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挿話『蠱毒な散歩者の無想』

 

 とにかく、物心が付いた頃から周りが馬鹿と穢らわしい物に見えて仕様がなかった。


 洟垂れ遊ぶ同年代の子供も、その親も、偉ぶる侍や地主も、それに蝗虫のみたいに頭を下げる連中もである。

 一番、厭な人物はただ唯一の肉親の母だった。彼女は日々を暮らすために春を鬻いで金を稼いでいる。毎晩知らぬ男と肌を重ねて、僅かばかりの金を手に入れているのは子供心ながら薄汚れた気がして、顔も合わせたくなかった。そして、そんな母が稼いだ金のおこぼれに預かるようにして生きている自分の現状が更に嫌になって、時々、意味もなく吐いた。

 少年は父の事は知らない。恐らく、母も知らないだろう。今までに抱かれた何処かの男の胤なのだろうが、それを知る意味も無いと思えた。だから聞くこともしなかった。

 子供だというのに一日中、このような気分が悪くなることばかり考えている自分に嫌気が差して、有り体に言うと捻くれて育った。


 彼の名前は雨次。何処にでもある不幸を享受しつつ、ことさら己が特別に不幸だと信じている、まあよくある少年であった。


 ともかく、雨次は出来れば家を飛び出して旅を枕にしたいと思っていたが、十と二、三年ほどの年齢しかない餓鬼の如き体ではそれも不可能だと知れた。一里ばかり歩くのに一刻も二刻もかかってしまう。

 そこまで身体が優れているわけではないのだ。

 母が稼いだ金で作った、重湯のような粥に塩と大根を入れて食うのが主な食事だった為にそこまで成長していないのだ。 

 同い年で農家の娘である、お遊という名の娘に背まで抜かれている。おのれ。きっと何も考えていないから、地面の下に伸びていく大根のように背も伸びるのだと逆恨み気味に思ったりもしていた。

 ある日のことである。

 彼は農家の子ではないので、昼間農作業をしているわけではない。しかし、家も嫌いなので出かけて、小川の側か木の影で一日中過ごすことが多かった。


 五月の新春の頃。

 其の日はふらりと足を伸ばし、千駄ヶ谷から代々木近くまで歩いて行った。

 目的があったわけではない。

 ただ歩いて、また同じ道を戻ってくる。それだけの気まぐれだ。

 どの程度の距離を歩けるか確かめる算段はあったかもしれない。草臥れて休憩しなければならない距離まで歩き、そして戻ってくるだけの実験である。

 その地点が代々木の、道沿いに打ち捨てられた廃寺であった。


 熱を持ち既に太腿の辺りが腫れたような苦痛を感じたので、限界と知ってそこの中で休憩をすることにした。

 廃寺と言うが大きさは物置小屋のようなもので、狭い一室だけある家屋だ。

 入るとそこは、蚤に食われそうな古びたむしろが敷かれていて、部屋の隅に長方形の小さな箪笥みたいなものが置いてあるだけであった。

 背負う紐もついたそれは、薬売りが持つ薬箪笥であったのだが、雨次はそのようなことを知らない。

 子供故の好奇心からか、何気なく箪笥の引き出しを開ける。


 一つの引き出しには乾燥させた草や、異臭を放つ粉末が小分けされて入っている。

 もう一つには小判──雨次は見たことすらなかった──が丁寧に包まれて入っていた。見たことはないが、噂には聞いたことがある。雨次は思わず唾を飲んだ。

 そして一番下の引き出しには冊子が入っていた。

 当然、雨次は本など読んだことは無かったが、引き寄せられるように本を手にとって開き始めた。

 それは文だけの書ではなく、様々な植物の写生が描かれている図鑑のようなものである。雨次は字は読めないが、詳しく注釈が書かれている。

 図鑑、というような本がある事も雨次にとっては初めての経験だった。

 絵、というものをしげしげと見るのもこれが最初かもしれない。

 この本の持ち主が直接紙に筆で書いたと思しき、精巧な図画が何頁も大量に描かれている。人間の手と墨が、世界をこのように紙に写し取るという概念も初めて知った。

 記されている意味はまるでわからないが、不思議と魅了された。小判の包よりも。

 興奮したまま、どれだけの時間、本を捲り絵を見ることに費やしただろうか本人はわからなかった。

 その洗礼のような儀式は唐突に、外から掛けられた音の振動という声で遮られる事となった。


「おや」

 

 無心で見ていた雨次の耳にやけに響いた、低く重い声だ。

 

「盗人が小判を数えているかと思えば──本に夢中とは」


 その言葉で雨次は現状を理解した。

 物を盗む気などなかったが、ここに置かれた箪笥は明らかに他人の所有物であり自分は物色していたのだ。 

 彼は慌てて、本に落としていた視線を廃寺の入り口に向ける。

 開け放たれた障子の先、薄黒い雲がかかった背景にやけにくっきりとその人物は居た。

 年の頃は老人と言ってもいいだろうか。声は壮年程度に聞こえるが、腰のやや曲がって手足が枯れ枝の様に細く筋張り皮が弛んでいる。薄汚い法師の格好に身を包んで背は低く、ぼさぼさに伸びた髪は灰色にくすんでいた。

 そして何より目を引くのはその顔面には、黄色の隈取が描かれた、上部が炎のような造形をしている赤の面を被っているのだ。

 妖怪──雨次はそう感じた。

 雨次が口を半開きにして呆けていると、赤法師はゆっくりと彼に近寄り、小さな耳をがさがさの指で摘んだ。


「読んだのか?」

「……あ、え──」

「ふむ。この矮小な耳の穴では聞き取れないかと思ったのだが、やはり理解も出来ないか」


 見た目と違い、ヒビ割れても掠れても居ない整った低い声は雨次の耳によく響いたが、あまり人と会話をすることにも慣れていない為に咄嗟に声が出なかった。

 雨次はなにか、背中に怖気を感じて必死に言葉を思い浮かべて口に出す。


「読む……読み方、分からなくて……字とか読めないから……」

「成程」

 

 法師は雨次の耳を離して、平坦な声音で続けて言葉を投げかける。


「それは良かった。もし読んでいたら君を殺さねばならないのでね」

「ええぇ!?」

「ちなみに、耳から毒薬を流し込んで殺すつもりだったが──ああ、勘違いしないでくれ。この場合の良かったというのは、君の命が助かってよかったのではなく、無駄な薬を使わずに済んで良かったという私の事情だ」


