29話『鳥山石燕事件簿[首塚絡繰屋敷の蛟龍]』
突然の大雨であった。
九郎と石燕が大川を渡し船で移動中の事である。
その日はどうも真っ黒な分厚い雲が空に張り出し、いつ雨が振るかと不安だったのだが版元に用事もあった為に、二人が出かけた帰りであった。
遠雷の音が数分聞こえたと思ったら、滝のような豪雨が降り注いだ。一間先すら見えないような、目を開けてるのがつらい激しい雨である。
川の真ん中で舟とあらば逃げることも出来ない。
これには堪らず、二人も悲鳴を上げた。
「ふふふふふ!! いかんね買い足した墨壺がお釈迦になりそうだよ!」
「ぬああ! 船頭よ、どうにかならんのか!?」
ざあ、では無くどばぁ、と大音響が鳴る中で叫ぶと、やはり大声で返事が帰ってきた。
「こうなるとそこらの船着場も見えないし混雑しちまいやすぜ! 中洲に雨宿りできる無人の屋敷が近いからそこに向かいやす!」
「頼むぞ!」
葦がぼうぼうと生えている大川の中洲島は立地として良いとは決して言えないが、建物がいくつか存在する。
漁業者の拠点であったり、火気厳禁の花火職人の作業場であったりだ。
大雨と雷の音に急かされるように舟を進ませ、急に夜になったような暗さの中、中洲に浮かぶ大きな建物の影が雷光の影に見えてきた。
九郎はどことなく不気味さを感じて、船頭に訊ねる。
「ちなみになんの屋敷だ!」
「ええと花火職人が季節の時にだけ使うところで……地元では[首塚絡繰屋敷]って呼ばれてるところでさぁ!」
「凄まじく不吉であるなああ!? なんで町を流れる川の真ん中にそんな怖そうな場所があるのだ!?」
激しく疑問を感じるがそこに雨宿りに行く他は無い。川の流れも増水し始めて不安定な濁流がうねりを上げてきている。
必死に舟を向かわせる船頭と、目元を雨から覆いながら聳え立つおどろおどろしい建物を眺める九郎。
背後から石燕が気分たっぷりに語り口を開く。
「この時はまだ、あんな恐ろしい事件が起こるなんて私達は誰も想像すらしていなかった……」
「むしろもう想像しちゃってるんだが」
九郎はツッコミを呟くが、滝のような雨音で消えた。
****
全身、濡鼠になりながらも九郎と石燕、そして船頭は[首塚絡繰屋敷]とやらに辿り着いた。
戸を開けて中に入ると、中には既に先客がいるようであった。
屋敷の入ってすぐの場所は囲炉裏のある部屋で頑丈そうな分厚い引き戸が玄関以外の三方を囲んでいる。花火作りに使う屋敷だけあって、火を使う部屋は一番手前で厳重に隔離されているようにも見えた。
外は闇天となっているため室内の明かりは囲炉裏にかけられた火と蝋燭を使った行灯が三つ程置かれているものである。
「おやぁ? またお客さんだ」
黒袴を着て片膝を立て座っている、頭には多く白髪が混じっている初老の男がこちらを見て先ず言葉を出した。
口に咥えた品のいい煙管からは小さく煙が伸びている。
九郎は、
「雨宿りに着たのだが、ご同輩かのう」
「そ。ここに居るの皆揃ってついてない集まりなんだな、これが」
男は少しだけ皮肉そうに笑って、囲炉裏を囲んだり壁に背を預けて座っている、雨宿りの集団を見ながらそう言った。
九郎らを除いて、三組が現在降っている反体制的にすら感じる凄まじい豪雨に降られ、この屋敷に逃げ込んできたようであった。
一組目は発言をした初老の黒袴を着た侍風の男。煙管を喫んでリラックスしているようだ。
もう一組は囲炉裏で目刺しか何かの干物を炙り齧っている、無頼の博徒みたいな雰囲気を持つ男とそれの子分に見える小男。
最後に部屋の隅で忙しなく濡れた服を、妻か下女かわからぬが隣に座る女に拭わせている商人風のでっぷりした男だ。
それに九郎らが連れてきた船頭が全部で四人。
「そう、犯人はこの中にいる……ふふふ」
「まだ何も起こってないぞ」
不吉な呟きを零しながら、ぽたぽたと水滴を髪から落としている石燕がにやついた。
