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32話『暗夜行路(後編)』

 熱海・海岸町の砂浜に舟が打ち上がっていた。

 小さな個人所有の漁船である。船上で篝火が焚かれていたが、倒れたのか大きな焦げ跡が残っているが舟としてはまだ使えそうなものであった。

 それの周りに土地の漁師たちが集まり、暗いな顔つきで話をしている。


「おい、これって与平達が海難法師に遭ってよう、捨てて逃げたっていう舟だろう」

「おっかねえなあ……舟ごと坊さんに燃やしてもらったほうがいいんじゃねえか?」


 昨日の事だったが、漁に出かけた男二人が命からがらといった様子で泳いで戻ってきたのである。

 なんでも近頃噂になっている[海難法師]に出くわしたとかで、真っ青にした顔をして家に閉じこもってしまった。その顔を見れば海難者の道連れにされてしまうと言われているかの海妖怪は、漁師達の間でも畏れられている。

 一説に拠れば、新島や伊豆諸島へ島流しにあった罪人が、島を逃げ出そうと小舟で海に出て遭難した怨霊だという。

 近頃熱海では三例ほど目撃証言がある。最初の遭遇者が見事に生還し、危険を告知したものだからなんとか死人は出ていないのだが、なんとも薄気味悪い雰囲気は消えずに漁師らは活気に欠けていた。

 

「ほらほら! うちの舟をじろじろ見てるんじゃないよ!」


 叫びながらずんずんと大股で舟に近寄ってきたのは、頭に手ぬぐいを巻いた中年女性だ。

 ぷっくりとして日に焼けた片手に、顔色の悪い亭主を引っ張ってきている。

 海難法師に襲われた舟の持ち主である。


「おおおおいいい、おっ母よう、明らかにその舟呪われてるって絶対ぇえええ……」

「五月蠅いね。舟を無くしてどうやって食っていくんだい、このトンチキ!」

「俺も多分寿命半分ぐらい削られてるってばあああ……うう、生臭い息がかかった感触がいまだに蘇る」

「寿命半分なら二倍稼いで来な、ヒョウロク玉! 舟に穴が開いてないかさっさと確認しろ!」


 へっぴり腰になった夫の尻を蹴りながら指示を出すが、やはり嫌そうに舟に近寄らない。

 たとえ妖怪でなかったとしても、腐壊した溺死体の如き物体が這い回った形跡がある舟なのだ。気分が良い筈も無いだろう。

 海藻のぬるぬるした粘液や仄かなくさや臭がして顔を顰める。

 いっそ沈没でもしてくれたほうが諦めも付いたのだが。

 前門の呪舟、後門の母ちゃん。

 進退窮まる様子の男に、よく通る女の声がかけられた。


「この世には目には見えない闇の住人たちがいる……彼らは時としてなんか襲ってくる」

「端折ったな」


 ゆらゆらと旅装束で眼鏡をかけた奇妙な女──石燕が歩み寄ってきていた。

 後ろから眠そうな半眼の九郎も、道を外れて砂浜へ降りてきている。

 蠱惑的な笑みを浮かべている石燕は、注目を浴びたことに小さな満足を覚えつつ、妙な拍子をつけて機嫌よさそうに謳う。


今日けふかーらー1等ー格好良ーきーかなー!」

「歌うな」

 

 辛辣なツッコミにも耳を貸さずに、石燕は腰に手を当てて漁師達に名乗る。


「ふふふ私は三千世界の鴉を落とす勢いで有名な地獄先生・鳥山石燕だよ! 退魔師的な事もやっている!」

「詐称をするなよ……」

「ここには邪悪な悪霊の気配がするね! くっ右目に封印された阿迦奢アカシャの魔眼が疼く!」

「初めて聞いたが」

 

 片目を抑えだした石燕に冷たい視線を送る。

 残念な目配せをした漁師が声をかけてきた。


「それで、あんたは何なんだ」

「海難法師でお困りのように見えたからね。霊験あらたかなこの私が不安を取り除いてしんぜようではないか!」

「いや……そういうお祓いとかは坊さんに頼んだほうが」


 胡散臭そうな色が灯った目線を向けつつ断ってくる漁師に、くわっと石燕は目を向き悪魔的な手振りを見せつつ朗々と語る。


「それは愚策というものだよ! いいかね? 相手は海難法師……つまり仏法僧の妖怪なのだよ? 坊主と同類ではないか! 同じ穴の六科伯父さんだよ!」

「うちのお父さんを引き合いに出さないで欲しいの」

「房よ……お前の親父殿は、のっぺら顔の屋台に入っても気にせずに飯を食って行くような男だからな……ああなるんじゃないぞ……」

「細かい事を気にしなすぎるの」

 

