31話『暗夜行路(中編)』
小田原・風祭に居を構える[黒田道場]の心破流開祖である黒田宇羅は武士ではなく山伏だったらしい。
今は昔、寛文の頃に小田原にふらりと立ち寄った宇羅はたまさか、両替商の店に泊まっていた。
山で見つけたという水晶や砂金粒を時折売りに来るその山伏を、先代か先々代から取引をしている為に両替商は信用していて酷く身なりが汚れていた宇羅を家に上げ湯浴みなどをさせ世話を焼いた。
そしてその晩遅くに、盗賊の一団が店の木戸を破り押し込んだところを、宇羅は刀一本の威圧と相手の心を読んだ言葉によって賊らの精神を千々に乱れさせ、盗賊一味は化物に肝を潰されたようにへなへなと身動きも取れずお縄となったのだという。
その活躍に両替商が感謝も込めて、剣術道場でも開いてはどうだろうかと建立の費用を出して風祭に建てたのが始まりである。
体を鍛える事、技を磨く事、心を研鑽する事の三つ、即ち心技体を鍛錬するのが剣術の意である。
しかし特にこの黒田道場では、[心]の剣術が重視された。
心を強く持ち、また相手の心を破るようにすれば剣を交わさずとも勝負はつく。切り合わずに勝てるならばそれが一番良いというのが真髄の教えである。
初代の宇羅は山で修行をするうちに、[さとり]妖怪の技の片鱗を手に入れたと言った程に、向かい合った相手を読み切る事を得意とした。己の全ての行動が判られてしまっては、とても敵わない。
やがて宇羅は養子にした弟子に道場を任せてふらりと旅に出てしまったが、創始者が居なくなっても継いだ弟子の手腕良く道場を続けている。
さとりの技は受け継がれなかったものの、心技体で心を重視した剣術は太平の世となった武士社会でも覚えが良かったのだろう。
黒田道場三代目、黒田一道もまた、心の剣術を修めた剣士であった。小柄で痩躯ながらも全身から溢れ出るように感じる強者の念とでも云おうものか、不思議な気配に満ちていて相対したものを圧倒させる。
短い木剣を持ち正眼に構えただけでとても打ち込めぬと相手は思ってしまうのだ。
「あの先生が外に出ると野良犬野良猫が一斉に町から消える」
とまで小田原では噂される程のものだった。武士や土地のやくざ者に一目も二目も置かれている。
年を取った今でこそ、或いは尊敬されるような気質を持っているが一道が若いころは更に凶気とも云うべき荒ぶった強さであったらしい。
相手が誰であろうと憚ること無く、また恐れられていたような若かりし頃の一道であったのだが、ある時彼の気迫をものともせぬ武芸者と試合を交えた。
名を録山綱蔵という。
録山晃之介の父である。まだその時は晃之介は生まれて居ない頃であった。
身の丈六尺を超えてボロボロの衣服からははち切れんばかりの筋肉が見え、背中には二十貫はありそうな武具入れの箱を軽々と担いでいる、蓬髪に髭面で戦国武将の怨霊の如き人物である。
「其れがし、武術の旅に出ている者だが──御相手していただけぬか」
そう言って挑まれるのは道場側としても珍しいものではなかった。
だが、大概は一道までいかずとも道場の師範代格と立ち会えば、その気迫に飲まれてしまうような相手である。物語では無いのだから旅の武芸者にそうそう強い者など居ない。そもそも、剣で身を立てられぬから地元に居られずに放浪するような輩が多いのだ。
そして綱蔵が、旅の先々で名が有り、金が有りそうな道場に挑むのもまた珍しいことではなかった。
お互いを高め合うような稽古をした結果、相手側から礼金を貰うのは恥ずべきことではないと息子にも教えていた旅行術の一つである。何度か、道場の子弟が復讐の為に道中で襲ってくる事態もあったが、ことごとく返り討ちであったという。
ともあれ、金剛力士のような大武者が現れたものだから、黒田道場にその時居た殆どの門下は度肝を抜かれたように気圧された。
場にいて真っ向に綱蔵を見返す事が出来たのが黒田一道だけであったという。
こうなれば他のものではとても相手になるまい。
そう判断して一道は、
「よいでしょう」
と、受け答え、短い木剣を持ち、道場の真中で対峙した。
綱蔵も猛獣の笑みを浮かべて道具箱に入れてある木剣を片手に構える。
一道が構える隙のない正眼は、見るものに依って感じる威圧が異なるという。者によれば、じんわりと厭な気配に動けず一刻も固まってしまい、或いは己も知らぬうちに後ろに下がって場外まで出てしまう。
