41話『計画通り』
ここのところ好天が続いたおかげか、俄に気温が上がり江戸の町を覆っていた雪も溶け消えている。
お化け屋敷の一件で、妙な気に当てられて再び体調を崩した石燕を九郎が見舞いに行った時にそれは渡された。
小さな、赤い紙で折った手裏剣である。
「なんだこれは」
随分と懐かしく見た気がする折り紙を受け取り、くびを傾げる九郎である。
「寝床の柱に気づいたら突き刺さっていてね」
「紙なのにか」
九郎が裏表にひっくり返しながら折り紙手裏剣を眺める。
材質は丈夫な和紙を染めたものであることは確かだが、どうやって木の柱に刺さっていたのか不明だ。柱にはくっきりと跡が残っているのだが。
「開いてみるといい」
一度開いてわざわざ折り直し九郎に渡したらしく、やや折り目が緩んでいた。
九郎は引っ張り、なるべく無駄な皺を作らないよう慎重に開く。
中には更に折りたたまれた細い紙片が入っていた。
そして、折り紙の内側に木炭で書いた文字。
『わくわく忍び村 新宿に仮開き』
そう書かれた広告と、小さな入場切手が封入されていたようである。
「……招待状か? ええと、いつだったか言ってた天狗面の忍者村の」
夏に百物語で語られていた隠れ里である。何処の地方だったかは九郎も憶えが無かったが、わざわざ江戸に作ったというのだろうか。
まあ確かに、秘境にテーマパークを作ったところで誰も来ないのは目に見えている。
石燕は首肯しつつ、布団をもぞもぞと引き寄せた。
「恐らくね。しかしまあ、私はこんな具合だから九郎君、代わりに見てきてくれないかね?」
「それは構わぬが。とにかく安静にしておれよ? 薬は飲んだか?」
「勿論将翁から貰ったものを愛用しているよ。これをスっと飲めば……エホン! 気分がしゃっきりとして痛みが消えるね!」
「それヤバい薬じゃないよな」
九郎が呻くが、石燕は自嘲気味な笑みを浮かべて肩を竦める。
「大丈夫大丈夫。ただこれを飲んだ後は半日は一滴足りとも酒は飲めないのが難点だね。飲んだら薬と反応して意識が悪い世界にぶっ飛んだまま永久に帰ってこれなくなるらしい」
「バッドトリップ死とか」
「散歩も血の巡りが早くなるから厳禁だそうだ。ふふふ可笑しいね。散歩の語源は薬の服用後に[行散]と言って体を温めなくては中毒になるから歩き体を温めるという事から来ているというのに」
「安静にしてろよ、マジで」
などと、いつも通りの遣り取りをして九郎は不安だったので石燕を寝かしつけてから、新宿へ向かうのだった。
*****
道中、せっかく新宿に行くのだからと九郎は千駄ヶ谷にある天爵堂の屋敷へ足を伸ばした。
この頃の渋谷、新宿あたりは狸が道端で昼寝をしているようなのどかな田舎で、人も疎らだ。
辺鄙なところに隠居している元幕府の用人である老人が、鏡開きをした餅を食って喉に詰まらせていないだろうかと思いながら家の庭へと上がると、
「やあいいところに来た」
と、天爵堂が面倒を──大抵は子供達の授業など──押し付けるときに浮かべる笑顔を見せながら九郎を招いたので怪訝な顔をする。
この男、普段の愛想はあまりよくなくて人が訪ねてきても本に目を落としたまま顔を上げぬ事もしょっちゅうなのである。
九郎が縁側に座りながら半目で窺うと、二人の子供が居た。
年若いのに苦々しい顔が堂に入っている雨次少年と、対照的にいつも笑顔なお遊だ。
「さあ丁度九郎先生が来たんだから彼と一緒に行って来なさい。僕はどうも政治の具合が悪くてね。少し家で休みを取らなくてはいけない」
「政治批判を理由に何をさせようとしておるのだ、お主は」
謎の理由で子供の世話を押し付けてくる天爵堂であった。彼は現政権に不満を持っている。老中は敵だ。将軍は傀儡だ。資本主義は悪魔の発想だ。革命でも起きないかと残り少ない寿命で密かに期待していた。
ともあれ、お遊がこちらに来て一枚の紙を広げてみせた。
「九郎くん、大変なんだー! ネズちゃんが誘拐された!」
「なんと、あの委員長がか?」
「委員長?」
「いや、お主ら三人の中ではなんとなくそれっぽいであろう。どれ……」
と、何やら脅迫状めいた文章が書かれている紙を受け取ってしげしげと眺めた。
それは字を習っていれば子供でも読めるようにわかりやすく平仮名で書かれているようで、内容は要約すれば、
『根津小唄は預かった。返して欲しければ雨次とお遊は地主の家の先にある忍びの村まで来い。あと一応保護者も連れてくるように。来なかったら、まあ別に何をするってわけじゃないけど許さぬ』
というような事が書かれている。
九郎は大きく頷いて、
「なるほど、大変だ」
主にこの脅迫文を送った奴の頭が。
そう心底思ったが、遊びの一つであろう事は窺えた。そもそもこの忍びの村というのが石燕から切手を預かったアトラクションパークと同一であるらしい。
それならば子供達を連れて行ってもよいかと九郎は思うのであったが、雨次が微妙な使命感と面倒臭さに板挟みになった顔をしている。
「乗り気のようなそうでないような感じだの」
「まあ……小唄を迎えに行くのはいいんですけど、うちの母が」
彼が言うには、雨次の家に直接この脅迫文が投げ込まれたのを母親が発見して、
『地主の娘が誘拐!? ざまああああ!! いや待て落ち着け。助けて礼金をふんだくれる好機! よっしゃ雨次行って来い娘を拉致り返して地主の褌まで毟り取る要求をしろ!
