頭からぶっかけられてめそめそ泣いていたら客はどう思うだろうか。
と言うかまだ泣いている。
消え入りそうな声で悲しんでいればいいのに気色悪い嗚咽が店中に響いている。
さすがにタマもお房も嫌そうな顔をして九郎に助けを求めた。
三人で板場(厨房である)に引っ込んで声を潜めて相談をする。
「九郎。ちょっとあんたあれをどうにかしなさいよ」
「駄目だ。経験上ああいうのには触れてはならん。変に声をかけてこっちに付き纏われたらどうなる……」
九郎は何か思い出す事があったのか、顔を少しばかり青ざめさせて軽く頭を振った。
人生経験が豊富ならば対処できるという問題ではない。むしろ、経験豊富だから対処してはいけないと判断できるのだ。ああいうのを対処するには、まず人が入らなくて地面に穴を掘りやすい山か、程よく濁って深い池が近くに無ければいけないのだ。
タマもげんなりとしながら、
「ああいう人はお客でも面倒なんですよねー……鎖骨とかへし折っても罪悪感が沸かない系の用心棒がいれば別なんですけど」
「こんな時に限って六科は居らぬしな。あやつなら空気も読まずに蹴たぐり放り出すのだが」
無論、九郎の腕力からすればあの営業妨害変態男を殴り倒して外にぶん投げることが出来なくはない。
しかしそれは彼としてもやりたい手段ではなかった。
あまり触れたくないのである。
彼は割りと寛容──と言うか何事にも慣れと諦めが効く性格であるのだが、同性愛には今ひとつ厳しいことは、玉菊の男色を止めさせたことからも伺える。
「まあ、江戸では珍しいって程じゃないんですよー。少年風な陰間じゃなくてああいう骨太な人専門で出してる店もありますタマ」
「ううむ、気分が悪い」
「九郎も苦手なものあったのね?」
顔を顰めている居候の彼に、お房は首を傾げながら聞いた。
九郎は苦々し気に、
「昔なあ、己れがちゃんとしたところで勤めていた時だが。三十も過ぎて嫁も貰わずに居たら実は男色なのではないかと根も葉もない噂が立てられてな。
そう云う店に連れて行かれた事が……うさ耳のばにぃがーるがなんで胸がなくて股間が膨らんでおるのだ……精神的に殺す罠だと思ったぞ……」
嫌な思い出を想起したせいで胃のあたりが酷く傷んだ。
異世界で騎士団に居た頃の話である。
そのうち日本に戻るのには、嫁や子など居たら戻れなくなるだろうと思って作らなかったのだが。もう日本には戻れないと悟った頃にはすっかり初老になったので結局嫁は出来なかった。
同性愛疑惑の時は昔馴染みのスフィに弁護して貰ったのでなんとか晴れた──代わりにロリコン疑惑が立ったがそれは九郎の耳に届かなかった──のだったが。
ともあれ、
「おっ……うぐっ……うぇひっく……およよよ……」
趣味は筋トレです、好きな場所はサウナとでも言いそうな大柄の男が店内で蹲ってひたすらそんなうめき声を上げている状況をどうにかし無ければならない。
鬱陶しいとか実害があるを通り越して、呪われそうだ。いつまでも女々しく泣いているのは誰かが声をかけるのを待っているのかもしれない。
一瞬店に入りかけた客が即座に後ろ歩きで外に出ていった。
このままでは今後店の評判も悪くなる。
しかし話しかけたくない。九郎的には自分が関わるのも嫌な相手を、子供たちに触れさせたくは無いのである。
「どうしたものか……むっ」
開け放たれた店の入口の先、通りを黒袴の同心が歩いているのが見えた。
そう、現代でも困った客は警察に頼るではないか。はるか昔にバイトをしていた飲み屋でも──いや、あれは警察に一斉検挙されて潰れたから違うか、と九郎は懐かしく思った。
「タマよ、外に利悟が歩いていたから連れて来い。あやつに任せよう」
「あいさぁ」
返事をしてタマは裏口から出て通りへ抜けた。
すぐに相手は見つかる。黒袴を着て腰に一本挿しの刀。如何にも同心らしい格好をした青年である。
町奉行所の本所見廻同心、[青田刈り]の菅山利悟だ。
「利悟お兄ちゃーん」
遠くから呼びかけたのだが、全力疾走でこちらに向かってくるのを見て軽く引いた。
白い歯を光らせながら爽やかに、
「やあタマ。今日もいい少年っぷりだね」
「もう、お兄ちゃん。店の前を素通りは酷いんじゃないですかあー?」
「ははは御免御免。ほらこの前お房ちゃんに笑顔料金を追加で上げまくってどんどん要求を吊り上げてたら、石燕先生の鬼人手に食われそうになったせいで心理的に行きづらくて」
「笑顔で恥ずかしそうに両手の指を二本立てる要求はやり過ぎタマ。まあ、いいぞもっとやれって気分だったけど」
九歳女児の赤面ダブルピースを要求する絵面はかなり犯罪である。金のためにそこまでやるお房もお房だが。
ともあれ、タマは利悟に要件を告げる。ねだるような上目遣いをしながら、
「お兄ちゃん、実はうちの店に厄介なお客さんが来てて帰らないんですよ」
「なに、それは許しがたい。なあに、拙者が軽くお話して追い出してやるから安心してくれ」
頼られて悪い気は全くしない為に、腕を組んで旨を張りながら彼は大仰に頷いた。
子供の頼みを聞くのは当然の事である。利悟は意気込んで店へ向かう。
(客とやらが影兵衛さんでも平気さ……!)
