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36話『貧乏難儀は時の回り 』


 旧暦十二月二十四日。

 この日は江戸に於いてある集団の祝いの日となっている。

 隠れキリシタンではないが、隠れている存在だということは確かだった。

 その集団は毎年、不忍池の近くに集まって密会のような事をするのである。

 池の上に掛けられた橋には小さな料亭となっており、年の瀬ともなれば毎日宴会をして夜中でも明かりが灯っているのであったが、その明かりを遠目で見ながら、池の外にある無人の掘っ立て小屋に男たちが集まっている。

 小さな囲炉裏をかこみ、落胆というか過度の希望を失っているというか、そんなうなだれた様子の彼らには一つ共通した特徴があった。

 藍色か柿色の覆面で顔を隠し、出ている目元も黒いあて布か墨を塗って人相が判らなくしているのである。

 其の姿はさながら──忍者。

 そう、この日は江戸に住み、様々な職に別れて普段は会うことのない忍びの会合だったのだ。


「今年も温泉行けなかったね……」

「来年はどこか行きたいよなあ……」


 などと沈んだ様子で語り合い、年の初めに作った忍びの保存食をもそもそと口に入れ、水などを飲んでいる。

 保存食は年単位で保管できるのだが、品質と味の劣化を考えれば年内に食べたほうがいい。どうせ年が明けたらまた作る事になるのだから……と後ろ向きな理由で消費し、愚痴を言い合う暗い会なのであった。

 伊賀衆が江戸で開いた店として有名だった金物問屋[藤や]の店主の日記にも、こう残っている。


『(前略)大晦日、其の七日ほど前になれば、やうやうに散じた江戸の衆も集まり、年の事を語らふ……』


 と、ある。 

 忍びのものとはいえ、太平の世では活躍の場など殆ど無い。多くは農民に戻ったり、また町人や職人に身を転じたりしていたものの、その繋がりは保っていたものであるらしかった。 

 それにしても、と覆面その一が塩と脂の塊みたいな丸薬状のものを口に放り込んでため息をついた。


「去年までは穴屋で飲み食いしてたから、もう少し良かったんだけどなあ」

「俺、今年も店あると思って何も準備してなかったよ」

「おれも」

「旨いつまみと酒を用意してくれてたのに」

 

 同調して周囲の覆面も気落ちした声を出した。

 ほんの数ヶ月前まではここにあった、小料理屋[穴屋]の店主父子は彼らと同じく、


「忍びの者」


 で、あったのだ。

 出こそ上田の忍びであったが、特に雇用上の対立をしていない限りは派閥同士の仲は悪くない。

 実際にこの会合では、顔こそお互いに見せない様にしてあるものの、伊賀の者もいれば甲賀や柳生の忍びも参加している。元々は他所の大名に使えたものの忍びの仕事を失い江戸に出てきた一族もいるのだ。

 旅行にすら行けないし昼間はだいたいうだつが上がらない、日常に変化が乏しい彼らは語ることも無い為にうわさ話に花開かせる。


「あれって倅が火盗改に捕まりかけたから親父が身代わりの術を使ったんだろ?」

「小助の坊主はなあ……腕は良かったんだけど妙なところで運が悪い」

「確か鎖鎌盗賊を殺しに行ったら偶々火盗改に出くわしたって聞いたぞ」

「その盗賊の方も上田系の奴じゃないかって話だけどさ……」


 などと各々、見聞きした話を言い合っていると、小屋の入り口からぬっと覆面をした大男が入ってきた。


「『知ってる? 恋する女の子は皆忍法使いなの。君の心の臓に手裏剣三枚』」

「あっ! この[おにゃん恋物語]の敵側主要人物、犬耳忍び巫女・おぬいの名文句を諳んじるのは──旦那!」


 遅れて入ってきた彼は、覆面こそ被ってはいるものの、その筋骨隆々な体格と重くて響く低い声でこの会合でもだいたい全員が知ってる、顔役のような忍びであった。

 皆、彼の表の顔は知っているのだが会合では名前を呼び合わないのが規則であるために[旦那]だとか呼ばれている。


「よぉーうお前ら、年も暮れようって此の頃に、無駄に元気を有り余らせてるか? 

 ところで俺が遅れた理由だがな、嫁に容れ物ごと春画を捨てられたもんで新しいのを買いに行ってたら、前髪で目隠れ本好き女の子が顔を真赤にしながらきょろきょろと辺りを窺いつつ春画専門店に……ま、そんなこたぁどうでもいいか」

「凄く気になります! 途中で止めないでくださいよ!」

「とにかく酒だ酒。どうせ忘れてただろうから穴山の代わりに用意してやったぞ」


 彼は大きな柄樽を囲炉裏近くに置く。中にはたっぷりと酒が入っている。

 忍びの一人が気楽そうに両手を上げて歓迎する。


「さすが旦那! 地主だけはありますね!」

「御肩をお揉みしましょうか其処の徳の高い御方!」

「ったく、思った通り穴山が居なくなったもんで、湿気た会合になってやがったな」

 

 どっかと座り込んで早速一番酒を注がれ、駆けつけ一杯とばかりに飲んだ。ちなみに、全員口元まで覆い布をしたまま飲食を行っている。忍法が使われているのだろう。

 

(そういえば……)


