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35話『玉菊燈籠』

 今年も最後の月となった。

 十二月の十三日は[煤払い]と言って、江戸城の大掃除を行う日──正確には月はじめから大掃除を行っていて、締めの日──であるのだったが、町人らもそれに倣って江戸中の家で大掃除が行われるのが毎年のことであった。

 九郎の住まう緑のむじな亭でも、店を休みにして掃除を行っている。

 あちこちに達筆なお房の字で[汚物は消滅][宇宙系に捨離断]などと掃除に対する意気込みが紙に書かれて貼られていた。書かれた句については、石燕が考えたものだそうだが。

 九郎も手伝わされていたのだが、背丈があり素直にお房の指示に従いキビキビと感情のない殺戮マシーンの様に働く六科と違い、基本的に老人系な彼は手際が悪い。

 そもそもここ何年もまともに自分の手で掃除をしたことがなかった。魔王城に暮らしていた時はアサルトルンバとメイドが争うように掃除を行っており、時折銃撃戦に発展するほどであったからだ。


「やはり掃除というものは正しい定義でのロボットがするべきだな。奴らは心を持たぬが労働を持っている」


 などと、グチグチと言い訳がましいことまで口ずさむのだからむしろ邪魔であった。おまけに右手がまだ不自由だから作業能率は酷く低い。

 役立たずだったので九郎は追い出されて、餅屋に餅米の注文をしに行く仕事を与えられた。正月の餅も、十五日までに予約をしなければ売ってくれないのである。

 定年後の老人が忙しいアルバイトに入って邪険に扱われた気分で、非常に悲しくなった。

 ふらりと道すがらお八の実家である着物屋[藍屋]に寄ってみたのだが、軒先で従業員に投げっぱなしパワーボムを連発するという儀式を行っていたので目をつけられる前にさっと消えた。

 煤払いが終われば大店などは胴上げを始めるのであったが、主人やその家族などはともかく、下っ端などを胴上げすると悪乗りが重なり投げまくる為にボロボロになる様がよく見られたと記録に残っている。その日の仕事は大抵掃除で終わりなので、ボロボロのまま精進落としに遊びに出かけたりしていたようだが。

 今日は何処の知り合いを訪ねても忙しいだろう。

 そう思って九郎はぶらぶらと町中をうろつくのであった。


「もう師走か……なんか不思議だのう」


 日本で年の瀬を迎えるのは何十年ぶりだろうか。彼が昔過ごした日本とは違うとはいえ、懐かしい錯覚がして少し笑えた。

 少し、天気が曇ってきた。




 *****





 [それ]を失くした事に気づいた玉菊は大いに狼狽をした。

 慌てて同じ部屋で寝泊まりをする女郎や身の回りの世話をする禿かむろに聞きまわったところ、皆悲しそうな顔をして首を振る。

 玉菊の勤める遊郭の中でも一番の格上である──女の中では──紫太夫はやはり気落ちしたように彼に言った。


「玉菊太夫。残念じゃったなあ……妾らの私物もみぃんな、あの亡八(楼主の事)が売り捨ててしまっちまったんじゃ。煤払いと言ってのう」

「そんな!?」


 玉菊が泣きそうな顔で聞き返すが、紫太夫は小さく首を振った。


「客から妾らが貰った物は、俺の物でもあるのだからどうしようと勝手だろう、となぁ」


 憂いに満ちた表情を浮かべている紫太夫と他の女郎達。彼女らの私物も持って行かれたのだろう。日頃、碌な扱いは受けていないのだがこれには堪えている様子であった。

 もともとの遊郭の主人は良くも悪くも普通の男であったのだが、今年に入って借金の方に店を乗っ取った新たな楼主は、金儲けや世渡りが上手いことは同業者でも認めている。あっという間に品川の色街から、吉原に店を滑りこませたことから考えても、市場だけではなくお上の役人にも繋がりがあると見て良い。

 それにしてもその楼主は遊女への扱いが悪かった。暴力を振るう、食事を与えないなどは日常で、機嫌が悪いとなると井戸に逆さ吊りにしたり、水風呂に漬け込んだりして仕置をするという有り様であった。

 きつい仕置などは他の遊女が受けそうになると、玉菊が相手を庇って代わりに受けることも多く、遊女たちは年下の弟のような存在であるのに誰よりも仲間思いな少年がむしろ気の毒に感じている。

 このような無体な楼主は巷に溢れていたようで、江戸後期に出された辛口の世評文[世事見聞録]に於いて、


『ただ憎むべきはものはかの亡八と唱ふる売女業体のものなり。天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず。畜生同然の仕業、憎むにあまりあるものなり……』


 と、いう書き出しから始まる批判が続いている。作者の武陽隠士はなにか嫌なことでもあったのだろうかと心配するぐらい、[世事見聞録]は全体的に荒んでいる内容だが、世間にそう思われる程には楼主とは悪どい商売であった。