それぐらい子供からの依頼というのはやる気が湧いてくるのである。
それに、影兵衛はまだ怪我していて自宅療養中だというのは職場が違っても同心連中では有名な話なので違うと考えられる。一同はこれで毎年恒例[切り裂き 春の血祭り]という残虐系な祭典が行われなくて済むと安心していた。同心は最高の職場だ。なにせ彼に切られない。
ともあれ[厄介な客]とやらについて考察を瞬時に巡らせる。
(まずお房ちゃんとタマが相手できず、かつ腕力の九郎と冷徹な六科の親父さんが対処に困る相手……はっ)
彼は、はたと気づいた。
(泣きじゃくる女児か! これだ! もはや周りの声が聞こえぬほど泣いていて手がつけられない子供ならば条件に一致する! そしてそんな子供を救えるのは拙者しかいねえ!!)
突然興奮しだした利悟を気味悪く後ろからタマが見ている。
溢れんばかりの希望とか欲望とか、まあそんなもので飛び込む勢いで具体的なプランすら無く店の暖簾をくぐった。
「拙者が! 君を! 助けに来た!」
風を切るような身のこなしで、よく通る声を上げて店に突入した彼は──
「えっぐ……ひ、ひひおろろろ……うぐうう」
嗚咽を垂らしている巨漢の化粧した化生の如きおっさんを視界にかすらせた瞬間、物理法則を凌駕し逆再生のように店の外に戻った。
泣き男が顔を上げた瞬間には視界から消え去っている。
店の外で五体投地して記憶から先ほど見た男を抹消している利悟を、木戸にかかった吐瀉物を見るような目でタマが見下ろして爪先で突いた。
「おい、お兄ちゃん。早くしてくれませんかね」
「御免ちょっと心臓が止まりかけただけだから待ってくれない?」
期待──現実味のない妄想に身を任せただけだが──していた分余計に衝撃を受けている利悟は弱々しく応えた。
泣く少女を期待したら女装した須佐之男が出てくるなんて聞いていないじゃないですか。そんなの無いじゃないですか。彼は今ならヤマタノオロチの気分もわかる。貴様のような女が居るか。毒入りの水を飲ませてくるかテキーラを薦めてくる系だ。神話的にあってるが。
メソメソとした鬱陶しい男が増えた。しかも今度は店の前で直接妨害している。タマは舌打ちをして唾でも吐きかけてやろうかと思った。
ぐい、と利悟の襟首を掴んで起こす手が伸びた。
裏口から回ってきた九郎だ。後ろにはお房も付いている。
「これ、利悟よ。はようあれをしょっ引くなり懐柔するなりして店から追い出さぬか」
「ううう、大岡様曰く[民事は当事者間で解決しろ]って……」
「なんというか時折聞く大岡越前はいめぇじと微妙に違うなあ……」
九郎は小さくぼやいた。彼が知るのは時代劇となった正義の判事、町奉行大岡越前というヒーロー的なものな為に現実とは違うのも当然である。
そもそも町奉行の役は多忙を極める。
例えばよくある一日の例で言えば、日の出とともに起きだし、朝四ツ(午前十時頃)まで書類仕事を行い江戸城に登板。老中に白州の裁決などの伺書を渡して前に渡したものを受け取りその場で確認し、必要があれば勘定奉行や寺社奉行にも書類を回してまた承認を行う。町奉行所に戻ってから夕方までは新たな訴訟を受け付け、夕方に戸を閉めた後はその日の牢番からの調書、同心が作成した書類などの確認に負われて日を跨ぐ事もあった。また、火事が起これば出動しなければならない場合もある。
大岡越前が些細な町人同士の諍いなどは持ち込むな、とお触れを出すのも当然ではあった。
のだが、
「へぇ~利悟さん、あたい達が困ってるのに助けてくれないんだ」
「日頃あれだけ子供の味方とか子供を助けることだけが生きがいとか子供と同じ空気吸ってるだけで生きられるとか言ってるのにがっかりタマ」
「うっぐ」
完全に失望というか、まあ元々それほど望みは持ってなかったが無価値の滓か何かを見る目付きになったお房とタマに言葉を詰まらせる利悟。
……そうだ──たとえ相手が生理的に嫌悪感を覚える男でも、それに迷惑を被る子供の為ならば処理をせなばならない。
……立ち上がれ、男よ。
そう九郎がナレーションのように利悟の頭近くでぼそぼそと語ってやると、彼はやおら起き上がって店に再び入っていった。
入り口から三人が見守る中、幾らかふらついた足取りでまだ突っ伏して喚いている男に声をかける。
「あー、おい。お前」
「ぐすっ……はい──」
やっと話しかけられたとばかりに泣き男は顔を上げて、控えめに言って厠の中を覗きこんだような表情の利悟へ向き直った。
彼は表情も動かさず、幽鬼の如き男に勇気を込めて平坦な声で話しかける。
「拙者はこれなんだが、これ。そんなところで泣いてると迷惑だから」
と、胸元から取り出した十手を見せた。
態度は面倒くさそうと言うか関わり合いになりたく無さそうな雰囲気全開である。名すら名乗っていない。
