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37話『夢のひとつ』

 大晦日の昼下がりである。

 にわかに活気付いたような、或いは大晦日ぐらいはのんびりしようかと云った背反する妙な空気の江戸を歩いている黒袴の侍が居た。

 体つきがよく、顔の造りもごつごつとしている男である。実年齢は二十の半ばなのだが、厳しい顔つきと寡黙な雰囲気から五か六は年上に見られやすく、またいかにも偉そうというか、怖そうというか、そう云った気配がある。

 だがその実、彼は同心二十四衆の中でも──いや、他の同心を見比べても最も昼行灯と呼ぶ声がある。

 二十四番『警邏直帰』水谷端右衛門。

 そう云う呼び名の男であった。

 ともかく、今年最後の見廻り途中。彼は小腹が空いた為に歩きつつめし処を探していた。

 昼飯を早めの朝四ツ過ぎ(午前十時過ぎぐらい)に食べた為だ。

 しかし適当に、歩き途中で思った店は大晦日の為に閉まっていたりして、なかなか辿り着けない。

 そうして彼がやってきたのは蕎麦屋[緑のむじな亭]であった。

 暖簾がかかっており、[本日は昼のみ]と、張り紙も店先に張ってある。

 

(蕎麦かあ……うん、ま、丁度いいか)


 組屋敷では毎年大晦日の夜にも蕎麦を食うのであったが、生憎と今日は夜に捕物の仕事があるので蕎麦にありつけそうに無いから今食うのもいいかもしれない。

 年越し蕎麦が生まれたのは諸説あるが、江戸に大量の人間が移り住み、また新田の開発が成功して米の増産がされた中期の頃であるらしい。白米のみを食うことで発症する江戸患いと呼ばれる脚気には蕎麦が効果的であり、年の終わりに蕎麦を食う事で次の年の健康を願った。

 それに時折、この店は変わったおかずを用意している事もある。それがあったら白い飯も一緒に食えばいいと思い、店に入った。


「いらっしゃませ!」


 店に入ると同時に元気よく声がかけられて端右衛門は少し驚き足を止めた。

 確か、店員は小さい女の子か鈍鈍としている少年の二人だった筈だが、最近来なかったらいつの間にかはきはきとした少年も追加されているようだった。

 客の入りは、昼下がりということもあり数人程度だ。

 足を組み椅子に座って、食卓を使わずに丼を持ったまま蕎麦を啜っている男は、火盗改の中山影兵衛であるようだった。こちらの視線に気づいたのか、剣呑な表情で睨み返されたので軽く会釈を返して端右衛門は離れた場所に座った。

 

「さて……」


 この店の固定メニューは蕎麦、めし、酒、上酒である。後は日替わりの小鉢で、内容は店員に聞くか店内に掲示されている。

 見回すと、真新しい紙を見つけ、端右衛門は釘付けになってしまった。

 それには、


「半熟煮玉子……?」


 聞いたことが無い名前だ。 

 半熟なのに煮玉子とはどういうことだ。

 しかもそれの値段が、三十文もする。普通のゆで玉子より十文は高い。

 十六文の蕎麦のほぼ倍である。

 現代の価格で云えば──物価などが異なるので一概には言えないのだが参考程度に言えば──半熟煮玉子一個で五百円か六百円の値段が付いているようなものだ。

 

(こう高いと逆に買う、か)


 巧妙に消費者を誘っている気がして、少しばかり気後れしたが興味は抑えられなかった。

 端右衛門は店員の少年に、


「この半熟煮玉子ってやつと白いめしを」

「はい!」


(あ、しまったな。蕎麦を頼むはずだったのだが……でもまずめしを腹に入れたいしな……)


 注文した後で少しばかり後悔をする。

 半熟煮玉子自体は、九郎が大量に仕入れてきた玉子を温度調節した炎熱符で程よく茹でて蕎麦の濃い[かえし]に漬け込んだだけの為に、すぐに用意できる。また、作りおきなので六科の料理の腕前に左右されない事を考えているメニューだ。

 だから注文してすぐに山盛りの白いめしと小鉢に入れられた半熟煮玉子、それに茶が持ってこられた。

 見た目は蕎麦のつゆ色を白身に染み込ませた茹で玉子だが。

 端右衛門は箸で玉子を両断しようと掴む。予想よりもやわらかな感触で箸がめり込んで、玉子が別れた。

 割った玉子の黄身は濃い飴のような黄色で、ねとりと通過した箸に張り付いた。


「これは……」


 半熟……いや、一度食べたことのある温泉玉子よりも更に粘度のある黄身を見て、その箸を舐めた。

 黄身が塩っぱいのである。端右衛門は驚いた。

 熱が通っていない筈の黄身にまで、外から濃いかえしの塩味が付いているのだ。浸透圧を利用した味付けである。

 そして、


「めしに合う……」


 のである。箸の先にこびり付いた僅かな黄身の汁だけで、端右衛門はがつがつとめしを食らった。

 そして次は色の染み付いた白身の端をちぎり取って食う。

 中の黄身がこれほどの味付けならば、外側はさぞ塩っぱいだろうと思ったらこれが不思議なもので、噛みしめる度に出汁の効いた醤油味と細分化された白身が混ざりマイルドな味わいになりつつ、


(やはりめしに合う)


 と、やはり端右衛門は内心慄きつつ三十文の球体を突付き、めしを食った。

 どうやって作ったかはさっぱり分からないが、凄まじい破壊力のおかずである。冷たい玉子に熱いめしという組み合わせもいい。

 年末になり悲しくなるぐらい寂しくなった懐を我慢して頼んだ甲斐があったというものだ。しかしながら、同心という下級ながらも役人である彼が三十文の食い物で悩むというのは、やはり彼も世渡りが下手な部類なのであろう。

 同じ店で蕎麦を手繰っている影兵衛などは、年末年始になれば頼んでも居ないのだが部下や出入りの商屋などから次々に黄金色の贈り物を貰うというのに……


(もう一つ頼みたい……いや、これはそう思いたくなるぐらいで止めて於いたほうが……)


 山盛りのめしも食いきったのだが、誘惑を断ち切ろうと端右衛門は茶を飲みながら食欲を押さえつける。 

 ふと、別の場所にあった張り紙に目が行ってしまった。

 端右衛門はそれに書かれている文字を心の中で読むと同時に手を上げて唱えてしまっていた。


「この半熟煮玉子蕎麦ってのを追加で」

「はーい!」

 

 元気の良い返事を受けると己で止めようと決めていた事を破った罪悪感も薄れた。

 しかしながら、一寸小腹を収める為に立ち寄ったのに出費が嵩んでしまっている。

 端右衛門は蕎麦を待っていると、影兵衛の会話が聞こえた。


「ったくよう、折角大晦日に九郎のやつ誘いに来たのに居ねえじゃねえかよ。おいタマ公、あいつ何処に行きやがった」

「石燕さんやお房ちゃんと一緒に出かけてしまったです!」

「なんだなんだ。独身のおじさんを置いて女の子とお出かけってか。つれねーな」

「影兵衛さん、一昨日も兄さん連れて博打に行ったじゃないですかあ」

「いやいやこれは大マジなんだけどよ、年末は丁半の設定甘いから狙い所なんだわマジで。絶対ぇ普段より当たりやすくなってるって」


 などと店員相手に絡んでいるようだ。

 待ったな、と思うような間も無く手早く作られた半熟煮玉子蕎麦は出された。

 軽く温める程度に蕎麦汁で煮直した玉子を載せただけの、いつもの葱が乗っている蕎麦である。

 端右衛門は箸で玉子の白身を僅かに千切って、口にする。

 冷たいまま食べるよりも塩気は少なくなっているが、温まった玉子と蕎麦汁の味が合わさってこれも、


「いけるな」


 と、思ってとりあえず蕎麦を啜った。

 麺は相変わらずふにゃふにゃしているが、気になる程ではない。

 端右衛門は玉子を再び黄身の部分まで割って、どろりとした黄身を蕎麦汁によく浸してからがぷり、と一気に齧った。一個目の時はめしのおかずという事で少しずつ食べていた為に出来なかったのだ。

 温かく柔らかい玉子と染み込んだ塩気と蕎麦汁の味で、端右衛門は一瞬硬直して、


(うまい……)


 と、喜んだ。めしを食う時は呟いたり内心とても旨がっているのだが、あまり表情に現れない性質である。

 もう半分の玉子を大事にしつつ蕎麦を食い、更につゆに浸って温度が替り味わいも変わった玉子を食った時も、彼の心の中だけで法螺貝が鳴り響いていたという。

 しかしながら、半熟煮玉子蕎麦を食い終えはしたのだが、少しばかり玉子の黄身が溶けた蕎麦汁すらどこか残すのも勿体無く思えた。

 だが啜るには少し塩っぱい。

 余談だが、この時代の蕎麦汁は現代に比べて可也塩気が多く作っているのが通常であるのだが、緑のむじな亭では九郎の好みに合わせて薄くはしている。ただ、あまりに出汁を効かせた薄さにすると安い出汁の味が際立つので誤魔化しも兼ねたギリギリの塩っぱさのラインだ。

 どうしたものかと思案していると、影兵衛の方で似たような会話があった。彼も蕎麦を食っていたのである。


「あーなんかちっと足んねえな」

「それなら、今日は沢山蕎麦の麺を用意してるから[替え玉]って事で茹でた麺だけお安く追加で出していいって兄さんが言ってました!」


(替え玉!)


