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30話『暗夜行路(前編)』

 旅をするには銭がかかるものである。

 特に必要なものは宿代だ。普通の、食事がしっかりと出る宿に泊まるとなると一泊百五十文から二百五十文は必要である。六科が大家をしている長屋の家賃がひと月六百文であることを考慮すると、外泊というのは殊更金がかかる事がわかる。

 長屋の荷物を売り払って気ままな旅に出た弥次喜多でも無ければ、趣味で旅行などをしている者はそれなりに金を持っていると思って良い。 一生に一度の伊勢参りに出かけるとなれば近所親戚から金を借りて行く程だ。

 そういうわけで、金を持っているに違いない旅人を狙う野盗は尽きない。掏摸すり、置き引きならまだしも、凶器を持って襲い掛かってくる山賊めいた集団もかなり居たようだ。

 家禄を失った武士崩れが食えずに身を落とすケースも多く、そのような落ちぶれた者は特に凶暴であるらしい。

 

 六人の盗賊集団が目を付けたのは、ある一団だった。五人組でのんびり歩いている旅人で、先頭に用心棒のような浪人風の青年が居る以外は、少年が一人、少女が二人、女が一人で脅威になりそうな者は居ない。

 用心棒さえ打ち倒せば後は楽に略奪が行えるだろう。

 一人旅より複数人で旅をしている相手の方が金を多く持っている。

 盗賊は舌なめずりをして、握った大きめの石礫に力を込めた。

 まずは投石で相手を弱らせてから斬りかかるのがこの一味の遣り口だった。江戸から小田原を結ぶ街道を根城にしている、まっこと凶悪な輩である。

 人通りの少ない、山道沿いの曲がり道に待ち伏せて機を図る。

 そして、


「えいや!」

 

 と、ばかりに大きく振りかぶった石を一斉に先頭を歩く用心棒と少年に投げつけた。

 体の何処に当たっても強烈な衝撃で動けなくなりかねない、強い投擲だ。慣れた手口は正確に相手へ直撃の線を伸ばす。

 六つの石礫が当たる──そう思ったのだったが。


「よっと」

「危ないな」


 軽い声と共に、少年は二つの礫を両手で受け止めた。

 用心棒は背負っていた十貫はありそうな荷箱を振り回して、残り四つの石を弾き落とす。

 投擲と同時に走り出していた盗賊は、ややその速度を緩めて、意気高揚としていた悪い顔を不思議そうに歪めた。


「盗賊だぞ、晃之介先生よ。次はお主の番だ」

「さっきお前が捕まえたのは掏摸だったじゃないか……まあいい」


 順番で盗賊の相手を行うという取り決めだったのだ。正確に言うならば、片方が対応してもう片方はその間周囲の警戒をしておくのであるが。

 晃之介は無造作に荷箱に手を突っ込んで引き抜いた。

 いったいどう折りたたんでいたのか不明──六天流収納術らしい──だが、中から一間二尺ほどの槍が出てくる。

 そして、持っていた杖代わりの棍棒と槍とで両手に構えて、敵へと切り込んだ。

 江戸に落ち着いて道場を建てるまでは旅ばかりしていた為に、盗賊への対処は慣れている。

 九郎が手伝う間もなく、的確に盗賊らを相手の間合いに入ること無く、長い棍棒と槍でしたたかに打ちのめした。

 主に膝を狙って砕かれ地面に倒れた相手を踏みつけて行動不能にしていく。


「手際がいいのね、晃之介さん」

「さすが師匠だぜ」


 少女二人が緊張感の無い声を出して観戦している。

 あっさり六人打ち倒して、相手の持っていた腰帯や下緒(刀の鞘に巻かれた紐の事)で盗賊を後ろ手にして縛った。

 そして槍の穂先を一人の眉間に突きつけて、


「貴様ら、他に仲間は居るか」

「ひ、ひいい……」

「仲間は居るかと聞いている」

「い、居ねえ! これで全部だ!」

「そうか」


 晃之介は槍を下げた。

 盗賊というのは無駄に仲間意識が高い事が多く、仲間がやられたらその復讐に道中で再び襲いかかって来かねない。それが心配だったのだ。

 彼が父と旅をしている頃は、盗賊に襲われた時には、相手の根城を吐かせて襲撃をかけて壊滅させた事が何度かある。そうせねばならないほど、襲撃の警戒をしながらの旅というものは過酷になると口を酸っぱくして父に教えられた。