 溜息混じりに肩をすくめた。

 どうも、彼女は風情や恐れの感情が少ない叔父の六科には呆れを感じている。

 

「ともあれ諸君。この超巫女的な私に話を聞かせてみたまえ。見事に成仏させてあげようではないか!」

「巫女なのか退魔師なのか仏教徒なのか、軸がブレすぎであろう……」

「九郎もいちいち石姉にツッコミ入れてると疲れるぜ?」

 

 同情的な眼差しを含めてお八に肩を叩かれる。

 旅の途中、熱海に入ったばかりの街道沿いにある浜でのことであった。



 

 ****

 



 海難法師。

 名前から印象されるところだと、生涯海難に会いまくっていた仏僧の鑑真が思い浮かぶが特に関係無いようだ。毎回とばっちりで浮かんでくるのだが、実に関係がない。

 歴史としては古い妖怪というほどではなく、名前が囁かれたのは江戸期に入ってからである。

 発祥は伊豆諸島で、悪代官であった男を島民が共謀し沖に流した怨霊であると言われていて、海難死体そのものの姿と為ったこの妖怪を目撃したら、目撃者もまた同じ姿に為って死ぬという話が初期の事である。

 また、それ以外にも悪代官に流された島民の怨霊、島流しにあった罪人の怨霊や海座頭、海入道と同じ妖怪とする話まで様々なアレンジされた話がある。


「──それで、俺と竹吉の二人は命からがら、舟から飛び降りて岸まで目を閉じたまま泳いで逃げたんだ」

「ほうほう。しかしそれでよく岸に泳ぎつけたね」

「ああ、この辺りは潮の流れを読めば目を瞑っていても位置がわかるからなあ……それに必死だったから」

「まあ私なら飛び込んだ瞬間心臓麻痺で死ぬだろうがね」

「弱っ」


 漁師から話を聞きながら石燕は舟に登って(九郎に抱えて登らせてもらった)海難法師が這った痕などを丹念に探っている。

 九郎もしゃがみ込んで確認するが、確かにウミウシでも這いずりまわったような気色の悪い変色を舟の板がしていた。また、海藻のゴミなどもこびり着いていて、やけに臭い。

 舟に積まれていたと思しき真水の入った壺の中身は空だった。こぼれたのか、海難法師が漂流中にやっと真水にありつけたと喜んで飲み干したのか……

 

(いや、妖怪がそんなことはしないか)


 小さくかぶりを振って考えを止めた。


「むうう……これはビンビン妖気を感じるよ九郎君! だって臭いし!」

「まあ……確かに臭いが」


 まるで篝火でくさやを炙って食ったような匂いが舟に染み込んでいる。異常と言えば異常で、この匂いの嫌いな少女二人は既に離れた場所で晃之介の釣りを見物したりしていた。

 浜釣りだがあの微妙に短い竿と糸で釣れるのだろうかとやや気になる。

 石燕は船底を確認している漁師に問いかけた。


「そっちの破損はあったかね?」

「いやあ、特に座礁したりもしてねえみてえで」

「ふむ。やはり海難法師か」


 彼女は九郎へ向き直り、


「船幽霊、海坊主や海座頭と海難法師の違いは、舟を壊すか壊さないかで分類される事があるのだよ、九郎君」

「そういえば、船幽霊は水を柄杓で注いできて、海坊主などは舟を揺らしたりして襲うのう」

「一方で海座頭は特殊攻撃を得意とする。見られたり、関わったら死ぬ系の妖怪は結構いるのだが、見ると死ぬ系というのは意外に少ない。

 まあ、中には見ても死なない人もいるかもしれないけどね。房の母親のお六さんなど、畑の真ん中で何かくねくねしていた妖怪っぽいのを鎌で切り取ってきて鍋に入れて食ったそうだ」

「妖怪ハンターか何かか、あの夫妻は」


 六科もそうだが、お六もやけに正気度が高かったようである。

 食い意地という点では、釣りをしている晃之介の後ろでもう焚き火の準備をしているお房にも受け継がれているのかもしれないが。

 ふと、石燕が手元の短冊のような細長い紙にさらさらと絵を描いているのを九郎は覗きこんだ。

 さすがに絵がうまく、簡潔にそれは顔や体にびっしりと牡蠣や藤壺を張り付かせた妖怪の姿であることが見て取れる。

 足音を立てて、漁師の女房が帰ってきた。


「巫女さん、竈の灰を持ってこいって言われたから集めてきたけど、これでいいのかい?」

「そうだね。浄めの灰という奴だよ。炭の粉でもいいのだがね、少し撒くよ?」


 と、竹笊ごと灰を受け取って海難法師が歩き回った船上にばさばさと降りかける。

 九郎にはそれがどれだけ儀礼的に効果があるのか知らなかったが、少なくともぬめりのようなものは取れて消臭にもなるだろう。

 舞うように灰を撒いて小さく歌を口ずさんでいる石燕は、神楽を舞っている巫女に見えなくもない。

 彼女の高く澄んだ声で紡ぐ歌は、真面目に謳っている時には素直に美しいと九郎も思う。

 


「──君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで


   ──あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という


      ──花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや……」 


 

(……はて?)


