33話『青田刈りと犬神』
「おかえり、お八や。旅は楽しかった?」
「うん! なんかこー、毎日楽しかったぜ!」
「それはよかった。ああ、ところで旅の途中……九郎殿と何かいいことはあったかい?」
「いいこと? ……んん? あっ、茶を飲む時さ、羊羹の端っこをくれるんだあいつ。あそこが美味しいんだけどなあ……嬉しいぜ、えへへ」
「完全に子供扱いか……」
などと言う平和な会話が商家の親子で行われている江戸にて。
被害者への配慮もあり、あまり表沙汰にはならないが、奉行所では江戸を荒らす、ある厄介な悪党に頭を悩ませていたのである。
京橋にある油問屋、[石川や]に賊が入ったのは昨日の事であった。
盗人返しのある塀を易易と乗り越えた賊は主の寝室に入り込み、脅迫して金蔵の鍵を手に入れて三百両余りを強奪した。
それのみならず、猿ぐつわを噛ました主の目の前で、十になる幼い娘や丁稚の少女へと暴行を加えて行き、更に帰りがけの駄賃に主を斬り殺していった。
この、店に居る少女へ暴行して盗むという手口を行う盗賊の犯行は、奉行所の知れているだけで三件目である。もしかしたら報告が無いだけで、他にも発生しているかもしれない。
酷く怯えた姿で、母親に縋り付く娘と、娘の清い証を奪われた奥方は憎しみの涙を流しながら、現場に来た町奉行にどうか賊を捕まえて獄門にして欲しいと訴えるのであった。
現場検分に同行した町方筆頭同心、『殉職間際』美樹本善治は湿っぽい空気を払うように手を仰ぎながら、しかめっ面で廊下に出た。
「ああ、やだやだ。怪我が治ったと思ったらすぐまた悪党が出るんだからなあ、おい」
ついこの前ちょっとした事件で、不運の怪我を負ってしまったばかりである。膝に痛みがまだ残っているというのに、あちこちに聴き込みに奔らねばなるまい。
金品強盗殺人に女犯。捕まえれば先ず獄門になるということだけは被害者の救いだろうか。幼い娘が居る身としては許しがたい悪党なので、結構なことではあるのだが、
(利悟の奴、泣きそうな顔で殺気立っちまいやがって。ま、仕方ないんだけどなあ)
と、同心の中でも一等に犯人に向けて怒りを示している部下を思った。一応注意しておかねば、捕縛のその場で殴り殺しかねない。
利悟にとって触れざる聖域とでも云う対象の子供が無残な目にあっているのだから、怒りも尤もなのだが。
もう、十四年ほど前になるだろうか、と美樹本は思い返した。
大久保の方に、妻子を持つ下級武士の長屋がある。独身者が住む長屋に比べて広く作られているそれは、同心や足軽などが家族ともども住んでいた。
丁度年始の頃である。雪が深々と降り音を吸い込むような静かな日に、その長屋は兇賊に襲われた。
ほぼすべての家では亭主は武士として年始の挨拶に出かけていた為に、残っていたのは妻や老人、幼い子供のみである。
もとより下級武士の住む家。しかも年の瀬に多く散財するのが通常であったため蓄えなどは殆ど無いと見るのが当然であった為、おそらくは怨恨により襲撃をしたのだろう。
多くの女子供が斬り殺された中、生き残った数名の子供のうち一人が利悟であった。彼を残して、利悟の妹や仲の良かった幼馴染の少女も死んでいたという。
(利悟が幼い子供に異様な関心を見せる癖はその時守れなかった事が心に残っているのではないか……)
と、美樹本は思いつつ、時折彼の娘用に甘い菓子などを買って来る利悟の手首などを捻り脅しをかけるのだったが。
白髪交じりの頭をぼりぼりと掻きながら商家の玄関口へ向かう。煙管が吸いたい気分だったが、さすがに仕事中は叱りを受けるだろう。
侵入経路を洗っている同僚の藤林同心のところへ行くか、と裏に回ろうと足を向けた時、道の向こうから馬に乗った侍と其の周りを囲む黒袴の集団がやってくるのが見えた。
「おっと、火盗改もご出勤かな」
調べのことを聞かれても面倒なので、玄関からさっと離れる。
庭にある小さな築山に面する塀の外に藤林は居た。
「よう。何か分かった?」
「あっ美樹本さん。犯人はここから、鉤縄を使って侵入したみたいですね」
「へえ……壁が結構高く見えるけど」
建物の二階ほどの高さがある、つるりとした壁である。上には盗賊返しという棘が設置されている。
「一人目が鉤縄で上がり、縄梯子を下ろして侵入させたようで。地面に残った蹴り足の跡はひとつしかありませんから」
「成る程ねえ」
腕を組みながら考える。犯人は被害者の証言に拠れば三人。中背が二人と大柄が一人。凶器として短刀を持っている。
報告された被害額だけで五百両を超える。これが金目的ならば、三人で山分けしても充分として江戸を売る可能性があるが、
(女を目的としてる奴は、犯行を繰り返す)
ことが、多い。金は物の序でといったところだろう。ここは大きな商屋だが、前にはもっと儲かっていない店も襲撃に選ばれている。
藤林同心が声を潜めて、かけてきた。
「そういえば利悟は?」
「ああ。聞き込みと、他に小さな女の子が居る店に注意喚起に回らしてる。客に化けて襲う店定めしてるかもしれないからねえ」
「怪しい客がこなかったか、って聞いたら真っ先に利悟の名が上がりそうで厭ですね」
「ま、打たれ強いやつだからなんとかなるでしょ。それにあいつとしては、ちっとでも体を動かして探しまわってないと気が晴れないだろうよ」
言いながら眉根を寄せて事件について考える。
再犯の可能性があるという事は、捕まえる機会が増えるのであるが、被害も増える可能性がある。また、人数が三人という少人数なのも、尻尾を掴むには厄介ではあった。