その姿は妖怪の濡れ女のようにも見える。
ともあれ、体の強くない石燕だ。濡れたままでは風邪を引いてしまう。九郎はさっさとこっそりと符で乾かした手拭いを渡した。
初老男があぐらを掻いた膝に頬杖をつきながら云う。
「いやしかし、凄い雨だねぇ。今年一番じゃないのかな、これ」
「まったくだね。雲龍でも空に飛んでいるのかと思うよ」
髪を傷ませないように拭いながら石燕が言うので、九郎が言葉を拾う。
「ほう、石燕。妖怪の仕業ではなく龍の仕業と見るか」
「そうだね。降雨は妖怪の分類ではなく、天神を始めとする神の所作だと謂われている。雨降り小僧も雨女も、鬼や死霊の類ではなく神の使いとみなすことが……へくちっ……多いね。特に古来から龍は雨や嵐の神格化であり、大陸では豪雨の水害で黄帝を苦しめた応龍の逸話が……かちかちかち」
「歯ぁ鳴らすほど寒いなら解説してないで火に寄れよ! 唇が紫になってきておるぞ!?」
泡を食って石燕を囲炉裏の前に連れて行く九郎。
炭ではなく薪で小さく炎が立っている囲炉裏に手を翳して石燕は肩を縮こまらせながらとりあえず落ち着いた。
「ふう……温かい。これで熱燗でもあれば良いのだが。九郎君持ってないかね?」
「酒を携帯せねばならぬほど中毒だともう末期だぞ」
「仕方ない。自分で持ち歩いているのを飲むか」
「末期だった!」
豊満な胸に合わせて色々仕込めそうなゆったりとした喪服の胸元から、竹筒に入った酒をくぴりくぴりと舐め始めた。
そんな石燕の末期っぷりを見ているのか、やや開いた胸元を見ているのかいまいち読みづらい視線を向けている初老の男が、煙管を囲炉裏で叩いて灰を落として話しかけてくる。
「石燕──ってとあんた、有名な妖怪の鳥山石燕か?」
「人を妖怪扱いは止めたまえ。失礼な」
「おい、お主は会った頃己れを妖怪扱いしてきたよな」
半目で睨むが、九郎の恨み言は当たり前のように石燕の耳に届かない。それ以上追求するのはあっさりと諦めた。
男が少しだけ愉快そうに、
「へぇ。有名人とこんなところで会えるなんて縁起がいい。いや、この場合妖怪が出そうで縁起が悪いのか? これ」
「ふふふ此方だけ名前を知られているというのはどうも具合が良くないね。何か真名を使って呪いとか使われそうだから」
名を名乗れ、と言外に要求する石燕に男は火のついていない煙管を咥えたまま、両手を軽く振って応える。
「おっと、そいつは失礼仕った。おれは美樹本善治っていう、まあサンピン侍さ」
「……何処かで聞いたことがあるような」
九郎はその名前に妙な引っ掛かりを覚える。歯に詰まった貝柱のような違和感だ。爪楊枝を使わずに、舌だけで排除できたらそれは奇跡のようなものだが、小さな奇跡は起こったようで思い出すことに成功した。
「ああ、確か前に利悟から聞いた覚えがある。町奉行の筆頭同心で、二十四衆の一人[殉職間際]の美樹本善治……」
「おっ? あいつと知り合いなのかい?」
「殉職したら小さい娘さんの事は任されていると自信満々に言っておったが」
「はっはぁ……こりゃ骨をへし折らなきゃなあ、あれの」
利悟が後から赦しを乞い、拷問の末に解放される末路を迎えるとしてもそれが自分に関係があるわけでもないので、簡単に知り合いの口が軽い同心の事は諦めた。
どことなく物騒というか、不吉なあだ名を付けられているのが美樹本であるが、盗賊捕縛の指揮を行う手際は与力連中にも一目置かれている、経験豊富さを活かした見事な腕前なのだが、運が悪いのか現場で大怪我を負う事が多いから付けられたあだ名であった。
本人の切った張ったが弱いわけではないのに、十手がいきなり折れたり苦し紛れに盗賊が投げた短刀が跳ね返って刺さったり建物が急に崩れて巻き込まれたりしている。その度に重傷になるのだが、不思議と後遺症無く現場に復帰するのは、
「親っさんの悪運は得なのか損なのかわかんねえな……」