 と、忍びの集団はこの大柄の忍びも上田の忍者で、居なくなった穴山小助と同郷であった事を思い出し、話題を選ぶ様にした。

 小助と彼は実際に活躍した世代を跨いで今でも優れた忍術使いであり、祖先は同じ相手に仕えていたという。


「そうそう僕ら今、非日常的に現れるお姫様と幼馴染のどっちを選ぶのが正しいか議論してたんですよ」

「矢っ張り幼馴染だって。突然現れたお姫様はいつか月に帰っちゃうから」

「[月があんなに美しいのは──君がそこに居るからなんだね]」

「あっ! こいつもう決め台詞まで考えてやがる!」

「しかもちょっと恥ずかしいぞ!」


 わいわいと忍びの連中は雑談を再会する。年内にあった出来事や将来設計などを語らせるとどんよりと暗くなるが、妄想ならば百晩あっても語り尽くせぬ──そういう男達だ。

 大柄の忍びが言葉を差し入れる。


「お前らお姫様が無条件で好いてくれる事を前提にしてるけどよう、お姫様を養えるだけの金とか甲斐性があんの?」

「あー! 言っちゃならん事を!」

「そういう残酷な発言をする前にはちゃんと『御免ね、ちょっと悪いこと云うけどいい?』って前置きしてくださいよ!」

「妄想なんだから現実の事は関係無いでしょう!」


 冷水を浴びせて一斉に非難される大忍。 

 ここに集う忍び達はお互いの職は把握していないが、売れない豆腐屋だったり、仕事が来ない鳶職だったり、世渡り下手な同心だったりと貧乏人が多いのであった。

 

「だいたい竹取の物語だって、翁は金持ちじゃなかったわけで。お姫様が黄金とか持ってきてくれれば……」

「女の財力を充てにするってヒモの発想じゃん……」

「世知辛い話は無しにしようぜ。だいたい、俺は暮らしが厳しくても彼女を幸せにしてやると決めたんだ」

「格好いいな……お前」

「既に子供の名前も男女決めてある」

「そこまで行くと気持ち悪いなお前……」


 などと、話し合っていると入り口の戸が外から窺うように叩かれた。

 忍びらはぴたりと会話を止めて警戒の色を見せる。

 やおら、声が聞こえた。


「ええと、『ふわあ、犬耳はご主人以外触っちゃ駄目なのですぅ。毒が塗ってあるから』」


 それはこの会に参加するにあたっての合言葉──彼らがよく読む趣味本から抜粋した科白集だが──であるのだが、忍びらはきょろきょろと見回して人数を確認した。


「あれ? 誰か揃って無かったっけ?」

「あぁ、あれだ。俺が行き掛けに出前を頼んでたんだった。合言葉も教えて」

「旦那……んもう、一応秘密の会合なんですからね」

「悪ぃ悪ぃ」


 言いながら大忍は戸を開けると、外には寒そうに肩を竦めて、半纏の袖で土鍋を掴んでいる九郎が居た。

 店じまい間際に、忍び格好の大男が宴会で食べれるぐらいの量のつまみになるものを注文したので、その日の残った材料を下ごしらえし、おでん汁で旨い具合に煮込んで作ったのである。

 注文から出来上がるまで少しばかり掛かると告げると、運び賃もついでに渡されたので九郎がここまで持ってきたのであった。

 九郎から見た室内は覆面黒尽くめの忍者軍団で奉行所か火盗改がすっ飛んできそうな連中が集っていたのだが、


(まあ、江戸だからなあ……)


 と、何度か市中で忍者風の者を見かけたこともある九郎は華麗にツッコミ回避した。

 常識的に考えて不忍池に忍者が居るはずはない。字を見れば確定的に明らかだ。当然ながら当然の事実を噛みしめる。

 建物に入って一同が座っている座敷に鍋を置き、蓋を開けるともうもうと湯気が立ち昇り様々な出汁の旨味が解け出した匂いで、食欲をそそる。

 雪が降り出さんばかりに寒さがきつい夜に出前して来たというのに、今まさに竈から上げたように熱々に煮えている。これは、九郎が出前するのに寒かった為運びつつも炎熱符で保温をしていたからだ。


「煮込みおでんだ、お待ちどう」

「わあ初めて食べるよこれ。暖かいし凄く良い匂い……」

「何が入ってるん? おっ、竹輪に牛蒡が……ええなあ」

「お薦めはさつま揚げかのう。薩摩の店から買った本場ものだが……」


 今日の昼間、[鹿屋]の近くでマスコットキャラがさつま揚げの販売も行っていたのでつい大量に買ってしまったものであった。

 ただ、熱した油にさつまもんが指を突っ込んで、


「うむッ! よか揚げ頃じゃッ!!」


 などと云うパフォーマンスで油の温度を測っているのを見て、自分で食う気が失せたので客に出すおでんに入れることにしたのであった。

 揚げ油の温度を直接触れて調べるのは薩摩では一般的な方法である。もし、熱いなどと弱音を吐いたらその場で死罪。ぬるいなどと口答えをしたら死罪。親、兄弟も腹を斬らねばならない。冷静にそう解説する黒右衛門がいつの間にか背後に立っていて、九郎はダッシュで逃げたのだったが。


 とにかく、新たに現れた暖かなつまみに場は湧いて、各々古茶碗におでんを分け始めた。


「うーん、下戸の俺には蕎麦が入ってるのが嬉しいなあ」

「ちょっと男子、自分の分だけ沢山取らないでよー」

「あっ、僕保存食用に唐辛子持ってきてる」

「いいなあ、分けてくれよ」


 などと和気あいあいにおでんに向かって居るのを満足気に見て、


「それでは己れはこれで。鍋は返してくれよ」

「おうわかった。後で届ける」


 と、言付けして出て行くのであった。

 彼が店に戻っていったのを確認して、おでんを食いつつ話題が移る。


「今のってあれでしょ。有名なヒモの……」

「え? 有名なのか? 奉行所だかで見かけたことあるけど」

「ヒモだと料理も上手くなるんだろうか……あ、大根美味しい」


 妙なところで知られている九郎だったが、大忍は蒟蒻を齧りつつ云う。


「料理と言えばよう、この前俺の娘が朝から一所懸命に台所で弁当を作ってたんだ。こりゃ、俺へ食わせる手料理だと思って楽しみに待ってたんだが三日絶食しても弁当が出てこねえ。