 がたん、と端右衛門が膝を打つ動作でつい食卓に当たってしまい音が為った。

 気づかなかったのか、タマは言葉を続ける。


「あとは……兄さんや六科さんなんかは、蕎麦のつゆにご飯を入れて雑炊みたいにしてよく食べてますよ」


(雑炊……!)


 再びがたんと音を鳴らしたので、さすがにタマも気づいて一人で何か呟いたり思い悩んだり机を殴ったりしながら食べていた怪しい客に向き直る。

 彼は相手の評価など気にせずに、


「替え玉とめしを、大盛りで」

「は、はぁい」


 結局この日、小腹を満たす為に立ち寄った先で夜も入らぬぐらい満腹になった水谷端右衛門は、いい気分のまま八丁堀の組屋敷に戻っていくのであった……




 *****


 

 

「煩悩が消えないんです」


 タマのその告白に、男二人はへの字口をして、同時に、


「むう……」


 と、呟いた。文字に表すと同じだが、片方は納得したような「むう」で、もう一人は理解出来ぬような「むう?」と云った具合ではある。

 昼七ツ前(午後三時程)の時間帯で、そろそろ今日の──今年の店の営業を終わらせようかと思っていた頃合いであった。

 本日何人目かの九郎を訪ねてきた客の晃之介が、台所から上がった六科と前掛けを外したタマと共に、残った飯を食っていた。

 蕎麦汁に葱をたっぷり刻んで入れて、米と生卵を落としかき混ぜた玉子粥のようなものである。大晦日の営業だったが、日常と変わらぬ残り物ではあった。

 ともあれ、タマの悩み相談についてだ。


「女の人を見ると可愛いなって思ったら手が出てしまって」

「そうなのか?」

「うむ。よくお房に殴られている。最初は俺が殴ろうかと思ったが、まあお房が殴っているうちはいいかと」


 晃之介の確認に、六科が頷き応えた。

 タマはよく働き評判もいいのだが、時折女を前にしたら、さり気ない動きで体を触りに行ったりさり気なくない動きで体を触りに行ったり、殆ど番所沙汰な事が数度ある。

 大体は目の前でお房による制裁が加えられていることと、タマ自身見た目は可愛らしい男の子であることから訴えられはしていない。

 

「まだ小さいからギリ許されてる感があるけど、このままじゃマズいことになっちゃいそうで。あといつもお房ちゃんに殴られて体が持たないですよう」

「打算的だな……いや、働いてひと月も無いのにそう自覚するのがヤバイが」

「というわけで、男やもめというのに枯れ切ってる六科さんと、若盛りの晃之介さんにこう……女に手を出さない心得を教えてもらえればと」


 真摯な眼差しで訴えかけてくるので、晃之介はどうも困って目を逸らした。

 女に手を出さないコツなどと言われても。

 普通は手を出さないだろう。

 応え倦ねているとぼそりと六科が呟く。


「成程」

「わかってくれますか」

「ああ。俺とて人の親だ。そう云った感情が存在するという事は知っている」

「……」


 どうもズレた応えのような気がしたが、晃之介は口には出さなかった。

 感情を見せないいつも通りの声音で続ける。


「其の情動というものはだな、どうやら血の流れによって起こるらしい。血が一部に集中することで思考を狂わせ、体に変調を来たす」

「ふむ……そう考えた事は無いけれど、確からしい理屈だ」

「それでどうすればいいんです?」


 六科は頷き、さも当然のように答える。


「簡単だ。体内の血流を操作して平常に戻せば情動も覚める」

「……ええと、血をどうするって?」

「操作する」

「どうやって?」

「自分の体を動かすのと然程変わるまい」

「出来るの?」

「無論だ」


 言い切る六科に対して不安になったタマが晃之介を見て、尋ねた。


「……出来るものなんですか?」

「……いや。少なくとも俺は出来ないが」


 六科の謎の特技と言わざるを得ない。

 これにより彼は冬場の寒さや水の冷たさに強く、また息を切らすことも殆ど無い体質をしている。

 血気盛んな火消し衆に所属して、誰よりも早く走り火の熱さにも怯まずに冷静さを保っていた彼は、見る者によって勇敢に見えたり、命知らずの馬鹿に見えたり、人助けをするお人好しだったりと様々であった。

 見る相手によって姿が変わる妖怪──[鵺]から二つ名を取り、[鵺]の六科と呼ばれていたのである。

 どうも六科の助言は体質的に当てにならない。タマがじっと見てくるので、晃之介は咳払いをした。

 しかしながら、録山晃之介。二十を数える若者で女っ気が無いとはいえ──弟子にお八が居るが、彼に少女趣味は無い──別段朴念仁というわけではない。

 人並みに女を美しいと思う感性を持つ人間である。ただ、これまでの人生で旅生活が多く寝場所も旅籠ではなく野宿が殆どであったために、あまり女との付き合い方を知らないだけだ。

 彼を常識的な言葉をかける。


「なんというか、手を出さないようにすればいいだけではないんじゃないか」

「それがなかなか……考えると手が出るのが同時に行ってしまう感じでして」

「ふむ。それならな……まず相手を観察することだ」

「観察?」


 晃之介は首肯して、指を立てつつ言って聞かせる。


「そう。相手をまずよく見る。それから単に可愛い、美しいのではなく──ええと、髪が長くて綺麗だとか、目鼻が整っているだとか、肉付きがいいだとか、後々刺して来そうだとか、ともかくそこまでしっかりと考える」

「考える……」

「そしてだ、自分の頭の中だけで触るなり何なりと──想像して満足するのだ。思想というものは外に出さなければ取り締まることは出来ない。考えるだけなら何をしても無罪で、殴られる事も無い」

「なるほど……!」

「ただし、想像している時の顔は引き締めて於くことだ。男たるもの、女の前でだらしない顔はしてはいけない。たとえ相手が家族のような女だとしてもな。薩摩ならそれだけでクビになるぞ」

「クビですか」

「頚椎までへし折られるらしい」

「やだ恐い」


 薩摩では女にうつつを抜かしてはいけないのである。

 ともかく、済まし顔をしつつ妄想で済ませろという極当然の助言を行った晃之介であるが、とりあえず不安になり開けっ放しになった入り口を指さす。


「練習としてあの向かいの店先にしめ縄を飾っている娘でやってみろ」

「はい。──キリッ」


 声に出さなくてもいいのだが、わざわざそう告げてタマは目元を鋭くさせた。

 固く口を結び真剣で怜悧な眼差しを向けている。タマは女顔なのだが、元々が整っている為にそうしてみるとなかなかに良い目つきをしている。

 愛想の良さそうないつものへらへらとした笑みに比べればそのギャップが引き立つ。

 不意に、向かいの提灯屋の娘とタマの視線があった。

 すると娘は一瞬呆けたかと思うと、やや顔を赤らめて店の中に隠れていった。

 タマは顎を引きながら、


「凄い。頭の中では相当特殊な、相当に特殊な行為に耽ったというのに訴えられないです」

「……そうか」


 繰り返すほどの行為というのがどういうものかは理解を拒んだ。

 目を煌めかせながらタマが尊敬の眼差しを向ける。


「新しい道が……浮かんだような気がします。師匠と呼ばせてください」

「呼ぶな。頼むから」


 妄想の師匠にはなりたくないのであった。


「ちょっと厠に行ってきます」

「手は洗えよ」


 やや屈みながらひょこひょこと裏口へ向かうタマを見送った。

 そこまで妄想しろとは言っていないのだが……。

 晃之介は苦い顔をしながら雑炊をがつがつと食らった。

 

「そういえば六科殿。この辺りに湯屋はあったか? 年の瀬ぐらいは風呂に入ろうと思ってな」


 と、晃之介。

 彼が風呂に入っていないわけではなく、大抵は竈で井戸水を沸かし盥に張ったもので体を洗い拭っているのである。

 

「ああ。ちょうど今から行く予定だった」

「そうか」

 

