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39話『晃之介と見る女』

 江戸の頃、記録を見れば関東では現代よりも雪が多く降り、時に吹雪くこともあったという。

 しかしながら九郎はこの江戸東京で遭難しかけるとは思っても居なかった。

 軽い気持ちで録山晃之介の道場へ出かけたのだが、途中で大雪と共に風が吹き荒れて視界を奪いだした。周囲は雪に覆われて建物の形や道の輪郭すらおぼつかない。

 ここまで降るのはさすがに例年に無く珍しい。

 

襦袢じゅばんでも着てくればよかったか……」


 言いながら身を縮まらせて、雪をぎゅ、ぎゅと踏みつけつつとにかく前へ進む。雪になれば足元も寒いので異世界から持ち込んだ旅用の頑丈で防水性のある靴を使用しているが、江戸の町人らも足を冷やさぬように色々と工夫をこらした足袋を履いているので然程目立たない。

 本当に晃之介の道場へ向かっているのか、自信が持てない。睫毛にまで雪が張り付きそうな吹雪だ。

 炎熱符という簡易暖房になる術符は、店の竈に二枚、炬燵に一枚使ってて九郎が持ち出す予備は無かった。


「うう、漬物と徳利の酒がシャーベット状になっておる気がする……」


 晃之介のところで一杯やろうと思って持ちだしたものだったが、解凍が必要な状態だ。八甲田山雪中行軍のように、中の液体を揺らして凍りつかせないようにする。

 

(これで晃之介のところが炭を切らしていたなどと言ったら泣くぞ、己れは)


 あのあばら屋道場で火種も無かったらむしろ晃之介が凍死してる可能性もある。

 若干心配になりつつも雪山を歩いているような心境でざくざくと銀世界の江戸を進んだ。

 

 恐らくはこの辺りだと、殆ど雪で埋まった小川を目印に晃之介の道場らしき場所まで辿り着く。

 どさ、と大きな音がこんもりとした雪の山の上から聞こえていた。

 誰か屋根の上で雪かきをしている。


「生きておるかー」

「九郎か。少し待ってろ、すぐに終わる」


 屋根の上から壮健な声が聞こえてきた。晃之介が手作りの木鋤を片手に顔を見せる。

 頭に手拭いを巻いた爽やか肉体労働系な青年の姿は、青年団か土方の男をイメェジさせる。彼が九郎の作った丼物のめしをがつがつと食らうところなど、九郎から見ればなんとも言いがたい若さを感じて嬉しいものがあるという。

 手際よく積もった雪を下ろして梯子を伝い降りてくる。雪空の下にしては薄着の動きやすい袴姿だが、労働の後で寒くはなさそうだ。さすがに手指の先は赤くなっているが。

 見ている九郎が寒くなってきたので、道場に上がり込む。

 

「お、用意がいいな」


 板間の道場に敷かれた筵に大きな火鉢が置かれていて、煌々と炭が赤く燃えてその上の湯が張った鍋を温めていた。

 鍋から上がる蒸気によって部屋はかなり暖かい。いや、こうも吹雪となれば風が直接肌に当たらないだけで、相当に違う。

 そそくさと九郎は火鉢に近寄って背中を丸め火にあたった。鍋に徳利を入れて酒を燗にし始める。

 晃之介も対面に座る。座椅子代わりに最近[膝茂様]を使うようになったのだが、これが結構座り心地がいい。ただ、これを枕に昼寝すると高確率で戦国武将の膝を借りている夢を見て嫌な気分で起きる。


「うどんも持ってきたから、後で食おう」

「お前の店は蕎麦じゃなかったか?」

「寒い時は蕎麦よりうどんだ。暑い時はそうめんがいいけどな」


 蕎麦屋の九郎の言葉に訝しげに晃之介が質問する。


「蕎麦はいつ食うんだ」

「客が蕎麦食ってるのを見て裏で『くくく……己れ達は日常ではうどんを食ってるのにあいつら蕎麦だぜ』って言い合うのに使う」

「厭な店だな」


 晃之介時々蕎麦を食いに行くが、そんな目で見ていたのかと思われるとなんとも損をした気分であった。

 熱燗にした酒を互いの盃に注いで、ぐいと飲み干す。

 冷たい空気で冷えた口から食道、胃までもじんわりと温める良い酒だ。江戸時代では、日本酒を更に水で薄めて売っている酒屋が多くあったのだが、九郎は決してそういうところでは買わないようにしている。

 湯気に当てて半ば凍りついた漬物を融かしていると、晃之介もここ暫くめしの伴であった重箱に入った煮しめを持ってきた。

 