と、同心の間でも言われている。本人自体はやや昼行灯に見えるが気のいい人間なので、身分に関わらず好かれている。
「そんで君は?」
「己れか。己れはただの九郎、石燕の友達だが」
「九郎……あれぇ? おたく、火盗改の目明しだか小者だかで腕がいいって噂の?」
「噂になっておるのか……なんか厭だな」
「御用聞き十六傑に入れようかとかなんとか、こっちでも話を聞くけど」
「変なのに入れるなよ。というか妙な組織を増やすな」
「はっはぁ、冗談、冗談。そんな集団は同心二十四衆だけで既に余分だ」
破顔して肩を竦め、煙管に詰めた煙草に煙草盆から火を付けた。
九郎はふと、囲炉裏の近くに座っていた無頼風の町人二人がなにやら顔色を悪くして、小声で話し合っていることに気づく。
美樹本はそちらに視線も送らず、だが声をかける。
「そこのお二人さんも、まあ雨宿り程度の付き合いだけど名乗らない?」
「……名乗る理由がないな」
「へぇ? 同心相手に名乗れない理由ならあるんだ?」
「……ちっ。俺は……弥助、だ」
「ええと……じゃあ、あっしも弥助でやんす」
無頼は子分の頭を殴った。
「被らせるな! アホかお前!」
「ええ!? 駄目でやんすか!?」
「怪しいだろうが露骨に!」
既に偽名というのがバレバレになっている気がするが、それを指摘する意味は無い。
子分が出来の悪いやつを見るような白けた、妥協の目で無頼を見る。その目つきは酷く気に障ったものの、無頼はぐっと堪えた。困難だったが、やり遂げた。
仕方なさそうに改めて云う。
「訂正しやす。あっしが弥助でこの兄貴が足臭蔵という名前──」
「俺を訂正してどうすんだボケ! なんだその名前は!?」
蹴倒された。
意見の不一致があったらしい。見解の相違というべきか。どちらにせよ、解決には原始的な暴力が利用される。これは人類が進化していない証ではなく、単に他の方法より簡単に解決できるという合理性を見出したというべきか。九郎は二人組を[無頼と手下]から[漫才コンビ]に訂正しつつそんなことを考えていた。
弥助──もう子分が弥助でいいかと思った──は不満さを押し殺して、
「はいはい、すみません。こっちの兄貴は新宿で有名な悪の[蝮草]の亀市であっしが弥助」
「本名名乗ってどうすんだああ!! しかも俺だけ!?」
「いつかデカイ男になって名前を響き渡らせる言うてましたやん」
「響き渡らせる相手が違うわ! ──ええい!」
亀市は立ち上がって、部屋の戸に手をかけながら叫んだ。
「こんな同心が居る部屋で落ち着けるか! 俺は奥で休ませてもらう!」
「あっ……」
荒々しく戸を開け閉めして、どかどかと足音を響かせて屋敷の奥に勝手に入っていく。
石燕が、
「第一の犠牲者か……」
と、呟くのが不吉である。
口元を軽く緩ませるぐらいの微笑で美樹本が亀市を見送るので、九郎が尋ねた。
「盗賊とかではないのか?」
「ん~……全然知らない名前だから見逃してもいいんじゃない? あの様子じゃやってる悪いことだって、せいぜい食い逃げとかそこらでしょ」
「兄貴は覗きの腕前も大したものでやんす」
「ま、そんぐらいで捕まえてたら牢が幾つあっても足りないからさ。現行犯ならともかく」
ごろり、と軽く横になりながら美樹本は続ける。
「それで、そっちの旦那さんは何処のお方?」
話しかけるとにこやかな顔で言葉を返す。
「おいは薩摩ンもんばうっさばいちょっもんやがー、こンえろぉあんにょわっぜぇかまぁいもおしよっとよ」
「……なんだって?」
独特のイントネーションも加えて何を言ってるか理解できなかった九郎が思わず聞き返す。
でっぷりとした旦那は言われて、つい地の言葉が出た事に気づき慌てて言い直した。
「いやすみませぬ。わたくしはその……薩州からの物を船貿易して販売しております、鹿屋黒右衛門と申しまして。あれは妻のお律と」