 短いやりとりをして、暫くしたらタマが戻ってきたので三人で湯屋へ向かうことにした。

 湯浴みというと、タマがこの店に住むように為ったばかりの頃に小さな事件があった。 

 怪我も治り自由に動けるようになったタマであるが、朝方に井戸の側で冷水を浴びて体を洗っていたのである。

 夏ならばまだしも、十二月の霜も降りているこの季節にだ。

 音に気づいた女按摩のお雪が慌てて濡れそぼったタマを連れて六科達を起こし火鉢で暖めさせて、恐ろしく冷たい水浴びをしていたタマにどうしたのかと尋ねたら、彼はきょとんとして、


「え? いや、今までずっと水でしたから……」


 などと云うのだから思わず家族一同は不憫で目頭を抑えたという。

 それからタマは湯屋に連れて行くようになった。


 ともあれ、近所にある湯屋へ辿り着いた。看板に[矢]の絵が描かれている、江戸でも一般的な様式であった。これは[弓で射るもの]が転じて[ゆいる]から湯入ると云う字をかけた洒落である。

 正月になれば殆どの湯屋も休みとなるので、大晦日に入っておこうという客で賑わっている。

 六科とタマは月極めの定期券を番台に見せて、晃之介は六文払った。[失せ物存ぜず]と張り紙のある脱衣所で手早く服を脱ぎ流し場へ行く。

 タマは連れ二人の背中を見ながら、いかにも広くて男らしい背中だと惚れぼれする。六科などは鵺の刺青が迫力を出している。自分などは肌は白いし細っこい体つきでどうも貧相な気分だ。

 流し場にずかずかと闖入してくる六科の姿を見て、不敵な笑いを漏らしつつ立ちふさがる男が居た。

 いかにも鳶風の、三十前後に見える荒くれだ。体格は小柄なものの、筋肉が締まった体型をしている。

 全裸のまま腕を組んで六科と正面から対峙する。


「おうおう! 出やがったな[鵺]の六科! 大晦日に合うとはキリがいい、今日こそケリをつけてやる!」

「む……」


 我鳴り出した相手に六科は顔をしかめる。

 晃之介が、


「知り合いか?」


 と、尋ねると頷いて答える。


「良くは知らんが、恐らく人間だろう」

「種族しか特定しなすぎる」

「へっ! 俺っちを忘れても──この背中の紋々は覚えてるだろうが!」


 翻って背中を見せつけると、そこには波間を飛び跳ねる巨鯨の絵が彫られている見事な刺青がある。右下に[ニ九四]という漢数字もあった。攻撃力だ。

 攻撃力七ニの六科は頷いて、


「お前は……ええと、[鯨]の……くじ太郎」

「覚えてないなら無理に捻り出すなよ! 角乗り七人衆[海聖獣]の吉助だ! てめえとの刺青相撲勝負をした!」


 刺青相撲とはその名の通り、刺青者達が行う辻相撲のことであった。辻相撲は当時禁止されていたこともあり、いざという時に顔と名を隠しても力士名がわかるように刺青を二つ名として呼んでいたのである。

 様々な場所で行われるために通常の勧進相撲とは違う規定もある。例えば頭部を破壊されたら失格だとかだが、基本は相撲の規則と同じだ。

 六科は感慨無く返事をする。


「そうか」

「そうだ! 以前のてめえとの勝負……攻撃力は俺っちのほうが高かったのに相性で負けた……だがな、今年の活躍で俺っちの海聖獣の攻撃力は一桁増した。これなら負けねえ!」


 吉助の刺青、海聖獣は水属性であったために雷攻撃を行う六科の鵺からは倍の威力差を発揮される為に敗北したのである。

 鵺と云うと様々な動物の形態を持つ化け物であると言われているが、一説によると雷獣でもあるとされる。雷獣は江戸でも三指に上がる程に知名度の高い妖怪だ。

 しかし相手は攻撃力が三桁に達している。この刺青の規則では、仲間や周囲に認められる活躍をした場合に彫り物を追加して良いということになっているのだ。長く鳶職から身を引いている六科は刺青を強化することは出来ない。 

 風呂に入っていた客が野次を送る。


「おお、刺青相撲が始まるぞ」

「やれやれ! 喧嘩に相撲は江戸の花だ! 大晦日に景気がいいぜ!」


 闘志に満ちた目で吉助が腰を落とし、突っかかる構えを見せたので六科は晃之介とタマに、


「離れていろ」


 そう短く告げて、彼の正面に立った。

 誰が行司役なのかわからぬが、二人が睨み合って数瞬後に、


「残ったッ!」


 と、声がかけられて六科と吉助はぶちかました。

 まわしも着物も無いぶつかり合いである。

 両者、相手の肩の辺りを掴み力を込めて押し合う。互角のように見えるが、吉助はまだ笑みを浮かべている。

 

「うおおお!! 俺の攻撃力は二百九十四! てめえの七十ニの攻撃力を倍加させてもこっちが上だああ!」

「む……!」


 吉助の筋肉が唸る。

 属性の相性差を上回る力を込めて、六科を押し潰そうと挑みかかった。


「奥ォォ義ッ! 聖獣大海嘯ォ!」

「ぬうう……!」


 六科の体が押されるが、彼は足の指を流し場の床に食い込ませる程に丸めて掴み、耐えた。

 そして、叫んだ。己の力を。血の鼓動のままに。


「腕力!」

「ぐえーっ!」


 吉助を持ち上げて床に叩きつける。

 六科の勝利であった。周囲からどよめきと称賛の声が送られる。

 腰を強かに打ち付けて動かなくなった吉助を捨て置いて、六科は盥を持ち湯を浴びに向かうのであった。

 それを見ていた晃之介とタマは、


「……最終的に腕力で勝負がつくなら刺青の攻撃力とかには何の意味が」

「さあ……」

 

 と、唖然としながら呟いた。彼らはあまりルールに詳しくないのである……。

 




 *****

  



 一方。

 お房、石燕と共に出かけた九郎であったが、二人が狩野派の集会に顔を出してくるということで途中で別れた。

 さすがに面識のない画家集団の会合に参加するのは気が引けるし、あまり興味もない。

 茶飲み友達になった煙草屋の婆さんでも冷やかしに行こうかとぶらついたが、そういえば秋口に卒中で亡くなったのだと思い出して気まずそうに目的を失い街をうろついた。

 その婆さんも江戸の時代にしては長生きした方であっただろう。

 破れ凧のような骨ばった体でかくしゃくとしていて元気が良かったが、ある日突然倒れて死んだという。

 老人の死は、其のようなものだと九郎はため息をついた。

 そうならない自分がおかしいのだとも思う。

 

「いかんな……歳か」


 少しばかり陰鬱な気分になっていた九郎だったが、突然背中を叩かれたので振り向くと、お八がそこに居た。


「よっ。何してんだ?」

「いや、卒中で倒れて死ぬ自分を想像してた」

「年の終わりに縁起が悪いな!?」


 怒ったような声音で云うお八に九郎は笑いかける。

 そんな彼の手をぐいと掴んで、


「病気が気になるならお参りにでも行こうぜ。確か鳥越神社がご利益があるって聞いた。恵方だしな」

「そういうのは年が明けてから行くものではなかったか」

「じゃあ年が明けたらもう一回いけばいいだろ? 何回行っても悪くなるわけじゃないぜ」


 そう彼女が誘うので、九郎は特にやることも無かったため神社参りをすることにした。

 やはり大晦日となると神社周りには人が多い。明るい顔をした町人達が次々と神社の敷地に出入りしている。

 端の方を歩いていると、お八が黒袴を着た初老の男に軽くぶつかった。


「す、すみません」

「おおっと。ん? おや」


 初老で髪を撫で付けている男はぶつかった娘と手を繋いでいた九郎に目をやって片目だけ笑うという奇妙な表情を作った。


「はっはあ、九郎じゃないか。どう? 怪我治った?」

「む。お主は町方の美樹本同心。うむ。まあまだ少し力は弱いがな」

 