 破棄された予定を感慨もなく淡々と話す法師に、雨次は気が動転して言葉を失う。

 耳を摘んだのは話を聞かせるためではなく、そのまま殺すためであったようだ。どうでも良さそうに殺されかかった雨次はどうでも良さそうに見逃されたのだ。

 雨次が持っていた本を取り返して頁を閉じる。

 表情の窺えない奇面を雨次に向けたまま、云う。


「書かれた内容を記憶していないのなら、君のような虫けらに概要を教えても別に構わないのだが──いいかね? この本に書かれている事は毒草・毒花・毒木・菌毒・生態毒・毒鉱とそれらを調合した毒薬について、私が研究し記録した毒書なのだよ」

「ど……く……だって?」

「ああ、一応言っておくが、頁を捲った手を嘗めたりしないほうが良い。紙の一部に砒霜を塗ってあるから死ぬ──この場合の良いというのは、死体の処理が面倒だから私にとって都合が良いということだが」

 

 雨次は砒霜──砒素の事である──という毒についての知識も無かったが、とにかく己の指先に危険なものが付着したのだと、相手の低く染み渡るような声で悟った。白痴にでも愚者にでも、強制的に話の内容を理解させるような邪な魔力が声から感じられる。

 忠告はしてきたものの、何故か法師は雨次を追い出すような事はしなかった。

 何故、何故──とにかく、目の前の非現実的な存在に対して疑問が沸く。そもそも面の男とか凄まじく怪しい。

 雨次は疑問の言葉を喉の奥から鳴らす。


「毒の本なんて……なんで作ってるんだ? 危ないものだろう」

「ふむ? 君のような頭脳が侘しい存在でも毒が危ないということぐらいは知っているようだ。まあいい。君にそれを教える理由はないが、尋ねられた事を応えない理由も特に無い。いちいちそのような事を訊いてくる相手は珍しいのでね」


 法師は面の口元に手を当てて、軽く頭を傾げながら続けて云う。


「書を作っているのは知識の保存。長年生きていると記憶という存在に信用が置けなくなる。大事なことは外部に保存しておいたほうが便利だ。その点、文字というものは良い──この場合の良いは、まあ楽だということなのだが」

「歳を取って物忘れが激しくなったから記録してるのか」

「若いころはこのような小細工は要らなかったのだがね。森の木の数も、空に見える星の数も、浜に打ち上げる波の数も全て記憶出来たが、室町の世を過ぎた辺りから次々と前の事を忘れ始めた時は我ながら少々焦った。

 人の内面は無限だという輩もいるがね。名家の出した命題を知ってるかい? 限りなく大きい物には外など無い、というものだが、脳髄という膜に覆われている生物としては限界を感じざるを得ない」

「は……?」


 雨次が呟くが、些少な事であるとばかりに法師は気にしなかった。


「ま、知識はいつでも再度手に入れることができるからいいのだがね。一番の理由は呪さ」

「[呪]?」

「君のような麻屑同然の頭では理解できないかもしれないけれどね。薬というものは作り方を明確に記したほうが効果が上がるのだよ。呪に名前をつけることと同じだ。関与した言霊が効果を明確にする。存在概念が確定することで影響を明白にさせる。因果に認証を行わせる為の儀式だ」

「……」

「そして毒を作る理由は簡単だ。毒を欲しがる人間が居るから作る。ただそれだけ」

「毒なんて欲しがる人が、居るのか?」

「無論。何時の時代でも何処の国でも、必ず。それが居る限り私という概念が許される。薬を求める人間の為に居る、薬師のように」

「……よくわからないな」


 雨次はかぶりを振った。

 法師は何故か嗤ったようだ。声を上げずに、軽く二三度肩を震わせた。


「さて、君と出会ったことも何かの縁。君も、随分心に毒を溜め込んでいるようだ。黴の生えた蛙のようなその眼球を見ればわかる」

「ぼくの心に毒……?」

「太平の世というが最近は子供の方が病みやすい。この前も、仇討ちを探しているとか云う劣った品性の子供に、軽く切っただけで死ぬ猛毒を売りつけてやったが」

 

 法師は面をずい、と雨次の顔に寄せた。

 間近くで見ると隈取の文様が凶悪に歪んで見える、不吉な面に雨次は息を止めた。近くで見ると殊更、妖気めいた恐ろしさを本能的に感じる奇怪な面だ。

 

「周りが自分より下劣に見えるだろう?

 どれもこれも下らないつまらない禍い物にしか感じられない。

 馬鹿と同じ空気を吸っているだけで気が滅入る。

 無駄な人生を送っている連中に耐えられない。

 価値が無いモノが溢れて本物など何処にもない」


 法師から放たれる、毒と火薬の危険な匂いがする吐息で思考が奪われていく。


「なあ──そんな風に君を思わせている輩は消したほうがいいのではないかな?」

「う、ううう」


 早口でも無いのに、次々と浴びせられる言葉に雨次は頭がおかしくなりそうだった。

 見透かされてる、と思った。法師が喋っているような語彙は無いのだが、いつも彼が考えている事をそのまま羅列されたようで──酷く浅ましい気分にさせられる。

 法師は黒い碁石ほどの薬がざらりと入った、重々しい字が表面に書かれた巾着を雨次に手渡す。


「誰でも構わないさ。価値の無いモノを一つ二つと数えるだけ哀れだ。

 全てを捨てれば後は自分が決めた、価値のあるモノを拾っていくだけの世界だ。欲しがっていたのはそんな世界だろう?  

 この薬をひと粒ずつ哀れなモノの口に放り込んで別れればいい。井戸が村にあるかね? それなら随分楽だ──この場合の楽というのは、君のやるべきことだ。

 代金は使った分量だけでいい。払うのはすぐでなくとも、どうせいつか必ず取り立てに来るから気にしないでくれたまえ」

「うう」


 疫病神が顔を寄せて、渦巻いた眼球を向けてくる。もはや、雨次には呻くことしか出来ぬ。

 それにしても、なんと禍々しい面だろうか。地獄の炎でもここまで歪ではない。火の面がぐなり、と燃え盛っている様に感じた。


「もう恐れるな夏の日照りを。荒れ狂う冬の寒さを。

 この世のつとめを果たし、十分な報いを得て、我が家へ帰る。

 今をときめく男も女も、塵払い人のごとく、みな塵に帰る」

「うわあああ!!」


 雨次は弾かれたように、廃寺から飛び出した。巾着袋を握りしめたまま。

 法師の言葉はわからないことばかりの筈だったのに、自分が何をするように言われたのか、どういう結果になるのか、それだけは強制的に理解させられてしまった。その事こそが、吐き気を催し背筋を切り開かれ脊髄に彫りつけられたような、異常な悍ましさに雨次は駆り立てられる。