 嫁に尋ねたら近所に住む青瓢箪みてえな小僧に食わせる弁当だったんだとよ! 俺の娘とお近づきになるとか一日何刻助平な事を考えてりゃそんな邪悪な発想に到れるんだ!?」

「旦那の娘さん、まったく父親に似てなくてえらい可愛い上にいい子ですもんね。そりゃ男の子も放って置かないでしょ」

「馬鹿、残酷な真実に気づいたら可哀想だろ。似てないとか云うなよ」

「おれもあと十年若ければ娘ちゃんと幼馴染になりに行くのになあ」


 熱くなって叫ぶ大忍に対してやや遠巻きに囲みながら言い合う。

 

「ちなみに、その青瓢箪の小僧。俺の娘ともう一人可愛い幼馴染を侍らせ、さも女に興味が無い鈍感難聴系男子を気取ってやがる」

「死刑だ!」

「不平等だ!」

「おのれ徳川!」


 と、まあ現実が充実してるような環境の相手には満場一致で不満を云うのであったが。

 

「ところで旦那。春画屋の前で見かけた女の子の話の続きをしてくださいよ!」

「ああ、そうだったな。そう、春画屋の前で入るか入らないか躊躇していたのは男装をした若い女武芸者。顔を屈辱に歪めつつ赤らめてもごもごと『くっなんで拙者がこのような……』などと呟いている」

「あれ!? 設定変わってません!?」

「ちょっと待て。おれはこっちの状況の方が好みだ!」


 などと、下らぬ話で場は盛り上がっていくのであった……。


 やがて、会合も終わりが近づき、談論の内容を纏めて締めとなる。

 代表として大忍がやや酒で灼けているがよく通る声で、


「あー、それじゃあ結論として、俺の近所の青瓢箪には褌に唐辛子をこっそり塗っておくことと、お姫様を嫁にした場合は衣と住はともかくうまい飯はちゃんと食わせる程度に金を稼ぐこと」

「いやあ、とても良い会議でしたね」

「俺ももう一寸さ、獣耳の嫁が出来ないか真剣に考えてみることにするよ」


 などと皆納得が云ったように頷き合う。当初の暗い会合だった様子は結局、仲間内での馬鹿な話し合いをすれば晴れる程度のものであったようだ。

 それにしても、と大忍は腕を組んで、


「やっぱり穴屋が無くなっちまったのは少し寂しいなあ……今回は俺が払ったが飲み食いに金が掛かる。来年から会費を集めようにもこいつらじゃあなあ」

「世知辛いですねえ」

「金が無ければお嫁さんが出来ても良いおべべを着せてあげられないし……」


 若干暗くなりつつもため息を付く。世間話と保存食の消費が元々の集まりの目的ではあるのだったが、普通に楽しんでいた酒やつまみが無いとやはり寂しい。

 とは言え、ほぼ全員が貧乏な上に年末となるといろいろに金が掛かって、会費というのも集めづらい。大忍はそれなりの金持ちではあるのだが、財布は嫁が握っていて、彼に支給される分の小遣いは下らないことに浪費している為にそうそう懐に余裕があるわけではないのだ。

 金が無い。誰もがそう思うように、忍者も悩むのであった。

 忍びの一人が指を立てて、


「そういえば穴屋の小助こと[飛び小僧]が溜め込んでいた盗み金って何処に隠してるんですかね。旦那何か知らないですか?」

「あれかあ……わかんねえけど、小助は潜水術が得意だったよな。案外、不忍池に沈めて隠してたり」

「まさか」

「それに、あれの盗んだ金となると莫大な上に足がつきそうで僕らみたいな身分じゃそう使えないよな」

「絵に描いた餅ってやつだ。ま、次の会までに何かいい案が浮かぶだろう。それじゃあ、今日は解散」

「お疲れ様です!」


 そう云って、忍び達はその俊敏さを酒が回っていようとも十全に発揮し四方に散った。

 不忍池にあるか無いかわからぬ財宝など、探すだけ時間の無駄だ。

 此の広い池に沈められたものを潜って見つけるなど実質不可能なのである。

 だから誰もそれを実行する者など居ない。

 寒い十二月にわざわざ池に入るなど。


(そう、俺以外は)


 四方に別れた筈の貧乏忍者らは、全員が目を獣のように光らせて居た。

 暫くして、夜中の不忍池に水音が次々と鳴り続いた。




 ***** 

 



 翌日。

 緑のむじな亭にて、昼営業を始めた時に既に石燕が来ていたので九郎はその相手に駄弁りという接客をしていた。

 話題の内容はいつも適当な物だ。世情を談義する事もあれば、妖怪探しの計画を立てる事もある。晃之助などが加われば賽子を使いTRPGもどきが始まる事もあった。キャラシートも作っている。

 此の日の話題は、まあどうでもいいことなのだが、


「天爵堂の書いている話におぬいという人物が出てくるが、あれは蛇と関係あるのかね?」

「いや、犬耳だったと思うが」

「ふむ。南方の島々ではヌイというと蛇の怪物を表すのだが……いや、待ちたまえ。蛇神信仰と犬神信仰は実はそう遠くない関係でね? 物部氏の時代に遡り、渡来人とも関わっている。

 通常渡来人というと朝鮮の方から来た者を表すが、南方から伝わった文化との相似も薩摩や琉球弧では見られる事を考えると、ヌイという蛇神が……」


 などと、胡散臭げな他愛の無い会話をしていると、まだ客入りの少ない店に少女が入ってきた。

 背筋の伸びた、利発そうな顔立ちの子供である。綺麗に切りそろえた髪の毛を腰まで伸ばしている。手には大きめの土鍋を持っていた。


「すみません。昨日、この店で鍋を借りた者です」

「うむ。……おや、お主は天爵堂の生徒の……ネズ子ではないか」

「九郎先生? ああ、それに船月堂先生も」

 