 と、返事をする。

 初老の男は町奉行所の筆頭同心、『殉職間際』美樹本善治であった。白色の交じった髪をした熟練の同心である。

 彼はひらひらと手を振ってぶつかったお八に目を落とし、


「こう人が多いと掏摸すりや鎌鼬が出るから気をつけてよ?」


 鎌鼬というのは、小さな刃物でこっそりと懐や袖を切り裂いて中の財布を盗む泥棒の通称である。

 九郎は尋ねる。


「見廻りか? 大変だのう」

「いや、おれは今日の夜に捕りものがあるもんでね。今のうちに神社参りを済ませておこうって腹さ。なんなら九郎も勤めにどうだい? 腕利きが不足してるんだよね」

「利悟が居るであろう」

「あいつは年越しの間中、ずっと牢の中だよ」

「とうとうか……」


 九郎は酷く納得して頷いた。

 美樹本は笑いながら九郎の背中をぽんぽんと叩き、


「ま、正式に十手を渡してるうちの所属ってわけじゃないから別にいいさ。そこの可愛らしい嫁さんと過ごす正月を邪魔しないでおこう」

「よよよよ、嫁じゃないぜ!」

「そうだのう」

「……」

「痛っ。なんで脇腹を摘むのだハチ子や」


 枯れた反応の九郎と歳相応に表情をくるくると変えるお八を見て、美樹本はやはり面白そうに笑った。

 実際に九郎に十手を持たして奉行所か火盗改の手先にするという話は上がっているのだが、その場合はそれぞれ彼と親しい利悟か影兵衛が上司となる役目と言われているのだがそのどちらも、


「あれはそう云う性格じゃない」


 と、消極的に断っているのである。これは両者、九郎の立場に縛られる役目に付きたくないという性格を付き合う内にそれなりに把握した為であった。

 頼んでも恐らく断られ、疎遠になるぐらいなら時々手伝って貰う程度でいいと云う非公式な関係を維持する方針だ。

 美樹本は手を上げて、


「んじゃ、良いお年を」


 そう告げて軽い足取りで去っていくのであった。

 二人は賽銭箱に並ぶ列に加わり、暫く待ってから銭を投げ入れた。

 

「南無南無」

「寺じゃないぜ」


 呟く九郎に小声でツッコミを入れる。

 手を合わせながら適度に祈る。江戸に来てから、随分と神社仏閣巡りが多くなった。信心深くなったというよりも、賑わっている場所だったからという理由が多いが。

 異世界では多くの神とそれに関わる信仰があったが、一番長く世話になったのは旅の神だっただろうか。なにせキャンプ用品には殆どその神性が宿っていたからだ。フリーズドライもつ煮込みが好きだったが、幾ら調べても原材料のもつが何の内臓なのか判明しなかった。

 長く会っていないが昔の仲間だった歌神信仰の歌姫は元気だろうか。長命種族なもので、外見は相変わらずだろう。魔王と魔女は全然信仰心が無かった。なにせあいつら神殺しだ……などと暫く思い出に浸っていると、お八から、


「あんまり長々とするもんじゃないぜ」


 と、手を引かれて賽銭箱の前から離された。

 九郎は少しばかり驚いた顔で、頭を掻きつつ誰にと無く言い訳をする。


「年を取るとどうも物思いに更けてしまうな」

「時々思うけど、九郎は幾つなんだ?」

「うむ。この前九十五と判明した。お八が十五だったな。ちょうど八十差か……おう、甘酒でも飲むか」


 境内にある茶店の外にある席に座り、暖かい甘酒を二人分注文する。

 九郎の年齢を聞いたお八が九十五という年月を想像しようとして難しい顔をしている。彼女の亡くなった祖父よりも古いのである。どうも、多少に年を食っている仕草をするものの見た目自体はぼやっとした少年である九郎が老人のようには見えない。

 会った頃に告げられた話を思い出して聞き返す。


「っていうか最近盗人に一家惨殺されたとかそう云う話じゃなかったか?」

「あれはまあ、合って無くもないのだが大体嘘だ。昔に悪い魔女に……」


 そこまで言いかけて、九郎は言葉を切って甘酒をもろもろと飲んだ。粕の半ば溶けたような異物感と甘みが口に広がる。


「──なんというか、色々あってのう」

「話すの面倒になっただろ、今。……まあいいけどさ」


 誤魔化された扱いを受けて、不満そうにお八は甘酒を一気飲みする。よくもこのもろもろを一気に嚥下出来るものだと九郎は感心した。

 彼女は空に為った湯のみを置いて、九郎の眠そうな目をじっと見ながら云う。


「昔に何が合ったかは知らねーけど、今九郎はここに居るんだからさ──ちゃんと生きろよ」

「……ぬう」


 九郎は眉間に皺を寄せて、軽く片手で頭を抱えた。

 顔に影が差したように見える。

 急な頭痛を起こしたかの如き仕草に、お八は、


「大丈夫か?」


 と、言いながら彼の背中を擦る。

 彼は不安がった子供を宥める笑みを見せつつ、


「いや、忘れてたのだが昔、同じようなことを言われてのう。まったく、年は食ってるのに子供に注意されてばかりだ」

「そんなもんだろ。父ちゃんにだって年がら注意しっぱなしなんだぜこのお八ちゃんは」

「そうか、そうか」


 自慢気に云うのでわしわしと彼女の頭を撫でてやった。

 止めろと言いながらばたばたと暴れる仕草が子犬のようで可愛らしい。本当に、娘か孫が居たらこんな感じだったかもしれない。

 いや──


(会った頃の魔女が、こうであったなあ)


 と、懐かしむ思いを浮かべた。

 その後も暫くお八と雑談して、初詣の約束をしてから別れるのであった。

 彼女と会話していて思い出した魔女との約束。長い間忘れていたが、確かに交わしたそれは……


『クロウ、あなたと私はロックンローラーになるのです』


(……いや!? 違ったよな!?)


 ぶんぶんと頭を振って間違って隆起した記憶を修正しようとするが、正しい内容は思い出せなかった。しかし二人で歌神信仰者の祈祷ライブ会場に乱入して豚の血を撒いた事は確かにあった。マジギレした歌神司祭達が殴打用ギターを持って襲いかかってきた。終わった後、よく考えたら豚の血はロックじゃないよね別ジャンルだよねって話し合ったりした。

 余計な内容が思い出されて、肝心な事は浮かび上がってこなかった。加齢による記憶の集積構造に歪みが生じ、物忘れが多くなっているのかもしれない。

 まあとにかく、昔に魔女にも叱られた事は確かにあったのだ。惰性で生きるな、人生を楽しめ。そのような内容だったが、


(お主は幸せだっただろうか……)


 散々に手を焼かされた魔女だったが、彼女が行った悪事で最も大きいのが九郎を逃して死んだ事なのだと彼は思っている。孫のように思っていた娘を犠牲に生き残らせられたのだ。裏切られた気分であった。

 日がだんだん落ちて来ている。九郎は身震いをして、家に戻ることにした。

 祭り囃子が響いている。犬も年の瀬で陽気なのか、首に鳴子を飾った犬が歩いているのを何度か見かけた。





 *****


  

 


「うううう~!」

「そんなに縋りつかれても」


 江戸の麹町にある読本、浮世絵などの版元、[為出版]の前で一人の老人が若い女に絡まれていた。

 真っ白い髪を書生風に括り、髭や眉毛まで雪のように白くなっている男は天爵堂という物書きである。それの袖にしがみついている二十歳前後の町娘は、百川子興という絵描きだ。

 二人はコンビを組んで娯楽向けの読本を連載している仲であるのだが、この日は偶々年末の挨拶回りに来ていた天爵堂を子興が捕まえて唸っているのである。

 いい年の女が、涙目で鼻を啜りながら。

 天爵堂は心底迷惑そうな色を隠そうとせずに、


「わかった、話ぐらいは聞いてあげるから落ち着きなさい」


 そう言って何とか着物に鼻水などが付く前に引き剥がした。

 子興は手元に紙の束を持ちながら、


「大変なんです! 師匠から出された課題で、宝船の絵を一日ずっと描けるだけ描けって言われて……終わったら描いた分を全部他所で売らなければいけないって言われてて! わたしだけ課題達成出来てないんです! 売れてないんです!」

「そうかそれは大変だね。よし、後で船月堂にはよく言い聞かせておくから。それじゃあ」

「今見捨てる気満々じゃないですかああ!」


 適当にあしらって立ち去ろうとした天爵堂の袖を破れんばかりに引っ張った。

 それは困ると判断して仕方なく立ち止まる。

 子供のような泣き顔を見せる子興に対し、露骨にため息をついた。仕方なく、その場所にあった茶店の外席に座り汁粉と茶を注文し話を聞くことにした。


「大体、宝船の絵なんて大晦日前に買っているのが普通だろう」


 当時、江戸では正月の縁起物として宝船の絵を用意する風習があった。

 墨で描かれたその絵に[なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな]と云う回文にもなっている句を添えたものを布団に入れると吉夢が見られるのだという。

 正月の需要という点では確かにある商品なのだが、どうもこの娘は売り方が下手というか、営業の出来ない性質のようである。

 彼は子興の描いた宝船の絵を見ながら、眉をひそめて尋ねる。


「それにこの絵はまた難解な。宝船に丁寧に七福神を描いているのはいいとして、どうして弁財天が大きく描かれているのだ?」


 宝船の上に簡略化された七福神のうちの六神が乗っていて、宝船自体は弁財天の掌の上に乗っているというダイナミックな構図の絵である。

 子興はもごもごと目を逸らしながら、


「だって、師匠が来年こそ巨女の絵柄が流行するって言うから……」

「戯言を真に受けてどうするんだ」

「そ、それに弁財天はほら、財宝の神様だから縁起がいいじゃないですかあ!」

「その安易な考えがいけない」


 天爵堂はいいかい? と出来の悪い生徒に言い聞かせるように、


「大体、財宝を司るのは恵比寿も毘沙門も変わらないだろう。五行陰陽と新年の縁起で考えてみたまえ。新たな年を迎えるのだから陽の気質を備えなければならないだろう?