 ともあれ、玉菊は眼の奥から熱いものが湧き出てくるのを感じながら、わけもわからぬ焦燥に襲われて、


「でも、あれは、あれはわっちの大事な……良い人から貰った……」

「……そうじゃのう」


 紫太夫はおろおろとする玉菊の肩に優しく手を置いて慰める──或いは納得させるように呟いた。

 失くしたのは玉菊がいつも自慢気にしていた、かんざしである。

 送った相手というのは、一度か二度程しか吉原の前の店に来たことしか無いが、紫太夫も見たことはあった。玉菊と同じ年頃の、妙な雰囲気をした少年だ。相手としてはどう控え目に見ても玉菊へ情欲を向けては居ないようだったが、まあ仲が良さそうではあった。

 九郎が何となく、落ちていて拾った簪が高価だったため、その場のノリで適当に渡したのではあったが、玉菊にしてみれば唯一無二の宝物である。

 それを勝手に売り飛ばされたのだ。

 

「わ、わっち、何処に売ったか訊いてくるでありんす!」

「あっ、これ玉菊太夫! そんな事をあの亡八に訊いたらまた仕置を受けるぞ!」


 慌てて階下へ駆け出す玉菊を制止するものの、構わずに彼は楼主の間へ向かった。 

 ただならぬ様子を番頭が見咎めて、油さし(見張り役)に指示を出して楼主の部屋の手前で玉菊の手を乱暴に掴み止めた。


「何をしている、太夫」

「放してくりゃれ! 楼主に訊きたい事がありんす!」

「駄目だ。自分の部屋に戻れ」


 いかつい、やくざ崩れのような油さしはきっぱりと言って握る手に力を込めた。

 

「痛っ……」


 玉菊の細い手首に跡が残るほど圧迫がある。

 殆ど少女と変わらぬ体型の玉菊が力で勝てるはずがない。少年の体なのに大人を捻り潰す強さを持つ九郎では無いのだから。

 それでも、玉菊は掴まれてない方の手を伸ばして、楼主の居る部屋の襖を開ける。 

 背中を向けて寝そべっている、良い着物を着た中年が居る。楼主の重郎左衛門だ。

 襖が開いて音でごろりとこちらを向く。鼻の側に大きないぼのある醜い男であった。


「何の騒ぎだ」


 蟾蜍ひきがえるのような粘着質の声で聞くと、油さしは一礼をして、


「すぐに太夫を戻します」

「待って! わっちの、わっちの簪を何処に売ったでありんすか!?」

「ああ? 簪ぃ?」


 彼がぐにゃりと顔を歪めたのを笑顔と認識するのは、かなりの困難であった。


「そんなもの知るか。他の女郎のと一緒に、出入りの古道具屋に売り払ったわ。買い戻す気はないと伝えてな」


 吉原からの放出品となると、古道具でも高値が付くのである。勿論、売った金はすべて楼主の懐に入る。


「巫山戯なりんせ! あれはぬしのものじゃありんせん!」


 大声で怒鳴ると、彼が不快そうに──やはりそう理解するには難しかったが──眉間にしわを寄せた。


「巫山戯るな、だぁ? それはお前のことだ。この店で働かせてやってるのなら、客は[此の店の]お前に貢いだだけの話だろう。ここに居なければお前など木っ端な夜鷹だ。お前に価値を与えているのは吉原で開いている此の店、そしてその店の主の私だ」

「あれは! 店に来た客じゃなくて、陰間で働いているわっちにじゃなくて、ただ、親しい関係のわっちという人にくれた、わっちの為だけの簪でありんす……!」 

「……小煩いな」


 きゃんきゃんと喚き立てる玉菊に顔を顰める。

 彼が目配せをすると、油さしが玉菊を引っ掴んだまま部屋の中に連れ込ませた。

 怒りと、若干の怯えを顔に浮かべながらも歯を食いしばって相手を睨む。普段のことから冷静に考えれば、この人を人と思わない楼主が一度奪い取ったものを返してくれる筈も無いとわかってはいたのだが、それでも噛み付かずには居られなかった。

 

「仕置が必要だな。この糞忙しい時に……おい、お前も手伝え」

「はっ」


 短く返事をして、油さしは玉菊の体を強く押さえつけた。

 玉菊の顔が悔しさに歪んだ。





 *****




「……痛たた」


 気を失っていたらしい。

 玉菊は意識が覚醒すると同時に痛みに呻いた。殴られたような記憶があるし、首を締められた気もする。針で刺された場所は舌だったか、下だったか。思い出しても然程有り難みは無い。

 頭の下に柔らかい物を感じる。何度か感じたことのある、紫太夫の太腿のようだ。

 彼女は数少ない傷軟膏で玉菊を治療した後、ずっと膝枕をして彼を撫でて居たのである。吉原の多くの店は、出入りの医者や薬屋がいて幾らか薬を置いているものなのだが、この店に於いては傷などは化粧で隠せと言わんばかりに検診も行っていない。

 とりあえず、自分の体に骨折や欠損が無い事を玉菊は手足の指を動かして調べた。顔面が抉れていたのならば見て確認できないのだが、さすがにまだ売れる商品をかなぐり捨てる程愚かではないと思いたい。歯ぐらいは幾らでもへし折ってきそうだが。そのほうが、具合がいいとして。

 

