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43話『二人は死合わせな決闘をして終了』

 

「くだらねェならここで死ね」

 

 男は蔑み、期待するように云う。


 風が、流れた。






 *****




 九郎が火盗改の仕事を手伝うのは時折あることだ。

 とはいえ彼は別段、正義の人でもなければ給料を貰っているわけでもないので、巻き込まれたり頼まれて仕方なく手伝うといった形だ。正直言うとやりたくない。労働は社会が押し付けた悪業だと九郎は主張する。

 そんな彼なので影兵衛や利悟が仕事を持ち込んできても断ることが多いのだが、知り合いに不利益が及びそうな事案ならばわりと誘えるのを影兵衛などは気づいていた。

 その日の誘いに関しては気楽な気分で、


「よう九郎。今回も厄介な仕事が来ちまったぜ」

「ふ──影兵衛。お前さんの持ってくる仕事で厄介じゃなかった事があったか?」

「おおっと、こいつぁ悪い……今回はとっておきに面倒なやつだ。カハハハ」


 その言葉に九郎は軽く降参のように手を上げて大げさに肩を竦め再び口笛を吹いた。

 そしてやや間が空いて、


「──いや、己れ別に手伝うとか言っておらぬからな。なに探偵社の相棒みたいな陽気な空気で巻き込もうとしておるのだ」

「んだよ冷てえなあ。いいだろォ? な、ちっとだけだからよ」


 食い下がり、影兵衛が説明するにはこうであった。

 近頃江戸の新宿、渋谷、目黒から品川あたりで発生している民家への押し込み強盗を警戒しての夜間巡邏が行われている。

 江戸の中心から離れてやや田舎風景が目立ち、農家が多いこのあたりにて家に切り込み、住人を惨殺しておまけとばかりに金品を奪っていく賊がいるのだ。金銭目的とするにはあまりに小さな金しか手に入らない為に、試し切りや殺しが目的の兇賊であることは明らかである。

 この辺りの事件となると町奉行所の出張る場所ではなく、また江戸の町中でも様々な事件が起こり手はとても回せぬ為に火盗改が捜査に当たることにした。


 さて。

 それで渋谷のあたりを警邏する影兵衛だったのだが、この事件は複数人の犯行と見ているので同心、与力らも二人以上で回ることになっている。

 ところが影兵衛と共に向かう同心が重い風邪にかかり動けぬようになったのだった。

 別段、盗賊が五人居ようが五十人居ようが相手にするには構わない影兵衛だったが、この寒い夜中に遊び場もない田舎を一人で歩きまわるのは嫌気を覚える。 

 舎弟や部下にしている小悪党共も居るには居るが、彼らは基本的に影兵衛が楽しい返答によってはデッドオアアライブなトークを振っても、


「はい! その通りです!」

「はい! すみません!」


 の二通りの返答しかしない──殺される危険が一番少ない返事なのだ──ので連れてても、


「くだらねェ」


 と、影兵衛を退屈させるばかりであるのだ。

 そんなわけで友人の九郎を引っ張りに来たのだが。


「なあ九郎よう」

「なんでこの糞寒い夜中に見回りに行かねばならんのだ。多分雪が降るぞ今晩は」


 嫌そうに断る九郎に、影兵衛はニヤつきながら彼をおびき出す情報を与える。


「拙者の見回り担当千駄ヶ谷あたりなんだがよ。ほら、新井の爺っつぁんとか雨次のガキが住んでるところ。あいつらを助けると思って、な? 一晩でいいからよ」

「うーむ……」


 九郎は若干思い悩む。

 影兵衛が観るに、九郎と言う男は身内に──それも女や子供にやたらと甘いところがある。しかし逆に知り合いの中で女子供にやたら厳しくあたり男を甘やかすなどという人物は危険か気色が悪いことこの上ないので、まあ普通の感性ではあるのだが。

 身内が危険かもしれない。一晩でいい。その二つの条件を立てれば、


「……むう、仕方あるまい。今晩だけだぞ」


 と、了承するのだ。

 影兵衛はしれっとした顔で、


「あんがとよ。ところで、その押し込み強盗なんだが火盗改の情報に依ると[荒野の残虐血肝おどろおどろ連~色とりどりの冬野菜を添えて]っつー超凶悪集団な可能性が高いンだけどよ」

「待てなにその名前。冬野菜が関係あるのか?」


 思わず尋ねるが、無視された。


「そいつらは一匹一匹が地獄から黄泉がえりし鬼の力を手に入れた剣豪並に強ェって話だから九郎も完全装備で来いよ?」

「野菜は……?」

「その一撃は山を砕き海を割り……ええとまあ多分仏とかも斬るだろ、恐らく。だって拙者だったら斬るし。精々油断せずに行こうぜ。夜になったら迎えに来るから」

「……」


 影兵衛のよくわからない忠告だったが、その日の夜に向けて九郎は仕方なく装備を準備するのだった。





 *****



 千駄ヶ谷の外れにある、小さな一軒家での事だ。

 半ば自然と一体化している雰囲気で朽ちて隙間風の多いボロ屋は雨次の住まいであった。

 その夜は珍しく──本当に珍しく普段は夜鷹をしている母が家に居た。

 雨次はどうもそれだけで居心地の悪い気分を味わっている。いつ彼女が発狂して怨嗟の声を叫び出すか、呪いの踊りを舞うかと思ったら安眠できそうになかった。

 いや、それならばまだ溜息とともに諦めきれるのだが、厄介なことにこの母は静かにしている時のほうが、得体のしれなくて、気味が悪い。


(母親なのに気味が悪いって言うのもなんだけどさ)


 ともあれ先に寝息を立ててくれなければ自分が休まるとも思えないので、寒空から溢れる月明かりを頼りに、母がどこからか拾ってきて雨次にくれてやった本を読んでいた。

 いや、読んでいたというのは正しくなく、まったく読めない外国の文字で書かれた本なので挿絵のように描かれている図形などを眺めている、というのが正しいだろう。

 蘭学に詳しい天爵堂でも読めない、価値が有るのか無いのかわからない本だ。何故そんな本を母が持っていたのかわからないが。

 縁側に繋がる戸は開け放たれて、怖気のする寒気が家の中まで入り込んでいるので、首まで布団を被っている。

 月が煌々と雲と雪に反射し照らしているとはいえ、文字はうっすら読める程度だ。雨次は目を細めてじっと読む。目が悪くなりそうな気がしたが、潰れさえしなければどうでも良い。

 少しだけ本から顔を上げて、ぼうと縁側に座って月を眺めている母を見た。

 青白い光に照らされているその姿は幽霊のようだ。そう思って、なんとなく雨次は顔を歪めて本に再び目を落とした。


(僕も似たようなものだ)


 二人は親子である事が明白である程度には顔立ちが似ていた。性差で言えば雨次が若干の女顔よりであるのだが。

 だから、母が狂っているのを見るのも、春を鬻いで生活しているのも、己の姿に重なるように見えて余計に嫌悪感を覚えるのかもしれない。

 然しながらこの母がまともに体を売って金銭を得ている想像はどうも付かないのだったが。まだ抱いている間に客を刺殺して金品を奪い生活している鬼婆だと言われたほうが、雨次は信じる。

 彼女に関しては、唯一の肉親だというのに分からないことしかない。

 積極的に理解しようとも思えないので若しかしたらずっとそうかもしれなかった。それで何かしら不都合が起きるのだろうか? 雨次は疑問に思うが、どうでもいいと頭を振る。わかるべき時に人は問題について解決するのだ。それ以外の時に答えを求めても無駄だろうと考える。

 ふと、彼女が月を見ながら口を開いた。



「月耀は晴雪の如く。

 梅花は照星の似し。

 憐れぶべし金鏡の転りて。

 庭上に玉房の馨れることを」



 詩──のように聞こえた。

 やけに綺麗な詩だ。母が独自の詩を口にするのは聞いたことがあるが、大抵は毒とか味噌とか鎖骨複雑骨折とかそういう単語が使われていたのに、この冷たい夜空に浮かぶ月を詠んだような、麗句であった。