「どうしたのだそれは」

「お八が持ってきてな。これの前に、柳川藩の藩士から分けてもらって中々良い正月を過ごしている」

「ほう。さすが、先生となると違うな……お、これは数の子か。よい、よい」


 素直な気持ちで嬉しがる。

 現代では貴重なハレの日の食べ物という印象の数の子だが、江戸ではそれなりに安く出回り過ぎて「甚だ下直(まったく価値が無い)」とまで言われたが、貧乏な侍などは重宝しぼりぼりと音を立てていつまでも食っているので、


 [たいがいに しろと数の子 ひったくり]


 と川柳で読まれるほどであった。

 安かろうが旨いものは旨いとして晃之介と九郎は摘みながら酒を呑む。ぱりと噛み千切れて口の中でぷちぷちと別れ、少し磯臭いような味と薄く昆布の味がして、これが良い。


「旅烏だった時などは正月の祝いと言えば兎を捕まえて捌いていた程度でな。ああ、一応今年も捕まえて肉を雪で保存してるから後で鍋に入れるか」

「年の瀬ぐらいサバイバるなよ……」

「徳川家の雑煮にも入っている由緒正しい肉なんだぞ、兎は。味噌も入れて味噌煮込みうどんにするか」

「うむ。そろそろ雑煮のすまし汁にも飽きた」


 などと相談しあう。

 外が再び吹雪いてきた。風の音を聞いて晃之介が嫌そうにため息をつく。


「しかし、家を持つとなると色々分からないことが多くて困った。何が足りないのか暮らしながらでなければわからんからな。雪下ろしなども初めてだぞ、俺は」

「そうか……確かに己れも前に住んでいたところは雪は降らなかったからな。やったことは無い」


 むじな亭含む長屋の屋根に今朝方積もりに積もっていた雪を、こっそり炎熱符で全て融かしてみたのだが垂れた水が凍って群生する殺人氷柱と氷の地面という二重苦の状況に陥ってしまった。

 勿論すっとぼけた。自然現象って怖いなあと。でも薄々気づかれているのでさっさと家を抜けだして晃之介のところへ来たのだが。

 

「そういえば、旅をしていた時にこんな大雪の村を訪れた時のことだ。泊まる場所を探したのだが、どこも旅人を泊めるような余裕のある家など無い。村の外れにある小屋なら泊まっていいと言われたことがあってな」

「ほう」

「その小屋は村が共有している農具を置いてある小屋だった。農具と言っても、持ち出せはしないような大きな奴だったから盗まれることもないのだろう。だが、冬の間はその小屋の雪下ろしを村民が交代で行っていたので、泊まる代わりに雪を下ろしておいてくれと頼まれた」

「ふむ。それで?」

「しかしまあ、一晩ぐらい平気だろうと高を括った俺と親父は雪下ろしをしないでさっさと寝た。そしたら翌朝早く、雪の重みで小屋が崩れる衝撃に目を覚ましてな。慌てて親父と走って村から逃げ出した」

「ひどい」


 録山のロクは碌でなしのロクだな……と呆れて呟く九郎。

 

「九郎は北国に旅に行ったことはないのか?」

「あるにはあるが……」


 思い出すように腕を組んで唸る。九郎もまた、あちこちに旅をしていたという話は晃之介も聞いていた。ただ彼の場合旅していたのは異世界なのであったが。 

 北の方を旅していたことで思い出せるのは、魔女が[永久樹氷の森]という世界自然遺産的な場所で炎熱符の効果試験を行っていたら、そこを住処にするエンシェントアイスドラゴンがマジギレして山火事の鎮火の為に精霊力を開放し、世界中の気温が一年を通して下がりまくり作物被害が洒落にならなかったことだろうか。

 悪いのはちょっと森林を関東平野ぐらいの範囲で燃やしたこちらではなくエンシェントアイスドラゴンだというのに。魔女の仕業と世界的に言われてしまった。被害総額に比例して魔女の懸賞金も跳ね上がった。いつかあのドラゴン殺すわと魔女も言っていたが……。