「まあ、八丁堀のお侍さま? すみません、でも実はこれには訳が……」
「おえっ。ああうん、いや別にそれは聞いてないからほら。できれば外に出てくれないかな。なるたけこの国の外に」
「そうですわね……ここじゃ落ち着いて相談もできませんわ……お侍さま、どこか落ち着けるところへ連れて行ってください」
「拙者はどうでもいいんだよ。話も聞かねえよ。迷惑だからどこか川の底で一人で泣いててくれないか」
「ええ……あの捨てた人も同じようなことを言って居たのです……」
「語り出しちゃった!」
女言葉で野太い声を返してくる泣き男に吐き気を覚えつつも、会話が成立しなくてげんなりしてきた。
利悟は助けを求めるように入り口に目をやると九郎が半紙に、
[問題ない]
と、書いたものを見せて二枚目の紙へと捲った。
[そのままお主と一緒に外に連れ出せ]
利悟は顔を真っ青にしてぶんぶんと横に振る。
すると九郎の左右に居るお房とタマが願い事をするように両手を合わせて潤んだ瞳で見てくる。
利悟の顔が理性と感情とに引っ張り合いを受け引き攣って、哂っているような啼いているような奇妙な表情になった。
背中に浮いたサブイボがメインイボに入れ替わるような気色悪さを覚えつつ、血の気が失せた頭で死体遺棄の方法が構築されつつある利悟は掠れた声で、
「とりあえず、外に行こうか。うん話はそれからだ」
「お侍さまはお優しいのですね……ときめいちゃうかも」
(殺……)
とぅんくと胸を鳴らすおっさんに対して利悟は漆黒の意志が芽生えかけた。
頭に被った蕎麦つゆも冷たくなっていて、化粧が濡れて流れ化生になっている、華柄の単衣を巻きつけた筋肉男を連れて利悟はとりあえず店から出ることに成功したのだった。
九郎は珍しく彼に感謝の念をテレパシーで送った。九郎がテレパシーを送る能力があり利悟が受信する能力があるのならば、伝わるはずだ。これで礼は充分だろう。
店から出て二間も歩かぬうちに利悟は猛烈な走りで逃げ出したが、化生はそれを追いかけていく。それを見送って、タマとお房は手ぬぐいを振っていた。
悪は去った。
「さて、掃除して店を再開するか」
「まったく、ああいうのは連れ込み茶屋か何かでやれって思うの」
そう言ってまた何事も無かったかのように日常が再開されるのであった。
──少なくともその日は。
*****
翌日の事である。
店主の六科がいつも通り朝の準備を行い、入り口の戸を開けたと同時に、ふらりと薄汚れた黒袴の利悟が店内へ入ってきた。
まだ昼飯には早い時分だ。この日はお房が石燕のところに勉強に出ている為、店内には彼女を除く三人の男が居た。
椅子に向かい崩れ落ちる勢いで座って、机に泥のようにうつ伏せになった。
酷く疲れている様子だ。
九郎と六科、それにタマは目配せをして頷き──シカトした。
「話を聞いてよ!?」
がばりと顔を上げて主張する利悟に九郎が半眼で告げる。
「そうやって他人の目の前で如何にも己が不幸であると見せて話を聞いてもらおうとする姿勢。昨日のアレとそっくりだな」
「うあああ!? ち、違う! 拙者はあんなんでは……!」
「あの後に随分仲良くなって性格が伝染ったんじゃないですかあー?」
少年から容赦なく浴びせられる追撃の言葉に利悟は諤々と震えだして頭を抱える。
「そもそもあいつだあいつ! あろうことか拙者の長屋にまで付いてきたんだぞ! 恐怖か! 仕事終えて家に帰ったら飯とか作ってあの毛の生えてない熊が待ち構えてるんだ! 刀を抜いたわ!」
「そのまま切れば良かったではないか」
相変わらず仏頂面のまま、物騒なことを六科は云う。
利悟は怯えたように、
「駄目だ。やろうとしたさ。痛い目にでも合わせれば逃げるだろうと。しかしあの男、妙に素早く刀の間合いを見切りつつ、少しだけ肌が切れる程度に避けて新しい傷が出来る度に悦んで喘ぐんだぞ!? 全力で殺せば別かもしれんが気色悪くてこれ以上無理だ!」
「ああ……なんか全身傷だらけだったな、そういえば」
思い出したくもないのだがその件の毛の生えてないクマゴリラの体に残った無数の刀傷はこうして出来たのだろう。
ストーカー気質で女々しくて重たく、被虐趣味のある筋肉モリモリマッチョマンのホモである。
「それはもう災害であろう……」
「だよね!? 拙者もう昨日逃げて奉行所の足軽部屋で寝たよ! まったく」
怒りながらそう告げる利悟の肩を、九郎は生易しく叩いた。
「ま、別に良いではないか。
お主、男色家なんだろ」
「ちがああああああああああああ!! ううううあああああ!! おっ、おぼろしゃ」
「うわっ利悟お兄ちゃんが拒絶反応のあまりに嘔吐した」
「死ね」
九郎の一言に叫んだり吐いたり椅子から転げ落ちてのたうち回る利悟を汚物のような目で見て冷たい声をかける店員と店主である。
呪いの言葉を囁いた九郎は心外だと言わんばかりにしかめっ面で、