 石燕の歌自体は聞いたことのない拍子であったのだが、歌詞には聞き覚えがあった為に九郎は首を傾げる。

 海神を祀る志賀海神社の神楽歌である。

 石燕が旅の最中で一度だけその神楽を見て記憶していたものを唱えているのだ。

 漁師夫妻もぽかんと口を半開きにして、何処か別の世界の天女のような雰囲気で神楽を舞う石燕を見上げていた。その目には胡散臭そうな疑いの色は見えず、ただ彼女が神事を行った事に間違いないのだという信心がある。

 歌を終えて石燕が微笑みかけると、思わず手を合わせて頭を下げた程だ。

 

「さ、船主よ、この御札を舟に貼っておけば後は大丈夫だよ」

「へ、へえ。……これは、海難法師の絵……?」


 石燕が先程描いた絵と、古めかしい呪文らしきものが書かれている札である。

 彼女は否定の言葉を放つ。


「いいや、これは海神の『安曇磯良』さ。見ての通り海難法師のような醜い姿だが、海難避けのご利益があるありがたい神様でね」


 物の本によると、神功皇后に諸神が呼び出されても出てくるのを渋りようやく見せた姿は、


『(前略)其の貌を御覧ずるに、細螺、石花貝、藻に潜虫、手足五体取り付けて、更に人の形にてはなりけり……』


 と、ある。

 長らく海中で生活していたからとは言うが、まさに化物の姿であったようだ。「姿とか気にしねーって! 来いよ!」と呼びかけた他の神もドン引きしたらしい。

 得々と石燕は札を手に語る。


「誰も見たことのない海難法師、その姿の原型は溺死体もあるだろうけれど、磯良の様相が根にあるのではないかと思ってね。なに、化物としての格は磯良がかなり上位だからこの御札を貼っておけば海妖怪とは出会わないだろう」

「ほらあんた、守り神なんてちょっと不細工なぐらいが丁度いいんだよ。巫女さんの言うとおりに貼っておきな」

「確かに、よく見りゃあうちの守り神の母ちゃんにちょいと似て──」


 男は、顔面を舟に叩きつけられた。

 呆れた様子で九郎は、


「口が高く付いたな」


 と、倒れて砂に突っ伏せる男に声をかけるのであった。




 *****




 その夜……。

 熱海に宿を取り、ゆるりと過ごした後だ。

 日が落ちる前、早めの夕飯を取った。相模湾で捕れた新鮮な魚料理が膳に出されて舌鼓を打つ。沖釣りのハゼを素焼きにして、さっと生醤油を絡めて擦った柚子の皮を振るったものは、飯にも酒にもよく合う。 

 晃之介は浜で尾びれに引っ掛けて釣り上げたヒラメを料理人に刺し身にしてもらい、自慢気に食している。


「いや、俺の釣りの腕もなかなかだろう」

「晃之介さん、そこのえんがわと紫蘇を交換してあげるの」

「自慢はいいが晃之介よ、凄まじい勢いで強奪されていってるぞ」

「ふっ……浅はかだな。当然奪われることを予想していて、予備の皿は……」


 晃之介が隠していた膳を振り向くと背中を向けているお八が白米に刺し身を載せて掻き込んでいた。

 視線に気づき、動きを止めて彼女は、


「え!? これっておかわりじゃ……なかったんだぜ?」

「俺のえんがわ……!」

「わあ、御免師匠! だ、大丈夫だってば、師匠の腕ならまた釣れるって!」


 落ち込む晃之介に謝りつつ、刺し身は返さないでがつがつと食べる。少しゆるい辛味噌をまぶしたさっぱりとした白身魚の味が、飯で引き立つのである。

 小田原名物の蒲鉾を突きながら石燕も、


「そうそう。次は頑張って鯛を釣ってくれたまえ。豊漁祈願の神楽も舞ったことだしね」

「あれ豊漁祈願なのか? 除霊は?」

「そんなものは被害者の心持ち一つだよ。彼らが除霊が済んだという気持ちにさえなればそれで充分なのさ」

「現実的な問題は解決してないような……」


 九郎が呻いた。

 

「なに、実際磯良が祀られていた神社で行われる儀式の歌なのだ。縁起が悪いわけではないさ。これで海難に合わなかったら感謝され、あったらお前の信心が足りぬからだとか難癖をつければいいのだよ」

