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挿話『雨次』


 雨次という名の青年が嫁を貰ったのは彼が二十の時だった。


 まだ彼が少年であった頃に唯一の肉親である母親を失い、近所に住む儒学者・天爵堂の家に引き取られて住むようになっていたが、数年後には既に老齢だった天爵堂も死去する。

 しかし天爵堂が生前にあれこれ融通してくれたおかげで千駄ヶ谷の屋敷にはそのまま住めるようになっていて、贅沢をしなければ半生は生きられる程度の蓄えと大量の書籍などを残してくれていたのである。

 それから彼の引きこもりは加速し、毎日書を読むか写して書くかで家から出ずに、また食事も最低限の生活を送っていた。

 年若くして世捨て人の様になった彼を心配して、よくよく家に通い掃除や料理などを励んだのは彼の幼馴染の女性達である。

 特に、お遊と云う方の元気な娘は次第に雨次の屋敷に泊まりこむようになった。

 彼女の実家からすれば、


「もうあそこの嫁でいいんじゃないか」


 と、見放した感があったという。

 他に嫁の貰い手も無く、食い扶持が減るのならば雨次に引き取って貰えば特に文句は無かったのだ。

 それからお遊は雨次の家族として家事をよくこなし、また昔天爵堂が使っていた畑も耕し直して日々の糧を作るようになった。

 一方でもう一人の根津小唄は、地主の娘ということもありそのような直接的手段には及べなかったのである。彼女も二十前となれば、あちこちか

ら縁談が来ていたが、


「気が進まねえなら」


 無理に嫁に行くことはないと云う父親の縁談破壊能力によって何とかなっては居たのだが。

 しかしながら家の主である雨次としては、なぜ幼馴染の娘二人が嫁にも行かずに構ってくるのかさっぱり理解できていなかった。

 特殊な出生と家族の死により捻くれた性格と、情欲よりも読書欲という男だったのである。

 ともあれ、ほぼ内縁の妻状態にお遊が住み込んだある日。

 珍しく二人で酒を飲んで、雨次は前後不覚になった上でお遊に手を付けたのである。

 実際に手を付けたのか手を付けられたのかは彼の記憶も吹き飛んでいるので不明だが、翌朝目覚めてみるとそういう状況だったので疑いようは無い。

 やむを得ず彼は妻として娶ることにした。お遊を妻としても、別段生活が変わるわけではないと妥協したからかもしれない。

 身寄りの無い男と農家の娘の結婚ということで特に騒がれもしなかったが、地主からは酒樽が送られて小唄も二人を祝福した。


「おめでとう、二人共」

「ネズちゃんもありがと!」


 満面の笑顔のお遊に、複雑な顔をしながら小唄は、


「私の好きな二人が結婚するんだ。喜ばしいが、少し寂しいなあ」

「いつでも遊びに来ていいから! ねえ雨次!」

「そうだな、別にこれまでと変わらないだろう」

「うん……」


 そう言って、彼女は少し疲れたような顔をして微笑んだ。

 それから、何が変わったという事無く雨次とお遊の生活は営まれた。小唄も遠慮してか、来る回数は随分に減ったが。なお、まだ独身であるようだ。

 嫁という存在にお遊が変化してから雨次は少し変わった。単に、自分一人で生活する分量で天爵堂の財産を見計らっていたので、妻と生活を共にするのならば予定よりかなり早く無くなるという事実によってだ。

 しかし畑仕事などはやったことがない。

 雨次は暫く悩んだ後で、洒落物語や滑稽本の執筆をすることにした。本を読む事と字を書く事は得意であったのだ。

 どうすればその業界に入れるか判らなかったが、随分久しぶりに、一時期教えを受けていた天爵堂の友人・九郎を頼り、九郎の伝手から[為出版]に話を通してもらい、そう多くはないが仕事が来るようになった。