 盗賊の住処に溜め込んでいた小判を懐に入れつつそう告げてくる父は頼もしいものであった。そう、決して旅銀が少なくなったからこうしているのではないのだぞ息子よ……勘違いするな……あと奉行所に告げ口とかもするなよお前も同罪だから……などと言っていた言葉は忘れたい。

 まあ同行者が居るこの旅でそこまでする暇は無いが。

 

「さてと」


 晃之介は片手に持った棒で男たちの下顎を掬い上げるように打ち据え、気絶させていった。

 そしてもう一度厳重に手足を縛った時に丁度飛脚が背後から走ってきたので声をかける。


「おい、少し」

「へい? うわっ!? だ、旦那方、これはどうしたので?」

「こやつらは追い剥ぎの強盗だ。俺が懲らしめて於いたが、今までも相当に悪行を重ねているだろう。ここに縛って捨てておくから、先にある奉行所に知らせておいてくれ」


 そう云って、飛脚の手に一分銀を握らせる。

 飛脚は倒れ伏した野盗と、手にある一分へ視線を上げ下げしたが、


「承知しやした!」


 と、足早に駆けて行くのであった。

 それを見送りつつ石燕が一纏めになっている盗賊らの近くに、文字を書いた紙を張り付けて置く。


「石強盗なので縄を解かないで置くべし、と。さて、旅を続けるかね」

「そうだのう。しかし、晃之介。随分気前よく金を払うな」

「そうか?」


 晃之介は金を抜き取った空の財布を盗賊の懐に戻しつつ、しれっと応える。

 

「師匠……それっていいのか?」

「なんていうのかしら。逆強盗?」

「いいじゃないか、ただなんだから」


 お房とお八が半眼で晃之介の手慣れた収奪を見て呻くが、彼はまったく悪びれる様子はなかった。





 ****




 この五人組が旅に出たのは四日前の事である。

 石燕のいつもの我儘というか、九郎との約束で熱海まで温泉に浸かりに行く計画を立てていた。

 それで一緒にお房も連れて行こうと緑のむじな亭で話し合っていたものの、店があるからと消極的だったお房だったが長屋に住む女按摩のお雪が居ない間は店を手伝うと言ってくれたのでそれならばという事で同行することになった。

 お雪の光を映さぬ目が怪しく輝いていた気がするが、石燕以外誰も気づくことはなかった。

 丁度その時に店に居た晃之介が、近々小田原に行く用事があったのでそれに合わせようかと話が進む。

 かつて旅をしていた時に寝食どころか金子の世話にまでなった小田原城下にある剣術道場に金を返しに行くのだという。生徒は少ないものの江戸で幾らか手柄を立てて金が幾らかあるのだ。年末になれば何処も懐事情が厳しくなるだろうから、その前に返しておきたい。先立って小田原に文を送り、出向くことを伝えている。

 その話を聞いたお八が自分も行きたいと言い出した。知り合いの同中とはいえ、十四の娘を旅に出すのは親御が許可しないだろうと九郎は言ったのだが、


「九郎殿と晃之介様が同行なさるのならば危ない事もありますまい」


 と、[藍屋]の主人から太鼓判を押されて許可されるのであった。

 このような繋がりにより、五人の旅路が決まったのである。 

 旅中は何度か掏摸や掻っ払いに遭遇することがあったが、どれも九郎と晃之介が退治していた。


「こうなるとまるで世直しの旅に出たみたいだね」


 石燕が涼しく笑いながら言う。


「コウさんクロさん、やっておしまいなさい──とね。そうだろう? うっかりお八にかげろう房」

「なんであたしの立ち位置がうっかりなんだよ。っていうか何の話だそりゃ」

「ふふふ気にしてはいけないよ。さあ! 世直しの第一歩として金閣寺に火を付けに行こう! 高所得層の忌まわしき象徴だ、あれは!」

「黄門様なのに過激派アカになってどうする」


 九郎が呆れたように肩を竦める。

 そんなこんなで珍道中を続け、一行は小田原に辿り着いた。

 小田原は徳川が江戸近辺を開発するまで、関東で最も発展した場所でもある。鎌倉の見どころは多くそれだけ旅人が集い、或いは江戸時代の一時期においては、節約質素を将軍勅令で申し付けられた江戸の町よりも賑やかな場面があったかもしれない。