昔からこういうよね? 貧乏人には魚を焼かせろ、金持ちの家は焼けって。ん? 今それ関係ないだろ!! フンドシ!!』
と、明らかにキの字な事を叫ばれた挙句、雨次が何故か大根で殴られた後に彼女は糸が切れたようにばったりと母親は眠ってしまった。
精神が正気度判定失敗しているような母親であるのだが約束事などの記憶力は無駄に確かなために、次に起きたときまでに何らかの成果を求めてくることは目に見えているという。
それを果たさなかった場合いかに恐ろしい事になるか……一番可能性が高いのは彼女自身が地主の家を焼き討ちに行く事案だ。その場合息子の雨次まで遠島か磔にさせられてしまうだろう。困ったことに。
つまり雨次としては、
「小唄のフンドシだけでも持って帰らなくては……」
「その発言だけ聞くとヘンタイのようだなあ」
「ネズちゃん履いてたっけ?」
彼の何か勘違いした厭な決意を聞きつつ、九郎とお遊もそれぞれ反応を零すのであった。雨次も大分精神が疲れているのだろう。
*****
元禄の頃、日本全国で行われた新田開発の勢いは凄まじいものがあったらしく、地面に埋まった木の根すら片っ端から掘り返して田畑を増量させていった。
それからある程度広がり増えると、今度は少ない面積で大量の農作物が取れるように農政改革が行われる。中でも江戸近辺は豊富な肥料と最新の農耕技術が組み合わさり最強に見えるほどであった。
新宿のある農作予定地。まだ畑の形になっていない草原に、簡単な幕に囲まれた場所の中で丸太を組み合わせてあたかも張りぼての一夜城が生み出されていた。
とはいっても高さは然程無く、九郎から見れば木組みの本格的なアスレチックに見える。穴を掘ったり泥を作ったりと、順路通りに進むには飛んだり跳ねたり登ったりと様々に体を動かす必要がある工夫が見えた。
(魔王のところにもあったなあ……風雲なんとか城みたいな作りの)
妙に大工技術に感心して眺める。九郎ら三人以外にも見物客は訪れていて、まだ建築途中なのか資材を担いだ忍び風の黒装束が鳶職のように丸太の上をすたすた歩いている。
それ以外では地元の農民も建築に参加している。地主が冬で仕事のない農家を雇って作らせているのである。
こういった体を動かす為に遊技場は実際に当時でも作られていたらしく、鎌倉・尾張などでは結構に繁盛していたようだ。
一段と高い櫓に居る二人組が九郎らに気づき、屋外だというのに用意していた炬燵からいそいそと出て仁王立ちで見下ろした。
片方の大柄な黒装束の覆面男が野太い声を上げる。
「ふあはははは! よくぞ来たな小僧ォ! 貴様の目的の小唄はここだ!」
「いや、なんかすまんな雨次……」
不必要なまでに縄でぐるぐるに簀巻きされた小唄が申し訳無さそうな顔でこちらを見てくる。
そして大柄な忍びを睨むように見上げながら、
「うちの父さんがまた妙な遊びをして……」
「ばぁぁっきゃろう! 父さんじゃあない! 今の俺は謎の忍びの頭領・甚八丸様である! ほうら可愛い小鳥さんたちも俺を祝福しているよーう! くそっ! 群れるな卑怯だぞ! 俺の命はともかくこの懐に住み着いた可愛い子猫は守らねば!」
「カラスに啄まれておる……」
ぎゃあぎゃあと黒い鳥に襲われつつも、よく響く声で高らかに叫んでいる。彼は胡乱げな眼差しを向けてくる雨次を指差しながら、
「そして貴様! うちの娘に幼馴染なんて羨ましいかつ微妙に負けっぽい属性を付けようとしやがって! 小唄が許しても……この甚八丸が許すものか! 甲斐甲斐しくてお姉さんぶった幼馴染なんてどう考えても負け組確定な人物背景じゃねえか! このやろう!」
「娘って言ってるし……っていうか負け負けって言わないでくれないか父さん」
「というわけでこの施設を使って雨次くんの無様な姿を見たいと思いまーす! 幼馴染二人侍らせてる小生意気な少年の悔しがる顔を見たいおじさんは手を上げてくださーい!」
すると、作業している黒装束の男たちが一斉に、
「はーい」
と、手を上げた。駄目な大人しか集まっておらぬ。
大いに満足したように甚八丸は頷いて、アスレチックの入り口を指さした。
「八つの関門を突破しなければ小唄は助からん! 具体的に何が助からんかというと婚期とかそういう──痛! 蹴るな! ありがとうございます!──とにかく、男なら正々堂々かかってきやがれぇ!」