「……まだ起きなさんな」


 紫太夫が優しく声をかける。

 玉菊はぎこちない笑い顔を浮かべて返事をした。それを見て、余計に彼女は顔を曇らせた気がした。

 

「大丈夫でありんすよーぅ。えへへ紫太夫の太腿気持ちいい! 十両は価値がありんす! 元気出てきた!」

「平気なもんか。本当にお前さんってやつは……」

「さてと、わっちは一寸出かけてくるでありんす」


 むくりと起き上がって、体中から引き攣る痛みを感じつつ笑顔を顔に張り付かせ動き出した玉菊を紫太夫が止めた。


「待ち。何処に行く?」

「うん、外の古道具屋を急いで廻ってくるだけで、すぐに戻って来るでござんす」

「どうやって吉原の外に出るのじゃ。今のお前さんに外出切手なんか出されるもんか。足抜けだと思われて、とっ捕まるのが落ちじゃ」

「それならおはぐろどぶを飛び越えて行くでありんす。こう見えても、身は軽いから」

「そんな事をして捕まったらお前さん、今度こそ殺されて浄閑寺に投げ込まれる」


 吉原は遊女の足抜け(脱走)を防ぐためにその四方を高い壁とおはぐろどぶと呼ばれる堀で囲んでいて、唯一の出入り口の大門に番所を置いていた。外出するには店の主が出した手形が必要なのだが、小間使いや針縫いならまだしも遊女には滅多に出されなかったという。

 ましてや玉菊などは、吉原でも既に有名で持て囃される新進の売れっ子である。前までの様に、気軽に遊びに出かける身分ではない。

 吉原に来てから九郎とも会っていないのだ。

 逢えなくても心の拠り所として、大事にしていたものを取り戻さなければならない。

 簪を付けていなければ、彼にもう逢えない気がした。あわせる顔も無い。折角、貰った物を失くしたなどと。彼はなんだかんだで優しいから、仕方なさそうな顔をして許すだろうけれども、玉菊の意地が許さない。


「──行ってくるでありんす」


 強い決意を込めた言葉に、大きく紫太夫は息を吐いた。

 命をかけてでもやらねばならないという思いが見て取れる。それほどまでに大事な、心の問題なのである。畜生扱いされて傷めつけられても、耐えられるほどの。

 彼女は袖から、許状を出して玉菊に渡す。


「紫太夫、これは……」

「振袖新造(見習い女郎)宛に書いた許状じゃ。妾が代筆して於いた。一度ぐらいは番所も騙されてくれるじゃろ」

「で、でもこんなことをしたら紫太夫が……」

「いいか?」


 紫太夫は、危険が多いのはそれを使う玉菊だというのに、こちらを心配してくる彼に笑いかけて正面からぎゅっと抱きしめた。

 

「これを使って……もうここには戻ってくるな」

「え……」

「追手が掛かるかもしれんが、襤褸を着て、髪を切って、化粧をしないでいればお前さんもただの男の子じゃ。二、三年もすれば背が伸びて声も太くなり、誰もお前さんが玉菊だとは判らなくなる。それまで、良い人でも頼って隠れて於くんだよう」

「でも、それじゃあ皆が……」


 言い縋る玉菊を、更に強く抱きしめる。


「いいんだ。いつもお前さんは、妾達の事を姉さん姉さんと慕ってくれて、庇ってくれて、でも妾らはなんにも恩は返せなんだ。お前さんが足抜けすることは、みぃんな承知じゃ」

「紫……姉さん……」

「……ごめんね、お姉さんらしいこと、あまりできなくて」


 玉菊は自分を抱きしめる紫太夫が、涙を流しているのを知った。

 見た目は女装しているが、一端の男子として女性を泣かすようなことはしないと心に決めていた玉菊はどうすればいいのかと困って、紫太夫を抱き返した。

 少しの間、今生の別れを惜しむようにして、離れた。

 それ以上会話をすれば未練になるとばかりに、紫太夫は質素な着物で玉菊を包み、髪型と化粧をがらりと変えさせた。手ぬぐいなどで顔を隠せば、余計に怪しまれる。

 紫太夫はそれこそ魔法の様に、玉菊の風貌を変化させた。一度だけならば騙せる。そして、一度騙せば充分だ。資金として、隠していた金子を五両渡した。

 心底傷めつけられた玉菊はまだ動ける状態ではないと、店の者がまだ思っている隙に炊事場から玉菊を外に逃した。

 泣けば化粧が落ちるし周囲から不審に思われる。

 玉菊は笑って、大門へと向かった。

 笑いたくなるようなことなんて、ひとつも無かったけれども。




 *****




 雨が降りだした。

 十二月の雨となれば、恐ろしく冷たい。霰こそ混じっていないが、気温も深々と下がり外を出歩く者も殆ど見えぬ。

 一人、とぼとぼと項垂れて傘も差さずに歩いているのは、玉菊だ。

 雨で化粧は落ち、髪もベッタリと下がっている。足元は泥で汚れたその姿はさながら幽鬼のようだった。

 あれから──。

 吉原に出入りがある古道具屋を、伝手を辿って探してみたのだが、どこに行っても玉菊の簪は無く。

 知っているところは全て廻り、雨も降りだした。体力などはもとより良い物を食べていないのだから少ない。女郎という仕事は一見優雅に見えるものの、食事を抜かれることなど日常茶飯事で、特に客の目の前では決して食べてはいけないという規則があった。客が寝た後に、残り物をこっそりと食べるぐらいが良い物を口にする機会である。