気を放つとでもいうのだろうか。
少なくとも、まっとうな感覚を持つものだったならばとても迂闊には打ち込めぬ、畏ろしい気配を持っている。
綱蔵もそれを感じて、
(ほう……熊程度ならば追い返せそうな眼差しだが……)
と、感心しつつ、八相に構えた剣を無造作に叩き込んで打ち倒したのであった。
熊を威圧できる凄みでも、修羅には通じなかったようである。
それ以来、綱蔵が小田原に立ち寄るとこの道場に寄るようになり、また一道もその度に歓待をしていたのだが……。
****
そもそも、綱蔵という猪武者が嫌いだったのだ。
一道は体格に優れた男ではなかった。道場師範であった父もそうであったが、子供の時分はよく体格について悩んだのである。
それでも心破流の剣法さえ極めれば、たとえ大男が挑んでも小柄な父の前では萎縮し打ち込めもしなかったことから、ただ研鑽に励んだ。
心を強く持ち、周囲に怯まず、視線を弛まさず、胸を張り、緩慢にも見える余裕を身につける。
剣術の稽古も行うがそれにも様々な作法があった。多くの動きは防御に適した剣捌きに通じるものがある。相手に手応えを見せつける為もあり、自ら打ち込んだりしないのだ。
つまりは[大物っぽさ]とでも云うべきものを身につける為の技である。
これは、初代の宇羅が持つ覚り術を使えなかった二代目がどうにか理屈で解釈し伝えた結果なのかもしれない。
胡散臭く思えるかもしれないが、真剣にこの修業に取り組んだこの一門は確かに強そうになった。特に、師範の一道は一流どころの剣士でも勝負となると負けない者であった。
相手が敏感にこちらの気を感じ取れる腕前ならば、絶妙に己の大物感が失せない機を見て一道から勝負を引き分けにする声がかかるのだ。
だがまあ特に気にしない綱蔵に一発で負けたのである。
そこまではまだ良かった。なにせこの流派、負けても大物ぶる奥義も編み出しているのだ。いくらでも取り戻しがつく。
「今の本気じゃなかったから」
とか、
「まだ変身を残してるから」
や、
「かまぼこが足元にあったから」
などという言い訳をもっともらしく、かつ大胆に展開することで名誉は守られた。
それで関係が終わればどうでもよかったのだが、忘れた頃に旅の道中で綱蔵がやってくる度に、小さな屈辱を感じていた。
そしてある時。
綱蔵の息子、晃之介から文が届いた。
無沙汰の侘びと、綱蔵が病死したことと、父が借りていた金子を返しに参るという内容であった。
それを読んだ時はなんとも、激しい感情は生まれなかったのだが……
とある事により、心の有り様を変えた一道は、晃之介を討とうと決めたのである。
一道は正座したまま、頭を下げている弟子に重々しい言葉を投げかける。
「準備は良いな」
「は……」
この日、晃之介が道場を訪れるということで朝から最後の仕掛けの確認を行っている。
真っ当に対峙し、退治するつもりは無かった。
相手は獣同然の六天流だ。
獣にはそれようの仕掛けを用意せねばならない。
かつ、こちらの名誉と矜持が守れるような[心]の篭った罠だ。
具体的には、晃之介を座らせる座布団には火薬を仕込んだ誠意ある地雷が埋まっている。
また、壁には両側から油を噴霧器で撒いて火をつける篤実さ溢れる火炎放射器を用意した。
そして出す茶には体の痺れを起こす善意の河豚毒を混ぜる。これにより動けなくなった晃之介は御陀仏という寸法だ。
晃之介の父、綱蔵ですら剣の鬼とでも云うべき怖ろしい人類だったが、これもまた河豚に当たって死んでいるのだ。晃之介に効かない道理はないだろう。
"当たると恐ろし富と鉄砲"という川柳が残っているぐらいに河豚毒は強いのである。
偶々出会った怪しい毒薬売りに、大金を払って火薬と毒を購入した甲斐がある。
こうして、謀りごとを企む黒田一道は、血走った目で晃之介を待つのであった。
今にも爆発しそうな復讐の炎が燻る火薬道場で……
「師範」
「どうした」
「芋を買ってきました。蒸かしておきますか」
「いや、私は焼き芋が好きだが」
「承知しました。庭で焼いておきます」
****
「それで師匠、言っちゃあなんだけどよ、なんで金を返すんだ? 借金ってわけじゃなくて、旅費をくれたんだろ? 相手」
東海道沿いに風祭へ向かう道中でお八が隣を歩く晃之介に、両手を頭の後ろで組みながら訊ねる。