 九郎の顔を確かめて、ネズ子──根津小唄は目を瞬きさせた。船月堂とは、天爵堂が石燕を呼ぶ際に使っている彼女の気まぐれ私塾の名だ。

 時折、天爵堂の家に九郎が寄った時に子供らが来れば、あの老人は九郎に授業を丸投げしてくるので何度か教えた事があった。とは言っても九郎が江戸時代の教育に詳しいわけではなく、字の書取も上手くは無いので精々教えられるのが簡単な栄養学や大まかな日本史などであった。

 それでも子供らの反応はそこそこに良かった。先生、などと恥ずかしい呼び方をするのは小唄だけだが。

 とりあえず九郎は土鍋を受け取る。


「昨日の晩、鍋を頼んだのはお主の親父か? あの、体の大きい……」

「はい。なんでも寒中水泳をしたとか何とかで風邪を引いてしまいまして、私が代わりに鍋を返しに」

「何故こんな時期に」

「さあ……本人は『河童の真似をして寒さを乗り切ろうとしたんだがよく考えたら河童って別に寒さに強くない』と意味の分からないことを」


 小唄も首を傾げて父親の言った言葉を繰り返す。妙な、言い訳のような例えであったが何気なく九郎は向い合って座る妖怪博士に尋ねた。


「河童って寒さにはどうなのだ? 石燕」

「そうだね、でびるの図鑑によると『火弱 水極強 地強 風弱 雷極弱 氷強』とあるね」

「適当に云うなあ……っていうか悪魔か?」

「真剣に語ってもいいが河童の話は長くなるよ?」

「やめておこう」


 以前に何気なく狐妖怪に関する講義を聞いた時など、二刻(約四時間)あまりも様々な解説が続いたことを思い出して、苦い顔で拒否した。

 それにしても、と小唄を見やって、


「そろそろ昼飯時であろう。うちの店で食っていかぬか」

「えっ。あ、はいそうします。外に雨次を待たせてるので、あいつも呼んできます」

「なんだ彼奴も来ておるのか。天爵堂の買い物か?」

「ええ。先生はお使いに行かせる時は、食事代ぐらいはついでに持たせてくれるのであいつも大丈夫でしょう」


 そう云って一旦外に出ていき、幼馴染の少年・雨次を連れてきた。

 あまり店に入るのに気が進まないのか、小唄に手を引っ張られている。昼食代に持たされた小遣いを我慢してあわよくば着服しようと思っていたようである。

 そうでなくとも、子供にしては目付きが悪いし何か面白くなさそうな愛想の無い顔をしているのではあったが。

 

「……あ、九郎さん……どうも」


 一応、九郎のことは多少なりとも敬っている彼は挨拶にもなっていない挨拶のように、名前を呼んだ。


「相変わらず不景気な顔だのう。まあ良い。今日のお薦めは丸天蕎麦だ。さつま揚げ……が、乗っているものでな」


 僅かに視線を逸しつつ云う。例のさつま揚げであった。店の人がおまけで沢山持たせてくれたのでまだ余っていたのだ。

 二人は席に座って店員のタマに注文をした。


「それじゃあ私はその丸天蕎麦を。雨次は?」

「あ……ええと……」

「雨次も同じのでいいそうだ、店員さん」


 食い物屋での注文に慣れていなくて失語症めいて言葉を詰まらせる雨次だったが、さらりと小唄が決定した。

 タマは満面の笑顔を浮かべながら、


「はぁい丸天二つですねー!」


 と、繰り返したあとに、


「ふぅ──」


 去り際に、僅かに雨次の首筋に息を吹きかけた。

 全身の毛穴が逆立ち身震いをさせ、顔を青ざめさせる雨次。

 

「どうした?」

「いや、なんか凄まじく嫌な記憶が喚起されて……」

「気のせいだろう。それともここに来たことがあるのか?」

「無いんだけど」


 不安そうに、謎の悪寒に周囲を見回す。

 背中を向けて厨房へ向かうタマが、


「くふふ~」


 と、えらく人の悪いよこしまな笑みを浮かべていた。

 女装はしていないので気づかれていないが、雨次にトラウマを与えたことのあるタマの悪戯である。

 厨房に入ったところで、客にちょっかいを出した罪でお房に殴り倒された。最近見られるように為ったいつもの光景ではあった為、九郎は気にしないことにした。

 小唄が思いついたように質問をかけてきた。


「そういえば九郎先生と、船月堂先生はどういうご関係ですか?」

「うむ? そうだな……」


 九郎は腕を組んで僅かに考える。

 ヒモなどと一部の知り合いに呼ばれているがそれは誤解というか、酷い風評被害である。

 実際は其のような関係ではないのだが、単なる友人というわけではないのは確かだ。合意の上、正当な取引のもとに金を貰っているという事実はある。

 しかし子供である小唄や雨次に勘違いされるような関係を告げるのはいけない。


「つまり……」


 九郎は考える。

 率直に言えば、[援助を受けている、交友関係のある相手]だ。

 それを縮めて、わかりやすく云うと──


「エンコーしてる関係だな。──ん? いや違う」

「……」

「……」

「ぶはっ」


 子供らは絶句して、石燕は酒を吹き出し腹を抱えて、声を出さない様に笑っている。

 其のような言葉がこの時代にあったわけではないが、なにやら如何わしい概念だけが奇妙に伝わってしまったようだ。

 九郎はつい口から出た単語が解釈される意味をようやく把握して云う。


「待て、勘違いするなよ。つまり、己れは先ず石燕から金を貰って……」

「……九郎先生、もうこの話題はいいから」

「話せば話すほど酷い」

「むう……」


 重大な思い違いが発生したような気がするが、弁明を遮られてはどうしようも無い。決してヒモではないと自分では信じているのだが。

 諦めたように九郎もそっぽ向いて酒を口にする。

 子供二人に蕎麦が届くのと、再び暖簾をくぐって誰か入ってくるのは同時だった。


「どうもー、読売を配達に来ました!」

 