 始めた頃は評価も散々な面白みのない文章を書いていたが、編集役になってくれた九郎の助言や天爵堂の過去作などを参考にして、何とか仕事を続けられた。


 やがて、二人に子が出来た。

 はらが大きくなるに連れて、雨次は慌ただしく家の仕事を手伝うようになって、


「下手だねー」


 と、後ろから見ているお遊にくすくすと笑われることがしばしあった。

 それまでならば手伝っているというのにそのような事を言われたら、むすりとして働く気を失せさせていたというのだが、雨次は下手なりに頑張っていたようだ。

 更に姙が動きづらくなる程に大きくなれば、一日中雨次が家事を行うようになった。

 やったことがない、土弄りは苦手だと言っていた畑仕事も自らやった。

 苦手とする事も多々あった為に、小唄に頭を下げて手伝って貰う。他に頼めそうな相手は居なかった。


「お前が人の為に頭を下げるとはな」

「妻の為だからね」


 などと遣り取りをして、少々呆れながら小唄もよく手を貸すのであった。


 ある日。

 お遊の体の調子が良い時に、二人で鳩森八幡神社に安産参りへ向かった。

 二十を超えて、少女から女になっても小柄なお遊だったから姙が突き出るように目立ち、久しぶりに外出となって燥ぐように歩くのだからむしろ雨次が心配そうにしていた。

 境内で賽銭をして祈り、お守りを買う。

 雨次は己がこんな、人間的な幸せを手に入れるとは昔は思いもしなくて、捻くれていた頃からは想像も出来ないような笑顔でお遊と並んで歩いていた。

 其の日は神社に参拝する人もそれなりにいて、周りとぶつかるといけないからとお遊を抱き寄せようとした時であった。

 隣にいたお遊の体が、跳ねるように前へと突き飛ばされた。

 丁度、石段を降りる直前である。

 一瞬の間。空中で呆けたお遊の目とあった。

 雨次が伸ばした手は届かず──石段を転げるように、お遊は地面に数度叩きつけられた。


 子はその日に流れた。

 死んだ胎児を出す為に、お遊の体も相当危険な状態だったという。

 偶々通りかかった狐面の医者が居なければ母子共に死んでいたのである。

 ただ、衝撃により無理に産むという自体になった為──お遊は二度と子の作れぬ体となったと、医者は告げた。

 それから二月ばかりはお遊は意識が混濁していて、時折泣き喚いたり暴れだしたりという有り様であった。

 

「なるべく近くに居てやれ……他の事は私がやるからな。気にするな、友達の為だ」


 小唄がやつれている雨次にそう告げた。 

 その日から雨次は一日の殆どをお遊の側で過ごすようになる。

 家の仕事や食事の支度などは小唄が行うようになった。

 彼女も雨次の屋敷に住み込んだ。田舎にあるものの、元は新井白石の屋敷だ。彼の意向により下男などは雇っていなかったが、数人が住むには充分過ぎる広さがある。


 一年が経過し……。

 美味い食事と、雨次と小唄の献身的な介護によりやがてお遊は元気を取り戻していった。

 それでも時折お遊は鬱ぎ込む事があり、雨次はどうしたものかと考えた結果、最善ではないかもしれないがある提案をした。


「お遊、子供が産めないのはお前の所為じゃないんだからいつまでも悲しむなよ」

「でも……雨次……ごめん……」

「……なあ、どこか伝手を頼って里子を探そう。腹を痛めて産んだ子で無くとも、僕らの子供として大事に育てよう」


 雨次はそう告げて、泣き止むまでお遊の背中を撫でてやった。

 数日が経過して、お遊はまだ里子を貰うという話を迷っていたのだが、小唄が寝室に来ていたので悩みを打ち明けると、彼女はやや悩んだ様子を見せつつ告げてきた。


「わかった。こういうのはどうだろうか。私が雨次の子を産んで、二人へと里子に出そう」

「……え? でも……」

「まったく知らない他人の子を貰うよりは、少なくとも半分は雨次の子である方がいいんじゃないか? その、お遊ちゃんにも」

「……そう、かな」


 戸惑いを見せつつ、更に数日して彼女はその申し出を承諾する。

 里子を貰っても、後に里親から返せと言われることもよくあった。その点、少なからず半分の親はこちらであるとなれば跳ね除けられる。ましてや、相手が幼馴染の小唄であるのならばよく知った仲なのだ。

 雨次からしてみれば小唄という女性は幼馴染という分類以外に当てはまらない、女として見たことの無い相手ではあったのだが、お遊の望みでもあった為に彼女を抱いた。

 その際、小唄は義理友情とは思えないほどに大いにみだれ、求めたが、とにかく雨次は妻の為だと思って励み──そう時間も掛からずに、彼女は子を宿した。

 ところで、二人の閨に使った部屋の障子には穴が空いていた……。

 

 小唄が子を孕んでからはお遊は以前のように明るさを取り戻し、いつも笑って楽しそうにしているようになった為に雨次も安心した。これまでの呆然としていた期間を取り戻すようによろずの事に働いて、小唄とも仲良く過ごしている。

 ただ子供の時の爪を噛む癖を再発させたのか、深爪になり血が滲むので雨次はよく注意をした。

 しかしながら、子が出来て食い扶持も増えるし、里親である小唄には礼金を用意しなければならない。支度金と言われるもので、三両から十両ほど支払うのが慣例であった。

 そのため再び雨次は九郎に頭を下げて、仕事を回してもらうことにした。

 前から事情を聞いていた九郎は彼のためにあちこちに声をかけて、[為出版]だけではなく、[藍屋]や[鹿屋]で広告作りなどの仕事を取ってきて雨次に仲介料も取らずに与えてくれた。

 雨次は、彼には頭が上がらない。

 

 やがて。

 小唄の姙も目立つようになってくると、お遊がより家事に励んで小唄に楽をさせるようにした。

 仕事に楽しそうに勤しんでいる姿は心を壊したあの頃からは想像できない程活発だ。

 こうなればむしろ世話焼きな性格だった小唄が休んでばかりでむず痒そうにしている。

 