単純に浮かんだ疑問なのだろう。
「だって師匠いつも言ってるよな。『いいじゃないか、ただなんだから』ってさ」
「うむ。妙な所で意地汚いというか、ねこばば根性があるというか……」
「失敬な」
心外そうに晃之介が眉を顰める。
「返さなくていいのは悪人と獣からだけだ」
「獣に恩を売っておくと嫁に化けて出てきてくれるかもしれんぞ」
九郎の軽口に、お八が考える素振りを見せて言葉を紡ぐ。
「ああ、なんかそういう話聞いたことがあるぜ。確か『なんとかのなんとか返し』……」
「曖昧すぎるであろう」
「『秀吉の備中大返し』……?」
「サルだけど違うよな」
首を傾げながらぼけて言う晃之介に首を振って否定する。
「ま、とにかく世話になった人だからな。俺の親父も認めていた凄い人でもある」
「一人関ヶ原がのう」
「相対した時の氣圧も常ならぬものがあるらしいが、一番はこちらの考えや初動を見て攻撃を先読みし最善の対応を行えるという判断力が疾いらしい。体格の差で吹き飛ばしたが、親父が試合した時もしっかりと木剣を防御していたというから──その試合は見てないんだけどな」
お八へと視線を遣りながら、
「その点ではお八も女だから腕力や小手先の技術よりも心の強さを鍛えたほうがいいのかもしれないぞ」
「心の強さかあ……そう言えば『土下座する強さが幕府を動かす。人は彼らをゲザ奉行と呼んだ』って本があったな」
「それは多分全然関係ないな。っていうか書いたの天爵堂であろう」
「思い出しただけだぜ」
軽く鼻を鳴らしてあっさりとお八も認めた。それにしても天爵堂は奉行話を書き過ぎである。恨みでもあるのだろうか。まあ、あるのだろうが。
会話をしながら小半刻ほど歩いた。何やら遠くから鐘の音が響いて、土地の者らしき人が急ぎ九郎らを追い越して駆けていく。
軽く顔を見合わせて、
「何かあったのかのう」
「さあ。棟上げでもあるんじゃねえの? それより師匠、道場はまだなんだぜ?」
「そろそろ見えるはずだ。周りに建物がない、広いところに建ってるからな。だいたい……」
晃之介は指を前方に向けて、目を細めると徐々に彼の指は上がっていった。
晴れ晴れとした空に一筋、黒い煙が立ち上っている。根本にはちろちろと炎が見えた。
「……あの辺りなんだが」
嫌な予感が到来しつつ、三人は歩いて黒田道場を目指したのだったが……。
燃えていた。
単に障子に火がついたとかそういう級位ではなく、まるで火薬や油を仕込んでいた勢いで黒田道場は火に包まれていた。
ここひと月ほど、殆ど雨が降らずに乾燥していた事も火勢を強める要因だろうか。
幸い周囲に建物がないので敷地内が焦土と化するだけで火災は収まりそうだ。火の勢いに火消しも無理して消火に向かえば危ないと判断され、周囲に燃え広がらぬように見張るのが仕事とばかりに取り囲んでいた。
燃える道場はとても近寄れない熱量を放っている。
火消しから少しばかり離れた位置で、茫然と佇んでいる門弟と黒田一道が居た。
「黒田先生」
晃之介が声をかけると、血の気が失せた顔で一道はゆっくりと振り向く。
威厳の大いに削げたかすれ声を漏らす。
「録山殿か……」
「御無沙汰しております。この度は……なんといいますか、火に巻かれた者は?」
老人の光が失われた目を見返して、晃之介はひとまず尋ねた。周囲には道場の者が項垂れているが、それが道場を失ったからなのか仲間が焼けたからなのかは判別が付かない。
目を瞑って一道は首を横に振った。
「居らぬ……」
「良かった……と、言えるのかわかりませんが。しかし何故、火が……」
「それは」
一道は改めて聞かれて少しだけ言葉を詰まらせる。
明らかにこの道場の燃え盛り方は、晃之介を抹殺するために仕掛けた燃焼物が原因である。そしてそれに火がついたのは、庭で芋を焼くため焚き火をしていたら突然吹いた箱根からの山風で火が散らばり、道場のまずいところへ燃え移ったことによるものだ。
暗殺計画・違法火薬所持・火の不始末。
役満で有罪である。
即座に一道は話を作った。
「わからぬ。とはいえ、長年剣客をしていれば恨みを買う事もあったかもしれぬ」
「恨みからの付け火か……許せんな」
素直な晃之介は義憤に駆られて苛立った視線を燃える道場に向けて、一道の手を取り、