 特に観光で多いのは、寺社参りと温泉だ。熱海や箱根も有名だが小田原城下にも多くの温泉が湧いている。

 特に昨今では富士山の大噴火による影響として農業がかなり衰退しており、その分観光収入を得ようと宿場が盛んになっているのである。

 急ぐ旅ではない。今日のところはここに逗留し、ゆっくりと熱海を目指せば良い。

 観光地として箱根も近いが、石燕の、


「山登るのしんどい」


 という言葉で却下されている。

 旅籠の内湯に温泉を引いている上宿で思い思いに休みを取っていた。

 部屋の境である障子を開け放ち大部屋風に繋げて女三人組は畳に寝転がっている。

 夕食まではもう少し時間があるが、出かけるには遅いという時間帯だ。

 早めの酒を、外で売っていた温泉で茹でた大根菜の和物をつまみに飲んでいる石燕はふと思いついた事を口にした。


「幸運助平の時間だ!」

「何をいきなり言ってるんだろうな、石姉は」

「さあ」


 酒があまりよろしくないところに既に回っているのだろうか。

 そうなのだろうな、と少女らは残念そうな目で酔っぱらいを見る。


「九郎君と晃之介君は折しも内湯に浸かりに行っているね」

「うん」

「入浴姿でも覗きに行こう」

「ごほっ!」

 

 お八が咳き込んだ。

 一瞬ふんどし姿(彼女の想像力ではそこが限界だった)で風呂場にて背中を洗い合う九郎と晃之介を思い浮かべ、妙な暑苦しさと照れ臭さを覚える。

 ぐてり、とうつ伏せに寝ながらお房は疑問を口にする。


「どーしてそんなことを?」

「ふふふ……絵を描くという行為においては人体を理解するというのは基本中の基本なのだよ房よ。他人が絵に描いたそれを参考にするというのも勉強ではあるが多くは簡略化されていたり特徴を強調されたものであることが多い為に実物をしっかりと把握しておく事が」

「本当は?」

「ぐへへ九郎きゅんの裸見ようぜ」

「駄目だなこの未亡人!」


 お八は欲望を顕にする石燕の肩を掴んで制止する。

 地面に潰れたまんじゅうのようなやる気のなさでお房が言う。


「っていうか先生、見たことないの?」

「ふふふ……九郎君はあれで身持ちが硬くて」

「身持ちて……いや、まあ旅の間、九郎と師匠は烏の行水みたいな疾さで上がってきてたけどよ」

「そうだ。前に旅をした時もそんな感じでね……ふふふ、推測するにこういうことだね!」


 石燕が指を立てて邪悪な笑みを浮かべる。


「九郎君は──『小さい』事を気にしている!」

「な、なんと……」

「晩ご飯まだかな~」

 

 ぐっと拳を握る二人とは対照的に、どうでも良さそうに声を出すお房。

 陰謀を巡らせる会議は不参加者を置いて更に進む。


「旅も五日目。そしてようやくの温泉だ。それにここの宿は男湯と女湯が分かれていて広々とした作り。となればあの二人とて少しばかりのんびり入るのは間違い無い」

「成程……石姉そんなことばかり考えてたのか……」


 ある意味スゴイことだとは思う。つまりは、やや引く。


「尊敬してくれても構わんよ? しかしここの男湯と女湯は脱衣所の入り口に木札が下がっているだけに過ぎない、隣同士に作られた簡単なものだ」

「ふむ」

「ところが誰かの悪戯により木札が入れ替えられてしまっていて、九郎君と晃之介君は今頃男湯と札のかかった女湯に入っているのだ!」

「誰かって一番疑わしき人物が目の前に」

「私達はその卑劣な罠に引っかかり二人が居るのに風呂に突入! ウハウハザブーン! というわけだね!」

「そうすれば覗きに入ったという企みはバレずに、あたしらが悪いわけじゃないと言い張れるのか……天才だな……」


 やや赤らんだ真面目ぶった顔で言いながらお八は着替えの準備を仕出した。

 年頃の異性の体に興味はあるらしい。


(いや……これはあれだ。九郎の体に合った服を作るために必要な情報を得る、修行的行為……!)