 九郎が悩んでいると晃之介がふと思いついたように、彼の話を続けた。


「こんな日には思い出す不思議なことがある」

「どんなことだ?」


 促す。


「あれもまた雪の日だった。俺と親父は山小屋に泊まっていてな。親父はすぐに寝たのだが、俺は寒さもあってか横になっていても中々眠りにつけなかった。

 暫くそうしてまんじりと過ごしていたら急に小屋の戸が開いてな。吹雪の中だというのに、真っ白い着物を来た女が小屋に入ってきたんだ」

「……」

「それで女は寝ている親父に近づき、息を吹きかけたようだった。親父の寝顔は見てわかるほど青ざめて、おそらく体は酷く冷たくなってしまっていたんだろう。

 女は次に俺の方を見た。動こうとしたが、手足が自分のものでないように動けなかった。やたら綺麗な顔の女だったことは覚えているが、そいつはこう言った。


『お前はまだ若いから命は取らないでおいてやろう。だが、いま見たものを誰かに話したらその時は命を貰いに来る……』


 ──とな」


 民話などでよく見られる、雪女の話であるのだがひとまず九郎はツッコミを入れた。


「駄目じゃないか。己れに話したら」


 そういうのは嫁にした雪女に話せよ、と九郎はジト目で晃之介を見る。

 彼は顔の前を払うように手を振りながら笑っていう。


「安心しろ九郎。今なら向こうから来ても返り討ちに出来る。それに前、百物語に使う怖い話はないかとお八に聞かれた時に既に教えたしな」

「そういえば夏頃に聞いた憶えがあるわな。というかお主の親父は河豚の毒で死んだのでは?」

「ああ。雪女が去って朝になったら普通に息を吹き返したからな、親父。なんでも体を敢えて冷たくして於き消耗を抑える特殊な寝方をしていたらしい。欠点は寝ている時に近づかれたら反応できないことなのだが」

「台無しだな親父! ドヤ顔で去った雪女も恥ずかしくて出てこれぬわ」 


 外の吹雪が益々酷くなってきた。まさに雪女日和とも言える。石燕の風邪がぶり返さなければよいが、と少し心配になった。

 九郎はふと気になって尋ねてみる。


「雪女が来た時の対策とは?」

「恐らくは火に弱いだろう。これまであった生き物で火に強い奴は居なかったからな」

「そりゃあ普通の生き物は弱いだろうよ」

「そこでまず先制でこの火が点いた炭を……投げつける」


 言いながら金箸で炭を摘んで見せた時。

 まさに、入り口の戸が開け放たれ、何者かが闖入してきた為に、咄嗟に晃之介は炭を投げた。

 いかな投擲投射の達人晃之介とはいえ、さすがに箸で投げるとなると勢いは付かないが不意は突ける。

 入り口に姿を現したのは、まさに白い袴を着た女である。髪を後ろで纏めて流していて、白い鉢巻を巻いている。体つきはほっそりとしていて肌も白い。まさに雪女のようだ。

 九郎は知らない顔であった。凍りついたように無表情のまま道場へ一歩踏み入り、手を振るった。

 手に握られていたのは小太刀の木剣だ。扱いやすく切り詰められて華奢にも見える女の手に馴染んだそれは、飛来してくる火のついた炭を正確に打ち払い火花を散らして落とした。

 咄嗟に投げつけられた炭を叩き落とすとなると、相応の実力か、


(戦う心構えでこの道場にやってきた……)


 ということかもしれない。

 九郎は晃之介に、


「……おい、先手は失敗したぞ」

「わかっている。あれは俺の客らしい──今日はどういった用事だろうか、おしん殿」


 と、晃之介が声を掛ける。

 顔を見たことはないが、その名前は聞いたことがあった。



 *****



 この雪女、名をお進と云う柳河藩、大石家の一人娘である。

 大石家の家禄は僅か三十石の家柄だが上役からの信頼がある家で、この度江戸に参勤する立花鑑任と共に江戸に娘も連れてやってきた。

 ただこの娘、容姿は大層に美しいのだが剣術を好み才覚もあったためか、並みの男では敵わぬ程の腕前になった。

 柳河藩では藩主も剣術槍術を奨励しており、度々御前試合を開くので女が剣をやると言っても面白がりはすれどやっかむ者も居ない。


 そしてそのうち結婚適齢期となったのだが、このお進は夫となる相手ならば己に勝てる腕前でなければと言いはる。

 見栄えは涼しげで麗しいのでこれまでに何人もの相手が挑んだが、尽く返り討ちであったという。

 無理をし、女に負けるという不名誉になる可能性にかけてまで三十石の家に婿入りしたくはないとすっかり男旱おとこひでりになったものの、当の本人は気にすること無く剣術を続けた。