「黒田先生。道場は焼けてしまいましたが先生が居るのです。弟子が居るのです。建て直し、また剣の教えを説いていく事をきっと皆望んでいます」
「そうだろうか……」
「俺の道場など、嵐で壊れ閑古鳥は鳴き弟子はいまだに一人しか居着きませんがなんとかやっているのです。立派である心破流がここで潰えるのは、いけません」
「そうです先生!」
「先生、また道場を建てましょう!」
「録山殿……お前ら……」
晃之介と、弟子の奮起の声に一道は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。勿論弟子の全ては師範である一道を心酔しているものだから、彼の指示による焼き芋とか爆殺装置とかが原因とは決して言わない。
そしてまっすぐで澄んだ目をしている晃之介の顔が、どうにもバツが悪くて見ることが出来ない。
あの野獣ですら心優しく見えるぎらついた録山綱蔵の目とは大違いだ。
「黒田先生。少ないですが、親父が借りていた金をお返し致します。道場の再建に役立ててください」
そう言って、彼の手に小判十五枚が入った包みを握らせた。
自分はこのような若者を暗殺しようとしていたのか。何が五分五分だというのか。なんかノリで意味のない悪い相談みたいな真似までしたというのに。
熱に浮かされていたとしか言い様がない。今朝までの自分を爆殺してやりたい気分だ。
そもそも時々イジメに来ていた男の息子を抹殺するとかサイコの発想だ。なぜこのような事に……
一道は恥ずかしさと有り難さに、威厳もなく俯いてしまった。
「すまん、すまん……」
謝りの言葉を発している一道。
とりあえず何やら込み入った様子だったので、尻目に九郎とお八はやや離れた所から火事を眺めていた。
「ってかすげえな。火の勢い。蝋燭問屋が燃えた時並だぜ」
「ふうむ。燃えやすいものでもあったのかのう……どことなく、硝煙の臭いがするが」
「剣術道場だぜ? 花火の火薬なんか置いてるわけねえし」
「そうではあるが」
近くから聞こえる声に一道は顔を強ばらせて頭を働かせる。
良い言い訳は無いものか。
頭に、火炎放射の仕掛けと火薬と毒を売りつけた怪しい薬売りの姿が浮かんだ。
思えばその胡散臭く、奇怪な容貌をした薬売りの話を聞いているうちに何故かもやもやと晃之介への、逆恨みのような念が浮かんできた気がしてならない。
そもそも毒とか火薬とか売る奴が真っ当である筈がない。見た目も凄まじく異形だった。
だから思いっきり罪をなすりつける気分で、言った。
「……は! まさかあの時の……!」
「黒田先生。なにか賊に心当たりが」
「うむ……。実はこの前、当道場に怪しげな面を被った薬売りが来てな。何やら……その……悪霊の如きものが建物に取り憑いているという話を聞いて、床下などに札を貼らせて欲しいと」
「怪しげな……面? 面が怪しげというか、面を被っている薬売りというだけで十二分に怪しい」
晃之介が頷くが、九郎とお八は渋そうにした顔を合わせて、
「なんかすっごく聞き覚えのある特徴だのう」
「いや、さすがに火付けはしねえだろ……たぶん」
言った瞬間、お八の顔の横から、赤い隈取のされた狐面がぬっと現れた。
そして脳に染み渡るようなしっとりとした甘い青年の声が、面の口元から発せられる。
「呼びましたかい?」
「ひゃあ!?」
「おっと、こいつは失礼……くくく」
人を喰った笑みで登場したのは、仮面の薬売り阿部将翁である。
背中に重そうな薬箪笥を背負い、遠出に適しているようには見えない高下駄を履いた変わった男だが、しょっちゅう旅をしている流浪で神出鬼没な男である。
「それにしても」
く、と笑いを零しながら火災をちらりと見て、一道の方へ歩き出した。
「よく、燃えたものだ」
か、か、と下駄の音を鳴らし近寄ってくる将翁に、晃之介が声をかける。
「将翁殿か……む、いや、疑うわけではないが、黒田先生……」
「いや、録山殿。確かに面を被っているようだが……あの形ではないよ」
少しほっとする晃之介。さすがに知り合いが、恩人の道場を燃やした火付けの犯人と思いたくはない。
将翁は一道の目の前に立ち、挨拶をした。
「どうも、あたしと似たような輩が居るようで」
「ふむ……感じる気質は正反対なのに、確かに何処か似ている」
「……御無礼」
「む!?」