 彼女はぎょろりと首を回して、斜めから見下ろしつつ雨次に声をかける。


「──って詩知ってるか?」

「……いや、知らないよ母さん」

「んっだよあの爺さん、こんな有名な文句も息子に教えてねえのか! 授業料の返還を要求する!」

「払ってないし」


 当然のように雨次が言う。一応生徒ではあるのだが、実質近所の物知り本好き爺さんの家に入り浸っているだけなのである。そもそも授業料など払う金が無い。

 母が指を立てながら不出来な息子に告げてくる。


「この詩はお前、みっちーの詩だよみっちーの! 雷属性に定評のある!」

「誰……?」

「みっちーがなぁ、十一歳の時初めて詠んだ漢詩なんだけどよ、どう思うよこれ」


 問いかけられて、雨次は上体を起こしながら頬を掻いて、素直に応える。


「まあ……妬ましいかなあと」


 十一の年で見事に漢詩を作れる教養が妬ましい。

 そのような教養を身につけられる、恐らく裕福である環境が嫉ましい。

 世界を綺麗に感受し美しいものを美しいと感じられる性に嫉妬を覚える。

 雨次は性根が捻くれた少年なのだ。

 母親はつまらなそうに言った。


「女々しい感想だなおい。知ってるか? 嫉妬って漢字には女って字が二つも入ってるんだわさ」

「……ふん」

「ま、おれから見ればこんな詩はおはぎに蜂蜜と粉砂糖をぶっかけたようなぽえっとした甘々な詩だ。

 十一歳なりに頑張って考えた綺麗な単語使いすぎじゃな! 月に雪に梅に星、憐れに鏡に玉と来てるぞ。それだけ使えばお前だって小奇麗なものは作れるわな」


 彼女はため息をついて、


「ま、なんだ。今日でお前も十二になるけどさ」

「え? そう──だったの?」


 雨次は自分の誕生日などは知らない。祝ったことも無いので、年齢すらだいたい幼馴染のお遊と同じでいいか、と考えていた。

 彼女は何処か疲れた眼差しを雨次に向けて、珍しく、優しそうに微笑んだ。


「まだ人生なげーんだから、妬んだことなんざお前でも実現できるって思って……くだらない嫉妬で、自分の未来を腐らせないでね」

「……母さん?」

「──ごほっ、ごほっ」


 突然、咳き込んだ。

 薄明かりのした、彼女が手で抑えた口元から、赤黒いどろりとした液体が零れたように見えた。

 

「母さん!?」

「かはっ……ちっ! 晩飯に食ったお汁粉が咳き込んだ拍子に逆流してきた!」

「紛らわしいなおい! 寒いんだから家に入ってよ!」




 *****

 




 完全装備の九郎と言っても、そう特筆すべき物はない。

 [アカシック村雨キャリバーンⅢ]を帯刀して、腰の後ろに横向けで[魔女の猟銃]をベルトで保持する。

 術符フォルダから戦闘に使える、[炎熱符]、[氷結符]、[電撃符]の三枚取り出して胸元に入れておく。フォルダから探すよりも予め出しておいたほうが一手早く使えるのだ。

 英単語を覚えるカード状の形をしたフォルダの中には他にも様々な符があるが、元々魔法の素質などまったく無い九郎は殆どの複雑な術式が使用不能なのだ。カルシウムの吸収を助ける魔法の掛かった符とかは何故か使えるのだが。

 服の内袖に百文を紐で通した貫文銭を左右に二本ずつ入れておく。投げつけるのに丁度良い形と重さをしているのである。

 首元にチョーカーの様に巻いている[相力呪符]はいつもと変わらない。

 足は草鞋や下駄ではなく、異界から持ち込んだ[コンバットブーツ+2]を履く。魔王からレアなんだよ+2は!と渡されたのだがなにがプラスされてるのか実は知らない。多分魔王も知らないだろう。謎だが、頑丈である。

 準備をしながらも、


(何と戦う事を想定してこんなことをしておるのだ、己れは)


 と、微妙にうんざりした気分が押し寄せてきたがなんとか堪えた。困難だったが、やり遂げた。少なくとも冬野菜では無いはずなのだが。

 異世界で魔女と旅をしている間は戦う事も多かったが、九郎の役目は時間稼ぎ、目眩まし、牽制、逃亡補助が主だった。

 どうしても正面から戦う場合は魔女に身体強化魔法をかけて貰い、魔王から重火器を支給されていた。最後の戦いで超戦士と化した勇者相手には終末礼装と謂う条約で禁止されかねない超武装をし援護のミサイルとか殺人ビームとか飛び交う中で時間稼ぎをしていた事を思い出す。直接当てても効かないから足場から吹っ飛ばすのがコツであった。

 

(あの時ほどは完全装備じゃないが、まあ充分であろう)

 

 そう思っていると、夕食後に店に来た影兵衛にじろじろと装備を見られて、


「おう、よしよし……けへへっ、それじゃあ行こうぜぇ!」


 上機嫌に連れて行かれる事となった。

 彼のその笑みに悪い予感を九郎は覚えつつも影兵衛と現場へ向かう。お房から、


「危なくなったら逃げるのよ」


 と、注意されて九郎は軽く手を上げて応えた。

 空には薄く雲が掛かっている。雲の上では、満月が厭に明るく輝き、雲に反射して薄明るい奇妙な夜だった。 

 小さく粉雪が俟っている。

 渋谷、千駄ヶ谷のあたりは人気も無く、夜には人口の明かりも灯っていない。

 恐らくこの辺りで夜中まで起きているのは、偏屈老人の天爵堂ぐらいではないだろうか。

 冬だから虫も鳴かぬ夜だった。

 影兵衛は珍しく饒舌に、酒とつまみの旨い料亭があっただの、近所の人が飼っている猫が子を産んだので貰っただの、日常的な話題を九郎に一方的に言って聞かせた。

 足取りは軽く、鼻歌すら聞こえる。酔っているのではないかと勘違いしてしまいたくなる。

 そうで無ければ、


(此奴……)


 九郎は彼から一間は離れて、歩いていた。 

 ふと、赤ずきんの話を思い出した。全文、子供の頃読んだ絵本の内容は浮かばなかったが。


『おばあさんのお口はなんでそんなに大きいの?』

『それはお前を食べてしまうためさ!』


 という場面があったと思う。異世界で似た童話として『レッドキャップ』という話があったが、あれは主人公の女の子が改造サイボーグ特殊部隊だったので展開が違うのだったが。噛ませ臭がプンプンする設定な主人公というのも珍しい。

 さて。

 

『影兵衛はどうして己れを完全武装にさせたのか?』


(そんなもの、此奴の殺気でわからいでか……くそ、しまった、最近遊んでばかりだから日和ったな)


 九郎は誘いに乗った己の迂闊を呪った。

 夜に、わざわざ人気のない場所で、悪党に殺されたという言い訳が簡単な状況のもと、影兵衛と二人きり。

 当たり前のように、影兵衛が言う──。


「なあ、九郎」


 その言葉は別段、いつもの呼びかけと何ら変わらない調子だったのが不気味で、九郎は足を止めて背筋を粟立たせた。

 飯に行こうぜ、とか打ちに行こうぜのような簡単な呼びかけだった。

 影兵衛は振り向き、笑みを浮かべた──犬歯を剥き出し凶悪に吊り上がった口元と、生肉を目の前にした獣の如く細められた目を笑みというなら、だが──まま、こう告げてきた。


「やらねえか」


「ほう……」


 息を吐き出し、感嘆のように応えるのが精一杯であった。

 心臓をこの寒空に放り出したように、彼の言葉には恐るべき殺人の意志が込められていた。問いかけや誘いではない。引き込む強制の言葉だ。


(此奴は今日、己れを殺すつもりだ……)


 確信を持って、思った。

 彼は聖人だろうが友人だろうが、気が向いたら殺す──いや、殺しあう。そう云う人格であった。


 風が──止まっている。音も消えた。ただ、死の気配があった。




 *****




 雨次と母は、まだ起きていた。

 多くの時間はお互いに無言で、突拍子も無く何やら語りだす母の言葉に雨次が生返事を返している。

 会話はどうでも良いことだった。

 28日後に食べる夕食の話題とか、同業の夜鷹が添い寝する相手を次々と凍死させてしまう怪事件とか、守護霊かふかふに様へ捧げる気体状の生贄とか、そんなことだ。

 眺めている本の読めない字を暗い中で目に写していると軽く頭痛と眠気も感じてきた。だんだん文字が読めるようになってくる錯覚に、雨次は目を擦って眉根を寄せる。


(ほ……ら……す? いや、矢っ張り読めない、な)


 諦めたように、本を閉じた。

 寝ながら頬杖をついて雨次はしゃべり続ける母へ意識をやる。


「お前も元服したらいい名前をつけないといけませんね。勇気の小刀か臆病の太刀、どっちを受け継ぐか決めておくとよろしゅう」

「……っていうか母さん、いつまで起きてるの?」

「馬鹿野郎! 寝たら死ぬぞ! あちきの左目に封じられし阿迦奢の真眼が疼く……!」

「初めて聞いたよそんなの……白底翳だよね……」


 片目を抑えながら大げさに言う母に呆れて突っ込む雨次。

 実際に、彼女の目は片方だけ灰白色になっているのだが……恐らくは白底翳(白内障のこと)なのだろうと雨次は見当をつけていた。

 母親は酔っ払ったように頭をぐらぐらと揺らしながらため息混じりに云う。


「今晩でさだめは途絶えた。後は誰次第なんだろうな。お前だといいんだけど……」

「……どういうこと?」

「さてな!」


 彼女は縁側から立ち上がる。

 布団に戻るのか、と雨次が見ているとそちらではなく竈に行き、まな板に突き刺していた包丁を二本引き抜いて両手に持った。

  