「でもさー、なんか石姉も手慣れた感じだったな。旅とかしてる時に巫女って名乗ったりしてたのか?」

「いやあ、やったこともあるけど旅の歩き巫女となると貞操が危なくてね。まあ、遠出するときは船旅だったり、将翁の旅程と重ねて護衛を頼んだりしていたよ」


 晃之介が口をはさむ。


「しかし、言っちゃあ悪いが将翁殿は華奢な男だろう。あまり護衛に見えないというか……よく追い剥ぎなどに襲われないな」

「私も不思議だったのだがね。禹歩という陰陽の呪法を応用し、旅の為に作った移動術で降り掛かる災いを因果律から祓っているとかなんとか……だから危険が生じた事は殆ど無かったね」

「陰陽師とはいったい……」


 九郎が呻いた。陰陽の術など、少しばかりも知らないがあの狐面の怪人ならば、妖しげな札が飛び交い鬼やらなんやらを召喚している図が容易く想像できるのが困った。

 

「さて。そんなことより九郎君に晃之介君。食事を終えたら海難法師を探しに行くよ!」

「ああ、やっぱりそうなるんだ……」

「先生。あたい達は?」

「あ、あたしはいかねーぞ! 怖いからな!」


 少女らがそれぞれ声を出すが、石燕は言い聞かせるように、


「さすがに見たら死ぬ妖怪だと君等を連れて行くことは出来ないね。私は殺生石の欠片を埋め込んだ呪いの眼鏡をつけているから見ても平気なのだろうが」

「平気っていうか眼鏡自体がアウト気味な気がするが」

「というか、俺達は死ぬよな」

「安心したまえ! 見なければ死なない! 心の瞳──即ち心眼で戦うのだよ!」

 

 投げっぱなしのアドバイスをくれる石燕に、


(こいつ、心眼て言いたいだけ違うのかと……)


 と、九郎と晃之介の心の声が重なった。

 心なしか、二人の剣士の活躍予定にわくわくしている様子だ。

 

「師匠、頑張れだぜ」

「そういえば海難法師って顔に栄螺とか牡蠣とかついてないかしら。九郎、お土産よろしくなの」

「食うつもりか!?」


 澄まし顔で茶を啜ってるお房は本気であるようだった。

 育ち盛りだからだろうか……できれば生き馬の首を取って鍋にするような女性には為って欲しくないと、九郎は心配をするのであった。




 ****


 

 

 三人が海に再びやってきたのは、丁度日が沈んで暗くなり始めた時合いだった。

 話によると漁師を襲った海難法師もこの時間帯に現れたという。


「俗に云う、ラグナロク時というやつだね……」

「言わねえよ!? 黄昏時って普通に言えよ! 何処でそんな単語を知った!?」

「オランダ人に聞いた」

「くっ……」


 何故か悔しそうに九郎は言葉を噤んで、人を喰った笑みを浮かべている石燕から視線を外した。

 宿で借りた提灯を持っている晃之介は、砂浜から岬の方を指さし告げる。


「俺の勘ではあそこがいいと思うな」

「ほう……」

「大物がよく釣れそうだ」

「……」


 晃之介は完全に夜釣りの気分であるようだった。背中に竿と仕掛けを担いでいるし、魚篭まで用意してきた。

 もっとも、宿ですら、


「海難法師に気をつけなされ」


 と、注意するほどに近隣では噂になっている。

 事実、夜に出かける者は漁師すら居ないようであった。

 酒を各々手に持ち、気楽に出かける三人はいかにも迂闊な若者集団に見えるだろう。


「すると油断して海難法師は姿をあらわす。そこを[がつん]だよ」

「理想的な作戦だな……呆れる程に」


 岬に丁度良さそうな岩場があり、そこを拠点として海難法師を待つ事にした。

 晃之介は既に竿を持って波打ち際まで下りている。近くに提灯も置いてあるので様子はよく見えた。

 まるで囮にも見えなくはないが、何を云うでもなく晃之介が釣りに行ったのだから仕方ない。

 既に小魚を二、三匹程釣り上げて、それを餌にして大物を狙っている。


「しかし海難法師か……居ると思うのか?」

「ふふふ、この世には不思議な事など何もないのだよ、九郎君」

「また其のフレーズを……その理屈によると、妖怪も怪しげな陰陽の術も存在せぬという事になるぞ」

「それは見解の違い、というものだよ」


 僅かに寒そうに石燕が震えたので、九郎は少しばかり座る距離を縮めて彼女の酒盃に酒を注いでやった。

 笑顔を見せながら透明な瞳を暗い沼のような海に向けて云う。


「そもそも不思議、とはどういう事だと思うね?」

「む……そうだな、理屈では説明できぬ、物理に反する、正気とは思えないような出来事ではないか?」

「間違っては居ないが、語源の定義としてはずれているね」


 酒を口に含んで吐息を吐き、続ける。


「元々の語源は[不可思議]が縮んで生まれた言葉なのだよ。仏教用語だね? これは読んで字のごとく、思議すべからず……考える事すら出来ないという意味だ。いいかね? 間違った解釈することやそれなりに胡散臭い理屈でも、説明がつけられるものは不可思議ではないのだよ。