 そして現れたのが柳川藩と懇意になり、無役で腕前の良い武芸者の録山晃之介だ。

 彼女の父の大石何某は晃之介に、


「少しばかり天狗となっている自信を一度打ちのめして頂けますよう……」


 と、結婚の話はぼかして試合を組んだのが、夏頃の話だった。

 六天流の稽古も精進の心を忘れないという教えがあるので晃之介も頷き試合を行った。

 両者ともに三尺三寸、普通に使われる寸法の撓を持って立会う。

 晃之介は相手と向い合った時に、天狗と言われている程相手が他人を侮っているわけではなく、真っ直ぐとした剣術を修めていることを確認した。

 またお進の方も、びくとも動かずに機を図っている晃之介はただならぬ相手だと判断する。彼の事は弓矢使いとして名を聞いていたが……


 先に動いたのは晃之介である。

 大きく振りかぶった動きは見様によっては隙にも見えるが、絶妙に間合いを外してぎりぎりの外から、剣の先端を打点に合わせて打ち込んできた。持っている武器が同じ長さで、体格に勝る晃之介のほうが基本的にリーチが長い。

 お進はそれを受け止めようと構える。打ち込みは早いが初動は見やすく、軌道は単純だ。受けることで相手の力の強さや体捌きなどを測る思惑があった。

 そう思ったのだが、受け止めようとして頭の上に構えた撓を振り下ろされたそれはすり抜けるようにして防御の内側に打ち込まれ、強かに彼女の手首を叩いた。

 敢えて相手に防御させ、剣同士の打つかる瞬間に目にも留まらぬ速度で剣筋を変幻させて防御の中へ滑りこませ打ち込む六天流の技だ──相手の防御をこちらの予備動作であふり逆手に取ることから、[我煽]があふと名付けられている。

 ともあれ、それによりお進は手首を砕かれて剣を手放し、晃之介の勝利となった。かなり難度の高い動きを相手に悟られぬ速度で行う為に、手加減は殆ど効かないのだ。

 それから一週間お進は鬱ぎ込んだ。父親も心配して、やっぱり手首砕くのはやり過ぎだと不安になってしまう。もしかしたら晃之介と夫婦になった時は夫婦げんかの度に手首を砕いてくるのではないかとセガール映画的な杞憂を父親は感じたのだろう。 

 特に晃之介も結婚に対して話題は出さなかったので話は立ち消えになったと思われたのだが。


 それから少しして、晃之介が己の道場で日課の素振りをしていると視線を感じた。

 周囲を見回すと、木格子のついた窓に血走った目があった。この世のものではない気がしたので気づかない振りをした。

 外で弓射の練習をお八としていると再び視線を感じる。

 

「なあ師匠……あ、あ、あたしの目が悪くなけりゃ、外の井戸から頭が半分出てこっちを見て……」

「いいか、絶対目をあわせるなよ」

 

 などと、注意し合った。

 他にも野山で槍を持ち猪を追いかけていると、山小屋の窓から覗く目が。

 夜中に寝ていてふと目を覚ますと天井裏から覗いている。買い物に出かけると視界の端にちらちらと見える。

 盥に湯を張って頭を洗っていて、もし今目を開けて目の前に居たら怖いなと思って目を開けるとすぐ近くに女が!

