44話『録山晃之介は不幸をものともしない』
緑のむじな亭で九郎と石燕が白湯を飲んでいた。
九郎の腕を骨髄まで真っ二つにされた傷はさすがにまだ塞がっておらず、包帯を巻きつけているが動かしたりすると傷が開いて出血するのである。
故に血行を早める酒などは控えるべきなので、生暖かい湯をしみじみと飲む毎日である。
酒類を生活の友としている──慢性的アル中ではないとは本人の主張である──石燕も珍しくそれに付き合って、湯を飲んでいるのである。
「あの空間だけ異様にじじむさいの」
「まあまあ」
お房が胡乱げな眼差しを向けて、タマに宥められている。
確かにはたから見れば年若い男女が黙々と熱くも冷たくもなく味もない湯を向かい合って飲んでいるなど、地味極まりない光景である。
時折、暇を潰すように碁か将棋を打っているが、まず九郎が負けまくるので落ち込んでふて寝し、次に再開した時はいい勝負だったが手を抜かれていることに九郎が気づいてやはり拗ねてしまい、石燕は困ったように微笑んでいた。
決して九郎が将棋が弱いわけではないのだが。
崩し将棋なら勝てると主張している。
そんなここ数日であったが、その日の午後の事である。
店にふらりと武術道場の主、録山晃之介が現れた。
彼は九郎を見つけて近くに来ながら、
「二人共、相変わらず仲がいいな。って九郎。どうしたんだその左手は」
九郎の包帯でぐるぐるに巻かれて、指先はまだ血の気が薄い手を見ながら尋ねた。
彼は反対の手を軽く上げて、
「うむ、まあな……いや、晃之介。お主こそどうしたのだ」
と、晃之介の格好を見て逆に聞き返した。
彼はいつもの道着姿であったのだが、全身がどことなく土で汚れていて、手などは泥で黒くなっている。背中には旅の時にも使っていた武具箱を背負い、手には風呂敷で細々としたものを包んで持っている。
荷物を床に下ろし、近くの席に座りながら晃之介はため息混じりに言う。
「ああ実は昨晩なんだが、道場で瞑想をしていたら道場破りがやってきてな」
「夜中だろう。叩き出せばよいのに」
「結果的に勝てば同じことだ。それで受けると、相手は六人同時に戦うという。十五人までなら同時に相手した事があるから、それは良かったんだが……どうやら六人ともかなりの使い手でな。真剣や槍を持って挑んできたが、扱い慣れている様子だった。
何やら海を割るとか山を砕くとか仏を斬るとか物騒なアダ名まで名乗っていたしな」
「ほ、ほう……」
何処かで聞いたことのあるそれに九郎は相槌を詰まらせる。
「油断したら危険だと思った俺は、まず六天流奥義[六空]を使い一瞬で全て方を付けた」
「強い人が本気を出すと身も蓋もない過程になるよね、九郎君」
「うむ。戦闘狂は是非油断や容赦を忘れないで欲しい」
げんなりとしながら石燕と九郎は半目で呻く。
使い手と認められるような相手複数人を、「まず」で倒しきるのはやり過ぎである。なお、晃之介の手加減により倒された六人衆は縛られて顔に落書きされ武器は没収されて適当なところに放置されたという。
晃之介は肩を落としながら、
「まあ、そこまでは良かったのだが。奥義は俺も初めて実戦で使ったものだからな」
「そうなのか?」
「型は伝授されていたが一々使うことも無かった。というか、奥義を多用する日常など無いだろ、普通」
「影兵衛あたりは通常技感覚で使っていそうだがのう。やたら必殺剣とか名前つけるの多いし」
「とにかく。初めて使った奥義の影響で道場の大黒柱がへし折れてな。今朝方、連鎖的に道場が崩壊した」
「……」
「そんな目で見るな……」
九郎が形容しがたい馬鹿を見つけた目で見てくるので、晃之介はさっと目を逸らした。