「九郎さんなら普通に外から回ってあの櫓に登れるのでは?」
「良いか、雨次よ。せっかく作った罠や仕掛けをガン無視で突破するのはな、凄く可哀想だからやってはいけないのだ」
「はあ……」
妙に感情の篭った説得を受ける。
異世界で彼が住んでいた魔王の城というのは普通に入り口から侵入すると実に様々な仕掛けが楽しめるダンジョンになっていたのである。
強制縦スクロールで溶岩が迫ってくる部屋とか。
置いてあるピアノでマゼッパを弾かなければ扉が開かない部屋とか。
像に宝石を嵌めると動いて何故かバッテリーが手に入る部屋とか。
脱出ゲーム風に頑張って考えて作った部屋とか。
あとトイレを調べたら急に出現する究極っぽいボスモンスターの罠とか。
暇だったので九郎も魔王と一緒になって色々試行錯誤をして作り上げたのだったが、実際に行われた攻略方法は指向性マイクロブラックホールの投射魔法による破壊だった。おのれ闇魔法使い。モンスターなどトイレに入ったままバスターされてしまった。
大人として、あんな無粋な方法を子供に教えるわけには行かない。
釈然としない顔をしながらも三人は入り口へ無かった。
「よーし! 頑張ってネズちゃんを助けるよ雨次!」
「助けるかあ……炬燵まで用意してるからどうも緊張感が……」
「ここで見捨てて帰ったらネズちゃん凄くへこむよ。あれで重い子なんだから」
入り口には天狗面を被った忍びが受付をしていて、
「切手を拝見します。はい、どうぞ。子供向けはこっちの入り口です。保護者の方は後ろからついていって、危なくなったら手を貸してあげてください。出口まで行くと記念手裏剣が貰えます──おや? これは鳥山石燕様に送った分の切手では?」
「あやつは体調が悪くてな。己れが代わりだ。駄目か?」
「いいえ、単に確認です。確かに鳥山様は運動がお得意には見えませなんだから仕方ありません。どうぞお楽しみを」
と、やたら丁寧な案内を受けて板で大人向けと区分けがされ順路となっている方向へ歩き出した。
なお、隣の大人向け施設からは時折悲鳴とか奇声とか聞こえてきて、九郎は顔をしかめた。外では入場切手も販売されており、暇つぶしに集まった人達がやっているのだろう。
基本的に江戸の人達は娯楽に飢えていてノリが良い。このような新しい施設など、大人でも皆物珍しさから次々に参加して来るのである。
大人向けに比べて子供向けはそうそう怪我などしない用に作ってある。具体的には竹の先は尖らせていないし泥にマキビシも混ざっていない。
だがそれでも、
「くっくっく……果たしてあの青瓢箪がこの試練を乗り越えられるかなあ! おじさん的には是非苦戦してくれれば嬉しいなあ!」
「……なあ父さん、これ別に私攫わなくても普通に私ら三人でこさせればよかったんじゃ」
「ここで小唄を諦めるようなら奴の義理人情などそんなものよ! お父さんそんな薄情な餓鬼と付き合うのには断固反対するってぇの」
「だから付き合うとか付き合わないとかじゃなくて雨次とはもう友達なんだって……」
げんなりとしながら過保護を拗らせている父を見やる。
嫁には頭が上がらず働き者だし他の百姓からの評判もよいのだが、馬鹿なのが難点なのである。
決して夜鷹の息子である雨次を差別しているわけではない。やましい目をして小唄に近づく相手は誰にでも倉庫裏に連れ込んでお話をするタイプなのだが、逆に小唄の方から雨次へ積極的なので嫉妬混じりにこのような謎の試練を与えているのであった。
それにしても、と小唄は器用に木造アスレチックが出来上がった敷地を見下ろして、友達が進んでいる子供向けコースを確認する。
(私なら問題ないけど、雨次とお遊は大丈夫だろうか……)
と、少しばかり心配した。
小唄は生来の身軽さを持っていて、お淑やかに見えるが山道などもすいすいと走れるほどであるが、基本的に引き篭もり気味な雨次と時々なんでもないところで転ぶお遊には不安がある。
関門というのは、下が泥沼になっている場所を飛び石のように越えていく所や壁を忍刀を使って飛び越える所、縄梯子を登ったり下りたりする所などがあるが、怪我をしないで欲しかった。
(まあ、九郎先生が後ろからついていてくれるから……天爵堂先生だったら危なかったけれど)