 この辺りの晃之介の精神的ダメージはわりかし強く、字の練習も兼ねて二日に一回ぐらいの割合で書いている日記がよく「窓に窓に」という言葉で締められていたほどだ。

 途中からあの時叩きのめしたお進だとは気づいたのだが、相当に恨みを買ったらしいと思う他無かった。

 話しかけようとしたら全速力で逃げる上に、達人の晃之介でも中々気づきにくい程に気配を消してじっとこちらを見てくるので、


「実際不気味だった……」


 という。




 *****




 そのお進が、直接道場の入り口から姿を現したのは初めてだった。

 晃之介に尋ねられて彼女は強い意志を感じる言葉を返す。


「今日は晃之介殿と再勝負に参りました。以前の雪辱を晴らします」

「それは構わないが……」

「なんでしょうか」


 少しばかり渋るような様子の晃之介に、よもや断る積もりではないだろうなと云う様子で聞く。

 晃之介は真顔のまま、


「うちでは挑戦料が、ニ分と決まっているんだ。勝てば五両進呈だが」

「このノリでそれを云うか、お主。賞金値上げしとるが」


 羽振りが良くなったからだろうか、釣餌を高級にしていた。看板も元は一両だったところに文字を加えて五にしているようだ。

 お進はごそごそと懐を漁り、財布を取り出して中身を数えた。

 三朱と細かい銭しか入っていない。


「……」

「……」


 暫く困ったように目を合わせた。

 そして彼女は小銭入れを懐に戻してぺこりと頭を下げ、


「──少し待っててください。取ってきますので」


 そう言って戸を閉めて帰っていった。ざ、ざと走って去る音が聞こえる。

 九郎が晃之介に手刀てがたなを入れながらツッコミを云った。


「ああもう、ほらこんな雪の中帰っちゃったではないか! テンポ悪いなあもう!」

「そうは云うがな、何かと理由をつけて金を払わずに挑んでくる相手が増えても困る。悪しき前例というやつになりかねん」


 それから四半刻(三十分)程で再び彼女は戻ってきた。実家から金を貰ってきたのだろう。

 ガタガタ震えながら最初に現れた凛とした態度はもはや見えず、氷のように冷たくなった指先で一分銀を二枚ぽろぽろと取り落としつつ、


「しししょうぶをしてください、こここうのすけどの」

「あー、お進殿。とりあえず中に入ってくれ」


 さすがに彼も罪悪感を感じたのか、招き入れる。

 彼女は震えているのか首を横に振って拒絶しているのか微妙にわかりにくい仕草をして、


「ほどこしはうけません」

「……ええと、俺の道場ではとりあえず挑戦者に熱い茶でも振る舞うことにしてるんだ。規則なんだが」

「きそくならしかたありません」


 歯をがちがちと鳴らしながらよろめきつつ、髪についた雪を払って中に入ってきた。いかにも哀れらしかった。

 九郎が晃之介の適当に今決めた規則に従って湯茶の用意をする。確か、そのへんの野草を晃之介が選んで摘んだ茶葉があったはずだ。何度も「毒じゃないよな?」と聞き返すような苦々しい味だったが。

 土瓶に適当に茶葉を放り込んで道場の間に戻ってくると、火鉢に身を乗り出してあたっているお進が居た。茹だっている鍋の湯を土瓶に移し、すぐに湯のみに茶を注いで出した。

 湯気の立つそれを両手で持って慌てて口に運び、


「あちゅっ!」


 と、舌を火傷して涙目になりつつ、ちまちまと苦い茶を飲んで最初は温かさでホッとしたものの徐々に感じてくる内角から抉るようなバンダム級の苦味に口元を歪めて、


「あうあう」


 と謎の言葉を上げて湯のみを置いた。

 この時点で九郎から見たお進という女剣客のイメージが、


「ポンコツ」


 で確定されたのは仕方ないことだろう。

 正確に云うなら婚期を逃したストーカー気質の剣術馬鹿ポンコツ女だ。いいところが顔以外何も無い。ついでに胸も、ささやか程度にしか無い。

 哀れめいた目線を送る九郎だが、彼女はやがて温めることによって復活して従来のキリッとした顔立ちに戻り、晃之介へ向き直った。


「──今日は晃之介殿と再勝負に参りました。以前の雪辱を晴らします」

「あ、ああ。それはもう聞いたが」

「以前の私とは思わない方がよろしいかと。前は不得手な道具を使っていた──と言い訳がましいことを云うようですが、今日は本気で行かせてもらいます」

「と、いうとその二刀か?」


 晃之介が目を向けた。彼女は小太刀の木刀二つをここに持ち込んでいる。

 小さく首肯する。二刀流の剣術は当時から様々な流派があったが、それを主とするのは珍しいものがあった。

 なにせ、片手一本で刀なり撓なりを振るわなければならないという事は相応の腕力が必要なもので、それだけ強ければ一刀流でも十分に強いのだからわざわざ二刀流にする必要が無い。

 ましてやお進のような女性が小太刀とはいえ二刀を使うとなると妙とすら言える。

 彼女は澄まし顔でこう告げてきた。


「私の二刀には致死性の猛毒が塗られています」

「!?」

「……そういう設定で立ち会っていただきましょうか」

「設定!?」


 何か条件を盛られた。

 つまりは二刀に軽くでも当てられた場合、刀身に塗られた毒により死に至るので負けとなる──という設定なのだ。

 言ったもの勝ちである。これを晃之介が拒否するならば仕方ないが、


「よろしい」


 と、晃之介はあくまで真顔のまま頷いた。

 実際の殺し合いとなれば相手が正々堂々と戦う保証など無い。木剣だから軽い攻撃を受けても平気などと思っていては本当に毒を用いた相手と対峙した時に悪い結果へと陥るだろう。実戦流派を自称する彼の六天流としては卑怯だと云うつもりは無かった。

