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42話『タマシイの存在証明』

 [緑のむじな亭]は毎月[六]の付く日は休業日としている。

 これは店を始めた頃から、女主人であったお六が適当に己の名前から休日を決めて、それを六科も従って続けているのである。

 その日の休日は、六科は材料の仕入れに向かいお房は石燕の家へ行くことにした。

 そして最近新たに店員となったタマは予定もなく宙ぶらりんだったのだが、九郎が適当に散歩しつつ晃之介の道場にでも顔を出すという、まあ特にこちらもいつも通りのんびりと過ごすつもりで、


「タマも来るか?」


 と、珍しく誘ったので彼は素直に「はい、兄さん」と頷いてついていくことにした。

 これはそんな二人のある日の日常風景である。

 



 *****




 タマという少年は基本的に九郎に懐いている。髪型も真似してるし、いかにも舎弟といった雰囲気で店にいるときは酌を取っている。

 彼自身は歳相応にそばかすがうっすらと顔に浮いている紅顔の少年なのだが、顔の造作は非常に整っていて女性相手の接客でも涼しい笑顔か凛々しいキメ顔で行い、女慣れした様子で対応するので実のところ、この一月ほど緑のむじな亭で勤めていてそこと無く女性客が増える効果を齎している。

 一般的な評価における美少年度で言えば怠そう眠そう爺臭そうな九郎よりもかなり上の水準に居る。まあ、九郎の世間での扱いは少年というよりも童顔な成人なのであるが。彼を歳相応に扱うのは天爵堂か将翁ぐらいのものだ。石燕はきっと彼が何歳だろうが対応は変わらぬだろう。

 ともあれ、九郎は気づいたのである。

 タマと歩いていると町娘の視線が集まっている。


「離れて歩け」

「兄さん酷くない!?」


 早足でタマから離れる九郎に涙目で追いつく。

 彼は苦々しい顔をしながら、


「お主、時折店の客を軽く口説いておるようだが……」

「ちょっとした営業微笑ですよーう」

「女にきゃあきゃあと言われるのは気分がいいかもしれんが、本気でもないのに相手に気を持たせているとそのうち刺されるぞ」

「うん、兄さんにだけは言われたくない忠告すぎる」

「?」


 何故かそのまま切り返されたので九郎は訝しげに首を傾げた。

 然し乍ら経験上若さにかまけて女に入れ込むと碌な事はない。九郎はそうでもなかったが、若いころ傭兵時代の仲間で刺された男の最高記録は一晩に13回刺された奴が居た。その後爆破までされていた。おまけに生きてた。恐ろしい。


(……いや、己れもスフィに刺された事があったような……)


 思いに耽る。妙なハッパの煙を吸い込んでバッドな精神状態になった幼女体型エルフが無理心中しにきたのだったが、遠い過去な為に明瞭には浮かんでこなかった。

 タマは得意気に胸を張りながら、


「大丈夫ですよ。これでも経験豊富な身。相手を本気にさせないようにしかし愛されてちやほやされ貢がせつつ遊びで手をつける程度の距離感、余裕で保てます」

「うわあ……駄目な大人になるなよ、お主。特に、あの物を縛る細長いやつみたいな名前の立場にだけはなるなよ」

「ヒモのことですかー?」

「その名を呼ぶな」


 九郎が忌々しげに首を振る。ふと、顔を背けた先に茶店があった。小腹が空いていたわけでもなかったが、なんとなく茶の香りに誘われて店による。

 店先の敷き布が張られている席に座り、茶と蕨餅わらびもちを頼んだ。タマが注文を取りに来た看板娘を見てキリッとしたキメ顔になっている。

 

「涼しげな菓子だが、寒い時に食うのも乙だのう」

「そうだね兄さん! ボク、わらびなら幾らでも食べられそう」


 もっちもちと頬張るタマを見つつ、九郎はタマの頭を撫でながら、


「そうか、そうか。ちなみにわらびは食べ過ぎると中毒症状が出てな、全身から大量出血し骨髄が破壊されて死ぬ」

「相当危険な毒草の効果だよねそれ!? 嘘だと言ってよ兄さん!」

「残念ながら本当だ」

 