「だってお主、日頃から言っているではないか。男の子でも可愛ければいいよね──て。つまりはホモ。いや、男色の気があるのだろう」
「断じて違う! 少年愛と男色は別だ! 拙者が好きなのはすね毛が生えていないまでの年齢の男の子であって、あんな、あんな……あんなのはあんまりじゃないですか!」
「阿呆が。すね毛が生えてないとか、男の娘とか、女の子におにんにんが生えてるだけだとか、ショタビッチだとか云うがな。つまりはどれも同じ非生産的な同性愛だろうが。それでイケるならあの男でも平気だろう。頑張れよ」
「違う! 絶対に違う! っていうか嫌だ! そんなのはクソも味噌も同じだと言ってるようなものだ!」
「お主の仕えてる将軍家の神君がクソを味噌と言い張っていたではないか。同じ同じ」
九郎がニヤつきながら説得のような言葉の暴力を放っている。
それに対して利悟は論理武装も精神耐性も完璧ではなく、ただひたすらに心に傷を負っていく。
床に這いつくばりショタコンとホモは違うと感情的に力説するいい年をした公務員が居た。
菅山利悟──同心二十四衆が二番[青田刈り]と呼ばれる実力者である。剣術の腕前に比例せずに精神は脆弱にして歪つなようであったが。
なお、当時江戸では割りと同性愛も珍しくは無かったのだが。男同士だけでなく女牢設定で百合百合しい春画なども大いに売れていたそうである。
「そういえば利悟お兄ちゃん、あの人的な生き物はお兄ちゃんの長屋に居るままなんですか?」
「はっ! そういえば。あんな地獄めいた男が拙者の長屋にいては、ご近所の評判が最低に下降してしまう!」
「いやまあ稚児趣味というだけで相当最低だと思うが」
「稚児趣味な上に筋骨隆々な念人(おホモだちの事である)を連れ込む衆道家と認識されるのか。底が割れるな」
「正直そんな人が隣に住んでるとか前世で相当悪い事したのではと思い悩むぐらいの不幸タマ……」
「うあああ……」
輪廻レベルで嫌われそうな要素であると言われて凹む利悟である。
ただでさえ彼はいろいろとご近所で噂になっていて針のむしろとまでは言わないが、居心地が良くないというのに。
(……?)
何か忘れている気がしたが、利悟はとにかく相手に家を特定されている現状をどうにかしなければならないと考える。奉行所の敷地にある足軽部屋か中間部屋に移住出来ないだろうかとも検討しながら──
その時、店の暖簾が揺れて人が入ってきた。
「ちょいと失礼するよ」
ややくぐもった声で店に入ってきたのは縹色の着物に柿渋色の羽織を着ている、髪に白いものが混じった初老の男だ。
同心の巻羽織ではない普段着の姿だが、彼は同心二十四衆の一人、[殉職間近]美樹本善治である。同心という身分故に手柄を立てようとも昇進したりはしないのだが、与力にも一目二目と目を置かれている熟練の男だ。
床に倒れたまま彼を見上げて、利悟が声を上げる。
「あ、美樹本のおやっさん。今日は非番──」
「ここに居たか、この野郎」
彼の姿を見た瞬間、美樹本はごつごつと骨ばった、お世辞にも筋肉が付いているようには見えない腕を伸ばし彼の襟首を掴み持ち上げ──。
ぐるり、と己の頭の上で縦回転させて再び床に叩き付けた。
「がはっ──!」
息が詰まる。衝撃で全身がばらばらになりそうな勢いだった。
投げつけたのに美樹本は利悟の襟首を離さないまま持ち上げ、酷く不機嫌な顔をして彼の頬を張り飛ばした。
再び床に落ちる利悟。
彼を見下げる美樹本は死神めいた冷たい視線を浴びせている。
「おい、利悟。お前、事もあろうか男に念をくれて家に連れ込んだのか?」
「誤解です! 拙者はむしろ付き纏われて!」
体が頑丈な事が売りの利悟は即座に復活して謝った。何故怒っているかわからなかったが、とにかく。
「付き纏われて家を明け渡して。なあおい、お前何考えてるんだ? 家まで寄ってくる悪党だったらその場でぶっ殺せよ。
そいつが危ねえやつだったらお前の近所まで巻き込むことになるとか少しも想像しなかったのか? それでお前一人、逃げて奉行所でぬくぬく寝てたってわけだ」
「う、あ、す、すみません! もしかして、誰かに害が……!?」
「そんな妙な男が居るとおれが知ったのは今朝方だ。お前の部屋から出なかったみたいでな。なあ、おい。
おれがな、一番腹が立ってるのはそれだ。お前──いつも家に来て洗濯だの掃除だのしてくれるあの娘と、その腐れ下郎が鉢合わせするとか、まったく心配してなかったみてえだな」
「──!」
美樹本は利悟の胸ぐらを掴んで、額がぶつかるほどに顔を寄せた。
酷く、怒っている。
「別にお前と瑞葉ちゃんは恋仲でも夫婦でもねえのは、まあそのうち何とかなると思って放置してたけどよ。あの子はお前の幼馴染だろうが! 妹みたいなもんで、殆ど家族だろうが!