「あの頃と逆だね。ネズちゃん。」

「そ、そうだな……」

「えへへ。逆なんだよ。」


 己が身重の時に世話された事を思い出しているのか、よくお遊は「逆」であると小唄に言っていた。何故か、言われる度に彼女は少しばかり固い雰囲気になるのであったが。

 お遊はいつも上機嫌であった。しかし時々、仕事の合間に遠い目をしながら、聞いたこと無い歌を謳っている姿を見かけていた。

 ある日、夜中に小唄が家から音を忍ばせて出ると、すぐにお遊の声が掛けられた。


「どうしたの? ネズちゃん。」

「! あ、ああ……少し厠に立ったんだ」

「へえ。それなら起こしてくれていいのに。提灯を用意するよ。」


 お遊は、いつも通りの満面の笑みだ。


「転んだりしたら。危ないからね。」

「そ、そうだな……」

 

 小唄は彼女の顔を正面から見ることが出来なくなっていた。

 やがて、子が生まれた。

 産婆としてお遊に連れられてきた狐面の女の腕が良かったのか、初産にしてはあっさりとしたものであったという。

 ただ、彼女はお産が終えて、一人別室で待っていた雨次に会うと諦め気味に頭を横に振って、


「何故こうなるまで……いや、それより、子供と女房から目を離さないことだ」

「……? どこか、悪かったのか!?」

「躰ではない。お前の撒いた因果が悪い。もはやあたしでは付ける薬も効くまじないも無い。お前の情だけが最後の希望だ」


 苛立たしげにそれだけ告げて、狐面の女は薬箪笥を背負ってさっさと消えていった。

 小唄が産んだばかりの子を連れて、屋敷から逃げ出したのはすぐ二日後だった。

 産後の女は普通そんな短期間に動けるようにはならないが、こればかりは死に物狂いの行動力と、小唄の血筋から受け継がれた頑丈な躰の成せる働きであったのだろう。

 勿論、常識的に考えて突然姿を消した母子が逃げたとは思えぬ。

 

「誰かが拐かしたのか……!?」

「うん。そうだね。すぐに追いかけよう雨次。」


 お遊は包丁を片手に笑顔のまま云う。

 

「い、いや、なんで包丁を?」

「え? だって──[わたし]の子供を攫った相手は殺さないと。もう失うことがないように殺さないといけないよ。」

「……お遊?」

「早く捜そう。泥棒ネズミを。」

 

 そう言って家を飛び出したので、何か引っかかるところはあったのだが雨次も外に探しに出た。

 幾ら、頑健な体をしていたとはいえ産後のことである。

 そう遠くない場所で子を連れた小唄は発見された。

 お遊がまったく変わらぬ笑顔で云う。


「駄目じゃないネズちゃん。わたしの子供を連れて行っちゃあ。」

「ち、違う!」


 小唄は子供を庇うようにして、叫ぶ。


「これはお前の子じゃない! 私の子供だ! 私が、雨次のたねを受けて産んだ子だ! 渡さないぞ!」

「小唄、君は出産直後で少し錯乱しているんだ! とにかく、家に戻ろう!」

「嘘だ! 私を殺して、子供を奪うつもりだろう! 包丁を持ってるじゃないか!」


 小唄から見れば──いや、誰が見ても太陽の様な笑みを浮かべつつ、刃物を手に馴染ませているお遊を見れば恐ろしくなるだろう。

 笑顔だというのに、瞳はどす黒く濁っている。

 からからと錆びた鈴のような声音でお遊が告げる。


「ねー雨次。あれはもう要らないよね?」

「お前もどうしたんだお遊!? 友達だろう僕達は!」


 雨次は叫んで、お遊の腕を掴み小唄に歩み寄ろうとするのを止める。


「友達とか。関係ないよね? わたしの子供を二度も奪おうとしてるんだもん。このネズミが。」


 手を取られているので地面の土を蹴りあげて、地面にしゃがみ込む小唄に浴びせかける。

 彼女は赤子を守るように背中を向けて蹲った。

 笑いながら何度も足を振る。お遊が動く度にびくびくと小唄は身を震わせた。


「ネズミが。ネズミが。ネズミが。」

「お遊、止めろ!」

「えへへ。雨次。このネズミはね。ずっとわたしから雨次も子供も盗もうとしていた薄汚い泥棒なんだよ。素直にわたしが結婚した時に諦めてさ。他の男にでも行けばよかったのに執念深くて。本当に死ねばいいのにって何度も思ったよ。まあ今殺すんだけど。」

「う、煩い! 煩い煩い!」


 小唄が涙でぐしゃぐしゃにした顔を向けながら叫んだ。泣いているというのに、目には激しい怒りが渦巻いているように思える。

 雨次には、もはやお遊も小唄も正気でないと確信したのだが──どう対処すれば丸く収まるのか、まるで見当がつかない。

 

「大体、私が雨次の事好きだってずっと昔からお前も知ってただろ! 泥棒したのはそっちだ!」

「はあ? 全然知らなかった。何? 一言でも雨次に好きって伝えたの? わたし一度も直接あんたが言ってた覚えはないんだけど。」

「それは……! 雨次の方から気づいて貰おうとしてたんだ!」

「ふうん。でもわたしはあんたより昔から雨次に好き好きって言ってたから。幼馴染? そんなのわたしだけだから。ねー雨次。」

「……! お前なんか、あの時階段から落ちて死ねばよかったのに! そうしとけば一人になった雨次を私が助けてた! 一丁前に悲しんだフリをして雨次に迷惑をかけるな水呑百姓の仔め!」