涼しい顔をした石燕が九郎の視線を諌めるように、
「九郎君、晃之介君にも事情があったのだよ。自分の奥義で自分の流派の道場を破壊するに足る事情が……くふっ、ふふ……今まで使い所が無かった奥義を試しにやってみたとかそう云うはしゃいだわけではないのだから……ふふふ」
「くっ……とにかく、それで潰れた道場の残骸から道具や金を掘り出してたんだ。立花様から頂いた弓などは幸い無事だったのだが」
「ああ、住む家が無くなったのか」
と、九郎が云うと消沈したように大きく頷き、俯いたままになる晃之介であった。
彼の道場は住み家も兼ねており、別室に小さい寝床と竈がある。なんとか持って出てきた荷物を見るに、布団や家具(膝茂様)などは未だに瓦礫の下だろう。
「道場を立て直すにも大工に払う金がな……三十両あまりは掘り出したのだが、これが全財産ではなんともならん。原因になった昨日の連中の刀や槍でも売り払って金を作ろうと思うのだ」
「ほう。どれどれ、私はこれでも霊的鑑定に定評があるのだよ」
そう言って彼女は晃之介が運んできた荷物から武具を漁る。槍や弓などは持ち歩いていたら確実に逮捕されるものなのだが、晃之介は巧くカモフラージュして違和感なく持ってきているようだ。
ただし襲ってきた六人衆の武器で残っているのは小刀と槍だけであった。他に太刀、弓、棒を使う者が居たのだが、最終奥義を食らって破壊されたのだという。
晃之介は注文していた、擦った山芋をかけた蕎麦を箸で混ぜながらげんなりと説明して、顔を上げて店主へ向き直り聞いた。
「六科殿。ここの長屋に空き部屋は無いか?」
「残念だが埋まっている」
無感情な声が帰ってきて、晃之介は「そうか……」と気落ちした。
長屋は満室であるし、表店である蕎麦屋の二階には九郎とタマが住んでいる。無理をすれば晃之介も住めなくもないのだが、さすがに手狭になるだろう。なにせ大荷物がある。
それに日頃の鍛錬がここでは出来ないという難点もあった。
「お主の懇意にしておる柳川藩に頼ればどうだ?」
「それも考えたんだがな、道場を潰されて駆け込んだなどと思われかねないだろう。一寸気が引ける」
「ふむ……お八の実家に頼めばどうだろうか」
「弟子の縁に頼るのもなあ……」
「妙なところで格好つける男だ」
呆れた様子で呟く声に、晃之介自身も面倒な性格だ、と自覚しつつも蕎麦を手繰った。
濃い目のつゆに、荒く刻み叩かれた山芋が混じり、それが麺に絡みついて、うまい。薄く切った蒲鉾もつゆに沈んでおり、蒲鉾に山芋という組み合わせもよく合った。
食いながら晃之介はぼやきを続ける。
「それに、親父の形見の武具など大事な物も持っているから、あまり不特定多数の者が立ち入る場所は少し困る」
「しかし刀もいろいろあるな。む、これなど古そうだが良い刀だな」
「平安時代の古刀らしいんだが銘はよくわからないやつだな。膝がよく切れるから膝丸と親父は呼んでいた」
「お主無駄に膝と因縁が無いか?」
などと言い合っていると、眼鏡を外してじっと槍を眺めていた石燕が、
「むう、この槍は……」
と、呟いたので九郎がのそのそと身を乗り出して石燕と顔を並べて槍を見る。
「良い物か?」
「ふむ。私の特技、道具の記憶を読み取れた気分になって設定を付与する程度の能力によると……」
「捏造鑑定能力な」
冷ややかな声を挟むが、当然のように無視されて石燕は興奮した様子を見せつつ続ける。
「この槍は救済を願い、磔にあった偉人を貫いたかの有名な……!」
「有名なって……あの何ギヌス?」
九郎は胡散臭そうに槍を見ながら半眼で尋ねる。