「母さん?」

「雨次、ちょいと物騒な誕生日祝いの客が来たぜ。お前は爺さんのところへ逃げなさい」

「何を……」


 返事しかけた時である。

 家の玄関にしている戸が蹴り破られた。

 半分ぐらい腐った木で出来ていた戸は真っ二つに折れ曲がり砕け、暗闇の中、抜身の刀を持った男たちがぬっと侵入してくるのを雨次は見た。


「なっ──!?」

「いいから逃げろ! 早く!」


 言葉を失くした雨次を急き立てる母の怒鳴り声に、一瞬侵入者たちも怯んだようだ。

 何がなんだかわからなかったが、雨次は布団から飛び出て慌てて、開けっ放しの縁側へ出た。

 そして、


「母さんも、逃げないと!」


 呼ぶ。しかし、


「わっちはこいつらの歓迎をしといてやるから、先に行きな。なあに、すぐに追いつく、さ──っだおらあああ!」


 叫んで侵入者に包丁を振り回して斬りかかった。優雅さも無い雑な動きだが、狂人のやけっぱちさが異様な迫力を出している。

 相手は使い慣れた様子の油が浮いた刀で包丁の刃を弾き防ぐ。鉄と鉄の打つかる澄んだ音がした。

 そして、再び怒鳴る。


「とっとと行け呆け茄子!!」

「でもっ」

「走れ! ぶっ殺すぞクソ息子がああああ!!」


 二本持っていたうちの片方の包丁を雨次へと激情に任せて全力で投擲した。

 思わず身構えて一瞬目を瞑る雨次だったが、包丁は彼ではなくその後ろの縁側から回りこんでいた賊の一人に当たる。刃が刺さるほどうまくは行かなかったが、肩あたりに当たってよろめいた。

 雨次は見開いた目で、玄関から入ってくる二人の兇賊と背後から回りこんできた一人を見て、


(殺される)


 そう、判断した。相手はどれも殺しに慣れた様子の賊で、体格だって良い。気狂いの女と子供では、二人共すぐさま殺されるだろう。

 逃げなくてはならない。

 

(母を置いて……?)


 走っても、足の早いわけではない雨次などはすぐに追いつかれてしまうかもしれない。

 だから彼女が暴れて気を引いているうちに逃げ出すのが一番だ。

 二人で死ぬより、一人は生き残るほうが賢い選択である。

 それに母と言っても、一緒に暮らしているだけで尊敬も出来ず愛情がお互いにあるのか怪しい女だ。

 一度ならず毒を盛り殺そうとしたこともある。

 見捨てるわけではない。彼女も早く行けと命令している。何を躊躇うものか。


「この阿婆擦れが!」

「っつう──!」


 包丁を振り回す母の顔面を賊の一人が殴りつけた。

 もう一人がせせら笑いながら、


「おいおい、顔はやめとけ。後で楽しむ時に萎える」

「悪趣味なくせによく云うぜ」

「クッソがあ……」


 左目が潰れたようにぐしゃぐしゃになった彼女は距離を取りながら、未だ逃げ出さない雨次を見て、苛立たしげに──そして、殴られた痛みからか、怒り顔のままぼろぼろと涙を流しつつ言った。


「お願いだから、逃げて……」


 雨次は己の魂に黒々とした淀みが滲んだ気がした。

 そして、母から怒鳴られたり命令されたりするのはいつもだが──お願いされたのは初めてだと場違いながら思った。

 すると体は、縁側に回った賊の脇をすり抜けて外に飛び出し、走りだしていた。

 冷えた足の裏に細かい石や砂利が突き刺さる。

 後ろから何か聞こえた気がしたが、雨次は駆けた。

 

(急いで助けを呼ばないと……)


 己では何も出来ない。盗賊どころか同年代と喧嘩をしても勝てる気はしないただのひ弱な餓鬼なのだ。

 自分が助かり、母を助ける方法として一番確実なのはあの場から逃げ出して、天爵堂や九郎などの強い大人を呼んでくることしか出来ない。

 母を助ける。

 刀を持った兇賊三人に囲まれた母が、これから助かるような結末になるだろうか。

 

(なんで……)


 雨次は自分を含めて人間などくだらないと思っていた。

 特に母が嫌いだった。毎晩知らない男と寝て日銭を稼ぎ、家では狂い暴言と暴力を振るい、そしてその姿がどうしようもなく自分に似ていた為に吐くほどに厭な相手だった。

 本当に狂っていて、どうしようもないクズなのだと思えれば絶望はしたが納得はしたのだったが──時折見せる優しさが余計に気分を悪くさせた。

 しかしきっと彼女のことは理解する事も、分かり合う事も無いのだろうと思って諦めていたのだが。

 

『ん? どうしたのアマジ。名前の由来? ははは、そうだな。お前の名前は[雨次]って漢字で書くんだ。意味はな、雨の次には必ず晴れるだろ? だからなんか悪いことがあっても、次は良いことがあると思って生きるんだぞ』


 昔に言われた事を思い出しながら、


(僕は……あの人の名前さえ知らないのに……!)


 二度と教えてもらう機会すら失おうとしている状況の元、足から血を流しながら雨次はひたすらに奔った。




 *****


 

 

 九郎と影兵衛の間には無目的の決闘が始まろうとしていた。

 お互いにどのような結果になろうとも得るものは何もない。

 単に、影兵衛が殺し合いをしたいという性癖に従って命のやり取りを始めようとしているだけなのだ。

 ただそれだけなのである。

 伺うように、ニヤついて影兵衛は云う。


「逃げねえの?」


 九郎は険しい顔のまま、断定的に応えた。


「己れが断ろうとするとお主が脅迫してくる内容が四つばかり思いつくのでな。一々問答をするのも時間の無駄だ」

「おいおい、九郎手前陰険な考えしてるな。拙者ァそんなに沢山悪巧みはしてねえって。ただ、断ったら手前のお友達を片っ端から斬るがな」

「わかってるから喋るなと言っている。間抜けめ」


 二人は対峙し睨み合う。

 此奴を退治しなくてはならない、今ここで。九郎はそう決心をする。

 友達付き合いだったが、いつかは殺しに来る相手だとわかっていた。友情や金、義理などで絆されず、殺し合いたいからやるという単純な動機だから厄介だ。


「さて、それじゃあサクッと──」


 影兵衛が、す、と組んでいた両手をだらりと垂らした時であった。

 途切れそうな吐息が聞こえた。

 続けて、痛々しい足音だ。足の裏の皮がズル剥けになり血まみれになっている為に液体の音が混じっている。

 二人のところへ走って現れたのは、雨次だった。

 驚いたのは九郎だ。尋常ならざるその様子に、慌てて駆け寄る。


「雨次っ!? お主、どうしたのだ!?」


 走り続けて酸欠になっているのか、喘ぎながら必死に彼は応える。


「九郎、さん、うちに、賊が……! 母さんが!」

「わかったっ!」


 その言葉だけで察し、顔色を変えた。

 元々はその賊を取り締まるために見回りに来ていたのだ。確かに、知り合いの家が襲われるかも知れぬと思って参加したのだが、まさにこの夜に事件が起こってしまったのである。


「影兵衛、用事は後にしろ! 己れはすぐに向かう!」


 言って、九郎は雨次の来た道を全力で駆け出した。

 体が完全に成長していない為に歩幅が小さいが、脚力が体重に比例せずに強力な九郎が全力で走れば地面を蹴って飛んでいる早さだ。雨次の倍以上も疾く夜道を切り裂いて進む。

 彼の後ろ姿を地面にへたり込んだまま見送った雨次に、影兵衛が屈んで低い声で話しかける。


「おい、坊主。手前、母ちゃん置いて逃げてきたのか」


 その言葉に、ぐ、と彼は両手を握りこみながら俯き肯定する。


「僕があそこに居ても、殺されるだけだったんだ」

「そうかよ」

「母さんからも、逃げろって言われて……」

「ははあ」

「初めて、お願いされて……! 僕は弱いから、逃げて、誰か呼んでくるぐらいしか……!」


 涙声になりながら嗚咽と共に言葉を吐き出す雨次の頭を掴んで、影兵衛は上を向かせた。

 やくざ者も悪党も怯えるような苛ついた顔で、額をぶつけるように当てて声を低く怒鳴る。

 腹が立っていたのだ。 

 勝負に水を差されたことではなく、別の何かに。


「ガキが小賢しい答え返してるんじゃねえよ。母ちゃんに言われたじゃなくて、自分でどうしたいか決めろ。手前が本当にやりたかったこたァなんだ」

 