 入ってきたのは、大きな布鞄を肩に下げた年の頃二十前後の明るい化粧をした女性である。花模様の手ぬぐいを頭に巻いて、公家の女のようなおすべらかしに結った髪を流している。

 この女、お花という名で瓦版の訪問販売を行っている。胸元に常にメモ風に折りたたんだ浅草紙と木筆を入れていて記者にして出版者とでも云うべき、当時にしては珍しい女性の聞屋であった。

 あちこちの相手と契約を結び瓦版が出来上がったら配達に来る。緑のむじな亭も、店に読み物でもあると客が喜ぶと思って九郎が契約した。

 他の売り歩きでなくこれと契約したのは、単に女記者というのが珍しかったからだが、書かれている記事の内容は大名家へのゴシップや面白おかしく脚色のついた世情などそれなりに読めるものであった為に、今では九郎も少しばかり楽しみにしていた。

 ただ、際どい内容の記事を書きすぎてお上に睨まれているのだが、彼女の生活拠点が不明である上に、尾行を受ければそれこそ忍びのように遁走してしまうのでお縄に掛かったことは無いのだという。

 お花は睫毛の長くぱっちりと開いた特徴的な目を客の小唄に向けて、


「あれ、小唄ちゃんじゃないですか! ああ、もうこの読売は実家に持っていったです!」

「ど、どうも」

「なんだ、ネズ子の家も頼んでおるのか。それで今日の一面は何だ」


 九郎はニュースの書かれた瓦版を受け取り、読む。


「なになに、【速報 不忍池に飛び小僧の隠し金か。事情通某なにがしの言によると信憑性大】」

「実際に池にはもう人が集まり始めてるらしいですよ! 善は急げ! それではあたしは次の配達に行くので、集金はまた後程!」

「むう……風のように走り去って行きおった」


 大急ぎで配達に戻ったお花を見送る九郎。手元に広げた読売を、石燕も体を寄せて見ている。

 

「ほう、飛び小僧の財宝一万両が池の底に……かね。面白そうな話ではないか」

「デマであろう……いや、確かにあの穴屋の小助はよく潜っていたようだが」

「記事に踊らされてこの寒いのに潜りに行っている金の亡者を見るだけでも価値があるよ! 九郎君行ってみよう!」

「わかったわかった」


 燥ぎだした石燕に九郎は仕方なさそうに応えた。

 せめて自分に潜ってみてくれと言わないことを祈る。

 お房が丸天蕎麦を運んできて、小唄と雨次の前に置いた。九郎は一応出て行く前に声をかける。


「それではの。ゆっくり食えよ」

「はい。あ、ところで九郎先生」

「なんだ?」


 小唄が再び尋ねてきたので聞き返す。彼女は唐辛子の容れ物を手にしながら、


「唐辛子って何処で売ってるのでしょうか。父から強力なやつを買ってこいと頼まれたのですが」

「ああ、うちの店で使っているのは薬研堀にあるぞ」

「ありがとうございます」


 答えて、九郎と石燕は不忍池に向かった。唐辛子を何に使うかは知らないが。




 *****

 



 不忍池は、寒中水泳大会の様相をしている。

 渡り鳥を蹴散らすように男どもが褌姿で池に飛び込み、また上がっては用意してきた七輪に当たって震えていた。暖まるには心許ないが、焚き火などすれば火盗改が飛んでくる。

 恐らくは集まった参加者達も半信半疑ではあったのだろう。

 それで、誰かが池に入っているのを見て或いは本物なのではないかと挑戦者がどんどん増え、また挑戦者が多くなると信憑性も上がったような気がして更に増える。

 負の連鎖のように、凍死志願の江戸っ子が集ってしまっている状況であった。池に入っているものは、軽く数えて二十人は居るだろうか。背中に特徴的な刺青を彫ってある角乗り七人衆と呼ばれる集団も居る。

 九郎は見ているだけで身震いがしてきた。後ろから石燕が覆いかぶさるように抱きついてきて、


「予想以上の群がりようだね」

「うむ。しかしお主、手が冷えておるのう」

「ふふふ、私今体温何度あるのかねー」

 

 九郎の胸元へと手を突っ込んで温めてくるので、その冷たさにまるで雪女の手のようだと九郎は白いため息をつく。

 目線を池の上に向けて、石燕は云う。


「しかし案外に話は本当なのかもしれないね。ほら、あの小舟に乗っているのは同心二十四衆の十六番『船手止め』水主同心・小向勝吾こむかい・しょうごと……覆面の方は五番の『無銘』町方隠密廻・藤林尋蔵ふじばやし・じんぞうだ。

 お上に仕える役人ですら動いているのだよ?」

「よく同心二十四衆の顔と名前など覚えているなあ……」


 無駄なところで感心する九郎。

 むしろあの変な連中が動いているということはなんら信憑性の保証にならない気がした。

 それにしてもその舟上にいる覆面の二人はあからさまに忍者なのだが……いや、


(確か、沼に潜る時は髪などに泥が付かぬように覆面をするもの、と小助が言っておったな)


 九郎は納得した。不忍池に忍びが居るわけはない。世界の真実は単純にして明瞭だ。濡れた布が口元に張り付いて呼吸がしづらそうなことなど、目の前で実際に行われている事実を思えば小さな問題である。

 頷いた九郎を見て石燕は己の考えを同意されたと認識し、高らかに声を上げる。


「よし! ここはひとつ、私達もお宝を探してみようではないか!」

「出たよ……己れは潜らぬからな」

「ふふふ安心したまえ。適当にその辺の誰かを人足にすればいいのだよ。餅も魚も貧乏人に焼かせろと云うだろう。さて、それよりも重要なのは宝の正確な位置情報だが、実はそれを知る論理的な方法がある」