うろ覚えだったがそんな名前の兵士が使っていた槍があった気がした。魔王の倉庫に二、三本転がってたのを見た事がある。いや、転がってたのがどっかの主神の槍でバケツに突っ込まれてたのが神殺しだっただろうか。雑だったのであまり印象に残っていない。
得意満面な顔で頷きながら彼女は言う。
「そう九郎君も知っているね──磔になった鳥居強右衛門を刺した槍[すねぎぬす]なのだよこれは!」
「いや知らん。勘違いだったようだ」
「ふふふ折角なので鑑定書を偽造しておこう」
などと話し合っていると、再び店に入ってきた別の客がこちらに近づいてきた。
「鳥山先生ではないですか」
「おや? 田所君だね」
会釈してくるのは身なりの良い、細身の中年の男だ。
名を田所無右衛門という、石燕も描く妖怪画や黄表紙、読本などを刊行する[為出版]という版元に勤めている男である。
[為出版]は江戸でも大手の版元であり、持ち込みされる読売や瓦版の印刷業も行っている。版木彫り職人や色付けの居職などを多く抱えている大会社である。
江戸時代でも読み物は日常の娯楽として大いに盛んに利用されていたのである。特に色物、恋愛作品などは良く売れ、刊行された時代は下るが[偐紫田舎源氏]という艶本は四十万部の大売れになった程だ。
「今回の妖怪本も評判良かったですよ、先生」
「おや? そうかね」
石燕はにやけた笑みを浮かべて、晃之介に茶を注ぎに来たお房をぐいと抱きとめ、嘲るように語る。
「そうか、そうだろう。誰がどう見ても私が描いたように思えたのではないか? 我が愛弟子よ、なんと頼もしいことか」
「ええ……?」
わけがわからぬとばかりに唸る田所。
どこか不満そうに口を尖らせてお房が、
「むう……先生の描く構図とは一寸違った気がしたんだけど、あたいのは」
「私の完全な模倣でなくていいのだよ。目で見えるものが全てではないのだからね」
「……ってあの本の絵、この子が描いたんですか!?」
思わず叫んだ。
年が明けて最初に石燕の本として出された[妖鬼尽絵詞]というそれは軽妙な様子で人魂、餓鬼、幽霊が描かれてたものなのだが、とても今年で十になる幼い少女が描いたものには見えなかった。
いや、十だろうが二十だろうが、描けぬ者には描けぬ引き込まれる魅力を感じる、
「さすが」
と、頷く出来だった為に、田所は驚きよりむしろ畏れを感じてお房を見る。
石燕が悪戯が成功したように、
「そうだよ。ふふふ、末恐ろしいだろう。師匠として与えた試験だったが、見事にやり遂げたね。よしよし」
「試験というか先生が年始ずっと死にかけててあたいに丸投げしただけなの」
ぷい、とそっぽ向きながら言うお房である。然し乍らさりげに上機嫌に見えるのは、褒められたからというより原稿料がそのまま手に入ったからかもしれない。現金な娘、とは文字通りの意味である。
石燕は嬉しそうに目を細めた。実際、お房の絵に関する才能は目を見張るものがある。
(いずれ、房は名の残る絵師になってくれる)
そう師匠である彼女は確信している。
「まったく、凄いお嬢ちゃんだ。天爵堂先生もこれぐらい真面目にやってくれればいいのに……」
「またあのご老体は何かやらかしたのかね?」
「ええ、使いの子が版元に原稿を届けてくれたんですが……この表題[江戸老害番付説集]ってのがそれですよ。町奉行二名に勘定奉行にまで喧嘩腰な批判文章で、こんなもの出したら版元も道連れに江戸払いを食らってしまう」
「唐突に政治関係では荒ぶるなあ、あの隠居老人」
呆れたように九郎が書き記した紙の束を捲って眺める。
もはや政治に口出しをすることはない、と嘯いているのだが他所の立場から悪口を言うのは止めていないようである。人、それを老害と云うのだが。