てめえなクソ利悟、あの子は悪党に母ちゃんも姉ちゃんも殺されて、親父だって殉職した。頼れるのは小さい時から一緒にいるお前しか居ねえかってこたあ知ってるだろ!
今朝騒動があって肝が冷えたぞ! いつも通りお前の部屋に行ったあの子が変な男から首を締められてるんだ! 慌てて野郎は半殺しにして番所に放り込んだがな、なんでその場にお前が居ない!?」
利悟は何も言えない。
瑞葉、と言うのは年下の幼馴染の名であった。昔同じ組屋敷に住んでいて、年が近く親同士の仲が良かったために利悟と、瑞葉と、彼女の姉と三人で良く遊んでいた。
ある日に組屋敷が怨恨理由だと思われる兇賊に襲われて、瑞葉の姉と母は帰らぬ人となったのだ。
それから瑞葉は利悟を実の兄のように慕い──縋っていた。
利悟は彼女を良く甘やかし、笑わせ、守れるように剣術に励んで居た仲の良い幼馴染だったのだが──
年齢が上がるにつれて利悟が稚児趣味に覚醒した為に、対象外になったという凄まじく駄目な末路を迎えた。
それでも甲斐甲斐しく独り身で基本的にずぼらな彼の世話を自主的に行っている。それでいて利悟は嫁に貰おうともしないので近所の評判は最悪である。
利悟の父とも、瑞葉の父とも面識がある美樹本は進展しない二人を、まあそのうちどうにかなるだろうと笑い混じりに見守って居たのだが、さすがに今回は怒った。
「しかもな、瑞葉ちゃんなんつったと思う? お前が男色趣味なら付き纏われて鬱陶しがられてたのもわかる、これからは会うのも控える、だとよ。阿呆か!
言っとくがな利悟。瑞葉ちゃんが許さんと言ってたらおれはお前に果たし合いを挑んでたからな。お前を殺さないのはあの娘が悲しむからだ! わかったか!」
「う、ううう」
「だいたいお前、昔に剣術を習う時言ってたよな? 大事な子を守れるぐらい強くなりたいって。あの子とその姉を守る為だったんだろうが! 目標見失ってどうする!」
怒鳴りつけると利悟はひたすらに後悔を顔にして黙り込んだ。
十年昔から同心の中では「おやっさん」と呼ばれていた美樹本は当時の利悟の言葉に感じ入り、江戸でも有名な一刀流の道場に束脩まで通して通わせたのである。
束脩とは論語に出てくる、入門時に送る礼物で白扇五本が入った桐箱を渡すのが最大の礼儀とされた。更に、より目をかけて貰う為には桐箱に金子を入れて渡したという。
それほど美樹本も利悟に期待していたし、彼もその道場の誰よりも強く剣術の腕前が上達したことは嬉しく思っていたのに、この体たらくである。剣術は若くして江戸でも十指に入る腕前だというのに、精神があまりに未熟なのだ。しかしそれも若さがあるから、と思っていたのだ。
美樹本は利悟に対して血は繋がらぬが、甥っ子と思うぐらいには目をかけていた。
「いいか、お前があの娘を幸せに出来ないってんならそれでいい。ならお前自身が瑞葉ちゃんの旦那を探して宛てがってやれ。それぐらい義理ってもんがあるだろう。
おれや他のやつが云うんじゃあの娘は決して認めない。お前が責任を持って諦めさせろ。ちゃんとあの子を嫁に貰うか、嫁に出すか、それぐらい決めろよ」
「あ、あとで……」
「何が後でだ! 今から行って来い馬鹿野郎!」
そう言って、美樹本は利悟を店の外に放り投げた。