 雨次は、泣いて、半開きにした口をひくひくと動かせながら声を絞り出す。



「本当は、僕が、お母さんを助けたかったんだ……!」



「決められるじゃねえか。おい、後は行動だ。背中乗れ」


 くしゃくしゃと雨次の頭を掻き回して、影兵衛は彼を背負い立ち上がった。


「この先にある家だな? 目ぇ瞑ってろ」

「え?」

「拙者の超神速歩法は極秘なんだよ。目ェ開けたら殺す」


 そう告げて、影兵衛はぐ、と身を低くして両足に力を込めた。慌てて雨次も、言われたとおりに目を瞑る。

 戦闘時に使用する、一歩目から最大速度を出しつつ限界以上の特殊な加速術を連続で行う技だ。詳細を記すことは殺害されかねない為に伏せる。

 

「奥義──[白笹鼓]」


 恐るべき速度で、雨次を背負った影兵衛もその場から消え失せた。


 


 *****




 雨次の家は村の外れにぽつんとあるからすぐにわかった。

 一度九郎も、行き倒れした雨次を送っていったことがある。外に比べて屋根があるだけマシな環境だと感想が浮かんだ。

 近づくと、僅かに血の臭いがした。

 中に人の気配がする。木の軋む音。小さな水音。呼吸。

 九郎は音も立てずに壊れたままの戸から中に飛び込んだ。

 男が三人。一人は壁に寄りかかり九郎──というよりも玄関をじっと見ていた。もう一人は座り込んで家にあった酒を勝手に飲んでいる。

 三人目は、女に覆いかぶさっていた。

 ぐったりとした女は片方の手首から先が無い。くろぐろとした血が床に溢れ、腹には虫を刺し止めるように刀が生えて床に縫い付けられていた。

 ……生きているかもわからぬ。


「外道が」


 見張りの一人が声を出す前に九郎は迷わず踏み込んだ。

 女に覆い被さっている男の脇腹に超硬樹脂製コンバットブーツの爪先を叩き込んだ。ばん、と激しい音を立てて肉と骨の抵抗を突き破り男の重要な内臓を幾つか破壊して女の上から吹き飛ばす。即死こそしなかったが、致命傷だ。

 反応が返ってくるよりも早く、抜き放った刀で酒を飲んで眺めていた男を肩から袈裟懸けにし、二つに分離させた。

 もう一人のやや離れた男に銃を向けると、仲間を見捨てて既に縁側へ向かって逃げていくところだったが、


「あれェ? 手前逃げちまうの? なんだよもっと根性見せろよ切りたいから農家へ押し込みなんてやってんだろ?」


 ゆらりと、九郎より後に走りだした筈の影兵衛が現れて道を塞いだ。

 彼は抜身の刀を軽く担ぎながら、


「さあ、海を割ったり山を砕いたりお釈迦様を殺したりしてみろ。おじさん超喜ぶからさあ」

「う、うう、おのれ!」

「出来ねえならつまらんから死ね」


 混乱しきって思わず斬りかかった賊の一人だったが、近づいた瞬間当たり前のように首を刎ねられ、外に体と頭を蹴り落とされた。

 九郎はとりあえず影兵衛より、倒れている女性へ視線を下ろした。

 顔は殴られて左目が潰れ、右手首は切り落とされて左手は無残に折られている。暴行により衣服は乱れ、腹や太腿には殴られた跡が痛々しく残り、また刀で刺されている。

 刀の刺し傷から血がまだ漏れているのを見て、九郎は近くにあった手ぬぐいを持ってきて刀を抜き取り布を重ねて帯で縛る。手首の切断面も布を被せて縛って血止めをするが、


(これは……助からぬであろうな……)


 まだ心臓は動いているものの、大量の失血にこの怪我だ。今すぐに病院に搬送できる環境でも助かるかわからない様体であった。この時代、この場所では……

 影兵衛が近づく足音が聞こえた。

 彼の背中から、雨次が飛び降りて母の体に縋りつく。


「かあ、さん……」

 

 ぞっとするほど生気が無い母親は、触っても目覚めなかった。

 影兵衛が雨次に声をかける。


「雨次。手前、まだやることがあるんじゃねえか?」

「え……?」


 影兵衛はそう言うと、九郎が蹴り飛ばして死にかけている、下半身裸の賊の襟元を引っ張って床に放り投げた。

 そして、男の使っていた刀を床に突き立てる。


「母ちゃんはもう助からねえ。手前の選択の結果だ。だが手前が悪いわけじゃねえな。誰が母ちゃんをズタボロに殴りながら犯しまくって殺したんだ? おっと! こいつじゃんかよ! こ、い、つ!」


 わかりやすく戯けて、倒れたままの男を指さし、にやりと笑った。


「今なら、仇が取れっぞ」

「おい影兵衛。何も雨次が手をかけるまでもあるまい。其奴もそのうち死ぬ。己れが殺した」

「だがまだ生きてる。おい急げよ雨次。急がねえと永遠に仇が取れなくなるぜ~」


 囃し立てる影兵衛の襟元を掴んで、九郎は声を荒立てた。


「一々子供に殺しをさせずとも良い! こんな腐れ悪党を斬り殺したところで、嫌な感触が手に残るだけだ!」

「手前が決めんじゃねえよ! 仇なら憎いだろうが! 憎けりゃ殺すしかねえよなあ!」

「殺しなど経験させずとも人は生きていける! お主のはただの悪趣味だ!!」

「いいか? 九郎。殺すべき相手を殺せなかった奴。死ぬべき時に死ねなかった奴がその後どんな人生を送れるってんだ? つまらねえくだらねえ、後悔して何にも価値も見いだせずクソみてえな一生を送らせたいのか?」

「そんなもん皆我慢して生きておるのだ。普通にな! 子供の為の未来だろうが!」


 意見の異なる二人は言い合うが、雨次は幽鬼のように立ち上がって、刀を手にし賊の前に立った。

 息は荒く、手は震えている。顔は怒りや憤りよりも、何か別の覚悟が見て取れた。

 九郎が止めようとするが、影兵衛が九郎の手を取って制止する。


「あいつの選んだ選択だ」

「子供の凶行を止めるのは大人の仕事だ」

「手前はあいつの親か? 違ェよな。拙者らは他人だ。あいつは己の意志で仇を打つ。やりたくなけりゃ刀を下ろす。それだけだ。他人の可能性を潰すな」

「……」


 そこまで言われては、九郎も黙って雨次を見守った。

 影兵衛の台詞を反芻し、己に対しても嫌な記憶が蘇ったのだろうか、渋面を作っている。

 

「は……ああ……」


 震える手で刀を抑えるように持っている。

 呻いている賊から目は離さず、全身から嫌な汗を雨次は掻いていた。

 何がしたいのか本人にもわからない。

 怒りに任せて刀を叩きつけられたらまだ良かった。それをする熱が体から湧いてこなかった。

 殺して何になるのか、まったく理解できないが。

 頭ではなく、魂が呪いの言葉を吐き続けていた。

 殺せと。

 だから雨次は理屈ではなく、それに従う事にした。


「やるなら叫ぶといいぜ。叫べるのは、生きてる奴だけだからな」


 影兵衛の言葉が聞こえた。

 

 そして、少年は刀を思いっきり振りかぶり、あ、と叫びながら全力で振り下ろす。


 硬い刃は賊の首に刀身の半ばに当たって切れて、肉を突き破って重要な血管を切り裂き、首の骨を叩き壊すように荒々しく貫き、三分のニほど首に食い込んだあたりで刀身の尖端が床に刺さり刀の勢いを止めた。

 両断するには至らなかったが、千切れかかったような首から血が沸き立つ。

 殺した。


「よ~し良くやった!」


 影兵衛が喜んで雨次に近寄った。

 

「最初に頭狙いで行くと頭蓋骨に弾かれて自分の足とか切っちまう奴いるけど、上々じゃねえか。よっと」


 軽く雨次の手から刀を受け取り、ひょいと男の首を落として胴体と頭を手にする。

 彼は九郎へ視線をやって、


「おい九郎も、その甲乙に分かれてる死体持って外に出っぞ。雨次、手前はせめて最期まで、母ちゃんの側で自慢してろ。ちゃんと助けに来たって。仇は取ったってよ」

「……はい」


 雨次は小さく返事をして、再び倒れていまにも死にそうに眠る母親の側に座り込んだ。

 九郎は不意打ちで真っ二つにした男を引っ掴み、血がなるべく付かないように引きずって外に持っていく。

 一人、いや二人家に残された雨次は冷たい母の残った手を握った。


 周囲に散らばった血の中に、今晩眺めていた読めない本が開かれて落ちている……



 *****



 雨次の家から少し離れた場所。

 影兵衛が待っていた。

 