のっそりとしたあの老人だったならば子供向けのコースでも腰をやってしまうところは容易に想像できた。九郎が何歳かは知らないが、小唄や雨次から見れば立派な大人である。学もあるようだしあちこちで働いていると聞く。ヒモというのは嘘だろう。多分。
後ろから二人を見守り、転んで泥に落ちそうになればすっと近寄って襟を掴んで引き上げたりしてやっている。
それにしても平衡感覚が秀逸である、と甚八丸は九郎を見て思う。狭い足場に飛び乗って落ちかけた子供を引っ張り戻しても重心が安定してまったく危なげがない。身の軽さから見世物小屋の飛び技士か、忍びの術を知っている類かと思ったがそうではないように見える。
九郎の地味な才能がそのバランスである。足で踏める場所があれば何にでも飛び乗れ安定することが出来る。普段から屋根の上などを走り回るのも、本人にしてみれば簡単な事なのだ。
「あっちの先生は大人向けでも行けるか? 個人的には送り込んでやりたいが、攻略されたらされたでなんか腹立ちそうなんだよなあ……女にモテて金持ちのヒモで能力も高いとなると」
「わが親ながら心が狭い……」
甚八丸は既に怪我人続出の大人コース、忍び罠地獄巡り上忍編へ目線をやった。一応マキビシは尖端を丸くしているのだが、やっぱりやり過ぎだっただろうか。あと落とし穴は下に人が溜まらない仕組みにしなければ。既に折り重なって落ちた人で埋まっているものもある。
田舎で引っ込んで暮らしを続けていた隠れ里の忍び達が提案して、彼が手伝いひとまず作ったものだ。右も左も訓練を積んだ忍びの裔が集う村で生まれて死ぬまで過ごしていた者達なので、一般人に対する手加減が欠けている。
だがまあそれでいいのかもしれない。忍びに本来は手加減など不要なものなのだ。細々と技だけ後世に伝えて不忍に生きている自分や江戸の者達はもはや忍びではない。
忍術使いと言ったところなのだ。
そしてこの娯楽化した忍びの体験を行おうと隠れ里が決めたのは、それもまた時代の流れで本当の忍びが消えていく一端なのだろう。それもまた良し、と男は思う。
毎日が楽しければそれで良い。それが男の単純な考えである。
「ふあはははぁ! そこは糞不味い保存食を食わねば通れぬ関門! 気付け薬にもなってるからキツい味──あれ? なんだあいつ普通に食ってやがる……普段相当良い物食ってないんだな……」
「父さんの雨次を見る目が急に憐れに」
不味さに顔をしかめている九郎とお遊の分まで雨次は保存食を口に入れている。小唄も食べたことがあるが、何度も「毒じゃないよな?」って確認したくなる味だったのを覚えているのであったけれども、彼はけろりとしていた。
雨次は体に薬毒の耐性ができている為に平気なのであったが、それは当人すら知らぬことなので単に悪食だと思われているのであった。
手裏剣を投げて的に当てる関門はお遊が結構上手に当てて雨次の分も受け持って成功。
泥沼を水蜘蛛で渡る場所は転びかけたお遊を雨次が助けつつも進み。
苦無で土壁を掘って穴を開けるところも協力して攻略。
九郎は危ない時だけ手を貸して、それ以外は子供たちに任せて後ろから付いて行っていた。完全に父兄の気分である。
そうしてようやく、小唄が囚われている櫓の下に辿り着き、
「ネズちゃーん! 助けに来たよ!」
「お遊ちゃん、雨次……」
疲労の色を見せながら雨次も櫓の小唄を仰ぎ見て、
「はあ……待ってろよ小唄。すぐにそっちに行くから」
「っ! あ、ああ」
普段の雨次なら面倒臭がって来もしないのではないかと思っていた小唄は、妙にやる気のある雨次の様子を見て不思議な気分になった。
彼が褌を持ち帰るのが目的とは知らない。
しかし下に居る三人の位置から櫓の上は一間五尺(3メートル30センチ)程も高さがある。
それに、
「凝った作りだな。登る足がかりは無く返しまで付いておる」
九郎が腕を組みながら見上げる。
櫓の前に壁があるのだ。平面の木板を組み合わせて急角度に固定されていて、一番上がひさしのように突き出ている。
駆け上がるには傾斜がきつく、飛び登るには高い。
「行っくよー! うおー!」
お遊がまず何も考えていないように壁に向かって走り、蹴って跳ぼうとしたのだろうか失敗して顔から板にぶつかって涙目になった。
雨次は助走をつけて垂直跳びを試みて壁の突き出た部分を掴もうとするが、そんなに高くは跳べないようだ。