地面に転げる同心であったが、まあ日常茶飯事なので通りを歩く人が特別注目するほどではない。
よろよろと立ち上がって、彼は必死に思考を纏めつつも泣きそうな顔で幼馴染の住む長屋の方へ歩き始めた。
それを確認して、美樹本は大きくため息をついて大きく肩を竦めた。
「……やれやれ、おじさん久しぶりに声を荒らげたから喉が乾いちまった」
「お茶です!」
「おっ。悪いねぇ」
いつもの飄々とした調子の口調に戻っておどけたような笑みを浮かべ、湯気の立つ茶をすする。
九郎が若干気まずそうに、
「あーなんだ。その変態男のことだが……」
「うん?」
「昨日己れが利悟に頼んで店から連れ出させたものだからな。其奴が利悟の長屋に行ってそこまでやるとは思わなんだ」
言うが、美樹本は苦笑いのまま軽く返した。
「いんや、九郎は別に悪くないさ、これ。そもそも町人が同心を頼るのは当たり前で、悪党に付き纏われたなら利悟の責任で対処するべきだったんだ。あいつだって頭ん中身はともかく、立場はガキじゃないんだから。
ま、おれから見れば、いつまで経ってもあいつも瑞葉ちゃんもガキのままで、つい熱くなっちまうんだけどよ」
「ううむ……」
九郎は唸り、顔を曇らせたまま、
「いや、それでもだ。年長者として配慮すべきであった。元はといえば己れが嫌悪感を出さずにボコって捨てれば良かったのだからな」
「そ。まあ個人の見解に文句は付けないけどさ。そうだ、少し悪いと思ってくれてるなら利悟の奴がちゃんと瑞葉ちゃんに声かけに行けてるか見に行ってくれない? あいつ、屁垂れだから」
「わかった」
頷いて、九郎は店から出ようとして、一度美樹本に振り向いた。
羨ましそうな、或いは嬉しそうに小さく笑みを作って、
「お主は大したおやっさんだな。相手の為に本気で怒ってやれる」
「……そんなもんじゃないって。ただの説教好きのおじさんなだけだよ。あ、折角だから蕎麦をね」
皮肉な顔をし、そっぽ向いて注文をする美樹本を満足そうに見て、九郎は利悟を追い向かうのであった。
*****
道を歩く利悟はすぐに見つかった。
歩みは遅く、何処と無くふらついてぶつぶつと深刻な顔で呟きながら、大川を下る方向へ進んでいるのである。
まるで、
「狂人を見るような……」
目で周りから見られて距離を置かれていた為に、九郎は若干声をかけるのを躊躇った程である。
「おい、利悟」
「……あうう」
半開きになった口から自然と漏れたうめきのような返事が出てきた。
九郎は強めに背中を叩き、
「そんな屍人みたいな調子でどうする。幼馴染に会いに行くのだろう」
「ううう、そうなんだけれど。なんというか、拙者の所為で危ない目に合わせたのを謝らなくてはいけないことはともかく──ここ何年も、拙者はあいつとまともに会話しようとしなかったから、気後れして……」
「なんでまた。いつも顔を合わせていたのだろう」
「稚児趣味の範囲外……だからですかね?」
「戯けが」
誇らしげではなく、利悟自身もよくわからないとばかりに躊躇うように首を傾げて云う様子に九郎は言葉を切って捨てた。
だいたい、と前置きして続ける。
「稚児趣味と云うがな。お主、いつも言っておるように例えば十歳前後の女子と恋愛したとして。その娘と付き合って大人になったら捨てるのか?