(……あの時、主様と晃之助様と食べた鰻と山芋は美味しかったなあ……)


 思い出すと腹が鳴った。他にも、むじな亭の蕎麦。相撲を見に行った時に買って食った幕の内弁当。次々に思い出して、涙が浮かんできた。

 泣いても雨でわからないと思うと、堪えていた涙がぼろぼろと笑みのまま垂れて、全身冷えきっているのにそこだけ熱く感じる。

 冷えた雨が傷に染みて酷く痛む。指先を見ると、血が通っていないんじゃないかと思うぐらい白くなっていた。

 そう時間もかからずに、体力が無くなって倒れて死ぬ。

 死ぬ覚悟さえ決めて、優しい姉さん連中に後押しされて抜けだしたのに、何一つ出来ないまま死んでいくと思うと、本当に嫌になった。

 せめて簪が欲しかった。

 嫌なことも辛いことも、綺麗な思い出さえあれば耐えてこれたというのに……


(ああ、そうか……あれを失くしたから死ぬのか)


 心にすっと納得が行く考えが浮かび、目に絶望の色が浮かぶ。

 こんなことならば、寝るときも風呂に入るときも片時さえ離さずに、そして誰にも見せずに持っていればよかった。

 我鳴声と、肩に衝撃を感じた。

 玉菊がゆらりと顔を上げると、拳が振るわれて倒れた。火花が散る視界の先に、店の油さしの男が居る。

 追いかけてきて、見つけたから殴ったのだ。

 体が冷えていたからか、痛みは感じなかった。鼻血が出たようなぬめりだけが不快だ。


「手前! よくもおめおめと……!」


 なにやら騒いでいるが、半分も玉菊は理解できない。

 胸ぐらを掴まれて無理やり引き起こされ、今度は脇腹を殴られた。息が詰まる。吐きそうな気持ちだが、吐くものは何も無かったらしい。

 全身の力が抜ける。髪を掴まれて顔を上げられた。


「へらへらと笑いやがって、薄気味悪い餓鬼だ」


 日頃、その薄気味悪い餓鬼が稼いだ金の上がりで飯を食っている男がそんなことを言うので、玉菊は可笑しくて顔を歪めた。

 そして震える口を動かして、唾を男の顔に吐き捨てた。

 怒りで真っ赤になり、男が再び拳を固める。


(この寒いのによくも熱くなれるでござんすなあ……)


 などと、ぼんやり玉菊は場違いな事を考えて、恐らくは致命となる一撃を待ち受けた。

 だが、それは届かなかった。

 ごつごつした男の拳を、玉菊よりは少し大きい子供の手が受け止めている。

 顔を打つ雨が止まっていた。玉菊の頭上を傘が覆っている。

 半分しか開かない目で、いつの間にか隣に立っていた相手を見た。

 傘を差した九郎が、酷く不機嫌な顔でそこに居る。


「な、んだこの糞餓鬼!」

「まずは顔面か」


 肝が鷲掴みにされたような怖ろしい声で呟き、左拳が男の顔に打ち込まれた。

 手加減は無かった。男の鼻骨と涙骨を砕き前頭骨に罅を入れて振りぬき、地面に叩きつけた。


「ごっ!? がぁ……!」


 玉菊はぺたりとその場に座り込んだので、彼の肩に傘の柄を置き、九郎は倒れている男に近寄る。


「腹だ」


 顔面を抱えて蹲っている男の脇腹を蹴り飛ばした。

 べきべきと肋骨が砕ける音がして、男は叫び声すら上げられない。

 九郎は、恐い顔のまま男の側にしゃがみ、頭を掴んで無理やり起こした。九郎の握力で、罅の入った頭骨がみしみしと軋む。

 背筋が凍るほどの痛みに襲われながらも、油さしは虚勢を張って云う。


「お、お前、こんなこと、して……吉原の、法を……」

「吉原? ああ、お主の勤め先か。安心しろ、お主が喋らなければ何も問題はない」

「喋……」

「此の場で殺されて口を聞けぬようにされるか、勤め先に二度と戻らず今すぐ江戸を去るか選べ。今後己れや玉菊に僅かでも関わってみろ。何処に隠れていようが探して殺す。必ず殺す」

「ひっ……」

「わかったか。応えねば殺す」


 油さしの男は、目の前の小僧が恐ろしくて堪らなかった。刃物を突きつけられているわけでもないが、こいつが力を込めたら頭蓋骨など容易く砕き、


(殺される)


 という思いだけが感情を支配する。

 遊郭の見張りとして、女郎を甚振り給料を貰うという楽な仕事だったが、命には変えられない。吉原に住まう腹の底から腐っている化け物連中よりも、単純な暴力で自分などいつでも好きに殺せるという九郎を敵に回すほうが、どれだけ危険か。