「そうだ! 雨次! 肩車して!」
今度はお遊を肩に乗せて背伸びをするのだが、それでも届かない。
「雨次跳んで跳んで!」
「お前を担いでるのにそんなに跳ねられるか!」
それでも一応、二三度は跳ぼうとしてみるのだが当然届くはずもなく、バランスを崩して雨次は転びかけた。
二人が試行錯誤しながら壁を登ろうとしているのを小唄ははらはらしながら見ていて、やがて気の毒になった。
自分の父親の我儘というか遊びで友達に迷惑と苦労をかけているのだ。
「二人共……! もういい、無理に登らなくてもこんな遊びに付き合う必要は無い! 父さんは私から叱っておくから……」
「もういいってなんだよ」
機嫌が悪そうな声が、雨次から帰ってくる。
「何も良くはないだろ。それに付き合う必要があるかどうかを勝手に決めるな。僕にはお前が必要だからやってるんだ」
正確に言えば「お前のフンドシが母親の説得の為に必要」なのであるが、省略して放ったその言葉に、
「えっ……」
思いっきり勘違いして顔を真赤にさせて口をあわあわさせる小唄。
顔が熱を持ち、意志とは関係なくにやつく感覚に慌てて手で隠そうとするのだが縛られている。
まずい、見られたくないと思って芋虫のように這って櫓の後ろに下がり、顔を床に押し付ける。
(あああああ雨次が私を必要としている!? 手料理が効いたのか!? どうしようすっごい嬉しいんだけど顔が熱い! あああうううう)
もぞもぞと悶える娘の姿を見て、甚八丸は地団駄を踏みながら、
「は! 出ましたー! 現実にいたら厭な男三大要素、鈍感、難聴、言葉足らずぅー! 舐めてんのか小僧お前! 本気で腹立つクソ!」
「えええ!? 何か悪かったか僕!?」
「うっせ馬鹿! お前今の発言で小唄の闇が一段階深まったから覚悟してろ!」
「闇ってなんだよ!」
理不尽に怒られた雨次であったが、兎にも角にも壁を登らなくては埒が明かない。
お遊はまだ無駄な徒労というか、壁に体当たりのような事を続けているが自分達の力ではこれを越えられないだろう。或いは道を戻って、忍びの道具を持ってきてこれの攻略に用いるべきなのかもしれない。
何を使えば大丈夫だろうか、と頭を悩ませているとふと思いついた。
「九郎さん!」
「なんだ?」
「……お願いします、手を貸してください!」
「うむ。素直に大人を頼るのも一つの答えだ。ちゃんと気づいたな」
今まで助言らしい助言もしていなかったのだが、ずっと後ろから見守っていたのである。
子供のやらせるに任せていたが、元より頼まれたのならば手を貸すつもりであった。
九郎は雨次に近寄ると、彼の腰のあたりを両手で掴んでひょいと持ち上げる。
「え゛。ちょっと九郎さん?」
「大丈夫大丈夫。多分」
云うと、櫓に向けて雨次の体を上に向けて放り投げた。
悲鳴と共に彼の体は放物線を描いて数メートルの距離を飛行して櫓に投げ込まれた。
予想外の方法で上がってきた雨次に驚いて思わず甚八丸も彼の体をキャッチして、
「うおお!? 渡来!!」
「ぎゃあああ!?」
「雨次ー!?」
うっかり勢いで床に叩きつけてしまった。
当の投げた九郎はちょっと飛距離調整が甘かったか、と確認する。
彼の腕をお遊が引っ張りきらきらした目で、
「九郎くん九郎くん! わたしもー!」
「うむ」
そう言って今度はお遊も放り投げてやった。
彼女は楽しそうに、
「きゃふ~」
と叫んで櫓まで飛んで、倒れている雨次の上に落ちた。彼のフィジカルダメージは深刻だ。
襤褸雑巾の気分になりながら雨次はよろよろと立ち上がると、五畳ほどの広さの櫓の上で最後の敵と相対する。
小柄で細身な雨次に比べて、太くて硬くて巨大な男、甚八丸。全身を包んだ忍び装束の上からでも鍛えられた体がわかる。
彼は手に持った、現代で言うと布団たたきのような形の木の棒を見せつけるように軽く振る。
「よぉくぞここまで辿り着いたな小僧ぉ! 最後の試練を与えてやろう。この杖『不細工殺し』で殴られてみやがれ! 大丈夫痛がるのは不細工だけだからっつーか痛がったら不細工認定」
「そんな棒で殴られたら痛いのは当たり前じゃないか」
「ふあははあ! 殴ってもいいのはぁ殴られる覚悟をした者だけ──あれ」
甚八丸の持っていた不細工殺しが後ろから伸びた手に掴まれて奪われた。