「さって。じゃあ続きをすっか」

「……ああ。それは忘れないんだな」


 殺し合いが再開されるのだ。九郎はさり気ない仕草で死体を放り落としつつも布石として氷結符を発動させて設置した。

 再度、向き合う。

 己と身内を守るためには対峙し退治しなければならない相手だ。

 逃げられない強制的な流れがある。だから、最早影兵衛を倒す事だけを考えた。


 冷たく乾いた風が流れた。


 動いたのは九郎が先だ。全力を使い後ろ方向へ飛びつつ、腰から銃を取り出して構える。

 照準より先に影兵衛の両手が向けられていた。

  

「行けよ! 小柄ァ!」


 彼の得意とする投剣だ。余人の投げるものではない。小刀と侮れず、骨まで突き通る威力を持つ。

 正確な軌道で二本。九郎の胸と腹へ飛来してくる。手足などの末端部分を狙われたのならば躱すのは容易だが、後ろに下がりつつあるこの状況では回避は困難だ。

 九郎は躊躇わず魔女の猟銃を小柄へ射撃する。銃身を切り詰めた散弾銃の形をしたこの銃は、非実体弾の呪いを銃身から放射状に吐き出す。

 うまい具合に二つの小柄を力場で巻き込んで弾き飛ばした呪いの投射が、影兵衛が居た場所へ向かうのだが──既に彼は移動していた。その代わりに軽く積もっていた雪が蹴って巻き上げられている。

 ば、と軽い音を立てて巻き上げられた雪に穴が開く。

 九郎は横に避けていた影兵衛の表情を見て悟った。


「弾の拡散範囲を見切ったか、今ので」

 

 再び闇に線引くように投げ放たれた小柄が向かう。

 九郎は素早く銃をポンプアクションして次射の用意を行いつつ、飛来した小柄を銃身で払うようにして叩き落とした。

 特別に頑丈というわけではないが、人間が投げた小型刃物程度ならば受け止める強度がある。

 そして改めて影兵衛に狙いを正確に付けて、射撃。悲鳴めいた銃声が上がる。


「あらよっと!」


 なんでもない事のように、影兵衛は放射する呪いの銃弾から回避する。

 続けて射撃を行うが、これも避けられつつ影兵衛は間合いを詰めてくる。 

 魔女の猟銃の欠点は弾速の遅さだ。呪いの悲鳴によって齎される破壊なので、亜音速にしかならない。

 

(いや、普通の人間なら亜音速弾でも避けられぬのだが……)


 影兵衛が普通である筈がない。笑いながら避け続けている。


「こっちからも行くぜェ!」

 

 再び小柄が頭狙いで投げられた。避けるか。一瞬悩み、撃ち落とすことにした。小柄に巻かれた半透明のてぐすが見えたからだ。

 つまりその一瞬、九郎は上段に来る小柄に意識を取られて下段に投げられた物を見落とした。

 闇夜に溶け込む黒塗りの十手が足を目掛けて投擲されていたのだ。

 

「──っ!」


 当たる僅か手前でそれに気づき、咄嗟に足で蹴り上げる。直撃したら肉が貫通しそうな程の勢いが十手にはついていた。 

 影兵衛は九郎の目の前に蹴って弾かれた十手を見て、


「まだ生きてんだよォ!」


 叫び、投げる時手に持ったままだった十手の柄に付けられた捕縄──これも黒塗りだ──を操ると絡みつく蔓草のように九郎の手元、魔女の猟銃の銃身に巻き付いた。

 そして引っ張り、銃口を影兵衛から逸らされと同時に九郎は銃を手放し、身を低くしてその場から飛び退いた。

 九郎が退避した瞬間、間合いを刹那に詰めてきた影兵衛の白刃が空間を切り裂いて魔女の猟銃を二つに切り割った。


「やっぱ勝負は切った張ったでねえと──殺し甲斐がねえよな? きひひっ」

「そうかえ」


 九郎も警戒しつつアカシック村雨キャリバーンⅢを抜き放ち、構える。

 影兵衛を相手にする際の戦略、安全性を考慮した第一の遠距離から射殺作戦は失敗したがまだ勝算はある。

 江戸に来てから殆ど刃を抜いて使われることのなかった刀だが、特殊な能力が秘められている。一つは刀身から溢れ出る凄いと感じる力。見たものの目を奪い隙を誘う。

 もう一つは刃から発せる凄い切れ味。凄いという概念が付与されているのでそれはもう凄い。鉄だろうがタングステンだろうが豆腐の様に切れる。通常の刀など撃ちあっただけで真っ二つにしてしまうだろう。

 影兵衛も抜いた九郎の刀を見て、絶頂の表情を浮かべている。


「凄ェな。おいおいおいおい、凄くねーか? やばくねェか!? 殺してぇ。凄ェこんなに殺したい気持ちは初めてだ! ありがとうな九郎手前は最高のお友達だ! 絶対ェ殺してやっからなァ! うぇひひひははははかかか!!」

「逆効果すぎる」


 普通の感性ならば[凄い]と気圧されるとか、崇敬の感情を覚えるとか、気を引くなどの効果があるのだがあからさまに好戦的になる相手は初めてだ。

 九郎は正眼に刀を構えて、興奮している影兵衛に向かって間合いを詰めた。

 胴を払う攻撃だ。影兵衛の刀より一尺は長い為に彼の反撃が繰り出されても躱せるぎりぎりの位置で払う。

 敢えてわかりやすく打ち込む一撃を、狙い通り影兵衛は己の刀で受け止める動きを見せた。

 だが、打ち合えば通常の刀など一瞬で──、そう思った。

 刀が交差して閃光火花が闇夜に光った。

 九郎の一撃は真っ向から弾かれて影兵衛の平突きが返ってくる。慌てて身を捩るが肩を掠めた。

 突きで伸ばしたままの刀を軽く引いて、そのまま首を薙ぎ払ってくる。九郎は己の村雨で受け止める。酷く重い攻撃だった。

 影兵衛の刀は切断されていない。


(──っ! あやつの刀から生み出されている切断の威力がこの刀の凄い概念と食い合って、効果を打ち消しているのか……!)


 彼の刀に特別な魔術が掛かっているわけでも、伝説の名刀というわけでもない。

 ただ、[切り裂き]の同心が扱う刃はその技量と業前からありえない切れ味を生み出し、超常的な現象と化しているのだ。

 ぎりぎりと鍔迫り合いをしながら九郎は苦しげに云う。


「ちょっとお主、人間辞めすぎなんじゃなかろうか……!」

「知らねえし、興味も無え──よォ!」

「がっふ……!」


 鍔迫り合いの体勢から即座に柔術の如く力を逸して捻り、九郎の脇腹に蹴りを入れる。

 蹴りを刀から離した片腕で受け止める。骨が軋み、体ごと吹き飛ばされる衝撃を地面を二三回バウンドしつつ受け殺して立ち上がる。

 追撃で追いかけてきた影兵衛が逆袈裟の斬撃を放ってくる。九郎は背後に己の胴回りよりも太い樹木があったために、転げるようにそれの後ろに回り込んだ。

 刀が木に突き刺さって止まるようなことはなかった。いとも容易く彼の攻撃は木幹を両断する。九郎はぎりぎりで避けていたが、断ち切られた木の上部を蹴り飛ばして影兵衛の方へ倒した。

 お互いの視界が遮られている。影兵衛は九郎の刀の気配に従って追いかけようとしたが、迷わず全力で遠ざかった九郎からは少し遅れた。

 影兵衛から距離を開けつつ胸元から術符を取り出して、放った。


「──発雷!」


 [電撃符]の高出力発動で発生する、指向性のある魔法の雷だ。一億ボルトの稲妻がジグザグに軌道を描きながら影兵衛へと放たれた。

 早さは銃の比ではない。光ったと思った瞬間着弾するのが雷の魔法だ。即座に影兵衛の体を焼きつくすだろう。威力に手加減が利かない為に使用を控えていたのだが、それどころではない。


 切り払われた。

 

「はあ!?」


 九郎が盛大に驚く番だった。影兵衛は地面に刀を突き刺して凶悪な顔を浮かべている。


「奥義[金龍稲花]──自画自賛じゃねえけどよ、ちょいと凄ェだろ」

「待て、なんで雷が刀で切れるのだ」

「あァん? つーかもう雷ぐれえ百年以上前に切った武将が居るだろ。じゃあ拙者にも切れねえ道理はねえ。さあ次は何を出すんだ!? 流れ星でも降らせてみやがれ! 斬るからよーう! くかかかかか!!」