将翁は何気ない動作で被っていた狐面を横顔にずらして、白粉を塗ったような白い顔と狐目を現し、一道の顔へ近寄せた。
何事かと思って離れようとする一道の顎を、そっと細く冷たい指で抑えて至近から彼の血走った目をじっと見つめる。
不思議な、見たことのない深みと色を携える将翁の細めた瞳に魅入られて、[心]の剣術達人である一道は原因不明の冷や汗を流した。
薄く紅を塗ってある形の良い口がくすぐるように動く。
「目を──病んでいるようですぜ」
「ん、目、目……?」
「もしかして──その毒薬売りに顔を触られたとか──このままじゃあ、目が爛れちまいます、よ」
「はふぅん……」
口付けには遠く愛を語らうには近い距離から放たれる妖気混じりの色っぽいイケメンボイスと脳髄を溶かして混ぜる芳しいイケメンブレスで、思わず悩ましげな吐息が一道から漏れた。道場の弟子たちは皆そっぽ向いて耳を塞ぐ優しさがあった。
背後に少女漫画めいた花が咲き誇りそうだ。男女構わず惑わすサキュバス並の魅了を持つ将翁にお八を守りつつやや引く九郎。
それにしても、一道は確かにここ数日は目から疼痛がしてどうも開くのも辛くなってきたのは本当であった。確か、毒薬売りから惑わし復讐を仄めかす言葉を受けた時に軽く顔に指を触れられた記憶もあった。
一道から離れて、袖口から小瓶を取り出す。
「この目薬を差すといい。一日二回、一週間も続ければ治ります」
「はい──ご、ごほん!うむ」
咳払いをして返事を言い直す一道。
九郎はしきりに頷きながら特に関係の無いことを口にする。
「目薬といえば己れが昔やってたばいと……いや、飲み屋の手伝いでは、常連客の指示があったら其奴が連れてきた女性に出す酒に目薬を垂らすように言われていてのう」
「酒に目薬ぃ? なんの意味があるんだそりゃ」
「なんだったかのう。一時期都市伝説みたいに流行っておったのだよ、確か」
爺さんの回春はともかく、
「宜しければその──毒薬売りの事をお聞かせ願いたく……」
再び狐面を被った将翁が訊ねると、一道は腕を組んで思い出す。
それと出会ったのはそう前のことではないのに、既に記憶が不自然なまでに朧げになっていたが、脳髄の井戸に落とした釣瓶で掬うように言葉にした。
「ううむ……その薬売りも面を被っていたが、そなたと違って赤く染めた、炎のような造形の奇異な面であった。それに顔は隠していたがその下は老人であったと思う。
ぼろぼろの法衣を着ていて、不思議と落ち着き耳に響く声をしていた。確か……『さんにや』だか、『なんとか法師』だと名乗っていたが。すまない、後者は何法師と名乗っていたか覚えていないのだ」
「……『さんにや』」
「屋号かのう? あまり聞き覚えのない言葉だが」
九郎が首を捻るが、それを聞き満足したのか将翁は踵を返した。
「……それじゃあ、あたしはここで。ああ、九郎殿にも一応ご忠告を。その赤い面の男は、近づかない方がいい」
「まあ、危なそうではあるが」
「そいつの吐く息と言葉には毒がある。近くで会話をしていると気が狂わせられる。
そいつの手指は毒で出来ている。触れれば毒を写される。
関わってはいけない。あれは、病の気から生まれた、人と異なる法で生きる──魔の物だ」
そう言って、鹹々(からから)と音を立てて将翁は歩き去っていく。
何処へ向かうのかは、誰も判らぬ。
一度だけ立ち止まって、思い出したように、
「あぁ、そう云えば」
空を指さし、
「小田原には、薬草畑の管理人に頼まれて雨乞いの儀を行いに来たのでして。すぐに、雨が降り火も消えます──よ」
彼がそう告げて、四半刻もしないうちに、空から大粒の雨が降り注ぐのであった。
****
雨は止まぬようなので、仕方なく三人は宿に戻った。
雨時に観光をするのもあまり気が乗らぬし、黒田道場の面々は後始末等で忙しそうだ。
暇なので室内で出来る鍛錬とやらを行ったりしていた。逆立ちをして腕の屈伸を行うのは、晃之介と九郎は楽々に出来たがお八はどう頑張っても不可能であった。むしろ、逆立ちの際に着物が裾から肌蹴たのでそれを見た九郎に逆立ちからの蹴りを放ったが、易易受け止められた。
謎掛けなども旅の合間中行い、ネタも尽きてきている。
うろ覚えでお八が問うに、
「ええと、上は洪水、下は大水これなーんだ。あれ? 上が大水、下が洪水だっけか?」
「どっちにせよヒャクパー水しか無いな、その状況」