「とうとう白状したね……やっぱやったのテメエか糞阿婆擦れ……殺す。腹ァ裂いて殺す」

「やってみろ石女うまずめの気狂いが! 大丈夫だよ雨次、このゴミを殺して私と幸せになろう! 子供も何人でも産んでやるからな!」

「死ね」

「お前が死ね」


 互いの罵倒は殺意の行動へ移り変わるのに時間は掛からなかった。

 こうなることを予想していたのか、小唄も懐から苦無を取り出してお遊に向かって構えた。

 両者とも、獰猛な獣が牙を見せつけるように嗤ってゐる。完全に狂気に取り憑かれた、鬼と化していた。

 もしこの場に九郎が居たならば、即座に両者を取り押さえて頸動脈を締めあげ気絶させて互いに隔離し、知り合いの伝手を使い正気に戻すカウンセリングや投薬、法的手段を用いり丸くはならずとも一応場を収める事は出来るのだったが。

 その人生の殆どを引き篭もって書生の如き生活をし、体を鍛えているわけでも人間関係が広いわけでもない雨次では手に余る。

 二人の一触即発とは──文字通りだった。

 飛びかかるように襲いかかったお遊が小唄の上から覆いかぶさるようにして包丁を相手の腹に刺した。ぬるりとした赤い血が溢れて、服を染める。

 

「あはは!」


 笑いながら何度も腹に恨みを晴らす如く包丁を突き刺し、抜き、また突き刺す。

 体が痺れるように小唄の手足がびくびくと震えた。

 が、苦無を握る手を警戒しなかったのはその狂気からか。

 最後の力を込めた小唄が振るった苦無が、お遊の首を一文字に切り裂く。


「ひゅっ」


 空気の漏れる音と同時に、大きな血管が複数切断されて傷口から噴水のように血が飛び出た。

 脳に回る血液が失われて失血死となるまでほんの数瞬だけしか意識は持たない。

 お遊は雨次の方を見て、唇を動かしたがそれは空気を震わす音にはならなかった。

 最後に妻が何を言ったのかすら聞き取れず、雨次は絶望的な表情で手を伸ばすばかりである。

 

「あ……え……」


 うめき声。

 小唄だ。

 妻を殺した相手だが、己の子を宿した友人でもあった。

 完全に雨次の頭はパンク状態となっている。現実と非現実の境界が曖昧に、ただ出来の悪い物語を文字情報として眺めているような気分である。

 泣き声がする。

 はっとした。小唄の側に、赤子が落ちていて、泣いている。

 

「よし……よ……」


 血でべっとりと濡れた手で、赤子を撫でようか彼女は一瞬悩んで、手を引っ込めた。


「……小唄、お遊──なんで、こんなことに……」

「雨、次、げほっ……赤ちゃん、……お願い……ます……」

「……巫山戯てる。なんでこうなった!? 僕が悪いならそう言えばよかっただろ!? 言ってくれなきゃわからないじゃないか!? どうすればよかったんだよ!」

「げほっ……雨次……愛し、……ごめ……ね……」


 それだけ告げて、小唄は命を消した。

 涙は出なかった。ただもうどうにでもなれという酷く投げやりな気分になった。何を憎めばいいのか理解出来なかった。

 死体を葬る気にすらなれずに、雨次は泣く赤子を抱いて、幽鬼のような足取りで家に戻った。


 それから──

 赤子の体が弱かったか、男親一人で知識も無く育てるのに失敗したか、一週間と待たずに赤子の泣き声も聞こえなくなった。


 屋敷に静寂が戻る。

 雨次は虚ろな目で書斎に座ったまま、動きもしなかった。

 心臓の鼓動だけが沸き立つ毒のように体に響いている。

 呪いだ。

 幼馴染達を狂わせたのは身に刻まれた呪いの影響なのだと理解したが──全ての破滅を迎えぬようにしなかった我が身の至らなさがどうしようもなかった。

 それすら、もはや悔みよりも諦観を感じてしまう。

 耳元で幻聴が聞こえる。

 いや、これまでの人生で囁かれ続けていた音だが、聞こうとしなかっただけだ。

 なぞるように雨次は呟いた。もはや己の声か、何者かの囁きかの区別はつかない。


「……もう恐れるな夏の日照りを。荒れ狂う冬の寒さを。

 この世のつとめを果たし、十分な報いを得て、我が家へ帰る。

 今をときめく男も女も、塵払い人のごとく、みな塵に帰る」


「毒は遅々として欠片を零し湛み……」


「……契約は逃げども尽き果てる」


「たましいを」

 


 翌日。

 沙汰の無かった雨次の様子を見ようと、九郎が彼の屋敷に来た時、屋敷は火に包まれていた。

 慌てて現場に近づくと、火消しが皆火の側で倒れ伏している。

 九郎は咄嗟の判断で口元を覆いしゃがむ。だが、煙よりも微細な揮散した毒気を浴びて己の体にも力が入らぬことに気づいた。

 体液が膿に入れ替わったような吐き気を催す具合の悪さに視界が霞む。


 そこから、炎のような赤い仮面を被っている、法師の格好をした見覚えのある背丈の青年が立ち去っていくのを見たのだが、口すらまともに動くことは無く──


 やがて九郎の呼吸も止まった。

 