どちらにせよ、
「厄介じゃない事件なんて無いんだけどな、おい。そんじゃま、こっちは金の流れでも探るとするか」
呟いて、すっかり冷たくなった秋風が新しい傷に染みるようで、身を軽く縮こまらせた。
*****
「うまい」
と、父娘の言葉が重なったのを見て、
「そうか、そうか」
九郎は頷きながら蕎麦を啜った。
その日の、店を開く前に早めに昼食を取った時であった。
晃之助からまた狩猟した鴨を貰ったので、それを捌いて葱を加え、生醤油とみりんで甘辛く煮付けた。飯にも合うが、蕎麦汁にも甘みと味のある鴨の脂がじゅわりと溶け出して旨い。
冬となれば鴨南蛮がよかろうと思って作ったのだが、なかなかのものである。
今日の店の売りとして提供する。値段は少々高くつくが、[数量限定]という言葉が誘蛾灯になり購入を捗らせるだろう。
「さて、飯も片付いたら店を開けるか」
一足先に食い終えた九郎が、暖簾をかけようと入り口へ向かう。
戸を開けると、そこに空から落ちてきたかのように人が倒れていた。
いきなりの営業妨害に軽く挫折を覚える。稚児趣味が店先に落ちている蕎麦屋に誰が入りたがるというのか。
「おい、利悟。死ぬなら向こうに新しく出来た定食屋の飯を食いながらにしろ」
襟元を掴んで起き上がらせる。定食、という言葉はまだ出来ていないが、近所に店を開いた料理屋は旨くて量も多いと評判なのだ。嫌がらせをするならそこにして欲しい。
彼は疲労の残る目をしょぼしょぼと開けて、
「ううう……腹減った……蕎麦と少女の笑顔増し増しで……あっちの店はおばちゃんしかいないし……」
「まったく、仕方ないのう……」
多少嫌だったが店先で死人が出ると面倒であったために、利悟を店内に引っ張って座敷に放り込んだ。
「何はともあれ本日の客一号だ。六科、鴨南蛮と白い飯を出しておくれ」
「うむ」
への字口のまま頷いて、茹で置いた蕎麦の麺を湯で解す六科。もとより六科の手打ち蕎麦はコシは少なく、いい意味でもそもそしているので、茹でおこうが伸びようが然程変わらないという特性を持っている。
目元に黒く隈を作っている利悟の前に座り、それとなく訪ねてみた。
「今日はいつになくお疲れの様子だが、どうしたのだ。いや、下世話な理由なら言わんでいいが」
「あっ、そう見える? いやー疲れてねーんだけどさー全然。これじゃあ眠いのを隠して仕事してるように見えるかーいやー」
「興味はあんまり無いが。己れは鮒釣りにでも出かけるから」
「いやいやいや、ちょっと待って話を聞いてくれ」
手をとって引き止めてくるので、軽く振り払い懐から出したちり紙で拭い捨てて、とりあえず座り直した。
もはや慣れた汚物を扱うの如き反応に、利悟は心の中だけで涙する。
利悟が云うには、ここ最近の女児と金銭を狙った強盗の捜査をしていて、彼は犯行が行われる時間帯である夜間の見廻りを担当しているということであった。
しかしながら現状では手がかりが掴めていないので効率も悪く、奉行所としてもあまり人員は出せない。それに、利悟は、指示されたよりも長時間──日没から明け方まで休みつつ警邏を続けているという。
一日、二日ならともかく、何日も続けていれば当然利悟の疲労は溜まる。幾らか日中の勤務を都合して休みを取らせてもらっているとはいえ、非番の日でも夜間警邏をしているのだから、なおのことだ。
奉行所の方針と、利悟の方針に若干の違いがある為、人員は出せずにこのような事になっている。奉行所としては、日中の聞き込みや遊び場での捜査で犯人を絞り込み逮捕を狙っていて、利悟としては次の犯行を発生させないようにしたいのだ。
両立出来ればいいのだが、人員、特に同心の勤務時間の折り合いからも前者を優先させていっていると言っていい。なにせ、奉行所として取り扱わねばならない事件はこれ一つではないのだ。
こういう時に火盗改と歩調を合わせることが出来ればいいのだが、なかなか組織上の立場もあって、そうはいかないのが通例である。
「そうか……たまには真面目だのう。ほれ、暖かいうちに食え」
「ありがたき。……うまいなあ、これ……なんか泣けてきた」
「そうだろう。全部食ったら自白するんだぞ」
「わかりました詮議方ぁ……って拙者じゃないぞ!? 犯人は!」
否定の叫びを上げつつ、蕎麦と飯を食う。蕎麦を食ったら、飯を食う。蕎麦を食ったら──飯を食う。蕎麦とご飯のセットとはそういうものである。
「それで、己れに何の用が──ああすまぬ。聞いておいてなんだがだいたい分かった。手が足りぬから手伝えというのだろう。そして己れは若干渋りはするのだが、その案件だとお八も巻き込まれかねんから結局は引き受けるのだ」
「すごい勢いでやりとりを省略してくれてありがとう。いやあ、夜回りしてる同心は拙者と、今日からようやく増やして貰ったんだけど二十四衆風烈廻同心『犬神』の小山内しか居ないんだ。
小山内は火災用心で回るついでに手伝って貰う事になるんだけど……それで後頼める当てが九郎ぐらいしか居なくて……」
「手先とか目明しとか、そういう部下は居らぬのか?」
「不思議と拙者も小山内も居ないんだよなあ……なんでだろうか。拙者達、稚児趣味なことぐらいしか後ろめたい事無いのに」
「それが原因だ。っていうか二十四衆に二人も居るのか稚児趣味野郎が……」
新たなる稚児趣味登場の情報に、唾棄したくなる感情を覚える。
だからこそ少女が犠牲となっているこの事件に身を削って挑んでいるのだろうが……