などと九郎からやる気ないツッコミを受けていた。
暫くすると石燕らも宿に戻ってきた。
「いやあ、雨には参るね」
「先生、雨宿りすればいいのに蛇の目をすぐに買ったりして……一両もしたのに」
大事そうに濡れた傘を抱えてお房は石燕に続き部屋に入ってくる。その傘は石燕が無造作に、宿の入口に置いておこうとしたので慌てて回収したのだ。
蛇の目傘は複数の職人に仕事を分担させて作る手間賃もあり、当時の日用品としては一等に高級なのだ。傘の修理業者は当然として、レンタル傘屋もあったぐらいである。
当然、そのようなものを管理外に置いておく事は避けるべきであるのだが、石燕は気にした様子はない。
寝転がりながら九郎が云う。
「なんでも将翁の奴が雨乞いの儀式で降らしたらしいぞ、これ」
「あの陰陽師め。まあしかし、狐が呼んだ雨ならば明日にはからりと上がっているだろう」
「狐の嫁入りか」
「そうだね。そういえば狐は昔から嫁入りしまくる動物として人間にも愛好されているのだよ。とんだ異常性癖だね。
ある話に拠れば、狐が人間の嫁に為ったのだけれどある日正体がバレてこっそり出ていこうとする。しかし夫の人間は出て行った狐に、『こっちに来つ寝ろ』と呼びかける。これで来つ寝からきつねと呼ばれるようになったとか。
それにかの有名な、安倍晴明の母親も狐だったと言われているし、薩摩国島津家の祖もお産に化け狐が手伝ってくれたことから稲荷神社を信仰するようになったとまあ、狐は人に親しい獣だったのだ」
「饒舌だのう。なにか良いことでもあったのか?」
「ふふふ、まあね。いい話を聞いてね」
機嫌の良さそうに石燕は茶碗に酒を注いで、震える手で口元に持って行ってぐい、と清酒を飲んだ。手が震えるのはアルコール依存症のせいだ。
ほう、と焼けた吐息を放ち血色の良い顔色を見せる。
九郎はこの物知り絵描きにふと気になった事を聞いてみる。
「なあ石燕。『さんにや』って知ってるか?」
「うん? 妖怪のことかね?」
「いや実はな……」
と、黒田道場が焼けた顛末を説明し、それに登場する怪しげな面の毒薬売りについてのことだと言った。
晃之介も感心があるようで、座り直して石燕を見ている。
「ふむ、仮面、毒、そして『さんにや』……確かにそれは妖かしの事だね」
「妖怪か……」
難しそうに晃之介は唸る。
なまじ、恨みのある犯人というより正体の判らぬ妖怪の仕業という方が厄い事態に思える。
石燕は眼鏡を拭きながら云う。
「サンニヤというのはその特徴通り、仮面を被った病魔の事でね。日本でいうところの、疱瘡神に近い存在だね」
「包装紙?」
問い返すお八に、石燕ではなくお房が説明する。
「疱瘡神はその名の通り疱瘡の病気を擬神化した神様なの。百済や新羅から伝わったと言われてる疱瘡は、当初呪いとか祟りだと思われてたから神に祀って荒魂を抑えようとしてたの」
「へえ、さすが妖怪先生の弟子だな」
お八は感心しつつ、干菓子を齧っているとお房も近くに寄ってきて菓子を強奪し始めた。右手に茶、左手に菓子の隙のない布陣である。
何処か嬉しそうに石燕は鼻を鳴らして、もう一杯酒を飲んだ。九郎が疑問を訊ねる。
「む? 日本では、と言うことはサンニヤとやらは日本の妖怪ではないのか?」
「そうだね。大雑把に言えば印度辺りで伝えられている妖かしだ。十八種類の仮面を被りそれぞれに対応した疫病──いや、病という分類よりも多くの障害をもたらすとされている」
「ちなみに、その障害とは?」
「わかりやすい病魔として、風邪・伝染病など。体への直接影響としては、不具・盲目など。精神に及ぼすものは、狂気・悪夢など手広く扱っているようだね。そしてサンニヤの親玉は『サンニヤカー』とも呼ばれる」
晃之介が腕を組んで首を傾げながら、
「しかし、印度の妖怪なんかが何故この国に?」
「ふふふ良い所に気がついたね晃之介君。確かにサンニヤなんて知名度が低い名前の妖かしなのだが、その上司的存在が有名所でね。日本に渡ってきている大御所なので、それにくっついて本邦に伝わっているのだよ」
「妖怪に上司とか部下とかあるのか?」
「ま、妖かしというのは名目上の事で元は凋落した神であるというのは珍しく無いね? そしてその超有名上司の名は『ヴァイシュラヴァナ』……なにが凄いって、『ヴァ』が二回も名前に使われている! 力強さと流麗さを兼ね備えた、若い子に人気が出そうな格好いい名前だね!?」