 


 ******




 汗でびっしょりな布団の中で目を覚ます。

 雨次が最初に行ったのは、慣れ親しんだボロ屋であるという事の確認と、脳に残る僅かながらの記憶情報を意識に移すことで先ほどまで夢を見ていたと理解することだ。

 呼吸を数秒止めていて、大きく息を吐いた。

 息と同時に吐瀉しそうであった。

 既に夢の記憶には忘却というロックが掛かり始めているが、怖気は消えない。雨次は、


「夢……だよな」


 と、呟きながら頭を掻きむしった。

 詳細は既に思い出せないが、最低最悪の初夢を見たという事実が歯の根も合わずに震えとなる。

 江戸でも一、ニを争うほどに悪夢であった。三途のドブで死人とハイタッチしていた絵師に匹敵する。

 罪悪感、後悔、恐怖、血、臭い、憎しみ、理解不能。全てが曖昧な概念として彼の矮小な頭に瞬時に刻み込まれて酷く消耗させた。

 布団から上体を起こしたまま身を竦めて震えどれほど時間が経ったか。

 家の中は一人だった。彼の母はどこかに出かけたらしい。仕事だろうか。

 とにかく、放っておけば何刻でもそのままで居そうだった彼を外部から刺激する存在がやがて現れる。


「おはよー! 雨次ー! 神社行こー!」

「こら、お遊ちゃん。お正月なんだから挨拶からだろう?」


 戸を連打する音に彼は身を大きく竦ませた。外から聞こえる声が頭に響き、フラッシュバックのように恐ろしい光景が浮かび上がる。 

 筆舌し難い恐怖に襲われて彼は布団を跳ね除けて裸足のまま裏口から飛び出した。

 足の裏に雪霜が突き刺さろうと皮が破けようとも、雨次は大急ぎで己の家──天爵堂の屋敷に逃げこむのであった。




 九郎が[為出版]の催促人である田所無右衛門から、天爵堂の家に来て欲しいと言伝を貰ったのは昼頃のことだ。

 元旦で挨拶回りでもしようか、寝込んでいる石燕の看病に費やすかと思っていたのだが、向こうから用事があり呼ばれたのならばと腰を上げる。

 朝帰りだった子興に後は任せて九郎は千駄ヶ谷へ足を向けた。

 正月となるとあちこちでお祭り騒ぎのように人出がある。武士、商人などは年始の挨拶回りに出かけなければならず、またその身分相応に部下などを引き連れて行く為だ。

 それ以外でも正月に武家や店の前で楽器を鳴らし歌を唄って騒ぎ駄賃を貰う[鳥追い]という、アグレッシブな踊りを踊っている虚無僧のような姿もよく見られた。


 寄り道をせずに彼の家に辿り着いた九郎は玄関でなく彼のいつもいる書斎に面した庭へと回る。

 一人暮らしなのに意外と手入れされた庭はほどよく雪が積もっている。たしなむ程度の晩酌を好む天爵堂の、肴となるのは大体がこの庭の風景なので気を使っているのだろう。

 真新しい雪に足跡をつけつつ、声をかける。


「おい、天爵堂。来たぞ」

「ああ。上がってくれ。茶を出そう」


 積もった白い雪と同じ色の髪を総髪にした老人が書斎の障子戸を開けながら招き入れる。

 

(仙人に似ておるのだよな……)


 その風貌を見る度に、そう思う。とは云っても神仙の知り合いなど居ないが、何となく普遍的なイメージとして浮かぶ仙人としての類似感だ。

 彼の部屋の中は七輪で程々に暖まっていた。

 一つ、布団が敷かれていて苦しそうな顔で寝ている少年がいる。いや、寝ついているというよりも、外界の情報を遮断する為に目を塞いで呻いているといった状況か。

 天爵堂の屋敷に来て即座に倒れ伏した雨次であった。


「此奴はどうしたのだ」

「さて。断片的に聞き出したところによると、夢見が悪くて酷く怯えているようだ。どうも君の名前も呟いていたようなので、田所君に呼んでくるように頼んだんだ。子供をあやすのは苦手でね」

「なんでこう、初夢で大だめぇじを受ける奴が多いのか」


 呆れながらしゃがみ込んで雨次の額に手を当てれば、若干の熱を感じた。

 今にも泣きそうな──子供であった。

 何に悲しんでいるのかは共感できなかったが、九郎は優しく少年の頭を撫でた。

 

「九郎さん、ううう、すまない……」


 譫言のように呟くので、


「いいから、寝ろ」

「夢が……」

「夢など何度でも見れば良いのだ。また起きれば忘れる」

 

 九郎はそう告げて、若干乱れた布団をかけ直してやった。

 枕の下にタカラ戦艦トミーの絵を入れてやる。


「それは?」

「子供は好きであろう。巨大戦艦とか」

「ああ」

 