普通に喋り出したので安心する。トークの通じない系の悪魔ではないようだ。鹿屋はいつの間にか席を外している妻の女性も紹介した。
「薩摩弁か……全然わからなんだが」
「ははは、薩摩もんもあんまり言葉自体はわかっておりませぬからな。不思議と要件は伝わるのですが。この言葉と発音を忘れたら薩摩では他所の藩の間諜と怪しまれて斬り殺されますから江戸住まいが長くなるとどうも冷々(ひやひや)し申す」
「物騒だな」
九郎が顔を顰めるが、石燕と美樹本も、
「薩摩人と言えば前、その辺りの土地の妖怪について尋ねようと思って声をかけたら猿の断末魔みたいな奇声を発して逃げていかれたよ」
「ああ、未婚の男がおなごと会話をすると先輩に殺されますから。目を合わせるだけで駄目ですが。頚椎を一撃ですわ」
「薩摩怖っ」
「そういえば町中で野良犬を焼いて食ってるってんで知らせがあってしょっ引きに行った事があるねえ。風烈廻の同心二十四衆が十七番、[犬神]小山内同心が相当怒ってたけど」
「伝統の戦場料理[えのころ飯]でございましょう。犬の腹に米を詰めて焼いて炊く料理で」
「市中でやるなよ……」
恐るべき薩摩人の生態(一部の極端な例だが)に九郎はげんなりする。異世界からこの時代に帰ってきたのだが、帰ってきた場所が鹿児島ではなく江戸近くで良かった、と心底思う。
などと雑談していると、右隣の部屋からお律が戻ってきた。
「旦那様、お湯を張ってきましたよ」
「うむ。あ、わたくし少しばかり体を冷やしてしまったので、隣に立派な風呂があった故、先に頂戴させていただきます……」
そう言って鹿屋は妻を連れたって風呂に入りに行った。
石燕が、
「先を争うように犠牲者になりに行くね……」
「いや、だから……まあいいか」
少しばかり自分でも想像してしまったので否定はせずにおいた。
あとはそれぞれが乗ってきた舟の船頭が四人。
「これが、この[首塚絡繰屋敷]に閉じ込められた全員……というわけだね」
****
「意味深に言うな」
まるで場面を一旦終えたようなつぶやきを漏らした石燕にすかさず九郎が言葉を挟んだ。
「閉じ込められたも何も、雨宿りしているだけだろう」
「雨という結界に閉じ込められたこの屋敷はまさに密室さ。我々に驚愕と恐怖という二つの武器を持っていつ襲い掛かってくるかわからない。驚愕と恐怖と冷酷……三つだね。いや、狂信も加えて四つ」
「この人酔ってるの?」
「素面でもこんな感じだから」
語り出した石燕に指をさして美樹本と九郎が言い合う。
演説を五分ほど適当に相槌で聞き流すのはいつもの事であった。
彼女の言葉には近くにいた船頭まで巻き込まれて、
「そういえばこの屋敷には古くから伝わる不気味なわらべうたが……!」
とか言い出して九郎も心の中で、
(なんで花火職人の寝床にそんな歌が伝わってるんだよ……)
ツッコミを入れるのだが展開は加速し、他の船頭も、
「まさか十年前のあの時に復讐に……!」
「馬鹿! あれは事故だっただろう! それにあの時のことを知ってる奴なんざぁ……」
などと、傍から見てたらノリノリであった。
石燕は嬉しそうに九郎の手を握って、
「──というわけで九郎君。事件が起こる前に私達も行動を起こそうではないか!」
「何か行動を起こした時点で事件発生に関わりそうなものだけどなあ。具体的にはどうしろと」
「屋敷の中を探検しよう。楽しそう──もとい、何かこの事件の手がかりがつかめるかもしれないから」
「……はあ」
事件起こってねえよと思いつつ、こうなれば石燕を説得するのも困難である。
一人でうろうろされる方がむしろ困るので、九郎は行灯を一つ持って仕方なく立ち上がった。
寝転がって肘をついている美樹本は笑いながら、
「じゃ、おれはここで待ってるから捜査は名密偵さんたちに頼むとしよう。何かあったら大声を出してくれ」
「何もないと思うがのう」
言いながら、左の戸を開けて九郎と石燕は屋敷の深部を目指し進んだ。