 男は潰れた顔面から悲鳴混じりの声を上げて九郎の提案を受けた。

 興味を失ったように胸ぐらを掴んで放り投げられ、


「失せろ」


 と、言われたので顔と脇腹を抑えながら必死に逃げていった。

 もはや吉原に戻ることは二度と無いだろう。目の前に迫った、死の恐怖の前では未練は少しばかりも無かった。

 九郎は地面に座り込んだまま、俯いている玉菊にしゃがみこんで話しかける。


「お主もこんな雨の日に出歩くものではない」

「……」

「大掃除から逃げてぶらぶらしてる己れが云うことではないがな。そろそろ終わっている頃合いであろう。顔の治療もしてやるから、連れて行くぞ」

「……」

「はあ……」


 反応を示さずに俯いたままの玉菊に九郎は頭をぼりぼりと掻いた。


「髪もぐしゃぐしゃではないか」

  

 そう云うと、びくりと玉菊の方が震える。

 九郎は懐から、簪を取り出して玉菊が向く顔の下へ差し出した。

 それは玉菊が失くしていた簪である。

 彼の目が見開かれた。


「浅草の市で流れておったから、買い戻しておいた。お主が手放すとは思えんから、まあ何かあったのだろうと思ってな」

「ぬ、し……様……」

「ほれ、大事に持っておれ。背中に担いでやるから、むじな亭まで帰るぞ」


 簪を手にとって、口を半開きにして呆けたようにしている玉菊をひょいと背負って、九郎は足を店に向けた。

 やがて、背中から、


「ぐすん、ぐずぅ……」


 と、玉菊の鼻を啜る声が聞こえ出した。

 九郎の背中に顔を押し付けて、玉菊はただ泣いていた。




 *****

 

 


 緑のむじな亭にはちょうど狐面の薬師、安倍将翁が訪れていた。

 都合の良い時に現れるのは占いによるものであると、いつか話していたのを九郎は覚えている。

 とりあえず濡れた玉菊の服を脱がして、炎熱符による暖房で温めてから将翁の治療が始まった。油さしの男に殴られた顔や脇腹だけならず、明るい場所で見れば玉菊の体は傷だらけで、酷く細かった。

 暖かな粥に卵を混ぜたものをお房が作って食べさせる。

 将翁も、


「こりゃ酷い。あたしもね、吉原には医者として出入りすることがあるんですが……これじゃあ客も逃げちまう」

「相手をする時は体中に白粉を塗ってたでありんすから……」

「やれやれ……寿命を縮めるようなものだ」


 と、呆れながら傷へ処置をしていく。

 一番酷いのは殴られた時に衝撃で片目が殆ど見えなくなっていることだ。一時的ならば良いが、そこまでは手の施しようがない。

 すっかりいつも通りの、軽い笑い顔を浮かべている玉菊はお房から木匙で差し出される粥を、


「あつつ」


 などと言って口に入れていた。

 感情とは別に、その暖かい飯を味わう度に涙が溢れるのを慌てて拭って隠したが、痛ましく見えるだけであった。

 九郎はいろいろ言ってやりたい事があったが、怪我人に説教をするのも気が引けるため口をつぐんだ。


「でもま、逃げてきたんなら良かったんじゃないの。碌な店じゃなかったんでしょ」


 お房がぶっきらぼうにそう告げて、より吹いて覚ました粥をまた玉菊の口に運ぶ。

 玉菊ははにかんだように笑いながら、


「いやあ、これでも男だから大丈夫でござんすよーぅ」


 と、嘯くので九郎がしかめっ面をしたまま軽く玉菊の頭に拳骨を落とした。


「馬鹿を云うでない」

「いや、本当に結構平気で……」

「本当に馬鹿者め。何故相談せなんだ。男とか女とか、そういう前にお主は子供だろう。辛かったら早く逃げろ。苦しかったら助けてと云え。己れが頼りにならんか」


 玉菊の目を見据えて云う。


「そんなことは……」

「己れで無くとも、剣術家の晃之助でも同心の利悟でも絵描きの石燕でも、お主が頼ればどうにかこうにか手を貸した筈だ」

「それは……」

 

 殆ど涙声になっている玉菊が弁明のように言葉に出した。

 

「皆様、優しい、良い御人達でござんすから……わっちの事で、迷惑をかけちゃあいけないと思って……」

「子供は大人に迷惑を掛けて大きくなるのだ。子供を助けるのが大人の役目だ。子供のお主が、誰彼に気を使うな。よいな」

「……」


 将翁が膏の跡に包帯を巻き付けて治療を終えて、 


「あたしも医者としての忠告から言えば、もうその仕事は止めろと云う以外御座いませんぜ」


 薬の臭いが染み付いている、細い指で玉菊の目元を拭った。

 