後ろには、縄が解かれて怒り顔の小唄が立っている。彼女は抜き取った不細工殺しを全力で甚八丸の尻に殴りつけた。
「ぐあああ!! 痛──くねえ! 全然痛くねえよちくしょう! でも俺の股間で温めて孵化させようとしている烏の卵を守るために殴るのは止めるんだ! あひぃ──!」
「そんなものを股間に入れてるから烏に襲われるんだ! この馬鹿父!」
痛さのあまりに四つん這いになって居る甚八丸を叩き続ける小唄。
「縄を解いたのか」
「ああ。お遊ちゃんに切ってもらった」
「包丁でねー」
なるほど、凄く明瞭な説明だと納得しかけたが、雨次はお遊が持ったままの包丁に目が止まってほんの一秒思考し、疑問が浮かんだ。
「……? なんで包丁持ってるんだ?」
「え? だってネズちゃん攫われたって聞いたから。攫われたなら取り返さないと。だから家から持ってきたんだけど。」
「取り返すのに包丁って要るのか……?」
「要るよー?」
「いや、そんな何を当然って顔されても。危ないだろ、包丁」
「?」
よくわからないとばかりに首を傾げるお遊。何故か、これ以上追求したらいけない気がしてとにかく役には立ったのだからいいか、と包丁のことは考えないことにした。
とまれ、小唄の制裁タイムは終了したようで、ほぼ這いつくばるような体勢で甚八丸は、
「ち、畜生! 今日のところはこれぐらいにしといてやぁるぅ……! これは賞品の激辛──じゃなかった、激赤フンドシだ! 持っていけぇ!」
「やった。しかも赤いぞ。かなり赤い」
「喜んで受け取るんだ……」
図らずも目的のフンドシを手に入れたことで喜色満面になる雨次を、小唄がわけがわからぬとばかりに見た。あんなにフンドシ好きだっただろうか、それも非常に赤いのに。
ともかくわざわざ彼女からフンドシを貰う必要はなくなった。頭のなかにふと小唄に対してかける言葉が浮かんでくる。
一つは「これで小唄は用済みだな」と笑いながら言う選択。
いや、別にそれを選ぶ必要は無い。さっさと帰りたかったので雨次は安堵の笑みのままで、
「──それじゃあ、帰ろうか。小唄」
と、顔の近くで言うので再び彼を意識し直した小唄は紅く染まった顔を見られないように伏せて、
「……うん。ありがとう、雨次」
短く返事をした。
こいつは、言っている本人はそんな風に思っていないというのにどうしても人をどきりとさせる。仕方ないやつだ、と小唄は思う。
判定的に言えばグッドコミュニケーションである。
そんな二人の様子を見て不満そうにお遊が包丁をちらつかせながら笑顔のままで二人の間に割って入り、
「わたしも頑張ったのになー。」
「え!? あ、ああお遊ちゃんもありがとう包丁おろして」
「やっぱり包丁持ってるのおかしいぞお遊!?」
「うん。そうだね。攫われた子は助けたからもう要らないよね。えへへ。」
などと、遣り取りをするのであった。
それを下から見上げながら、九郎は小さく笑って肩を竦めた。
「うむ、微笑ましいなあ」
彼の目は節穴だと言われている。
呟いた瞬間、強烈な風圧と共に彼の頬を掠めて高速で飛来した手裏剣が丸太に突き刺さった。
つ、と頬から汗のように僅かに血が流れる。
手裏剣が飛んできた方向からお気楽な声が掛けられた。
「おーう九郎じゃねえか。手前も遊びに来てたのか?」
大人向けコースからぶんぶんと手を振っているのは中山影兵衛だ。かなり距離があるというのに、九郎の頭ギリギリに手裏剣を投げてきたようである。いや、単に頭を狙っただけかもしれないが。
丸太に突き刺さった手裏剣の重さと早さを考えれば、直撃していれば確実に頭蓋骨は砕いて脳を破壊していただろうことは推測出来た。
九郎は振り向いて手を振り上げて文句を言う。
「何をする影兵衛……手裏剣の取扱掲示板に『本製品を人に向けて投げないでください』とか書いてただろう!」
「いんや~? 『本製品を手裏剣以外の用途に使用しないでください』とはあったけどな」
「そりゃそうか」
そりゃそうである。
丸太の木組みによっかかり、いつも通りの浪人姿な影兵衛を見て九郎は半眼で声をかけた。
「というかお主また仕事をサボってこんな遊び場に……」
「おいおい、勘違いすんなよ? 拙者ァ仕事で回ってんのよ。最近このへんの田舎で民家に押し込み働きかける輩が出てるみてェでな」
「で、忍び村に居るのは?」