 誰にともなく胸中に言い訳をする。

 石燕も用意を整えて二人は立ち上がった。


「房もどうだね? 温泉は気持ちいいよ?」

「んー、わたしは後で入るからいいの」

「そっか」


 寝転びながらお茶を器用にすすって、部屋から出て行く二人を見送った。

 一人になった後、彼女は感心はないが微妙に首を傾げつつ、


「九郎の裸なんて見てどうするのかしら。別に変わった風ではなかったけど」


 呟いて、干菓子をぼりぼりと齧る。

 彼女自身は何度か九郎や父と共に湯屋に行ったりしているので裸体も見ている。だが、特に先入観の無い彼女としては父の裸も九郎の裸も別段感想を持つようなものではないらしい。




 ****

  

 

 

 時間的に丁度良かったのか、温泉には九郎と晃之介の二人だけが入っていた。

 宿から少しばかり離れたところにある公衆浴場である。せっかくの温泉なのだから宿の内湯ではなく、もっと広い場所に入ったほうがよかろうと考えて二人で来たのだ。

 広々とした湯船で二人しか居ないとなると開放感が大きい。九郎は手足を伸ばして首までつかって心地よい息を吐いた。

 

「癒されるなあ……」

「ああ。たまには温泉もいいものだ」


 薄く目を閉じて瞑想しているような体勢で湯に入っている晃之介も同意した。

 さすがに晃之介の体は全身鍛えあげられてて一目で武芸者とわかる筋肉質である。頭に手拭いを巻き、リラックスしつつも弛緩した様子がない。

 長い付き合いになるからわかるが、晃之介という男はいついかなる時でも気を弛まさず、かつ張り詰め過ぎずに感覚を澄ませている。

 なかなかここまで油断の少ない戦士は見ない、と九郎は思う。


「しかし九郎」


 晃之介が面白そうに声をかける。


「お前はてっきり、風呂が嫌いなのかと思っていたがな。すぐに上がってしまうから」

「そうでもない」


 否定して薄く笑い肩を竦める。


「ただ、江戸では湯屋が非常に混んでいるだろう? ああも芋洗いのようだと長々と入る習慣が無くなってな」

「確かに」


 晃之介も苦笑した。

 大層風呂好きな江戸の住人であり、多くの湯屋が当時の江戸にはあったのだが、家湯が無いために湯屋を利用する人数は非常に多かったために毎日が大混雑であったようだ。

 特に湯船に入る際には、周りの人間と肌がくっつきあい押し合うような有り様であったため、


「枝が当たり失礼」

「田舎作法で失礼」


 などと謝罪言語を用いつつ隙間に入らなければならないのだ。

 現代で云うところの、満員電車に入る際に平手を立てて謝るような仕草で半身に突っ込むようなものだろうか。

 ともかく、そうなればゆるりと湯船を堪能などとても出来ない。

 九郎がのんびりと入ったのは、何度か湯屋の営業時間外に影兵衛と行った時ぐらいである。同心はその特権で一番風呂に入ることが出来たとされている。これは、仕事に関わる秘密話をする際に利用するためであったようだ。


「そういうお主こそ、早風呂早着替えであったようだが」

「風呂場や着替え時は武器が使いにくいからなるべく急げ、と教えられていてな。今も小刀一本しか持っていない」

「持ってるのかよ」

「安心しろ。柄まで鉄で作って鯨の髭を巻きあしらえた物だから上がった後によく拭けば腐ったりはしない」

 