 これは御前試合や外試合ではなく、彼女が六天流に挑んできた試合なのだ。

 予めその設定を明かす彼女の方が真っ向勝負を挑んでいる気すらする。

 毒性付与大いに結構。


「もう一つ。私が勝ったら願いを聞いてもらいます」

「願いとは?」

「勝ったら言います」

「……いいだろう。六天流当主、録山晃之介。負ければ俺の首でもくれてやる」


 堂々と追加要求を受ける晃之介に、九郎が小さく顔を歪めながら云う。


「おい晃之介よ。お主を負かすための条件を増やし、負けた時の要求まで通している割には勝った時の見返りが少なくないか? 只の試合だというのに……」

「……いいか? 九郎」


 晃之介は何を当然な、と少し不思議そうにしながら云う。


「仮に設定だけとはいえ、相手は俺を殺すつもりで条件を付けたんだ。この試合で負けるというのは死ぬと同じだ。実戦で死ぬのと何か違いがあるか? 俺は相手が実際に毒を塗った真剣で挑んできても勝負は受ける」

「しかしなあ」

「勝っても得るものは少なく、負けたら全てを失う。そんなことは当たり前だ。だがな、それでも勝利することに意味があるんじゃないかと俺は思う」

「そう云うものか……」


 九郎自身は剣客では無いのでピンと来ないのだが、そう云う晃之介の顔には迷いも曇りも無く、楽しげであった。

 彼が納得しているならばこれ以上口を出すことではない。

 それに、そこらの腕の立つ剣士程度では彼にとても敵わない事は確かだ。相手の攻撃に掠りすらしない程度のハンデは、熊と戦うときには常に負っている。


 

 そうして道場の火鉢が片付けられて二人の立ち会いが始まる事となった。

 九郎は審判役である。お互い、一間(1.8m)ほどの間合いを開けて対峙する。


「始め!」


 と、九郎が開始の合図を取った。

 お進は二本の木剣を中段に構える。左右から相手の中心にやや傾けて、両刀の刃先を向ける基本的な構えだ。

 

(……む。此奴は強いぞ)


 九郎はひと目見てそう感じる。自然な動作でその構えに持って行き、また静かな気迫を感じる。

 相手が打ち込んできたのをいなし、もう片方の剣で打ち込む剣術かと九郎は思ったのだが、これは違う。

 恐らく間合いに入った瞬間、両方の剣が猛然と襲い掛かってくる覚悟がある。

 そしてその剣に毒が塗られているとすれば、相打ちになってでも晃之介は死亡判定になる。

 じっと晃之介の挙動を伺いながらお進は思う。

 相手がいかなる手段で接近してこようとも、左右どちらかの手が砕かれようが頭を殴られようが、小太刀の先を当てる覚悟を持っている。

 動きの分析は十全だ。なにせ、


(この何ヶ月も観察を続けていましたから)


 と、思う。ストーカーをしていたのも再戦に向けた情報分析が目的だったのである。

 庭で湯浴みをしているのを覗いたのも筋肉量の確認だ。湯屋にもついていったけどそれも。複数回行う必要があったかは不明だが、ともかく。

 最近はもはや彼を倒すことばかり考えていて幻覚すら見えてきた。危うい兆候である。

 元より彼女は反復練習による行動の最適化という鍛え方が合っていて、間合いに入った瞬間に最も近い部位に剣を叩き込むことを訓練したのだ。

 

 お進の気迫は前に立った晃之介も感じていた。

 さながら、両手を既に振り上げた熊を相手にしている気配すら覚える。前のように防御不可の一撃で仕留める事は出来ないだろう。そもそもあれは初見の相手に効果が高い為に、二度目となれば当然対策を取っているはずだ。間合いを外すか、予備動作中に攻め込むかで潰せる技なのだ。

 前は一撃で倒した為にその実力を受けることはなかったが、一度は彼女の練習風景を見たことはあるのでお進がかなり強い事は知っている。

 それの間合いに踏み込んで一太刀も浴びぬのは……難しいかもしれない。


(だが、)


 晃之介は足に力を込めた。

 瞬間、お進が踏み込み間合いを詰めようとする。接近戦で掠らせもしないのが難しいのならば下がって遠距離攻撃を仕掛けてくることを読んだ。彼女が観察している間に、彼に勝負を挑んで射られている武芸者を既に観察しているのだ。

 彼は己の道場で行われる勝負となれば容赦なく弓矢を使う。そして背後の壁に弓が掛けられているのも、当然確認済みだ。一歩では下がりきらない距離。下がろうとして体勢を崩したところで、切り込む。後ずさりしながらではまともに剣も振れないだろう。

 お進の踏み込む速度は早かった。

 だが、晃之介の体が小さくなったような錯覚すら覚えるように──彼は上体をまったく揺らさずに体重移動と足の指のにじり、踵に込めた蹴りを複合させてとてつもない疾さで後方へ下がった。