 妖怪どころではない。

 あれは死神だったと、後に知識を得た雨次は思った。


 逃げる雨次の背中に法師の笑い声が響いた。





 ****


 



 どれだけ走ったか正確にはわからないが、少なくとも代々木から一里以上離れた自分の村まで止まらずに走れるとは思えない。

 しかし休んだ記憶もなく、かと言って走っている間の事もよく覚えていないまま、いつの間にか雨次は村外れまで辿り着いて、ようやく立ち止まり小川の近くでへたり込んだ。

 ベタベタに汗を掻いていて気分が悪い。心臓と言わず内臓全てが早鐘を打っている。

 そして、今だ握ったままの巾着に目を落とした。

 おどろおどろしい文字が書かれた袋に入れられている毒の粒。

 これを村の井戸に放り込むだけで、何もかもおさらばできるという。誰も自分のような子供が毒を放り込んだなどと思うまい。それだけで下らない村から離れることができるかもしれない。

 そうでなくとも、己の憎む母の膳に一粒盛るだけで……

 ぶるり、と雨次は身を震わせた。そして、思い出したように本を触った手を川で念入りに洗う。肌が妙な変色をしている気がして、怖かった。

 

 近くの石に座り巾着を見続けて、混乱した頭を復帰させ息が整った頃合いだ。

 不意に日が陰った。


「あれー? 雨次、何してんのー?」

「うわっ!?」


 いつの間にか目の前に立ってこちらを覗きこんでいたのは、近所に住む幼馴染の少女、お遊だった。

 慌てて咄嗟に巾着を懐に隠し、もつれそうになる口を発音の形に無理やり変えて、言葉を吐く。


「い──いきなり話しかけないでくれ! 驚いただろう」

「? だって、こないだ話しかける前に背中叩いたら『いきなり叩くな、まず声をかけろ』って雨次怒ってたじゃーん」

「時と場合によるんだよ!」

「もう、我儘な子ねー」

「なんでぼくが聞き分けがないみたいな態度なんだ……」


 実際そうであったが、あまり認めたくなかったので、当然彼は考えを棄却した。

 お遊がいつも変わらぬ、何が楽しいのか雨次にはさっぱり理解できない笑顔のまま更に顔を寄せてきた。


「それより今、何を隠したのかー?」

「なっ、別に何も隠してなんか居ないよ」

「嘘。ははーん、さては雨次、わたしに隠れて飴でも食べるつもりなのね! ずるい!」

「違う、にじり寄るな!」


 怪しげな手つきで雨次の体を探るお遊に、必死に抵抗する。

 毒薬なんて持っているのが見つかったら大変な事だ。鼠を殺そうとしていた、では済まない。誰から受け取ったのか厳しい取り調べの後、まあ概ね死罪だと雨次は思った。

 しかしながら、力はお遊に敵わない。女子の方が成長が早いというが、背の丈はほとんど変わらぬ上に彼女は農作業の手伝いをしている為、日頃何もしていない雨次より力がありそうだった。

 困り果てた雨次に救いの声がかかる。


「お遊ちゃん、駄目だろう人の物を無理に取ろうとしたら」


 ぐい、とお遊の襟を掴んで引き剥がす。

 呆れた顔で見ているのは地主の末娘である根津小唄という少女である。年の頃は雨次と同じなのだが、しっかりもので大人の手伝いをよくしていたり、年上から年下まで多くの子供の顔役のような事をやっている人気者なので、根が暗く人付き合いが苦手な雨次にとっては、幼馴染というほど付き合いのない相手だ。

 というか雨次は、金持ちの子で見た目も良い社交的な相手は嫌いだという、卑屈な心を持っている。

 雨次の一段階増して濁った視線の先で少女二人が会話している。


「うーあー。ネズちゃんの石頭大権現! きっと雨次は、わたしに内緒であまーい飴をしゃぶり尽くそうとしてるのに」

「本人が違うと言っているのだ。友達の言うことを疑ってはいけない」

「えー? そっかなー?」


 お遊が頭をゆらゆらと動かして疑わしげに云う。 

 そして小唄は雨次の前に立ち、腰に手を当てながら友好的な笑みを浮かべ、


「君が雨次だな。私は根津小唄。よければ一緒に遊ばないか?」

「いやぼくは少しばかり忙しいからまた今度ええと出来れば二三年後ぐらいに」

「なんか年単位で断られた!?」


 その反応は小唄にとってもショックだった。

 硬直している小唄を無視して、雨次は立ち上がって軽く埃を払いその場を立ち去ろうとする。

 小唄は慌ててその袖を引張る。

 

「ま──待ってくれ。何か気に食わないことでもあったのか?」

「別に。ぼくと遊ばなくても君は友達が沢山居るのだから別にいいだろう。というか地主の娘なのだから、外に出かけずに月に涙し風に囁きかけて感受性豊かな詩でも作っていればいいじゃないか」

「地主ってもただの村娘だからそんな優雅な生活はしてないぞ!?」


 雨次は金持ちにも偏見があるようであった。金持ちがいるから世間は貧しくうちは後ろ指さされている生活なのだと思っている。

 彼が年の割に妙に語彙が豊かなのは、精神が少々躁気味な母親が家に居る間ペラペラと喋る言葉を覚えたのだろう。母も学は無いが、仕事柄言葉は良く知っているのだ。

 お遊が言葉を挟む。解説するようで、思いついたから喋ったような。その二つにどれほどの違いがあるかわからないが。


「ネズちゃんはねー雨次がいつも一人でぼやっとしてて寂しそうだから誘いに来たんだよ? 雨次と遊ぶのわたしぐらいだからさー一緒に探してくれって」

「ほう……それはまた、さすが人望があって心優しさを他人に分ける余裕のある小唄さんの情け深い事……」

「お、お遊ちゃん!? 余計に睨みつけられてるんだけど私何か悪かったかなあ!?」

 

 妬みの心を相手への敵対心に変換して睨め付ける雨次に、困った顔でおろおろと小唄は戸惑う。

 心優しい人間は信用しないというのが雨次の考えである。優しくするというのは相手を見下す行為だと信じていた。根拠はなかったが、反証があったところで耳を閉ざす程度には確かだと。