 それを隠している頭に巻いた手拭いを軽く小突いて、晃之介は頷いた。普通の刀を湯につければ目釘や柄が腐るので特別に作られたものである。


「まあ、たまにはのんびりするのがよかろう。まずはお主の用事を済ませて、熱海で釣りでもするか」

「鮒釣り用の竿を持ってきたんだが、平政ヒラマサは釣れるだろうか」

「多分鮒竿と糸じゃ無理であろう……いや、釣ったことはないのだが」

「試してみる価値はあるな……」

「微妙だろ」


 などと言い合っていると老人が二人ほど浴場に入ってきた。


「むっ、今日は空いてるだな」

「おうさ」


 老人二人に軽く会釈をする。

 かけ湯をし、体の垢を軽く落として湯船に入ってきた地元の者らしき老人は晃之介に話しかけた。


「何処から来た人だね」

「江戸から。知り合いの旅の用心棒としてな」

「へぇ~剣術やっとうの先生というわけですかい。確かに大した力瘤だ」


 頷きながら納得する。そして下世話な冗談の顔をして、


「下のほうもこりゃあ剣豪だ」

「よせよせ。俺が剣豪なら将軍がほらそこに」


 晃之介が笑いながら指を九郎に向け、老人達はのんびりと使っている少年に顔を向けて驚愕に顔を引き攣らせた。


「た、確かにこれは将軍……いいや、暗黒大将軍だ!」

「人の物をグレートマジンガーみたいに云うな。それにこれはもう年の所為で引退大御所なのだ」

「いやいや大御所ったって、ほれわしらのなんかもう入滅した雑兵みたいなもんで」

「本当だ」


 老人が溜息混じりで顔を落とすので九郎もそれを見て、同じく少しだけ陰鬱な気分になった。

 年齢からするとその老人らと同じ状態であるのが普通なのだが、果たしてそれを望むべきかどうか。悩みどころではあるが、使えないという点では同じだ。

 大きいというのも面倒なところがある。褌をつけると違和感が酷いのだ。仕方なく九郎は異世界から持ち込んだステテコを下着に利用している。まあ、好き好んで履きなれない褌をつけようとも思わなかったのではあるが。

 などと思っていると、老人が声を潜めて入り口を見ながら言った。


「おう、来るぜ。最強の雑兵が」

「最強の雑兵?」


 問い返すと同時に、戸が開けられて新たな客が入ってくる。

 それは六科のような大柄な男を更に筋肉の鎧に身を纏わせた巨漢である。はち切れんばかりの肉体と厳つく骨太い顔立ちの、プロレスラーのような印象を受ける。

 晃之介と九郎をぎょろりとした金壺眼で睥睨してくる。鋭く冷たい光を灯した視線と、体幹のバランスの良い歩き、そして全身から漂う圧迫感からして、


「かなりの強者……」


 に、見える。

 そして老人の言葉通り逸物は雑兵なのがむしろ面食らう。確かに、見た目は最強なのだが一点のみが雑兵だと主張している。


(大きなお世話ではあるな……)


 九郎は苦笑いを噛み殺して顔を背けた。

 男はかけ湯をしながらも、むすりとした顔立ちをやめずに、さらにちらちらと晃之介へ視線を送っていた。

 どこか、視線に殺気をはらんでいるようにも思える。

 一方的に何やら品定めされている気がして、晃之介も厭な気がしてくる。

 しかしここで喧嘩などをしても馬鹿馬鹿しいと思い、


「そろそろ上がるか」


 と、湯船から立ち上がった。

 男は晃之介の立ち姿を見て、強張った表情で眉根を寄せ僅かにひるんだようなうめき声を小さく漏らす。

 

「それでは己れも出るかの」


 九郎も体からぬるりとした温泉の湯を滴らせながら立ち上がる。 

 物がバルボッサの反逆とばかりに雄大に揺れる。

 

「ぐ、ぐぐ……ぬううう……」

「?」


 歯ぎしりをしながら血走った目で男が後退りしながら怯える。


「うおおお!」


 そしてついに、何やら叫びつつ男は湯船にも浸からずに浴室から走り去ってしまった。

 九郎は首を傾げ、


「意味がわからん」

「俺もわからんが、どうも九郎のを凝視していたぞ」

「怖っ……」


 身震いをして顔を曇らせた。




 ****

 



 二人が宿に戻ると、石燕とお八がやさぐれた気持ちで酒を飲み交わしていたので、お房に尋ねてみると、


「男湯と女湯を間違えて入ったら、知らないおじさんの裸みちゃったんだって」

「はっはっは。阿呆だな」

「うるせへー!」


 酒の所為で早くも呂律の回っていないお八が怒鳴りながら九郎の首を締める。

 力は殆ど入っていないので猫にじゃれつかれているようなもので、軽く九郎は手を取って転ばせて頭をわしわしと掻いてやる。

 