 蕨餅の場合はわらびの根を叩き砕いて何度も流水で洗い乾燥させて粉にしたわらび粉を使うためにそんな心配はないのだが、意地悪そうに九郎はタマをからかうのである。これは以前将翁から聞いた知識であった。

 一度に大量に食べなければ良いとはいえ、お浸し等でわらびのその物を食べるときはしっかりアク抜きすることが必要である。ほろ苦くて旨いとアク抜きしないで天麩羅などにして食べているとグッバイ骨髄になる。もちろん食べ過ぎたらだが。

 怯えたように残りの蕨餅を見ているタマに、「これぐらいなら大丈夫だ」と、九郎は苦笑して安心させてやる。

 

「むう」


 唸りつつもタマは再び餅を食べだした。

 九郎は茶を飲みつつもいつも通り半分閉じた目で遠くの街を見やる。白い煙と屋根の上までちらつく火が見えた。


「……今日もまた何処かで火事のようだのう」

「冬の間は起こりやすいですからねー……江戸の人は一生で一度は火事に会うって言われてるぐらいで。ボクはもう二回ですけど」

「ふぅむ。人口密集に木造建築、海と山からの風……天爵堂や将翁なら風水だか五行だかも理屈につけそうだな」

 

 などと言っていると、二人の近くに座って聞こえよがしにため息を吐く男が現れた。

 黒袴に刀を差している丁髷の侍──同心・菅山利悟であった。


「まったく勘弁してほしいよ、せめて火事だけでも無くならないかなあ」

「稚児趣味野郎」

「勘弁してほしいよ! あ、汁粉と茶と梅漬けを」


 利悟の他にもう一人、人の良さそうな顔をした同心も席に座る。見回りの休憩のようである。

 

「久しぶりだなあ、いやずっと牢に入っててさここ最近」

「ついにやっちまったんですね」

「違和感無いよな」

「捜査のためだよ! 元旦も碌に越せなかったのにこの忙しさときたら嫌になる」


 彼は大げさに肩を竦めてから、運ばれてきた茶を一口啜った。


「熱ち……火事はあっちこっちで起きるし、神社は襲われるし、そこらで押し込み強盗は出る上に、訴訟も松の内を開けてから毎日舞い込んでくるときた。

 今もこいつと一緒に、日本橋で争ってる店に勧告を出しに行ったところなんだけど中々言うこと聞いてくれないし」

「やれやれこの私の云うことを聞かないとは天罰が下るね。同心二十四衆が七番[出任せの説得]のこの斉藤伊織──まあ町奉行より正しいことは疑いが無いというのに」

「説得に任せていい人材じゃなさすぎないか」


 頼りにならない二つ名と大言壮語に、九郎がげんなりしながらツッコミを入れる。見た目は真顔で冷静そうな男なのだが、特技は説得というよりも虚言による時間稼ぎであるらしい。

 利悟もこの同僚はとりあえず責任を負わない範囲で口で丸め込む技巧は買っている為に、


「その場は収まるからいいんだよ。そもそも菓子でどっちが元祖かだなんて下らない争いなんだから……大岡様も呆れて適当な捌きをするから拗れる判決になるんだ」


 と、云うと、その日本橋の大通りにある何某という菓子を主として売り出している店が二つあり、どちらも己の店がその菓子を作ったと主張し相手の店で売らないようにと要求しあっているのである。

 これに対して糞忙しい中持ち込まれた町奉行・大岡越前守忠相が出した判決は、


「片方は新宿で店を出して売り、もう片方は渋谷あたりで売ればいちいち反目しないだろう」


 店が近いから文句を言い合うのだから、店の場所を変えろという内容であった。不公平が無いように両者共である。

 しかし日本橋の一等地から、新宿渋谷などという当時からしてみれば田舎の僻地に店を変えろと言ってそう納得がいくものではない。結局両方の店は日本橋に残り、相手の店が先に立ち退くように毎日言い合っているのであった。

 いちいち宥めに行く同心も大変である。

 