 では不可思議な事とはなにか? わからないね。なにせそれを考える事も出来ないという定義なのだから。じゃあ其のようなものが本当にあるのかね? そう考える事もまた、違う」

「屁理屈ではないか」

「屁のような理屈すら受け付けないものを不可思議というのだよ、九郎君。そうなると最早次元が違う。ならばもう仏の世界にでもいかねば見つかるまい。即ち、この世ではないのさ」

「禅問答じみてきたぞ」

「ま、このケチの付け方はどちらかと言うと名家の詭弁みたいな役に立たなさだけどね」

 

 自分の説だというのに然程執着が無いのか、冗談めいて肩をすくめる。

 とはいえ、彼女が諸子百家で一番気に入っているのがその[名家]なのであるが。


「真理とは理屈ではなく思考によって生まれるのさ。私が妖怪の絵を描くのもそこに理由がある──っと」


 石燕が身を乗り出して晃之介の方を注視した。

 彼の興奮したような叫び声が聞こえる。


「来たぞ!」

「むっ」


 九郎が旅の伴として持ってきたアカシック村雨キャリバーンⅢに手をかけて立ち上がる。

 晃之介は片手で竿を操りつつ、


「大物だぞ! 槍を取ってくれ!」

「魚かよ!」


 仕方なさそうに、晃之介の槍を放り投げてやる。

 落胆した表情になるが、隣の石燕は薄い月明かりに照らされる海の先を見ている。


「いや、海からの風に僅かに臭気が混ざっている。晃之介君、魚に構っている場合ではないよ!」

「む……! しかしこれは……! でかい……!」


 竿の感覚を頼りに海に槍を突き入れ続けている晃之介。

 近くまでは獲物は寄ってきているのだが、岩場の影に潜り込んでいるのだ。

 生涯で最大の大物かもしれない。鍛錬で培った巧みな竿と糸にかける力加減が無ければとうに逃しているだろう。

 確かに先の海から何やら近づいてきている気配には気づいている。 

 だが、目下好敵手となったこの魚との勝負を放棄することなど、


(俺には出来ない……!)


 己の夢の為。叶えたい未来の為。晃之介は戦いから逃げることは出来ないのだ……!

 

「ええい、釣りキチに目覚めおって」

 

 仕方なく九郎はひょいと岩場に下りて晃之介の近くに立った。

 騒ぎながら竿と格闘している晃之介の気配を無視すれば、確かに先の海から、


 ざ、ざ、ざ……


 と、舟を漕ぐような音が聞こえてくる。

 そういえば、昼間に浜に打ち上がっていた舟は載せていた櫂が無くなっていたと聞いたが、真逆、海難法師が使っているとでも云うのだろうか。


「二人共、私が確認するまで決して直接見てはいけないよ!」

「わかっておる。お主こそ……」

「安心したまえ。私の魔眼は宇宙の外のあれすら目視しても潰れぬさ」


(あれって何?)


 九郎は思いつつも、自信有りげな彼女の言葉を信用することにした。

 そもそも本当に妖怪なのかすら、怪しい。ナチュラルに石燕と居ると妖怪が実在すること前提で会話をさせられるので、時々混乱する。それでいて石燕は妖怪に対する実在か不在かの判断が、はぐらかすように怪しいのが厄介であった。

 

『……ォ』


 やがて、うめき声が潮風に流れて聞こえてくる。 

 岸までまだそれなりに距離はあるようだが、臭いから感じる存在感は大きい。


『ゥゥゥ……ァア……マァ……オ……』


 恨みが篭った怨嗟の響きだ。

 ぐちゃぐちゃと不快な咀嚼音が混じりつつ、明らかにこちらに向けて言っている。

 

「おい、もう近くまで来ているぞ! 晃之介、まだ釣り上がらんのか!」

「──っくぅ、もう少しだっ! 槍よ……!」


『マァァ……ロォォ……』


 九郎はあまりに醜悪な臭いに、吐き気すら伴う冷や汗が背中から吹き出るのを感じた。

 全身を打つアンデッドの気配に忌々しげに唾を吐いて云う。


「くっ……とてつもない妖気を感じ」


 言葉は最後まで発せなかった。

 九郎の顔面に、ねばねばしてぬる気のある生暖かく磯臭い物体がべちゃりとぶつかったのだ。

 岸までは距離があった。ならば飛んできたとでもいうのか。九郎は目を瞑りつつ、気色の悪いそれを引き剥がして全力で地面に叩きつけ、つい薄目でちらりと見てしまった。


 ワカメだった。


 あざ笑う声が沖からかけられる。




「はぁぁぁぁあああい麻呂でしたああああ!! なんだよ『とてつもない妖気』って!! 感じねえよ! 麻呂だよおおおお!! 元服病(※)ですかああああ!?