戸を開けた先は小さな部屋だった。四畳も無く窓も無い小部屋で、作業場の一つなのだろう。入ってきた部屋と繋がる戸は引き戸だったが、ここの他の部屋二方に繋がる扉は観音開きになっている。
部屋を出てすぐ部屋で、また即座に扉がある違和感に首を傾げつつ直進の扉を開ける。するとそこは先ほど居た部屋とそう変わらない正方形の小部屋で、やはり他の部屋に続く扉がある。
観音開きになっている戸は傾きに仕掛けがあるのか、手を離すと勝手に閉じる構造だ。
小部屋が連なる扉を幾つ進んでもまた同じような小部屋である。
廊下や縁側、窓さえ無い。屋根を外し上から見れば蜂の巣に似ているかもしれない、と九郎は思った。
「ははあ」
「どうした?」
「これは、部屋で作業をしていて何らかの拍子で爆発でもした時に、その部屋だけに爆発力を閉じ込める作りなのだね。花火職人の作業場だから」
「それだけ聞くと爆発オチが待ってる気がして厭だな」
「この雨だから大丈夫さ」
さすがに火薬を放置して保管はしていないだろうとは思うが……
全ての部屋が小部屋でブロック化されている。だがよく考えればこの屋敷全体の広さも、外からは見えずに把握していない。
(何部屋あるんだ?)
進み、閉ざされ、また進む。
幾つの部屋を経由しただろうか。正確に数えていればよかったかと少しばかり悔やみ始めた時である。
ふと、石燕が立ち止まった。
「九郎君」
「なんだ?」
「実は……いや、説明よりも実証だな。ここで目を瞑ってその場でぐるぐると回ってみてくれ。私もやるから」
「うむ?」
意味がわからなかったが、狭い部屋で石燕がぐるぐると回転し始めたので仕方なく九郎も従ってみる。
闇に閉ざされた視界。風がまったく無い密室。暗い気持ちで時を待つ。まるで鳩時計に入れられた鳩だ。九郎の[九]と鳥山石燕の[鳥]で鳩。そう考えればますます親近感が沸いた。生きているうちに鳩時計に会えるかは不明だが、今度あったら若いころ鳴き声に怒りを感じて警棒で叩き壊したことすら、謝罪出来そうだ。
思考の海に沈んでいると、石燕の声で我に帰り、にわかに疑わしくなった三半規管と平衡感覚を光と同時に取り戻した。
「さて、どうだね九郎君」
「どうとは?」
「いや、ぐるぐる回るとほら、何処から来たかわからなくなった」
「……」
確かに。
それは的確な指摘ではあった。だが何か意味があるのかと考えると、虚しくなった。的確な言葉こそ無意味なものはない。的確なら当然誰しもがわかってるからだ。
石燕が更に言う。
「はっ! 九郎君この部屋にこんな脅迫状めいた紙が落ちているよ! 『こんや、午のこく、だれかがしぬ』……! お、恐ろしい!」
「それだと犯人は美樹本だな……いや、せめて筆は隠してから見つけろよ。あと午の刻は昼間だろ」
石燕は「おっと」といい、手に持っている筆で[午]の字の縦線を伸ばし[牛]にした。
軽く頭痛を覚えながら、かぶりを振った。
広さのわからぬ、小部屋だけが並んでいる屋敷の中で迷子である。いや、いざとなれば壁を壊し直進すればいいのだろうが、それはそれで他人の屋敷に不法侵入した挙句という気にもなり行いたくはない。
それにそう深刻なことではない。迷路めいた作りではあるが、実用しているのだからしっかりと道は繋がっている。歩き回ればそのうち玄関に出るだろう。
「あの時までは、そう思っていた……」
「ええい、いいからさっさと行くぞ」
石燕の手を引き、九郎は更に目の前の扉を開ける。
だが、進んでも戻っても、何故かどこにも行き着くことはなく、同じ部屋ばかりの風景に九郎も己の感覚が麻痺してくるようであった。
(大川の中洲にどれだけデカイ建物を作っておるのだ……)
うんざりと胸中でうめく。
今まで目に付くことはなかっただろうか。噂も聞いたことはない。いや、果たしてこの屋敷は実在しているのか? 海と大地が重なる異世界に迷い込んだのではないか?