「火事の検証は他に頼んであるからいいけど……あ、そうだ。九郎、最近阿部将翁殿を見なかった?」

「将翁をか?」


 利悟の疑問に、九郎ははて最後にあったのはいつだっただろうかと考えるが、


「いや、少なくとも年が明けてからは見ておらぬな。よく旅に出る男だという話だからな、別に不思議ではないが」

「うーん、江戸に居ないのか。ならいいんだけど」

「何かあったのか?」

「いや、ただの世間話だ。さて、斉藤。汁粉を飲んだら次に向かうぞ」

 

 そこで話題は打ち切られた為に、九郎とタマも茶と蕨餅の代金を払って適当な散歩を続けるのであった。

 

「世の中物騒だのう」

「ですねー。まあ、うちは兄さんや六科さんが居るから大丈夫でしょうけど」

「押し込まれる程金も無い……のだが、最近は住人を斬り殺す目的で押し込み、ついでに僅かな金を奪っていくような危険な輩も居ると影兵衛に聞いたから一応気をつけようか」

「しかし、なんでまた押し込み強盗なんてするんですかね。危ないのに」

「うむ?」


 タマは歩きながら人差し指を立てて九郎に確認するように云う。


「この江戸には兄さんや六科さん、晃之介さんとか押し込んだら返り討ちに合わせてきそうな強い人も居るし、見つかったらその場で確殺してくる影兵衛さんみたいな怖い人も居るのにどうして自分は安全だなんて思って強盗に入れるのか」

「それは単純だ。返り討ちにあったことがないからそんな奴居ないと思い込んでおるのだよ。なにせ、一度返り討ちにあったらそれで終わりだからな普通。

 [切り裂き]同心なんて死ぬほど危険な人物の噂がそれほど広まって居らぬのは、あやつと出くわしたらその場で死ぬから具体的にどうヤバイのか盗賊の間でもあまり伝わっていないらしい」


 さすがに、火盗改という住民の味方である同心を悪鬼羅刹のような活躍だとは読売にも書けないようである。

 影兵衛の悪い遊びや無慈悲な活躍が認められているのも彼の検挙率が異様に高いからなのであるが、表沙汰にはし難い。

 

「まあ、この場合はあやつが悪党の側でなくて良かったという事だな」

「ううう、その想像は恐ろしすぎる。その時は兄さん頑張って退治してくださいね」

「無理云うな危ない。まずは利悟をけしかけてだな、やられたら晃之介と浅右衛門あたりを連れて『利悟は我らの中で一番の子好き……』『同心の恥さらしよ』とか楽しげに言うだけ言って後は任す」

「やる気無いなあ兄さん」


 嫌そうな顔をしている九郎を横目で見て、ぽつりと言うタマ。

 ふと二人は後ろから走っていくる人影に気づいて、道の端に寄った。

 走っているのは女だった。江戸の街で走る者は珍しい。当時は当然着物だったので殆どの者は走るに適していない格好で、無理に動けは酷く着衣が乱れる為に、特に女などはまったく走らない。

 その女は走りやすい鳶職のような江戸脚絆をつけていて、頭に花がらの手ぬぐいを巻き活発そうなポニーテールにしている目元がぱっちりとした化粧をしている女である。年の頃は二十前後だが、十代半ば程に見える童顔だ。

 

「おっと! 九郎の若旦那とタマちゃんじゃないですか!」

「む、お花か。新聞が出来たのかえ」

「はい超特急読売、地獄の亡者の呪い系速報ですよ!」

「年の始から不吉すぎる……」


 女は、お花という江戸では珍しい女読売であった。自分で事件の取材をして、原稿をまとめ、瓦版を刷るという完全自営業の新聞記者だ。

 内容はデマも多いのだが面白おかしく、或いは社会批判もなんのそのと自由に記事を作っている為にわりと読み物として面白い。

 店を出して売っているとお上に目を付けられた時に面倒だということで、その足で売り歩いて──いや、売り走っているのである。

 九郎が緑のむじな亭の方を指さしながら、


「すまんが今日は店は休みでな」

「あらら、じゃあ若旦那、ここで渡してもいいですか?」

「うむ。貰っておこう。代金は月末だったな」

「はい! それじゃあ……ってタマちゃんなんでキリっとした目でこっち見てるの?」


 疑問に思いつつも、お花は次の販売場所へ向けて再び走りだした。

 九郎はその姿に、


(泳ぎ続けないと溺れる大型魚のような……)