「しかし何にせよ、己れは便利屋ではないのだから、普通はお主ら奉行所の手で解決せねばならぬのだぞ。其のために禄も貰っているのだろう」
「すまん……なにか礼ができればいいのだが、何分素寒貧でな……蕎麦代ぐらいは捜査費で貰ってるんだが」
音を立ててずずと蕎麦を啜る。同心というものは最下級の武士ではあるが、町に顔が利くことからうまく世渡りを繋げれば、副収入がそれなりに手に入るものではあるのだが、どうもこの利悟は性的嗜好の所為かその辺りのことには上手くやれていないようであった。
ともあれ蕎麦ライスセットを食い終えた利悟が、
「暮れ六ツ(午後六時ぐらい)の鐘が鳴ったら南町奉行所の正面にある煮売屋に来てくれ。警邏する場所を説明するから」
と、告げて、ふらつきながら奉行所の方へ戻っていった。昼間の捜査からは休憩を貰っているものの、書類仕事をしなければならないのだそうだ。
****
お房から「気をつけて」と声をかけられたので、
「お主らも戸締まりはしっかりとな。己れは適当に朝帰ってくるから」
と、告げて九郎はだいぶ薄暗くなった夜道を進んだ。まだ、暮れ六ツの鐘はなっていないが随分と日が落ちるのが早くなったものだと感慨深く思う。
人生の大半を過ごした異世界でも冬は日が早く沈んだことを覚えている。
理由は天体運行や自転公転の都合ではなく、冬季になると冬の太陽神が乗っている、太陽を引っ張り動かす馬車の性能が超高いので駆け抜けていくというファンタジーな理由だった。季節ごとに異なる太陽の神が居て、冬のは馬の嘶きを世界中に響かせて「いい音でしょう? 余裕の音だ。馬力が違いますよ」と毎年自慢している神だった。
あちこちに神が居たりする世界なお陰で風情がいまいちだった気がする。
懐かしい思いに浸りつつ、有楽原(現代で云う有楽町駅辺り)にある南町奉行所へ辿り着いた。
その目の前にある煮売屋[生駒屋]は、昼間の一刻と、後は夜に店を開いている食べ物屋で、立地から奉行所の武士や門番などもよく利用する、[御用達]の店である。
奉行所の者の行きつけとあれば、悪い連中は入ってこなく騒ぎも起きないので一般の客も多く訪れるようになっている。
「邪魔するぞ」
九郎は開けたばかりなのか、まだ客の気配のない店へ入った。
やはり中にはまだ客が居らず、人の良さそうな老人夫婦が笑顔で九郎を迎えた。
「やあいらっしゃい」
「利悟に呼ばれてきた者だが」
「ああ、菅山同心の……二階にいらっしゃいますよ」
「すまぬ」
軽く手を上げて堂々と二階に上がっていく九郎の態度に老夫婦は、
「見た目は小さいが……」
なんというか、偉そうというか物怖じしない雰囲気に軽く呆気を取られるのであった。
二階の戸が開いている部屋に行き着くと、そこには利悟ともう一人同心の格好をした男が居た。
年齢は利悟と同じほどだろうか。だが、比べると幾分線が細く優男のように見える。現代で云うならば人の良い美大生か理容師のような顔つきをしている、と九郎は感じた。
九郎に気づくと、優男から軽い調子で挨拶をした。
「や、君が九郎くんだね。僕は風烈廻の小山内伯太郎だよ。宜しく候う」
「む。己れの事は聞いているようだの。そうか、お主が同心二十四衆の、もう一人の稚児趣味……」
「稚児趣味って……利悟くん、また僕を同類扱いしてるな?」
彼は少しだけ眉を潜めて、人の良さそうな顔を利悟に向けて非難の言葉をかける。
風烈廻りと云うのは火災予防や不審者の発見を任務とした、見廻りが主な仕事の業務である。同心の定員が四人交代で昼夜それぞれ巡回しており、本来は上役の与力とコンビを組んで歩くのであったが、なんとか風烈廻り与力の飯島三彦──足早なことからあだ名がスタスタみっちゃんであった──に頼んで任務を借り出せたのだ。
夜に見廻りをするという仕事は同じであるのだが、範囲や時間が異なるからだ。
なお、伯太郎の場合、稚児趣味がどうというより最初から手先を使うような職では無いので部下が居ないのであろう。
他に利悟の同僚でそれなりに友人付き合いがある相手となると[警邏直帰]の水谷端右衛門同心ぐらいだが、こっちはサボり癖があるのであまり信頼できない。
ともかく、協力してくれる伯太郎は人当たりのいい柔らかな笑みを浮かべながら云う。
「僕は君と違って、女児にしか興味無いんだから」
「成程、それなら────いや、良くはない、良くは」
「小山内の、迷子だったり落し物をしたり一人遊んでたりする子に取り入る技能は江戸でも一等で」
「おまわりさーん」
「はい」
「はい」
「くそっなんて時代だ」
九郎は世の無情を思いながらぶんぶんと頭を振って、とりあえず部屋に入り座った。
三人が囲む真ん中に、おおまかな地図が置いてある。
「さて、この広い江戸を三人で回ると言っても無理があるから、場所を指示しよう」
「うむ……」
「まずは」
利悟は朱筆を取り出して千代田区のほぼ全域に大きなバツを書き入れた。
「この辺りは武士、それも旗本が多く集う場所だ。警備も番が厳重にしているから恐らく入り込めないだろう。これまでの事件でも武家屋敷には入っていないようだ。女の子が狙いだから当然だろうけど」
続けて伯太郎が品川の辺りを細かく朱で区切る。
「こっちは色街が多いから小さい子は少ない。大名屋敷も細川様の大きなのがあるからね」
「上野も吉原周辺は省いていいだろう。夜中までやっているのだからわざわざ選ぶとも思えない。浅草に回っていこう」