「ほう」


 石燕の話す論理的な方法とやらに興味を示す。

 果たしてこの広い不忍池に落ちているかもしれないというだけの宝を探す方法などあるのだろうか。

 彼女は抱きついていた九郎から離れて、ごそごそと懐を漁ると、Lの字に曲がった棒を二本取り出した。


道神具棒だうじんぐぼう~!」

「論理に期待した己れが馬鹿だった」

「この棒を構えて歩き、目当ての物が近くにあると反応するのだよ! 使用者の霊的能力を増幅させて宝の感知を可能にしたとかしないとか!」

「しないのかよ」

「さあ物は試しだ、やってみようではないか」


 そう云って九郎に渡してくるので、仕方なくダウジングをすることにした。

 石燕の暇つぶしのようなものだ。いい加減、付き合い慣れている。

 ダウジングとは足元の地下水や鉱脈を探す手法である。当たる確率はピッタリと2分の1。掘り返して、出てくるか出てこないかの二択なのだから確率については疑いようの無い。しかしながら、当然探し物の上に立たねばならないという規則がある。少なくとも、棒を使う限りは。

 つまりは池の上に行かねばならない。

 

(こうなれば氷結符を草履の裏に装着して歩くか)


 と、瞬間的に足元に氷を発生させて水面を歩く技法の使用を九郎が考えていたのだが、


「九郎君、舟が使えるように交渉したよ」

「……まあ、普通に考えればそっちの方法を使うわな」


 接岸している小舟に九郎と石燕は乗り込んだ。

 舟は、二十四衆の小向が操るものである。それと忍び風の覆面を被った褌の男が二人。藤林同心と豆腐屋の伊作という男なのだが、九郎には見分けが付かなかった。両方共濡れた格好なので潜る係のようだ。

 ひそひそと三人組が話をしている。


「ほら、言ったじゃないか小向君。あの有名な鳥山石燕先生さえ出てくる程なんだから絶対に宝はあるんだって!」

「むう……有名なのか? 俺は知らんのだが……失礼かもしれないから、彼女が有名だということを俺が知らないということは知られないようにしよう」

「え? 御免もう一回言って? よく判らなかった」


 などと、混乱しつつも九郎らを乗せて舟は進んだ。

 本来は大川から近海までが勤務の場である水主同心なのだが、この日は非番で友人の藤林に呼び出された小向は巧みに舟を扱い、自由自在にすいすいと動かしている。

 二人は職場が異なり、小向は町方の犯罪や事件を担当する仕事ではなく幕府の水軍所属に近いのだが、何となく馬が合って付き合いが続いているのである。

 池を規則正しく動き回りながら、やることも無いのでだらだらと一万両見つけたらどうしようとか雑談をしていた。

 藤林が表情は覆面で分からないが、明るく云う。会って間もないが見た目の忍び風の格好と違い基本的に陽気な男のようである。


「いやあ、前に縁日でからくり人形ってのを見たんだけどね? あれの人形部分を美少女にすれば凄くいいんじゃないかって思うんだ僕は。買うと幾らぐらいするんだろうなあ」

「業が深いな……」

「俺は貯金だな。いつお姫様が現れても養っていけるように」

「夢見がちすぎる……」


 忍び風の褌二人は至って大真面目に宝を探しているらしい。九郎はダウジングロッドを構えながら肩を竦めた。舟の漕手である小向は手伝わされているだけらしい。特に意見を云うことはなかった。

 美少女からくり人形を大事に扱うと付喪神になるのではないかと石燕に質問して藤林が解説を受けていると、九郎の持つダウジングロッドが力も込めていないのに、唐突にぼとりと半ばから千切れ落ちた。腐食したように。


「……うわ、なんか厭な反応だのう」


 九郎が呟いた言葉で周囲もそれに気づく。

 意外に岸に近い場所ではあるが、この広い不忍池に隠す場所となれば何処を選んでもそれほど意外性に変わりはないだろう。

 両の拳を握りしめて藤林が叫んだ。


「そ、それじゃあこの下に宝が眠っているのか!?」

「よし、早速──」

「まあ待ちたまえ」


 飛び込もうとした二人を制止したのはダウジングによる探索を指示した当人の石燕であった。

 彼女は不敵な顔をしたまま勿体振った声音で云う。


「良いかね? 確実な検証というのは単一の方法に頼らずに別の側面から確かめてみるのが大事なのだよ。再検証も行ってそれが合っていたとなると確かさはより高度になる」

「ふむ……別の方法と云うと?」


 再び懐の下乳のあたりから石燕はものを取り出した。

 今度はなにやら文字が書かれた紙だ。舟の真ん中にそれを置き、一同は取り囲む形で見た。

 紙の上に[是][否][(鳥居の図)]、その下に一から十までの漢数字が横並びで、更に下に五十音図が平仮名で書かれている。

 石燕は銭を一枚、紙の上に乗せた。


「そう、この[狐狗狸こっくりさん]という狐系の降霊術で検証を行う……!」

「発想が女学生レベルだな」

「狐狗狸と続くこの音はコウクリとも読めるね? つまりこれは高句麗から伝わった大陸由来の歴史ある術なのだよ! そんな感じの内容を書いた本を後世に残しておく予定だから間違いない!」

「歴史の捏造は止めろ」


 一応ツッコミを入れたものの、忍び連中は何故か乗り気になって、


「うわあ、矢っ張り鳥山石燕となると本格的だなあ!」

「俺も降霊術なんて初めてだよ。すげえ楽しみ」


 と、やることになった。

 簡単な説明を石燕がする。紙の上の銭に全員が指を当てて真言を唱えると狐狗狸さんが訪れ、質問に応えてくれる。途中で指を離してはいけないが、もし誰かが離した時は最後まで指を触れていた人物に取り憑く。しっかりと狐狗狸さんに帰ってもらわなくてはいけない。