石燕が顔を上げて、横目で晃之介を見た後に田所に問いかけた。
「そういえば田所君の版元は住み家の斡旋をやっていたのではなかったかね?」
「はい。貧乏な先生やよく逃げる先生に家をあてがったりしてまして」
「こちらは武芸を教える道場の先生なのだがな、道場を立て直さねばならない事になり、その間の家を探しているのだ。なるべく剣や槍を振り回してもしょっ引かれない場所を望んでいるのだが」
「はあ……」
晃之介も食い終わった蕎麦の器を退かして、頭を下げた。
「心当たりはないだろうか」
「そうですなあ……ああ、そうだ。鎧大明神はご存知でしょうか」
田所の口から出たその場所に、九郎は最近覚えがあった。
「確か新宿にある神社だな。最近、盗賊が入って大騒ぎになったのではなかったか?」
「その通りです。神職の多くが無残に殺されてしまったのですが、だからといって無人の神社にするわけにはいかない。それで別の神社から代わりのものが来ていまして。
然しながらあのような、悍ましい事件があり平将門公の鎧まで盗まれたと噂されていることから神主らまで酷く怯えていまして。神官が祟りを恐れるとはなんとも……」
「神社が呪われるとは身も蓋もない話だがね」
「それで、また盗賊が来るかもしれない恐ろしさもあるのでしょう。誰か身分のしっかりした用心棒でも来てくれないかと寺社奉行に訴えているらしいのですが、そんな縁起の悪い場所に来たがる者も居ない。さて困ったという話になっているそうで」
「用心棒か……」
晃之介は顎に手を当てながら考える素振りを見せた。
確かに神社ならば境内は広く、裏手にでも回っていれば槍や弓の鍛錬を行っていても用心棒という立場ならばそう文句は言われないだろう。
食事代も浮き、それに晃之介の性格からすれば、
(まあ大丈夫だ)
と、言って楽観視しており、むしろ修行の糧とするものと認識している。
恐れを知らぬわけではない。受け入れて、乗り越える信念を持っているのだ。
一時期は謎の隙間から覗く女に悩まされていたが、それを乗り越えた彼はまた一つ精神が強くなっているのであった。
乗り気な様子である晃之介に対して、田所が告げる。
「よろしければ明日にでも上役に頼んで神道方に紹介状を書いて貰い、持ってきますけれども」
「いいのか? 俺とあんたは初対面だが」
「鳥山先生の御友人であるのならば、大丈夫だと私は判断しますよ」
「そうか、頼む」
と、再び晃之介は頭を下げた。
それから、道場を去年建てさせた大工に作りなおしを頼み──たった一年で壊れた為に大工も気の毒に思い少しばかり安く請け負ってくれた──幾らか石燕お勧めの刀を扱う店にて金策を練ったり、瓦礫と化した道場を見たお八が店にすっ飛んで来たりした一日であった。
結局その日は、一日だけ二階のタマの寝室へ泊まることにした。寝床の狭さの問題からタマは九郎の部屋で並んで眠るのだったが。
*****
数日後──。
九郎がようやく出歩く元気が出てきたので、鎧大明神に住み込む事になった晃之介の様子でも見に行こうかと、石燕と共に出かけるようであった。
共に、とは云うが石燕の移動手段は籠である。近場ならともかく、あまり遠くまで歩きたくはないようだ。
やがて辿り着いた鎧大明神は閑散としていた。
境内に人数は少なく、どことなく薄ら寒い気配すら感じる。風にはすえたような臭気が混じり、出店すら出ていない。
見回すと箒を持って本社近くを掃いている晃之介を見つけたので、近寄り声をかけた。
「晃之介よ、どうだ……ってお主」
九郎が向き直った晃之介の顔を見て、思わず顔を引き攣らせた。
同じく石燕もなんとも言えない表情になっている。