 無駄な被害者意識である。有用な被害者意識があるかは不明だったけれども。

 ねちっこい目で小唄を見ながら、雨次はいった。


「だいたい、ぼくが一人で他の子と遊べな……遊ばない理由だって、噂になってるのだから知っているだろう」


 自虐気味ですらあった。

 彼が根暗に育った要因として、周りの子やその親からも、夜鷹が産んだ父無し子だと知られていることがある。

 子供同士の間でも虐めが起こり、石を投げつけられたり罵られたりした結果、雨次は一人で過ごすようになったのだ。お遊だけは少々頭が悪いのか、雨次が追い払っても他の子供に一緒に虐められても無理やり絡んでくるので彼はもはや犬猫のようなものだと認識している。

 小唄は腰に手を当てて胸を張り、きっぱりという。


「知っている。だがそれがどうした! 文句を云う輩は私が説教してやる!」

「……」

「どんな偏見を持っている相手でもしっかり話しあえばわかってくれる。だから一人で居ないで一緒に遊ぼう。そのほうがきっと楽しい」


 悪気も引け目も無い、純粋な目で彼女は云う。


「雨次、友達になってくれ!」

 

 どうやら、それが正しいと信じているようでひたすらに雨次は己の機嫌が悪くなっていくのを感じた。

 今までに自分を迫害した相手とは二度と分かり合えないというのが彼の持論である。

 たとえ小唄の説得で、多少なり距離が縮まったところで、


(小唄のお情けで付き合って貰う関係に、なんの価値があるのか)


 想像しただけで手にもつ毒を呷るか、井戸に放り込みたくなってくる。

 確かに小唄は善意で孤独な雨次を救おうとしているのだが、人の悪意ということに関しては良い育ちで良い暮らしをしてきた彼女よりも、卑屈に世界へ恨み事を垂れ流していた雨次の方が敏感だ。

 小唄は正しい事を言えば相手も正しい反応を返すことが当たり前だと信じている顔で、続ける。

 

「なあ雨次。人嫌いならまず三人で遊ぼう。そのうち慣れて友達を増やし──」

「いらない」

「え?」

「それは、価値の無い」


 雨次は踵を返して、早歩きでその場から立ち去ろうとした。

 胸に無形の澱みが溜まり酷く吐き気がする。

 これは毒だ。


「な、ちょ、ちょっと待て雨次、どうしたんだ?」

「……雨次ー」


 小唄が追いかけて引いた袖を無言で振り払う。心配そうに呟いたお遊の声は聞こえなかった。

 突然──という程ではないが、耐えられない顔をして何処かに去ろうとする雨次に、動転した小唄が問いかけた。


「すまん、悪かった。なあ、どうすればいいんだ!?」

「……」


 雨次は立ち止まり顔だけ振り向いて、泣きそうな小唄に吐き捨てる。


「構わないでくれ。売女ばいたの子がそんなに哀れに見えるか」


 あっさりいって、雨次はもう振り向かずに立ち去った。

 果たして同情に価値が有るのか、雨次にはわからなかったが、もしそうだとしても、


(縋ってなどやるものか)

 

 生まれてきてから何度も覚えた、決して稀有でない憤りに似た想いを浮かべて、当たり前だが足早に家に戻った。




 ****


 


 日が暮れれば眠る。おおよそ当時の生活では当然のようだったが、雨次もその生活を送っている。

 暗闇の家に一人だ。もしかしたらもっと小さい頃は泣いていたかもしれない。だが慣れればどうということはない。諦めれば、なおさら何ともない。

 母親は夜にはあまり帰ってこない。訂正すれば殆ど帰ってこない。お世辞にも江戸の市中から近いとは言いがたいここまで仕事帰りに帰ってくるのが億劫なのだろう。大抵は朝方に帰ってくる。町に夜鷹仲間と共同で寝泊まりできるぼろ長屋があるらしいが、行ったことはなかった。

 明日の朝にはいつもの様に早起きして、飯と味噌汁を用意するのが雨次の唯一の仕事だ。

 帰ってきた母親への食事と、自分の一日分の食事だ。煮炊きをするのは朝の一回。品目は変わらない。米と味噌、干した青菜のようなものだけは母が町から買ってきてくれる。

 暗闇の中、持ったままの巾着袋を取り出し、目には見えないが掲げて考えた。

 中には恐るべき毒の粒が入っている。全て井戸に放り込めば、この集落などは全滅させられるだろう。あの死神が言ったのだからまず間違いなく。


 雨次は思う。

 世界には無価値なモノが多すぎる。およそ自分が関わるものには、正しい本物など存在しないのだろう。

 今まで出会った全ての禍いモノを捨て去れば、或いは幸福なのかもしれない。

 法師に摘まれた耳が酷く熱い。気になって触ると、腫れているようだった。もしかしたら爛れて腐っているのかもしれない。あり得る話だが、想像はしたくなかった。

 その耳に昼間にあった法師の言葉が蘇る。

 そして身震いをした。

 母が嫌いだった。粗暴で、穢らわしく、自分が被っている不幸の大部分はあの女のせいだと判断する。

 ならば──それを殺して、何もかも解決し、幸せになれるのだろうか。

 わからない。

 年の割に少しばかり知恵が回るが、知識も経験も少ない雨次にはわからない事が多すぎた。

 

(結局何がしたいんだぼくは)


 寝相を変えて溜息を付く。

 手の中には誰でも殺せる凶器がある。

 憎い母がいる。

 いろいろ悩んだが、その二つを直結させれば単純な答えにしかならない。

 

(明日、母を殺そう)


 そのことだけ決めてしまえば、何故かすっと眠りに付けた。

 悩むのも、恨むのも、妬むのも、期待するのも疲れた。

 ただ、雨次は疲れていた。



 


 *****

 

 

 

 簡単だ。

 鍋に作った味噌汁に薬を何粒か溶かして入れた。

 後はこれを、朝帰りの母に飲ませるだけだ。いつも帰ってきては朝飯を要求するのでなんの疑いも無く毒を飲み干すだろう。

 それで終わりだ。

 終わらせてどうしたいのかはともかく、とにかく世界は変わる。思えば、自分の意思で何かを変えようと動いたのはこれが初めてかもしれない。

 毒鍋をかき混ぜながら暗い達成感が心を蝕むのが、むしろ小気味良くさえ思える。

 そうしていると家の戸が砕け散らないことが奇跡に思える、凄まじい音を立てて蹴り開けられた。毎朝の事である。予め戸を開けて待機していたら、わざわざ外から閉めて蹴り開けてくるので無意味だ。

 