「まったく。九郎君と晃之介君の絡みでも描いてやろうかと思っていたのに……」

「石燕殿は余計な事をしないでくれ」

「こんなおっさんしか居なかったとは、がっかりだよ!」

「リアルな画風で描くなよ!?」


 写実画で描いたちょっとはにかみ中年全裸図を広げられ、即座にそれを奪って丸めて部屋の窓から放り捨てた。


「くうう……九郎君の湯上がり卵肌め! 若々しい肌年齢が憎い!」

「頬ずりしてくるな! 大人げない!」

「……! あうう……」

「いきなり石燕が落ち込んだ」

「どうしたんだぜ?」

「先生は気づいたの。肌年齢がこの場で一番年を食ってるのが自分だって」

「房……」

「ぬあーん」


 ばっさりと云うお房に蛸の如く絡みつき締め上げる石燕。確かに、はたから見れば彼女が旅仲間で一番の年上だ。

 まだ二十代とはいえ、少しばかり悲しくなる石燕であった。


「ま、とにかく酒でも飲ろう。ほれ外でな、小田原名物の梅漬けを買ってきたでな」

「お房ちゃんには蒸しまんじゅうを買ってきた」

「わぁい晃之介さん大好き」

「即物的だなあ……」

「うちの娘を!」

「お主にはやらん!」

「なんでお前らが荒ぶってるんだ……」


 餌付けしている晃之介から庇うように立ちふさがる舅と姑のような九郎と石燕である。

 お房は特に気にすること無くもっちもちとまんじゅうを頬張りお茶を飲んで澄ました顔をしている。

 九郎の膝に寝ながらお八が笑いつつ、云う。


「まー師匠の女っ気の無さは悲しいぐらいだから、いっそお房でも嫁に来てもらわねーと。ひひひ」

「五月蠅いぞ、女らしくない筆頭弟子め。だいたい俺だって、この前見合いっぽい話が来ていただろう」

「そうなのか?」


 意外そうに九郎が尋ね返す。

 神妙に頷いて、


「見合いっぽいというか……果たし合いっぽいというか……」

「うわ駄目っぽい」

「まあ聞いてくれ。以前に柳川藩の御用人である大石殿という方に呼ばれてな」

「ああ、膝の藩の」

「……ともかく、その伝手や前の御前試合もあり、俺の剣術の腕もそれなりに買われているんだ」

「ふむ……」

「そしてその大石殿と申す御仁の娘がまた女だてら剣術の鬼で、自分を剣で打ち負かせるような相手でなければ結婚せぬと言い張っていたそうなのだ」


 興味深げに彼の話に耳を傾ける。


「何処かでありそうな話だな」

「いかにも気位の高い女侍即落ち編の導入みたいな相手だね」

「かと言って見合い試合とはいえ、女に負ければ武士の恥。敬遠されてなかなか嫁の貰い手が居ない。そこで俺に声がかかったのだが……」


 その御家人が婿に晃之介を選んだのも、家禄は無いとはいえ柳川藩に顔も売れている武芸者であるからだろう。

 まだ若いこともあり将来的に仕官する可能性も考えられるためにそう悪い相手ではないと思われたのである。

 晃之介は腕を組んで困り顔で言い難そうに、


「ついうっかり、相手も強かったものだから必要以上に叩きのめしてしまってな。心身ともに酷く傷つき剣を止めてしまったそうだ」

「なんでそう良い所で加減を失敗するのだお主は」

「骨はまずいだろう骨は、と立花家の方々にも叱られてな」

「嫁入り前の娘を物理的に傷物にしてどうするのかね」

「やはりやり過ぎたか……」

「師匠……頼むからあたしの骨は折るなよ」


 ジト目でお八から言われて、明言を避け晃之介は誤魔化すように酒盃を呷った。

 一応晃之介も謝罪に行ったのだが、その娘は親の背中に隠れるようにしてじろりと睨みを返してくるばかりで謝っても返事もされないし、柳川藩中屋敷で稽古に呼ばれてもそこはかとなく柱の影から睨んでくる。

 この前はどうやって場所を突き止めたのか道場の入り口からこっそり睨んで来ていた。あと夜中に風に乗せて怨念の篭った歌とか聞こえてくる時がある。

 声をかけようとすると猛烈な勢いで逃げていく。

 これには晃之介も、


(相当恨まれているようだ……)


 と、反省するのであった。

 ともかく、運ばれてきた夕餉の膳を並べて酒を飲みながら明日の予定を語らう。


「俺は知り合いの道場に顔を出しに行くことにしよう」

「ふむ……そう言えば、その道場の相手は強いのかえ?」

 