「泣くことも笑うことも演技のまま生きていたら、そのうち仮面を被った妖怪に為っちまう」

「わっちは、笑えてない……?」

「お前は妖怪に為ってはいけない。笑って、泣いて、また良いことがあると信じて笑いなさい」


 将翁は立ち上がって、薬箪笥を背負い上げた。


「半月程ゆっくりしてれば良くなる。それじゃあ、あたしはこれで」

「おう、世話になったのう」

「袖すり合うもなんとやら、ですよ」


 そう言って、高下駄を履き店から出て行った。

 お房が外まで見送りに行ったのを見つつ、九郎は玉菊の肩に手を置いて穏やかな声をかける。


「とにかく、お主はうちで引き取る。髪を切って名前を変えて、別人と言い張ればいい。身寄りは無いのであろう。適当に己れの息子か弟……うう、それはちょっと……知人という事にしておこう」

「本音がちらりと聞こえて関係を格下げされた!?」

「体が治ったら店の手伝いでもしてくれれば、それで良い。ああ、出来れば衆道も止めろ。理由は特にないが……あーえーとこれまでの自分を卒業する的な意味で」

「理由は特にないって最初に言っちゃってるのに後付でそれっぽいことを!?」

「迷惑だから止めろ」

「大人に迷惑かけろって言ったのに!」


 とうとうきっぱりと言い切る九郎にショックを受けて頭を抱える玉菊。

 そんな彼の頭を軽く撫でて、


「はっはっは。いつもの調子が戻ってきたではないか」

「ううう、主様が虐める……」

「主様というのも無しだ。生まれ変わった心持ちで過ごせ。子供は元気が一番だ」


 九郎が満足そうに頷くので、玉菊も笑った。

 



 *****




 深夜──。

 緑のむじな亭の二階で、玉菊は若干埃っぽい布団を用意されてそこに寝かされていた。

 目を閉じていても意識ははっきりとしていて、にこにこと顔が笑みの形になっているのを自覚する。

 体は暖かく、気持ちも充足していた。

 こんなに幸せな気持ちになったのは生まれてはじめてかもしれない。

 

(本当に、皆良い人ばっかりだなあ……)


 怪我を治してくれた安倍将翁。

 心配気な顔で飯を与えてくれるお房。

 無言で茶を勧めてくる六科。

 そして九郎。

 紫太夫と皆。


(もう、大丈夫だ)


 遠い回り道だったが、もう後悔はない。

 一生分の暖かいものは全て貰った。

 自分の決意は多くの人の想いを台無しにするかもしれないが、それもまた子供がかける迷惑だと思って、笑って忘れて欲しい。 

 

(……何も怖くは無い。行こう。やろう)


 痛み熱を持つ体を動かす。

 闇に目は慣れている。暗いところで作業をするのもお手の物だ。

 部屋に、お房の絵かき道具の予備である墨と紙が置かれているのは確認済みであった。

 玉菊は書き置きをして、音も立てずにむじな亭を後にする。

 やらねばならない事が残っている。自分にしか出来ないことだ。きっと知れば九郎も紫太夫も怒るだろうが、それでも。

 それをしたところで何が解決するかはわからない。だが、現状は変わる。暗澹たる未来を不確定に濁す事ができる。その為に人生という武器を振るう、覚悟が出来た。

 簪をぎゅっと握りしめる。

 建物から離れて、夜闇に微かに浮かぶ九郎の部屋の窓を一度振り返り、礼をした。


「ありがとう御座いました──それでは、おさらばで御座います」


 小さく、呟きその足を吉原へ向けた。晴れ晴れとした笑顔だった。




 ****


 


 九郎が翌朝に目覚めて、気配の無さから隣の部屋に踏み込むと厚みが無くなった布団を発見した。

 枕元に丁寧な字で書き置きが残っている。


『一日だけ、吉原に戻って皆に別れを告げてまた抜け出してきます。必ず帰ります。だからどうかご心配無きように』


 くしゃくしゃに紙を丸めて適当に放り投げ、九郎は階下に降りた。

 お房が朝飯の膳を並べながら、


「あら、九郎。玉菊は?」

「居らぬ。抜けだして吉原に行ったらしい」

「じゃあ連れ戻してきて」


 即答で指示を出すお房。 

 彼女としても、玉菊は馬鹿な友人と云った認識であり、彼が理不尽な目に合っている事態は好まざるものだ。

 それに住み込みで働き手として店に雇われるなら、家族のようなもので少しばかり楽しみにしていたのである。

 九郎も眉間に皺を寄せて、


「そうしたいのは山々だが、古巣の同僚と別れの挨拶をしたい書き置きがあった。すぐに戻るとも」

「それを信じて待つの?」

「いや、忍び込んで様子を見てくる。だがもし玉菊が殴られでもされてたら、その相手を半殺しにして玉菊を攫ってくるぞ」

「当たり前なの。本音を言うと、あんなことをする奴なんてぶっ殺してやりたいぐらいなの」


 きっぱりとお房もそう告げたので、九郎は「同感だ」と云った。

 炊きたての白米に削り節をまぶし、それに味噌汁をぶっかけた猫まんまを九郎は手早く二杯食べて、刀を腰に差して吉原へ向かう。

 大川沿いに上がっていき、日本堤を曲がって吉原の大門近くに来た時、騒ぎが聞こえた。

 