「おぉーっす、帰りやがりまくりましたぜこのトンチキがあああ」


 母だ。

 実は雨次は、母の名前を知らない。わざわざ子供に名乗る母も居まいし、母を名前で呼ぶ子供も居ないとなればどうやって世間の子は知っているのか不思議に思えた。

 ぎょろりとした目つきをした女だ。性格も良くはないし精神も若干危ない方へ飛んでいる。雨次はよくわからないが、体だけはそれなりに整った客受けの良いものなので夜鷹として生活ができる程度には稼いでいる。

 意図的に悪くしているとしか思えない眼光を彼女は家に入り次第、竈で朝食を作っている雨次へと睨みつけ、近寄ってきて荒々しく肩を掴んだ。


「雨次? お前は行方不明だった雨次じゃないか! 帰ってきてたんだねえええええ!!」

「そんな覚えのない感動をされても」

「うるせえええ!! こんな飯が食えるかああ!!」

「あっ」


 文字通り意味不明な勢いのまま、母は毒入りの味噌汁が入った鍋を窓から放り捨てた。

 精神テンションが可怪しい人間の行動に論理性を求めてはいけない。雨次の鬱々とした思考とやけっぱちの勇気から行われたザ・暗殺計画は無意味に頓挫したのである。ザ・という程でもなかったが。

 しかし自らが食うものを放り出してどうするのだろうかと疑問に思った雨次は、母が手に持っている桶に気づいた。

 彼女は意気揚々に、


「今日は奮発してすっぽんを買ってきたっていうか……へへへっお前中々やるじゃん。ああ、お前もな……」

「一人で完結されても」

「つーわけでえええ、今日は朝からすっぽんの雑炊にしまああす! わあい体にいいね! 恐ろしいほど!」

「ある意味恐ろしいよ」

「じゃっ、おれぁ外でこいつらをぶっ殺し死骸を刻んでシメてどっちがテッペン張ってるのかわからせてくるからよおおお……ちょっと待っててね? あっ痛っ! こいつ指噛みやがった! 死ねっ! 大丈夫……! 怖くない……! 死ねっ!」

「わけがわからないよ」

「ん? おおおおおいいいい! 留五郎!」

「誰だよ」

「耳が膿んでるぞしゃあああ!」

「痛あああ!?」


 がり、ぐちっという音が雨次は耳元でマジ聞こえた。

 母が耳たぶを噛みちぎった音である。容赦無く、獣のように食いちぎった。怖ろしいし、一部損失した耳の寒さに血が引いた。

 彼女はぺっと肉片を吐き捨てて、


「豚にでも食わせてろ!」


 と、言いながら亀を連れて母は外に出て行った。

 いつもながら彼女の言動と行動と精神が露ほども理解できない雨次は頭を抑えて、小さく首を振るのであった。

 噛みちぎられたはずの耳たぶは、本来痛いはずなのにそうも感じず、ぞっとするほど冷たいだけだった。

 酷く気分が沈みながら、少なくとも今日は毒を盛るのはやめようと思った。

 すっぽんは滅多に食べられるものではないのだ。

 

「あーいひひ血! 甘~い生き血ぃぃぃ!! ぺろぺーろうへへへ」

 

 外から聞こえる嬌声に、明日こそは殺そうと思いながら。




 ****



 

 翌日は作った毒味噌汁を捨てられ、


「今日は蛤の潮汁だぎゃあああ!!」


 と、作りなおさせられた。毒殺失敗。

 翌々日は雨次が朝起きたら、


「あら、雨次おはよう。すぐに朝ごはんできるから、顔を洗ってきなさい」


 と、にこやかに朝食を作る母を見てショックのあまり嘔吐した。不安にかられて畑の土とかを口に放り込んだ。

 その次の日は、


「おぼろえええげええろお……味噌汁とか飲めるかアホがあああ! 寝っるわー!! お前も寝ろおえええ」


 酔いが酷い母親に捕まって酸っぱ臭い抱擁を受けながら二度寝を強要させられた。毒鍋には嘔吐物を入れられた為破棄した。

 更に、


「こんな味噌汁が飲めるくあああああ!!」


 一口も飲んでないのに普通に暴君風に投げ捨てられた時少しだけ「ああ普通の反応だ」と安心した自分に気づいて雨次は嫌気が差した。

 何処かまずい流れだったのでその翌日は毒を盛らずに普通に味噌汁を作ったら、


「そうそうこれこれ……花鰹の出汁が効いてていいね……やるじゃない!」

 

 お湯に味噌を直接ぶち込んで溶かしただけの水溶液を啜りながら美味そうに批評をされたりした。


 日替わりで精神異常の方向性が入れ替わる母に翻弄されているうちに、とうとう毒薬はあと三粒にまで減ってしまっていた。

 深刻そうな、あるいは投げ槍な気分で河原に座り込んで頼りない毒薬を意識する。

 ここまで役に立たない殺人の道具がかつてあっただろうか。

 河原の石ですらまだ殺傷力がある気がする。彼は適当に掴んだ石を川に放り込みつつそう思った。

 そうだ、殺すというのならば何も貰った怪しい毒薬でやらなくてもいい。 

 昼間、寝ている母を錆びた包丁で刺せばいいだけの話だ。

 そうでなくとも、味噌汁に毒を混ぜるという迂遠な方法を取らずに、鼾を掻く口に放り込めばいい。

 なぜあんな手段を取ろうとしていたのか。うんざりと考えて当然のどん詰まりへ辿り着く。


「……ああ、なんだ」


(ぼくも、死にたかっただけなんだな)


 二人分作った味噌汁は、母だけ飲むわけではない。

 母が嫌いで、其の次にか、それ以上かはわからないが、自分の事も嫌悪している。

 雨次は袋から黒い粒を一つ取り出して、己の口に放り込んだ。


「……甘い」


 恨めしい程に甘美で、泣きたくなる。

 どれぐらいの経過で死ぬのだろうか。せめて死ぬまでは舐めていようと思った。

 そうしていると、背中を叩かれる。


「雨次見っけ」

「……お遊」


 声をかけてきたのは母以外でほぼ唯一言葉を交わす事がある、お遊だ。

 いつもならば気に障る、彼女の爛漫な笑みも死ぬと決めれば感情を揺らすようなものではなかった。

 少女は、ぽむふ、とばかりに雨次の隣に座った。

 

「雨次さー」

「なんだい」

「甘いものって好き?」


 質問の意図が掴めなかった。唐突に何を聞いているのだろうか。

 いつもならば適当に濁した返事を返すのだが、丁度現在は口に甘みがあったので、考え応えた。


「最近、まあ好きになったよ」


 思い返せば、これ以外に甘い菓子などは食った記憶が無い。

 