「……知ってるか?」
「いや」
男二人がぱっとその有名上司について思い浮かばず、言葉を交わした。
石燕は半紙と筆を取り出して、さらさらと文字を書く。
「梵語ではなく漢字で書いたほうがわかりやすいかね? こういう名の神なのだが」
紙を二人に見せると、そこには『毘沙門』と書かれている。
これには二人も「ああ」と手を打って納得する。
「毘沙門天か、四天王の」
「それなら有名だの」
お八が手を上げて質問をする。
「石姉、毘沙門様っていうとその部下はええと、上杉謙信とかそういうのじゃないのか? なんで疫病神が部下になってるんだ?」
「上杉謙信は別に部下ではないよ。彼が信仰し毘沙門力を手にしていたとされるだけさ。正しくは百足などが神使なのだが、サンニヤカーは所謂眷属でね。
別名をヤカー、或いはヤクシャ族とも呼ばれる一族の王、クベーラが毘沙門天になったと言われている。それが仏教に取り入れられて日本に渡るに当たって、ヤクシャも名を変えて入ってきた。
『ヤシャ』と言えば聞き覚えのある名前なのではないかな?」
毘沙門の隣に『夜叉』と書いて示した。
そう言われれば、確かに知っている名称ではあると九郎も頷く。
「へえ……夜叉ってなんかこう、鬼の一種みたいな漠然とした印象だったのだが毘沙門天の配下なのか」
「道教的に言えば鬼は死霊や人を喰らう化物だが、仏教的に言えば獄卒も鬼ではあるけれど仏神の一種であるのさ。まあ、元が疫病神だっただけあって仏教に併合されてもまだ荒っぽい属性が抜けないが。
いまだに印度の南にある、もともとサンニヤが居た島では病魔として祀られているそうだしね」
その場所は現代で云うところの、スリランカだと伝えられている。
石燕は少し考え、
「しかし病魔の妖怪が現れたか……興味はあるものの、私は病気に弱いからなあ」
「確かにな。将翁も関わるなと言っておったぞ」
彼女は体が弱く、病気にかかれば治りにくい体質なのだ。アルコール依存症も病気の一種かもしれないが、こちらは二度と治る気がしないのではあったが。
肩を大げさに竦めて、軽い調子で云う。
「ま、火と毒属性のその相手には、丁度相反する木と薬属性な将翁に任せておこうかね」
「あやつ、木属性なのか?」
「怪しげな術で雨を呼んだのだろう」
「雨って水じゃねえの?」
「五行での水属性というのは流れる川を表すんだ。天から降ってくるものは、天に向かって伸びる木の属性だと考えられている。そもそも『雨』という漢字の成り立ちは、『木』の字に点が四つ付いた状態から生まれたのだよ」
「ふむ……」
石燕以外の四人は自分の手のひらに漢字を指で書いてみて、成程と頷いた。
ちなみに、石燕個人の説であるので普遍的な考えというわけではないが、当然のことのように説明されるとつい信じてしまうのであった。
酒を茶のようにずず、と音を立てて啜り続けて云う。
「サンニヤ仮面の事はともかく。それはなんとか法師とも名乗っていたんだって?」
「ああ。黒田先生はそう言っていたな」
「奇遇だね。私の方も──そっちとは恐らく関係ないけど──法師の妖怪が熱海の海で出ていると噂を聞いた。早速明日出立して探しに行こうではないか」
なにやら嬉しそうにしていたのは、妖怪探しのネタを手に入れたからのようである。
九郎が前に石燕と海坊主を見に行った時を思い出して、言った。
「……また海坊主じゃないよな。そんなに離れていないが、江ノ島から」
「違う違う。最近熱海に現れた妖怪は……」
石燕が再び筆でさっと紙に妖怪の名前を書く。
そしてにやりとして好奇心に光る目を向けながら楽しそうに告げた。
「『海難法師』だ」
****
夜だ。
黄昏時を過ぎて、水面はどこまで照らしても黒色を返す。
相模湾の静かな波間に、風が吹けばひっくり返るような小舟が浮かんでいる。
舟に篝火を灯し、烏賊などを釣る舟だ。二人の、中年男が釣り竿を垂らして漁を行っていた。
秋の夜だというのに、良い風が吹かずじめりとした空気が漂っている。
「なあ」
頭の禿げた小太りの男が、もう一人の舟の持ち主である男に呼びかける。
だが、反応は帰ってこずに苛々した様子で再び声を上げた。
「なあってよ!」
「叫ばなくても聞こえるだろうが」