 見ていた九郎も驚くほどだ。彼が全力で飛び退ってもあの速度は出ない。

 六天流の移動術、間合いを一旦捨てて相手の狙う拍子を崩すことから[拍捨]ばくすてと呼ばれる技術だ。飛んで後ろに逃げるのではなくほぼ浮かずに加速を繰り返しながら、落ちていくように後方へ下がる。刀を構えた相手が対面していても、構えたままではとても追いつく速度ではない。

 壁に叩きつけられんばかりに後方へ下がった晃之介は、寸前で止まる勢いを利用して持っていた木剣を一直線にお進へ投げつけることで反動を殺す。

 完全に追いすがり損ねたお進は慌てて飛来してきた剣を己の小太刀で弾き落とす。投げられた木剣は振り下ろしの一撃を受けて床に叩きつけられた。 

 意識を剣から相手へ。

 既に晃之介は速射の構えで弓を引いていた。

 放たれた矢を避けるには体勢を崩した。左右に避けるには難しい。射角を見て小太刀で弾き飛ばす段構えに入り、足を止める。


(違うっ!?)


 お進は視線により悟る。弓を引いては居るが、矢がつがえられていない。

 こちらがそう読むであろうと裏を掻いて、矢を打たずに足を止めさせたのだ。投剣を弾いたことと強制的に構えを替えさせたことで対応が一手遅れる。

 間髪をいれずに晃之介がこちらに攻め入る前傾姿勢へと構えを変え、踏み出した。手に持っていた弓は消えていつの間にか木剣に替えられている。

 近づいた一歩にて、彼が投げたあと床に叩きつけられた木剣をまるで糸で引いたような正確さをして、足で蹴り瞬時に拾い上げたのだ。

 木剣は突きの動きでお進の頭を狙われた。

 僅かに狙いは外されて、耳を掠めて突かれる木剣に咄嗟に左目を閉じてしまう。

 残った右目が捉えたのは、いつの間にか顔を狙う飛び膝蹴りだ。


「は──!」


 だが、好機だ。体術を使った場合、こちらの毒小太刀が直接当てるによい。顔を狙うということは空中に跳ばねばならない。防御ともなる一撃を受けることとなるだろう。

 左手の小太刀をすくい上げる軌道で膝を迎撃する。

 当たる。

 だが、木剣の当たった瞬間にその膝は粉々に砕け散ってしまった。

 これは晃之介の膝ではない。六天流の基本にして奥義、まさにいつ持ったかわからぬ武器を使うことだ。彼が拾って投げつけてきたのは、


「膝茂様の……!?」


 晃之介の江戸生活で身につけた新たな武器、文字通り物理的に飛んでくる立花宗茂の飛び膝蹴りである。

 一度振り切った剣は勢いを失っている。

 膝茂様の陶片に刹那の時だけ気を奪われている彼女の左手の小太刀を、晃之介の木剣が軽く頭上方向に跳ね飛ばした。

 はっとする間もなく、間合いに入り込んでいる晃之介に向けて彼女は残った右剣を突き刺しの動きを見せる。左手に持った剣を晃之介が打ち上げた直後ならば、右剣からの攻撃からは躱せない。

 だが、次の認識がお進の狙いは阻まれた事を告げる。晃之介は右手に持っていた筈の木剣を左手に持ち替えている。

 刀を振るい戻すのではなく、持ち手を替えることですぐに手元に剣を戻したのだ。一本の剣で二刀流をしているような早業である。

 そして小太刀の刺す攻撃を、木剣の鍔元で[合わせた]。

 受け止めるでも跳ね飛ばすでも受け流すでもなく、相手の力に合わせて勢いを完全に消す──まさに[合わせる]としか言いようのない防御術、須賀神社に関わりのある古武術を取り入れた動きの技[邪須賀]じゃすがである。

 これをされたら異様とも言える手応えに相手の動きは封じられ、またこちらも余計な力も使っていないので即座に反撃を返すことが出来る。止められた小太刀の先は、あたかもがっしりと刀身を腕で掴まれたような錯覚すら感じる程に、動かない。

 しかしながら戦闘のさなかで相手の力を見極めて合わせることなど、九郎は見ていながらも、


(とても真似など出来ぬな……)


 と、舌を巻いて彼の技量に驚いた。

 [拍捨]も[邪須賀]も、九郎との練習ですら使っていない秘技とも言える技だ。観察していたからといって対応できるものではない。

 これらの技をお進相手に使うのも、考えがあってのことだろうが……。

 晃之介は目を上に向けることもせず当然のように、一手前に小さく上へと跳ね飛ばしたお進の左小太刀が降ってくるのを手で受け止めて、お進の喉元へと軽く触れる程度に小太刀の刀身を当てた。