想像すると陰鬱な気持ちになり、余計に感覚を惑わした。
[首塚絡繰屋敷]という胃袋に飲み込まれてしまったようだ。
「絡繰屋敷か……確かにこの妙な作りは絡繰を彷彿とさせるが、首塚とはどういうことだろうな」
「ふむ? 九郎君は知らないのかね。昔、大川の中洲は罪人の刑場だったのだよ」
石燕が次の扉に手をかけ、開きながら言う。
「罪人の死というものは穢れだったからね。川──水の流れで囲んでその穢れを外に出さないようにしていたのだ。
私が生まれるより遥か昔だが、文献によると大川の岸からこの中州にずらりと並んだ生首が見えたそうだ。かの有名な、[由井正雪の乱]に加わった槍の名手・丸橋忠弥もここで斬首されたらしい」
「あまり気持ちの良い光景ではないな」
「晒し者という効果もあったからね。しかし死体を放り出しているうちに狭い中洲だ。だんだん何処を掘っても屍が出るようになった。夏になれば腐った臭いは川にまで垂れ流され、そのうち病が流行った。幕府は仕方なく刑場の場所を変えたのさ」
「ほう……それが今や花火屋敷か」
「恐らく、地面に放り出した死体と土が混ざり花火作りに良い硝石がとれるようになったからではないかな? また、死体を食いにやってくる海鳥の糞も堆積すれば火薬の材料に使える。だからここは悪党の首塚でありながら、花火屋敷なのだよ」
石燕は一呼吸ついて、
「……とまあ、私が今考えた話なのだが」
「真顔で嘘つくなよ!?」
「叱っ!」
即興で騙されたことに対する非難の叫びを上げるが、石燕が急に態度を変えて九郎の口を手で塞いだ。
彼女は周囲を注意深く見回し、静かに言う。
「感じないかね、九郎君」
「……何をだ?」
「どこからか、死体の臭いがする……」
「……それ、己れの口を塞いだこととは全然関係ないよな。臭いって」
釈然としなかったが、九郎は鼻を鳴らす。
まったくの無風であった今までの室内だが、この部屋だけどこからか風の流れ──それと共に、腐臭を薄めたような、黴臭いような臭いがたしかにある事に気づいた。
「うむ……妙だ」
九郎が指を軽く舐めて、風の動きを探るとどうやら扉がない、一面壁になっている場所から空気が流れてきていることがわかった。
壁を叩くと僅かに反響音がする。
「どうやらこの壁の裏に空間があるようだな」
「怪しい! 事件の臭いがするね! 九郎君、槌を持ってきたまえ!」
「壁を壊そうとするでない。ええと、押しても開かぬな。引いたりする取っ掛かりは……」
壁を探ると下の方に指をかけられる程度の窪みを見つけ、九郎はそれに指を入れて動かそうとすると、シャッターのように上方向に壁がスライドした。
向こう側は急な段になっており、地下に繋がっているようだ。
「風はここから来ておる。火事の時などの避難部屋か?」
「わくわくしてきたね……!」
九郎が行灯を持ち、こうなれば調べないと石燕も満足しない事は明らかなのでやむを得ず地下へ下りて行く。
続けて石燕が中に入る。すると、がん、と強い音がして二人が入ってきた隠し扉が落ちて閉ざされる。
はっとして振り返り、石燕が悔しそうに言う。
「閉じ込められたか……!」
「いや、石燕。持ち上げて開ける作りなのに手を離したら閉じるのは当たり前であろう」
「罠……ということだね?」
「うんそうだね」
だんだん諦めが早くなってきていることを自覚するが、どうしようもないことではあった。
九郎が狭い階段で石燕と場所を入れ替わり、入り口を開けようとするが……
「……ぬう、開かないな。鍵穴のようなものが見えるが……まさか、おーとろっくの絡繰か? 本格的に閉じ込められたかもしれぬ」