「勿論、本所なんかもね。ここは火盗改がうろうろしてたから僕達が行くまでもない」
「日本橋の本通りは厳重すぎる。盗めば一万両ぐらい行くかもしれないけど、そもそも拙者達でも夜中に入れないだろう」
「京橋は事件があったのだからそこ辺りは張ってみようか。畜生なら同じ所に入りかねない」
「……意外に、いや、意外でもないが、真面目だのう」
「当たり前だ」
「子供のためさ」
真顔で云う二人に、九郎も本腰を入れねばと話に入るのであった。
その夜にはそれぞれ、京橋界隈・牛込・浅草方面と別れて見廻りに出る事となった。
店の外で、
「お互いの連絡用に、これを連れて行くことにしよう」
と、伯太郎が店先に待機させていた三匹の犬を紹介した。
それぞれ犬種と名前が、柴犬の[浮舟]。
前田犬──加賀藩で猟犬として使われている、垂れ耳でがっしりとしたいかにも強そうな犬である──の[夕霧]。
子犬の[初音]。
「源氏物語……か?」
名付けの法則にピンときて利悟が云う。
「おっ、利悟くんそれぐらいは知ってるか。うちで飼ってる犬達でね、爺さまが源氏物語好きだったからさ」
伯太郎が云うには、彼の祖父は犬公方とも言われる徳川将軍、綱吉の政権下では[御犬様]の世話をしていたのだという。
犬を養う事に対して税を課したり、また動物虐待に対して厳しい処分を下した風説により当時まったく人気の無い将軍であったが、後年では野犬を管理することで咬傷の害を防いだり、一定の倫理観を江戸の民に敷いた事が再評価されているが、ともかく。
「なにせ僕の祖先は、あの有名な犬にまつわる[太郎]の昔話に関わる程だからね」
と、そこはかとなく自慢気に伯太郎は云う。
九郎が、ピーチなボーイを連想しつつ問いかけて、
「犬にまつわる太郎とは真逆あの……」
「そう! [しっぺい太郎]の!」
「……知らん」
「え? えーと[早太郎]とかも呼ばれてるけど知らない? あ、人が出ない方の話が有名だからかな? 光前寺の和尚が狒々退治に呼んできたのはしっぺい太郎を連れた男で、その後小笠原家に仕えたっていう」
「全然知らない」
「……まあいいや」
少し泣きそうな顔になっているので、結構持ちネタだったのかもしれない。九郎は若干不勉強を恥じたが、二秒で忘れた。
「とにかく、こいつらには特別な鳴き声を覚えさせているんだ。こうやって尻の辺りを撫でれば」
と、柴犬の浮舟の尻尾の付け根を伯太郎が撫でると、
オォ──……
とばかりにそこまで大きな音ではないが、よく響く、そして夜に鳴いていても気にされない程度の鳴き声が響いた。
「何かあったときにこれを鳴らせば、他の二匹も反応して現場に急行するようになっている。一人一匹連れて歩こう」
「ほう、凄いな」
素直に感心して呟いた。伯太郎もにこにこと笑いながら犬の頭を撫でて、
「犬ってのは結構賢いものなんだよ。じゃあ、僕は浮舟、九郎くんは初音、利悟くんは夕霧を」
「なあ小山内。本当に大丈夫なのかこの猟犬。狼のような眼差しで拙者を見ているんだけど」
「気に入られたんじゃない? ほら、撫でてみて」
「う、ううん……よぉしよし──痛あああああ!!? ほ、骨がああああ!!」
「信頼の甘噛みだって」
「骨まで来てるってこれえええ!! あっ」
腕に噛み付かれたまま利悟の体を軽々とぶん回す夕霧。前田犬の膂力は、熊を引き摺ったこともあると記録に残っている。特にこれは鍛えられているようで、犬耳を付けた前田慶次の如き迫真のオーラすら感じた。
あの調子で尻などに手を触れたらぶっ殺されるのではないかと思ったが、どうでもいいことではあると考えを棄却する。
九郎は渡された子犬を撫でる。目を細めて尻尾を振る、どこにでも居そうな犬で心が安らいだ。
「あっ、あっ、あっ」
地面に連続で叩きつけられている利悟の声さえ無ければ。
無視しつつ伯太郎が提案する。
「折角だから僕ら特務隊に名前でもつけようか」
「ちぃむ名というやつか。どういうのだ?」
「稚児趣味三人衆とか」
「ぶっ殺すぞお主」
何はともあれ、こうして三人の夜間警邏が始まったのである。
最初は一人で夜にぶらぶらと歩きまわるのは面倒だな、とも思えたが、犬の初音を連れているとそうでもなかった。
時折煮売り屋台などで休憩を取り、せがむ初音におこぼれを与え、犬の散歩と行った雰囲気で夜の江戸を歩きまわる。
少しばかり肌寒くなれば、胸元に初音を入れれば暖かくてなんともほのぼのとしてしまう。
途中途中で犯人探しなのだと思い直しつつ、九郎は歩き回った。どうせ昼間は暇なので寝てしまえばいいという無職特有の余裕もあり、夜更かし上等である。
江戸の町はあちこちに門があり、夜となると番が閉めてしまう場所も多いのだったが、無人らしいところはひょいと飛び越え、有人の番小屋でも[御用]と書かれた提灯を見せればすぐに通してくれた。
特に娘の居る番人などは、件の犯人捜索の為というと頑張ってくれと茶の一杯も馳走してくれる事もあった。
しかし明け方まで見廻りとなると、
「ま、一日で見つかるとは思わなんだが、結構大変だのう、初音」
「わっふ」
懐に入れた初音がくしゃみのような返事をしたのに、こそばゆくて笑いが漏れる。
とにかく、そろそろ暁七ツ(午前四時ごろ)だろうか。まだ太陽は見えないものの若干の明るさを感じ始める時間帯である。
一旦また[生駒屋]に集まる事になっていたので、九郎は犬の頭を撫でながらそちらへ向かう。
店の前には既に二人と二匹が集まっていた。