 生きている九郎に安心したのか、雨次の様子は落ち着いてきた。

 納得したように天爵堂も頷いて少しばかり懐かしげな顔をする。


「子供っぽいと言えば、僕が若い頃にかの徳川光圀公が巨船を嬉々として作り上げててね。水戸どころか江戸でも評判になっていたよ」

「はっはっは。中々やることが豪快だな水戸の黄門様は。夢がある」

「まあその造船の借金もあって水戸は潰れてないのが不思議なぐらい困窮してるんだけど」

「ありったけの夢をかき集め過ぎておるな……」


 勿論それだけが理由ではないのだが、この時代水戸藩は石高からすれば凄まじく貧しい藩であった。

 光圀公がテンション高めに何隻も作ったり難破させたりしていた船は幕府で禁止されている規格を完全に無視した巨大船は、徳川の将軍専用船よりも大きかったとされていてそれで蝦夷まで航海をしたと伝えられている。

 かなり先進的であった儒学者でもある光圀公に関しては、同学を学ぶ天爵堂もよく知っているようだ。

 話し合っていると、やがて雨次の布団から寝息が聞こえてくる。表情はまだ少しばかり苦しげだったが。

 九郎がちらりと見ながら、感慨深げに云う。


「しかし悪夢に魘されるか……そういう時どうしていたものか」

「僕もすっかりそんな夢に何か思うことが無くなってしまっていてね。よく覚えていないんだ」

「こういうのを宥めるのは母親の仕事ではないのか?」

「いや、彼の母親なんだが……」


 天爵堂が云うには、今朝早くに蹴破りそうな勢いで戸を蹴って新年の挨拶を喧嘩腰でした後に、雨次にお年玉を与えて御節料理を食わせるように要求して町に向かったらしい。二日ほど帰らぬそうだ。

 雨次の母親とは何ら血縁関係も近所付き合いも無いのだが、どうも託児所扱いを受けているようであった。

 

「それにしても、子供のあやし方も思い出せないとは……僕には父の記憶も無いし、実の子供にとってもいい親では無かったからね……」

「なに、己れなど子も居らなんだ。昔に義理の孫みたいな娘の世話をしていただけでな。お互いに年ばかり取って半人前だのう」

「仕方ないことさ。今更年寄りが一人前になれはしない」


 言い合って、茶を啜る。

 どちらが提案したわけでもないが、天爵堂が将棋盤を用意した為に新年の初勝負として将棋を指し始めたのであった。




 *****




 タカラ戦艦トミーは未知の技術によって作られた宇宙戦艦である。

 この場合の未知というのは、企業秘密という名に於いて秘匿されているという意味なのでスパイじみて解析を試みる不届き者も存在する。

 というか自分の家に乗り捨てにされたので魔王が好き勝手に弄っていた。分解して新しいメカでも作ろうかという算段だ。

 その時突如、トミーの甲板に侵入者が出現した。

 対応は疾かった。

 マシンナリー・スイーパー(掃除用ロボ。略称はMS)のV2アサルトルンバが亜光速で接近して積極的防衛行動を取る。

 半透明ピンク色の超磁場固定重粒子で出来たジゴ・ビームシールドを対象に囲むように展開して移動を封じ、ジゴ・ビームランチャーの砲身を差し入れて相手に向けた。

 出力エネルギーが12.1ジゴワットを超える、対人兵器ではありえないほど強力な兵装である。


「お前は電子レンジに入れられたダイナマイトだ。少しでも動けばジゴ粒子の閉鎖空間で粉々に分解する」

「えええ!? ちょっと待って意味がわからない!」

「安心しろ──我もマイトをレンチンしたことはないからわからない!」

「何を安心しようかなあ!?」


 雨次は突然の危機に、ジゴ・ビームシールドの向こう側にいる虹色髪の少女に怒鳴って嘆く。

 気がついたらここに居た。

 なんか近くに居るだけで髪の毛とか逆立つパワーのバリアに囲まれている。ジゴフィールドによってプラズマ化した粒子の熱は伝わっていないが、体に悪そうな強電磁波が嵐の様に吹き荒れていた。

 少年にはまったく理解できない状況であった。

 魔王はじろじろと雨次の姿を見て、


「むう……他の魔王や一級神でも承認がなければ入ってこれない我の固有次元に来る相手は誰かと思ったけど……」


 じろじろと雨次の格好を眺める。血筋が良く整っているが育ちが悪そうな顔立ちをしている、時代劇風の古着物を着た子供だ。特筆すべき魔力や武装は感じられない。

 精神体だけでここに来ているようだ。魂も誰か知り合いの転生体というわけではない。呪われている形跡があるけれども今は大したものでもない。

 魔王を狙う神聖存在が一般人の魂に罠を仕掛けて送り込んできた可能性もあるが、その場合は一瞬で室内に予め設置していた識別式の転移結界『新世界のタンホイザーゲート』を発動させて、時間概念もあらゆるエネルギーも消えた廃宇宙次元へ捨てて相手を封印することが出来る。