「返事をしろよ、おい。そろそろ陸に戻らねえか?」
「ばか」
短く言葉を切り捨てて、鉢巻をした日焼けで肌の黒々としている男は睨んだ。
「坊主で帰れるか、くそったれ。こうなりゃ夜にでもならねえと、魚も食いつかねえだろ」
「でもよう、噂は聞いてるよな? 出るんだぜ、最近──海難法師が」
「馬鹿馬鹿しい」
唾を海に吐いて、だみ声を唸らせ竿を乱暴に振る。
今日はまだまったく魚が釣れていないのだ。
「海難法師だか、海坊主だか知らねえが、坊主で帰ったら母ちゃんに殺されるだろうが」
「でもよう、母ちゃんは一晩経てば忘れてくれるけど、化けもんにあったらお終いなんだぞ」
震えながら禿男は、篝火の心もとない明かりで照らされる周囲を見回す。
うんざりと船主がかぶりを振る。海に出れば危険が無数にあることなど承知して、何年漁師をやってきたと思っているのだ。
「だいたい、お前だって念のためとか言って、海妖怪に効く真水とか酒とか、変な狐面の薬売りから買ってたよな? 出てきたらあれを使えばいい」
「本気で真水ぶっかけただけで妖怪が逃げていくわけないだろ!」
「じゃあ金払ってまで買うなよ! ばかが!」
「気休めだよ!」
ぎゃあぎゃあと言い争うも、声が反響すらしない海の上ではむしろゾッとするほど音が吸い込まれていって、余計に陰鬱な不安に襲われてしまう。
不意に、ぬるいのに底冷えのする風が吹いて二人の言い争いに水を差した。
黙ると再び静寂が訪れる。陸と違い、虫や鳥の鳴き声もしない。
船主は不満そうに、頭を掻きむしった。
「ちっ……こうも辛気臭くちゃ確かに釣れるものも釣れねえ」
「じゃあよう」
「だが、晩飯ぐらいは釣っていかねえといけねえだろうが。一匹釣れたら帰ぇるぞ」
「おうさ」
ほっと安心した禿男も急いで釣るべしと竿を振るった。
いつもはよく釣れるのに、どうもこの日は可怪しい。
そう思いつつも早く帰るために、竿が動く事を祈った。
暫く。
経過しただろうか……。
無言で竿の先を見つめる二人の耳に、奇妙な響きが聞こえた。
『──お……』
体が強張る。
舟の反対側で釣る船主に、声をかけようかと悩んだが、再び聞こえる。
『……ろぉ』
「……お、おい」
「不気味な声を出すんじゃねえぞ……」
「俺じゃない……!」
否定の声をひねり出す。
耳を澄ますと、波間を小さく掻き分ける音が近くから聞こえてくる。
噂によると相模湾に現れた海難法師は、海を盥に乗って移動している。その見た目は水膨れした水死体が損壊して藤壺や海藻がびっしりと生えて、船虫が穴だらけの体を這い回っている──らしい。実際に見た者は居ない。なぜならば、
──海難法師は見たら死ぬと言われているからだ。
『……ろ…………ろ……』
声が近寄ってくる。
竿を落として、禿男は船主の方へ這い寄って必死に彼の服を引っ張った。
唾を飛ばしながら青ざめて、叫ぶ。
「出たんだよ、海難法師が!」
「どうするんだ!?」
「と、とにかく、見るな! 絶対、見るなよ!」
言い合っていると、腐乱臭とでも云うべき臭いが漂ってくる。
ざあざあと海を進む水音が近寄ってきた。
二人は目を瞑り、蹲る。
『……ぁ……ろぉ……ろ……』
舟が小さい何かにぶつかる音がした。
びしゃ、びしゃ、と濡れた手が船体を掴む。
「上がってきた……」
「ひいぃぃ」
臭いが──腐った臭いが、鼻に刺さり涙さえ出てくる。
舟にずるりと這い上がってくる。
びちゃり……粘性を持つ水が、二人の足に跳ねた。
「ううああああ」
「絶対、目を開けるな……!」
もはや海難法師の息遣いさえ聞こえてくる。汚汁まみれの魚の臭いが、耳に吹きつけられて吐き気を覚え全身の毛穴が膨れる気分だった。
ぶしゅう、と生物の潰れた音とにちゃにちゃと不快な咀嚼音が聞こえる。
『……ぁぁ……ろぉ……』
もはや、限界だった。
祈りの言葉を胸中で呟いて、どちらが速いか漁師二人は舟から着の身着のまま、海に飛び込んで泳ぎ逃げ出した。
文字に表せぬ叫び声を上げて、必死に舟から遠ざかる方向へ逃げていく。
舟に残った、真っ黒の人影はそれを見送って、海の底まで響く声を上げるのであった。
『……まぁ……ろぉ────』
海難法師。
熱海近くの沿岸に現れている怪異は──陸に辿りつけぬ怨霊は、くさやを食いながら篝火に照らされていた……。
<つづく>