 心底楽しそうに笑い声をあげる影兵衛に九郎はかなりマジで引いた。どういう技かは雷光で見えなかったのだが。

 本当に目の前の男が人間か怪しくなってくる。魔人か何かじゃないだろうか。

 す、と彼が刀を腰に収めた。


「──行くぜ」


 まずい、と九郎は判断する。刀を鞘に収めたのは、納刀時の方が動きの制限が無くなるからだ。そして、影兵衛は剣先を鞘に引っ掛けるようにして速度を上げた抜刀斬撃を、急速に接近して放ってくる技を警戒した。

 以前、仇討ちを挑む兄弟の助太刀をした時に見たことのある処刑技──[吟華千輪]という。

 瞬時に必殺の間合いに入ってくるのは足捌きもあるが、人間というものは意識の連続性を保つためにあらゆる行動の繋ぎ目に、32分の1秒だけ無意識になる瞬間がある。大抵は一瞬なので何の問題もなく、続けていた行動を行うのだが──

 影兵衛のその技は、その意識の空隙を突き認識不能のまま接近するのである。実に不可解な技だが、彼には可能だ。


「このデスザムライが!」


 影兵衛が消えたと認識した瞬間に九郎は刀を構えて前に飛び出た。待ち受けては完全にタイミングを読まれて斬り殺される為に、こちらから接近しなければならない。

 薄影のように消えていた男が目の前に出現して、居合抜刀を放ってきた。

 反応が僅かに遅れて脇腹に薄く食い込むが、受け止めて弾く。


「そうこなくちゃあ楽しくねえよなあ!」

「言ってろ!」


 反射神経と腕力に任せて九郎から攻撃を放つがやはり受け止め、いなされて体勢を崩しかけるが無理やり膂力で耐える。

 剣の技量は比べるべくもなく、九郎が劣っている。いくら力で勝ろうとも埋め難い差だ。

 影兵衛が攻撃の意志を見せただけで常人ならば卒倒しそうな悍しさを背中に感じつつ、九郎は勘と目で必死に避けきる。斬り込まれたかと思えば軌道が急に変化し、剣で防御しようとすれば突きが顔を掠める。どのような攻撃か把握するだけで死ぬほど苦労する。

 牽制ですら必殺と思い受けなければ死ぬ。

 

「どうした九郎ォ!? イカサマでも妖術でも使っていいんだぜェ!?」

「やかましい!」


 叫びながら戦う影兵衛。呼吸を見て攻撃を先読みできる──かもしれない為に少しでも避けるヒントになりそうなものは全て見て回避の糧にした。

 剣を交差し、火花を散らす。影兵衛の死神の舞踏めいた無数の剣刃は九郎の体に細かい傷をつけ続ける。

 一方で九郎の攻撃も受け流されているとはいえ、豪力によって振るわれるそれは流すにも大きな力が必要で影兵衛の腕への負担へとなっていた。

 影兵衛は歓喜する。なにせ、九郎が死なない。殺す気で振るう刃の前で死なない相手は貴重で希少だ。


「手前みたいなやつを拙者ァ待ってたんだ!」

「一生待ち続けてろ!」


 鍔迫り合いの一瞬で九郎が影兵衛の刀を握る手首を掴んで投げ飛ばそうと力を込めた。

 その力を影兵衛の柔で逆に利用されて体重の軽い九郎が地面に叩きつけられる。

 突き刺す動きで九郎の顔面に刀を落とすが間一髪で避けてこちらの足元を刈ってくるので飛び退いて避けた。

 やや離れた間合いで再び対峙する。影兵衛は刀を担ぎながら笑みを浮かべて気軽に問いかけてくる。


「知ってるか? 世の中には二種類の人間が居る」

「眼鏡とそれ以外であろう」

「いや、違ぇ。っていうか知り合いで眼鏡って石燕の姉ちゃんしか居──」

「アカシック村雨キャリバーンⅢ発動」


 相手にツッコミの合いの手を入れさせた瞬間に不意打ちで剣の凄い概念を上位発動させる。

 光を伴う衝撃波を前方広範囲に放ち爆発させる能力である。

 威力は状況によって異なるが、対人から対竜までとにかく眼前の敵を吹き飛ばす効果がある。


 切り払われた。


 影兵衛は少し呆れた口調で、云う。


「話の途中だ」


 いいか? と前置きして続けるので九郎も頷いた。どうしようとかなりマジで悩みつつ。


「一つはくだらねえ奴だ。生きていても意味のねえ、ただ心臓が動いてるから仕方なく生きてます、世間の流れに乗って社会に馴染んでますって感じのナマモノだ。

 そいつが死のうが何の価値もねえ。拙者が斬り殺してきたのは全部これだ。もしかしたら拙者含めて人間全部これなんじゃねえのって疑わしくなっていた」

「……」

「もう一つは──くだる、くだらねえ関係なく生きてる奴だ。地図も明かりも道標もねえ場所を疑いもなく進んで正しい結果を引き寄せる。

 何故か知らんが成功する。そいつを中心に世界が動いてる。そんなお伽噺の一寸法師や桃太郎みてェな人間。居ると思うか?」

「そんな奴が居ると信じているのは狂人か阿呆だ」


 きっぱりと云うが、影兵衛は笑みを濃くする。


「もし、居たらとしたらだ。拙者ァそいつを殺してみてェって憧れてんだよ」

「何故だ」

「だってよ、そんな世界の中心の主人公様を殺したらこの世界はどうなる? 終わるのか? 無くなっちまうのか? それはこの世界全部を斬るに等しい行為なんじゃねえかって考えたら、ガキの頃からわくわくしてよ」

「無くならんし、終わらん。この世界は作られた物語などではないからな。そして」


 九郎は影兵衛を睥睨しながら告げる。


「欲しかったものを取り零して、腐って生きている己れは、ただの人間だよ。お主も、物騒なだけのただの子供だ」


「……そうかよ。まあ、斬ってみればわかる。

 

 ──くだらねェならここで死ね」


 影兵衛は構えを変えた。九郎は指先から心臓の奥まで細胞全てが危険察知したのを感じる。

 気配が変わった。

 彼は笑みを止めて無表情になり、目を細めて云う。


「それじゃあ、そろそろマジ殺しの時間だ」

「……ちなみに今までのは?」

「楽しいお喋りの時間」

「……」


 九郎の脳内に悲報が流れた。ほぼ完封されてた状態の影兵衛はまだ全然本気ではなかったらしい。

 武器は殆ど使い、無効化された。


(いや、まだある)


 九郎は唾を吐き捨てる。地面に落ちる前に中空で凍って礫となった。

 必要な時間は稼いだ。影兵衛の本気に立ち向かうか、或いは彼が本気になる前の今仕掛けるか。賭けに出るには今しかないので、やると九郎は決めた。

 

「なあ影兵衛。お主の技は大したものだが──お返しに己れも奥義を見せてやろう」

「ほう。そいつァ楽しみだ」


 少し影兵衛の雰囲気が和らいだので、九郎はまず安堵する。九郎の方から技を出すと宣言すればこの男はとりあえず受けてみようと思う可能性が高いと判断して提案したのだ。

 九郎は腰に差していた刀の鞘を外し、アカシック村雨キャリバーンⅢの柄に組み合わせる。剣の形が長巻に似た状態になった。

 そして鞘に[炎熱符]を巻きつけて、発動させた。

 ぼう、と術者である九郎を焼かない炎が、刀身全体を包んで夜闇に明るく輝いた。

 影兵衛は新しい玩具を見つけたように喜色を見せている。

 九郎は絞りだすように技の名前を唱えた。


「────双刃神爆炎剣・極式」


 轟、と燃え盛る炎の双刃剣をその場で回転させ、灼熱色の渦を巻き目を引いた。

 ここからどんな技が、と影兵衛が身構えた瞬間である。炎の嵐の中心になっている双刃神爆炎剣から二つの投擲物がぼ、と炎の壁を突き破って飛来してきた。  

 それは九郎が両袖に仕込んでいた貫銭だ。貫紐が火で消し炭に成りかけたそれは空中で解けて散弾のように影兵衛に襲いかかる。

 不意打ちで投げつけられた銭を右手に持った刀で右から左に一閃──いや、投げられた銭が届く前に目にも留まらぬ返す刀をもう一閃し散弾を打ち払った。

 

(奥義はどうした……?)