「それは困る! 子興が今日の夕飯用に鮭を塩抜きしていたのだよ! 楽しみにしていたのに! 分厚く斬られた鮭の切り身を七輪で豪快に焼いて、香ばしく脂の焼けた外側と中の肉汁がじゅわりと出る身を頬張り、」
「解説するな! 腹が減る!」
松前藩から送られてくる鮭は乾燥させた物が多く、塩漬けとはいえ焼鮭にできる品は中々に貴重なのだ。逃したくない機会である。
値段というより、大名や高禄旗本に鮭好きが多いので市井に出回らない。でかい鮭の皮と十万石を交換したいとか将軍が言い出したと巷説があるほどだ。
とりあえず、空気が通っているので窒息する事はない。それに防火用の地下室だったら出れないということもないだろう。最後の手段として閉ざされた扉を破ることも考えておく。
二人は地下室の階段を降りる。ごつごつした石で作られた床は暗いこともあり、お世辞にも歩きやすくはなかったが。
すぐにその防火用の地下室とやらには辿り着いた。
その部屋では、壁に埋め込まれた金属の鎖とそれに首輪で繋がれている白骨死体が置かれている。
腐臭は、その骨から漂っているようだ。
「……防火用?」
「……ちょっと違ったかな」
「地下牢」
「すごくそれっぽい」
頷き、顔を見合わせるとお互いに微妙な顔をしていた。
石燕が首を振って安心させるように言う。
「まあ、正確に私が称するならば悪趣味な仕掛け部屋だ。あの一見白骨死体に見える骨だが、骨格からして猿だ。人のではないよ」
「ううむ、確かに顎の辺りとか、足の指などが顕著だな」
「仕掛け部屋ならば仕掛けを解除する方法がある。さて……」
石燕が周囲を見回した。
壁や天井には薄暗くてどれほどの数があるかわからないが、動物の絵が描かれているようだ。干支か何かかと思ったが、熊や猫やたぬきなど様々に種類がある。
九郎は白骨に近づくと、その手の骨に丸められた紙が握られている事に気づいた。
掠れた文字が書かれている。九郎はよく読めなかったので石燕に見せる。
「なになに、『そとにでるかぎ かくしばしょ』とまず書かれていて……次に、
『たたた絵たたた
たたたのたたた
石たたたたたた
たたたたをたた
たたた外たたた
たたたたたたせ』
と、あるね。暗号だ!」
「なあこれ」
「ふふふまあ待ちたまえ九郎君。紫色の脳髄と評判の石燕先生の名推理をとっくりと聞かせてやろう。紫!? きもっ! とにかくこれは一見不可思議な文字の並びだが、極端に多い字があることに気づいただろうか!?」
「まあ、人並みには」
「そう……凡人では気づかないかもしれないけれど、敢えてここはこの文字列から[た]という平仮名を抜いてみる。すると浮かび上がってくる文字は……! 『絵の石を外せ』だ!」
「そうですね、先生」
「ふふふ驚きで呆けているようだね九郎君。つまりこの部屋に絵の描かれている石を外せばいいのだよ!!」
「いろんな絵があるが」
「良い所に注目したねっ! そう。問題はそこなのだが私にかかれば児戯に等しい。この紙を握っていた動物は猿! つまり猿の絵が描かれている石を外せば良いのだ!」
石燕が行灯片手に猿の絵を探し始めるのを、九郎は「菓子でも買っておくべきだったかなあ」と呑気に考え見守っていた。
彼女の推理はかなり惜しいところまで行ってるだろう、と思うがそれゆえに残念だった。
九郎自身とて、直前に絵の種類を確認していなければ暗号の真意に気づいたかどうかは疑問だ。
([た]の文字を抜いて浮き出る言葉……探す絵は恐らく[たぬき]に違いあるまい……!)