 あっ! 先生ええええ! 麻呂は、不肖の一番弟子・麻呂は帰ってきましたああああ!! 周りは非生産的な性癖の罪人と『くさや汁って腐ったしょっつるでしょ?』って言ったら本気殺ししてくる島民しか居ないあの島から! ひっでえ環境だな……」


「うわ、うぜぇのだ……」

 

(※)元服らへんの年代の子供に多く現れる自分は特異な才能を持っている特別な人間だという錯覚。必殺剣とか考える事が多い。

 九郎は顔を顰めながら、まだ沖に居て盥に乗っている、髭も髪も野人のように伸ばし放題、全身に藻や海藻を服の代わりに纏っている妖怪のような漂流者を見た。

 新島から逃げるように盥で流れてきたのだろう。日中は日を避け海藻を被って影で休み、寒くなる夜に体を動かして本土を目指す。その旅を続けて何日が経っただろうか。 

 紛うことなき、鳥山石燕の弟子、麻呂であった。


「しらない」


 ぶんぶんと首を振りつつ石燕は否定した。


「ちなみにそのワカメは麻呂の何処にくっついていたものでしょおおおおかああああ!? 甲:胸。乙:腰。丙:へへっ言わせんなよ馬ァァ鹿!」

「最悪の気分だ。おい、晃之介。弓矢は持ってきていないのか」

「よしっ! 突けた! 上げるぞ!」

「まだ魚釣ってたのか」

「槍でやりとげたんだ! ……ふっくく」

「自分で言ってて笑うな」


 晃之介の下らない洒落に怒りが薄まりそうになるが、今こそ立ち上がりこの世の悪と対峙し退治せねばならぬという正義の心を忘れぬように胸にそっと誓った。

 沖ではこれまでに五人の漁師を恐怖のずんどこに陥れた悪の魔物がいるというのに。


(ずんどこで合ってたっけか? なんか楽しげな響きになったが)


 まあいい。これ以上哀れな犠牲者を出さないためにも、あれを海の藻屑に変えなくては。いや、既に格好が藻屑に限りなく近いのだったが。


「先生えええ! そんなことより見てくださいよ新島で描いたこの麻呂の絵を! 題して『生物災害三 最後の脱出』くさや屍人で溢れた島から様々な仕掛けを解いて脱出せよ! 幕府の焼き討ちが始まる前に! 恐怖、緊迫、大活劇の大作でえええす! まあ墨が無くなったから絵はくさや汁で描いたんですがくさや屍人が生まれそうな臭いしますわ。

 頑張って漂流続け幾星霜、なんと昨日、親切な漁師さんから櫂を貰っちまったのです! へへっこれで離岸流なんて怖くねえ! 今まで漕ぐために使ってた柄杓も必要ねえ! 行くぜ先生! ワカメなんか捨ててかかって行くぜ! 秘技、ワカメの舞!」

「おのれ、投げつけてきおる。おい、晃之介! 早くその槍をよこせ!」

「よし、任せろ」  


 ぺしぺしと飛んでくるワカメを剣で切り払いつつ呼びかけた。

 力瘤を作って晃之介が槍で突いた獲物を水の中から持ち上げる。

 真っ暗な海から魚が上がる。それは太くて三尺ほど縦に長い形状の流木が槍に絡みついているようであった。

 九郎はよく効く夜目を凝らして確認する。


「……ウツボだのう。ド外道だ」

「……そうなのか?」

「うむ。釣り上げたら叩き殺してウツボ塚に吊るして晒しておくレベルで外道」

「残念だ……」

「だが、丁度いい」


 九郎は晃之介から槍を受け取ると、片手で力を込めて振るった。夜の大気を圧し潰す勢いで振るわれた槍の穂先から、遠心力でウツボが外れて吹っ飛ぶ。

 うまい具合に、麻呂が乗っている盥にどしゃり、と放り込まれる形だ。


「ぐえああああ!? な、な、なんだこの人類に敵対心を持っているような恐るべき怪物は! 鮫と同じ目の色をしているって絶対!? 