「怪しいだろこれ。調査調査ってな! あ、それより九郎、今晩博打うちに行かねえ? 拙者必勝法思いついちまった気がすんのよ、本気で。っていうか絶対来い。手前が鍵だからよ」
「まあ構わぬが……」
「よし、んじゃあちゃっちゃとこれ終わらせるわ。けひはは!」
そう言って影兵衛はコースを走って突破し始める。
本格忍者が作った、一般人にはやたら厳しいアトラクションだが影兵衛ほどの身のこなしをする男ならば制覇は容易い。
特に手裏剣などは忍び顔負けの精度で的に当てている。闇夜で見えにくい棒手裏剣を彼が扱ったら視認すら出来ずに遠距離から殺害されてしまうのではないかと九郎はコース外の木組みに登って見物しながら思った。
(近づいてもばっさりやられるからな……あやつとやるには魔女の猟銃で……)
などと、考えていると無事に影兵衛がゴールに辿り着いたようだったので、九郎はちらりと縄を使って櫓から下り先に帰っている子供たちの後ろ姿を確認してから影兵衛のところへ向かった。
軽く汗を掻いている影兵衛は賞品で貰った十字手裏剣を楽しそうに手の中で弄びつつ、
「よう。さっきぶり。いや中々、おじさんになると疲れるわ」
「良く云う。それより、博打の必勝法とは?」
「ま、それはおいおい教えてやっからよ。そろそろ今日の仕事も終わりだ。先に役宅寄ってからだな」
「うむ。しかし博打に使う金が無いな……」
九郎は顎に手を当てながら、あまり使いたくはない手段なのだがと思いつつ種金を作る算段を考えた。
*****
日が沈みかけている刻限。
火盗改の役宅で終業の処理を終えた影兵衛を引き連れて九郎は神楽坂にある石燕の屋敷へ戻ってきていた。
彼女は相変わらず布団に寝たまま、本を読んでいたようだ。家に明かりは点いているが子興の姿はない。恐らく、夕飯の材料を買いに出ているのだろう。
石燕は昼間よりもやや具合の良くなった顔色で微笑んで迎えた。
「やあ九郎君。忍び村は面白かったかね? おや、今日は影兵衛君も来たのかね?」
「うむ。まあ、その話は後でするが石燕よ、実はな、こやつとこれから仕事に出なければならぬのだが、少しばかり金が入用でな……なあ影兵衛」
「お、おうよ」
「それは大変だ。そうだね、五両ほどあれば大丈夫かね?」
石燕は枕元の箪笥から小判を取り出して揃えて、何の躊躇いも無く九郎に渡した。
九郎は頷きながら、
「すまぬな。余ったら返すので」
「別にいいよ。気をつけて行って来たまえ」
そう言って送り出してくれたので、二人は家から出てやや離れたところでぴたりと立ち止まった。
冷たい風が吹いていた。
互いに目を逸らして、ぽつりと低い声で影兵衛が云う。
「……なあ、人斬りの拙者が云えるようなことじゃねえけど。九郎手前──最低だな」
「すまん己れも改めて実行してみたら凄くそう思った。罪悪感がヤバイ」
「女誑の現場って実際見るとこんな感じなんだろうな」
女誑とは、店の妻や娘などの女相手に言い寄って家に上げてもらい、金品を奪ったり引き込みをしたりする盗賊の名称である。
九郎は握りしめたままの小判をため息と共に目の前で開いた。
(石燕ならツッコミを入れてくれると思ったのに)
こちらの企みなど見破って文句を言ってくる──でも多分最後には金を渡す──と思っていたのに、素直に渡されるのが一番心に効く。
自分は何をやっているのだろうか。少しばかり死にたくなる気分だった。
その時、薄明るい夕日に照らされて鈍く光った小判の間に、紙が挟まっているのを見つけた。
「む?」
「なんだそりゃあ」
九郎が広げた紙に、影兵衛も覗きこんで書かれている文を読む。
内容はこうであった。
『九郎君へ。博打をやるのはこの際いいけど、夜遅くなって体を冷やし風邪などを引かないようにね』
「……」
「……」
二人は目頭を抑えて再び互い違いの方向を向いて押し黙った。
病気で臥せっている孫のような年齢差の女を騙して博打遊びの金を貰った挙句、相手にはバレバレで逆に体の心配までされた男が居た。
主人公であった。
「……おい、九郎」
「……すまん今、二重の意味で泣きそうだからやめろ」
「……なんかごめんな」
「……うむ」
「じゃあ打ちに行くか」
「そうだな」
男は涙を拭いて掴むべき明日を目指して手を伸ばす。
如何に惨めな姿に堕ちようとも、信じた道を進む為に何度でも立ち上がり運命に抗うのだ。