利悟は全身埃塗れで噛傷が残っている様なものの、持ち前の頑丈な体があってこそかとにかく元気に二足歩行している。
「おう、戻ったぞ」
「お疲れ様。というかこっちが大変だったけど」
「何かあったのか?」
「例の三人組の強盗とは別件の盗人を利悟くんが捕まえてね、危うく殴り殺す寸前だったみたいで辻番は大慌てさ。こんな同心の中でも最強級の[青田刈り]が夜回りしてる時に盗みに入ろうとするとは馬鹿というか……」
「利悟……別の悪党とはいえ、怪しいのを見つけたら連絡する約束であろう」
「いや……すまん。黒尽くめの盗人を見た途端、かっと頭に来て……」
「……ま、気持ちはわかるよ。でもね、件の犯人一味は三人組なんだ。下手に突っかかって取り逃したら目も当てられない、ということだけは覚えてくれよ」
「わかった……悪い」
「盗賊を一人捕まえたんだから、謝るのはそれぐらいで。それに僕だっていざ相手が犯行に及ぼうとしてたら我慢せずに挑むだろうさ。それが同心として間違ってたとしても、人としては間違ってなんか居ない」
「其の科白を云うのが稚児趣味でなければ尊いのだが……いや、稚児趣味でも立派だというべきだろうか」
九郎が若干悩みつつ、本格的に海の向こうから上ってきた日を見て、あくびを一つする。
「さて、とりあえず今晩はこんなものであろう。己れは帰るが……初音を返しておこう」
と、懐に入れていた初音の両脇を持って伯太郎に渡すと、「わっふ」と小さく鳴いた。
「うん……んー……九郎くん、夜間捜査の間、初音を預かってくれるかな」
「む? どうしてだ?」
「預かってくれるね。ありがとう」
「話を進めるな!」
「いや、初音が九郎くんに懐いているみたいだから。さすがに、利悟くんに夕霧は……」
ちらり、と目線をやる。
何もしていない状態ならばそれほど違和感なく見えるが、よく見れば利悟の足を夕霧が踏みつけている。
陰湿だ。
「無理無理無理無理。拙者にこれ預けるとか言ったら薩摩藩藩邸の近くで散歩するァ痛ったあああああああ!! 炒り豆感覚で噛むの止めない!? 馬鹿じゃないの!?」
「むっ。馬鹿じゃないよ夕霧は」
「犬馬鹿のお前に聞いてないよ! 絶対連れて帰って出来れば明日以降は別の犬を宛行えよ!」
文句を言いつつ前田犬の夕霧を押し付ける利悟。
不思議そうに伯太郎は首を傾げ、
「いつもは大人しい犬なんだけどなあ、夕霧。ははぁん、利悟くんから異常性癖を嗅ぎとったか?」
「お前も同類だよ!」
「僕に少年趣味はない!」
「似たり寄ったりであろう……さて、まあそういうことならうちに帰るか、初音よ」
言い争う二人を尻目に、九郎は子犬を連れて緑のむじな亭に足を戻すのであった。
*****
子犬の初音は騒ぎもなく、当然のようにむじな亭に入ってきた。
現代で言えば、食品を扱う店舗に動物を置くことは衛生上どうかと思われるところだが、当時にしてみれば鼠避けとして猫を飼っている店などはどこにでもあった。さすれば、犬を飼っていたところでどうということはない。
九郎が帰ってきて朝の汁かけ飯を初音に与えた所、がつがつと食っていた。ドッグフードなどは無いのだからあるものを与えるのが常識であった。
六科は持ち前の無頓着さで、お房も格別文句は言わず、大人しい初音を撫でまわして喜んだ。
朝飯をすぎればすぐに九郎は部屋で寝始め、一晩付き合った初音も九郎の隣で丸くなって寝た。その様子があまりに可愛らしいものだから、お房もごろごろと擦り寄って初音の安眠を妨害せんばかりに撫でていた。
初音は嫌がりもせずに時折、
「わっふ」
と、吹き出すような鳴き声を返すばかりであり、それがまた、
「くぁいい(可愛いの意味だろう)」
のだと、お房のみならず、長屋の連中も言っていた。
「犬公方ならぬ、犬九郎ね」
と、九郎と同じ生活スタイルを取る犬を見ながらお房は言った。晃之助がいれば笑ったかもしれない。
そんな生活を数日続けていた。
数日で随分、子犬の初音は九郎の生活に溶け込んだのであった。
そうして暫く九郎の夜間徘徊──と言うと老人性痴呆症にかかったようでマジへこみする──が続いたある日のことだ。
下谷の通りを九郎と初音が歩いていた時である。
進む影が見えた。人数は三人。闇になっている路地を警戒しつつ進んでいる。
(これは当たりであろうか……)
九郎は決して互いに見えない位置にさっと移動して、初音に連絡の鳴き声を上げさせた。
オォ──、と夜空に響く。
賊は其の音に周りを見渡す程度はするかもしれないが、つなぎの合図だとまでは気づくまい。
続けて九郎は懐の術符フォルダから[隠形符]を取り出して咥える。気配を最低限に抑えて、余程の使い手でない限り察知することは難しくなる魔法が篭った札だ。
懐に初音を入れたまま、盗賊の場所へ近づく。いざとなれば犬を吠え立てさせるだけで効果があるが、逃しては元も子もないことを留意する。それに、伯太郎の飼っている犬は訓練されている為にそうそう吠えることはしないという。
近づく。
相手は大柄な男が一人、中背が二人。
商屋の壁に、一人が手慣れた様子で鉤縄をかけて侵入するまさに其の時だった。
(襲うか……いや、邸内に入れたほうが逃げ出しにくくはなる……)
と、九郎は少し逸る気持ちを抑えた。
一人が塀に上り、縄梯子を下ろして二人招き入れる。九郎はその後を、軽く壁を蹴って上り追跡をする。
(ここに来るまでに二人はどれほど時間がかかる……? その間で、女を犯したり人を殺したりは充分か……!)