「そっかー、わたしもお菓子は好きなのね!」

「ふうん」

「つまりわたしと雨次は趣味が合う友達ってことよね!」

「いや、なんでそうなる」


 渋面を作るが、何も気にしないようにお遊は笑っている。


「そもそもお前と友達になった覚えはないぞ」

「ふふーん、雨次ってば、[とも]って字を知ってるの?」

「……いや」


 文字など習っていないので知るはずもない。

 江戸時代の識字率は高かったと言われているが、農民などではその限りでない。言葉自体は母がぺらぺらと口に出すので知っているのだけれども。

 文字を知らないのはお遊もそうであるはずだが、


「[とも]って字はこう書くのよ!」


 と、木の棒で地面にたどたどしく、[友]という漢字を書き記した。

 控えめに見ても馬鹿なこの幼馴染が文字を書いたことに驚きを感じて、まじまじと見つめる。


「この字は、二人の人が同じ方向に手を向けている形を表してるって[てんしゃくどー]は言ってたわ! だから、同じ方を向いて、同じものを好きな人は友なんだから」

「む……」


 どうやら阿呆だと思っていた相手は自分より知識人だと示されているようで、意外やら妬みやら微妙な感情が混ざり合う。

[てんしゃくどー]とやらの事は雨次は知らない。わざわざ隠居している儒学者の老人に、この娘が勉強を学びに通っているなど想像もできなかった。まあ理由の半分は、茶菓子を食いに行っているのだったが。

 

「だからわたしは友達!」

「はあ……」


 深くため息を吐くが、どちらにせよ、そろそろ毒が効いてきて死ぬ予定なのでもうどうにでもなれと軽く手を振った。


「わかったわかった、お前は友達だ」

「ん。じゃあネズちゃんも友達ね?」

「なんでだ」

「ネズちゃんも甘いの好きだもん」

「ぼくは甘いのって肥えに落ちた餅の次ぐらいに嫌いになった」

「男が言葉を覆さないの!」

「痛い」


 ぐに、と頬を摘まれて半目で呟く。

 どことなく目の泳ぐ雨次を覗きこんで、お遊は尋ねた。


「ネズちゃんのどこが嫌いなの?」

「どこっていうか……」


 一度、言葉を切って、


「ああいう金持ちで性格も器量もいい輩は天然で人を見下してくるから。友達になろうって言ってきたのだって、優しい自分に酔ってるんだろう」


 偏見の篭った小者臭い考えだ。

 それでも、十と少しばかりの年を生きてきた彼がそんな考えを持つ程度には、恵まれていない環境ではあった。

 お遊は雨次の正面に回って、ぐいと両方の頬を軽く引っ張った。

 何をするのかと文句を言いたかったが、喋れない。真っ黒で濁りのない彼女の視線を真っ向から受ける。これもまた、苦手な眼だ。


「ちっがう。ネズちゃんはね、単に雨次の事が好きだから、友達になりたかったんだって!」

「はあ? すき? 小作人に欲しいのか?」

「雨次って結構頭悪いよね……まったく、いい? ネズちゃんは雨次と仲良くなって一緒に遊んだり手とか繋いだり口吸いとか……」


 したり顔で何やら語り出したお遊に凄まじい速度で走ってきた小柄な影が、小脇に抱えて連れ去っていった。

 近くの木陰で様子を窺っていた、根津小唄である。長い髪を振り乱し、顔を真赤にしてあっという間に拉致に成功。会話を中断させた。

 雨次に声が届かない場所で下ろして、


「だあああ! ちょっとお遊ちゃあああん!? なにを勝手に雨次に吹き込んでるんだ!?」

「? だってネズちゃん、雨次と仲良くなりたいって」

「行き過ぎだから! 進みすぎ! そこまで言ってないだろう!」

「えー」


 不満そうな声を出すお遊の肩を持ってがくがくと前後に揺らす。

 小唄の顔は完全に茹だっていた。

 雨次と仲直りというか、仲作りというか、とにかく嫌われたのをなんとかやり直して友達になりたいとお遊に頼んだのは小唄だったが、そんなに直接的に好意を行為にしたいとは言っていないのだ。

 仲良くなりたい、即ち好きだということだろうと解釈したお遊の独断専行である。

 だが、突然現れてお遊を連れて行き怪しげな密談を始めた彼女に対して、


「ああっ!? 雨次から凄まじく何らかへの疑い深い目線が!」


 やや離れた場所にいる彼女へねちっこい睥睨の眼差しが送られている。

 あまりの恥ずかしさのあまりに行動を起こしたが、それが余計に不信感を招いたようだ。

 もはや彼の目には独り法師相手に精神攻撃を仕掛けてきている女としか映っていないだろう。


(だが、それでは駄目なのだ……)


 ぐ、と拳を握って、小唄は雨次に歩み寄る。幸い、彼は逃げたり去ったりしなかった。

 不機嫌そうな眼差しを向けてくる彼に云う。


「こんにちは、雨次……さん」

「……なんだい? 地主のお嬢様」

「お願いがあってきました」

「ぼくは君の願いを叶える便利な存在じゃないよ」


 誰かの自尊心を満足させるための添え物などでは決して無い。

 そう思わなければつまらないこの世界では生きていけない。たとえもうすぐ死ぬのだとしても。

 口に入れた甘露に、苦味を感じた気がした。

 小唄は真剣な顔で言う。


「友達に、してください」

「……」


 以前に聞いた時と、若干言葉の意味合いが違って聞こえた。

 初めてあった時に彼女はこういったのだ。


『友達に、なってくれ!』


 と。

 友達に[なる]というのは、雨次が彼女に遜って友達の地位を手に入れるということだ。

 友達に[してくれ]と頼むのは、雨次の許可によって彼女を認めるかどうかである。

 主体が違うのだ。

 漠然とそれは理解できたが、何故この地主の娘は、他の大人から褒められ、子供達に慕われている少女は自分のような売女の息子にそれを頼むのか全然判らなかった。

 明らかに利点よりも不都合が多い。

 理解できない行動に、確かに雨次は動揺して、問い返した。


「なんでそんなことを頼むんだい?」

「雨次の親がどうとか、他の人がどうとかじゃなくて、私が雨次と仲良くなりたい……それだけなんだ」

「だから、なんでぼくと!」

「わからないけど、そう思ったんだ」


 彼女は困った顔で笑みを作っていた。笑ってはいたが、何処か泣き出しそうな顔でもあった。

 そんな彼女の後ろから飛びつくようにして、お遊が顔を出した。


「だーかーらー、そういうのを好きだって云うんだって! 誰かを好きになるのに、理由なんか無いー!」

「そ、そうなのかなお遊ちゃん」

「……」


 雨次は、毒のせいか考えも何も回らなくなってきた気がして頭を振った。

 酷く気持ちが乱れている。理解できない相手の思考に飲まれて、具合が悪くなりそうだ。

 誰かに好意を向けられることなど無かった少年の、心の処理能力は限界だった。

 好きだなどと誰にも言われたことは無かったのだ。

 母にも。

 