当の晃之介はきょとんと首を傾げて、
「なんだ?」
「いや、目の下に隈が出来ておるぞ。大丈夫か?」
「隈? ……自分では気づかなかった」
鏡を見ていないものでな、と言いながら手を当てて目頭を揉む晃之介。
隈だけではなく、どことなく全体的に疲労感を感じる気配を放っていて、有り体に言って少しばかりやつれていた。
「呪いを受けているのではないかね? もしくは慣れない環境に体が合わないか」
石燕が興味深そうに尋ねると、欠伸を噛み殺す表情をしながら、
「いや、一応そこそこにもてなされていて、食事も出してくれるからありがたい。ただ、毎晩夢を見てな」
「夢?」
「妙な老人が枕元に立って延々と愚痴を語り続け、恨めしいだのおのれ源氏だの鎧を取り返せなどと関係ない俺に言いながら、これをやるからと変な勾玉を渡そうとしてくるんだ。いらないし、やらんと断っているのだがこう毎日だと少し眠りが浅くてな」
「祟られてるんだよそれ」
きっぱりと石燕からツッコミが入ったが、晃之介は軽く笑い飛ばし、
「大丈夫だ。体はしっかり休めているからな。修行に支障は出ていない。ただ、この話を神主にしたら余計に怖がられてな」
「まあそうであろうなあ」
「頼みの綱の用心棒が即座に祟られてはね」
毎晩いいえを選ぶとループする会話を続けている割には彼の精神はしっかりしたものだったが、周りはそうでもないらしい。
それでも気にせずに日中鍛錬などを行っている晃之介の姿に、少しずつ恐慌は収まりつつあるのだったが。
「将翁が居ればお祓いをしてもらうのだがね」
「あの薬売りの人はそんなこともやってるのか?」
「ふふふ、あいつのやるお祓いで一番引く方法なんか凄いよ? 薬物で意識を飛ばして話術で洗脳し呪いとか祟りとかの宗教的価値観を塗り替えてしまえばもう恐れなくなるという」
「お祓いというにはあまりにえげつない気がするが」
「効果があるのか?」
若干顔を顰めながら見てくる二人に、石燕は指を立てて応える。
「例えば西洋の悪魔と契約すれば、死後魂を奪われて地獄行きになる──などと言われても私達は怖くないだろう? だが当の南蛮人にとっては教会に駆けこんで泣いて土下座するぐらい恐るべき状況なのだよ。
それと同じく、怨霊なんて居ないさ、祟りなんてただの偶然さという考えにしてしまえば首塚でだって眠れるし比叡山に放火も出来る」
「つまりは心の持ちようなんだろ。それなら神主は平気そうなんだけどな」
「日頃から神仏に対して接しているから余計に恐れる気持ちは強いのさ」
一端石燕は考えるようにして、
「……次に夢でその将門めいた相手が現れた時には相手の願いを受けてみるといいかもしれない」
「そうなのか? 俺は鎧を盗んだ者など見当も付かんぞ」
「ふふふ、そこは交渉次第だよ。自分が死ぬまでには鎧を取り戻すから気を収めて欲しい、とでも言えばいい。とりあえずは大人しくなるのではないかね? これぞ、明日から本気出す作戦!」
「見つからなかったらどうするのだ、それは」
「死ぬまで、だからね。寿命が尽きて死ねば文句も言われまい。それとも一々自分の死後を気にするのかね? あ、それと勾玉が何か知らないが前報酬は断っておくことだよ」
「わかった。助言感謝しよう。しかし、妙なことになったな、怨霊だの悪夢だの」
困ったように苦笑いをこぼす晃之介に石燕は頷いて云う。
「なに、晃之介君。そう不思議なことでもないよ。この神社では誰もが怨霊の噂をしている。ならばそれが深層心理に植えこまれて夢として見る条件が整っているだけに過ぎない。
そして私が教えた対処法もまた記憶に刻まれ、新たな夢の可能性を創り出しただけなのかもしれないね。本当に呪いなのかただの精神の病なのか、絶対の区別をつける方法なんて無いのさ」