 特に、念入りに絶対指を離すなと言い含めて、漕手の小向も含めてこっくりさんは始まった。


「狐狗狸さん狐狗狸さん、おいでなさいませ。そして我が願いを叶えたまえ」

「要求がいきなりデカイ」

「叱っ」


 九郎の呟きを止めると、五人が指で触れている銭が紙の上で動き始め、[是]へ向かった。

 藤林がなよなよした口調で言った。


「やだ凄い、力入れてないのに勝手に動く。来てるよこれ本当に」

「よし。それでは先ず適当な質問で試してみよう。狐狗狸さん、九郎君の年齢は何歳かね?」

 

 石燕の言葉に従い、銭が動く。

 [九十五さい]と、順番に指し示した。

 やたら大きな年齢に伊作が驚き聞き返す。


「九十五? 十五の間違いじゃなくて?」

「ううむ、よく覚えてないから正確かはわからぬな。多分それぐらいではあるのだが」

「へー若作りしてるなー」

 

 藤林からは率直な感想が来た。対して気にしていないようである。

 九郎が今度は意地悪げに問う。


「では狐狗狸さん、石燕の年齢を」

「こ、こら九郎君」


 デリカシーの無い質問に石燕が咎めようとするが、指先はするすると文字列を作り出す。

 数字ではなく、平仮名をなぞると[あらさあ]と云う一見意味不明な並びが浮かび上がった。石燕は胡乱げな顔をして九郎を睨んだのだが涼しい顔で彼は受け流した。

 続けて藤林が問いを投げかける。


「じゃあ狐狗狸さんの、好みの男ってこの中で云うと誰ですかー!?」

「合コンか」


 少しばかり動きに沈黙があり、[いさく]と躊躇ったように文字は出来上がった。

 驚いたのが忍びの片割れ、伊作である。思わず言葉を失うが、隣に座る藤林に肘で突かれて、


「おいおい、伊作良かったじゃない。ヒュー、伊作と狐狗狸さんはあっちっちー」

「な、なんだよ違ぇってそんな関係じゃねえよ!」

「小学生か」


 その受け答えに九郎が遥か過去の義務教育を思い出しつつツッコミを入れる。もはや役目であった。

 一方で石燕が魔眼をやや虚空に向けつつ、白々しい言葉を吐く。


「ちなみに──今降りてきている狐狗狸さんの姿は狐耳尻尾付きのちょっとツリ目系美女だね」

「ああっ!? 伊作が狐狗狸さんの紙を持って逃走した!?」


 最後まで狐狗狸さんの紙に指を触れていた者に取り憑く。さっき受けた説明を超速で理解して伊作は己の家に持ち帰るべく、プンと空気を置き去りにするような音が出るほどの速度で狐狗狸さんの紙を奪い取った。お帰りくださいと言わせてなるものか。

 そう、幾ら財宝を手に入れようとも嫁が居なければ何の意味もない。そうして其の嫁が、美女と聞いたら居ても立っても居られぬのは当然であった。

 宝は水の底ではない。今、手の中にあるのだ。

 水面を駆け抜ける忍びに目を剥いて九郎は唾を飛ばす。


「おい!? 水の上を走っておるぞ!」


 藤林が解説する。


「よく見てください。足に沼浮沓(ぬまうきぐつ)を履いているでしょう? 何も不思議はない」

「あれってモロに忍びの水蜘蛛……」

「忍びだなんて、そんなオカシなことありえませんよ」

「うっうむ」


 妙な迫力で念を押してくるので、九郎も納得した素振りを見せざるを得なかった。

 伊作が走り去った、彼の店がある方向を見ながらしみじみと藤林は、


「あいつも悪い奴じゃないんだけどなあ……」

「まあ、相手が狐狗狸さんだというのに即座に嫁にしようと決めた行動力は目を見張るものがあるな」

「なにせ子供の名前までもう考えてる」

「それは一寸気持ち悪いな」

「僕もそう思う」


 お互いに同意が得られたところで、


「ふむ。まあ狐狗狸さんはもう良いか。とにかくこの場所で潜ってみてくれるかね? 藤林君」

「適当に始めといてすぐ飽きてるなお主……」


 石燕があっさりと宝探しに意識を戻していた。あらさあ扱いをされた為に、狐狗狸さんは無かったことになったのかもしれない。

 九郎と藤林も、晴れて狐憑きになった男のことは一旦置いておき、藤林が池の底へ探しに入った。

 ここ数日は雪が降り出さんばかりに冷えている池の水は、見てるだけで冷たさがわかる。つまりは、触って確かめたいとすら思いたくなかった。

 しかしながら藤林は特に文句も言わずに、すいすいと潜る。忍びとは耐えて忍ぶ者なのだ。藤林も忍びかつ同心二十四衆に数えられる身体能力を持っている。具体的には、変装追跡技能の他に常人の三倍の脚力はあるとされる。