発見が遅かったとは言わないが、実際の所この三人の夜間警邏の面子では、ある程度悪党一味と対峙して戦えるという前提があるのは皆承知だった。
ならば、被害を出さないためにも九郎一人で立ち向かうべきか。
一瞬警察でも何でもない町人の自分が、と悩んだが、もしいま襲われんとしているのがお八であるのならと思えば躊躇することもなかった。
縦に並んで歩いている三人組。
九郎は音も無く駆けて。尖った右肘を構えて最後尾の大柄な男の左わき腹を打ち抜くように挑んだ。
暗殺のように、背後からひとりずつ、気づく間もない攻撃で沈める。その意気であった。
肘の打撃力は肋と肺を貫通して心臓に到達して、血液の急性不調を巻き起こして全身の血が思うように動かなくなり、声も出ずに倒れ伏す。そうなるはずであった。
が、
「うぬっ……!」
九郎は己の肘が相手の脇腹に刺さる瞬間。大きく開けた敵の左手に腕全体を使って掴まれるのを把握した。
人体の構造上怪しいレベルでねじり取ってくる相手の腕に、咄嗟に自ら体をねじって耐えるか、腕を諦めるかの選択をさせられた瞬間、九郎は左手で関節を取る相手の手を握った。
腕がある限り筋肉の筋がある。それの動きを阻害すれば力は伝わらなくなる。そこまで考えたかは判らぬが、敵の筋肉の隙間に容赦なく親指をねじ込んで筋をずらした。
連動して即座に弱まる拘束を、もはや砕けた関節を無視して蛇のように引っ張りとり、蹴り足を体に叩きこんで間合いから離れた。
右手は動かなくなったようだ。
奇襲は失敗し、被害ばかりが大きくなった。
(油断した……わけではない。偶然かもしれんが動きを読まれた。其の上に技に長けておる……)
痛みに堪えて呼吸をした拍子に、咥えていた[隠形符]が口から外れる。
九郎の存在感が増して、ゆっくりと振り向いた相手の目にも襲撃者として映った。
「おい、伊平。どうした」
「く、くっく。なんともまあ、妙な奴が突っかかって来やがった」
「……確かに。しかし、さっきまで音も感じなかったが」
「風が急に近寄ってきたもんでな、気づいたってわけだ」
大柄の伊平と呼ばれた男は嗜虐的に目を細めながら、片腕を砕かれた九郎を見下ろす。
九郎は油断なく左手で構えながら、懐に入れていた初音を地面に離す。隠形符の効果は、彼の周囲に纏う風圧にまでは作用されなかったということだ。それに気づくのも、かなりのものだが。
その勘働きを抜いてもあの奇襲で逆に反撃してくるとなると、
(つまりは……かなりの使い手。しまったな)
武器を持ってくればよかった、と歯噛みするが早いか、巨漢が膨らむような錯覚を覚えるほどの速度で接近。
上から叩きつける軌道で打ち込まれる腕を冷静に見てとり、九郎は左拳を腕の側面からぶっこんで殴り抜く。だが、丸太のような腕に衝撃が拡散したのか、即座に次の手を撃ってくる。
反対側の手でこちらを掴みかかって来るのを見て上体を逸し避け、左拳を戻す動きで正確に相手の太い親指をへし曲げる。あの関節を一瞬で破壊する動きを見るに、掴まれたら危険だ。
ぐ、と巨漢の爪先が庭の地面に食い込むのを見た。
(目潰し……!)
九郎が片方の目を閉じると同時に顔面に土が叩きつけられる。土を蹴りあげた勢いでまっすぐ打ち抜く蹴りが飛んでくるのを、閉じた目を開いて確認。
身を躱すがだらりと垂れ下がったままの右手に掠り、ぶちぶちと嫌な音が聞こえたが、無視して蹴ったままの体勢の敵へ一歩接近。正中線のいずれかを殴りつけようとした。
その時、巨漢の後ろからぬるりと現れた賊のもう一人が、抜き放った短刀を閃かせるのを見て体を急停止させ、仰向けに転んだように避ける。それでも胸元を浅く刃物が切り裂き、肌に熱いものを感じた。
背筋と手足の力を駆使して滑り這う動きで再び間を開ける。
「苦戦してるじゃないか。混ぜろよ」
「くくっ、この小さな用心棒はなかなか面白い」
嫌らしい笑みを浮かべている二人に、三人目がやや離れた所で冷たい言葉をかけた。
「さっさと殺せ。騒がぬところを見ると、俺達を捕まえるつもりで居るらしい」
(見透かされておるなあ……)
九郎は構えながらうんざりと胸中でため息をつく。
大声を出したりして騒ぎにすれば相手は逃げていくだろうが、それでは何のために探していたのかということになる。また、店のものが人質に取られる事態になっても困る。
手頃に相手が戦闘を継続してくれる程度には挑んで、応援を待たなくてはならない。
やはり武器を持ってくるべきだった。アカシック某でなくとも、木剣でもあれば随分と違ったのだが。また、玉石ぐらい敷いていないかと庭に注意を払うが、それも無い。
腰に付けている符フォルダから術符を取り出して、例えば雷属性の符をスタンガンのように使うにしても──
思うが早いか今度は二人がかりで仕掛けてきたのを捌き、受け止めていなす。どうしても符を使うには片手が塞がる為、一本しか現状使えない状況では攻め立てられれば不可能だ。
左右から来る相手の同時攻撃に優先順位を即座につけて対応。躱しきれないものは主に動かなくなった右手を肩の力で跳ね上げて盾にするが、其の度に損傷が激しくなる。殴られ赤黒く為ったかと思えば、切られて鮮血が走り、青くなる。
九郎は体格の差を嘆きたくなった。せめて同じ程度あればもう少し対応も楽なのだが。手足が短く、体重も軽いために蹴りは殆ど使えない。
(こんな腕前の奴らが揃いに揃って強姦盗賊とはな……)
殴りかかられた拳を逆に頭突きで迎撃して相手の手を潰し、酷く受け止めにくい位置から貫きに来た短刀を垂直に飛び上がって逃げる。顎を狙って空中で蹴りを打とうとするが、読まれているようなので即座に変更。軽く足場にするぐらいに相手の体を蹴って離脱。
着地地点に素手の巨漢が踏みつける動作でかかって来たのを水平に足払いするが、体格に似合わぬ軽快な動きでバックステップをして避け、再度の攻撃が狙われる。