 痛ぁあああ!? 足に絡みついてきたあああ!? ちょっとあの狩野派の小僧呼んでこいよ触手姦とか絶対幻想だとわかる級の痛さだってこれええ!!」

「ウツボの絡みつきは、全身筋肉みたいな蛸の体を引き千切るからのう」

「素敵な情報をありがとう君。あっ!? もしかして麻呂と友達になりたいの? 仕方ないなあ、じゃあ特別に『友達にしてください』って君から発言する権利を与えよう。そして未来へ……」

「なあ石燕、このお主の弟子は……」

「しらない」


 ぶんぶんと首を振って関与を否定する。

 片足をウツボに捻り潰されかけながらも、櫂を漕ぐ速度を増して海難法師はこちらへ向かってきた。


「先生! いま、会いにゆきます! ヨーソロー!」


 明るい声でそう宣言して前進し始めたのだが、突如盥の前方に海中からぬっと何かが浮上して、盥に衝突する。

 丁度大柄な人間の上半身ほどの、黒い物体だ。

 髭を生やしたつるりとした頭のそれは──海坊主。

 成長して大きくなったアザラシとも云う。

 

「あっ」

「……」


 海坊主は後頭部に、ごっ、と直撃した盥を睨みつけ、無言で海中に再び潜っていった。

 そしてすぐに戻ってくる。手で器用に、黒い塊を幾つか持っていてそれを盥に次々と入れていく。


「う、うわああ!? 凄い的確に毒ウニを放り込んでくる!? 痛っ!? これ触れもしねえぞ何からここまで強固に身を守ってやがるんだこの毒ウニいいい!? すいません先輩麻呂調子に乗ってました……あっ待って沖に引っ張って行かないで!? ちょっとおおお助けてくださあああい!」


 一方で石燕は、棘の長いウニの絵を描いて九郎と晃之介に、


「ガンガゼ、と呼ばれる毒ウニだ。浅瀬によく居てね、長い棘の先には返しがついていて、刺さったら引っ張っても抜けにくい。おまけに棘が折れやすくて皮膚に刺さったまま残る。あと棘に含まれる毒が激しい疼痛を与えてくるという厄介なものだ。注意しようね。あ、ここ試験に出るから」

「うむ、授業も終えたし、今日は帰るか」

「小魚は釣れたからこれで一杯やろう。まだ明日もあるしな」

「ああ」


 九郎ら三人は踵を返して、決め顔で歩み始めた。


「己れ達の熱海は──まだ始まったばかりだ──」


 







 宿に帰ったらどうやってか先回りした麻呂が普通に温泉に入っていた。

 また、麻呂の土産であるワカメを普通にお房は茹でて食っていたようだ。





 ****


 


 それから暫く、一行は熱海に逗留する事となった。

 連日、釣りに出かけたり、温泉に入ったり、神社に行ったりと楽しんでいる。

 そんなある日、麻呂が街角に座って墨絵を描いているのを九郎は見つけて、後ろから覗きこんだ。


「おお、なんというか……さすがに巧い」


 浴衣を着た、熱海の町のどこにでもいる女の絵である。

 さっと描いているというのに、思わず唸る程の出来栄えだったので九郎は率直に褒め称えた。

 リアルな画風というわけではない、当時の浮世絵風の絵柄だが、墨でうまく表された白い首には、普通ではない艶を感じる。

 

「美人画なら麻呂はちょっと負けないでなー」


 髪を結ってこざっぱりとした麻呂も得意気に笑いつつ、絵をするすると仕上げていく。

 この男の顔をまともに見るのは、熱海に来てからであったが意外に童顔めいた普通の青年であった。

 九郎も江戸に来て幾人か絵師を見てきたが、麻呂は石燕の弟子ながら劣らない極上の腕前を持っていると思える。年はまだ石燕よりも若い程なのだが、未熟さが絵に関しては見当たらない。


「最初はさあ」

「うむ?」

「石燕先生に一目惚れしたから春画の題にして助平な妄想おかずを描いてやろうぜって気分で始めたんだよね」

「サイコ系の発想だな……」


 九郎は苦みばしった顔で、しれっと告げる麻呂を見ながら云う。

 まったく九郎の評価など気にしないで麻呂は続けた。


「でも不思議と先生を描いても先生に似ないっていうか、画風を変えても画材を変えてもなんでか違うって思ってさあ。

 それで土下座しながら『先生の春画を描きたいんですが抜けないんです! どこが悪いか教えてください!』って頼んだら縛られて屋根の上に磔にされた」

「阿呆め」

「ま、それでも麻呂の熱意だけは買ってくれたから助言を貰ったんだ。『目で見えるものが全てではない、心の目を開くのだ……即ち心眼!』って」

「言いたかっただけだろう、多分それ」

「その言葉に麻呂はビビビッと来たんだ。先生は目には見えない妖怪をああも生き生きとした形に現せることができる。きっと先生も心眼で描いているのだって。それで、麻呂は対象の内面すら見通さんという意気込みで絵を描くようになったら、格段と助平になった。 