 岸に近いものの水深はそれなりにあった。蓮の根を避けて、泥状になっている底を手探りで漁る。

 指先に硬い、箱が触れた。

 藤林は内心歓喜して、両手を使って泥を払い落とし、箱を持ち上げようとするがずしりと重く水中からではとても水面まで持ちあげられない。

 その重さが嬉しい。中に詰まっているものがある重さだ。

 一度、舟に戻って彼は縄を掴み再び潜った。

 呼吸を止めた水の底で、冷静に箱に縄を結びつけ、合図を送ると舟の上から九郎が箱を引き上げた。

 水の滴る、黒い箱が舟に置かれる。ごくりと藤林は喉を鳴らした。

 千両箱より一回り程大きい作りだろうか。一万両が入る程大きくはないが、期待が膨らむ。


「む、仕掛けがあるのか? 開け口がわからぬ」

「俺がやってみよう」


 小向が刀を抜くと、箱の継ぎ目に思い切り突き刺す事をニ、三度繰り返し、足で蹴ると一枚箱板が剥がれる。

 箱の中身はさらに、蝋がみっしりと覆っていた。


「浸水対策か? 随分物々しい」

「祟り箱の類だったりしないだろうね。この中の誰か寺の息子はいないかね?」

「まあ……寺ならすぐ近くにあるからその時は逃げ込めばいいであろう」


 言いつつ、九郎は蝋の塊に見えるそれを手で掴んで、ぐ、と力を込める。

 やはり目には見えないが、開ける為に何処かに切れ目を入れていたようで、九郎の力に耐え切れずに半ばほどからめりめりと蝋塊が砕けて中の一回り小さな箱の姿を表す。

 次にそこ箱を開けてまた箱が出たらいい加減ムカつくので燃やそうと思いつつ、三人が注目する中、九郎は蓋に手をかけた。





 *****




 後日の事である。

 千駄ヶ谷は現代のような都会ではなく、殆どが農作地であるのだがその中で一際大きな屋敷が立っている。

 地主である根津家の屋敷だ。大きいと言っても豪華というわけではなく、家を持たぬ小作人を部屋に住まわせるように広く作っているのである。見ようによっては、長屋を一軒の屋敷としているようにも見えた。

 其の屋敷の畳敷きである主の部屋に藤林は来ていた。

 不忍池から引き上げた、蝋の中に入っていた箱を持ってきている。

 大柄な主の男は布団の中でうつ伏せになっている体勢で出迎えていた。

 やや憂鬱そうな声で藤林が云う。


「例の飛び小僧の隠し金の件。旦那が皆に探させるために噂を流したんでしょう。これを見つけさせる為に」


 ずい、と箱を旦那に差し出すと、彼は大笑して受け取り中身を開ける。

 厳重に湿気対策が為された箱の中には、春画が大量に入っていた。

 それは男のエロ隠し箱なのである。これ以外、不忍池から上がってくる変なものは無かった。

 江戸の頃から春画などはやはり身分のある男が持っているのは恥とされて、あちこちに隠し場所が考案されていたという。二重底の箪笥や鎧櫃よろいびつの中に隠していたという記録も残っている。


「ようしこれこれ。嫁が捨てた場所がなんでか知らんが不忍池とまでは判明したんだがなあ。俺一人じゃ探しきれねえもんでよう」

「それで皆を騙して見つけさせるんだもんなあ……おまけに自分の春画だからって一枚一枚名前まで書いてるのは旦那ぐらいですよ! 旦那の顔がよぎって使えもしない」

「見つけたのがお前らの誰かだったら届けてくれると思ってたぞ。あ、一枚好きなやつ要る?」

  

 にたにたと笑いながら春画を捲っていく。

 あの集まりの晩にふとした会話から思いついた計画であったが、見事に成功したようである。あの隠し場所の言い出しっぺで穴山小助と親しい彼が真っ先に不忍池に飛び込んだことから、忍び連中は皆信じきって探す羽目になったのだ。

 ついでに読売を書いているお花に記事を書かせたのも彼である。こっちはもう半ば面白半分で騙された阿呆を増やす為の悪戯であったのだが。

 

「ところで旦那。なんでうつ伏せで腰を上げて寝てるんです?」

「いや、うちの娘に手を出す小僧の褌に唐辛子汁を塗りこんでやろうと思ってな? 試しに自分のやつで威力を調べてみたら予想以上に俺のお楽しみ鉄砲に損害が」

「軽はずみなことはするもんじゃないですよ」

「……ん? この春画は……」


 男が一枚、束の中から紙を取り出した。

 不思議そうに表裏に引っ繰り返して紙を眺めた。 

 それは彼の名前と、絵の題だけが書かれていて肝心の絵が消えて無くなっているのだ。


「確か、墨の一色刷りだったから湿気で溶けたか?」


 絵の題は[狐和合佳話]と書かれている……。

 

 


 *****



 

 更に数日後。

 小石川、伝通院門前のあたりに建っている、冴えない風貌の男店主が一人でやっていた売れない豆腐屋に嫁が来たという。

 突然やってきたその嫁を伊作という男は大層に喜び、大事にした。

 その目元の細い嫁も、やや高飛車なところはあるが万に行き届いた良い嫁で、二人で豆腐屋を切り盛りしていった。嫁の提案で売り出された油揚げがそこそこに売れて、生活に窮することはなかったようだ。


 伊作も嫁も、親族は居なかったが年が明けた頃にお互い親しい知り合いを少人数だけ招いてささやかな祝いを行った。新郎の側の客は全員覆面で、新婦の側は全員狐面の客という妙な会であったが、天気雨の中しめやかに行われた。

 その嫁には獣耳も尻尾も無いが、伊作はもうそれに拘ることもなかった。

 ただ、彼女が好物の油揚げを夜飯の時などに嬉しそうに頬張っていると、その腰元で尻尾が揺れている気がして、伊作は決して何も言わなかったが嫁と一緒ににこにこと笑っていた。


 それから、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。


 

「めでたし、めでたし──ってね」



 狐面の薬師はそれを語って、買った油揚げを土産に珍しく石燕と九郎の二人と酒を飲んだ。

 江戸の時代には幾らでもあった少し不思議な話の一つである……。


 



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― 新着の感想 ―
[一言] 良い話だぁ…うちにものじゃロリ巨乳世話焼き銀髪きつね娘さんが来ないかなぁ
[一言] 伊作よかったね……。 ところで、忍者たちが完全に古賀先生の絵で脳内再生されました。
[一言] 勝ち組じゃないか!
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