お主が色目を使っておるフサ子とて十年経てば石燕と変わ──……にじゅ……十五年経てば石燕と変わらん。お主の幼馴染も、十年前は少女だっただろうに」
「それは……」
「利悟よ。趣味とは情では無いのだよ」
諭すように云う九郎は何処と無く疲れているように見える目付きであった。
利悟はまだ難しく考えた顔を見せている。
「とにかく、お主が思っていることを男らしくそのまま伝えよ。相手が納得しようが、すまいが、まずはそれからだ。よいか、よいな」
「……わかった」
頷き、覚悟を決めて、
「拙者は少し、逃げすぎていたのかもしれない」
そう言って、押し黙ったまましっかりとした足取りで幼馴染の居る長屋へ足を早めた。
彼女が住まうのは利悟ら同心の長屋がある下町、八丁堀からほど近い兜町である。
名を瑞葉という利悟の幼馴染は細々と洗濯屋をして過ごしている。洗濯屋はその名の通り衣類の洗濯を代行するもので、嫁が居る家庭はともかく江戸は地方からの男が大勢流入している関係で男女比が男に大きく傾いている為に、一人暮らしの独身男も多いのだ。
なれば男やもめに蛆がわき──と言った風に、掃除洗濯がずぼらになる者が出るのも当然の事で、それを代わりに行う仕事もあったのである。
とは言え、若い女が見ず知らずの男の洗濯をしていてもどうも宜しくない事が起こる可能性があるので、彼女は主に一人暮らしの老人などに通いで仕事をしているのであったが。
そもそも、飯を食って長屋で暮らす程度の金ならば、亡き瑞葉の父が残した金がまだ残っており、彼女はそれを信頼できる美樹本同心に預けて月に幾らかずつ切り崩して貰っているのである。
なお、利悟の家で掃除洗濯炊事などを行う金もまた別に──利悟が周りから睨まれて払うようになって──貰っていた。
ともあれ、利悟と九郎は件の長屋へ訪れていた。
さすがに市中にあるだけあって、そう古くも見窄らしくもない、極普通の長屋である。
利悟は迷わずその一室の前に来て、戸を開けた。
「瑞葉。居るよな」
言いながらやや薄暗い室内に目を遣る。九郎も後ろから覗きこんだ。
中には、正座をしたまま人形のように動かない、浅葱色の着物を身に纏った二十歳手前程の女性が居た。
目元に泣き黒子があり、やや三白眼気味だがつるりとした健康的な肌で、一般的な視点から見れば美しい女である。
「……どうしました、利悟さん」
澄んだ声であった。表情こそ、何処と無く掴みにくいがきょとんとした様子で、悪意も篭っていない親しげな印象を九郎は覚える。
部屋に開けた戸から明かりが入り、ぼんやりと視界が順応していく。
瑞葉の細い首に絞められた跡が残っているのを、二人は察した。
利悟がよろめくように室内に入り、膝と両手をついた。
「すまん! 拙者が妙な奴を招いたせいで危ない目に合わせた!」
「いえ、いいんですが。利悟さんが男色でちょっと危険な相手好みだと知らなかったこちらが悪いので」
「そしてそれも誤解だあああ!!」
叫ぶと、やはり瑞葉は三白眼を開いたまま小首を傾げる。
呼吸を整えて、利悟は彼女を見ながら脂汗を流しつつ焦った様子で語る。
取り繕うことなど考えられなかった。浮かんだ言葉を、そのまま投げかけた。
「ええと、いいか。ちょっと拙者の話を聞いてくれ」
「いいですよ」
「拙者はだな、何度か言ったが男色じゃなくて稚児趣味でな、好みは年の頃十前後でまあ頑張って十代半ばぐらいまでなんだ」
「なるほど」
「でまあ、瑞葉も五年ぐらい前まではもろ好みだったんだけど最近はあれだから。年増だからいまいち会話とかしてなくてな」
「ほう」
「若しかしたらあれだろう。瑞葉、拙者を頼りにしてる感あるだろ? 家族的な何かみたいな……」
「まあ、そうなりますね」
「で、なんというか……今日おやっさんから、拙者が瑞葉を嫁に貰わんなら他の婿を探して来いと言われたんだ」
「はあ」
「でも拙者、そんな友好関係ある男の知り合い居なくて変態ばっかりで妹的な瑞葉を預けたくないし……でも自分で嫁にするには年増でぶっちゃけ燃えないから勘弁だし……いや、ごめん」
「いいんですよ」
「しかし瑞葉が掃除とか洗濯とかしてくれるのには感謝してるんだ。お前のことを守りたいとも思う」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる瑞葉を見ながら利悟はやけくそのように顔を引きつりつつ、
「というわけで……その、あれだ。拙者の失敗と誤解を水に流して、稚児趣味を容認しつつ今後も色々生活の面倒を見てくれて、且つおやっさんを上手い具合に説得してくれてこれまでを現状維持できたらなあって拙者願う!」
利悟が瑞葉に説き伏せて居る間、外から見守っている九郎をはじめ、近所の奥様方も集まって聞いていたのだが。
その叫びを聞いて一斉に大きく頷き、「せーの」と声を合わせて思わず叫んだ。
「──最低だなこいつ!?」
思ってたことを口にしたはいいが、驚く程駄目な男だった。
自分にとって都合の良い部分しか存在しない告白と願いである。
「男らしくそのまま伝えろとは言ったけどな、全然男らしくないぞお主!?」
「うるさい! 拙者はもう幸せを諦めない……! 取り零して失っていくのは厭なんだ! 誰かに間違っていると言われても、拙者が選んだ道なんだ! これが拙者の、第三の選択だ!」