「火事だ! 吉原の中が燃えてるぞ!」


 駆け出した。

 大勢が集まりすし詰めとなっている大門を飛び越えて無理やり中に入り込み、人並みを縫い分けて奥に向かうと遊郭の一つが油を巻いたように燃え盛っていた。

 既に駆けつけた火消し衆が、両隣の建物を鳶口と呼ばれる道具で破壊活動を行っている。放水車などが無い江戸での消火活動とは延焼を防ぐ事に専心して行われるのだ。

 燃える建物を茫然と見上げている女郎達が、近くにやってきた九郎の顔に気づいた。

 紫太夫が九郎の手を掴んで、


「お前さん、玉菊太夫の良い人じゃろう!?」

「玉菊は何処だ」

「あの子、明け方に戻ってきて、火をつけるって妾らを全員追い出して……あの子だけ出てきてないんじゃ!」

「なに? まだあの火の中に居るのか!?」

「心中するつもりだよう、あの亡八と!」


 紫太夫が叫んだ。

 心中死というものは此の時代では、特に将軍・徳川吉宗が酷く嫌った為に非常に罰則が重く、まともに弔ってすら貰えない死に様である。

 それで更に火付けまでしたとなると、故人のあらゆる財産は罰として没収となる。だが、これが楼主だった場合はもうひとつ──雇っている女郎達の借金も消え去るという事があるのである。

 吉原は火事が二十回以上起こったとされるが、そうやって事後のどさくさで身柄が有耶無耶となった女郎も多く居たという。

 玉菊はそのためにここに戻ってきて、命を使い道連れに死のうとしているのである。


 九郎は術符フォルダから[氷結符]を取り出して発動。自分の体表周囲の空気温度を氷点下にする。

 いかに火の舌が体を舐めようとも、温度が常にマイナスならば体を焼かない。

 刀を抜いて燃え盛る遊郭の壁を切り砕き突入した。周囲から何か呼びかける声があったが、無視した。

 建物の中は視界が赤く、煙で悪い。

 呼吸を止めて勘に従い真っ直ぐに進む。

 

「おのれえ! 離せ! 離せ!」

「嫌だ!」


 音の響きに、足を止めて壁を切り分けて踏み入る。空気の流れが起こり、九郎の体を火が襲うが直前で極度の冷温に晒されて消失する。

 部屋では、布団の上で必死に男に組み付く玉菊が居た。

 暴れる男に力を振り絞って抑えているが、歯が折れたのか口から血を流し、片目は潰れたように殴られたて瞑られ、男を捕まえる手の爪は無理やり力を込めた為に何枚か剥がれている。

 腹が立った。

 それは玉菊を傷めつけた男に対してか、結局一人で突っ走って死のうとした玉菊に対してか、自分にか。

 感情の昂ぶりは刀身から生まれる光と共に放たれる。


「アカシック村雨キャリバーンⅢ──発動」

 

 刀身が僅かにスライドして展開され、機械的な分離面を出し光が溢れた。

 刃の光を目にしたものを[凄い]と思わせる魔法の付与された名刀の、内部魔力を使用した高位発動である。

 [凄い概念]が付与された刀の発動効果は、凄い光の放出と相手の凄さを概念で塗りつぶして無力化させる衝撃波の射出である。

 光と無形の凄い爆圧は的確に揉み合う二人を吹き飛ばし、遊郭の壁の一部を崩壊させた。建物の外からでも真昼だというのに穴あきのプラネタリウムを見るかのように閃光が膨れ上がる。

 その火事現場を見ていた全員が謎の発光現象を見て、


「凄い」


 と、呟いたという。

 九郎は部屋の隅に倒れ伏した男を一瞥もせずに、玉菊を抱きかかえて今だ燃え盛る建物から離脱した。

 ぐったりとしている玉菊に、


「今のでお主の何もかも終わりだ。よいか、確かに死んだと思え。何もかも捨てて、生まれ変わったと思え。次に馬鹿をやったら許さぬ」


 九郎は怒り混じりの言葉を命じて、玉菊は彼に運ばれながら確かに頷いた。

 観衆は光の凄さに目を奪われていた為に、誰にも見咎められることは無かった。そしてまた、凄さのあまりに九郎が火事現場に飛び込んだということさえ、些細に思えて誰も覚えては居なかったのである。

 


 そうして。 

 幸い、火災は凄い爆発の効果かそれ以上燃え広がることは無く、奇跡的に一軒が燃え尽きただけであった。

 現場検証に於いては極めて杜撰な調査の元に証言から、花魁の玉菊太夫と楼主・重郎左衛門の心中であったことが断定された。死体は見つかったのだが、検証もされずに浄閑寺で処理されることとなった。

 これは吉原とはいえ、当事者が遊女や楼主と云った幕府側からすれば忌まわしいような相手であり、また心中となれば、


「畜生の死に方同然」


 と、吉宗が町奉行の大岡忠相に語っていたこともあり、詳しく調べるに能わずとなったのだという。

 特に現場を見ていた者達の話では、


「よくわからないけど凄かった」


 などと、意味不明な証言ばかり出た為にさっさと打ち切りにした事情もある。

 奉行の対応はそこで終いであったが、若くして亡くなった玉菊太夫を惜しみ、弔う人は多かったという。

 翌年の七月朔日ついたちからは、慰霊の為に明かりを灯して追善の祭りが行われるようになった。


 それが、[玉菊燈籠]と呼ばれる、吉原三景の一つである……。




 *****




「いらっしゃいませ!」


 きびきびと働く少年の姿が蕎麦屋[緑のむじな亭]では最近見られている。 

 髪の毛を九郎のようなざんばら切りにした、そばかすが顔にある明るい少年である。長屋の者などは髪型で適当に判断したのか、九郎の弟だという認識をしていた。

 