 と、思わず感想を覚えた。

 走り去るお花を見つつタマもキメ顔を維持したままで、


「お花ちゃんはさらしで抑えてるのに走ると胸がばいばいん揺れるから最高タマ」

「変な語尾をつけるな」


 言いつつ渡された読売を開いて、目を細めて字を読み解く。やはり古い文字なので少しばかり読むのに集中が必要だ。

 

「なになに……鎧大明神にて集団毒殺事件が発生。盗賊一味は寺社奉行の認可証を偽装して夜中に侵入、神社の宮司と禰宜らに流行病の予防薬だと偽り毒を飲ませ、神社に預けられている金を奪っていった模様。また境内で土を大きく掘り返した跡もあり、平将門の怨霊が己の鎧を取りに来たと噂される……」

「うわあ……滅茶苦茶怖い事件じゃないですかあ……」


 タマは身震いして顔を青ざめた。

 神社や寺は江戸の狭く並んだ町並みの中でもかなり広い敷地を持っているものが多いことから、火事の時に燃え移らないことを期待されて氏子や檀家から財産を預けられる事も多かったという。

 うまく盗人が押し入ることができれば大店の金蔵よりも大金を手に入れることができるだろう。それを狙っての犯行であるのだろうが、毒殺という手段が必要以上におどろおどろしい。

 書かれた内容──ぎりぎりで毒を吐き出して生き残った宮司の証言も載っていた──からすると、舌を抉るような苦味のある薬を舐めさせられ、効果が出るまで決して吐き出さないようにと念を押されて水まで渡され流し込まれたそうだ。

 また、鎧大明神──鎧神社という場所は平将門ゆかりの神社で、彼の鎧が埋められているという話を鑑みれば、怪しげな土を掘り起こした跡というのが余計に恐怖を煽る。

 それで特徴的だったのが盗賊の一人、毒を渡して来た首領格の男が、


「特徴は顔を面で覆っていた、か。いや怪しすぎるだろうそれ」

「ああ、それで将翁さんのことを聞かれたんだ」

「ううむ、あやつがやるはずはないが、確かに面を被っていて薬毒に詳しい男となると候補にあがるだろうからなあ」


 言って、九郎は顎に手を当てたままじっと考えた。


「はて、前も同じような事件があったような……」

「こんな事件が二度も三度もあったらまさに末法の世ですよーう」

「……まあ良いか。とりあえず将翁以外の仮面男は危険だから近づくでないぞ」

「仮面男と言えば、子興ちゃんの描いてる読本おにゃん略に最近出てくる人物で、『この祇園精舎の鐘の声は! 紋付袴仮面様!』みたいな登場する男は」

「すまぬそれ己れが酒の席で適当に助言したら生まれた奴だわ」


 寄った勢いとはいえパクリはいかんなあと九郎はやや反省するのだった。来シーズンでは月影の武士に変身させてみようと提案する予定であるが。

 



 *****




 二人が晃之介の道場を訪れたとき、丁度お八も来ていて鍛錬を行っていた。

 今日は体術の稽古のようだ。六天流では最小の間合いからの攻撃手段として拳、蹴り、投げの技を作られている。

 晃之介が九郎とタマの前で腕を組みながら解説をする。


「殴るのは相手を仕留める時、蹴るのは間合いを詰める時、投げるのは間合いを開ける時だな、基本は。今日は丁度タマが来てよかった。投げ技を教えていたのだが、さすがにお八の体格じゃあ俺は投げられないからな」