 弁財天は水の神。恵比寿も元々は蛭子で属性は水。毘沙門天は戦と富という点から見れば金。福禄寿と寿老人は共に南極老人が元だ。これらは長寿を司ることから木の質を持つ。布袋では[ふくろ]の語源は[布黒]という中の闇を表すから陰。

 となれば、元々太陽の気を持つ神が大国主と習合した大黒天こそを主体にするのが正月の縁起物としての当然ではないのかい?」


 彼は朱子学を修めている学者だが、持ち前の読書好きが講じて儒学や五行思想、易学などにも通じている。普段は子供相手に読み書きを教える隠居暮らしなので喋る機会はないが、時折こうして子興などが謎の理屈を語る相手となるのだ。合ってるかどうかは不明である。


「う、うぐうう……天爵堂先生、師匠みたいな事を言う……」

「それに大黒天を描いたとなれば浅草寺や神田明神で祀っているからそこで売れただろうに」

「い、いまさら絵の内容から否定に入らないでくださいよう!」

 

 どちらにせよ、描いたものを売らなくてならないのだ。天爵堂の駄目出しなど、子興の心を抉る結果しか産まない。

 

「ううう、北川どころかお房ちゃんまでこの課題合格してるのに……わたしって絵の才能無いのかな……」

「……なんでそう思うんだい?」

「だって、わたしの絵は師匠やお房ちゃんみたいに愛嬌は無いし、北川みたいに色気も出せないし、奇をてらったものを描いても天爵堂先生の助けがないと売れないし……」

「ばかばかしい」


 めそめそとした子興の弱音を、乱暴な程の物言いでばっさりと老人は切り捨てた。

 強い言葉にむしろ彼女は余計に顔を暗くする。

 

「いいかい、百川君。そんなものはただの主観だ。技巧だとか、売上だとかは凡百な評価基準にすぎないよ。もっと本質的な評価を考えよう」

「本質的な……?」

「絵でも書でも剣でも思想でもいいけれどね。一番の評価というものは[歴史]だ。自分が歴史に名を残せるかが最も大切な評価だと僕は思っている」

「歴史……あの、わ、わたしは歴史に名を残せる程の絵描きになれるでしょうか?」

「そうだね。僕は特に、君の描く猫の絵は嫌いじゃない。自信を持ちなさい。そして弛まずに努力をすればきっと後世にも君の絵は残るだろう」

「よ、ようし! 猫! 猫ですね! やっぱりか、にゃんこんちくしょう!」


 拳を握りしめ鼻息を荒く、先程までの落ち込みをもう奮起に変えた女絵描きに、天爵堂は困ったように笑った。 

 何故かこの、必死な娘にはつい手を貸してしまう。時に弱気で落ち込み、それでも我武者羅に絵を描き認められようとする彼女は、


(誰かに似ている……)


 と、苦笑が溢れるのである。

 立ち上がった子興は天爵堂の腕を掴んで、


「とりあえず歴史に名を残す為に! この宝船を頑張って売りましょう先生!」

「やれやれ。仕方ない」


 のそのそと彼も立って、さてもう夕暮れだというのに何処で売ろうかと考えを巡らせるのであった。


 ──後に、百川子興の描いた代表作『美人に猫図』は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。

 この女人と猫を合わせた構図は他の絵描きにも見られるものだが、子興の描いたそれは親しみのある黒い着物の美女と、嬉しそうに転がった猫を描いた柔らかな絵柄の作品である……。




「あ。ところで歴史に名を残さないといけないなら、なんで先生[おにゃん恋物語]の最後に必ず『読後焼却すべし』って一文を書いてるんですか!?」

「……残したくない歴史もあるということさ」




 *****

 



 炬燵というと、この時代には個人用の小さいものが主流であった。

 構造は単純で火鉢の上に布団を被せるだけという簡単なものである。大炬燵という大勢が入れる物も無くはないのだが、あまり普及していない。

 緑のむじな亭では九郎の日曜大工と、お八が練習代わりに縫った炬燵布団を使って現代日本で一般的に見られる、テーブル式のそれなりに大きな炬燵を用意していた。 

 火元は炎熱呪符を加減して使用しているので火災も起きない安全設計だ。

 大晦日の夜である。炬燵の四辺にそれぞれが入り過ごしていた。

 九郎、石燕、タマがそれぞれ三辺に。残りの一片に折り重なるようにお房、お雪、六科が座っている。百川子興は課題を終え次第狩野派の集まりに参加する為、石燕も神楽坂の家を閉めてこちらに来ているのだ。彼女の家には豪華に鮑を餌として入れられた星形のヒトデが留守番している。

 じわじわと年の終わりが近づいてくる足音を窺うように、皆のんびりとしている。時折、タマがキリッとした顔になるが、それ以外は平穏だ。

 六科の膝に座り、自分の膝にお房を載せているお雪は、


「あったかぁ」


 などとほっこり呟いている。

 九郎は酒をちびちびと舐めながら、


「そうしていると親子にしか見えんな」

「やぁですよう九郎殿。六科様と夫婦に見えるなんて! うふふ」

「そこまでポジティブに捉えなくても。それにどっちかと云うとお主も娘のようだぞ」

 

 確か、年は二十前後だったとはいえお雪はまだ十六、七程度の娘に見えるのだ。ちょうど、お房の姉みたいである。

 冬になればよくその三人が猿団子の如く温まっているのを見るが、


「なぜそんな体勢で?」


 聞くと、六科が小さく頷いた。顔のすぐ下にお雪の頭があるので、ほんの少しの頷き度だ。


「話すと長くなるのだが」

「ほう」

「こうしようと前に決めたからだ」

「……」


 そこで言葉を止めて、彼は熱燗を飲み、再び黙った。

 暫く待って、タマが尋ねる。


「え? それだけ?」

「長くないどころか何一つ分からんかった……」

「ふふ」


 呆れる九郎とタマを石燕が軽く笑った。まだ彼女の目の前の銚子は一本目だ。いつもはぐいぐい飲むのだが、今日のペースは遅い。

 変わってお雪が説明をする。


「それはですねえ。わたしはこの通り火に巻かれてめしいて居るのです。それで、小さい頃は火などに近づくのが恐ろしくて……。

 お六さんがでも寒いだろうとこの抱き方を考えてくださいましたのですよう。昔はお房ちゃんの位置にわたしだったんですけれど」

「あったかーなの」

  

 ほかほかとお房も声を出す。なんとも仲の良い姉妹のようだ。

 実際にお雪の為に六科親子は日頃何かと世話をしている。冬場になって多いのが、湯屋にいけぬお雪の為にぬるま湯を盥に用意してやることだ。これも九郎が術符を提供するようになってからとても楽になった。

 ちなみに、お雪当人はまったく判断できる要素がないので美醜についてわからないのだが、色白でほっそりと整った体つきの彼女の湯浴みを覗こうとする長屋の男連中も居るが。見つかったら主に長屋に住む他の女衆に半殺しにされるという。

 

「何なら九郎君も私の膝の上に乗るかね?」

「いや、お主の前は胸が邪魔そうだから遠慮しておこう」

「胸を邪魔と言い切った!?」


 真顔で即答した九郎の言葉にタマが驚き声を上げる。そうか……このレベルで女に不自由していない人間だと胸とかむしろ邪魔なのか……と尊敬の眼差しを送りつつ、邪魔扱いされた石燕の胸を一度見てキメ顔で虚空を眺めた。