 真逆これが、とは思えない影兵衛は炎の渦となっている剣へと意識を再度向けるが──

 剣を九郎は握っていなかった。空中に放り投げた剣が、まだ落ちていない。炎の大きさで誤魔化されている。ただそれだけだ。

 九郎は銭を投げたと同時に剣から手を離して身を低くし、影兵衛が刀を握る右側へ飛び出して高速で接近していった。

 夜の中、突然煌々と照らす炎を注視していた影兵衛は見逃したのだ。

 最初から奥義など存在はしない。適当に名前を付けた目眩ましだ。銭投げも意識を逸らす為のものである。敢えて燃える剣を投げなかったのは、受け止められる可能性が高かったからだ。


(一手でも読み違えれば死ぬ。だがやると決めた)


 九郎と云う男は平凡ではないかもしれないが、強さに恵まれたわけではない。技も力も能力も、極まっているわけではなく強い者など他に幾らでも居る。

 それらに恵まれた強者に勝つには不意を突くしか無い。そして多少騙し打ちを仕掛けてもどうしようもない影兵衛のような男と戦うには、こうなれば未来を読むぐらいしか無い。

 しかし九郎には未来を読む力ないどない。だから、予想した。

 九郎がどういう攻撃を仕掛ければ最良の対処を仕掛けてくるか、自分がやられたら負ける方法を予め想像して、それの一手上を行く作戦を練った。それらを相手が確実にやると前提して、迷いなく実行する必要があった。

 更に予め仕込んでおいた、影兵衛の能力を低下させる罠も効果を発揮する頃だ。氷結符によって周囲の気温は、吐いた唾が凍るほどになっていた。

 九郎はつい先程まで炎熱符を自分の体に使っていたので問題無いが、戦いを続けて汗を少なからず掻いていた影兵衛はそれが薄く凍って急速に体力を減らし、体中の動きがぎこちなく、認識力も普段より低くなっている。

  

 目眩ましの炎と銭投げをした九郎が悪夢のような速度で己に接近してくる事に影兵衛が気づいたのは既に間合いに入った時だった。寒さで知覚が遅れた。

 九郎は素手だ。彼の左手方向に振り上げられた影兵衛の刀が、九郎に向かって振り下ろされる。

 これまでに比べて精細に欠けた一撃である。自覚した寒さによる体力の低下が関係しているのだろう。

 剣が九郎の体を両断する加速を得る前に、九郎は敢えて自らの左手を刃に殴りつける様にぶち当てた。

 影兵衛の剣は手の骨程度ならば小枝同然に切り割る。

 だが、九郎が角度を計算して刀に打ち込んだ軌道では、刃が前腕の尺骨と橈骨の二本の骨を縦に食い込むようにした。

 影兵衛の剣も既に弱っている上に殆ど振りかぶられても居ない状態で受けた。腕の骨二本という肉に包まれた頑健で強固な物質と、横ならまだしも縦にならば切れまい。更に貫文銭ももう一本袖に仕込んである。


 切れた。


 腕が魚を下ろすように綺麗に骨から縦に真っ二つであった。弱っていたのは確かだが九郎の予想以上の威力であった。百枚重なった貫文銭も余裕でぶった切られた。

 だから、それから起こったことは予定に無いただの偶然だ。

 九郎の腕にてそれでも僅かに勢いを殺された刀はそのまま九郎の頭を軌道に捉えていたのだが、その時九郎は力を込める為に歯を食い絞めた。その隙間に刃が旨い角度で入り込み、九郎の全力の顎の力によって影兵衛の刀は砕け散ったのだ。

 影兵衛から見ると咄嗟に口で受け止めた脅威の技であり、九郎からすれば痛みが伝わるより早く、何故か急に口の中に刃の破片が飛び散るわ口の両端が切れるわで混乱しかけたが、予め決めた手順どおりに進む。


 殴り拳を引く動きで手首の力を使い、右手の袖に入れて持っていた貫文銭を影兵衛の脇差しを抜きかけていた左手に投げつける。刀を失ったぐらいではこの男は怯まないし、この距離からでも脇差しでの抜き打ちで殺すぐらいはする。

 近距離から痛打された影兵衛の手が止まる。

 九郎は引いた拳を振るった。当たる直前に、先ほど投げた貫文銭がまだ宙に残っているので回収して握りこむ。ただ殴り拳を固めるより、何かを握ったほうが威力は上がる。

 

 九郎の全力打撃は影兵衛の胸元へ入った。べきべきと肋骨をへし折る感触がするが、九郎は焦る。


(軽い……!)


 僅かに影兵衛が早く上体を後ろに逸し、自ら転ぶようにして威力を殺している。それでも骨ぐらいはへし折っているが、致命打にはなっていない。

 更に転ぶ動きに合わせて、九郎の腹に猛烈な蹴りが文字通り突き刺さった。肉が裂けて血が出る感触を覚える。

 

「この」


 九郎は意地で更に踏み込んだ。

 再び拳を握り、笑みを浮かべながら倒れていく影兵衛の顔面に、


「迷惑野郎があああああ!!」


 思いっきり、ぶん殴った。

 上から打ち下ろす打撃を受けて、地面に頭から叩きつけられる影兵衛。

 もはや、動くことはなかった。

 

「はあ、はあ……ぐっ」

 

 九郎は握りこぶしを解いて、血が滲み出した腹に手を入れて差し込まれた刃物を引き抜く。

 十字手裏剣であった。

 影兵衛が足に仕込んでいたのを蹴りと同時に打ち込んできたのだ。


「そこまで……はあ、殺したいか……うう」


 やられる一瞬前まで相手を殺すことだけを考えて行動した[切り裂き]同心。

 恐るべき魔人は仰向けで倒れているが、潰れた顔には満足気な笑みが浮かんでいた。

 九郎はびちゃびちゃと縦に割られた左手から出る血に顔を青くしている。血もまた、外気を浴びると凍りついていく。


「はあ……いかん、氷結符を止めねば……はあ……」


 体を引き摺るように動かして、なんとか術符の側まで行って回収し強烈な寒さ停止させる。しかし、下がった気温はすぐには元に戻らない。

 血が溢れ出る。体が徐々に動かなくなる気配に、九郎は息が荒くなる。


「はあ、はあ、手を、縛って……ぐっ、くそ、血を流しすぎた……はあ、はあ」


 服を破り裂いた布で割れた手を縛り付ける。繋がっているだけマシかもしれない。布はすぐに赤色に染み、血は凍るように冷えて傷んだ。

 九郎もとうとうその場に座り込んでしまう。

 体力も限界だった。頭が酒を飲んでないのにぼうっとする。寒さを徐々に感じなくなってきていた。

 

「まずい……このままでは死ぬ……回復、間に合うのか……」


 体に刻まれた存在概念の術式は徐々に体を治すというものだから、ここまで急な怪我をした場合にどれほど急いでくれるかは未体験である。

 奥歯がカチカチとなる。夜中に不意に目覚めてまだ眠い時のような倦怠感だ。


「はあ……少し、少しだけ、休んでから……応急処置を……休んで……」


 九郎は首を項垂れ、縮こまるように体を抱いた。目を開けていても急速に視界が暗くなっていく。

 うわ言のように何かを呟き、やがてその意識を手放す一歩前で、


「すまん……」


 と、謝った。頭に浮かんだ誰かに。

 


 雪が降っている、静かな夜だった……。 





 


                                  <完>


















 *****


 


「完じゃねえよ」


 むくりと布団から起き上がった瞬間に影兵衛はそうツッコミを入れていた。

 そして改めて激痛を感じて、


「がああ!?」


 と混乱し叫んだ。あまりの痛さに直前まで見ていた夢の内容も忘れた。

 呼吸をするだけで酷く胸が痛むし、顔も火鉢に突っ込んだままになってるんじゃないかと思うぐらい熱を持っている。

 周囲を見回すと火盗改の役宅であった。自宅でも実家でもなく、つまりは火盗改長官の家である。

 清潔な布団と枕元には水桶に濡れ手拭い。病人か怪我人の扱いだった。


(誰が? 拙者が?)