「ただの夢か……そうだよな。なんだったらお前達も今晩はここに泊まってみないか? 御神酒なら飲んでいいそうだ」
晃之介の提案に、九郎と石燕は顔を見合わせた。
祟りが本当にあるかはわからないが、ともあれ友人が悪夢で魘されていることは確かなのだ。一晩ぐらい呑みに付き合うのも吝かではない。ここ数日は酒を絶っていてそろそろ口寂しい。
石燕としても、平将門の怨霊となると中々に興味深くはあった。晃之介の様子からすれば命に関わるような呪いではあるまい。
「わかった。つまみでも持ってまた夕方に来よう」
「ああ。神主などには俺から話を通しておく」
「よし、九郎君こうなれば破魔の御札でも書いて持って行こうではないか。ふふふ、楽しみだね」
そう言って、その日はこの三人と、巻き込まれた百川子興で神社の裏手にある宿舎にて、小さな飲み会を開くことになったのであった。
*****
「ふぃーにゃはは! 聞いてますか晃之介さぁん! 師匠ったら酷いんですよ! うぇひひ」
「わかった、わかったから離れてくれないか子興殿。その、くっつきすぎだ!」
「ようしじゃあ膝! 膝に座らせてください! ちょっとだけですから!」
「近い! やけに近いぞこの人!?」
賑やかに騒いでいる二人を見ながら、九郎は静かに酒を飲みながら石燕に聞いた。
「子興のやつ、酒乱の気があったのか?」
「あの子は面食いだからね。男前の晃之介君相手に酒の勢いで昂ってるのだろう。普段酒を呑む相手となると狩野派の絵師ぐらいだが、馬鹿と気が触れている奴しか居ないからね」
「しかし晃之介的には子興は、まあ胸はともかく大人しい娘が好みだからな。逆効果というか」
「弟子が幸せそうで何よりだよ。愉悦愉悦」
「……ところで、お主は何故に己れの膝枕で寝ておるのだ」
などと、夜は更けていく。
その日は、満月であった──。
*****
「──と、云うわけで、夢枕に立った将門公との交渉によって、俺が鎧を見つけると約束することで祟りは起こさない、と言ってくれました」
翌朝、朝の祝詞の前に集まった皆の前で告げた晃之介のその言葉に、神主たちが「おお」と希望に満ちた顔を上げた。柏手を打つ者さえ居る。
彼は爽やかに、そして力強く云う。
「これからは呪いや祟りなどという流言に惑わされず、神事を行い皆々様で神社を盛りたてる事こそが将門公への供養。悪賊、野盗などは決して寄り付かせぬので俺に任せていただきたい」
「ありがとう、録山殿……ところで、その方々は大丈夫なのでしょうか」
神主が、晃之介の後ろでぐったりしている三人を指さした。
「なんだあれは妙な老人とかではなく狂神ではないか……刀を持っていかなければ死ぬところだった……」
「破魔が効かない破魔が効かない破魔が効かない」
「死ぬ……死んだ……また死ぬ……」
晃之介の部屋で共に寝た三人は目も虚ろにして死ぬほど疲れきっていた。
同じ夢を四人揃って見ていた中で、怨霊とかではなくもう見ているだけで全身呪われるような悪神が呪詛を吐き刀を振り回し襲いかかってきたのだ。
夢なので斬られても死なないし、石燕などは様々な呪符を創りだして対抗したのだがほぼ無駄であった。九郎は持ち込んだアカシック村雨キャリバーンⅢだけが頼りで、子興は死に続けていた。
特に子興の正気度が相当危険で薄ら笑いを浮かべてがくがくと首を振っている。
三人のその状態があるからむしろ、夢の中で将門にあったという晃之介の言葉にも信憑性が出るのだが。
晃之介は惚れ惚れするような顔で笑みを浮かべて応える。
「なに、悪い夢でも見たのでしょう」