 お房が、


「あ、そういえばお父さんとお雪さんにあたいが宝船をあげるの。お父さんはこっちで、お雪さんはこの折り紙で作ったやつ」

「あらあら……うふふ、嬉しい」


 少女の心尽くしにお雪は嬉しくなって、盲である彼女の為に舟の形に折られた紙をそっと手に取ってお房を背中からぎゅっと抱きしめた。

 六科もお房の絵を見て、


「うむ。うまいぞ」

「えへへ」


 と、褒めて頭を撫でる。タマが覗きこむようにしてその絵を見ると、


「うわ。本当に上手だ……」

「タマの分もあげるから、しっかり来年も働くの」

「ありがとうお房ちゃん!」


 そう言って彼にも一枚宝船を渡す。

 九郎はじっと自分の分を待っていたのだが、声は石燕から掛かった。


「安心したまえ九郎君! 君の分は私が描いたともふふふ。この江戸に名高き鳥山石燕のパネエ宝船を見て喜ぶがいい褒めるがいい」


 やはりいつも通り胸元から紙を取り出して、ばんと叩きつけるように九郎の目の前に広げて出した。


「これが! 私の力作『タカラ戦艦トミー』だよ!」

「戦艦!? ちょっと待てどっかで見たことのあるタカラトミーなマークがついておるぞ!?」

「ふふふ何を言っているのかね。宝船なのだよ? 宝とか富ーとかそう云うしるしを付けるのはむしろ当然ではないか!」

「富ー云うな!」


 どう見ても宇宙戦艦に見えるその宝船は商標登録が怪しいパチメーカー品にしか思えなかった。

 ダイナミックな輪郭だというのに細部まで細かく描かれていて絵の技巧で言えば間違いなく素晴らしいのだが。

 笑いながらツッコミを入れていると、外からパラパラと霰のような音がして、次にざ、と大粒の雨が降り出したのが聞こえた。


「雨か?」

「なに、初日の出までには止むさ。日が落ちる前に見た雲の動きでわかる」


 そう自信ありげに答える石燕であった。




 *****




 その頃、日暮里豊島では……。

 千住大橋を更に下った先で、十数隻の舟と何処にでもいる町人の格好をした集団が、ひっそりと集まっていた。

 田地も多く残るその土地は真っ暗で他に人の気配は無いが、川の辺りに集まった彼らは一見、日の出まで待つ一団に見える。

 実際に江戸の橋や海沿いには大晦日に多くの出店が現れ、日の出まで酒を飲み騒ぐ町人が多かったという。

 だから、そこに集まった彼らも怪しまれる事は無いだろうという算段だ。

 その集団は抜荷──密貿易をした品を江戸に運び込む犯罪組織なのである。

 幕府は強く抜荷を取り締まり、厳罰を処しているが江戸に大阪、長崎や松前など多くの人が集まる場所や外国との窓口になり得る港では、いかに取り締まろうとも抜荷は続けられていたと言われている。

 怪しまれぬように平服を着た集団は手早く取引を済ませていく。手続きには厳しい認証が必要で、入れ替わりなどを防いでいる。


「どうぞ」


 そう言って竹筆を一人の男に渡したのは、狐面を付けた薬師──安倍将翁である。

 竹筆を受け取った男はそれを半ばから折ると、分割面に隠された練香の匂いを嗅いで部下に指示を出す。予め特別に調合された香の匂いを合わせることで割符の代わりにしているのである。

 将翁がやがて、どさりと布と油紙で包まれた物品を受け取り、切り餅と呼ばれる小判の包みを三百両支払った。

 小判の枚数を素早く数えている男は数えながら何気なく相手に声をかける。


「しかし先生よォ。売っといて何だがこいつは酷ェヤクだぜ。体も心も人生もぶっ壊しちまう、毒みてェなもんだが……」 

「勿論承知の上、ですよ」


 彼は狐面を左右に振って、「くく」と笑った。


「機を以て機を奪い、毒を以て毒を制す──なんて言いますがね」

「ふゥ、まあこっちは金が貰えればいいけど」


 数え終わった男が、よしと周りに合図を出して離れていく。

 将翁は大事そうに渡された重箱ほどの大きさの包みを、背負っていた薬箪笥にしまい担ぎなおす。

 ちょうどその時、どよめきが起きた。


「おい、遠くからこっちに来てるの……」


 川沿いの道を近づいていくる提灯がある。

 見ている間に一つ、二つと灯っている数が増えてあっという間に数えきれない提灯が包囲の形を作って上流と下流方向に存在していた。

 提灯には全て[御用]と文字が書かれている。


「奉行所の手入れだ! 逃げろ!」


 大声で警告の叫びが回ると同時に、提灯持ちが速度を上げて迫ってくる。馬に乗って指示を出しているのは奉行だろうか。予め準備をしていて奉行所がここを張っていたのだろう。

 川からも御用の提灯を灯した舟が何隻も見える。こうなれば海上も封鎖されている可能性が高い。この場に集まった密貿易組織全員の顔が青くなった。抜荷の罪はほぼ死罪である。


「おや、おや」


 将翁はのんびりとした声音で呟いて、冷静に持ってきていた蛇の目傘を開く。

 右往左往する男達を尻目に、悠然と歩き出した。


「ちょいと、用事があるから捕まるわけにゃ──いかんでしょうぜ」

 

 彼がそう告げて、くいと狐面の鼻先を夜空に向ける。

 先ほどまで見えていた星が隠れ、にわかに密雲が大晦日の空に重たく伸し掛かっていた。


 ──しゃん、から、ら、から、ら、ら。


 音が──。 

 日暮里を囲む田園から音が鳴る。

 まるで祭り囃子のような規則のある音だ。

 四方八方から、無数の音がからからと響き渡る。


「句句廼馳に鎮め祓う──宇の天つ水」


 将翁の小さな呼びかけと共に囃子の音は更に大きく鳴り響き、やがて──

 彼の見上げた空から大粒のみぞれが激しく降りだした。

 僅かな間に夜闇もあって一尺先すら見えぬ大雨だ。奉行所が持ちだした提灯の明かりも次々と消えていく。

 雨音と鳴子に響く音が重なり、その場に居た悪党も町方の役人も方向感覚すら覚束ない大変な天気の中、高下駄を履いた将翁はゆるりと立ち去っていく。

 


「高砂や──嬉し涙か、あまきつね。めでたくもあり、めでたくもなし──ってね」



  

 *****

 


 雨の降りだす少し前──。

 芝界隈にある料理屋の二階に、狩野派の絵師が集まり宴会を行っていた。

 狩野派と云うと集まり分業で幕府御用達の絵を完成させる一派と、また別に町絵師として活躍する一派がある。

 ここに集まったのは後者が多いだろうか。

 個人の能力で絵を作る絵師達はまた個性的な者も多々居て、珍しく集まるこの場では激しい議論なども繰り広げられていた。


「だから! そんな巨大蛸と人体が絡むなんて現実的じゃないって麻呂は言ってるんだ! 普通の蛸にしがみつかれただけで、ほら! こんなに痕が残る! 麻呂は詳しいんだぞ!」

「おれの絵に出てくる蛸はそんなに強い吸盤を持たないし、分泌される粘液は女の人をいやらしくさせる効果があるんだ! 絵の横に喘いでいる文を付け加えればほら!」

「うるせえこの鉄棒ぬらぬら野郎!」


 などと騒ぎあい、正月に飾るはずだった門松に使う竹を槍のようにして暴れている。

 一人、窓際で酒を飲んでいる大晦日だというのに灼けた銅を飲んだ閻魔のような不機嫌そうに見える男に、絵を売り切って開放された百川子興は話しかけた。

 実際に不機嫌というわけではないと知っていたからだ。知り合いは彼の口の中に苦虫が巣を作っているのだと噂している。


「佐脇さ~ん……あれを止めてくださいよう」

「お互いに画風で議論を交わしているんだろう。妖怪か、鏡の話題になったら仲裁しなくもないがね」

「ううう、現世のことに興味が無い過ぎる……」


 妖怪絵師って皆こうなのかしら、と子興は思いつつ、マイペースに酒を飲む佐脇嵩之を眺めた。

 彼女の師匠と同じ分類の画家となれば多少変でも納得がいくのかもしれない。

 余談だが、今だに佐脇と石燕は直接出会ったことは無い。狭い業界の同じ画風となれば関わりもあるのが普通なのだが。

 

「ぬあー!」

「ああ! また北川さんの尻に竹槍が!」


 などと彼が観察する眼前で騒ぎが起きていると、ばたばたと屋根を打つ音が聞こえてすぐに雨が降ってきたのだとしれた。

 佐脇は風情の為に開けていた窓を半分閉めつつ、


「さっきまで晴れていたのだが……おや」

 