振り下ろされた相手の膝を左手一本で捕まえて全身の力を利用し捻り砕く──プロレス技で言うドラゴン・スクリューへ持ち込もうとした途端背筋に冷たいものを感じて逃げる。やはり一瞬遅れて短刀が削ぎ落とす意図で振るわれていた。
一人ひとりならばなんとか、素手でも粘れば勝ちに持っていける相手なのだが最初に右手が砕かれた事と、二体一というのが不利へ傾けている。また、参戦していないが三人目もいつこちらに攻撃してくるかわかったものではない。
やがて、それから数度の攻防を経て、九郎は左手首を巨漢の男にがっしりと掴まれて宙にぶら下げられた。
「ぬう……!」
右手は使えない、左手は捕まっていて尤も力の出る掌が使用不能。また足場が無いために蹴りも威力が発揮されない。この状態では常人離れした九郎の剛力も、蝿を箸で叩き落す動体視力も無効化されている。
「手こずらせやがって」
幾度か九郎の攻撃を受けている筈の巨漢の男はニヤつきながら、拳を一発、九郎の腹にぶち込んだ。腹筋を固めて耐える。
殴った男の方が薄い眉を顰めて、
(なんだこの小僧、土壁を殴っているような腹の硬さをしてやがる……)
と、まじまじ拳を眺めた。
「伊平。遊びももう終わりにしろ。さくっと短刀で殺るぞ」
「あ、ああ」
(南無三……こうなれば)
九郎は覚悟を決める。この状態の相手に短刀を突き刺すのならば多少なり油断しているはずだ。体に刃が入った瞬間筋肉を引き締めて刃を絡めとり身の動きで相手の手からもぎ取って口に咥え、動きを封じている巨漢の手を切り裂いて脱出する。
出来るかどうかは不明だが、やるしか無い。筋肉を信じるしか。
そう思った時に、意識の外で動きがあった。
「ガアア!!」
喉の奥底から唸りを上げた怒りの叫びと共に、九郎が地面に離していた子犬の初音が巨漢の手に噛み付いたのだ。
いかに子犬といえども本気噛みである。そしてそれが偶然、神経のいいところに当たり一秒程麻痺を引き起こさせた。
それを逃す九郎ではない。巨漢の顔面に蹴りを叩き込んだ勢いを持って腕から抜け出し、離れる。
だが、
「ちいいい、犬っころがああ!」
刃物男の振るった短刀が、腕に噛み付いたままの初音の首を薙いだ。
白い毛並みに粘り気のある血が飛び散る。
噛む力は失われて、初音は地面に落下。その途中で、巨漢が忌々しげに蹴りを入れて鞠のように吹き飛ばされ、飛び退った九郎の近くにある石灯籠にぶつかった。
初音はもう動くことは無くなった。
「すまぬ」
酷く、先ほどまでその子犬を入れていた胸元が寒くなった気がした。九郎は初音が倒れた側に屈みこんで、
──片手で石灯籠を引っこ抜き持ち上げる。
武器を手にした……。
己の体ほどもある石の塔を肩に担いで、いつも眠そうに半分閉じている目も見開き、ぎょろりと盗賊を睨む。
異様な姿であった。武器というにはあまりに歪で、重量がある。大金棒を構えた鬼のようだ。
三十貫(約112kg)はある石柱を持ち上げるだけならまだしも、振るうことなど人間には出来はしない。
はったりだ。巨漢が引き攣った笑みを漏らした。あまりに現実離れして、持ったままつかつかと無造作に近づいていることすら馬鹿げたことのように──
思った、瞬間見えない速度で振るわれた石灯籠が巨漢を横薙ぎにぶん殴った。内蔵を痛め骨が折れたのか、具合の悪い音を立てて吹き飛んだ男は吐血して痙攣している。
振るった石灯籠を、ぶおんと風切り音を出して再び肩に担いで構える。みしみしと鳴る音は石の軋みか、九郎の左手の筋肉が千切れていく音か。
全身血で汚れた九郎の目だけが情の欠片もないぞっとする眼差しで、残りの二人を捉えていた。
「ひっ……」
「ば、化けもん……」
そう言って二人は一目散に侵入してきた方へ逃げ出す。
追い掛ける気力と体力は九郎に残っていなかった。どん、と乱暴に石灯籠を下ろす。
体が寒いのは、血が失せただけではないと感じた。
塀を飛び越え外に出た二人は左右に別れて逃げようとしたが、左右の道を[御用]と書かれた提灯を持った男がそれぞれ塞いでいた。
「奉行所だ。神妙にしろ」
「洒落臭え!!」
ようやく化け物から逃げたばかりの身としては、相手が奉行所だろうが火盗改だろうが、あれと戦うよりは幾分もマシだという判断と、それぞれ一人ずつ相手にすればいいのだという驕りから短刀を出して襲いかかる。
驚くべき速度で繰り出される短刀の一撃を、
「地獄へ落ちろ、腐れ外道が」
吐き捨てるような声と共に、利悟は抜き放った刀で腕ごと切り落とした。
正法念流の目録が許され、実際の実力はそれ以上だと評される[青田刈り]利悟。子供の敵にかける情けは無く、怒りも含むその実力では九郎が苦戦する相手でも一刀で決着をつける。
叫びながら汚らわしい血をまき散らす相手に、
「死なぬ程度に血止めはしてやる。斬首になるまで痛みに悶えて、死ねい。あの世で、手にかけた者にわび続けろ」
吐き捨てた。
この盗賊に襲われた少女の中には、未来を絶望し首を括った者もいる。その死体の目を見た。なんで死ななくてはいけないのか、理不尽を嘆いた涙の跡が残っていた。いつも馬鹿だ変態だと言われる利悟でも、我慢ならない事がある。
それでも、法の裁きも与えずに楽に殺すことは許さぬという強い意思が殺害まで至らずに、激情を飲み込んだのだ。
「これで少しは、安らかに眠れるだろ……そうなってくれよ、せめて」
死んだ誰かにか、生きている誰かにか、或いは其のどちらにも思ったのか、そう呟いて刀を収めた。
一方で[犬神]の伯太郎に向かった相手は、見たところ体も大きくない優男風だと見て一突きで殺そうと向かったのだったが、
「夕霧、[顎砕き]だ」
指示と同時に一本の矢となって走りだした前田犬の夕霧が、強烈な頭突きで賊の顎を砕いて地面に叩き伏せた。
熊を狩る犬の容赦無い一撃にはとても人間など耐え切れぬ。犬は人の良い友だが、普段は其の力を大きく抑えている。本気を出したら人などはとても及ぶ力ではないのだ。