 自分以外居ないというのにそんな考えが浮かんだことに、変な笑いが浮かんで思わず咳き込み、激痛に再び悶えた。


(っていうかなんで生きてんだ、拙者)


 などと思っていると、障子戸が開けられた。

 実直そうな顔つきをした五十代の男が入ってくる。影兵衛は姿勢も変えずに応対した。


「おかしら」

「目覚めたか、影兵衛。お前はまる二日寝込んでいたのだが」

「二日ァ?」


 彼は側に座りつつ煙草盆から煙管を取り出して喫む。煙が部屋に薄く広がった。


「夜の見回りに出た日に例の押し込み強盗と斬り合いになって倒れたのだ、お前は。その晩帰ってこなかったのだが、一同まあ影兵衛だから大丈夫だろうと思っていたが翌日、同じく重傷の九郎がやってきてお前がやられたので運んでくれとな」

「はあー」


(あいつも生きてんだ)


 気のない返事をしつつぼんやりとそう思った。


「九郎とお前の二人がかりでそこまで怪我を負わせられるとは余程に凄い悪党だったのだろう」

「ま、まあそんなところで」

「あいつは冬野菜の盗賊団がどうとか意味の分からない事を言っていたが」

「なんすかね、冬野菜って」

「いや、知らん」

 

 影兵衛にもいまいち関連性がわからなかった為に首を傾げた。

 

「ともかく、医者が云うには完治するまで二ヶ月は無理させてはならんとの事だ」

「げっ、首ですかい?」

「馬鹿を云え。お前のような悪党を首にしても碌なことにはなるまい。しっかり席は残しておいてやるから、家で大人しくしておけ。悪所通いも喧嘩も禁止だ」

「そりゃあねえぜおかしら~」


 情けない声を上げてがっくりと顔を落とす影兵衛。

 長官は笑いながら、


「ま、今のお前みたいな良い面構えでは岡場所でも相手にしてくれぬかもしれぬぞ」


 そう言って鏡を差し出してきたので、影兵衛は受け取って己の顔面を見る。

 鼻の頭には大きなあて布が軟膏で止められているし、全体的に腫れて膨らんでいる。血の巡りも悪いのかところどころ赤黒く変色もしていた。

 

「こいつァなんとも」


 彼は困ったようにぺしりと自分の頭を叩く。



 

 *****




「んー……怠ぃ……」


 緑のむじな亭の店で低血圧のように気怠げな声を上げて座敷で寝ている少年の姿がある。

 九郎であった。

 ぐったりとした様子でここ数日は寝込み、今は店に来た石燕の膝枕を借りていた。

 しんどそうなのは怪我だけではなく、やはり死にかけたことでまた知人友人から尽く説教を受けた疲労もある。

 その左手には生々しい傷を包帯で硬く縛り止めていた。腕の骨の髄まで切り割られたものだから、未だに手はぴくりとも動かないし触ると非常に痛む。幸いだったのは、影兵衛がすぱっと綺麗に切ってくれたお陰で変に歪まずにくっつきそうだということか。


「はい、九郎君あーん」

「うむ……はあ……」


 と、石燕が箸で摘んだひじきと大豆の煮物を九郎は口に入れて咀嚼する。ひじきにはカルシウムが豊富に含まれていて傷の回復にも良い気がする。念の為にカルシウム吸収量上昇の符も使っていた。

 怪我をした翌日までは口腔内に刀の破片が入りまくって痛み、なんとか石燕に頼んで取り除いて貰ったものだ。

 体の傷は腕以外だいたい治っている。しかしながら失血死or凍死しそうになった事から、精神は酷く怠さを覚えてなかなか治らない。

 されるがままの九郎というのもまた好ましいと、石燕などは面倒を見ているのだったが。

 

「石燕……」

「なにかね、九郎君」

「すまんな」

「ふふふ、いいよ。それに私は九郎君が死ぬなどとは思っていないからね。君を信じているさ」

「……うむ」


 などと、会話していると店に入ってくる男がまっすぐに九郎の座敷にやってきた。


「おーう……痛ぇ怠ぃ」

「……なんだ、随分男前が来たな」


 影兵衛であった。お互いにやりあってからは初めての顔合わせだ。

 相変わらず顔面に包帯を巻いている。不自然に胸を張っているのは肋骨が変にくっつかないように矯正させられているからだ。

 

「トドメを刺しに来たのかね?」


 石燕が問いかけるが、


「いや、そんなだっせェことはしねえ。っていうかやる元気もねえ。絶対安静なところをこそっと出てきたぐらいでよ。歩くだけでメッチャ痛ェ」

「帰って寝ておれよ……」


 九郎がぼやくが、影兵衛が問いかける。


「九郎、なんで拙者を殺さなかった? こちとら殺す気満々だったのによ」

「別に理由があってのことではない。そんな余裕も無かったしな。まあでも、あれだ」


 九郎はのそのそと石燕の膝から起き上がると、眠そうな眼差しを影兵衛に向けて応える。


「年を取るとな、意地の悪いやつでも友達が居なくなると寂しくなるものなのだ」

「……そうか。ま、拙者らダチだもんな。負けたし。あーもうなんか拙者が悪かったぜ九郎。趣味に巻き込んじまってよ──っていうか、なんで手前の方が怪我軽いんだ? ずるくねえか?」

「日頃の行いの差だ」


 云うと、二人は笑って、影兵衛は肋骨の痛みに悶える。

 その姿に九郎は、憑き物が落ちたようだと感じた。何に囚われて居たかわからないが、とにかく。


「しっかしよう、聞いた話だとあいつから助けられるとは意外っつーか、そんなの出来たのかよっつーか」

「ああ」


 九郎は首肯して、


「雨次な。死にかけた己れら二人を家に運び入れて巧いこと生き延びさせるとは。簡単な応急処置もしてくれたお陰でなんとか次の日から動けるようになったわ」

「いや、次の日から動けるのはおかしいと思うけど……痛たたた」

「もう帰って横になったほうがいいのではないかね?」


 石燕の忠告に、影兵衛が従おうとした時、入り口から高い声が掛かった。


「旦那さまー! 家を抜けだしてこんなところに!」

「げっ」


 それは十代後半ぐらいの少女であった。怒った様子で呼びかけているのは影兵衛だ。

 そういえば彼は良い家柄の旗本三男坊であったな、と旦那と呼ばれた彼に、


「お主の家の女中か何かか?」


 と、尋ねたところ、彼は顔をさっと逸らしながら小声で、


「……いや、拙者の嫁さん」

「……」

「……」

「実家の御用人の娘だったんだけど……こう、つい手をつけたら墓場行きだった。超速度とか忍術とかそんな勢いで。最近なんだけど」

「……大事にしろよ」


 九郎はなんというかそう云う他無かった。

 大股で近づいてきた彼女は影兵衛の手を掴んで、


「あの、すみません旦那さまお怪我をしていて療養させたいので……」

「あ、ああ連れて行ってくれ。すまんなこちらこそ怪我人を」

「それでは……ほら、行きますよ旦那さま!」

「じゃあな九郎、また遊ぼうぜって痛ェ、なあ頼むぜ引っ張らないでくれよ、むっちゃん! ごめん、悪かったって痛え!」


 嫁に必死で謝る影兵衛はなんとも言えない雰囲気を残して去っていった。

 とりあえず、再びごろりと石燕の膝枕に収まる九郎。

 ぼんやりとしながら声を出す。


「しかしあの雨次がなあ……どうやったのか己れにもわからんが」

「適切な治療だったのかね?」

「治療というか……よくも一晩生き長らえたものだ。己れも、影兵衛も……」


 九郎は、最近新しく出来た小石川の養生所に居る雨次を思った。

 誰かを助ける事も、一人では勝って生き残る事さえも出来ない自分などよりも、彼は──。




 *****




 将軍・徳川吉宗の頃。

 小石川伝通院に住む町医者小川笙船が目安箱にて貧民救済の為の養生所を建てることを訴願し、吉宗がそれを許可し大岡越前の主導のもとに作られる事となった。

 当初は江戸の町民は病気は寝て治すもの、無料での治療など乞食のようだと嫌っていた為にあまり入る人も居なかったのだが、その中に雨次という少年が居た。

 彼は重湯を匙で掬い、目の前の手が不自由な患者に与える。


「はい、母さん」

「おう。しっかし、こちとら血が足りねえのにこんなんじゃ治るのも治らねえっちゃ」

「お医者さまの云うことは聞かないと。お願いだよ、母さん」

「わかったよ。……ほら、早くもっと飲ませろ」


 片目が潰れ、片手を無くし、腹に刺傷まであって死にかけていた雨次の母が、そこに居た。

 火盗改に運ばれて治療を受けて今はこの養生所に移されている。医者も出来る限りの治療は行いそれでも治る見込みはまるで無いと思っていたが──生き延びた。

 意識が戻ってすぐに腹が減ったから何か食わせろ、と要求してくるのには雨次も笑ってしまったが。

 治療には幕府の御殿医が担当している為に、貧民無宿人救済の為の施設だというのに医療環境は最上級である。本来なら怪我ではなく病気の養生をする場所なのだが、利用者は少なく暇なので彼女が入っていても文句を言われることはない。

 

「しっかし、治ったら仕事どうすればいいかしら。欠損片目好きな客とかあんまり居なそうだわ」

「そんなことは心配しなくていいから……そうだ、何か話をしよう。僕がこの前爺さんのところで読んだ本でいいかな」

「暇で暇で死にそうなんだ。頼むよ、雨次」

「うん。あ、そうだ。いきなりだけどさ、母さんの名前を教えてよ──」


 そうして親子は、暫くの間養生所で仲良く過ごしていた。

 

 目の前で死にそうな大事な人を諦めないと雨次が決め、救いたいと願い奇跡を引き寄せ彼は未来を手に入れた。 

 その代償がどうであれ──きっと後悔はしない。


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