(……紛い物の世界か、どうか)


 喉がひりつく。毒が回ってきたのだろうか。

 わけが分からぬまま、やけっぱちの気分になってきた。

 もうどうでもいいか、死ぬのだから。


「……これ」


 彼は目を背けながら、毒の粒が入れられた小袋を二人に見えるように差し出した。


「あげるよ。甘い」

「あっ! やっぱり黒あめを持ってた!」

「……ありがとう、雨次」


 にっこりと小唄は微笑んだ。彼から認められたような気がしたのだ。

 雨次はどうしてその毒を渡したのか、自分でもはっきり説明できそうにない。

 ただ、渡した。なんらかの結果を求めて。

 二人はなんの躊躇いも疑いもなく、黒い毒の礫を口に放り込んで舐め始めた。


「うん、黒あめ甘いね」

「黒あめだからな」


 しかし、どうも二人が[黒あめ]と連呼するのが気になり、


「……黒あめ?」


 と、聞くと、お遊が袋に記された文字を指し示して、


「ここに[黒あめ]って書いてるじゃない」


 当然のようにそう告げた。

 なんらかの、模様か文字らしきものが書かれているのは雨次も知っていたが。

 彼は字が読めなかったのだ。

 その雨次が毒の入った袋だと聞かされ、そう信じ込んでいたものは、四ツ谷の街道沿いにある菓子屋[豆仙]で売っている黒あめの袋だった。

 

「……読めるのか、字」


 もはや頭が真っ白になった雨次から出たのはそんな、どうでもいい疑問である。

 小唄はともかく、お遊までひと目でわかるそれを知らなかった自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。

 お遊は腰に手を当てて自慢気に、


「てんしゃくどーのところで習ってるからね! 当然!」

「私も最近通っているのだが、大した先生なのだぞ」

「うん……そうか……」


 気が滅入ってきた雨次は勢いなくそう呟いて、


「ごめん……少し具合が悪いから家に帰る」


 肩を落としてぐったりと歩き出す彼の背中に、少女たちから声がかかった。


「? 変な雨次」

「そうか、ええとその……またな!」

  

 背中にかかる声に返事を返す気力も無い。




 *****




 家に向かって歩く足取りは重く、頭が厭になるほど傷んだ。

 苦味を感じる飴は溶けて消えたか飲み込んでしまったか、口には粘膜にこびり付いたような気配だけが残っている。

 毒を飲んだわけではないというのに、病にかかったようだ。

 思えば、あの妖怪じみた怪人には飴の袋を渡されて謀れただけの話だ。それを真剣に悩んで、毎日味噌汁に混ぜて溶かしていた姿は、愚かで滑稽だっただろう。

 あるいはただ、飴の袋を拾っただけの己の脳が創りだした幻覚だったのかもしれない。


 前に思ったように、殺すのに毒などいらない。自殺するにも、毒など飲まなくともできる。

 ただ、他の選択肢を取れるような度胸など無かっただけだ。

 憎しみも決意も足りなかった。


(結局は何もかも、どうでも良かっただけなんだ、ぼくは)


 全てが無駄に思えて、引きつるような笑みが顔に浮かんだ。

 生きるも死ぬも殺すも真剣に付き合えない。一番つまらないのは、自分だと思った。

 

「おや?」


 声が響いた。幻聴だ、と考える。

 だが否定する脳髄に染みこんでくる、低くてよく通る声だった。


「何処かで見た贄だと思ったが、生きていたのか」


 頭蓋骨が鉛に変わったように重い頭を、どうにか上げて視線を伸ばした。 

 目の前に、赤い仮面を被った法師が居る。

 死神──若しくは疫病神だ。

 法師の全身から漂う毒と火薬の臭気に、目が霞んだ。


「薬は……全部使った。飴、だったんだろう」

「ほう。その僅かな脳味噌でよく気づいたな。半分正解するとは、君のような灰滓にすれば僥倖の結果と言える」

「半分……?」


 彼は近寄り、面を雨次の顔に寄せた。

 硝煙の臭いが、鼻につんとくる。


「袋は其の辺りで売っていたものを使ったがね。ほんの数粒だけ、飴を混ぜただけで後は本物の毒だったのだよ。そして──君自身がそれを飲んだようだ」


「……え」


「だが全て使って誰も死んでいない。致死量を飲んだ君すらね。そして因果の芥、縁の屑でしかない君と再び出会った……たましいの接触を持った存在は互いに干渉し合うとはいえ、この運命力は面白い。

[百鬼酖毒]を探しに来て、なんらかの干渉により今だ誕生しえていないと知ったときは無駄足かと思ったが……成程、成程。このつながりの為か」


「それはいったい……?」


「ふむ、[百鬼酖毒]のことかね? 近しい未来に於いて江戸で生まれる呪毒のことだよ。占術予測ではそろそろの筈だったのだが……ま、暫くは関東に留まり機を図るとするが……」


 次々と繰り出される、理解できないのに強制的に脳に刻まれる言葉に歪な負荷がかかり、雨次は意識が遠のきそうになるのを必死に堪えた。

 仮面が変わる。次々と蠢き入れ替わり、凶相を浮かべた邪悪な病魔の顔が喜んだように雨次を凝視する。


「薬のお代はいずれ頂こう。全てを使い切った君には、特別な対価を。

 心配するな、金ではない。命でもない。ただ、土に埋もれて笑う愚人の白骨が如く安心しておきたまえ。

 ふむ……[雨次]と云うのだね。たましいの契約は[サンニヤカー]の名に於いて、今この場で交わす。異存は無いだろうか。無いだろうね? 宜しい、喜べ」


「……何を言っているんだ……法師……」


「契約だ。私も名乗っておこう。いずれ因果線が重なるときの為に」


 もはや、雨次は自分が立っているのか寝ているのかすら体の感覚が薄れているのに、気づくことすら精一杯だった。

 相手が幻覚なのか、実在するのかの確認すら覚束ない。ただ、内蔵全てに肉喰らう蛆虫が植え付けられた悍ましい痛みと、脳髄を砂糖で煮込む背徳的な吐き気しか感じない。

 毒を、飲んだのだ。

 二転三転と結論を改めて、そう思った。

 視界にすら映らなかったが、仮面の男が名乗る言葉だけは心に無理やり彫り込まれた。


「私は仏の法に生きるに非ず。人の法に従うに非ず。故に[無法師]」


 崩れる己の世界の中で、飴を舐めたあの友達二人は、大丈夫だっただろうかと場違いに心配し、意識は赤く塗りつぶされた。




「[道摩無法師]と云う──」




 とある初夏の日──雨次は、[それ]に出会ったのである。




 *****

 