伯太郎は顔を手で多いながら震える怒りの声を上げる。
「そうか、初音が死んだのか……」
近くまで駆けつけていた彼と犬は、九郎を助けて死んだ子犬の小さな断末魔を感じていたのだ。
まだこれから育っていく、もうすぐ一歳になる賢い犬だった。初音と名付けたのが原因か、変な鳴き声しか出さずにみんな笑ってしまう可愛い犬であった。
このような役目につけたのだから危険はあると承知だったが、悲しみは別だ。
「浮舟、[斬首廻し]」
が、と怒りが篭った唸り声を上げて柴犬の浮舟が、顎が砕けて倒れた賊の首に牙を突き立てて、ずるりと一周回し首の皮を引き裂いた。
だらだらと首から血が流れ出る。大きな血管は切っていないが、恐怖から砕けた顎で叫び声を上げ続けた。
続けてやれば首を致命まで傷つける技だが、それで終えて伯太郎は極寒の眼差しで相手を見て静かに告げる。
「今は殺しはしない。精々、初音の痛みを死の国まで持っていけ」
奇しくも、その賊が初音に斬りつけた首の傷と同じ位置であったという……
番屋から人を呼んできて男どもを連行させると、三人は調書を取る前に邸内で初音の骸を取った。
襲われるはずだった商屋の者に布を貰ってそれで包む。
伯太郎に九郎は謝った。
「すまぬ、己れを庇って……」
「いいんだ。初音も、自分で考えて、自分の決断で九郎くんを助けに行った。命を失ってもさ、だから、頑張ったなって褒めてやってくれ」
「うむ……」
九郎は布越しに子犬の、硬くなった体を撫でてやった。
初音が命がけで九郎を助けなければ殺されていたのは九郎かもしれない。しかし、もっとしっかり用意をしていれば……最初からなんらかの武器で襲撃をかけるようにすれば……あるいはこんな犠牲は要らなかったかもしれない。
しかし、そうはならなかったのだと後悔を胸先に納めて、ただ勇敢な相棒に礼を云う。
「ありがとう」
くしゃみのような、初音の鳴き声が聞こえた気がして、それはもう聞けないのだという事実が寂しかった。
伯太郎は泣いていた。
「でも、僕は、死んで欲しくは無かったよ……」
大の男が、男泣きに泣いた。
九郎と利悟は暫く何も言わずに、立ち尽くしていた……。
*****
件の悪党を捕縛した事により、利悟と伯太郎は解決の殊勲として南町奉行大岡忠相から金一封を拝領した。
九郎には何もなかったが、そもそも九郎は別段奉行所の手先というわけでなし(どちらかと言うと火盗改所属だと思われている)そもそも手先の上げた功績は上司のものになる構造なので当然ではある。小者への褒美は、上司が直接ねぎらうようにしている。
それでも事情をそこと無く聞いている大岡忠相も利悟に、
「怪我をしたその[若手練]にも褒美を与えておくように」
と、言い聞かせたという。
捕まった三人は、武士崩れが二人、九郎と戦った巨漢の方は元力士であった。素行不良なものが三人揃って悪事を働いていたようで、たっぷりと責めを受けて余罪を白状させた上で市中引き回しの後、首を小塚原の刑場に並べられた。
一方の九郎はと言うと全身傷だらけな上に右手を骨折している為、お房から酷く叱られた。お八からも叱られた。将翁からは失笑されて治療を受けて、石燕には虐められ散々であった。
居なくなった初音は、持ち主に返したと告げることしか九郎は出来なかった。お房はとても残念そうにしていたのだが。
こうして一件落着であったのだが、数日して九郎と稚児趣味同心二人は、あの日助けた形になる商屋からお礼がしたいという連絡を受けた為に行くこととなった。
九郎は腕を包帯で巻いて添え木して吊ったまま、暇だったので出かけた。
正面から見ればなんとも立派な大店である。あまりこういう大きな店に私用で立ち入らない為、同心は尻込みしているようだ。
看板に[鹿屋]と書かれているが、様々なものを扱っている店のようだ。茶や煙草、砂糖などもある。
「ここは確か、薩摩との交易品を扱う店じゃなかったか」
と、利悟が解説する。あまり薩摩にはいい印象を持っていない伯太郎は鼻を鳴らした。
「よくいらっしゃいました」
店先にでっぷりとした主人が出迎えて来た。涼しい秋口だというのに何処か暑苦しい印象を与える、色黒の男だ。
何処かで見たことがある、と九郎は思ってまじまじと眺めた。
すると向こうから気づいたようで、
「おや、貴方様は確か首塚絡繰屋敷で……」
「あの時の薩摩人か。そうか、そうであったな。確か名を鹿屋黒右衛門……」
納得して頷く。
謎の怪奇事件が発生した嵐の孤島での絡繰屋敷。その現場に居合わせた事があるのだ。九郎と石燕は事件がややこしくなる前にさっさと脱出したので顛末は知らないのだったが。
にこにこと笑いながら彼は店へ三人を招く。
「その節はまた……さ、皆様方どうぞお上がりくださいませ。僭越ながら食事を用意しております故」
と、言うので三人とも客間へ通されてついていった。
そこで改めて盗賊退治の礼を告げられ、それぞれに十両の礼金を渡す辺り、かなりの太っ腹である。
これは安月給の同心にしてみれば大金であるために、ありがたく受け取った。
その後も薩摩藩から用心棒の剣士でも雇おうかなどと雑談をしていると、やがて食事の準備が出来たようで運ばれてくる。
大きな土鍋を部屋の真ん中に置いて、囲んで食べるという方法である。
当時の食事は、個々人の取り分をそれぞれの膳に持って出されるのが普通であったが、薩摩藩では大鍋や大皿に盛ったものを囲んで食べるという大陸風の食事方法が好まれていたらしい。
島津家の食卓でもそうするのが珍しくなかったという。
「さあ、熱いうちに食べましょう」
「鍋か。何の鍋だ?」
黒右衛門は大きく頷いて手を広げて言った。
「精がつくように、犬鍋を用意しました!」
「お前ーっ!」
「こんな時に犬をなーっ!」
「鍋になーっ!」
すごい勢いで三人から苦情が出たという。特に、伯太郎は「薩摩滅ぶべし」と叫びながら泣いて走り去った。