「はい、お茶で御座います」

「タマ。味噌煮込み蕎麦、上がったから運んで頂戴」

「わっかりましたー!」


 同じく接客をしている、年下のお房の指示にも楽しげに従って丁寧な手つきで品を運ぶ。


「おう、坊主。威勢がいいな」

「それだけが取り柄なんですよーぅ!」

「よしよし、小遣いをくれてやる。頑張れよ」


 などと小銭を渡されたりもしている。

 座敷に向かい合って酒を飲みながら九郎と石燕はそれを見ながら、


「なかなかに馴染んでいるではないか。いい拾い物をしたね、九郎君」

「そうだのう」

「ただ名前が良くないと思うのだよ。タマって。猫かね?」

「いろいろ考えたのだがな。玉之助とか菊次郎とか。だがなんだろうな。隠語に聞こえてならないから没になった」

「どうせなら私が格好いい名前を考えてあげようかね? そうだね……例えば、東洲斎──」

「タマで充分なの」


 乱暴に、二人の卓に追加の銚子をお房が置いた。

 にやにやとしながら石燕が、


「おや? 看板娘の役割を取られそうで不機嫌かね?」

「別に看板でも評判でも、売上が上がるなら犬にでもくれてやるの。それより……」

「はい、お二人様! 畳鰯のまよ焼きお待ちどう様です!」


 にこやかに、マヨネーズを薄く塗って火で炙った畳鰯を持ってきたタマは差し出しながら左手でお房の尻を撫でた。

 下から打ち上げる軌道で振られたアダマンハリセンがタマの顎を殴り飛ばす。


「こいつが! 息を吸う様に容易くお尻とか触ってくるのが腹立つの! 犯罪だわ! 番所を呼ぶの!」

「それは誤解だお房さん!」


 ぶっ飛ばされたというのに応えておらず、即座にタマは反論をした。

 無駄に早足で再接近して来ながら、


「そもそも自分が女体を好むということは自然摂理に適った行動で、衆道のように男に迫る特殊性癖ではなく通常性癖だから非難される謂れは無いんだ! ですよね兄さん!」

「誰が兄さんだ……だがまあ、男に手を出すよりはいいのではないか? 主に己れに取って都合が」

「ほら論破ぁ! 自分の行為は正当化されたところで一気に本丸を狙い打つ! おお拝なり! おお拝なり!」

 

 何かの天啓を受けたように叫びだしたタマは、機敏な動きで座っている石燕の乳へわきわきとさせた手を伸ばしたが、今度は上から打ち下ろすアダマンハリセンで地面に沈まされた。

 

「さっさと仕事に戻るの! 無ければ店先でも掃除してきなさい!」


 と、お房に引き摺られて連れて行かれるのであった。

 あれで怒ってはいるのだが、別段嫌っているわけではない。出来の悪い兄を叱っているような微笑ましさがあった。

 人の悪そうな顔をして石燕は笑いを忍ばせて、


「ふふふ、随分と賑やかになったではないかね。重畳重畳」

「ま、これで己れが手伝うことも減って丁度良かろう」

「そうだね。房も時間ができるだろうから絵の修業をもっとつけられる。ギルデンスターンは死んだ。それで一件落着さ」

「誰だよギルデンスターン」

 

 疑問を口にしながらも特に意味のない繰り言なのだろうと思い、詮索は諦めて酒を口にする。

 石燕が頬杖をついて、目を細めながらタマへ視線を送り、何事か呟いた。


「死すべき運命の者が、居るべきでない者に救われる。ふふふ、一度狂った歯車は作られた脚本を台無しにするだろう。計画の修正が必要だ……」

「また石燕が無意味に黒幕っぽい事を呟いて悦に浸っておる」

「……だってなんか出番が無いんだもの」


 拗ねたように口を尖らせる石燕に、九郎は慰めるように酒を酌してやるのであった。


 一方、店の外では鼻歌を歌いながらタマは箒で掃いていた。

 お房に怒鳴られるのも、客に褒められるのも、九郎や六科と料理の勉強をするのも、何もかも新鮮で楽しい日常が訪れた。

 これからは自分の為に生きて、いつかは誰かに頼られる良い大人になることが目標だ。知り合いに居る、沢山の良い大人のように。

 背も伸ばし、体も鍛え、笑って面白おかしく生きていこうと決めた。


「だから、玉菊──おさらばで御座います」


 懐に入れている簪を意識しながら死んだ誰かにそう告げて、彼は未来を手に入れた。


 深い空から雪が、ちらつき始める……。

 

 


 


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― 新着の感想 ―
[一言] 前話との温度差で風邪引きそうですが、玉菊がなんだか幸せそうでなによりです。
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