 そう、師匠は一見冷たく突き放すように見せているけど実は弟子の事をよーく考えて下さっているのだ。ほら、今回だって魚の開きにくさや汁を塗る動き! 塗る動き!」

「さ、左様か」


 彼は滑らかな手つきで墨を塗りたくる。


「特に首元に倒錯的な感情がさあ……先生の首いいよねえ……先生が描いたろくろ首の絵なんか猥褻すぎりゅうううう!」

「サイコの発想だな……」


 先程を同じ感想を覚えつつ、半歩だけこの若者から離れる九郎。半歩の距離があればいつでも逃げられるし、殺せる。そんな距離だ。

 叫んだ後ぴたりと電源が落ちたように動きを止め、再び絵へと向き直った。


「しかし、何百枚修行しても先生の内面を見通せる気がしない。あの先生の内側は無限になっているのかも」

「ふむ……確かに何を考えているか、さっぱり判らぬ相手ではあるな」

「いつかしっかり先生を描けたらなあ」

「一世一代の傑作になるか?」

「いいや」


 彼はにっと笑って宣言する。


「誰にも見せずに宝物にするじゃん」

「そうか」


 師に憧れる絵師は意気込んで立ち上がった。

 描いていた浴衣の女が完成したようだ。墨だけで見事に濃淡を付けた一枚絵である。

 

「よっしゃああ! この絵であそこの姉ちゃんに声かけてくるっちゃ! へへへ……なあおじさんとスケベしようやあ……!」

「あっ、おい」


 九郎が通りを走り渡ろうとした麻呂に声をかけたのだが……

 丁度、道に長い行列を作り進んでいた集団に錐揉みしながら麻呂は突入して、


「なんだ貴様! 怪しい奴め!」


 と、行列を守る従士の槍で尻を刺された。

 

「ぎゃああ!? お、お、お前ら、麻呂の尻になんの恨みがっひゃあああ!?」


 奉行所らしき手のものに捕まって行く麻呂を見送った。

 

(あちゃあ……まあいいか)


 一瞬で彼の存在を切り捨てた九郎は、さてなんの行列だと目をやる。大名にしてはどうも、藩の家来といった風貌ではない集団が囲んでいる。

 罪人の輸送だろうか、と思っていると、駕籠に入れられた土下座がきょろきょろと騒ぎに反応して周囲を見回した。


「……」


 入れられた土下座、というと妙な感じではあったが、九郎は確かにそう判断した。正確に言うならば、金髪の外人が駕籠に入りきらぬとばかりに土下座体勢で運ばれている様子だ。

 太っているわけではなく、体がでかい。座っているからわからないが、七尺はあるだろうか。当時の日本人の平均身長から比べると、見越し入道のような大きさだ。

 それが丁寧に、堂に入った土下座をしている。

 そして周囲に向かって大声で言う。


「シモニー! シモニー!」

「おいこら、商館長。下には無いから、この行列」

「oh……言ってみたかっただけデース」


 行列の責任者、長崎奉行の石河政郷いしかわ・まささとが冷たい言葉をその外国人に告げて、行進は再開されるのであった。

 九郎は唖然と見送りながら、


「あれは……?」

「あれは阿蘭陀商館の江戸城参勤だね。毎年年末になると、商館長が上様に目通りするのさ」

「石燕」


 後ろからいつ近寄ったのか、温泉まんじゅうと酒を持った石燕が九郎に覆いかぶさるようにして行列に指を向けた。


「しかしまあ、土下座で運ばれているけど江戸城に入ってもだいたい土下座のまま過ごさないといけない上に、そのまま余興とかやらされるからジャップとかマジムカつくって言ってるのを聞いたことがあるよ」

「それは大変で屈辱的ではあるな……この時代のオランダ人ジャップっていうの!?」

「耐えるだけ、南蛮の一国だけこの国と貿易する旨みが大きいのだろう」

 

 九郎の疑問は気にせずにうんうんと頷き、


「さて、商館長カピタンに倣うわけではないが、充分遊んだことだし明日にでもまたのんびりと江戸に帰ろうか九郎君」

「それはいいが……さっき麻呂男が奉行所にとっ捕まえられていたぞ」

「? それが何か、帰るのに支障になるかね?」

「……そうだな、特に問題はないか」


 九郎は僅かにため息をついて、それでも首肯するのであった。

 秋も深まり、冬が近づく。 

 年の暮れも近い……。

 

 

 

 

 

 

   





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