 と、呟いた。

 彼は半分に閉めた窓の隙間から、外を眺めつつ云う。


「成程、狐の嫁入り……か」


 二階から見下ろす道を、狐火が並んで進んでいっていた。

 毎年大晦日には関東八カ国の狐が江戸・装束榎に集まり、狐火を見せると謂われている。

 麻呂と争っていた少年が、


「え!? 誰か狐の嫁さんが出来るんですか許せねえ!」


 と、意気込むので佐脇は腕を組みながら。


「そうだね諸君。折角だから日本の狐妖怪に関する僕なりの話でも聞かせてあげよう。大陸から仏教、儒教と共に渡ってきた狐に関する妖怪が土地神としての稲荷と朝廷に仕える陰陽師に取り入れられたと言われているが、嫁入り話というとその原点としては、僕は北国から伝わる狐の神について──」


(あ、これ長くなるわ……)


 解説しだした佐脇に、その場に居た全員がそう思った。

 普段は無愛想に見える寂れた鏡屋の主なのだが、一旦妖怪か鏡について語りだすと止まらない。

 それでもこの絵描きたちの中では先輩にあたり、そもそもこの宴会をやっている店も彼と彼の師匠が借りたものなので全員正座をして聞かされる。

 ふと、こちらを向いている佐脇の背後──窓に女の人影が稲光で一瞬だけ見えた


「うわああ!?」


 目撃したのは一人ではないらしい。複数の人間が指をさして転げるようにする。

 片目を跳ね上げて佐脇が話の腰を折られたことに不満気に、


「どうしたのだ?」

「さ、佐脇さんの後ろに女の姿が……」

「おいおい君たち、ここは二階だぜ? 窓の外は人が乗れるところはないんだ」


 そう言って振り向き、無遠慮に窓を開けて周囲を確認する。何も居ないし、通りからこの窓を覗きこむには身の丈八尺以上は必要だろう。

 絵描きの一人は震えながら、


「お、おれ聞いたことがある……背の異様に高い女の幽霊が追いかけてくるって怪談! 戸を夜中にばんばん叩くんだよ!」

「あれだろ? 寺に駆け込んだら『お前たち何をしたっ!』って凄い怒られる系の……」

「なんか一時期から増えたよなその系統の話……」


 怯えながら絵描き達は顔を青くして囁き合う。

 佐脇がそれならばと高女や見越し入道について解説してやろうかと思ったところで、子興が大声を上げて立ち上がった。


「え!? じゃあそれって……巨女の流行来てるってことですか!?」


「いや、それは来ねえわ」


 全員、即座にツッコミを入れたという。





 *****




 伝馬町牢屋敷にて。

 大晦日の寒気に震えている男が居た。

 名を菅山利悟。町奉行所の同心である。


 牢の中で罪人と同じ生活を余儀なくさせられているが、実のところ彼は罪人ではない。

 牢に寝泊まりする罪人の中に、詮議中で重要な証拠を持っているやつが居て、彼を牢内で殺させぬ為に利悟は潜入しているのだ。

 当時、牢の中は役人ですら権限が及ばぬ牢人たち独自の社会制度が敷かれていた。頭は当然牢名主だ。牢の環境は当然だが現代に比べて良いとはいえず、牢内で死人が出ることもあり、それらは病死として扱われるのであった。

 特に嫌われる職業──役人の手先、金貸し、楼主など──が居た場合、それらは密かに殺されていたという。

 利悟が守らねばならないのは大きな密貿易組織の構成員である。牢内に刺客を送り込むという事も充分に考えられるという判断を町奉行の大岡忠相が下し、奉行所で牢に入っても違和感がない番付一位の利悟が遣わされた。

 単に殺させないだけならば、隔離するなどの方法も取れるが敢えて証言を取らせる為に、


「一度、殺されかければ義理も尽きて口を割るだろう」


 と、大岡忠相の判断である。それでいて実際に殺されてはならないのだから、監視も大変なことであった。 

 利悟の罪状はリアリティを出すために、稚児暴行をした浪人という不名誉なことになっている。これもまた、牢内で腐れ外道だと思われて狙われる罪状であった。

 彼は目的の罪人の身を守りつつ、自分の身も守らねばならない。

 牢に入ってから、特に夜にはウトウトとも出来ぬ生活を続けていた。

 下っ端とはいえ徳川に仕える侍が、大晦日や元旦に先祖親戚に挨拶にもいけずに牢で憔悴している。涙が出そうだった。それでも仕事なのだ。これを名誉と思いやり遂げなければならない。


「おい! お前等 今日は大晦日だから蕎麦を食わせてやる! 親分に感謝しろ!」

  

 と、牢屋番が大きな鍋と沢山の器を持ってきて叫んだ。

 夕飯(玄米と漬物、白湯で終わりな普段の飯に加えて蜜柑が一人半分ずつ出た)を終えた後に言われて牢内の罪人はどよめきだった。

 この場合の親分というのは、牢名主のことである。勿論牢名主の権力で夜食の差し入れをするなど不可能なので普通に奉行所が用意したのだが、上役が任命して牢内の治安管理を任せた牢名主への感謝を牢人に与えるためにこう言っているのである。

 このような時節に合わせて罪人にハレの食を与えるのは単に慈悲なのではなく、役人も祝日であるので常勤を減らしている為にこの日に反乱や脱獄をされても困るから敢えて豪華な飯を振舞っているのだ。

 一杯ずつ椀に入れられた年越し蕎麦を受け取り、牢名主へ感謝の言葉を云う。

 利悟も当然そう云った。

 牢の中の男たちは、


「おれ、年越し蕎麦なんて娑婆じゃ食ったことねえや。牢に入れられて初めて食う」

「あんなに豪華な夕飯を食ったってのに、もう飯か。腹がはちきれちまうぜ」


 感動しつつ、蕎麦が全員に行き渡って一斉に食った。

 牢で食う蕎麦など、どうせ塩を溶かした汁にぼそぼその蕎麦がきを入れたようなものだと利悟は思っていたのだが。

 せめて牢の中で仕事をしている利悟を労う大岡忠相の指示により、まともなかけ蕎麦であった為に、


「う、うめえ」


 と、利悟は──いや、牢の皆はほろりと涙を流しながら蕎麦を啜った。

 簡単に出汁を付けただけの蕎麦だったが、牢の中で食う飯では一等に美味かった。

 利悟は大岡忠相よりも何故か牢名主に感謝の思いを持って、泣きながら食った。ありがとう牢名主。正月七日過ぎて八日には死罪が決まっている牢名主。本当にありがとう。




 *****



 

 除夜の鐘が鳴る。 

 当時は現代で云うところの、十時ぐらいから多くの寺で鳴らし続けていたそうだ。

 その遠く響く音は多くの人たちに年明けを知らしめる。

 


「新年の祝い、私の故郷ではワインを飲みつつメリークリスマス叫んで高所から飛び降りマース」

「やらなくていいから」

「OH...」

「やれやれ。葡萄酒を飲むぐらいはいいぞ」


 江戸までついてきてそのまま警護していた長崎奉行が、土下座したままの阿蘭陀商館長カピタンに冷たく返しつつ、彼の部下から持たされたワインをお互いの茶碗に注いだ。



「雨次ー! あけましておめでとー!」

「去年も云ったけど、夜中に来るなよ……暗くて危ないんだから」

「えー? だって雨次に早く言いたいし。雨次だって、わたしが来ると思って外で待ってたじゃない!」

「……まあ、それはそれとして」


 千駄ヶ谷の片隅で無邪気な少女が捻くれた少年に会いに来ていた。

 


「よォし! 年明けに一発肝練りをすッが!」

「よか! やッど!」

だい鹿屋殿どんの屋敷に使いを送ィ、きもねりんば引ッてい!」

「わかり申したァ~ッ!」

 

 薩摩中屋敷ではにわかに騒ぎが起こっていた。


 

 江戸の町では、各々が、新しい年を祝っている……。



 

 *****

 

 


 夜明け前──。

 緑のむじな亭の炬燵に入っているのは、九郎と石燕だけになっていた。

 各々、除夜の鐘を聴いた後布団に向かったのである。九郎は乾燥する唇を潤すように酒を舐めながら、石燕の作業を眺めていた。

 彼女は暇を持て余していた為に、正月に遊ぶ双六すごろくを自作しているのだ。半紙何枚にも渡る大作である。

 夜通しで九郎の昔話などをせがまれた為に、いい加減話す事も思い出せなくなっていた。何故か本当に混ぜて架空の作り話を喋ってもすぐに石燕にはバレてしまう。どうでもいい事だが、老人の自慢話に交じる嘘を説破しないで欲しい。


「へっくし」

  