「あっ……」


 もはや、お進も動くことが出来ぬ。

 彼女が決めた設定により、その喉に触れた小太刀には猛毒が塗られているのだ。

 九郎は手を上げて宣言する。

 

「それまで」


 ……晃之介の勝ちであった。

 だらり、と力を抜いて手を下ろしたお進が口を薄く開いて云う。


「……私の負けです」


 ですが、と続ける。


「どうして、あの時のように──手加減もなく倒さなかったのですか」


 と、尋ねた。

 複数の武器による連撃を見舞われたが、いずれも晃之介が狙いを外すか受け止められる攻撃のみを使っていたのは分かった。

 そうでなければもっと早く、あるいは間合いの外で鴨打ちのようにされて終わっている。木剣の突きで頭を穿たれていたかもしれないし、武器を弾き飛ばす動きも不要に打ちのめしていてもおかしくはなかった。

 晃之介は真剣な顔のまま、云う。


「お進殿と前に戦い、その手を殴り砕いた。そしたら俺は嫌な気分になった」

「厭な、気分」

「あんた以外ではならない。ただそれだけが──打たなかった理由だ」


 彼がそう云うと、お進は気が抜かれた表情を一瞬ぽかんとして、そして笑った。

 

「おかしな御方」


 そうも子供のような笑顔を見せられると、雪女のようだと思った印象が吹き飛ぶようだった。




 *****

 


 

 その後、暫くお進は茶を共にして少しばかり言葉を交わした。

 茶は変わらず苦くまずいが、飲む度に場の皆が百面相をして反応する茶というのも面白いのかもしれない。


「今度に柳河藩に帰ることになりまして」


 お進の言葉に晃之介が目蓋を開け閉めして反応した。

 

「それで帰る前に、晃之介殿とどうしてももう一度勝負をしようと思い立ったのですが……負けてしまいました」

「俺とて、負けるわけにはいかないからな」


 少しだけ得意気に晃之介は答える。

 そして彼はふと思い出したことを尋ねた。


「そういえば、俺に勝ったら何をさせる積もりだったんだ?」

「それは……」


 言い澱んで、自信満々にそんな約束までさせたことを羞恥したのだろう、顔を赤らめて目を背けた。


「なんというか……こ、これからも剣の稽古を……」

「うん?」

「秘密です!」


 その初々しい様子と完全に意味の分からないといった顔をしている晃之介に対して九郎が、


「此奴め、ははは」


 と笑うのであった。   

 そうして別れ際に、お進は淋しげな顔をしながら、


「また、逢えるでしょうか」


 聞くので晃之介は頷いて、


「同じく剣の道を進んでいるのだ。道が交わる事も、縁があればあるだろう」

「……そうですね。次こそは負けません。いずれ……いずれ、お願い申し上げます」


 そう言い残して、柳河の女剣士お進は去っていった。



 姿が見えなくなった後、二人はまた道場に筵を敷いて鍋を囲んだ。

 九郎は冷やかすような顔で、


「しかし中々格好の付けたことを云うものだな。打てば嫌な気分になる……などと」


 真面目腐った顔で晃之介が返す。


「だって本当に嫌な気分だぞ」

「そうか、そうか」

「気がつけば窓から覗いているし、夜中に起きたら天井に張り付いている事もあった。厠に入っていると周りを歩く足音が聞こえる。一番嫌だったのは味噌汁に長い髪の毛が混入していたことだな……」

「嫌な気分って随分直接的な被害だな!」

  

 ストーカー相手には浪漫など無かった。そこまでされればそりゃあ迷惑だ。

 

「それに俺の好みは胸が大きくておっとりとしている女性だからああいう、美人だがぺたりとしていて精神が一歩手前系の女はちょっと」

「何の一歩手前かは聞かんが」


 ストーカー相手には脈も無かった。胸も無かった。

 しかしながら彼との縁がある女性で、果たして精神がまともで優しい女など存在するのであろうか……。


 などと話していると、九郎がふと背筋に感じる殺気のようなものに振り向いて、慌てて指をさす。

 目だ。

 木格子のついた窓から、こちらをじっと見ている──女の顔がある。

 舞い戻ったストーカーの顔ではない。ぞっとするような冷たい雪女の──。

 幾らストーカーとはいえ、四六時中晃之介を見ている筈がなかったことを不審に思うべきだった。彼女は武士の娘なのだ。いつでも来られるわけではない。普通は井戸に入ってまで覗かない。

 晃之介を見つめる目は、一つではなかった……。

 どちらが叫んだか、道場に声が響いた。


「──窓に! 窓に!」

 


           (記録はここで途絶えている)






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