 怪しみながらも、日本の時代劇風という点で魔王は当たりを付けた。


「くーちゃん──ええと、九郎ちゃんの知り合い?」

「あ、はい。生徒……みたいな」

「ふーん? ちょい待て」


 そう言って魔王は軽く手を上げて、


「偽典召喚」


 その短い言葉を呟くと、空間に虹色の召喚陣が生まれて、魔力が固形化し歪んだ本の形を作る。表題もぐねぐねとのたくったような字で、[江戸……]としか読み取れない、歪な書籍だ。

 その場でごわごわとしているその本をぺらぺらと捲り、異様に読み難い不確体揺嗣アリスタルコステクストによって綴られた文字列を読み取る。


「──ああ、はいはい。くーちゃんが寝かしつけてこの戦艦を通じてこっちに来たのかっと」


 そこまで読んだ時点で、本が端から風化していくようにぐずぐずと崩れて溶け始めた。

 魔王は興味を失ったように魔力によって偽装複製された本を投げ捨てる。

 あらゆる世界線上、過去未来に於いても存在しない書物は召喚してもすぐに消滅してしまうのだ。それでも短時間ならばアカシックレコードが全記載された書物すら呼び出すことが今の魔王でも可能である。怪我をして能力を大きく減退させる前は制限がほぼ無かったのだが。

 とりあえず害はないと判断してV2アサルトルンバを下がらせ、魔王は腕を組み雨次の前に仁王立ちした。

 目と髪が虹色に光っている、見たことも無い人種であったが雨次が思ったことは、


(腹すげえ出てる)


 という体型のことであった。なまじ、一張羅のローブなので目立つのである。デブだ。


「雨次少年!」

「は、はい!?」

「ヤンデレな幼馴染に愛されて眠れないとかクソ以下の悩みを持っているようだが……」


 魔王は、にたぁ……と笑って彼の肩を掴み、顔を覗き込む。

 澱んでぐるぐると渦巻き発光している虹色の瞳には、笑みを浮かべた際に相手の正気度を軽く下げる魔力を持ち、見られている雨次は脳味噌を匙で削り取られるような怖気を感じる。


「いいじゃあないかあ。そのままの君で。夢は所詮夢だよお? それに踊らされるなんて、むしろ現実の幼馴染達に失礼ではないのかなあ?」

「は……は?」

「未来など気にすること無くこれからも鈍感難聴草食系男子で低ステータスのまま付かず離れずに女の子と付き合っていけばいいと我は思うぞお……くふふふふ」


 邪悪な微笑みを浮かべて破滅へ一直線のアドバイスをする魔王。

 他人の恋愛事など拗れれば拗れるほどに面白いと思う女だ。まともな意見を口にする筈はない。

 何となくやってみたで偶々訪れた国の夫婦を全て破局にしてみたり、同人誌のネタにする為に別の国にいる人間の性別を全て入れ替えてみたりしてケタケタと笑う愉快犯なのである。なお、王族の継承問題が起こり両方とも国は滅んだ。魔王は「メンゴメンゴ」と草を生やしたようなコメントを残している。


 ともかく、魔王が見るにこの少年が生まれつき持っている呪いは[気にされる]というものだ。

 近くに彼が居るだけで周囲の人間は何となく気になってしまう。効果には個人差があり、気障りになって迫害される事もあれば情を動かされたと思ってしまう人間も居るだろう。

 それだけならば呪いというよりは魂の性質として持っている者も少なからず存在する程度の珍しさではあるのだが。

 悪神により追加の呪詛を受けている事によりこの性質が悪性進行しやすくなっているようだ。何らかのきっかけで呪いが進めば周囲の人間は精神を病みやすくなり、身の回りで犯罪や痴情のもつれが起きやすくなる。

 

(恋愛ってのはスリル・ショック・サスペンスがいいよねっ♪)


 悪趣味な魔王にとっては格好の玩具だ。むしろ、厭な予知夢を見たからと云って消極的になられても面白く無い。

 彼女は近くに置かれていた題名の無い本を手に取り、彼に押し付ける。


「忘涜図書[ラヴォアジエの弾劾]と云う本だよ。これを読めば悪い事なんか全て忘れさせてくれるんだあ……夢の事は忘れて彼女たちと仲良く終わりに向かって突き進む青春を送るといい……」


 ねちっこい口調で、無理やり雨次の目の前に、魂簒奪の魔本を広げた──。




 *****

 



 九郎と天爵堂が碁、将棋で勝負をした際の勝率はやや天爵堂が勝る。

 いい勝負にはなるのだが、少なくとも年下でおまけに現代の打ち筋も知らない相手に負けるというのは、九郎なりに苦く感じている。彼は魔王城に居た時に暇だった為に将棋雑誌で勉強して、森田将棋で特訓したというのに。

 その日、二人が寝ている雨次の横で勝負をしていると、年始の挨拶と称して脇差し一本で瓢箪酒を飲みながら髪もぼさぼさの中山影兵衛がやってきた。


「いようっつぁん! おっ死んでねえか」

「新年早々そんな挨拶があるかい」


 将棋盤から目を上げずに天爵堂が告げる。

 影兵衛が九郎にも視線をやって、嬉しそうに声を上げた。


「おう、あんだ九郎も居たのか。……おいおい、なんだ負けそうじゃねえかだっせェ」

「ええい、黙っておれ。よいか、将棋というものは攻めこまれている時こそが守り対応の定石があり有利、攻めこむ方は無数に広がる攻め手に悩むこととなるのだ。うむ、ここだ」