 石燕が小さくくしゃみをしたので、九郎が心配して声をかける。


「寒いのならば寝ればどうだ。初日の出の時には起こしてやるぞ。お主は体が強くないのだから」

「大丈夫だよ。それに寝ずに初日の出を見て深呼吸すれば寿命が伸びると言われていてね」

「ほう」

「他にも若水を汲んで飲めば寿命が伸びる。恵方参りをすると寿命が伸びる。福茶を飲むと寿命が伸びる。屠蘇散を飲むと寿命が伸びる。

 三が日楽をすると寿命が伸びる。勝負事をすれば勝っても負けても寿命が伸びる。初猥談をすれば寿命が伸びる。初風呂で寿命が伸びるなどとおまじないがあるね」

「どれだけ正月で寿命を伸ばす気だ、江戸の奴らは」


 毎年全部やっていたら寿命がカンストしてしまいそうだと感じた。

 彼女はにやけた顔をして九郎を見ながら、


「あ、しかし元旦の閨事は寿命を縮めるらしいから──いけないよ?」

「普段しているような言い方をするでない」

「じゃあ猥談でもしようか。ひかがみっていいよね……」

「なんでそんな部位にエロ反応をせねばならぬ。福茶でも作ってやるから待っておれ」


 そう言って九郎は炬燵から出て井戸に水を汲みに行った。

 元旦に初めて汲んだ水を若水という。これを神棚に供え、また家族の食事などに使用することで年の邪気を祓うとされている。

 若水を使って福茶を作る。作り方は簡単で、塩昆布と梅漬けを湯のみに入れて沸かした湯を注ぐだけである。

 九郎は炬燵にいそいそと戻ってきて、自分と石燕の前に福茶を置く。


「ありがとう、九郎君」

「うむ……しかし何だ。あまり旨いものでもないな、これ」


 九郎がちみちみと福茶を飲みながら云う。

 苦笑気味に石燕が、


「まあ、お湯に昆布と梅を入れただけだからね。塩っぱいような酸っぱいような、あとほんのり昆布味さ」

「旨くは無いが……しみじみとした味だな」

「そうだね」


 暫く無言で福茶を啜る。

 ぼんやりと九郎の方から呟かれた。


「寿命か……」

「九郎君。その悩みは贅沢というものだよ」

「……言いかけた言葉を先読みするでない」


 石燕は澄まし顔で茶を飲みながら、


「どうせ自分は人並みの寿命で良かったのになあと若返ったことに対する不満でも云うのだろう? まったく。君は死ぬのが怖いと言っていたじゃないか」

「そうだがのう。若返った後に色々やって、楽しみもしたがな。老いている昔馴染みなどに出会うと、どうも辛かった。皆良いやつばかりだった恨み事など言われなかったが、どうせならあいつらと同じ老人仲間でありたかったと思えてなあ。若い奴は先に死んでいくし……」

「正月から気鬱な話をするね。いいかね九郎君。散々おまじないをやっていて何だが、寿命がどうとかは大した問題ではないのだよ」


 大きく肩を竦めながら、


「明日にでも隕石が頭に直撃して死ぬかもしれないと思えば、百年二百年寿命が残ってようが無意味だろう? 大事なのは、最期の時まで楽しんで好きなことをしていられるかだ。君が本当にやりたいことはなんだね? あっ」


 彼女はさっと己の体を抱いて、斜めから九郎を見た。


「……閨事は寿命が縮むから駄目だよ?」

「いや、しないから。というか出来ぬから。ぴくりともせぬから」


 言って、九郎はふと外を見た。


「む、そろそろ日の出かもしれぬ。先程井戸に出た空の色からするとな」

「それでは初日の出でも見に行こうかね」

「何処に行くのだ? 橋か海あたりか?」

「……そうだね、どうせなら──」


 石燕の提案に九郎やや戸惑ったが頷いた。

 冷えないように九郎が着ていた半纏を石燕に重ね着をしてやり、彼女をおぶって家の外に出る。

 雨は止んでいたが、とても寒い。白い息が二人の口から漏れる。深い青色の空は既に薄明るい程度に照らされているが、日はまだ出てこない。


「よく掴まっておれよ」


 背中の彼女がぎゅっと九郎にしがみついている事を確認して、彼は店の前に置いていた梯子を使い手早く屋根に昇る。

 緑のむじな亭の屋根の上で初日の出を見ようとしているのである。

 屋根の真ん中まで石燕を落とさぬように運んで、二人は並んで腰をかけた。肩がくっつくほどに近い距離だ。

 海の方を見る。

 水平線の彼方から徐々に明るくなっていくのがわかった。

 九郎はふと、半年程前に石燕と江ノ島で朝日を見たことを思い出した。

 恐らく、石燕もそれを思っている。

 お互いに言葉は無かった。ただ、朝日を待っていた。


 やがて、日が昇る。


「……石燕」


 何故か泣いていた石燕に、九郎は手拭いを渡した。

 彼女は一度だけ涙を拭いて、


「いや……初めて見た気がしてね。初日の出を……おかしいね?」

「──なあ、お主……」


 九郎が何か告げようとしたが石燕がなんとも言えない笑顔で彼の言葉を拾うように遮った。

 言いにくそうな、当人にもよくわからない事を察したのかもしれない。


「当然、幸せな人生さ。ふふふ」

「……己れは、あけましておめでとうと言おうとしたのだ」

「ん。おめでとう。九郎君」


 それだけ、言葉を交わして、暫く二人で日の出を見ていた。

 毎日変わらぬように出てくる太陽だというのに、何故かそれは感情を動かす光であった。



 









 *****




 サッチモ船長が月面に着陸してから早10世紀が経過した。宇宙の海を行くタカラ戦艦トミーはキャプテン・クロウの居眠り運転により衝突事故を起こしている。 

 相手がデブリか交渉不能のエイリアンならば自損事故で済ませたのだが生憎と個人所有の怪しげな扉に船首から突っ込んでしまったのである。

 戦艦自体は玩具会社が製作しているだけあって頑丈性と安全性に優れているのではあるが、図らずもラムアタックで強襲揚陸したキャプクロに当然のように苦情を寄せるのは、虹色の髪をした少女──魔王である。


「くーちゃあああああん! 馬鹿なの君は馬鹿でしょ! 我の固有次元に来るのはいいとして! なんで宇宙戦艦で突っ込んでくるの!?」

「いや、初夢でな? これの絵を枕の下に入れて……」

「そこは躊躇って欲しかったなあ!?」


 夢世界で、またしても魔王の引きこもりスペースに突入してしまったようである。

 九郎はきょろきょろと山積みの本で形成された書庫を見回し、魔王の机に目をやる。

 そこにはピザとドーナッツとコーヒーが置かれていた。


「正月だというのにまたお主はプログラマーみたいな飯を食いおって……」

「こっちは別にお正月じゃないからね!? あとプログラマーを誤解してるからね!?」

「怠惰な生活を送っているのが丸わかりだ。腹が前よりかなり出ておる。妊婦かお主は」

「最低だよ!?」

「知らん」


 九郎は折角なので漫画本を適当に取ってぱらぱらとめくり始める。

 魔王は部屋に散らばった瓦礫を見て、ため息をついた。


「くーちゃんは夢だから別にいいけど、ここは我の居住空間なんだからね? 片付けもしないといけないのに……」

「あれ? お主って掃除とか一切しないタイプではなかったか。あの冷血メイドが帰ってきたのか?」

「いや、あの子も固有次元で自己修復中だからいつ帰ってくるやら。だから代わりにお掃除ロボを作ったんだよ。我、これでも機械いじり得意だから」


 そして、魔王が部屋の奥に向かってリモコンを操作すると、充電器に接続されていた掃除用ロボットが起動してこちらに向かってくる。

 九郎は驚愕の声を上げた。


「こ、こやつは!」

「そう! 魔王城でも使っていたものの改良版──V2アサルトルンバだ!」

「なんで掃除ロボにパワーアップを!?」


 そうして、ディフェンスに定評のあるルンバの掃除風景を見ながら、九郎の初夢は過ぎていくのであった。




 ***** 

 



 むじな亭の二階で膨らんだままの布団がある。

 鳥山石燕が眠っている布団だ。糞寒い中初日の出を見た影響か、風邪を引いてしまい寝正月になっているのだ。

 がちがちと凍える彼女の部屋に術符暖房をつけて、雑煮用に作ったすまし汁で粥にしたものを用意しながら九郎と房が交代で看ている。


「ふ、ふふ、ふふふ、おかしいね、寿命が伸びるはずだったのに、今まさにがりがり寿命が削れていく音が聞こえるよふふふ」


 青い顔をしながら軽口を叩くが、声が震えていた。

 

「ま、まさか初夢が三途の川とは……聞いてくれたまえ、しかも川幅超狭いの。向こう岸にいるお六さんと手が触れ合うぐらい。三途の溝って言ったほうがいい。

 懸衣翁と奪衣婆が襲いかかって来たのを石を投げて追い払ってくれたよ……ふふふ……」


 うわ言のように呟く彼女を、哀れそうに知人達は見るのであったそうな……。 



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