「ボクが犠牲になる流れ!?」


 おっかなそうに九郎の後ろへと隠れるタマである。

 むしろやる気満々のお八は指の骨などを鳴らしつつ、よれよれの道着──自作である──を翻してタマへ声をかけた。


「よっしゃこーい!」

「ぼ、暴力系な女の子は負け組一直線ですよーう!」

「安心しろ! あたしはツッコミと練習と悪党以外にゃ暴力なんぞ振るわねえ! 手前にやるのは後輩への可愛がりだ!」

「苛めっ子はすぐそうやって自己弁護する!」


 抗議をしているタマに、仕方無さそうに晃之介は近寄って彼の耳元に小声でやる気を出させる言葉を投げかけた。


「いいか、タマ。投げ技の組み合いという名目なら合法的にお八の体に触り放題だ、俺が許す」

「っっっしゃあ! お八ちゃん早くすっぞおらあ!」

「急に勢いづいた!?」


 真剣な顔をしてすぐさま道場の中央、お八と向い合って構える。そのキメ顔から分かる通り、既に彼の脳内イメージでは二回戦に突入している。

 彼の手足は女子の様に細く白いが、力が無いわけではない。蛸のように手指を絡めとる技術に優れ、転ばして寝技に持ち込めば同じ体格のお八では逃れられないだろう。

 指をわきわきさせながら腰を低く落とし、お八に躙り寄る。


「ちっ──!」


 動いたのはお八が先だ。

 相手の脛狙いのコンパクトで隙がなく、鋭い蹴りだ。彼はそれに耐えるように床に踏ん張り、全身に力を込めて痛みを堪えるようにする。

 快い音を立ててお八の蹴りが彼に直撃する。早さはあるが、女の放った一撃だ。耐える覚悟さえあれば受け止められた。僅かに体幹がブレるような衝撃を踏ん張って抑える。

 そして反撃に転じようとした瞬間、お八が目の前から消えた。

 

「せ」


 声が近くから聞こえる。既に彼女は彼に密着するほど近づいているのだ。

 最初の蹴り足を戻さずに、そのまま踏み込みの一歩として軸足にし、蹴りを防ぐため硬直した彼を中心に脇をすり抜けて、


「え」


 ぐるりと背後に周り込んで、彼の腰に両手を回して抱きつくように掴んで勢いをつけ──


「の──! おらああ!!」

「ぐへ!?」


 己の体を反らすようにして力を込めて、バックドロップの要領でブリッジして床に叩き付ける!

 彼の脳内ニューロンが浮遊感と衝撃に備えて高速で動き出す。


(頭部に衝撃予想/危険/腰のあたりにささやかな弾力/幸せ餅/腕部を動作/幸せ餅。)


 どん、と大きな音を立てて裏投げされた彼は後背部から床に到達した。

 そして素早く腕のホールドを解いて離れる。相手が床に沈んだまま動かないのを見て、腕を振り上げた。


「よっし決まった! 六天流、[小足防御させて投げ嵌め]!」

「ああ、良い仕上がりだが……うむ」

「へへっ! どうだ九郎! 師匠も褒めてくれたぜ!」

「……いや、タマの執念を見たというか。お八よ、襟元が乱れているぞ」

「は?」


 彼女が己の着衣を見下ろすと、道着の胸元がだるだるに開いており、巻いていたさらしが一部解けて胸が露出していた。


「投げられる一瞬で両手を後ろに回して的確に胸元に突っ込んで堪能したみたいだな」

「本当は首根っこと太腿の付け根を掴んでぶん投げる技なんだ。お八の腕力では無理だから全身の力を使える形にしたのだが……反撃を受けやすい難点があるということか」

「な、な、な──」


 冷静に考察しあう男二人の前で固まっているお八は、やがて顔に赤みが差してかたかたと震えだし、涙目になりながらも、


「こ──これぐらいっ! なんともないぜ!」


 と、腰に手を当て健気に胸を張って平気を主張するのであった。お八の胸は、まあ直に見れば平坦よりは少しあるようだった。男二人の琴線には一切触れないが。

 本当は恥ずかしいやら触られてムカつくやら様々な感情が爆発しそうなのを耐えて、開き直っているお八に九郎が、


「うむうむ、ハチ子は強い子だのう」


 襟元を直してやるので今度こそ真っ赤になって、


「ばっ……子供扱いするなー!」

「最近の若者気難しい」


 怒ったように叫ばれるので、九郎は困って晃之介に助けを求める目線を送るのだが、


「付ける薬はないな」

 

 呆れた様子で言ってくる。


(どうやら晃之介も若者には困っているようだ)