 問いに晃之介は首肯しつつも妙な言葉を返す。


「強いというか……強そうなんだ」

「いや、実際は?」

「わからん。だが、とにかく強そう過ぎて、並みの相手では気圧されて立ち会えん。凄腕が相手でも一回も打ち合わないのに引き分けにしようとどちらともなく言い出す」

「ううむ……」


 少し考えて、


「お主が云うのならばそのような人なのだろうな。己れもついていっていいかえ?」

「んっ、九郎が行くならあたしも」

「そうだな。門下が十人二十人は居る道場だからお前らが来ても問題あるまい」


 同意が得られたところで、石燕はお房に目をやりつつ、


「なら私達は勝福寺の十一面観音でも見に行こうか、房よ」

「はぁい先生」

「十一面観音はいいぞう、なにせ現世利益が十個も付いている。いや、特に仏像は絵にしても売れ行きがいいから房も勉強するといい」


 お房を抱き寄せながら石燕は酒の銚子を追加で持ってきた中間に、更に追加で注文を頼んだ。

 やがてお房は腹一杯になり風呂に入ってきたらすぐに寝た。まだ九つほどの少女だから旅で疲れたのだろうが、なんというかいつも通りの生活習慣を保っているマイペースな娘である。

 勢いで酒を飲んでいるお八が九郎の肩口をつまみつつ、うつらうつらとしている。

 思い出したように石燕がうれしげに尋ねた。


「そう言えば晃之介君。少しばかり尋ねたいのだが」

「どうした?」

「九郎君って、げゅふふっ、小さい、ふひっ、のかねっ」

「問いがゲスすぎてうまく息できてない!?」


 悪徳な顔で汚い笑いを漏らしつつ訊ねる石燕に、晃之介はいたって真面目な顔で応える。

 この男は酒を飲むと見た目はそう変わらないが機嫌が良くなるのだ。


「いや、でかいぞ!」

「おいお主も」

「これぐらいはあるな!」


 と、筋肉質な自分の右手を出して、手首の下──下腕部の半分ほどの所を左手で掴んでその先の手をぐっと握った。

  

「なっ!?」


 石燕が絶句する。


「い、いや待て!」


 その大きさの図に半分寝かかっていたお八すら飛び起きてむきりとした彼の腕を注視した。

 お八は晃之介が示した手の長さを自分の手で物差しにして、己の座っている腰の辺りに持って行き確認する。

 そして酒の回った顔を青くした。


「胃に届くだろ!?」

「いらん心配をするな……」


 批難がましい言葉へと対して煩そうに九郎は耳を塞ぐのであった。

 騒がしくもあり楽しくもあり、旅の夜は更けていくのである。




 ****




 夜闇に──。

 行灯の明かりが照らしている、冷たい板間の道場だ。

 小田原・風祭二丁目にある[黒田道場]という剣術道場である。奉行所の剣術指南役も出した事がある道場で寛文の頃からここにある。

 心破流という大太刀一刀流の剣術を教えていて門下は二十五名居り、師範で道場主の黒田一道という一切を老剣士が取り仕切っていた。

 白い明かりに浮かぶ、見透かすような黒田の眼前にひれ伏すような大柄の男が居る。

 九郎と晃之介が浴場で少しの間邂逅した、あの雑兵である。

 名を佐藤唯三郎と云う。

 この道場の師範代の一人である。


「それで……」


 老人、黒田から声がかかる。

 歳の割にしわがれた所のない、はっきりとした重低音の響きだ。

 佐藤は心臓を鷲掴みにされているような恐ろしさに襲われる。この先生は、本当に怖い。


「録山の男はどうであったか」

「は……」

「容易い事は、あるまい。どうであった」

「私めが見ますに、五分……勝てぬ事は、ありますまい」

「そうか。ならば明日、お主がやるのだ」

「御意……」


 深々と頭を下げる佐藤を一瞥して、黒田は天井にこびり付いた血の痕を見上げて呟いた。


「明日……忌まわしき過去の禍患を終わらせる……」


 闇に囚われた道場に、報いと復讐の悪意が満ちている。 

 それは晃之介も覚えていない過去から追いかけてきて彼を捕らえるべく、待っていた。忘れがたき因縁を忘れる為に……。 

  


                                                       [つづく]

 

  

  

 

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