 


 それから。

 雨次の意識が目覚めた時、自宅の寝床に寝かされていた。意識が戻ってからまる二日、体は殆ど動かなかった。

 その間はだいたいずっと母が世話をしたという。奇声を発しながら粥を作り食わせ、体を拭き、排泄の処理をして、熱を出し傷んだ雨次を撫でて過ごした。

 妙な叫びは四六時中だったが、この二日間、彼女が怒鳴る事も罵る事も無かったのに気づき……

 また、昼間にお遊と小唄がやってきて、寝込んでいる雨次に驚き見舞いをしていったが、二人が毒に倒れていないことに安堵した自分を見つけて、ため息が漏れた。

 体が治る頃にはもはや、母を殺そうとか、友達など下らないとか、思わなくなったという。

 捻くれた考えが直ったわけではない。ただ、もう殺せはしないだろうと諦めただけである。機会を逃してしまえば、わざわざ人殺しなどという面倒なことに執着する気力は沸かなかった。

 

 雨次は、二人の勧めもあって天爵堂の私塾へ通うことにした。

 知識がお遊に比べて負けているという僻みもあった為にむしろ素直に三人、授業を受けるようになった。

 あの日見たあの妖怪と、かけられた言葉の意味を知るために──文字という呪を手に入れる。

 天爵堂の教えが良かったか、雨次の頭脳が適していたかわからないが、すぐに文字の読みを覚えて、彼は本を読めるようになったらそれに没頭した。

 そして月日は過ぎて──




「九郎さんに言われた通り芋と南瓜の煮込みに蛸飯を作ったら、うちの母が三日ぐらい上機嫌で」

「そうであろう、そうであろう」


 千駄ヶ谷の屋敷にて、主の天爵堂と将棋を指しに来た九郎は盤面から目を離さずに応えた。

 時折九郎はこうして天爵堂の家に土産を持ちつつ将棋や碁をやりに来る。実力がそれなりに伯仲している相手であり、茶も高級なものを持っているからだ。それに何処か気質が似通ったところがあるのか、割りと落ち着く間柄である。

 温くなった茶を一口飲みつつ、考えを少しでも巡らせる為雨次へ声をかけたのだ。

 その日も雨次はいつも通り、天爵堂の家であたかも自宅のように勝手に本を読み漁っている。書痴という点では、まるで天爵堂の孫にも思えた。

 少し前に九郎も関わったのだが、母からの虐めと余計な手出しをした玉菊のタマにより精神的にダメージを負った雨次に数日前、とりあえず母と和やかに過ごすためのアドバイスをやったのだ。

 単純に女の好みのご馳走を用意してもてなせばいいというだけの事だったが。

 とにかく、成功したようではあった。芋と蛸と南瓜の効果は高い。


「急に優しくしてくるからびっくりして茶碗とか噛み砕いてしまって口が痛い」

「なんでそれに対する反応が悲惨になるのか」

「九郎、次の手はまだかい?」

「ええい、待たぬか」


 天爵堂の本を片手に読みながらの催促の言葉に、唸りつつ顎に手を当てて悩む。

 どうやら劣勢のようであった。最初に将棋に精神コマンドを導入するルールを提案しておけばよかったかと後悔し始める。

  

「それで余った分をお遊と小唄に分けたんだけど、それ以来二人の正気が失われてお遊は四六時中つけ回すし小唄はびっしりと紙が真っ黒になるまで書かれた文を送り付けてきてとても怖ろしいのでなんとかして欲しいんだ。胃が痛くて昨日から重湯しか食べてないし」

「なんでお主の周りの女は面倒な事になるのだ?」

「と言うか、こういう時は図々しく頼むのに無駄に精神が弱いな、君は」


 九郎と天爵堂が呆れた様子で、不出来な弟子を見るように少年へ視線を送った。

 芋、蛸、南瓜の力から少女二人を解き放つ方法を考えなくてはいけないのだろうか。面倒そうに顔を見合わせる。

 なにかそれらの印象を打ち消す強烈なものでも飲ませば良いだろうか。


「確か将翁から貰った死ぬほど苦い胃薬があったような……」

「ああ、それなら僕も貰ったよ。嫌がらせみたいな苦さの。最初貰った時は毒殺する気だと真剣に警戒した。一応凄い効くのだが。あれを飲ませば百年越しの嬉しさだって消滅するだろうね」


 天爵堂が手の届く範囲にある小さな薬箪笥を引っ張って、白い紙に入った薬包を取り出して、雨次に渡した。

 友達二人に怪しげな薬を飲ますことに対して嫌な過去からの引け目を感じるが、とりあえず受け取る。

 九郎はやれやれと頬杖をつきながら、


「幼馴染二人とリア充しているかもしれんが、あれぞ。複数の女子に気を持たせるような事をしつつ鈍感系で好意に気づかずに程々付き合ったまま関係を深めていくような事はするでないぞ」

「そんな間柄じゃない。ただの友達だ」

「はっはっは。鈍感なやつほどその言葉を云うのだ」

「……ヒモの君が云うと説得力があるような無いような。とにかく、早く次の手を」

 

 苦い顔をして、天爵堂が呟いたので、すかさず「ヒモではない」と九郎も否定の言葉を返すのは忘れなかった。

 それにしても。

 あの日、あの仮面の男に植え付けられた、目には見えない毒。それを晴らす薬はあるのだろうか。

 最近は前ほど不満も屈辱も無い生活をしているが、何処か、これから先の未来に於いて何かが大きく口を開けて待っているようで、嫌な予感だけは尽きなかった。

 雨次は、とにかく今は知識を得ようと、持っている本の頁をめくるのであった。





 余談だが苦い薬を飲ませた事により二人の少女から今度は苦情を受けた雨次は、心労による胃痛でまた引きこもる事となったという。


 その際、自分もその胃薬を服用したのだが、以前に飲んだ毒が和三盆の菓子に思えるほどに舌を抉る苦味であった。

 九郎から教えられたことわざ、[良薬マジ苦し]という言葉を反復して、飲んだことを軽く後悔した。

 





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