「格好よさ気なことを言っておるが一切格好良くないからな!? 使い所を間違っている勢いで!」
九郎がツッコミを入れるが、利悟は聞こうとはしない。
周りの人もひそひそと残念な男に対して言葉を交わし合う。
「こんなのが侍なんて徳川の世も終わりだ……」
「瑞葉ちゃん、そいつは関わっちゃいけないまるで駄目な男だよ!」
口々に利悟への非難と瑞葉へ別れるように説得の言葉が飛ぶが、彼女は口元を小さく上品に笑みの形にして、
「わかりました、いいですよ。瑞葉は利悟さんと一緒に居られれば」
と、云うのだからこの世の終わりのように観衆は頭を抱えた。
ダメンズを甘やかす女の末路がどうなるか……それは現代でも江戸でもそう変わりあるまい。
瑞葉自身は近所でも評判の良い、美人で貞操が固く意志もはっきりとしていて礼儀正しい娘なのだ。それがこの稚児趣味で自分勝手な男のどこに惚れ込んだものやら……。
ぱっと顔を明るくする無責任一代男、利悟の首もとを掴んで九郎は引き寄せ、低くした声にどすを効かせて告げる。
「おいこれ利悟。お主何も譲歩しておらぬではないか。こんなに虫のいい話があるか。罪悪感も何も無いのか」
「うっ……ど、どうすれば」
「そうさな、せめてあれだ。何か相手の要求を受けろ。不老不死にして欲しいとか地球に襲来する宇宙人を倒して欲しいとか、いろいろあるだろう」
「神の力すら越えて無いかなその願い!?」
九郎の例え話に首を振る利悟であったが、「とにかく聞いてみろ」と言われた為に瑞葉に尋ねた。
「み、瑞葉。そうだなあ、お前から何かして欲しいことってあるか?」
「そうですね……」
彼女は少し考えて、
「それなら、利悟さん」
「はい」
「先程、『色々生活の面倒を』と言ったので、利悟さんの長屋に住むようにすれば少し手間が楽になるのですが」
「嫌だ! 年増女と同じ部屋でなんて拙者が寝れるわけぐふぁあ!」
即座に断ろうとした利悟の脇腹に九郎の貫手が突き刺さった。
瑞葉は己の顎に手を当てて、
「でしたら別のものにしましょうか」
「う、うん……」
彼女はにっこりと三白眼を閉じるように細めて言った。
「利悟さん、お慕い申し上げます」
「……」
「──と、毎日言わせて貰えることを許していただければ別に同じ家に住まなくても構いませんよ。言うだけですので」
「え、あ、……いや、その」
利悟の中でどちらが得か損か精神的な打算が動く。
断るなよ、選べよと強迫めいた目線が九郎を始めとして集まった近所の奥方からも飛んできていた。既に彼の評価は竈の灰以下ではあるのだが。
そして、
「……ええと、じゃあ同じ家に住むほうで」
がっくりと首を下げて、彼はそう言った。
実際、そちらならば己の日常は維持されつつ更に美樹本の目も誤魔化せるのだが、さすがに如何に守備範囲外とはいえ幼馴染から毎日告白されてそれを断るとなると、周囲からの目線も己の精神ダメージも酷いことになりそうなのだ。
そしてこの場でこれ以上ごねたら恐らくは命が危ない。
瑞葉は声を燥がせたりはしなかったが嬉しそうな表情で、
「ありがとうございます」
と、利悟に云うのであった。
九郎はこれにて落着と見て、そっとその場を離れた。
どうやらこれから引っ越しの準備が始まるようだ。瑞葉はてきぱきと用意を始めだしている。
長屋の並びから通りに出た時に一度だけ振り返り、涼し気な顔で聞こえないだろうが、呟くのであった。
「だが、知っておけよ利悟。この世で、女に頼りっぱなしの男が栄えた試しは無いのだ──」
呟いた瞬間、
「とあー!」
ぽふ、と九郎の頭が上からアダマンハリセンで軽く叩かれた。
九郎が渋面でそちらを向くと、そこにたまたま通りかかった石燕とお房が居て石燕の片手にハリセンが握られていた。
「……何をするのだ、石燕よ」
「いや、なんかそこらから一斉にツッコミが入った気がしてね。私はその代表として」
「意味がわからん」
叩かれた頭をぼりぼりと掻きながら、九郎は理不尽に嘆くのであった。
*****
その日から──
八丁堀の長屋にて、利悟の部屋で瑞葉は寝泊まりする事になった。
もとより一戸あたり九尺二間ある長屋だった為に二人で暮らしていても手狭にはならない。
周りの住人からも即馴染んで、祝言はいつだのと聞かれる以外は利悟にとっては面倒は無かった。美樹本に怒られるような事も、無かった。
まったく瑞葉を恋女房だとか思うつもりにはならなかったけれども。
彼は稚児趣味なのだ。性癖とは生まれ持つ魂の叫びだ。それがそうそう変わるわけではない。
しかし瑞葉は利悟を馬鹿にする事も、傷つける事も、見下す事もしない。子供のように無邪気ではないが、大人のように邪気も無いという事。
一緒に暮らすとそれがわかった。彼女が子供から大人になって、周りの女と同じような悪意を持っているのではないかと警戒していたのだが、そうではなかった。
別に彼女が好きなわけではないが、共に居て居心地が悪くはなかった。
「──そのなんだ、瑞葉はその辺の年増女とか子供とは違うっていうか、特別枠だからな」
晩酌をしながら、ぼーっとしていた利悟はそんなことを呟くと、
「瑞葉にとってはいつだって、利悟さんも特別ですよ」
と、返ってくる程度には、仲良くやっているようである。
まあ恐らくは、末永く──。