九郎の灰色の脳髄液はそんな名推理を脳に展開させたのだ。スゴイ。灰色はキモい。
なんというシークレットファクターだろうか。小さなヒントを見逃さない、ずば抜けた洞察力であるが石燕の推理をどう傷つけずに修正するかが問題であった。
だがたまには思いっきり勿体ぶった様子で己の判断が違っていてオロオロする石燕に後ろからやれやれ仕方ないなあとアドバイスするのもいいかもしれない。
ようやく猿の絵を見つけた石燕が石を引っ張っているが、九郎は余裕の溜息混じりであった。
そして、
「あった! 鍵があったよ九郎君!」
「あるのかよ!?」
普通にツッコミを入れた。
酷く精神的に疲労を与えられた気分になりつつ、地下への入り口へ戻る。
行灯で照らし、鍵穴に無骨な鍵を入れて、回した。
鍵は材質が悪いのか金属が腐っていたのか、力を込めると容易く穴の奥で折れて千切れた。
「……」
「……」
九郎の渾身の蹴りが壁をぶち破った。恐らくは怒りも篭っていたように見えるほど、反社会的な威力だった。
*****
二人が再び迷路屋敷に戻った丁度その時である。
悲鳴が聞こえた。
それも二箇所からだ。一つは女の悲鳴で、もう一つは男。入り組んだ部屋の構造に反響して詳しい位置はわからないが、確かに別々の場所から放たれたようだ。
「とうとう犠牲が出たか……! [首塚絡繰屋敷の蛟龍]による……!!」
「なにそれ初めて聞いた」
「急ぐよ九郎君!」
「どっちに向かってだ?」
「未来に向かってだ!」
「……」
石燕の無軌道な衝動はともかく、なんらかの事態が起こったことは確かであるらしい。
灰色の副腎皮質ホルモンを根拠とする勘に従って九郎は現場へ向かおうと部屋を次々と進む。副腎皮質ホルモンで合ってただろうか。一瞬だけ九郎は悩んだが、確かめたくはないのでどうでも良いことではある。
やがて、二人は見覚えのある部屋に辿り着いた。
玄関口と囲炉裏のある、一番手前の部屋だ。
そこで待っているといったはずの[殉職間際]美樹本同心の姿は無かった。弥助も、薩摩人の夫婦も。四人居た船頭は、九郎と石燕を連れてきた一人が残っているだけである。
消えてしまっていた。
九郎は唯一部屋にいた船頭に借問をする。
「おい、他の連中はどうした?」
「へ、へい。商人の御夫婦の方と、奥に引っ込んだ亀市とかいう無頼の両方から悲鳴が聞こえたんで、二手に別れて様子を見に……おいらはここで待つようにと同心の方が……」
「犠牲者の広がり方が半端では無いね」
「そもそも何に襲われてるのかすら知らんのだぞ。まあいい、悲鳴が届く位置にいるのならこちらから呼びかけることも出来よう」
大きく息を吸って、口の端に両手を添え九郎は大声で呼びかけた。
「おーい、そっちは大丈夫かー!!」
だが……。
帰ってくるのは、無言ばかりだ。
一人や二人ではない。この場に居ない人間が八人、屋敷の奥に向かったというのに、誰も九郎の声に反応を返すことはなかった。
異常事態と言えよう。
九郎と石燕のように、隠し部屋に入り込んで声が届かないのだろうか。真逆、全員既にこの世の人ではないとは考えにくい。二手に別れた八人を一度に全員始末する方法など、想像がつかない。
この場に居ない八人は、屋敷という密室に姿を消したのだ。
石燕が言った、[首塚絡繰屋敷の蛟龍]という架空の存在の姿を嫌でも思い浮かべてしまった。雨と共に現れた龍の顎の犠牲に……
そんな九郎の肩を、震えながら石燕の手が叩いた。
「どうした?」
「く……九郎君、あれを……みたまえ……」
石燕が伸ばした指の先では────
*****
石燕が指さしたのは、外だった。
いつの間にか、大雨は止んで徐々に明るい夕焼け空が江戸の町の天を覆いつつある。川の流れも落ち着いているようだ。
「じゃあ、帰ろうか。船頭さんよろしく頼むよ」
「へ、へえ」
「夕飯の鮭がそろそろ我慢しきれなくてね。美味しいよ? 九郎君も食べていくだろう?」
「……そうだな」
そうだ。別に自分は町奉行の同心でもなければ名探偵でもない。
ちょっぴり不思議な事が起こったけど、それが事件であるかどうかすらわからないのだ。
何かあったのならばら役人が解決するだろう。逆に言えば、役人以外が解決するのは許されざる事だ。捜査の妨害であるし、それで給料を貰っている役人の仕事を奪う形になる。その給料は税金から出ているのならば、彼らの邪魔をするのは脱税的行動とも言えるかもしれない。
自分にできる事はさっさと帰り夕飯の鮭で一杯飲ることだけだ。そして今日はもう疲れと共に睡眠で事件のことは記憶のおしゃれ小箱に放り込んで仕舞い、いつかこの日のことを思い出そう。少しだけ不思議だった、あの屋敷の事を……
鳥山石燕事件簿 [首塚絡繰屋敷の蛟龍] 完