なんかそんな格好よさ気な言葉で取り繕えないか九郎は少し悩み、諦めて賭場へ向かった。
余ったらやっぱり返そうとか、明日からもっと優しくしようとか後ろ向きなことを考えながら。
*****
渋谷、恵比寿に佐野藩の下屋敷がある。現在で云うならば恵比寿ガーデンプレイスが建っている場所である。
下屋敷というものは大名が泊まる上屋敷と違い、庭園を作ったり上屋敷が火事にあった際に一時的に避難したりする屋敷なのであるが、管理に武士を常駐させるのはこの何処の藩も貧しい財政の中では苦しく、渡り仲間という武士でない身分の者を使っていた。
そして、武家屋敷というものは町奉行や火盗改の手が入れないのである。たとえ逃走中の盗賊が火盗改長官の目の前で武家屋敷の壁を乗り越えて中に入ったとしても、追跡することは出来ない程である。
屋敷の中でどのような犯罪が行われていようとも治外法権とも言えるので露見することはない。
それで、渡り仲間の雑居する大部屋では違法賭博が行われていることが多かった。
影兵衛は最近新宿、渋谷の見回りの途中で見たことのある賭博の壺振りを見たためにここに来ようと言い出したのだ。
丁半と呼ばれる二つの賽子を使った賭け事である。
「丁」
「じゃ、拙者ァ半で」
九郎が偶数目、影兵衛が奇数目を予想して、他の客もそれぞれ言い合い、揃うと中盆という役目の男の、
「勝負!」
という掛け声と共に壺が開かれる。
「五・ニ(ぐに)の半!」
「っしゃあ!」
影兵衛が拳を握り笑顔を零す。連勝であった。
一方で九郎の方は負け続けである。病に伏した女を騙して手に入れた金を無駄に溶かし続けている。
九郎は小声で隣の影兵衛に云う。
「なあ影兵衛よ。もしかして必勝の方法って」
「手前と逆に賭け続けたらいいんじゃねえかって思ってな。今までを思い出したら、この壺振りの時だけ手前は負けまくってたからよ」
「お主……」
実際それで勝てているようなので九郎はなんとも言えなかった。
壺振りが出目を操っているのだろうか。九郎は鋭い眼差しで壺振りを見る。
見たもの十人が十人ヤクザ者だと思うような厳つい禿頭の男である。体中に傷跡があり、背中には天狗の刺青──攻撃力八。雑魚だ──が掘ってある程度の情報しか読み取れない。
いや、そもそも壺振りが細工できるわけはない。賽子を壺の中で転がした後で九郎は出目がどちらか決めているのだ。動かすような不審な動きがあれば一瞬でわかるし、そもそも九郎を直撃し続ける理由もないだろう。
しかし自分が選んだ目の反対というのならば、逆に己も利用するまでだ。
(今考えたことの反対が正解……だったな、魔王よ!)
次の勝負が始まった。
九郎は直感的に半だと思ったので、
「丁だ」
と、逆を選ぶ。影兵衛は半を選んだ。
そして壺が開けられる。
「三・ニ(さに)の半!」
「ぐうう!」
また負けた。
やはりこちらの考えを読んでいるのではないかと疑心暗鬼が浮かぶ。
思わず心の中で呼びかけて反応を窺う具合だ。
次の勝負が始まる。
こうなれば奥の手だ。
(己れは……選ばない)
「さぁ、ないか! ないか!」
中盆が呼びかける中、九郎は親指で銭を弾いて手のひらで受け止める。
表だったら丁。裏だったら半。予めそう決めた。
己の力ではなく運命に身を委ねる。
表。丁だ。
「一・六の半!」
「へっへっへ。九郎先生よ、ゴチになります」
「こんなオカルトありえぬだろう……」
結局、五両全部使っても解決策は生まれず、全額ドブに捨てたように消えた。
帰る時に無念さと申し訳無さから発作的に死のうとする九郎を、自分が殺しにくるまで落ち着けと慌てて説得する人斬りの姿があった。
その後、小遣いのお返しとして三日ほど九郎は石燕の家に泊まりこんで彼女をちやほやと世話して、料理を作ったり膝枕をしたりされたり、抱きまくら代わりに同じ布団で寝かされたりしたのだが素直に従っていたという。
病人に対する献身的な介護だと本人は主張していたが、関係者からは献身的なヒモにしか見えなかった。
余談だが激赤フンドシを成果として持ってきた雨次は母にこれまでの人生で最大に褒められた。フンドシなのに。赤いのが特に良かったらしい。
そして勢いでそのフンドシを試着した彼女は塗りこまれた唐辛子汁が直撃でマジギレし地主の家に火をつけに行こうとして必死に止められるのであった。