 九郎は納得して、猛犬のように喉を鳴らして見上げてくるお八を宥めるのだった。

 その頃タマは床で寝たままキメ顔で感触を思い出箱に仕舞い込んでいた。





 *****





 その後道場で昼飯を食うことになった。

 晃之介の家の厨房は相変わらず閑散としていて、常備されているのは米と味噌ぐらいのものだ。後は晃之介が呑む酒とつまみになりそうな保存食が少々。 

 この日はお八が実家から晃之介にと渡された卵が幾つか用意されている。


「仕方ない、卵味噌でも作るか」


 九郎はせめて飯のおかずになるものをと思い鍋に火をかけた。

 味噌を酒でややゆるく解いて風味をつけて、鍋で煮込む。この時に焦げ付かないように注意をする。油を敷いておくと焦げにくくなるのだが、この家には灯り用の鰯油しか無い。さすがにそれは匂いが辛い。

 追加で解いた卵を人数分入れて混ぜ合わせて水分が飛ぶまで焦がさないようにかき回して火にかけたら簡単に出来上がる。

 見た目はそぼろのようで、味噌の塩味と酒の甘味、そして卵の感触とまろやかな味わいがある。砂糖も混ぜたほうが本当は良いのだが、男一人暮らしのこの家にそんな気の利いたスイートな調味料が存在するはずがなかった。

 とにかく、この卵味噌。飯の上に乗せても良いし握り飯の具にしてもまた旨い。

 

「兄さん、こっちの沢庵刻んで胡麻をかけておきましたー」

「おう。味噌汁は朝の温めなおしで良いな。あ、タマよその茶葉はまずいからやめておけ。棚の一番下に柳川藩から貰ってきた高級茶葉があるからそれを使おう」


 てきぱきと料理の準備をする二人を物陰から師弟が眺めて、


「……手際いいな、あいつら」

「あ、あたしだって……湯豆腐とか作れるし」

「お八は湯豆腐に味が薄くて食った気がしないとか言って鍋に醤油を入れるのはどうかと思うぞ。ただの薄い煮豆腐になってしまっただろ」

「うっ……」


 などと言い合うのだった。

 簡単に用意した昼食であったが、そう凝らなくても濃い味のおかずと丼飯さえ用意しておけばこの師弟はわりと満足する。

 四人で向かい合うように座って飯を食う。箸の先に卵味噌をつけて、白い飯と一緒に掻きこむ。

 言ってみれば、味噌味のついた卵そぼろなのであるが当時の味噌は保存性の問題からことさら塩っ辛く、それがまた飯を進ませる。

 刻んだ沢庵もぽりぽりと小気味良く、胡麻がぷちぷちと歯ごたえが良い。

 

「酒の肴にもいいな、これは。作り置いといてくれないか」

「どっちも簡単なのだから自分でやれ」


 晃之介の要求を棄却しつつ四人は食事を進めた。

 食後、九郎とタマはまた別の場所に出かけることにして、お八も付いて行きたかったのだが、


「昼からの鍛錬があるだろう」


 師匠から言われてしまっては従う他、無かった。

 名残惜しそうにしたお八から見送られて日本橋界隈までやってきた。

 店をぶらぶらと眺めつつ歩き、


「そうだ、黒糖でも買って石燕の家に寄るか」

「寄るかっていうか、兄さん最近毎日石燕さんのところ行ってますよね」

「……まあ良いだろ。あれも家族のようなものだ」


 と、言う。

 ふとタマは気になったので九郎に尋ねてみた。


「そういえば兄さんの、本当の家族はどんな方々でした?」

「うん? あー……」


 九郎は言葉尻を伸ばして何とか思い浮かぶ。もう六十年以上合っていないが、現代日本に暮らしていた頃には家族は居た。

 

「いかんな、もう声も思い出せぬ。だがまあ、親父とお袋、それと弟が居たな。ずっと昔に生き別れたがな」

「……辛くなかったですか?」

「さあ、昔は辛いと思っていたかもしれないが、すっかり忘れてしまった。それからはずっと一人だったが妹みたいな奴が──」


 言いかけて、九郎は首をかしげた。口元に手を当てて、目を細めて記憶を探り、不思議に思う。


「──? いや、居なかった……よな? 誰だよ妹みたいな奴って」

「ボクに聞かれても」


 どうも痴呆の症状が進んでいる気がする、と九郎は苦々しげな顔になった。脳細胞等は劣化していないので、精神的なものなのだろうが。

 頭をぼりぼりと掻きながら道を進んでいると、何やら人だかりが出来ている。

 見世物の類か、と背伸びして集会の中心を眺めてみると、何やら坊主が本を片手に唾を飛ばさんばかりに叫んでいる。


「辻説法か?」


 耳を傾けてみると、


「──ここ近年の大地震に富士山の噴火! 不作に人心の荒廃による火付け、盗みの横行はすべて仏の教えを蔑ろにし邪見を蔓延らせているのが原因である! 