「王手」


 天爵堂の打った一手に九郎は渋面を作り、投げやりに認めた。


「……参った」

「弱っ。おうおう、九郎センセイも将棋じゃこんなもんってか? けひひっ」


 からからと影兵衛が笑う。九郎は「うぬ」と言い詰まって憎しみの篭った目を影兵衛に向けた。

 

「黙れ影兵衛。次はお主だ」


 そして九郎と影兵衛との対局が始まり、九郎が負けるまで半刻程だっただろうか。

 年明けの初勝負と云うのは、勝てば幸先が良く負ければ厄落としと云ってどちらにせよ縁起が良いのだが、連敗となると九郎も軽く落ち込む。

 げんなりしていると予兆無くむくりと布団で寝ていた雨次が起き上がって、枕下の宝船絵を破り捨てた。機械的とでも云うべき動きであった。

 寝惚けからの行動か、暗示を掛けられての動作か。ともかく絵を破った後に、はっと彼は表情筋を動かして周囲を見回した。


「あれ。なんでぼくはここに……」

「起きたかい?」

「体の調子はどうだ?」

「爺さんに、九郎さん。寝てたのか、ぼくは。ううん……」


 腕を組んで首を傾げ、しばし考える。

 どうも天爵堂の家に来た記憶が無い。今日はいつだっただろうか。命、夢、希望。どこから来てどこに行くのか。

 なにやら、思い出そうとしても虫食いのように覚えがないのであった。何を忘れたのかさえ思い出せない。そして、思い出せない内容については一生記憶が戻ることはないのだ。

 ともあれその様子から九郎と天爵堂は、二度寝したことで悪夢の記憶を忘れたのだろうと解釈して一安心した。


「いい夢は見れたかえ?」

「覚えてない……」

「ま、それでいいさな」


 雨次の返答に軽く返す。初夢が悪かったからどうだのと悩むよりは随分マシだ。宝船の絵は何故か犠牲になったが、まあ使用済みになったと思えばいいだろう。

 一応の事情は聞いていた影兵衛が、


「っていうかよ。夢のひとつやふたつに踊らされんのもガキィ、手前の度胸が無ぇからだろ」

「それは……そうかもしれないけど」

「つーわけで。男は度胸! この拙者様と楽しい楽しい正月遊びに出かけっぞ!」

「ええ……なんでぼくが」

「石燕の姐ちゃんの看病があるからって九郎には断られたからよぉ。安心しろよガキ。買う! 打つ! 殺る! の三拍子を充分に味あわせてやるからよ!」

「ちょっと!? 連れ去られるんですけど!? 九郎さん、爺さん助けて!?」


 拉致のように影兵衛の肩に担がれて連れて行かれる雨次を二人の高齢者は手を振り見送る。


「一応身の安全は影兵衛が保証するとさっき約束させたから安心するがよい」

「何を安心しようかなあ!?」

「かはは、よっしまずは軍資金だ! 賭場に行くぜぇ!」


 のしのしと犠牲者と云う同行者を連れて歩み去っていく。

 ばたばたと暴れていた雨次だが、影兵衛から殺気を向けられたのか途中で大人しくなった。

 どちらともなく、生贄を差し出した二人は影兵衛が居なくなった後に、


「良かったのかい?」

「お主こそ」

「いや、まあ中山殿ぐらい強ければ大丈夫だろう。あの子にもたまには変わった経験をして欲しいね人生の為にも。心配なら君が付いて行けばよかったのでは?」

「己れはこれから医者を探しに行かねばならん。石燕が風邪でな」

「安倍君なら熊野晴明神社に居るんじゃないかな」

「そうか。助かる」


 などと言い合うのであった。  

 余談だが九郎が将翁を探しに神社へ向かったものの結局見つからなかっただのが、彼と入れ替わりで石燕のところへ顔を出していたらしく、五芒星安倍印の薬を処方されていた。



 


 ******




 後日。


「あの後、賭場で博打を打ってたら凄まじい勢いで素寒貧になって。そしたら正月早々賭場荒らしの集団が押し込みをかけてきて影兵衛さんが嬉しそうに臨時用心棒になってバッサバッサと斬り殺し……

 それで謝礼金をむしりとって悪い仲間を連れて女遊びに出かけた先で、影兵衛さんの女癖の悪さが原因の火付けにあって、仕事に巻き込まれちゃたまらんって言いながら現場から逃走して……

 更にその後女敵討ちに来た浪人みたいな相手が襲いかかって来たのを次々に殺しまくって『ここに捨てときゃ辻斬のしわざってことになるだろ』とか云ってたけど辻斬ってもろあの人ですよね……」


「うむ。なんというか、わかった事はあったか?」


「はい。ああなっちゃいけないと思いました」


「だろう」


 良き未来の為に、少年は様々な経験を積まねばならないのである……。





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