 この徳の高い預言書にもこのままでは人も世も滅尽に至り末詰まりに末世が訪れるであろう! かくなる上は最早、日本国の神社、邪宗の寺を尽く打ち壊し、真なる宗派のみを信仰するべし!」

 

(やばい系の宗教だった)


 聞いている聴衆も同じ感想なのだろう、ひそひそと、


「誰か寺社奉行呼んでこいよ……」

「岡っ引きとか早くこないかな……」


 などと言い合っている。

 やがて同心の姿をした者が二名現れて、


「退け、退け!」


 と、集まっていた人を散らし叫んでいる坊主を両脇から掴んだ。


「何をする! このままでは日本は滅ぶ! むしろ滅ぼすぞおお!!」

「はいはい、話は番所で聞こうね」

「鎧大明神での事件との関与も調べろ」


 叫びながら、連れ去られてしまった。

 九郎とタマは唖然とまだ滅びの言葉を叫んでいる坊主の後ろ姿を見ながら、


「思想家が取り締まられる。厭な時代だと思わんかタマよ」

「いや、あれは不安を煽ってる迷惑な人だと思うです」

「己れもそう思う。む?」


 九郎は坊主居た場所に、徳の高い預言書とやらが落ちて残されているのを発見した。

 拾い上げて適当にページを捲ってみるが、


 [猩々 狐カラ 奇怪ノ鳥ヲ 奪フ]

 [太 扉開ク 無音 蓮潜ル]


 などと一ページに一文ずつ意味不明な内容が羅列されているばかりだった。

 とても預言書には読めない。元々あまりなかった興味がどんどん薄れる。

 ざっと眺めて、一番最後に書かれたページにある内容に九郎は目が止まった。

 

 [暗キ天ニ マ女ハ怒リ狂フ コノ日 ○(丸) 終ワリ 悲シキ哉]


「……魔女?」

「どうしたんです?」

「いや、なんとなく聞き覚えのある単語が出てきてな」


 九郎は本をぱたりと閉じて、懐に入れた。ねこばばした形になるが、徳が高いならこれぐらい許してくれるだろう。

 二人は歩みを再会しながらなんとなく九郎は口にする。


「それで、家族の話だが。少し前までは孫娘のような女が居てな。其奴は魔女と呼ばれておった」

「あんまりいい響きじゃないですねえ。どんな人だったんです?」

「ううむ、なんというか……」


 九郎は周囲の人物で該当する性格を思い浮かべて、隣を歩くタマの頭に手を乗せた。


「少しお主に似ておったかな」

「それじゃあいい子じゃないですかー! たまー!」

「なにそれ掛け声? まあお主のような性格のままだったら良かったんだが、次第に迷惑度は増していき、己れにもどうしようもなくなったのだ」

「迷惑?」

「例えばそうだなあ……琵琶湖の水が全部蕨餅みたいな寒天状だったらどうなるだろう。まあそんな適当に考えたような事を実際にやってしまう迷惑さだ」

「ぼ、ボクはそんなことしないですよーう!」


 実際に異世界で魔女は湖一つをジェル状に固めてしまったのだった。

 湖の水自体の重量で底の方から圧力で崩壊して水に戻るのを防ぐのが中々難しかったらしい。やったが。魔女が飽きて放置したのちに生命が生まれて世界最大個体のスライムになったとか。生命の神秘にむせび泣いたが、魔女の懸賞金は容赦なく増加された。

 九郎はわしゃわしゃとタマの頭を撫でながら、


「好き勝手やって死んでしまったがな。生まれ変わって今は何処に居るのやら。おい、タマよ。案外お主だったりせぬか」

「前世の事を聞かれても困りますよーう」

「ううむ、どうやって見つけよう。そのうちなんとかなるのか?」


 九郎はさっぱりいいアイデアが浮かばなかったので楽観視することにした。

 二人は薩摩との交易品を扱う店、[鹿屋]に寄り黒糖を買い求めようとすると店頭で物理属性の引き込みを行っているマスコットキャラクター、さつまもんに目ざとく見つけられた。


「おっ! 九郎どん!」

「今日も威勢がいいな。黒糖を買うから二袋頼む」

「あいわかりもっそ! おイッそこのッ! 黒砂糖ばよかしこいれちゃれ~ッ!

 は、そじゃ九郎どンまた薩摩ン肝んフトかしィばっか集まッちて練ッど云うちょッて江戸んにせェにもよかにおッどっち言ってもっそ九郎どンもきィやっか、よかかッッ!?」

「ああよかよか」

「うむッ! さすがじゃッ!」


 九郎が手をぱたぱたとしながらいつもの低いテンションで答えているので、タマは声を潜めて異様な気迫の感じるさつまもんを直視しないようにしながら聞いた。


「え? え? 兄さん、何言ってるのあの人」

「さあ……己れもよくわからんから適当に応えればいいんじゃないか?」


 代金と引換えに黒糖を受け取って、ぶんぶんと手を振り奇声を発するさつまもんを尻目に二人は歩いて行った。

 軽々しく返事をした九郎だったが後日薩摩藩士達に招かれてまた肝練りに参加させられる事となるのだが、今は知る由もない。

「今度肝練りしない?」「チョーオッケー」ぐらいの軽いノリで返事をしてしまったのを後悔するには、彼らの言語を解明しなければならないのだ。




 *****




 玉菊という太夫には家族が居た。同じ職場で働く遊女や陰間だ。彼女らとは血は繋がっていないが、心は繋がっていた。

 いくら辛い目に会おうとも逃げ出さなかったのは、家族の為でもあり、また足抜けして外の世界に出たとしても家族も誰も居ないのが怖かったからだ。

 玉菊太夫は死に、タマというたった一人の小僧になってしまった。

 それでも頼もしい大人が側に居てくれて、兄と慕っている。いつか六科の事も父と呼びたいし、お房とももっと仲良くなりたい。

 彼の兄の九郎は妙な友達が多く、変な事件に巻き込まれることばかりで時には楽しげに、または面倒くさそうに過ごしているがタマから見て一番彼らしい時間がある。

 

 鳥山石燕の自宅。 

 その縁側で石燕と九郎は並んで陽の光を浴び、茶を飲んで過ごしていた。

 

「見たまえ九郎君。白梅の花が咲いている」

「そうだのう」

「ふふふ、裏には桜も植えているからね。春が楽しみだ」


 そんな事を話して、それ以外は無言で過ごしていたが、居心地の悪さなどは感じない空間を作っていた。

 別段いつも通りの九郎の表情だが、タマにはああやって二人で過ごしている時が一番彼らしい気がして、いいなあと感じるのだ。

 タマは思う。

 

(わっちはもう幸せだから、今度は九郎兄さんの幸せをボクが願ってもいいよね)


 タマは時々、誰かの頼みを聞いてそれを解決する九郎を見ながら考えるのだ。

 彼には、本当にやりたい事というものはないのかもしれない。

 できれば、余生を過ごしたいだけなのだろう。

 少しの時間でも石燕とただ過ごす時はきっと望みに近いように思える。


 だから、この時間が続けばいいな、とタマは願っていた。








「ちょっと。震えるのやめてくれないかしら。書きにくいの」

「逆さ吊りにされてれば痙攣だって起こるよ!? お房ちゃん下ろしてってば!」

「妖怪・天井下がりを描く練習なんだからもうちょっと頑張ってなの」


 天井の鴨居からぶら下がらせられたモデルのタマは不満を言うが、却下されてしまった。

 とりあえず逆さ吊りの時間は早く終わって欲しい。

 これは頭に血が登るから、助平な妄想して時を過ごそうとすると余計酷いことになってしまうのであった。






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